桜花妖々録   作:秋風とも

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第119話「パラダイス・ロスト#4」

 

 あれから。

 何度目かの夜が明け、そして朝になった。

 

 最悪な目覚めだった。未だ悪夢の中にいるのではないかと、そう思ってしまうような心地。──いや、寧ろこれが夢ならどんなに良かった事か。

 目が覚めて、外に出ればいつもと同じ日々が始まる。いつも通りに大学に行って、いつも通りに講義を受けて。そして、いつも通りに秘封倶楽部の活動を始める。──少し前まで当たり前だったそんな日常は、今や過去のものとなってしまっている。夢物語となってしまっているのだ。

 

 そう。あの日。

 マエリベリー・ハーンの取り巻く日常は、変わってしまった。

 

「…………」

 

 メリーはベッドから上体を起こす。いつもの癖で無意識のうちにカーテンを退かし、そして窓を開けた。

 朝特有のひんやりとした空気が流れこんでくる。視線を落とすと、疎らだが人の往来も確認できた。

 

 この街は。京都は既に、ゴーストタウンからいつもの姿を取り戻している。メリー達が夢美達と合流した直後、程なくして人が戻ってきたのだ。──青娥が結界の維持を完全に停止させた、という事だろう。突然人の気配が街中に溢れてきて、酷く驚いた事を覚えている。

 

 けれども。京都の街が普段通りの姿を取り戻し始めても、変化したまま戻らなくなってしまったものもある。その一つが岡崎進一だった。

 あの時の感覚は。絶望は、一生忘れられる事はない。

 黒猫に導かれた先。ようやく辿り着いたその場所で、彼は事切れていた。──泣きじゃくる夢美と、魂が抜けてしまったようなちゆりに囲まれる形で。

 

 眠っているだけだと思った。ただ単に、意識を失っているだけだと。やがて目を覚ましてくれるのだと。そんな逃避をせずにはいられなかった。

 だけど駄目だった。メリーが幾ら逃避した所で、現実はまるで変わらない。起きてしまった事象を覆す事なんて出来ない。辿り着いてしまった結末を拒否する事なんて出来ない。幾ら理想を思い浮かべても、今更意味なんて得られない。

 

 進一は死んだ。

 

 その事実は、最早──。

 

「……っ」

 

 きゅっと、心臓が締め付けられるような感覚を覚える。吐き気を催すくらいに身体が想起を拒否してしまい、メリーは反射的に利き手で口元を覆った。

 駄目だ。あれからずっと、こんな調子だ。

 正直、あの後どうやって自分の家に帰ってきたのか、記憶が曖昧になっている。確か、京都に人が戻ってきた辺りで、いつの間にか猫の姿は消えていて。道端で倒れ伏した進一や蹲った夢美達を見て、通行人の間でも騒ぎが起こった。

 当たり前だ。

 だって、人が死んでいるのだから。

 

 その後は、本当にバタバタとして。進一の死を、しっかりと受け止める事もままならぬまま。

 今日に、至っている──。

 

「起きなきゃ……」

 

 精神的苦痛から催す軽い嘔吐感。それを必死になって抑え込みつつも、メリーはベッドから降りる。

 

「大学、行かないと……」

 

 慢性的な寝不足と疲労感。殆ど働かない頭で無理矢理思考を動かして。

 メリーは仮初の日常を演じ続ける。

 

 

 *

 

 

 春の陽気が頬を撫でる。起きた時点ではちょっぴり肌寒かったのに、こうして少し時間が経てば気温は緩やかに上昇していく。

 寒すぎず、かと言って暑すぎもせず。過ごしやすい気候。

 大学の春休みが終わった頃、京都はすっかり春模様と言った様子だった。

 

 下宿先のアパートを出発し、メリーは普段通りの通学路を歩き出す。大通りまで出ると、都会特有の人混みが眼前に広がっていた。

 少し前にゴーストタウンと化していたのが嘘のようである。──これが本来の京都の姿。馴染み深い日常の光景であるはずなのに。

 何なのだろう、この違和感は。

 まるで、自分一人だけが別の世界に放り出されてしまったような。そんな感じ。

 

