桜花妖々録   作:秋風とも

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第123話「パラダイス・ロスト#8」

 

 八雲紫の忘れ形見。

 不敵な笑みを浮かべたレミリアに告げられたその言葉は、マエリベリー・ハーンの胸中を大いに混乱させた。

 

 一体、彼女は何を言っている? 八雲紫? 忘れ形見? それがメリーだと言っているのか? 何の話だ。そもそも、忘れ形見という言葉については、そのままの意味で捉えて良いのだろうか。親が死に、現世に遺された子供という──。

 

「ククッ……。何を惚けた顔をしている?」

 

 大いに混乱していると、レミリアが声をかけてきた。

 

「まるで私が口にした言葉の意味が分からないとでも言いたげな表情だな」

「分かり、ませんよ……。何を、言ってるんですか……?」

 

 メリーは何とか言葉を絞り出す。

 

「八雲紫って、何の事なんですか……? 私が、忘れ形見って……」

「おや? 魂魄妖夢から聞いていなかったのか? 八雲紫という女の事を」

「それは……」

 

 聞いた事があるような、無いような。

 幻想郷への手掛かりを探す為に妖夢からは色々と話を聞いていたが、その中にそんな名前の少女の事も含まれていたような気がする。確か──そう、幻想郷の管理者だ。その役割を持つ妖怪の少女が、そんな名前だったような。

 いや、だとすれば。

 

「フッ……。その様子だと、どうやらお前にかけられた()()は相当に根強いものらしいな」

「暗示……?」

「ならば教えてやろう、()()

 

 状況を飲み込めないメリーを見て、レミリアはそのまま続けた。

 

「八雲紫は幻想郷の管理者だった女だ。通称、スキマ妖怪。境界を操るなどという、常識を逸した『能力』を持つ大妖怪だよ」

「大、妖怪……?」

「ああ。まぁ、私の『能力』には劣るがな」

 

 相も変わらず不敵かつ面白そうに笑うレミリア。まるで八雲紫より自分の方が圧倒的に優れているとでも言いたげな様子だが、それが事実なのか誇張しているだけなのか。それを読み取れる程、メリー達はレミリア・スカーレットという少女の人格を掴みきれていない。

 ──ともあれ。

 

「ちょ、ちょっと待って……!」

 

 堪らずといった様子で声を張り上げたのは、蓮子だった。

 立ち上がり、身を乗り出す程の勢いでレミリアに言葉を投げかける。

 

「八雲紫……? スキマ妖怪……? そんな人の忘れ形見が、メリーって……!」

「そんなに興奮するな、人間。恐らくお前の考えている事は、()()間違っていない」

 

 蓮子とは対照的に、不気味な程に落ち着いた様子のレミリア。彼女はメリーへと向き直り、ただ淡々とその事実のみを告げた。

 

「マエリベリー・ハーン。お前は、八雲紫というスキマ妖怪が遺した子供──正真正銘の一人娘だ」

「…………ッ!」

 

 何だ。一体全体、何なんだそれは。

 分からない。あまりにも、訳が分からない。八雲紫? スキマ妖怪? そんな人物が遺した一人娘が、メリーだって?

 それなら。だったら、メリーは。

 

「信じられないとでも言いたげな顔をしているな。ならば問おう」

 

 言葉を発せなくなってしまったメリーへと向けて、レミリア・スカーレットは問いかける。

 

「お前は、自分の母親の事を覚えているか?」

「母親……?」

 

 そう聞かれ、メリーは自らの記憶を探る。

 

「母は……」

 

 そう。

 母親は。

 

「母は、既に亡くなっています。私がまだ小さい頃に……。だから、覚えているかと言われても……」

「ほう? 幼少の頃の記憶など覚えていないとでも? お前はそう認識している訳か」

 

 レミリアはそう口にすると、今度は蓮子へと視線を向けて。

 

「お前はどうだ人間? マエリベリー・ハーンの親友なのだろう? 彼女の母親の事、聞いた事はないのか?」

「それは……」

 

 どこか遠慮がちに、蓮子はメリーへと視線を向けて。

 

「聞いた事ない……。と言うか、そんな話をした事もなかったと思う。メリーのお母さんが既に亡くなっている事だって、今初めて知ったくらいだし……」

「……っ」

 

 そう、確かに。蓮子にも話してなかったと思う。

 だが、それは不思議な事だろうか。親友とは言え、別にそこまで深い家庭の事情まで話す事もないような気がする。そもそも、これまで意識を傾ける事すらなかったのだが。

 ──いや、けれども、よくよく考えればおかしいのではないだろうか。例えば、母親がいない、という境遇は進一と同じだ。彼からそんな話を聞いた時、自分の事も話題に上げなかったのだろうか。

 話す機会はあったはずなのに、()()()()()()にすらメリーは至らなかったと思う。

 

 そもそも。

 

(お母さん……?)

 

 レミリアは言っていた。メリーは、八雲紫の一人娘なのだと。メリーの母親は、八雲紫なのだと。

 本当に? 自分の、母親の名前は。

 

(お母さんの、名前は……)

 

 名前は──。

 

(あ、れ……?)

 

 そこで、メリー背筋に悪寒が走る事となる。

 

(何、だっけ……?)

 

 心臓が、痛いくらいに締め付けられる。

 

(お母さんの名前……)

 

 嘘だ。有り得ない。そんな馬鹿な。

 動揺が駆け抜ける。焦燥が、メリーの感情を一気に支配する。

 何かの間違いじゃないかと今一度記憶を探ってみるが、けれども結果は同じである。名前を思い出そうとすると、まるで靄がかかったみたいに想起が阻害される。思い出そうとすればするほど、記憶は余計に暗闇へと沈んでいくような気がして。

 幾ら幼少の頃に死去しているとは言え、母親の名前を忘れてしまうなんて。そんなの、現実として有り得るのか? まるで記憶の一部分が、ピンポイントでごっそりと消されているような状態なんて。そんなの、よくある普通の事なのだろうか?

 

 ──否。

 ()()だ。一体、自分の身に何が起きている?

