桜花妖々録   作:秋風とも

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第13話「生命の輝き」

 

 

 大学の入学式が終わってから早一ヶ月。5月上旬の夕暮れ時、進一は一人帰路に就いていた。

 桜は疾うに葉桜へとその姿を変えたが、気候はまだまだ春である。夕暮れ時とは言えど眠気を誘う程にポカポカで、思わず欠伸を零しそうになる。こうして一人で歩いていると尚更だ。そんな欠伸を噛み殺しながらも、進一はふと空を仰ぐ。

 雲一つない良い天気。西の地平線に沈む太陽がその空を茜色に染め、明媚に彩る。その様子を見ているだけで、心が安らかになりそうだ。

 

(平和だなぁ……)

 

 平和である。今日はこのまま、特に何のハプニングにも巻き込まれる事もなく、静かに一日が終わるのではないか。まぁ、特に何もない一日も嫌いじゃなかったりするのだが。進一は別に血気盛んな訳でもないので、これといった刺激は求めていないのだ。どちらかと言えば、静かにのんびり過ごす方が性に合っているかも知れない。

 そんな風に進一がぽやぽやとした心境に浸り始めた頃。とある河川に掛けられた橋の上を通りかかった辺りで、不意に背後から声をかけられた。

 

「進一君!」

 

 聞き覚えのある声。と言うか、ここ最近はほぼ毎日のように耳に流れ込んでくる声である。最早聞き間違える訳もない。十中八九、彼女だろう。

 思わずつきそうになった溜息を飲み込みながらも。進一は振り返り、そして彼女へとジト目を向ける。

 

「なんだ? 秘封倶楽部には入らんとあれほど……」

「ちょっ、出会い頭に拒絶なんて酷くないっ!?」

 

 相変わらずのリアクションを見せてくれたのは、進一の想像通りの少女。宇佐見蓮子だった。その傍らにはメリーの姿も確認できる。

 秘封倶楽部なるオカルトサークルを設立したらしい蓮子だったが、なぜだか事あるごとに進一を勧誘しようとしてくるのである。これ程までに進一が無関心っぷりを露呈させてみても、彼女は一向に引き下がる気配も見せない。焼け石に水である。一体、なぜそこまで拘るのだろう。普通にオカルト等に興味がある奴を勧誘した方が余程早いだろうし、彼女にとってもメリットになるのではないだろうか。ぶっちゃけ時間の無駄なんじゃないかと、進一は常々思っている。

 

「お前は毎日のように勧誘してくるからな。だからさっさとはっきりさせてしまおうと……」

「ストップストーップ! 別に、今回は勧誘の為に声をかけたんじゃないわよ。たまたま進一君を見かけたから、ちょっと声をかけてみようかなーって思っただけで……」

 

 肩を窄める進一の言葉を遮るように、蓮子は半ば必死になってそう説明してくる。この様子、どうやら本当に勧誘目的ではないらしい。

 

「だから無理強いは駄目だって言ったのに」

「私は無理強いなんてしてないわメリー! ただ、ほんの少し進一君を丸め込もうと……」

「それを無理強いと言わずになんと言うのかしら?」

 

 メリーにそう指摘され、蓮子は流石にぐうの音も出ない様子。確かに、ここまでしつこく勧誘を続けるのは少々強引である。無理強いしていると指摘されても、仕方がないと言えるだろう。

 まぁ、今回は別に勧誘目的ではないらしいので、そこまで蓮子を拒絶する理由も進一にはない訳だが。言葉が詰まった蓮子を見かねて、進一の方から話題を変えてみる。

 

「それで? 勧誘目的じゃないんなら、何の用だ?」

「いや、別にこれといって特別な用があるんじゃないのだけど……」

 

 答えたのはメリーだった。

 

「折角だし、一緒に帰らない? 方向も同じみたいだし」

「あぁ、そう言う事か」

 

 特に何てことない提案である。勧誘目的ではないのなら、オカルトの魅力に気づいてもらうとか何とか言って、またいつものように蓮子が一方的に語り出すのかと思ったが。杞憂だったようだ。

 二人の様子を見た感じ、どうやらメリーが少なからず蓮子の歯止め役となっているらしい。

 

