妖怪の山の麓。『霧の湖』と呼ばれる湖の畔にその真っ赤な洋館は建てられているのだが、
だが、決して来訪者がゼロという訳ではない。紅魔館は見ての通りの豪邸で、貴重な物品──主に大図書館の魔導書など──も多く存在している。故に人気が少ないと言っても、不用心に門を解放している訳ではないのだ。来訪者だって、主であるレミリア・スカーレットに招かれた者しか基本的には入れない。
それ故の門番である。悪戯好きの妖精も含め、紅魔館に近づく者へと目を光らせるのが美鈴の仕事だ。例え人気が少ないと言っても、紅魔館への不法侵入を試みるような不届き者を逃すような事はしない。
そう。美鈴だって、やる時はやるのだ。
ただ、
「…………」
その証拠に、どうだ。今日の美鈴は、しっかりと目を覚ましている。紅魔館の門番として、正門の前で腕を組んで仁王立ちして。
見せつけてやるのだ。今日は主であるレミリア・スカーレットが、大切な客人を招く予定の日。彼女らを連れてくるらしい霧雨魔理沙は、美鈴は相変わらずシエスタと洒落込んでいるのだと思っているのだろうが、そうは問屋が卸さない。この機会に、そんなグータラなイメージを払拭して見せようじゃないか。
「……」
意気込みは万全だった。来るのならいつでも来いと、気合い十分な心持ちで美鈴は来訪者を待ち続けた。
五分。十分。十五分。
けれども。約束の時間から二十分ほど経った辺りで、美鈴は違和感を覚え始める事となる。
「……。こ、来ない……?」
そう。
待てど暮らせど、来訪者は一向に現れなかったのである。
美鈴は微かに焦燥する。ひょっとして日程を間違えた? いや、まさかそんな。だって、レミリアから直々に聞かされていたじゃないか。幾ら美鈴でも、主の言葉を聞き間違えるほどぼんやりとはしていない。
だとすると、急に予定が変わった? それ故に美鈴への伝達が遅れていると──。
「うんうん、きっとそうですよね。いやぁ、全く、仕方がないなぁ」
「あれ? 美鈴がちゃんと起きてる」
美鈴が一人納得していると、そんな声が背後から流れ込んできた。
まるで美鈴が仕事をサボっていた認識だったかのような言葉。振り向くと、そこにいたのは一人の少女だった。
体格は小柄。真っ赤で豪勢な衣服を身に纏っており、それだけで美鈴よりも位の高い人物である事が伺える。髪は煌びやかな金色で、それをサイドテールとして纏めていた。
そんな彼女は、西日を遮るように、これまた真っ赤な日傘を広げており。
「何だか気合い十分って感じだったけど、何かあったの? 珍しいね」
「め、珍しいって……。酷いですよ、フラン様。私はいつだって門番としての責務を全うしてますからね」
「えぇ……?」
この反応。完全に呆れられている。美鈴は内心しょげた。
フランドール・スカーレット。レミリア・スカーレットの妹にあたる人物で、吸血鬼と呼ばれる妖怪である。幼い容姿に反して有している力は絶大で、魔力の絶対量に関しては姉のそれを凌ぐ程であるらしい。
そんなフランは見上げる形で美鈴の様子を伺っている。主人の妹君を見下ろすのは不敬にあたると思うのだが、最近は視線を合わせようと屈むとなぜかムッとされる事が多い。
どうやらフランは、変に特別扱いされるの事があまりお気に召さないらしい。彼女も難しいお年頃なのかも知れない。
「あの、フラン様。私に何かご用でしょうか? 私、これからレミリア様のお客人をお出迎えするという、大切なお仕事が……」
「あー……。その様子だと、やっぱり気づいてなかったんだね」
「……へ?」
美鈴が自分の状況を説明すると、フランからそんな反応が返ってきた。
何だ。気づいていないとは、一体何の事を言っているのだろう。
「魔理沙達、もう来ちゃってるみたいだよ。多分、転移系の魔法かな。館のエントランスに直接飛んできたらしいね」
「……は、はい? 転移系って……?」
「だから、魔法だって。結構高度な魔法だって聞いた事があるけど、流石は魔理沙だよねー。しかもあれだけ大人数を連れて来るなんて」
「…………」
フランは呑気な様子だが、美鈴としてはあまり穏やかな心境ではない。転移系の魔法という事は、門を潜る必要もないのだと、そういう事だろうか。