(違和感、なんて……)

 

 理由は明白。あまりにも非常識的な事に巻き込まれ過ぎて、現実と幻想の感覚が逆転してしまっているのだ。

 あの日。この世界に確かに存在している幻想を目の当たりにして、あろう事か自分達に牙を剥いて。故にこそ、幻想をある種の浪漫だと感じる事が出来なくなってしまった。

 

 幻想は夢物語などではない。不用意に手を伸ばせば、身を滅ぼす事となる。

 ──それを痛感した。

 

「幻想郷……」

 

 ぼそりと、メリーはその単語を呟く。

 こちらの世界に足を運んでいた幻想郷の住民達。あの騒動以降、その殆どがこちらの世界から姿を消している。古明地こいしも。大人の姿の魂魄妖夢も。そして、霍青娥も。

 唯一、こちらの世界に残った人物は。

 

「……メリー?」

 

 名前を呼ばれる。振り向くと、ゴスロリルックの少女の姿が目に入った。

 赤髪の三つ編み。その頭の上には、以前見せていた猫の耳は確認出来ない。こちらの世界で過ごす以上、完全な人間の姿に化ける必要があるのだろう。ゴーストタウンだったあのタイミングならともかく、この人混みの中であの姿では、妙な混乱を巻き起こしかねない。

 

「……お燐ちゃん。こんな所で会うなんて、奇遇ね」

「うん……。そうかもね」

 

 彼女──火焔猫燐は、どこか少しやつれ気味な様子でそう答えてきた。

 キョンシーも『死霊』もいなくなり、平穏な姿を取り戻しつつある京都。お燐本来の目的だった子供の妖夢も過去に帰還し、これ以上彼女がこちらの世界に留まる理由もないように思える。

 だが、事実としてお燐は未だ幻想郷へは帰っていない。──その理由は一つだ。

 

「ちゆりを送ってきたんだ。今日は、朝から大学に行くって言うから」

「えっ……ちゆりさん……!? 大丈夫なの……!?」

 

 思いがけぬお燐の言葉に、思わず声を上げてしまうメリー。しかし対するお燐の反応は、メリーと比べて少し鈍いものだった。

 

「大丈夫、なのかな……。塞ぎ込んでいるような様子ではないみたいだけど、でも……」

「……っ。そう……」

 

 あの日。黒猫に導かれた先でちゆりとも再会する事が出来たメリー達だったが、彼女の様子は胸が締め付けられる程に悲惨なものだった。

 大きな怪我をしている訳ではない。問題なのは精神だ。事切れた進一と泣きじゃくる夢美の前で、震え続けるちゆりは頻りに呟いていた。全部、私が悪いのだと。

 

 コミュニケーションもまともに取れるような状態ではなかったが、彼女があのような状態に陥ってしまった理由は想像に難くない。──進一は『死霊』からちゆりを庇って命を落とした。故にちゆりは、進一の死に強い責任を感じているのだろう。

 元々ちゆりには、色々と訊きたい事が沢山あった。だが、今はそうも言っていられない状況である。

 ()()()()()のちゆりを前にして、質問攻めになんて出来る訳がない。

 

 お燐がこちらの世界に残ったのは、そんなちゆりの事を気にかけての事だった。メリー達も知らない間に、彼女達は交流を深めていたようだったから。

 

「本当は、もう少し様子を見ておきたかったんだけど……。だけど、一人にさせて欲しいって、ちゆりの方から拒絶されちゃって……」

「お燐ちゃん……」

「だから、あたいはその帰り。……ちゆりの為にこっちの世界に残ったのに、本当、あたいって全然駄目だなぁ」

「そ、そんな事……」

 

 そんな事ない。ある訳がない。

 メリーがそう言葉を投げかける前に、お燐は踵を返した。

 