 

「め、メリー、大丈夫……!?」

 

 頭を抱えたメリーを案じて、慌てた様子で蓮子が声をかけてくる。本来ならばすぐに虚勢でも何でも張る所であるが、流石のメリーもそこまで気を遣う余裕がなくなってしまった。

 怖い。背筋が凍るような、そんな感覚がメリーの中を駆け抜けている。

 まるで、自分の中に、得体の知れない何かが存在するかのような──。

 

「フッ……。なに、混乱するのも無理はないさ」

 

 そんな中。ふと、レミリアの言葉が耳をつく。

 

()()が恐らく、八雲紫がお前にかけた暗示なのだろうからな」

「…………」

 

 暗示。また、暗示か。

 レミリアは先程も言っていた。メリーにかけられた()()は、相当に根強いものであるらしいと。その暗示の効力が、今のメリーの状態を示しているのだとしたら。

 

(だとしたら……)

 

 本当に、自分は八雲紫の娘だという事になるのだろうか。幻想郷の管理者だった、八雲紫という大妖怪の。

 それなら、だとすれば。

 そんな大妖怪の血を引く自分は。

 

「わたし、は……」

 

 そう、メリーは。

 

「人間じゃ、な──」

「ククッ……。何を考えているのかと思えば」

 

 自分は人間じゃない。

 そんな事実を口にしようとしたメリーだったが、けれどもそれはレミリアの言葉によって遮られる事となり。

 

「何を勘違いしている? お前は確かに八雲紫の一人娘だが、けれども()()()()()()()()

「えっ……?」

 

 そしてメリーの確信は、レミリアによってばっさりと否定される事になる。

 

「さっきからお前の事は、何度もそう称しているだろう? なぁ、()()?」

「人、間……?」

 

 惚けたような表情を浮かべるメリーに向けて、レミリアは続ける。

 

「お前の中からは妖怪としての()()は微塵も感じられない。間違いなく人間のそれだ。──まぁ、八雲紫お得意の『能力』だろう。あの女は生前、まだ幼かったお前の境界を弄り、妖怪としての特性を完全に消失させた」

「消、失……?」

「ああ。故にお前は完全な人間だ。まぁ、多少なりとも特異な『能力』は持っているようだがな。これで安心したか?」

「…………」

 

 安心したか、等と聞かれても正直混乱の方が強い。様々な情報を一気に提示されて、最早何が何だか訳が分からなくなってしまった。

 結局、どういう事だ。メリーの母親は妖怪だけれども、メリー本人は人間という事なのだろうか。しかも例えば妖夢の様に半分ではなく、完全に人間という事らしく。

 

 駄目だ。幾ら考察してもいまいち理解出来ない。どうやら蓮子も同じ気持ちらしく、どこか納得出来ないような表情を浮かべていた。

 

「──レミリアさん。その説明じゃメリーさん達を余計に混乱させるだけです」

 

 と。メリーと蓮子が混乱する中、これまで殆ど言葉を発してなかった妖夢が、口を開いた。

 どこか、レミリアを非難するような目つきで。

 

「メリーさん達の気持ち、もっとよく考えて下さい」

「ふん……。その目、私の事を受け入れられていないように見える」

 

 しかしレミリアは妖夢の事を見下したような態度で、それに答えた。

 

「ようやく向き合ったかと思えば、まだ私に楯突くのか? いつまで意地を張り続ける?」

「……今はそんな話をしている訳じゃないでしょう。私はメリーさん達の話をしているんです」

「いいや、同じだろう? 私に突っかかるという事は、とどのつまり私を否定したいという事だ。既にここまで踏み込んでおきながら、この期に及んでまだ逃げるつもりか?」

「逃げる? 私が……?」

「逃げているだろう。私の事が気に食わないからなのか何なのかは知らんが、他に方法があるはずなどと……。お前はそう自分に言い聞かせ、結局は逃げているだけではないか。──お前だって、本当はもう理解しているのだろう? 他の選択肢など、既に存在していないという事が」

「そんなの……!」

「お、おいお前ら、止めろって……!」

 

 ヒートアップしそうになった二人の口論を、魔理沙が止めた。

 

「ったく、油断も隙もない。今は言い合いなんてしてる場合じゃない。そうだろ?」

「…………」

「ふっ……。先に突っかかって来たのは、そっちの半分幽霊の方だったがな」

「レミリア、お前なぁ……」

 

 やれやれといった様子の魔理沙。しかし彼女の介入もあって、その場は何とか収まってくれた。

 しかし、妖夢のあの反応。ここに来る前も難色を示していた彼女だったが、十中八九、その理由はレミリアの計画とやらに納得していないからだろう。──故に、レミリアに突っかかった。

 

 どうして、そこまで納得出来ないのだろう。メリーが外の世界の住民だから? それとも──。

 

「はぁ……。しゃーない、ここからは私が説明する。別に良いよな、レミリア?」

「……ああ。勝手にするがいい」

「へいへい。それじゃ、勝手にするぞ」

 

 渋々と言った様子で、魔理沙がそう買って出る。レミリアも投げやり気味にそれに応じていた。

 それにしても、魔理沙は昨日から損な役回りばかりしているような気がする。それも自分からそんな役回りに足を突っ込んでいるような。──第一印象は割とおちゃらけた印象だったのだが、実はかなりの苦労人なのかも知れない。

 

「まずは、そうだな……。どこから話すべきか……」

 

 少しの間だけ考える素振りを見せた後に、魔理沙は改めて口を開いた。

 

「……レミリアの言っていた通り、目下、私達の敵は幽々子だ。妖夢には悪いけど、でも……。──あいつはもう、超えてはいけない一線を越えてしまったんだからな」

「超えてはいけない、一線……?」

 

 穏やかではない表現だ。超えてはいけない一線とは、一体何なのか。

 いや。そんなの、想像に難くない。『死霊』と呼ばれる眷属で死を振りまく彼女は、最早──。

 

「今から八十年くらい前の事だ。西行妖は満開に開花し、幽々子は失っていた生前の記憶と人格を取り戻した。そして私達に宣戦布告し、『死霊』を生み出して幻想郷を絶対的な“死”で塗り潰そうとした」

 

 そこまでは、つい先ほどレミリアからも聞いた内容だ。西行寺幽々子が幻想郷に宣戦布告し、絶対的な“死”を振りまいたのだと。レミリアはそれが気に入らないから、幽々子を止めて『異変』を収束させるのだと。そんな話を聞いていた。

 気に入らないから解決する。けれども魔理沙にとって、事はそう単純な話ではないらしく。

 