しかもそんな魔法が行使された気配すら感じ取れなかった。確かに美鈴は魔法の専門家という訳ではないが──。
「あれ? おーい? 美鈴?」
「……っ」
「何だか凄くがっかりしてる……?」
美鈴だって落ち込む事くらいある。気合充分だったのに、転移魔法なんて使われたら流石にどうしようもないじゃないか。
「そこまで落ち込む事もないんじゃない? 転移魔法なんて、そんなに気軽に使えるものじゃないし。──と言うか、魔理沙の場合は招かれてたから良いけど、部外者がそんな手段で不法侵入を試みても、パチュリーかお姉様に感知されて途中で阻まれるのがオチじゃない?」
「それだとますます門番としての私の立場がないような……」
世知辛いものである。
「まぁそんな事だろうと思って、だから私が伝えに来たんだよ。魔理沙達が到着したってね」
「そ、それは……。態々ありがとうございます……」
フランの優しさが胸に染みる。気合を充分に入れた時に限ってこの仕打ちとは、運が悪いというべきか、日頃の行いのツケが回ってきたとでも言うべきか。
──まぁ、今更過ぎた事を悔やんでも仕方がない。今回の場合は不法侵入という訳ではないのだし、これ以上美鈴が出来る事もないだろう。後は予定通り、レミリアに任せるしかない。
「……そういえば、お客人のお相手はレミリア様だけがしているんですか? お一人で……?」
「うん。今はそうみたい。魔理沙達が来るちょっと前に、私にも部屋に入るなって釘を刺してきたくらいだし」
そう口にするフランは、少し難しそうな表情を浮かべつつも嘆息を一つ挟んで。
「だけど心配だよ。お姉様の事だから、どうせ余計な事を口走って引っ掻き回そうだし。穏便に済めば良いけど……」
「それは……。まぁ、確かに……」
フランの懸念はもっともだった。美鈴にも心当たりはある。
レミリアは何と言うか、人を食ったような言動を常にする傾向がある。小馬鹿にしているというか、皮肉っぽいというか。他人を見下すようなあの態度では、大半の場合は余計なトラブルを引き起こしてしまうものだが──。
「はぁ……。カッコいいと思ってるんだか何だか知らないけど、普通に恥ずかしいだけだからね、あれ……。いい加減、止めて欲しい……」
「あ、あはは……」
姉に対して辛口な評価を下すフラン。最近の彼女は反抗期気味である。
「それじゃ、私はそろそろ戻るよ。お姉様には来るなって言われてるけど、やっぱり心配だし……。こっそり様子を伺おうかな」
「……大丈夫ですか? レミリア様の言いつけを無視する事になりますけど……」
「大丈夫大丈夫。元々お姉様の言う事なんて聞くつもりないし」
「そ、そうですか……」
最早姉に対する尊厳など、今のフランには皆無であるらしい。
──まぁ、社交性という面では今やフランの方がしっかりしているし、あまり心配なんていらないのかも知れないが。
「美鈴はどうする? 一緒に行く?」
「いえ、私は遠慮しておきます。そもそも門番としてのお仕事は終わってませんからね。お客人を迎える必要がなくなってしまった以上、私は本来のお仕事に戻りますよ」
「ふーん……。そっか。美鈴ってそういう所は普通に真面目だよね。すぐにお昼寝しちゃうけど」
「うぐっ……。そ、それは言わない約束ですよフラン様」
痛い所をついてくる。
断っておくが、別に美鈴は仕事に対して不誠実という訳ではない。ただ、少しばかり睡眠に対する欲求が強すぎるだけだ。──そう。ほんの少しばかりである。常日頃から居眠りをし続けている訳ではない。
(……多分)
そこまで考えておいて自分でも断言できない辺り、根拠の薄い自信かも知れないが。
「まぁ、お仕事なら仕方ないよね。頑張ってね、美鈴」
「はい。フラン様も、あまり無茶な事はしないで下さいよ?」
「お姉様じゃあるまいし、そんな変な事なんてしないよ。じゃーね」
ひらひらと手を振りつつも、身を翻して去ってゆくフラン。広げた赤い日傘が、西日に照らされて更に真っ赤に輝いているように見えた。