「さて、と。そろそろあたいは行くよ。部屋の片づけとかも残ってるし、メリーだってこれから大学でしょ?」

「えっ……? う、うん……」

「引き留めちゃってごめんね。それじゃ、またね」

「ええ……。また、ね……」

 

 流されるまま、お燐に言葉をかけるタイミングを失ってしまった。軽く別れの挨拶を交わした後に、お燐はメリーとは逆方向に去っていく。

 一目見ただけでも、彼女が無理をしている事が伝わってきた。無理をして気丈に振舞おうとするけれど、結局はその心労を隠しきれていないような。そんな印象。

 

 胸が苦しい。こんな姿のお燐を、目の当たりにする事になってしまうなんて。

 京都に『死霊』が現れたあの日から、お燐もまた変わってしまった。どこかずっと、負い目を感じているような。ずっと後悔をし続けているような。そんな印象ばかりが伝わってきてしまって。

 

「…………っ」

 

 胸の苦しさを紛らわすように、メリーは下唇を噛み締める。

 

(大学、行こう……)

 

 そしてメリーは思考を切り替える。

 

(遅刻しちゃ、大変だから……)

 

 ──否。

 思考する事から、逃避する。

 

 

 *

 

 

 大学に到着すると、満開の桜がメリーを迎えてくれた。

 時期は四月。季節は春。今はまさに、桜のシーズン真っ盛りだ。構内に植えられている桜の木は淡紅色の花を咲かせ、春色にその姿を彩らせている。本来ならばそんな桜の下でお花見をしても良い頃合なのだろうが、生憎、メリーはそんな気分にはなれない。──なれる訳がない。

 

(桜……)

 

 ふと、思い出す。

 もう一年近くも前の事になるのだろうか。この大学構内で交わした、彼との会話を。

 

『……好きじゃないんだ。桜』

 

 彼は、この壮観で幽雅な光景を前にして、そんな感想を零していた。

 

『どうして、桜が好きじゃないの?』

 

 そんな感想に疑問を呈すると、彼は答えてくれた。

 

『あまりにも脆すぎるからだ』

 

 どこか、物悲しそうに。

 

『あんな風に優雅な花を繚乱させる癖に、高々一、二週間でその花弁を散らしてしまう』

 

 感情を押し殺して。

 

『壮観な光景を保っていられるのは本当に一瞬だけで、それからはあまりにも簡単に、どうしようもないくらいにあっさりと、花を散らし尽くしてしまう』

 

 彼はそう、桜花に対して感情を抱く。

 

『まるで……散りゆく生命の様子を、見せつけられているみたいだ』

 

 今なら、そんな評価を下した彼の気持ちが判る気がする。

 生命とは儚いものだ。どんなに活力の溢れた人物でも、どんなに強い人間でも。生命を散らすその瞬間は、あまりにも須臾の時間である。あまりにも、脆い。あまりにも、呆気ない。人の生命など、精々その程度のものだ。

 そんな『生命』を、彼は誰よりも敏感に感じ取る事が出来た。生命が消えゆく瞬間を、誰よりも強く認識する事が出来たから。生と死に対して、誰よりも感受性が強かったのだろう。

 

 だから彼は、桜が苦手だった。

 生と死。そのどちらをも象徴している、淡紅色のあの花の事が。

 

「桜が好きじゃない、ね……」

 

 ポツリと、メリーは呟く。

 彼の事を思い出したからだろうか。繚乱する桜、普段だったら綺麗だという感想を真っ先に抱く事になるはずなのに。

 今は、そんな桜を楽しむ気分にはなれない。そんな気分になんて、なれる訳がない。

 

「…………」

 

 このまま思考を続ければ、どんどん泥沼に嵌っていくような気がする。

 そんな予感を覚えたメリーは、慌てて桜から視線を逸らす。そしてさっさと一限目の講義実に向かってしまおうと、歩みを再開しようとした時の事だった。

 

「あっ……」

 

 とある少女の後ろ姿が、メリーの目に入る。

 黒い中折れ帽に白い長袖のシャツ。そして黒いロングスカート。ダークブラウンのセミロングヘア。黒と白を基調としたツートンカラーのファッションは、メリーにとっても馴染みの深い彼女のセンスそのものだ。