「俺はこのまま駅に向かうつもりだ。電車通学だからな」

「あら、そうだったの。私と蓮子はこの近くのアパートに一人暮らしなのよ。元々京都出身じゃないから」

「へぇ、そうなのか」

 

 メリーはともかく、蓮子も京都出身ではなかったのか。アパートに一人暮らし、と言う事は大学に進学する事に伴って上京してきたという事なのだろう。実際、そう言った学生は結構多いと聞く。

 この近くのアパートで生活しているとの事なので、一緒に帰るにしても電車通学の進一とは割とすぐに別れる事となる。だけれども、特に断る理由もない折角の誘いである。

 

「ま、俺も少し退屈してた所だ。途中までだが、一緒に帰るか?」

「ええ。そうしましょ」

「むぅ……進一君って、こういう時は結構ノリが良いのよねー。秘封倶楽部には一向に入ってくれそうもないのに」

 

 進一が快く彼女達を受け入れるが、何やら蓮子はぶつくさと不平を述べている様子。結局そこに行き着くのかと、進一は思わず苦笑いを浮かべた。

 

「て言うか進一君! 女の子がサークルに勧誘しているっていうのに、一向に首を縦に振らないってどういう事よ!? 男だったら普通、もっと、こう……リアクションとかあるでしょ!?」

「いや、そもそもそんな色欲的な動機でサークルに入るわけないだろ。俺はそんなキャラじゃない」

「くっ……なんてクールな受け答えなの……!? これぞまさしく難攻不落……ッ!」

 

 何だか蓮子が何を言っているのか分からなくなってきた進一である。

 

「あぁ、せめて進一君がもっと情熱的な性格だったら……。『一緒に帰る? ふっ、よし分かった。ならあの夕陽に向かって共に走ろうではないかっ!』みたいな」

「どんなキャラだよそれ。何か色々と拗らせ過ぎだろ」

 

 河川の先に沈む夕陽に指差しながらも、妙な低音ボイスでそんな事を口にする蓮子。これは、進一の声真似のつもりなのだろうか。ぶっちゃけあまり似ていない。

 しかし明け透けに引いている進一の様子など気にも留めていないようで、蓮子は結構ノリノリだ。一体、何に影響されたのだろう。蓮子の将来が心配になってきた。

 そんな彼女の傍らで、会話に入り込めないメリーはただ苦笑いを浮かべるのみである。あぁ、彼女も結構苦労しているんだなーと、進一は内心同情する。

 

「……、ん?」

 

 蓮子の指につられて河川敷へと視線を向けた、その時だった。

 決して幅の狭くない河川。その中へと、バシャバシャと音を立てて入り込む幼い少年の姿が見える。その容貌から察するに、小学生くらいだろうか。

 進一は胡乱に思う。幾ら暖かい気候の春とは言え、まだまだ水遊びには適さない気温である。好奇心旺盛な子供とは言え、態々冷たい水の中へと入っていくものなのだろうか。

 

「進一君? どうかしたの?」

「いや、あれ……」

 

 首を傾げるメリーに向けて、進一はあの少年を指で示す。彼女も河川へと視線を落とすと、

 

「あの子、何やってるのかしら……?」

「……あ。ほら、よく見て。ボールが川に流されてるわ。あれを取ろうとしてるんじゃない?」

 

 蓮子にそう指摘され、進一は今一度河川をよく見てみる。成る程、確かに直径30センチ程のゴムボールが確認できるが――。

 

「で、でも大丈夫かしら? あんな所まで入り込んじゃって……」

 

 メリーの言う通りである。

 おそらく河川敷にてボール遊びをしていた最中、手元が狂ったか或いは突風が吹いたかしてボールが川の方へと飛んでいってしまったのだろう。流されてゆくボールを見て、慌てて取りに行こうとしている、といった所か。

 しかし、彼はまだ幼い少年である。それなのに、水流も決して弱くない河川へとあんなにもずいずいと入ってしまって。下手をすれば、

 

「…………ッ!」

「あっ!」

 

 その直後の事だった。

 嫌な予感を覚え始めた進一の目の前で、その少年は派手に転んでしまったのだ。バシャンと水飛沫を上げて、少年の小さな身体はいとも簡単に水の中へと沈んでしまう。一拍ほど遅れてパニックに陥った少年が、水中でバシャバシャともがき始めて――。

 

「マズイだろあれ……!」

「し、進一君!?」

 