そんなフランの後ろ姿を、美鈴は静かに見守る。既に魔理沙がお客人を連れて来ているらしい、真っ赤な紅魔館の本館を視界に入れながら。
「…………」
紅美鈴は、思案する。
(レミリア様……)
彼女が掴み取ろうとしている運命。その一端を、思い浮かべて。
(大丈夫。レミリア様なら、きっと……)
ほのかな不安は嫌でも湧き出てくる。
それでも彼女──レミリア・スカーレットに対する忠誠心と深い信頼が、そんな美鈴の不安を払拭してくれているような気がした。
*
レミリア・スカーレットと名乗る少女にメリーが案内されたのは、これまた豪勢な一室だった。
エントランスと同様に、窓のない薄暗い室内である。やはり至る所に赤が装飾されており、ずっと眺めていると胸焼けをしてしまいそうだ。──レミリアと名乗ったあの少女は、相当に赤色が好きなのだろうか。確か、夢美も赤系の色を好んでいたと思うが、ひょっとしたらそれ以上かも知れない。
そんなやたらと広々とした部屋の真ん中には、これまた大きな横長のテーブルが置かれている。それを取り囲むようにして、幾つもの椅子が並べられており。
「さて、ここだな。遠慮せずに、好きな場所へと座るが良い」
そう口にしつつも、レミリアは誕生席にあたる場所へと腰掛ける。
「悪いがこちらも少々厳しい状況でね。紅茶くらいしか饗す物がなくて悪いが、今日はそれで許して欲しい」
「い、いえ……。お構いなく……」
そう言いつつも、メリーは遠慮がちに席へと腰掛ける。その隣に蓮子が座った。
メリーの向かい側に座ったのが妖夢。その隣──蓮子の向かい側が魔理沙である。全員が席についたタイミングで、背中に羽を生やした小柄なメイド(?)が、テーブルの上のカップに紅茶を注いでくれて。
「へぇ……。今回はちゃんと仕事してるのね」
不意に、ボソリと。仕事を終えて退出していく小柄なメイドを眺めながらも、蓮子がそんな事を口にしていて。
(今回……?)
言い回しが気になって、メリーは思わず尋ねた。
「待って蓮子、今回──ってどういう事? 前にも見た事があるような言い回しだけど……?」
「え? あ、あれ……?」
指摘すると、蓮子は途端に首を傾げて。
「ど、どうしてだろう……? 何だか、前にも似たような子を見た事があるような、そんな気がして……」
「似たような子って……」
メイドならテレビ等でも見る事が出来るが、おそらく蓮子の既視感はそれではない。彼女の印象に残っていたのは、メイド服ではなく少女に生えていたあの羽の方だろう。
コスプレ──ではない。本物だ。あんな羽が生えた少女なんて、まるで妖精──。
「クク……。見覚えがあるのか」
そんな蓮子の様子を見たレミリアが、どこかおかしそうに笑う。
「やはりお前は面白い。本来ならば私達の計画とは無関係だったはずだが、いつの間にか自ら運命を巻き取っているかのようだ。──いや、無関係な人間だからこそ持つ可能性、という事か。いずれにせよ、このイレギュラーは悪くない」
「何を訳の分からない事を……」
「ふっ……。なに、気にしなくても良い。お前の感じた既視感は確かに間違ってはいないだろうが、それはこの場では大して重要な要素ではない」
蓮子は困惑した様子だが、それでも構わずレミリアは続けた。
「──
「夢……?」
そう言われて、メリーの脳裏にも
何だろう、この感じ。それこそ既視感と言うか、何と言うか。
覚えがある。
自分は、会った事があるのか? レミリア・スカーレットという、この少女に──。
「はぁ……。なぁおい、レミリア。いい加減、話を進めてくれないか?」
そんな中、痺れを切らした様子で魔理沙が口を挟んできた。
「お前の話、回りくどくて長いんだよ」
「回りくどい、だと? ククッ……。お前はせっかちな魔女だな、魔理沙。まぁ、人間を捨てて百年も満たない段階では、それも致し方ない事か」
「何でいちいち人を小馬鹿にしたような態度を取るかね……」
呆れ気味に嘆息する魔理沙だが、当のレミリアはまるで意に介さない様子。豪胆と言うか、何と言うか。
「だが、そうだな。余計な雑談は控える事にしよう。現状と、今後の計画の全貌──。それをここで伝えるには、余計な情報は混じらない方がスムーズだろうからな」