「当然、私達も黙って幽々子の暴挙を許していた訳じゃない。何とかして食い止めようとしたさ。だけど幽々子が引き起こした大異変は、これまでのどの『異変』とも比較にならないくらいの規模だったんだ」

 

 苦虫を嚙み潰したような。そんな苦悶の表情を魔理沙は浮かべていて。

 

「私達は幽々子に勝てなかった。スペルカードルール……いや、あんなのは最早スペルカードルールでも何でもない。純粋な()()()()……。幽々子は既に、幻想郷のルールすらも眼中にない様子だったんだ」

「殺し合い……」

 

 それは、どれほどまでに陰惨な状況だったのだろう。どれほどまでに醜悪な光景だったのだろう。

 魔理沙の表情を見ただけでも伝わってくる。それは、どうしようもないくらいに圧倒的な、絶望だったのだと。

 

「当然、そんな事をして紫が黙っている訳がない。……あいつは幻想郷の管理者であると同時に、幽々子の親友だったんだからな」

「えっ……?」

 

 不意に告げられた意外な事実。それは不思議とメリーの心を搔きむしった。

 八雲紫と西行寺幽々子が、親友。それはつまり、メリーと蓮子のような関係、という事なのだろうか。──いや。類似しているけれど、それはきっと違う。ただの親友などではない。もっと複雑で、もっとややこしくて。そして、もっともっと──残酷。そんな関係性だったのだろう。

 なぜだか、そんな感覚が、メリーの心に浮かび上がった。

 

「私も直接見た訳じゃない。幽々子の暴挙を止められず、私達も満身創痍で……。だけどそんな中、紫の奴は一人で幽々子の所に向かったんだ」

「…………」

「でも……。あいつは結局、戻って来なかった。幽々子に立ち向かいに行って……それっきりさ」

 

 それは、つまり。八雲紫もまた、西行寺幽々子には勝てなかったという事なのだろうか。幻想郷を絶対的な“死”で塗り潰さんとする幽々子に立ち向かい、だけど力及ばず。結局は──。

 

「……紫様は、きっと幽々子様を助けようとしたんだと思います」

 

 ふと。魔理沙の言葉に続けるように、妖夢が口を開く。

 

「幽々子様が私達に宣戦布告をしてから、紫様はずっと様子がおかしかったんです。まるで、必要以上にご自身を責めているような印象で……」

 

 妖夢の表情は何時にも増して暗い。膨れ上がる感情を、必死になって抑え込んでいるかのような。そんな雰囲気を彼女は醸し出していて。

 妖夢は魔理沙以上に、八雲紫に対して強い感情を移入している様子だった。

 

「紫様は、幽々子様の中に眠る『死霊』としての一面を把握していたんです。だけど……。それでも、誰にも何も相談しなくて……。幽々子様に仕える私にすら、何も話してくれなくて……」

「妖夢ちゃん……」

「今となっては最早、紫様の真意を知る術はありません。だけど、紫様は……。ずっと一人で、抱え込んで……。ずっと一人で、何とかしよう、自分が何とかしなきゃ駄目なんだって……。そう、強い責任を感じていたんだと思います」

「責任……」

 

 何だ、それは。誰にも頼らず、誰にも相談せず。たった一人で頑張ろうとして、結果として帰らぬ人になってしまったのだと。そういう事なのだろうか。

 そんなの。そんなのは、あまりにも。

 

(勝手、すぎる……)

 

 ふと、そんな言葉がメリーの脳裏を過ぎった。

 

「……兎にも角にも、紫は幽々子に負けたんだ。あいつは結局帰ってこなくて、だけど『死霊』の勢いは止まらなくて……。だから」

 

 そして魔理沙は口にする。

 八雲紫の敗北。そこから始まる、犠牲の連鎖を。

 

「……皆、死んだ。人間も、妖怪も、沢山の人達が死んだ。『死霊』は差別なんてしない。生命ある者達に、見境なく襲い掛かって……。幻想郷は文字通り、絶対的な“死”に飲み込まれていった」

 

 最早為す術なんてなかったのだと、魔理沙は語る。絶対的な“死”を操る西行寺幽々子は、幻想郷全土に“死”を蔓延させる事も造作もないような存在に変貌していたのだと。

 どうしようもなかった。西行寺幽々子を止める事も出来ず、幻想郷の住民達はただ死を受け入れるしかないのだと。そう悟っていた。

 

 しかし。

 

「だけどそんな中、幽々子に一泡吹かせようと立ちあがる奴が現れたんだ」

 

 絶望的な状況。誰もが希望を手放しかけたその中で、絶望への反逆心を捨てなかった人物がいたという。

 その人物は、幻想郷の管理者である八雲紫がいなくなっても尚、前に突き進む事を放棄しなかった人物であり。

 

「紫がいなくなって、多分そいつだって、何も思わなかった訳じゃないはずだ。寧ろ、私達以上にショックを受けていてもおかしくないはずなのに……」

「……だが、それでも()()は立ち上がった」

 

 魔理沙に続いて言葉を発したのはレミリアだった。

 これまでのような高圧的な雰囲気とは、少し違う。どこかしおらしさも感じられるような声調で、レミリアは続ける。

 

「……本当に、大した人間だよ。誰もが絶望に打ちひしがれる中、彼女は真っ先に前を向けたのだからな」

「……ああ。そう、だな」

「…………」

 

 レミリアも、魔理沙も。そして妖夢も、表情は暗い。

 絶望の中でも立ち上がった()()というのが誰を示しているのかは判らないが、少なくとも魔理沙達にとって大切な人物であった事は想像に難くない。そして彼女らがこのような雰囲気を醸し出しているという事は、その人物は既に──。

 

「その、()()ってひょっとして……」

 

 おずおずと言った様子で口を開いたのは蓮子だった。

 

()()()()()()()()と、何か関係があるって事……?」

「……と言うと?」

「貴方達の話を纏めると、幻想郷は『死霊』が蔓延する危険地帯と化したって理解する事が出来たんだけど……。だけど、私達がこっちに来てから、そんな印象なんて殆ど感じられなかったじゃない」

 

 話を促す魔理沙に対して、蓮子は続けた。

 

「……幻想郷に来てから、少なくとも私は一度も『死霊』を目撃していないわ」

 