 メリーに声をかけられるが、それが耳に届くよりも先に。自然と身体が動いていた。

 なりふり構わず走り出し、橋の側面へと回り込む。鞄を投げ捨て、斜面になっている河川敷を滑るように駆け下りて。躊躇うことなく川へと飛び降りた。

 思った通り、ポカポカとした陽気とは対照的に川の水はかなり冷たい。長時間浸かっていれば、あっという間に体力を持って行かれてしまうだろう。パニックに陥っているのなら尚更だ。

 

「おい! 大丈夫かっ!?」

 

 膝上辺りの水深の川を、進一は突き進む。バシャバシャと藻掻く少年へ向けて声を張り上げるが、その声が届いているかどうかは正直なところ怪しい。それ程までに、あの少年には余裕がない。

 

「待ってろ、すぐに俺が……うおっ!?」

 

 突然身体が沈むような感覚に襲われる。どうやら、水深が急に深くなったらしい。ついさっきまでは進一の膝上くらいだったはずが、今の水面は腰よりも高い。これではあの少年がパニックに陥っても仕方がないだろう。川の流れは思ったよりも強く、少し踏ん張らなければ身体を持って行かれそうだ。

 

(くそっ……!)

 

 ともあれ、モタモタしてはいられない。一刻も早くあの少年を河川敷まで引っ張り上げなければ。最悪、取り返しのつかない事になる。

 やっとこさ進一が辿り着いた頃には、既に少年の体力はほぼ限界に達していた。藻掻く勢いも弱々しく、その表情にも生気がない。遂には身体の動きもとまり、ぐったりと沈んでいって――。

 

「しっかり、しろ……!」

 

 だけれども、進一はまだ諦めていなかった。沈みかけた少年の身体を水中で抱きかかえて、そのまま背中へと背負う。水を吸って重くなった衣服類に翻弄されそうになりながらも、進一は河川敷へと向けて引き返し始めた。

 

(急がないと……!)

 

 頭の中ではそう分かっていても、身体はそう上手くついて来てくれない。元々人並み程度の体力しか持っていない進一では、すぐに身体が悲鳴を上げてしまうのだ。体力の消耗もいつも以上に激しく、酸素量が足りなくなって進一は激しく息を切らす。しかしそれでも進一は、足を止める気配も見せない。

 無我夢中だった。

 

「進一君! 手を!」

 

 耳に流れ込んできたのはメリーの声。河川敷ギリギリの所で精一杯踏ん張って、鬼気迫る表情で彼女は手を伸ばして。反射的に、進一も手を伸ばす。擦れるように一瞬だけ触れると、メリーは更に無理な姿勢になって強引に手を掴んできた。

 

「お、おいメリー。その体勢じゃ……」

「だ、大丈夫……引っ張り上げるから……!」

「引っ張るって……」

 

 正直、高々少女一人の腕力では無理がある。況してやほぼ前のめりに近いこの姿勢。これでは力も殆んど入らないだろう。最悪、メリーまでも川に落ちて――。

 

「私の事も忘れてもらっちゃ困るわね!」

「れ、蓮子……?」

 

 メリーの背後から手を伸ばしてきたのは蓮子だった。殆んど支えるような状態でメリーの両腕をがっちりと掴み、そのまま進一ごと引っ張り上げようとしているらしい。

 メリー一人の腕力ではあまりにも無謀だったが、ひょっとしたらこれなら或いは。

 

「ほら! 二人ともタイミング合わせてよ? せーのっ!」

 

 蓮子の掛け声と共に進一も一気に前へと進む。彼女達の助力もあり、進一は少年を背負ったまま川から脱出する事に成功した。

 思っていた以上に体力の消耗が激しい。河川敷に上がるなり進一は倒れ込みそうになるが、ギリギリの所で踏みとどまる。こんなタイミングで倒れる訳にはいかない。それより何より、今は。

 

「おい! しっかりしろ!」

 

 背負っていた少年を慎重に降ろし、寝かせたまま肩を揺すって必死になって声をかける。だけれども、少年は反応を見せてくれない。ぐったりと倒れ込んだまま、息遣いさえも、聞こえない。

 

「嘘だろ……? くそッ!」

「と、とにかく病院に……!」

「さっき連絡したわ! でも、そんなにすぐには……!」

 