魔理沙の意見を受け入れた様子で、レミリアはそう口にする。そうして彼女は、メリーと蓮子に改めて向き直ると。
「まずは、ここ──幻想郷の現状から説明しようじゃないか。お前達も気になっている事だろう?」
まるで、全てを見通しているような。そんな鋭い眼光をメリー達に向けて、レミリアは言った。
「お前達は外の世界の住民でありながら、『死霊』と一度接触しているのだから」
「…………っ!」
メリーは思わず息を飲む。『死霊』という単語を耳にした途端、彼女の中に緊張が駆け抜けた。
そう。気になっていた。
あれは、一体何なのか。どうして急に現れたのか。どうして、進一の命を──。
「火焔猫燐から多少の説明は受けているだろうから、基本的な説明は省こう。──語弊を恐れずに、『死霊』という存在を一言で言い表すとすれば」
そこでレミリアは椅子に深く座り直し、続けた。
「西行寺幽々子の眷属だ」
「西行、寺……?」
西行寺幽々子。その名前を聞いたメリーの心に真っ先に生まれた感情は、疑念だった。
聞いた事がある。あれは、そう。妖夢の口から語られたのだ。──彼女は、冥界に存在する白玉楼と呼ばれる屋敷で主に仕えていた。その主の名前こそが。
「ま、待って下さい……! 西行寺幽々子って、確か妖夢ちゃんの……?」
そこまで口にしたメリーが妖夢を一瞥すると、彼女はどこか苦しげな表情を浮かべていた。
言葉が紡げない、と言った様子。けれどもそんな彼女の沈黙が、メリーの考える予想の裏付けになっている。と言う事は、やはり──。
「そう。そこの半人半霊の主にあたる人物だ。そして幻想郷を侵食する大異変の首謀者でもある」
「そ、それって……」
何なんだ、それは。一体どういう事だ。
妖夢から聞いた西行寺幽々子という少女の人物像は、マイペースだが優しい人物という印象だった。妖夢が全幅の信頼を寄せ、深い尊敬の念を抱いて。彼女が全てを賭してでも仕えたいと思えるような、そんな人格者だったはずなのに。
それなのに、あんな。
『死霊』などという眷属を従えて、死を振りまくなど──。
「順を追って説明しよう」
言葉を失ったメリーを見て、そう口にしつつもレミリアは続ける。
「西行寺幽々子は冥界の管理者だった。──彼岸にて閻魔の判決を受けた魂を、転生か成仏を迎えるまで受け入れる安息の地。そんな世界の管理者たる彼女は、少なくとも千年以上もの間はその役割を穏やかに全うしていたらしい」
淡々と語られる西行寺幽々子の情報。そこまでは、妖夢から聞いていた印象と大差なかったが。
「だが、今から八十年ほど前に状況が変化した。──当時の幻想郷は、とある『異変』の真っ最中だった。その折、『異変』の黒幕たる一人の女の暗躍により、西行寺幽々子はある選択を余儀なくされる」
「選択……?」
「そう、選択だ。まぁ、よくある自己犠牲というヤツだよ」
自己犠牲。あまり穏やかではない響き。
きっと良くない事が起きたのだという想像は難くない。黒幕の女とやらが引き起こした『異変』を収束させる為に、自らの身を犠牲にせざるを得なかったという事だろうか。
「結果として黒幕の計画は頓挫する事となったが、重要なのはここからだ。──西行寺幽々子の選択は確かに自己犠牲と呼ばれるものではあったが、それと同時に、自らを締め付けていた軛からの解放を意味していた」
レミリアは語る。
それは、災厄の序章。狂い果てた運命へと繋がる、最初の一歩。
「自らを犠牲にして西行寺幽々子が解き放ったのは、冥界──いや、より正確に言えば、そこに存在する『西行妖』という妖怪桜に施されていた封印だった。それに内包されていた絶大な呪力が氾濫し、その結果」
そこでレミリアは、一呼吸置いて。
「西行寺幽々子は、
「えっ──?」
次々とレミリアから提示される真実は、メリーの混乱を助長するのに充分な情報だった。
訳が分からない。西行寺幽々子の自己犠牲の結果に齎されるのが、西行寺幽々子の復活? 一体何を言っている?
だが、なぜだろう。
全くもって理解出来ないはずなのに、自分の中の
(後悔、している……?)