 ──確かに、そうだ。

 西行寺幽々子が『死霊』を使って幻想郷に死を振り撒いているのなら、少なくともそれ相応の物々しい雰囲気が漂っていてもおかしくないはず。

 けれども、実際はどうだ。博麗神社とこの紅の館しか見ていないが、幻想郷は比較的穏やかなように思える。『死霊』の脅威なんて、殆ど感じられない程に。

 

「……ああ、そうだ。多分、お前が察した答えは間違っていない」

 

 そしてそんな蓮子の予想は、魔理沙によって肯定された。

 

「紫が()()()()で敗北した時点で、あいつだって正攻法じゃ幽々子に勝てない。あいつ──博麗の巫女だって、妖怪でも神でもない。一人の人間に過ぎないんだからな」

「博麗の、巫女……」

 

 博麗の巫女。その存在は、妖夢からも聞いた事がある。

 確か、そう。博麗大結果を管理する役割を持つ巫女だ。──けれども、先程の博麗神社にいたのは、藍という妖狐だけだった。人間の巫女ではない。

 それが意味する事は──。

 

「だから、あいつは──。()()()()は、最終手段を使う事にしたんだ」

「最終手段って……?」

 

 メリーの呟きに頷いて答えつつも、魔理沙は続けた。

 

「あいつは『空を飛ぶ程度の能力』を持っていた。──それは、単純な飛行能力って訳じゃない。重力も、重圧も、力による脅しも、絶対的な呪いさえも。“枷”を解き放ったあいつが相手じゃ意味をなさない。理論上、ありとあらゆる事象や現象から概念上()()事の出来る『能力』」

 

 そこで一瞬、魔理沙は顔を顰めて。

 

「霊夢は自分の『能力』を使って、幻想郷という世界そのものを概念上()()()()んだ。そうする事で幻想郷を他世界から隔離し、『死霊』を冥界に封じ込めようとした」

 

 詳しく話を聞いてみると、概要としてはこうだ。

 前提として、幻想郷は顕界に分類されるのにも関わず、冥界とも直結する“穴”が存在する特異な世界であるらしい。冥界を根城としているはずの西行寺幽々子が顕界に干渉出来た理由は、その要素が大きい。その特異性を利用して幽々子は幻想郷に『死霊』を送り込み、自分の考える理想郷を作り上げようとした。

 

 だが、西行寺幽々子のその計画は決して盤石ではなかった。冥界から顕界に干渉する抜け道が幻想郷に存在するのなら、その抜け道を使えなくしてしまえば良い。単なる結界で栓をする程度は大した時間稼ぎにもならなかったらしいが、博麗の巫女──博麗霊夢という少女は、別のアプローチを仕掛けたのだという。

 

「結界を張って穴を塞ぐのではなく、そもそも穴の先を存在しなくさせてしまおうって寸法だ。そして、霊夢のそんな目論見は、こうして見事に成功した」

 

 それ故に、『死霊』の侵攻はその時点で断たれる事となる。西行寺幽々子は冥界に封じ込められ、“呪い”もまた顕界に流れ込まなくなって。

 幻想郷は、()()()の安息を取り戻す事となる。

 ──そう。それは、あくまで()()()だ。しかもノーリスクで得る事の出来た安息という訳でもない。

 

「霊夢は博麗大結界に自分の『能力』を上乗せする事で、幻想郷を()()()()事に成功した。……だが、そこまで大掛かりな仕掛けを完遂させるには、あいつは『能力』の“枷”を完全に解き放たなきゃならなかった。その結果」

 

 そう。その結果こそが。

 ──もう一つの、自己犠牲だ。

 

「霊夢は、()()()()から()()した」

「…………」

 

 消滅。その表現が厳密に正しいのかどうかは定かではないが、魔理沙達が目の当たりにした光景を強引に表現するのなら、そういう事になる。

 博麗霊夢の『能力』は、あらゆる物事の事象や現象から概念上浮く事の出来る力。──つまるところ、(くう)に至る『能力』という事になる。無と有。否定と肯定。非常識と常識。無意識と意識。そんな区別からさえも完全に解き放たれ、博麗霊夢は高次元の存在に至る事になるのである。

 そう。それは文字通り、次元の違う存在。故に霊夢は、()()()()──言うなれば()()()()での存在を、保てなくなる。

 

「本当、とんでもない『能力』だよな。誰も干渉できないなんて、そんなの誰も勝つ事が出来ないじゃないか。……まぁ、でも」

 

 説明を続ける魔理沙は、その表情にますます影を落として。

 

「誰も霊夢には干渉する事が出来ないけれど、同時に霊夢も誰にも干渉する事が出来ない。誰も霊夢に勝つ事が出来ないけれど、同時に霊夢も誰にも勝つ事が出来ない。この世界での存在という枷から解き放たれた時点で、霊夢に勝敗なんて概念は意味をなさなくなったんだ」

「あ、あの……。それって、つまり……。その、霊夢って子は……」

 

 おずおずと、メリーは魔理沙に確認した。

 

「この次元における、自分という存在……。それを犠牲にして、『死霊』の侵攻を食い止めたと……。そういう、事なんですか……?」

「……ああ」

 

 どこか躊躇いがちに、けれどもはっきりとした口調で魔理沙は答える。

 それは、この現実から逃避してしまった者の口調ではない。現実を受け止め、そして乗り越えんとする、そんな決意と覚悟に満ちた女性の声で。

 

「霊夢は自分という存在を賭して、博麗大結界を強化させた。幻想郷を概念上浮かせ、他世界から完全に隔離し。そして絶対的な“死”を冥界に封印した」

「存在を、賭して……」

「ああ。……『夢想天生結界』。個人的に、今の博麗大結界の事を私はそう称している」

 

 夢想天生結界。それは、博麗霊夢という一人の少女が犠牲を払って完成させた最終極意。文字通り一世一代の()()だった。

 結果として、その賭けは功を奏する事となる。博麗霊夢の犠牲を避ける事は出来なかったものの、こうして『死霊』を食い止める事に成功したのだから。

 

(……でも)

 

 だけれども。この物語は、それで終幕という訳ではない。そもそもこれで解決ならば、メリーがこの場に呼ばれる事などなかったはずなのだから。

 

「……まだ、何かあるんですよね?」

 