 そんな姿を認識した途端、メリーは思わず動いていた。小走りで、彼女のもとへと近づいて。

 

「蓮子っ!」

 

 そして、声をかける。

 そうすると目の前の彼女は、立ち止まった。そしてどこか躊躇いがちに、おもむろに振り返って。

 

「あっ……。おはよう、メリー。偶然ね」

「え……? う、うん……」

 

 想像よりも控え目な反応。小走りで駆け寄ってきたメリーだったが、そんな足取りも自然と緩やかになってしまう。メリーを迎えた彼女が漂わせる雰囲気は、秘封倶楽部としてサークル活動をしていた時と比べると、大きく様変わりしてしまっていた。

 宇佐見蓮子。──メリーの親友にして、秘封俱楽部のリーダー。

 実のところ、あの日からメリーは、蓮子ともまともに会話をする事が出来ずにいた。これまでは大学の講義が終わった後だとか、休日だろうと彼女の方から連絡が来て、毎日のように結界を暴くサークル活動を続けていたというのに。

 

 最近は、どうだ。メリーのスマホに彼女からメッセージが届いたのは、もうどのくらい前になる?

 受講している講義が違うが故に、大学内で偶然出会う事だってそれほど可能性が高い訳でもない。その上、講義の後だって──。

 

「ね、ねぇ、蓮子。今日、秘封俱楽部は……」

「──ごめん。()()()、そんな気分じゃなくて……」

「……っ。そう……」

 

 メリーが言葉を告げ終える前に、蓮子は首を横に振ってしまう。メリーは言葉を飲み込むしかなかった。

 ()()()、などと蓮子は言っているが、実際は今日に限った話ではない。()()()だ。あの日からずっと、蓮子はこのような調子なのである。

 

 メリー達は。秘封倶楽部は、もうしばらくサークル活動を行っていない。実質的な休止状態軽──。いや、下手をすれば、もう再開する事すらもない可能性だってあるのではないかと。最近はメリーも、そう思うようになってしまっている。

 蓮子は決まってそう言うのだ。今日は、そんな気分にはなれないのだと。だから次の活動は、また今度にしようと。そうやって先延ばしをし続けている。

 

 どうして彼女が、このような状態に陥ってしまったのか。──その原因は、最早語るまでもない。

 あの出来事がメリー達に残した傷跡は、あまりにも大きく、深い──。

 

「蓮子、あの……」

 

 それでもメリーは、諦めきれない。

 一歩前に出て、改めて蓮子へと言葉を投げかける。

 

「別に、結界を暴く事だけが秘封倶楽部のサークル活動という訳じゃないんじゃないかしら? 私達は本来、オカルトサークルという体で秘封倶楽部を結成しているのだし……。ほら、普通に、そういった活動でも……」

「…………」

 

 上手く言葉が出てこない。メリーが無理をして喋っている事は、蓮子も何となく察しているのだろう。どこか遣る瀬無い表情を彼女は浮かべている。

 駄目だ。どうしてこんなにも、気の利いた言葉一つも出てこないのだろう。オカルトサークルの活動とは、普通はどんな事をするのだろうか。考えてみれば秘封倶楽部の活動が特殊過ぎて、その普通の活動とやらにメリーはピンと来てない。

 

 そう、所詮は口先だけの出任せに過ぎない。メリーの持っている浅知恵だけでは、今の蓮子の心を動かす事なんて──。

 

「ありがとう、メリー。だけど、ごめんなさい。やっぱり今は、そんな気分じゃないの」

「蓮子……」

「そんな顔しないでよ。ちょっと、疲れちゃって……。だから今は、充電しているだけで……。それだけだから……」

 

 思わず不安げな声を上げてしまうメリーに対し、蓮子はそんな言葉を口にする。

 彼女はまだ諦めていない。そう捉える事も出来る言葉だが、けれども。その声調は、あまりにも弱々しい。諦めていないのだと、そう自分に()()()()()()()()()()のような。そんな印象だった。