奇妙な感覚。それに囚われるメリーの前で、レミリアは説明を続ける。
「西行寺幽々子が見せていた冥界の管理者という
「宣戦、布告……」
噛み砕くようにレミリアの言葉をオウム返ししたのは、蓮子だった。
ほんの少しだけ、考え込むような素振り。そしてまるで信じられないような表情を浮かべながらも、それでもおずおずと、蓮子はレミリアへと質問を投げかける。
「それって、つまり……。幽々子さんが、幽々子さんの意思で『異変』を引き起こしたという事……?」
それは、メリーの疑問もそっくりそのまま代弁しているような言葉だった。
「『死霊』を使って私達殺そうとしたのも、やっぱり……」
幽々子、という事なのだろうか。
いや、そんなのは愚問だ。レミリアの言葉が何よりも物語っているじゃないか。幽々子は本来の人格を取り戻し、そして宣戦布告をしたのだと。その結果生み出されたのが『死霊』だって事くらい、はっきりと説明されずとも充分に察する事ができる。
でも、だとすれば、つまり。
結果として、進一の生命を奪ったのは──。
「その通りだ人間。我々の敵は西行寺幽々子。奴をどうにかしなければ、この惨劇は終わらない」
きっぱりと、レミリアはそう口にする。
この場には妖夢だっているのに、よくもまぁ、そこまで無遠慮に口に出来るものだ。──だが、それがどうしようもない事実である事には変わりない。例えここでレミリアが気休めを口にした所で、この
進一の生命は『死霊』によって刈り取られた。
進一を殺したのは、他でもない。──西行寺幽々子だ。
「西行寺幽々子の目的は、この幻想郷に絶対的な“死”を蔓延させる事らしい。それ以上の事は知らん。そうする事で奴の理想とする楽園が完成するらしいが、この際そんな事は最早どうでもいい」
吐き捨てるような口調で、レミリアは続ける。
「私としても、これ以上西行寺幽々子に好き勝手されるのは気に食わない。死を幻想郷に蔓延させるなど、エレガントさの欠片もない下衆な行為だ。──故に、私はこの大異変を収束させる」
傲慢ながらも、確たる意思をその言葉に滲ませて。
「と、まぁ、お前をここに呼んだ理由は、
「…………っ」
理解したか、なんて聞かれても。
有り体に言えば、察する事は出来た。けれども納得なんて出来ない、というのが率直なメリーの感想だった。
レミリアの言っている事。それはつまり、首謀者である西行寺幽々子を止め、そしてこの大異変を収束させる為にメリーに協力しろという事に他ならない。メリーの自意識過剰でも何でもなく、レミリアの要求は最早疑う余地もない。
しかし、それが判った所で、はいそうですかと受け入れられるのかは別問題な訳で。
「……訳が、判りません。どうして、私なんですか……?」
そんな疑問を呈さずにはいられない。
「正直、私は幽々子さんの事をそう多く知っている訳ではありません。妖夢ちゃんから話を聞いた程度ですし……。そもそも、私は外の世界の人間です」
どうして自分なんだ。
確かに、少し特殊な『能力』を持っているのかも知れないけれど、それでも。
「私に、そんな大異変を解決する力なんて──」
──ある訳がない。
だが、メリーがそんな言葉を言い終わるよりも先に、レミリアの失笑がそれを遮る事となる。
「フッ……。クククク……」
「えっ……?」
くつくつと喉を鳴らして笑うレミリア。あまりにタイミングがおかしすぎて、メリーは困惑する事しか出来なかった。
何だ。自分は何かおかしな事でも言ったのだろうか。そう思って視線を泳がすと目に入るのは、相変わらず押し黙ってしまった妖夢の姿、レミリアに呆れた様子でジト目を向ける魔理沙の姿。そして。
「ちょっと……。何が、おかしいの……?」
メリーと同じく、困惑した様子の蓮子の姿だった。
蓮子にそう問われ、レミリアは軽く深呼吸する。呼吸を整え、笑いを抑えて。
「ククッ……。いや何、笑ってしまった事は謝ろう。ただ──」
そしてレミリアは、改めてメリーへと向き直ると。
「──お前の
「…………」
──何だって?