 メリーはかなり取り乱している様子だが、対する蓮子は幾分か冷静だったようだ。進一を引き上げる直前、あの時点で既に救急隊員を呼んでいたらしい。意外にもぬかりない。

 だけれども、それでも彼等が到達するまでまだ時間がかかる。このままでは、この少年は。

 

「……ダメだ」

「えっ?」

「ダメだ、このままじゃ……!」

 

 このまま何もせずに待っている事なんて、出来る訳がない。救急隊員が後どれくらいで到着するのかも、はっきりしていないのだ。そんな状況で、いつまでもこの少年をこんな状態のままにしておくなんて。

 

「くっ……!」

 

 別に。進一はこの少年と面識がある訳ではない。少しも話したことすらないし、見かけたのだって今日が初めてだ。言ってしまえば赤の他人。特になんの繋がりもなく、下手をすれば一生会う事もなかった可能性だってある。

 しかし、だからと言ってこのまま見捨てる訳にはいかない。赤の他人だとか、面識がないだとか。そんな事は関係ない。

 

 だって、今まさに進一の目の前で。一つの()()が消えかかっているというのに、見て見ぬ振りなんて出来る訳ないじゃないか。

 

「おい……。頼む、目を開けてくれ……!」

「し、進一君……?」

 

 生命の灯火は驚く程に脆弱だ。あまりにも脆く、そしてあまりにも儚い。ちょっとでも息を吹きかければ、簡単に消えてしまうくらいに。

 

「なぁ……。頼む、頼むから……」

「進一君……!」

 

 それはこの少年も例外ではない。彼の脆くて儚い生命は、徐々に輝きを失って――。

 

「こんな、所で……消えないでくれよ!」

「ねぇ! 進一君!」

 

 メリーに強く肩を引かれて、進一は我に返る。

 完全に周りが見えなくなっていた。一心不乱に少年を揺さぶり、必死になって声をかけて。酷く取り乱して、つい力が入ってしまった。いつもの冷静さなんて、完全に喪失していた。

 進一は顔を上げる。何かを見透かすかのようにぼんやりと揺らめく、彼の瞳が捉えていたものは。

 

「な、何……? その『眼』は……?」

「……、えっ……?」

 

 進一は慌てて、自らの瞳をゴシゴシと乱暴に擦る。

 

「何でもない」

「嘘よ、だって……!」

「違う、その、あれだ。ちょっと、目にゴミが入って……」

 

 メリーの追及から免れようと。進一が苦しい誤魔化しを始めようとした、その時だった。

 

「……ぅ、ごほっごほっ!!」

 

 むせ返るような声が、進一の耳に届く。反射的に視線を落とすと、咳き込んだのは昏睡状態に陥っていたはずの少年。ゴホゴホと咳き上げて、飲み込んでしまった水を吐き出して。けれどもぐったりとしたままだった先程までとは違い、ぜぇぜぇと苦しげであるものの、少年の息遣いはしっかりと進一の耳に届いている。

 息を、吹き返したのだ。

 

「き、気がついた……? おい、大丈夫か!?」

 

 慌てて声をかけてみると、ほんの微かにだが少年は反応を見せてくれた。だけれども、その表情は未だに苦痛に支配されている。何とか呼吸は出来ているようだが――。

 

「で、でもまだ意識は戻ってきてないみたい……。やっぱり、早く病院に連れて行ってあげた方がいいわね」

 

 蓮子の言う通りである。確かに息を吹き返しはしたが、少年の意識は未だに混濁したままだ。苦しそうに表情を歪ませながらも、うなされているかのように仕切りに呻き声を上げている。医学に精通していない進一では少年の容態がどの程度なのか具体的には分からないが、決して良くない事は確かだろう。あれだけ水を飲み込んで、今の今まで呼吸も止まっていたのだ。一刻も早く、医者に見てもらわねばなるまい。

 

「色々と気になる事はあるけど、それを追及するのは後よ。それより何より、今はこの子の容態を少しでも良くする事を考えないと」

「え、ええ。そうね……」

 

 蓮子に宥められて、メリーもようやく落ち着きを取り戻す。それでも何やら納得出来てない様子だったが、取り敢えずそれは置いておく事にしたようだ。今はこの少年を助ける事を先決すべきだろう。

 