 

「あ、大変。もうこんな時間じゃない」

 

 不意に、蓮子がそんな事を口にする。

 スマホの時計を確認しつつも、慌てた様子を見せる彼女。──露骨な話題の転換。向き合う事を逃避しているのだと、メリーでなくとも判るくらいに。

 

「もうすぐ一限目の講義が始まっちゃうわ。結構キャンパスの奥にある講義室まで行かなきゃならないの」

「……そう。それは、急がないとね」

 

 白々しいが、メリーは彼女の調子に合わせる。──それ以外の選択肢なんて、今のメリーにはない。

 

「ごめん、メリー。私、もう行くわね。メリーも今日は一限目から講義でしょ? 遅刻しないようにね」

「……ええ。判ってるわよ」

「それじゃ、またね」

 

 手をパタパタと振りながらも、蓮子はメリーの前から去っていく。小走りで、慌てたように、どこかいたたまれない雰囲気を漂わせて。

 

「…………」

 

 そんな彼女の後ろ姿を、メリーはただ眺める事しか出来ない。

 

「……まったく」

 

 そして、呟く。

 

「時間なんて、いつも全然気にしていない癖に……」

 

 自然と、そんな言葉がメリーの口から零れ落ちていた。

 

 

 * 

 

 

 大学の講義もいまいち集中出来ずに終わった。

 静かな講堂で講師の説明だけが響く中、それを耳に傾けようとしても、どうしても思考は明後日の方を向いてしまう。講義の内容とは関係のない考え事。何かに集中しようとすればするほど、否が応でも思考はその方向へと流れてしまうのだ。

 幻想郷。そして、『死霊』。──あまりにも引き摺り過ぎである事は自覚している。だが、そうは言っても気持ちなんてそう簡単に切り替えられる訳がない。前を向こう、先に進もうと何度も何度も心に決めようとするのだけれども、それでも結局メリーは乗り越える事が出来ない。

 

 あまりにも深すぎる傷跡だ。

 受け入れるなんて、そう易々と出来るような事ではない。

 

「…………」

 

 講義が一通り終わってから、メリーは構内のとある研究室の前まで足を運んでいた。

 研究棟の五階部分に位置する研究室。既に何度も訪れた事のある研究室であるはずなのに、扉の前に立った途端、強い躊躇いを覚えてしまっている自分がいる。本当に、意味があるのかと。自分に一体何が出来るのかと。そんな疑問──いや、恐怖心が膨れ上がって仕方がないのだ。

 

 岡崎夢美の研究室。その前まで足を運んだ所までは良かったものの、メリーはその扉を開く事が出来ずにいた。

 

(ちゆりさん……)

 

 恐らく、部屋主である岡崎夢美は来ていない。──()()()以来、彼女はそもそも大学に足を運んでいないと聞いている。講義の方も休講となってしまっているようだった。

 それは、彼女の助手である北白河ちゆりも同じだったのだが──今朝お燐から聞いた言葉の通りならば、彼女だけはこの研究室に足を運んでいる事になる。

 

 夢美のいないこの研究室に、なぜ彼女だけが足を運んでいるのか。そもそも彼女は、これまでの一件を受け入れ、そして立ち上がる事が出来たのか。それを確認する為にも、一度ちゆりと話してみたいのだと。そう思って足を運んだはずなのに。

 だけど、やっぱり怖い。

 底の知れない恐怖心が、心の奥から溢れ出て来て仕方がない。

 

(ちゆりさんは、本当に……)

 

 あの日から、ちゆりとも、そして夢美ともまともに顔を合わせていない。それは何も彼女らが引き籠ってしまったのが原因というだけではない。メリー自身も、逃げていたからだ。

 彼女達と対面して、その状態を目の当たりにすれば。否が応でも、突き付けられてしまうような気がしたから。

 あまりにも大きすぎる、傷跡を。そしてその傷跡を感じ取ってしまうのが。

 メリーにとっても、怖い──。

 

「……ッ」

 