「……、え……?」
一瞬、メリーの頭の中が真っ白になる。
「お前を巻き込みたいのか、巻き込みたくないのか。全てを放棄したいのか、それとも諦めたくないのか。優柔不断で心配性が過ぎるその本質は、まさに噂通りとでも言うべきか」
「ま、待って……! 待って、下さい……!」
堪らずメリーは口を挟んだ。
「何を……。貴方は一体、何を言って……?」
混乱は一気に最高潮へと達していた。冷静な判断力なんて、あっという間に欠落していた。
分からない。あまりにも、訳が分からない。
何を言っている? 何を考えている? この少女は、一体──。
「なぜ私がお前の力を欲しているのか、だったな。──簡単な話だ」
そうしてレミリアによって提示された疑問の答えは。
「お前は鍵だからだ。この大異変を解決する為のな」
メリーの心を掻きむしるのに十分過ぎるくらいの内容で。
「故に、私はお前に期待しているのだ、人間。いや──」
メリーがこれまで見てきた世界が、変革するような。
そんな突拍子もない真実だった。
「八雲紫の忘れ形見、とでも呼ぼうか」
*
薄暗い部屋だった。
時刻は夕刻。一応、この部屋の窓は西寄りに配置されているが、今はカーテンを締め切っている所為で日の光は殆ど入って来ない。
部屋の明かりも点けていない。唯一の光源は、カーテンの隙間から漏れる夕日のみ。だが、そんな時間帯になりながらも、彼女はまるで動く気にもなれなかった。部屋の電気を点けようという気にも、なれなかった。
この一ヶ月間、彼女はずっとこんな感じだった。部屋に籠り、ベッドの上で丸くなったり、ぼんやりと虚空を見つめたり。ふわふわ、ふわふわと。ずっと夢を見続けているような感覚。実際自分は、眠り続けているのではないか。目を覚ませば、いつも通りの日常が帰って来るのではないかと。
──そんなのは所詮、現実逃避に過ぎない。幾ら必死に夢想した所で、目を覚ます事なんて出来やしないのだ。
だって、
岡崎夢美は、ただ現実を受け入れる事が出来ていないだけなのだから。
「…………」
ベッドの上で蹲る。体育座りのような格好で、顔を突っ伏す。
もう、何も考えられない。何の行動も起こす気になれない。大学にだって行っていない。既に、学生達への講義も始まっている時期だというのに──。
だって、目的を失ってしまった。意義を見失ってしまった。
一か月前のあの日。最愛の弟を失ってから、夢美は。
(どうでも良い……)
そう。
もう、何もかもがどうでも良い。
(私、何の為に生きてるんだろ……)
そんな事を考えてしまう程度には、岡崎夢美は焦燥していた。
(あの子がいなくなった世界なんて、もう……)
価値なんてない。こんな世界も、そして岡崎夢美という存在にも。
意味なんてない。これ以上、惰性で生きる事になんて──。
「…………?」
蹲っていると、気づいた。
何か聞こえる。音源は部屋の扉。こんこん、こんこんと。木製の扉が叩かれるような音。
誰かが夢美の部屋の扉をノックしている。誰が──なんて、考えるまでもない。今この家の中にいるのは、夢美の他にもう一人しかいないのだから。
「──夢美。夢美、聞こえているか?」
「…………」
落ち着いた印象の渋めの声。男性の声だ。
夢美にとっても聞き馴染みのある。仕事の都合で普段はあまり会う事はなかったはずだが、それでもこの印象はそうそう忘れるものではない。それはどこか、ほのかな安心感さえも覚えてしまうほど。
当たり前だろう。だって、
「おーい、夢美。そこにいるのは分かってるんだぞ。聞こえてるのなら返事をしてくれ」
「……何? ──お父さん」
「お?」
顔だけを上げてそう返事をすると、扉の向こうの声の主が安心したような反応を見せた。
「何だ、やっぱり聞こえてるじゃないか。全然返事をしてくれないもんだから、父さん少し心配しちゃったぞ」
「…………」
夢美の父親──岡崎悠次の口調は冗談めかしたものだったが、その実、声色からは確かな心配が感じられた。
判っている。夢美の所為で、父親である悠次にも要らぬ心配をかけてしまっている事くらい。そんなの、自分自身でも痛いくらいに自覚している。
だけれども。それでも夢美は、動けない。
再び顔を突っ伏してしまって。
「……何? 一体、何の用なの……?」
「いや、そろそろ夕飯の時間だからな。腹減っただろ? 今日は部屋から出られるか?」
「お腹……。別に、減ってない。いらない……」
「おいおい、そんな寂しい事言うなよ。折角父さんが腕によりをかけて作ってるんだぞ。俺も料理なんて暫くしてなかったけど、案外いけるもんだな」
「……」
「いやぁ、いつもみたいに夢美が作ってくれないから、父さんどんどん料理が上手くなっちゃうなぁ」