 メリーは問う。そして自分が引き摺るこの“違和感”を、言葉として口にする。

 

「肝心な事を聞けてません。私が、この場に呼ばれた理由……。それに」

 

 メリーは蓮子をチラリと一瞥する。彼女もまた、ずっと難しそうな表情を浮かべていた。

 きっと蓮子にだって判っているはずだ。メリーが気づけたくらいなのだから、もっと早い段階で気づけていてもおかしくはない。

 夢想天生結界の効力で、幻想郷は他世界から完全に隔離された。それ故に冥界からの唯一の抜け穴も出口を失い、絶対的な“死”は冥界に封じ込められたのだと。

 

 けれども、だとすればおかしいじゃないか。

 

「他世界から完全に隔離したはずの幻想郷……。なのにどうして、外の世界の私達がこうして干渉出来てるんですか……?」

 

 そう。()()だ。

 完全な隔離。幻想郷という世界そのものが通常の概念からも()()()存在になっているのなら、他のどの世界からも干渉する事が出来ないはずなのに。

 

「夢想天生結界は、完全じゃないんですか……?」

「…………」

 

 メリーがそう尋ねると、「まぁ、それが気になるよな」とでも言いたげな表情を魔理沙は浮かべていた。はっきりと口にはしなかったが、表情を見ているだけでもそれは充分に伝わってくる。

 その反応だけでも充分だった。恐らくメリーの予感は当たっている。──夢想天生結界で得られた幻想郷の安息もまた、時間稼ぎにしかならなかったのだと。

 

「……夢想天生結界、なんて呼んでるのは私くらいだ。あの結界は、根本的な本質は博麗大結果と変わっちゃいない。だから……」

「……ふーん。成る程ね」

 

 魔理沙が口にするよりも先に、得心した様子で鼻を鳴らしたのは蓮子だった。

 腕を組み、ずっと難しい表情で何かを考え込んでいた蓮子。どうやら彼女は、これまで提示された情報から幾つかの疑問に対する答えに辿り着いたらしく。

 

「根本的な本質は博麗大結果と同じ。という事は、六十年周期の『異変』だって同じように起きるって事よね?」

「六十年周期……? あっ……」

 

 蓮子の言葉を聞いて、メリーもようやくその答えに辿り着く。

 

「そうか、六十年周期の大結界異変……! 『死霊』が現れ始めたのが八十年くらい前だとしたら、今日までの間に必ず一度は解れが生じているはず。だから、なのね……」

「お、おぉ……」

 

 そんな様子のメリー達を見た魔理沙は、若干面食らったような表情を浮かべて。

 

「何だよ、そこまで知ってたのか。思ったよりもすげー理解力だな……。まぁ、話が早くて助かるけど」

 

 どこか少々呆れたような、けれども同時に関心したような様子で魔理沙はそう口にする。どうやらメリーと蓮子の推測は当たっているらしい。

 六十年周期の大結界異変。子供の妖夢と出会ってから比較的早い段階で、彼女から聞かされた『異変』である。博麗大結果は強大かつ複雑な結界であるが故に、どんなに慎重になって管理しても必ず一定の周期で綻びが生じてしまうという。その際に外の世界との境界が希薄となる事により、幻想郷でも小さな『異変』が幾つも発生するのだとか。確か、そんな内容だったと思う。

 

 だけれども、今回ばかりは事情が違う。

 博麗霊夢の手によって、博麗大結果は魔理沙が態々『夢想天生結界』と呼ぶ程に変貌を遂げている。世界そのものを浮かせ、幻想郷を隔離して、そして絶対的な“死”の抜け道を塞いで。

 専門の管理者が不在の状態で、そんな結界に綻びが生じてしまったらどうなるのか。想像するのは難しくなかった。

 

「……そうだ。今から、えっと……。二十五、六年くらい前だったか? ()()()の大結界異変が起きて、博麗大結界──もとい、夢想天生結界にも綻びが生じた」

 

 ぽつりぽつりと、魔理沙が説明を再開する。

 

「まぁ、おおよそお前らの予想通りだとは思う。大結界異変により綻びが生じた結果、幻想郷の完全隔離は崩れ始めた。大結界異変のあの瞬間から、夢想天生結界は緩やかにその効力を失い始めている」

「それって、やっぱり……」

「ああ。外の世界との往来が可能になってるのもその影響だ。幻想郷と外の世界は、厳密に言えば異世界という訳じゃなく、地続きで繋がっているからな。だから真っ先に繋がってしまったという訳だ」

 

 成る程。やはり、ここまでは予想通り。

 と言う事は、おそらく。

 

「冥界へと繋がる道についても、同じように……?」

「……ああ、その通りだ。まだ効力が完全に切れたって訳じゃないが、ここ数年で何体かの『死霊』が顕界への侵入に成功している。──夢想天生結界も限界なんだ。いつ幽々子の呪力に押し負けてしまっても不思議じゃない」

「やっぱり、そうですか……」

 

 予想出来ていた事とは言え、そうはっきり聞かされると焦燥感が募ってくる。幻想郷に訪れた束の間の平穏は、既に終幕へのカウントダウンを始めていて。冥界の封印だって、いつ解けてしまってもおかしくない状態で。

 最早、一刻の猶予もない。早急に手を打たねば、取り返しのつかない事になる。

 

「フッ……。随分と遠わまりな説明になったな。だが、これでようやく話が繋がるという事だ」

 

 幻想郷の現状をメリー達が把握した辺りで、レミリアがそう口を開く。

 魔理沙が「今度は大丈夫か?」とでも言いたげな視線を向けていたが、それでも構わずレミリアは続けた。

 

「魔理沙の説明で大体の状況は理解出来ただろう? 確かに博麗霊夢の手によって幻想郷は束の間の平穏を取り戻す事が出来たが、その均衡はいつ崩れてもおかしくない状況だ。これ以上、悠長に事を構える余裕なんてないのだよ」

「……ええ。そう、みたいですね」

「ああ。……だが、三度目の大結界異変が齎したのは、何も無益な要素だけという訳ではない」

「え……?」

 

 レミリアは語る。

 魔理沙から提示された情報は、どれも目を背けたくなる程に悲惨な結末ばかりだったけれど。それでも。

 