 結局。メリーは、ドアをノックする事すら出来なかった。

 

 逃げるように。──いや。比喩ではなく、メリーは逃げた。踵を返して、研究室を後にしてしまった。

 心なしか、早歩きで。誰かに追われている訳でもないはずなのに、それでもメリーの足取りは自然と早くなった。居ても立っても居られずに、逃げ出す事への後ろめたさよりも、重圧から逃れる事への欲求が勝ってしまったのだ。

 

 気がつくと、メリーは研究棟の外まで出て来ていた。

 大して激しく動き回った訳でもないのに、動悸は酷く荒かった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 胸の奥が苦しい。心臓がバクバクと脈動しているのを感じている。

 こんな調子じゃ、いけないのに。逃げてばかりでは何も変わらないのだと、それは判っているはずなのに。それでもメリーは、変われない。変わる事が出来ない。

 

「私は……」

 

 そう。

 

「私、だって……」

 

 立ち上がれないのも。前を向けないのも。蓮子や、夢美や、ちゆりだけじゃない。

 メリーだって、同じだ。

 認められない。受け入れられない。向き合う事が出来ない。目を合わせる事が出来ない。逃避する事しか、出来ない。

 確かに、京都は元の姿を取り戻したのかも知れない。霍青娥の結界は解除され、住民が戻ってきて、キョンシーも『死霊』もいなくなって。──あの一晩の事なんて、メリー達以外は誰も知らない。何も知らない京都の住民達は、普段通りの日常を普段通りに過ごしているようだけれど。

 

 メリーも、蓮子も、ちゆりも、夢美も。

 そんな日常から。現実から、取り残されてしまっている。自分達の心は、あの晩からずっと、幻想に囚われ続けている──。

 

「…………」

 

 ぎゅっと胸元を抑えて、メリーは強引に呼吸を整える。

 

「今日は、帰ろう……」

 

 俯いたままで、そう呟いた。

 勇気なんて振り絞れない。最早自分に出来る事なんてない。逃避する事への後ろめたさだけは相変わらず残っているが、そんななけなしの感情なんて行動を起こす原動力にはなり得ない。結局メリーは、目を背け続ける事を選択する。

 

 とぼとぼと歩き出す。桜の花弁が舞い散る大学のキャンパスを。一度たりとも振り返る事なく、出口へと向けて一直線に。

 これで良かったのだ。この選択は間違っていない。

 何度も。何度も。何度も何度も何度も、自分自身にそう言い聞かせ続けて。これからもずっと、メリーは逃げ続けるのだ。

 

 逃げて、逃げて、逃げ続けて。

 そうすれば、いつか、きっと。時間が、この気持ちを解決してくれる。──そんな根拠も何もない、仮初の希望を抱いて。

 マエリベリー・ハーンは、その運命に身を委ねる事を──。

 

「──よう」

 

 ──それは、大学の正門付近まで辿り着いた時の事だった。

 声をかけられたのは唐突。反射的に足を止めるが、それが自分に対してだと気づくのに一瞬だけ遅れた。

 

「……えっ?」

 

 視線を向ける。キャンパス内に設けられたベンチに、その声の主は座っていた。

 見知らぬ女性だった。まず目に入ったのは──黒。そして白。その二色を基調とした衣服を身に纏っている。服装のカラーリングは蓮子のそれと似通っているのかも知れないが、目の前の彼女の場合はかなり異質な印象だった。

 エプロンドレスのような形状の上着。ロングスカート。そして頭に被っているのは、つばの広い黒い三角帽子である。常識的に考えて、おおよそ普段使いの私服とは思えないその服装は、コスプレイヤーか何かかと説明された方がしっくりとくる。

 

 そんな見知らぬ女性が、メリーへと向けて手をひらひらと振っているのだ。一瞬メリーの勘違いかとも思ったが、そうではない。

 

「やっと出てきたな。ここで待ってれば会えるとは思ってたけど、思ったより遅かったじゃないか」

「えっ……、え……?」

 