「……っ。何なの……」
拒絶する夢美。それでも構わず干渉を試みる悠次。
いや、悠次の考えている事は、夢美にも何となく判る。判るのだけれども──。
「どうして、毎日のように構うのよ……」
それでも夢美は、自らの殻から抜け出す事が出来ない。
拒絶せずには、いられない──。
「大体お父さん、お仕事はどうしたのよ……? 大きなプロジェクトに携わってるって、そう言ってたじゃない……。それなのに……」
「アホか」
夢美の言葉は一蹴された。
「こんな状態の娘を置いて、家を開けられる訳ないだろ」
「…………っ」
何の躊躇いもなく、悠次はそう言い放った。
悠次の職場は主に海外だ。仕事で多忙な日々を送っており、家──というか、日本に帰ってくる事すらも稀である。精々、一年に一回か二回くらいだろうか。定期的に連絡は取っているものの、夢美は基本的に弟である進一と二人で暮らしていた。
そう。本来ならば悠次は、この時期にそう易々と帰って来られるような生活はしていないのである。今年だって年明けに一度帰って来たきりで、少なくともまた一年は海外で仕事になると思っていたのに。
「でも……。お父さん、そんな簡単にお休みなんて……」
「いや、そうでもないぞ? 何せ有給がたんまり溜まっていたんだからな。そろそろ消化しなきゃなと思っていた所だ」
「だけど、忙しそうだったし……。お仕事、回らなくなっちゃうんじゃ……」
「……そんなのお前が心配すんな。ちゃんと引き継ぎはしてある。他の連中に事情を話したら、快く送り出してくれたよ。──というか、今戻ったら、娘さんはどうなったんだって逆に怒られちまいそうだ」
「……やっぱり、私の所為で……」
「私の所為って、お前……」
嘆息が聞こえる。夢美の言葉に半ば呆れたような、そんな印象。
けれどもすぐに、真剣な声色が扉の向こうから返ってきた。
「いいか、夢美。仕事と家族、どっちを優先すべきかなんて、そんなもんは比べるまでもないんだよ。確かに今は、ちょっとばかし忙しい職場環境にはあるが、そんなのは大した問題じゃない」
「…………」
「俺は家族を優先する。仕事なんかよりも、そっちの方がよっぽど大切だ」
強い。例え梃子でも動かぬような、そんな強固な意志が悠次の言葉から感じられた。
仕事と家族。どちらか一つを選ぶしかないのなら、迷わず家族を選択する。──そう、判っていた。自分の父親がそういう人だって事くらい、夢美は理解していた。
そもそも悠次がここまで熱心に仕事に取り組んでいた理由は、夢美や進一──家族の為に他ならない。夢美達に苦労はかけまいと、少しの不安も抱かぬ程に楽をさせようと。そんな思いの元に彼は必死になっていた。
──本人に確認しても、軽くあしらわれるのだろうけれど。
だけど、夢美は知っている。悠次がどれほどまでの愛情を、自分達に注いでくれていたのか。母親を亡くした自分達を、どれほどまでに気にかけてくれていたのか。そんなのは最早、確認するまでもなかったはずなのに。
「……っ。ごめんなさい、お父さん……」
「……何で謝る?」
聞き返される。
けれども夢美は、慎重に言葉を選びつつも、それに答えた。
「お父さんだって、本当は辛いはずなのに……。それなのに、私ばっかり、こんな……」
「…………」
今度は悠次の方が言葉を詰まらせる番だった。
震える声で夢美が発した言葉。自分では慎重に言葉を選んだつもりだったけれど、それが今の夢美が父親に抱く気持ちの全てだった。
そう。ただ、申し訳ない。罪悪感が、溢れて溢れて止まらない。
進一が死んで辛いのは、決して自分だけじゃない。それなのに夢美は、こうして自分の殻に籠ってしまって。──沢山の人にも、迷惑をかけて。
自分の、父親にだって──。
「……なぁ、夢美」
暫くすると、悠次の方から再び声をかけてきた。
先ほどまでと比べると、優し気な雰囲気が最も強い声色。どこか夢美に寄り添うような、そんな印象の声調。
「お前には、昔から苦労をかけてたよな。──
そこで悠次は、「だけどな、夢美」と言葉を繋げる。
「お前が進一の母親代わりになろうとも、俺からしてみりゃお前だって俺の子供である事には変わりない。お前達の父親は、いつだって俺一人なんだ。──だから俺には、そんなお前達を護る義務があると思ってる」
そんな悠次の言葉にはどこか、後悔の念が滲んでいるようにも思えた。
夢美達の父親は自分一人。だからそんな自分には、夢美達を護る義務があるのだと。それは気休めでも出任せでも決してない。悠次が心の底から抱く、確たる決意の結晶なのだろう。
故にこそ、彼はきっと後悔している。護る事が義務であるはずなのに、護れなかったから。
「……希の事も、進一の事も、俺は助けられなかった。そんな俺じゃ、夫としても、父親としても落第なのかも知れない。──だけど」