「三度目の大結界異変を経てから、何年か経ったある日の事だ。再び繋がった()()()()で、私はとある人物の存在を観測する事が出来た」

「とある人物……?」

 

 メリーが聞き返すと、特にもったいぶるような素振りも見せずにレミリアは答えた。

 

「八雲紫だよ」

「…………ッ」

 

 どくんと、心臓が大きく高鳴る感覚を覚えた。

 つまるところ、ようやく話が繋がるとは、()()()()()なのかと。否が応でも様々な推測が勝手に脳裏を駆け抜ける。

 

「……どういう事? 紫さんは幽々子さんに殺されたって、そう言ってたじゃない」

 

 言葉を失ったメリーに変わって、蓮子がそう尋ねてくれる。けれどレミリアは、相変わらず飄々とした様子で方を窄めていて。

 

「なに、別に難しい話じゃない。八雲紫は死んでいなかった。ただそれだけの事だ」

「それだけの事って……」

「クククッ……。確かに、八雲紫は戻って来なかったと魔理沙は説明していたが、何も死んだとは言ってなかっただろう?」

「…………」

 

 確かに、そうかも知れないが──。

 

「まぁ、私が接触した頃には、既に先は長くない状態だったが」

「……っ!」

 

 ──結局、()()()()()のか。辛くも生き永らえる事が出来ていても、結局。

 

「八雲紫と接触出来たのは、本当に偶然の事だった。博麗大結界に綻びが生じてから、暫くして。外の世界の動向を探っていた私に、あの女の方からアプローチを仕掛けてきた」

 

 レミリア曰く。彼女もまた、その瞬間まで八雲紫は死んだものだと思ってたらしいが。

 

「私が外の世界の動向を探っていた理由は……。まぁ、今は良いだろう。重要なのは、八雲紫が私に接触してきたという事実なのだから。そしてその事実が、この状況を打開する最初のきっかけとなる」

「打開……」

 

 そう。それは、一筋の希望。

 西行寺幽々子を相手に辛酸を舐め続けていたレミリア達の、反撃の狼煙だった。

 

「八雲紫は外の世界にいた。──西行寺幽々子に敗北した彼女は、どうやら殺される寸前にスキマへと逃げ込む事に成功していたらしい」

「スキマって……」

「ああ。だが、それでも満身創痍である事には変わらなかったようだがな。スキマへと逃げ込んだ後、どういう経緯で外の世界に辿り着いたのか。それは彼女も覚えていないらしい」

 

 そこでレミリアは、軽く肩を窄めて。

 

「記憶喪失、だったらしいぞ。外の世界に放り出されてから暫くの間、彼女は幻想郷の管理者という立場どころか、自分が妖怪である事すら忘れていたようだ」

「っ! それって……」

 

 何となく、状況を察してしまえるような気がする。

 外の世界で辛くも生き延びていた八雲紫。そんな彼女は記憶喪失で、自分が妖怪である事も忘れてしまっていて。

 そして、その間に──。

 

「まぁ、西行寺幽々子から受けたダメージが大きかったのだろうな。肉体的にも、精神的にも。そしてようやく自らの記憶を取り戻した彼女は、折り良く外の世界を探っていた私に接触し──」

 

 

 *

 

 

 レミリア・スカーレットは思い出す。

 あれは、今から十五年程前の事か。

 

 三度目の大結界異変から十年程度経過した。魔理沙が夢想天生結界などと称している今の博麗大結界は、二度目までの例に漏れず六十年周期で綻びが生じた。

 博麗霊夢も、八雲紫も既に幻想郷には存在していない。八雲紫の式神である九尾の狐が代理を勤めているようだが、本来の管理者を失ってしまった時点で、このような結果に陥るのは必然だったのかも知れない。

 

 博麗霊夢の『能力』によりこれまで他世界から隔離されていた幻想郷は、その時点で再び世界と繋がる事となる。真っ先に作用したのは外の世界だった。

 幻想郷に内包されていた()()が、外の世界の()()と混じりあったのである。これによって幻想郷は()()の影響を受け、外の世界は()()の影響を受ける事となった。

 

 幻想郷側が受けた影響は、二度目の『異変』と比較してもかなり大きなものだ。──冥界への抜け道が緩み、幻想郷への侵入を阻害するのが難しくなってしまったのは無視できない。それでも尚ギリギリの所で『死霊』を抑え続けられているのは、高次元の存在へと昇華し、ある種の概念へと変貌を遂げた博麗霊夢の強靭な()()によるものか。

 まぁ、今となってはそんな考察など意味のないものだ。

 幾ら博麗霊夢の意志が強靭なものであろうとも、『空を飛ぶ程度の能力』の限界を超えた時点で彼女はこちらに直接的な干渉は出来なくなる。生きてるとも、死んでるとも言えない状態。それは『死霊』と化した西行寺幽々子への対抗手段を失ってしまった事と同義である。

 

 言ってしまえば、今の霊夢は博麗大結界と一体化しているような状態だろう。

 故に、何も出来ない。

 

 管理者不在の状態で三度目の大結界異変を迎えた時点で、彼女はもう、緩やかに終幕の時を待つしかない──。

 

 閑話休題。

 話が脱線してしまったが、兎にも角にもレミリアは、三度目の大結界異変の後も単に手をこまねいていた訳ではない。──このままでは、西行寺幽々子による絶対的な“死”の蹂躙が再開される。そんなものは、考察するまでもなく重々承知だったから。

 これ以上、西行寺幽々子に好き勝手はさせない。故に、打開策を考える必要があった。

 外の世界への干渉を始めたのもその一環だ。この数十年、どんな対抗手段を考察しても、最終的には辛酸を舐める結果に終わり続けていたから。最早幻想郷のみで考えうる手段だけでは、どうにもならないのではないかと。そんな諦観めいた感情も内心では抱いていた。

 

 故に、藁にも縋る思いだったのかも知れない。そんな感情、おくびにも出すつもりはないけれど。

 適当な猫を見繕い、それを使い魔として。そして外の世界へと放った。

 

 その結果。状況が変わったのは、レミリアが外の世界への干渉を始めて暫く経ってからの事だった。

 それは、全くの想定外。思いもよらぬ人物からの干渉だった。

 

「──レミリア・スカーレット。まさか貴方が、こんな手段でこちらの世界に干渉しているとはね」

 