 それから、程なくして。到着した救急隊員に連れられて、川で溺れた少年は病院へと運ばれた。

 

 

 ***

 

 

 結論から言ってしまえば、あの少年は助かった。

 溺れた際に大量の水を飲み込んでしまったものの、命に別状はないようだ。病院へと運ばれる途中で意識も取り戻したらしく、到着する頃には口を利ける程度には回復していたとの事。呼吸もそこまで不安定ではなく、受け答えもしっかりしている。この様子なら、完全に回復するまでそこまで時間を要さないだろう。

 曰く、進一が直様助けに入ったのが功を奏したらしい。今でこそ少年の意識はしっかりとしているが、もう少し助け出すのが遅くなったら、どうなっていたか分からない。最悪、命を落としていた可能性もある。

 

 結果として、進一は救う事ができたのだ。少年の、()()を。

 

(良かった……本当に……)

 

 あの少年が病院に運ばれてから、色々とあって。警察に状況の説明を求められたり、少年の両親にひたすら多謝されたりして。落ち着いた頃には外もすっかり暗くなっていた。

 

 病院内のエントランス。そこに備え付けられたソファへと腰を降ろして、進一は一息つく。途端にドッと疲労感が襲いかかってきた。

 無理もない。溺れた少年を川から助け出して、そのまま病院まで付き添って。休む間もなく色々な事が起き過ぎて、既に身体はクタクタだ。ここまで身体を酷使したのは、いつ以来だろうか。思えば受験生になった辺りから、あまり運動もしていなかったような気がする。もっと常日頃から身体を動かしておけば良かったなと、進一はちょっぴり後悔した。

 

「……進一君」

 

 進一が一人アンニュイな気分に浸っていると、スタスタと歩み寄ってきた誰かに声をかけられる。顔を上げると、そこにいたのは二人の少女。蓮子とメリーである。

 

「だ、大丈夫? なんか、随分とやつれちゃってるみたいだけれど……」

「あぁ……問題ない。少し、疲れただけだ」

 

 気遣ってくれたメリーに対し、軽く笑みを零しながらもそれに答える進一。しかしそれでも疲労感を隠しきれてはいないだろう。正直言って、そろそろ体力の限界である。疲れの所為か、眠気までも襲いかかってきた。

 早いところ家に帰って一眠りしたいなと。進一がそう思っていると、

 

「ねぇ、進一君」

「……ん?」

「疲れているところ悪いんだけど、幾つか確認したい事があるのよ」

 

 そう口にする蓮子は、疲労困憊な進一とは対照的に普段と然程変わらない様子である。彼女達も色々と大変だったと思うのだが、蓮子に限ってはそんな疲れなど一切表面に出していない。

 それどころか。いつにも増して真剣な表情を浮かべる彼女からは、思わず身を引いてしまいそうになる凄みさえも感じられる。いつもの呑気で楽観的思考の蓮子は、どこに行ったのだろうか。

 進一は思わず息を呑み、そして彼女の次なる言葉を待つ。

 

「……確認したい事?」

「ええ。単刀直入に聞くけど、さっきの『眼』はなんだったの?」

「……、あぁ……」

 

 そう来たか。

 

「……やっぱり、それ聞いちゃう?」

「ふざけないで」

 

 何となくうやむやに出来ないかなと思ったが、どうやらそれは叶わないらしい。しっかりと進一を見据える蓮子の瞳は、まさに真剣そのものだ。適当な誤魔化しは通用しないだろう。

 

「気丈に振舞おうとしているみたいだけど、無理をしているのがバレバレよ?」

「別に……無理なんかしてないさ」

「……そうかしら?」

 

 口を挟んできたのはメリーだった。

 

「なんて言うか……進一君と話していると、距離感を感じる事があるのよ。妙に余所余所しいと言うか、壁に阻まれていると言うか……」

「……距離感、ね」

「ひょっとして進一君、何か悩み事でもあるんじゃないの? さっきの『眼』だって……」

 

 進一は口篭る。それから観念したかのように、溜息を一つついた。

 

「私達で良ければ相談に乗るから……だから」

「分かった、分かったよ」

 