それでも、悠次は。
「それでも俺は、投げ出さない。諦めない。──失敗続きの俺だったけど、だからこそ俺はこれ以上の後悔なんてしたくない。俺の残りの全てを賭けてでも、お前を是が非でも護り抜いてやる」
「お父さん……」
「まぁ、あれだ。男ってのは、どうにも格好つけたくなる生き物なんだよ。だから娘の前でくらい、良い格好させてくれないか? ──お前達のカッコいい父さんを、俺にやらせてくれないか?」
「……」
まったく。本当に、何なのだろう。──彼も、そして夢美自身も。
悠次の言葉はどこか自分本位だ。自分が格好をつけたいから、だから夢美に頼みこんでいるような。内容だけを読み取れば、そんな印象。
だけどその実、彼の抱く想いはまさに正反対なのだろう。自分本位ではなく、他人本位。──いや、血の繋がった夢美の事を想っているという意味では、
悠次の言葉は、全て夢美の為に向けられた言葉だ。夢美が余計な気苦労を背負わぬよう、夢美が後ろめたい気持ちを抱かぬよう、彼は敢えてそんな表現をしている。自分の事を助けると思って、力を貸して欲しいのだと。まるで夢美に頼み込むかのように。
でも、判っている。夢美には判ってしまう。彼の真意なんて、簡単に。
だって、
(それなら、私は……)
そう思うと、夢美の身体は自然と動いていた。
進一が死んで一ヵ月。悠次だって、心の傷が完全に癒えたはずもない。だけれども、それでも強くあろうとする父親の姿に、夢美の心は突き動かされて。
部屋の扉を、開けた。
「よう」
そこにいたのは、まるでこうなる事を信じて疑わなかったように佇む、一人の父親の姿だった。
「やっと、部屋から出て来てくれたな」
「……お父、さん」
彼の姿を認めた途端、夢美の心は大きく震える。
「わたし、私は……。死んじゃったお母さんの代わりになるくらい、進一のお姉ちゃんをやらなきゃならないと思ってて……。でも、結局、最後の最後に何も出来なくて……」
溢れる。震えた声から、感情が。
「お母さんの代わりに、私が進一を護らないといけなかったのに……。だけど、だけどッ……」
「……ああ」
「護れなく、て……。助けられなくて……!」
「……お前は、充分過ぎるくらいに頑張ってくれたよ」
ぽんっと、夢美の頭に悠次の手が乗せられる。
「お前は充分、進一のお姉ちゃんをやってくれたよ」
「で、でも……。でもっ……!」
「いいや、充分だ。俺が言うんだから間違いない。……だから、それ以上自分を責めるな」
優し気な父親の言葉が、夢美の胸中に染みわたる。
「一人で抱え込む必要なんてない。もっと父さんを頼ってくれ」
「…………っ」
「子供に頼られて、嬉しくない父親なんていないんだからな」
ニッと、人懐っこいような笑顔の表情を、悠次は夢美に向けていた。
──参ったな。本当に、参った。こんな状態でそんな事を言われてしまったら、耐えられる訳がないなじゃないか。夢美だって、もう子供じゃない。子供なんかじゃ、なかったはずなのに。
「う……う、うぅ……」
涙が零れる。決壊する。一度そうなってしまったら、もう、溢れて溢れて止まらない。
恥ずかしい。父親の前で、こんな。
「わたし……。こんな、つもりじゃ、なかったのに……」
「こんなつもりって、どんなつもりだよ?」
「だって、泣いちゃうなんて……。もう、子供じゃない……」
「バカだな。さっきも言っただろ? 俺からしてみりゃ、お前も子供なんだって」
「そういう、意味じゃ……」
嗚咽交じりに言葉を紡ぐが、それ以上はもう限界だった。
膨れ上がる感情を抑える事が出来ない。一ヵ月前のあの日、散々泣いて、爆発させて。涙も感情も、とうに枯れ果ててしまったと思っていたのに。
自分でも自分の感情が良く判らない。ただ、どうしようもないくらいに膨れ上がっている事だけは判る。激情が身体中を駆け抜けて、涙ばかりが勝手に溢れ出て止まらなくて。
でも。
「……泣いて良いんだ、夢美。我慢なんて、しなくても良い」
悠次の言葉で包み込まれるこの感情は、決してネガティブなものばかりではなかったから。
「すっきりしたら、一緒に夕飯にしようか」
夢美は素直に、その感情を曝け出す。
「……、うんっ……」
立ち止まってばかりだった。これ以上は立ち上がれないのだと、そう完全に諦めてしまっていた。
自分は進一を助けられなかった。護り切る事が出来なかった。だからもう、そんな自分に価値なんてないのだと。夢美はそう思い込んでいた。
でも。だけど。
夢美はまだ、生きている。こうして支えてくれる人だっている。全てを諦め、そして全てを放棄してしまったこんな自分でさえも。
だったら。それなら、夢美は。
まだ──。