 ()に導かれるように、レミリアはそこに向かった。呼吸をするように、ごく自然だったと言っても良い。ふらりふらりと導かれたその先は、緑豊かな田舎町に建てられたとある施設の一角だった。

 端的に言ってしまえば、病院。そこに彼女は、()()()()()として収容されていたのである。

 施設の一階部分。穏やかな森林と隣接する個室。黒猫の使い魔を使役していたレミリアは、開け放たれていた窓からその病室へと足を踏み入れた。

 

 そこに、彼女はいたのである。

 既に死んだものだとばかり思っていた、あのスキマ妖怪が。

 

「怪訝そうな雰囲気。ひょっとして警戒しているの?」

 

 彼女は儚げに笑う。少なくとも、レミリアが以前まで抱いていた胡散臭い印象は、その時の彼女からは微塵も感じられなかった。

 故に、レミリアは尋ねた。お前は、本物なのかと。本当に、正真正銘、あのスキマ妖怪なのかと。

 そんな質問に対して、彼女は。

 

「……ええ。そう、ね」

 

 否定する事なく、頷いて。

 

「信じられないかも知れないけれど、でも……。私は、正真正銘の本物よ」

 

 肯定した。

 

「私は、八雲紫。貴方とは、そんなに親しく話した事はなかったかも知れないけれど」

 

 自分は八雲紫。それは否定しようのない真実なのだと。

 彼女は、はっきりとそう口にした。

 

 なぜ。

 レミリアが真っ先に抱いたのは、疑問。なぜ生きている。なぜこちらの世界にいる。一体どういう状態だ。なぜ病院などに収容されている。しかも、妖怪ではなく人間として。

 疑問が溢れて止まらない。訳が分からなくて、混乱する──。

 

「貴方が混乱するのも、無理もないわ。だって、全部、私の所為で……」

 

 それから、八雲紫は。

 ぽつりぽつりと、説明を始めた。

 

「貴方の、認識通り。私は一人で幽々子を止めようとして……。結果、失敗したわ。私の力じゃ、幽々子を助ける事が出来なかった」

 

 レミリアが言伝に認識していた情報。それは間違っていないのだと、八雲紫は語る。

 幽々子を止められなかった。幽々子を助ける事が出来なかったのだと、悲痛に満ちた表情でそう語っていて。

 

「本当、笑っちゃうわよね。私にとって、幽々子は大切な親友だったはずなのに。そんな親友の事さえも、私は……」

 

 八雲紫は自嘲気味に笑う。所詮自分は、何も出来ない役立たずなのだと。暗にそう示しているかのように。

 でも。

 

「だけど、どうしてかしらね……。あの時、私は幽々子に殺されるはずだったのに」

 

 八雲紫による必死の呼びかけは、西行寺幽々子には届いていなかったようだけれど。

 

「幽々子は、私にとどめを刺さなかった」

 

 ひょっとしたら、それは単なる気紛れだったのかも知れない。

 生命あるものを無差別に殺しつくす『死霊』という呪いの塊。その主たる西行寺幽々子にとって、八雲紫もまた殲滅対象だったはずなのに。

 けれども彼女は、それを実行に移す事はしなかったという。

 

「あの時の私は、既に深手を負っていたから。だから直接手を下さずとも、勝手に死ぬんじゃないかと判断されたのか……」

 

 今となっては、彼女の真意は勝手に推測する事しか出来ないが。

 

「朦朧とする意識の中、気がついたら私はスキマの中にいたわ。──どうやって逃げ込んだのか、上手く覚えてないけれど」

 

 ただ、何故だろう。まるで、西行寺幽々子に温情をかけられていたような。そんな腑抜けた感情を抱いてしまうのは──。

 

「だけど、やっぱり私は限界で。スキマの中に逃げ込む事は出来たみたいだけど、その時点で身体は言う事を利かなくなっていて。私は、自分で開けたスキマの中で、長い間()()を続ける事になって……」

 

 然しも埒外な『能力』を有する八雲紫も、流石に身体の限界だけはどうしようもなかったらしい。受けたダメージは無視できぬ程に深く、満足に『能力』を行使する事も出来ず。半分意識を失ったような状態で、彼女はスキマの中に閉じ込められた。

 一日や二日などという単位ではない。数年──いや、数十年。彼女は孤独な()()を余儀なくされて。

 

「だけど、あれは……。今から、十年くらい前の事かしらね。私は不意に、スキマの中から放り出される事となるわ」

 

 制御できない自らの『能力』。朦朧としたまま浮上しない意識。そんな中でも嫌というほど湧き上がってくる孤独感。

 けれどもそんな生き地獄は、唐突にピリオドが打たれる事となる。

 

「それが、こちらの世界だった」

 

 今から十年くらい前。それは三度目の大結界異変が発生した時期とも一致する。──成る程、とレミリアは内心納得していた。

 突如として外の世界との接続を果たしたスキマ。それは、博麗大結界──霧雨魔理沙に倣うなら、夢想天生結界の()()が影響した結果だろう。幻想郷と外の世界が再び繋がった事により、八雲紫のスキマもまたその()()の影響を受けた。

 

 確かに八雲紫は管理者だが、それ以前に幻想郷の住民である事に変わりはない。故に、結界の緩みがスキマに何らかの影響を齎しても不思議ではないだろう。

 

「でも、私……」

 

 八雲紫は辛くも生き残る事に成功した。数十年単位でスキマの中での漂流を続けても生き永らえたのは、彼女が妖怪の賢者とも呼ばれる程の大妖怪だったからに他ならない。

 ──だけれども。

 

「私、忘れていたの……。自分が誰なのか、どういった存在だったのか」

 

 外の世界で意識を取り戻した八雲紫は。

 

「記憶喪失、だったのよ」

 

 自分が八雲紫という大妖怪である事さえも、判らなくなってしまっていた。

 

 考えてみれば、無理もない事だと思う。

 大切な親友に殺されかけて、生命に危険が伴う程の傷を負って。身も心も、限界を超えるくらいにズタボロで。──そんな状態で、数十年間も孤独な漂流を味わう事となるのだ。そんなの、どんなに強靭な精神力であろうと耐えられるはずもなく。

 八雲紫は壊れていた。この十年間、ずっと。彼女は八雲紫という大妖怪ではなく、記憶喪失のか弱い人間として外の世界で時を過ごす事となる。

 