 ここまで来たら、最早隠し通す事などできないだろう。いや、別に隠すつもりはなかったのだが――。そもそもこんな話、誰かに話したとしても信じてもらえぬまま微妙な空気になって、気まずい雰囲気で終わるのがオチじゃないか。それなら態々誰かに話す必要はないし、適当に自己解決しておけばそれでいいだろうと。そう思っていた。

 それに。

 

「気味が悪いって、きっとそう思う事になるぞ。それでもいいのか?」

「何言ってるのよ進一君。私達は秘封倶楽部、オカルトサークルよ? どんなに非常識な事だって、受け入れる事ができるわ」

「……そうか」

 

 微笑みを浮かべてそう語る蓮子を前にして、進一は意を決する。

 オカルトだとか、非常識だとか。そんな物には興味がないと散々言ってきた手前、こんな事を話すのは少し気が引ける。けれどもそれは自業自得だ。ずっと目を逸らし続けてきた、自分が悪い。

 だから覚悟を決める。彼女達がどんな反応を見せようと、進一はそれを受け入れるしかない。

 短く深呼吸をして、肩の力を抜く。それから進一は、ポツリポツリと語り出した。

 

「……生命、って分かるか?」

「……いのち?」

「ああ。でも、物質と生物を区別する属性だとか、そういった意味での“生命”じゃない。生きとし生けるものがその根源に持っているとされる力。生き物の原動力、とでも言うべきか」

 

 具体概念ではなく、もっと抽象的、或いは哲学的な概念。世界の構造が解明されつくされたとされるこの時代では、あまりにも胡散臭く突拍子もない存在。この世界の常識には当てはまらない、極めて非常識的な力。あまりにも抽象的で、現実味が薄すぎて。殆んどの人々が、そんな話を聞いたとしても夢物語程度にしか思わないのだろうけれども。

 でも。確かにそれは存在している。

 

「俺の『眼』には見えるんだ。その“生命”ってヤツが」

 

 

 ***

 

 

 メリーは黙って進一の話を聞いていた。聞きながらも、何度も息を呑み込んでいた。

 オカルトや非常識には興味がない。だから秘封倶楽部には入らないと、進一はそう言っていたのに。彼の持っている『眼』は、限りなく非常識的なものだったのだ。

 生命。生きとし生けるものがその根源に持っているとされる力だと進一は語っていたが、例えば肉体とは別の人格的な存在である魂のようなものだとか、そういったものとはおそらく違う。生きる為の力。命あるものに宿っているとされる、不可視の力。これがあるからこそ生物は生き続ける事が可能であり、これが消えてしまったら生物は死ぬ。そんな概念的な何か。

 

 進一の『眼』には、それが見えるという。

 

「生命が見える、ね……」

「ああ。どうだ? あまりにも突拍子もないだろ? 信じられないのなら、別にそれでいいさ」

 

 進一の態度はあまりにも排他的だ。自暴自棄になっているようにも見える。

 メリーには分かる。きっと彼は、恐れているのだ。普通は見えるはずもない、そもそも常識的には考えられない不明瞭な存在。そんなものが、自分の『眼』にだけは映る。当然、その感覚を他人と完全に共有する事なんて出来ない。だからあまりにも気味が悪い。だから自然と孤立する。だから、意識もしない内に人とも距離を置いてしまう。

 

(私と同じ……)

 

 蓮子と出会う前の、メリーと同じ状況である。いや、それ以上に拗らせているかも知れない。彼は心のどこかで、自分の能力から必死になって目を背けようとしている。

 オカルトに興味がないと、そう頻りに口にしていたのがその証拠だ。彼はただ単にオカルトや非常識に興味がない訳ではない。確かにそういった趣味がないのは本当なのかも知れないが、それだけではないはずだ。

 ただ、自分の能力――非常識を、上手く受け入れられないだけ。

 

「…………」

 

 一抹の沈黙の後、おもむろに蓮子が口を開く。

 

「進一君はどう思っているの? 自分の『眼』のこと」

「どうもこうも……俺の『眼』は俺のものだ。だから割り切るしかないって、そう思っているけど」

 

 そこでひと呼吸置いて、

 

「でもはっきり言って、胡乱な感覚は拭いされない。なぜ俺だけこんな訳の分からん能力なんて持っているのか、そもそもその本質は一体何なのか。不明瞭な部分が多すぎるのに、まるっきり受け入れろなんて無理な話だ」

 