 歩み寄りつつもそんな事を言ってくる女性。何が何だか訳が判らず、メリーは困惑した反応を示す事しか出来ない。

 

「寄り道でもしてたのか?」

「…………っ」

 

 何だ、この女性は。そもそも誰なのだ。

 記憶を探るが、覚えはない。全くの初対面。そもそもこんな格好の女性など、一度会えば強烈な印象として記憶に残るだろう。こんなにもナチュラルかつフランクに話しかけてくるのだから、てっきり知り合いの誰かかと思ったのだが。

 

「あの、どちら様ですか……? ひょっとして、誰かと勘違いしています?」

 

 最も高い可能性の問いを、メリーは投げかける。けれどもそんなメリーの予想とは裏腹に、彼女は首を横に振った。

 

「いや、勘違いなんてしてないぞ。私はお前に用があって来たんだ」

「でも……」

「マエリベリー・ハーン、だろ?」

「えっ……?」

 

 一瞬、息が詰まった。

 

「マエリベリー・ハーン。お前の名前だ」

 

 この瞬間、メリーの中の警戒レベルが一段階上がった。

 何だ。なぜ彼女は自分の名前を知っている? 見た事もない姿。聞いた事もない声。明らかに自分と彼女は初対面であるはずなのに、あちらの方は一方的にこちらの事を認知していて。

 

 ──そこまで考えて、思い至る。

 秘封倶楽部を結成してから本日に至るまで、不可思議な現象には散々遭遇してきた。そしてゴーストタウンと化した京都での一件を経て、メリーはそんな非常識により一層敏感になっている。

 

「貴方は……」

 

 この感覚。メリーの予感が正しければ。

 

「ひょっとして、幻想郷の……?」

 

 メリーの問いかけに対して、けれども女性は明確な答えを提示しない。代わりに彼女は踵を返して、ベンチの傍に植えられた桜の木々を眺め始めた。

 

「私はお前を迎えに来たんだ」

 

 そして一方的に、彼女は説明を始める。

 

「お前は鍵だ。切り札を切る為に必要な鍵。お前という存在が文字通り道を切り開き、そして運命を変える。このクソッタレな結末を塗り潰す事が出来るんだ」

 

 そして彼女は、ちらりとメリーを一瞥して。

 

「まぁ、これは()()()の受け売りなんだけどな」

「…………」

 

 意味が判らない、というのがメリーの率直な感想である。

 彼女の言っている事が欠片も理解出来ない。鍵? 切り札? 運命を変える? なんだ、それは。新興宗教の勧誘か何かか? はっきり言って、胡散臭いにも程がある。

 

「私と一緒に来てくれ、マエリベリー」

 

 彼女は再び振り返る。そして真っ直ぐにメリーの目を見て、言った。

 

「お前の力が必要なんだ」

 

 判った。はい、そうですか。

 ──なんて、無警戒にそんな彼女の言葉を受け入れるメリーではない。彼女の服装や漂わせる雰囲気から、きっと妖夢や青娥と同じ──幻想郷の住民なのではないかという予想はしているが、だからと言ってそれが安心材料になる訳でもない。

 

 幻想郷。今のメリーにとって、それは楽園と同義ではない。

 寧ろ、その逆だ。

 

「何なんですか、貴方は……」

 

 自然と、そんな言葉がメリーの口をつく。

 

「いきなりそんな、訳の分からない事を……。それで私が大人しく従うとでも……?」

「む? 何だ、信用出来ないか?」

「当たり前です」

 

 即答した。

 

「信用なんて、出来る訳がありません……」

 

 そうしっかりと口にすると、女性は少し困ったような表情を浮かべていた。どうやら、まさかここまできっぱりと拒絶されるとは思っていなかったらしい。

 

「何だよ、聞いてた話と違うじゃないか。いや、そもそもあいつの話を真に受けるべきじゃなかったか……?」

 

 ボソボソと何かを呟いている。聞いてた話と違うとか、真に受けるべきじゃなかったとか。そう言えば先程も受け売りがどうのと言っていたし、ひょっとして彼女も誰かから指示を受けて動いているのだろうか。