「あの時の私……。いや、今もそうだけれど。もう、妖力も殆ど残っていないの。妖怪としての『境界』も曖昧な状態で……。少なくとも、身体能力はこちらの世界の人間と大差ない」

 

 八雲紫は自らの身体を見下ろしながらも、そんな事を口にするが。

 

「いえ……。こんな風に床に臥している時点で、普通の人間よりも寧ろか弱くなっちゃっているみたいだけれど」

 

 乾いた笑みを浮かべつつも、彼女はそう訂正する。とてもじゃないが笑えない話だった。

 八雲紫がここまで衰弱してしまっている理由。それは恐らく、西行寺幽々子から受けた絶対的な“死”が起因している。

 確かに彼女は八雲紫にとどめを刺さなかったのかも知れないが、それでも瀕死の所まで痛めつけていた事には変わりはない。その瞬間には生命を奪う事はしなくとも、植え付けられた死の呪いはジワジワと八雲紫の身体を蝕んでゆき。

 その結果が、()()という事なのだろう。

 

「まぁ、私は幸運だったのだけれどね。記憶喪失で外の世界に放り出された直後、親切──なんて言葉で言い表せないくらいの()()()()に、助けられたから……。あの人がいなかったら、私はもっと早い段階で野垂死んでいたかも知れない」

 

 あの人。外の世界で最初に遭遇した人間、という事だろう。幸運にも彼女はそんな人物に助けられたようだった。

 物好きな人間もいたものだ。記憶喪失だったとはいえ、得体の知れぬ女を善意だけで助けようなどと。八雲紫の口振りから察するに、どうやら筋金入りのお人好しだったようだが。

 

「こっちの世界に放り出されてから、幻想郷の事さえも忘れて。ただのうのうと、一人の人間として生きてきた。──ようやく記憶を取り戻したのが、つい最近」

 

 十年。それは記憶を失った彼女が、人間として外の世界で過ごした歳月。妖怪にとっては一瞬の一時でも、人間の観点で見ればそれは決して短くはない時間だった。

 八雲紫もまた、様々な()()を経ていたのだろう。

 レミリアの視界はずっと捉えていた。──こうして、会話を続ける間。八雲紫が座るベッドの横で、うたた寝を続ける幼い少女の姿を。

 

 見知らぬ少女。誰だ──なんて、深く考察せずとも察する事は難しくない。

 似ていたのだ。容姿だとか、雰囲気だとかが、どことなく。

 ()()()()

 

「……私、もう手遅れみたいなの」

 

 ぽつりと、八雲紫はそう呟く。

 うたた寝を続ける幼い少女の頭を、優しく撫でながら。

 

「自分の身体の事だから、判る。幽々子から受けた死の呪いは、私の生命を蝕み続けている。──きっと、もう、長くは生きられない」

 

 それは、今の彼女の姿を見れば幾らでも推測出来た事実。だが、実際に本人から口にされると、何との形容しがたいような感情に襲われる。

 自分と八雲紫は、それほど深い接点がある訳でもない。だけど、それでも。

 

「……なんて、まさか貴方にこんな話をする事になるなんてね」

 

 やはり彼女は乾いた笑みを浮かべている。

 ようやく記憶を取り戻したのに、その時点で既に先は長くなくて。死という終幕を目前にして、彼女はどれほどの絶望を味わったのか。それはレミリアには想像も出来ない程の苦痛だったのかも知れないけれど。

 だけど、八雲紫は既に悟っている。どうしようもないくらいに、痛感してしまっている。

 もう、手遅れだから。既に自分の力では、どうする事も出来ないから。

 

「そのついで、と言ってしまうのも変な話だけど……。貴方に一つお願いがあるの」

 

 それは、死の淵に立たされた八雲紫による、なけなしの救難信号だったのかも知れない。

 

「彼女を……」

 

 けれども彼女が望むのは、自分自身の救済ではなく。

 

「……幽々子を、止めて欲しいの」

 

 あくまで、大切な親友の救済だった。

 生前の記憶を取り戻し、絶対的な“死”を振り撒いて。八雲紫もまた、殺されかけたというのに。それでも彼女は、諦めていなかった。今も尚、引き摺り続けていた。

 

「幽々子を、助けて……」

 

 西行寺幽々子を止める。これ以上、彼女に死の呪いを行使させる訳にはいかない。

 アプローチは違うが、最終的なゴールはレミリアのそれと似通っている。西行寺幽々子を救うか、斃すか。それだけの違い。八雲紫は、泥臭くも未だに救済を諦めていないようだが。

 

 だが、彼女は頼み込む相手を間違えた。

 幽々子を止めて欲しい? 救って欲しいだって? 馬鹿な。レミリアは西行寺幽々子を斃すつもりだ。救済などという慈悲はない。

 八雲紫の頼みを聞く義理だってない。結局の所、彼女は他人。身内でも何でもないのだから。

 

 一蹴した。そんな願いなど、自分にとってはどうでも良い。なぜ助ける必要があるのかと。

 偶々こちらの世界に干渉していた自分などではなく、もっとマシな相手を選ぶべきだったなと。レミリアは突き放すようにそう告げたのだけれども。

 

「……いいえ。良いのよ、貴方で」

 

 八雲紫は、首を横に振って。

 

「だって、貴方」

 

 ただ、穏やかに。

 

「私の話、最後まで真剣に聞いてくれていたじゃない」

 

 愚直なまでに、真っ直ぐに。

 

「だから……。貴方になら、お願い出来る」

 

 ──何だ。一体全体、何なのだ、彼女は。本当に、あの八雲紫なのだろうか。

 いや。判っている。ここまで話して、レミリアだってとっくに察してしまっている。()()()こそが、八雲紫の本質なのだと。胡散臭い大妖怪などという一面は、妖怪の賢者たりうる為の体裁に過ぎないのだと。

 

 ならば。ならばレミリアは、どうすれば良い? 八雲紫が吐露した“願い”を聞いて、自分は──。

 

「……本当に、馬鹿な女」

 

 レミリア・スカーレットは吐き捨てる。

 ああ。本当に、馬鹿だ。大馬鹿者だ。

 

 八雲紫も。そして──。

 

「やってやるわよ。私に──レミリア・スカーレットに不可能はないわ」


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