 進一の気持ちは痛い程分かる。だってメリーもそうだったから。本来見えるはずのないものが見える能力。自分が持っている力のはずなのに、その正体がまるで掴めない。まるで、自分が自分じゃなくなっていくような。時にはそんな感覚さえも引き起こす。

 

「どうだ? 気味が悪いって、そう思うだろ? お前達が幾らオカルトサークルだと言っても、こんな突拍子もない話、信じられる訳がないよな」

 

 自虐的に、進一は笑う。

 

「まぁ、訳の分からん戯言だって思うのなら、別にそれでいいさ。俺だって、信じてもらおうだなんて……」

 

 進一がそこまで言いかけたところで。その言葉を遮るかのように、蓮子が突然進一の手を取った。

 一瞬何が起きたか分からないと言った様子で進一はきょとんとしていたが、蓮子はそんな事お構いなしだ。少々強引な態度のままで、彼女は進一の手を引く。

 

「お、おい。なんだよ、急に」

「ちょっと、ついて来て」

「……は?」

 

 進一は蓮子に困惑を呈しているが、それでもされるがままになるしかない。進一の手を引いた蓮子が向かう先は、病院の外。

 

(蓮子、貴方……)

 

 何となく彼女の意図を察したメリー。何も言わずに、彼女も二人の跡を追う。

 出入り口の自動ドアから病院の外へと出ると、丁度蓮子が空を仰いでいる所だった。

 

「おい。何をやってるんだよ、お前」

「……19時13分26秒」

「……え?」

「今の時間よ。確認してみて」

 

 蓮子にそう促されて、戸惑いながらも進一はスマートフォンを取り出す。スリープモードを解除して、点灯したディスプレイへと視線を落とした。そこに表示されているデジタル表記の現時刻を確認した途端、進一の表情は驚愕に塗りつぶされる事となる。

 

「19時13分……、ピッタリだ」

 

 当然蓮子が口にしてから進一が確認するまでの間にタイムラグが発生するので秒数に遅れが生じるが、そこから逆算すれば蓮子の示した時間が如何に正確なものか分かるだろう。一分一秒の狂いもなく、下手な電波時計よりも正確で繊細な値。適当な勘などで当てられるような数値ではない。

 

「どういう事だ……?」

 

 スマホから視線を上げて、進一は蓮子にそう尋ねる。対する蓮子も進一へと視線を向けて、さも平然そうな表情でそれに答えた。

 

「これが私の能力よ」

「……、は?」

「『星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる程度の能力』」

 

 茫然とする進一を余所に、蓮子はそのまま続ける。

 

「ほら、空も晴れてるし今の時間なら星がくっきり見えるでしょ? だから正確な時間が分かったのよ。星さえ見れれば、正確な時間が分かるからね。私の『眼』なら」

「ちょ、ちょっと待て」

 

 酷く困惑した様子で、進一が口を挟む。けれども上手く言葉にできないようで、必死になって絞り出したのは、

 

「な、何を言ってるんだ、お前は……?」

「……進一君なら分かるでしょ?」

 

 蓮子は毅然とした様子で、

 

「変わった『眼』を持っているのは、貴方だけじゃないって事よ」

「なっ……」

 

 進一が無意識の内に心に壁を作り、人と距離を置こうとしていたのは、こんな『眼』を持っているのは自分だけだと思い込んでいたからだ。他人とは決定的な何かが違う。気味が悪い。けれどもこの感覚を、誰かと共有する事なんて出来ない。

 進一の場合、それでも表面上はしっかりと人付き合いをしているように見せていたが、その内心の本性は違う。彼は自分でも気づかぬ内に、独りになろうとしていた。だってこんな能力を持っているのは、唯一自分だけなのだから。だから孤立するしかないと、そう思っていたのだろう。

 だけど。

 

「それにしても、これですっきりしたわ。進一君からはずっと親近感みたいなものを感じていたんだけど……。私達と同じように、『眼』に関する能力を持っていたからなのね」

 

 同じように特別な能力を持ちながらも、こんなにも楽観的に捉えている少女が目の前に現れたら。彼はどう思うのだろうか。

 

「私“達”、だって……?」

「え? あぁ、……うん。メリーの『眼』も特別だからね。でしょ?」

「へ……? あ、え、ええ。そうね……」

 