 

「困ったな。どうすれば私の言葉を信じてくれる?」

「どうすればって……」

「そうだな……。よし、こうしよう。明日、また同じ時間にこの場所まで来てくれ。お前が私の事を信用できないのは、とどのつまり私とお前が初対面だからだろ? だったらお前も信用できそうな奴を連れて来るからさ」

「そ、そんな勝手に……」

 

 グイグイと話を進める女性。いっそ清々しいくらいに一方的に過ぎて、メリーも上手く言葉を言い返す事が出来ない。

 本当に何なのだ、この人は。というかそもそも、メリーも信用できそうな奴とは、一体誰の事だ。誰かの知り合いか何かなのだろうか、彼女は。

 

「ったく。横着せずに、初めからそうすれば良かったんだよな。考えても見れば、当然か。いきなりこうして押しかけても、普通は訳が分からないよな」

「…………」

 

 そういった感性はあるのか。常識人なのか、そうじゃないのか、いまいちよく判らない。

 

「よしっ、決まりだな。とにもかくにも、さっき言った通りだ。明日またここに来てくれ。なに、怖がる必要はない。別に取って食ったりはしないからさ」

「え、えっと……」

 

 最早メリーが、明日彼女と再会するのは確定事項なのだろうか。この雰囲気では、メリーが幾ら言葉を並べようとも、彼女は考えを改めてくれそうにない。

 「それじゃ、また明日な」などと口にして、女性はその場から去っていく。メリーはそんな彼女に声をかける事も出来ず、その後ろ姿を見据える事しか出来なかった。

 

 まさか今ので約束を取り付けたつもりなのだろうか。極論、メリーの方からすっぽかしてしまうのも充分に可能だろうに。──というか、そうなる可能性の方が高い。メリーの警戒心は未だに強いままであるし、彼女の誘いにホイホイ乗ってやる理由もない。今の流れで、どうして信用など出来ようか。

 忘れてしまおう。そうだ、それが良い。別にそれで良いじゃないか。

 投げやり気味にメリーが心の中でそう決めつけた、次の瞬間の事だった。

 

「あ、そうだ」

 

 不意に、何かを思い出した様子で女性は立ち止まる。そして再び、メリーの方へと振り返ると。

 

「今のうちに、自己紹介だけしておこう。私はお前を知っているけど、お前は私を知らないだろうし。そんな奴との約束なんて、警戒心の方が強くなるよな」

 

 ちょうどメリーの心境を見透かしたような気遣い。意外な言葉を前にして、メリーは呆気にとられるしかない。

 そんなメリーの気持ちを知ってか知らずか、彼女はそのまま言葉を続ける。

 

 自己紹介。

 そう称して彼女が口にしたのは、あまりにも意外過ぎる人物の名前だった。

 

「──私の名前は、霧雨魔理沙」

 

 一瞬、メリーは息を呑んだ。

 

()()()()()()()()()()使()()、といった所だな」

(……っ、え──?)

 

 魔理沙。霧雨、魔理沙。

 聞いた事のある名前。そう思って記憶を探ると、思い出した。

 

『魔理沙は、魔法使いを目指している人間の女の子です』

 

 一ヵ月ほど前の東京旅行。蓮子の実家の倉庫にて、妖夢の口から聞かされた名前。

 ──八十年前に作成されたと思われる、ヒフウレポートと呼ばれるデータ。その中にも登場した、一人の少女の名前──。

 

「霧雨、魔理沙って……」

 

 まさか、本当に? 八十年前に存在したらしい人間の少女と、同じ名前? 目の前にいるこの女性は、どう高く見積もっても二十代半ば程度にしか見えないのに。同姓同名? いや、まさか──。

 困惑するメリー。混乱が最高潮に到達して、言葉を発するのも忘れてしまうような状況に陥っているのに。

 

 目の前にいるこの女性。霧雨魔理沙と名乗った彼女は、どこか無邪気な笑顔をメリーに向けていた。


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