 突然話題を振られた。と言うか、勝手に能力の事をバラさないで欲しいのだが。

 まぁ、それでも。

 

「嘘、だろ……、そんな……」

「嘘なんてついてないわ。事実、さっき私が口にしたのは、正確な時間だったでしょ?」

「それは、そうだが……。まさか、本当に……」

 

 『眼』に関する能力を持った二人の少女を前にして、進一の心境が少しでも良い方向へ変化してくれたら。結果オーライである。

 

「あぁ、それと。進一君は信じられないのならそれでも良いとか言っていたけど、正直信じるなって言う方が無理な話よ? だって進一君の能力、結構はっきりと眼に現れるタイプなんだもん」

「……っ」

 

 進一は口篭る。予想外の出来事がいっぺんに起こりすぎて、混乱しているのだろう。

 無理もない。これまでごく普通に接していたはずの少女二人が、実は自分と同じように奇妙な能力を持っていたのだから。気味が悪いのは自分一人だけなんだと、そう思い込んでいたのに。

 

「さて。自分だけが特別だから、独りになるしかないんだって進一君は思っていたんだろうけど……。どう? 似たような能力を持つ女の子が、目の前に二人も現れちゃった訳だけど」

 

 進一の目の前に現れた楽観的な少女は、そっと手を差し伸ばす。

 

「これでも独りになるしかないって、そう思う?」

 

 優しげな表情を浮かべる蓮子を前にして、進一は俯いてだんまりと口を閉ざす。二の句が継げない進一の様子を見て、メリーの胸中に一抹の不安が過ぎった。

 メリーの場合、蓮子の真っ直ぐな様子に心を動かされた訳だが、誰もが皆そう上手くいくとは限らないだろう。確かに進一の状況は以前のメリーと似ているが、彼の感性までもがメリーのそれと同じとは限らない。進一がメリーとは違った感情を抱いてしまっても、何ら不思議ではないのである。

 

 そう、思ったのだけれども。

 

「……まったく」

 

 顔を上げた進一が、メリー達に見せた表情は。

 

「お節介な奴らだな」

 

 笑顔だった。それも今までのようなどこか余所余所しい笑顔とは違う。本当に、心の底から笑いたいと。そう思っているからこそ、浮かべる事が出来る表情。メリーが今まで感じていた距離感だとか、壁だとか。そういったものが、本当の意味で初めて取り除かれたような。そんな気がした。

 

「やっと笑ってくれたわね。心の底から」

「……え? あ……、そ、そうか?」

「なに? 自覚なかったの?」

 

 しどろもどろな進一を見て、蓮子は思わず吹き出してしまう。バツが悪そうな表情を浮かべる進一の様子など気にも留めていないようで、そのまま蓮子は明け透けに笑い続けた。入学式の時の仕返しのつもりだろうか。そんなに笑う事ないんじゃないかと、そう口にする進一に謝ってはいるものの、蓮子は抑える気配すら見せていない。

 

(進一君……)

 

 和気藹々とした二人の様子。それを目の当たりにして、メリーも思わず破顔する。

 自然と距離を置いていて、余所余所しい感じがして。以前の自分と似たような状況の進一の様子を見て、何とかしたいと思っていたけれども。これならきっと、大丈夫だ。確かに進一は自分の能力に不安を抱き、だからこそ無意識の内に壁を作っていたようだが。元々人の良い性格の青年である。一度心を開ければ、すぐに打ち解ける事だって出来るだろう。

 進一はもう、独りではないのだから。

 

「よーし! 進一君も笑顔を見せてくれた事だし、改めて!」

「ああ。秘封倶楽部には入らないぞ?」

「秘封……って、ちょっと!? ここは入ってくれる流れじゃないの!?」

「それとこれとは話が別だろう」

 

 何も言わずに。メリーは二人のやり取りを見守る。懲りずに勧誘を続けている蓮子の様子に呆れながらも、心を開いた進一の様子を嬉しく思って。

 

 

 でも。

 まだ、胸の中のつっかえが全て取り除かれた訳ではない。

 メリーにはまだ、気になる事が一つある。それは以前に彼がメリーの前で口にした言葉。

 満開の桜が一望できる、あのベンチでの出来事。それをメリーは思い出す。

 

『……好きじゃないんだ。桜』

 

 あの言葉の真意は、一体なんだったのだろうか。


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