桜花妖々録   作:秋風とも

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第118話「パラダイス・ロスト#3」

 

 マエリベリー・ハーンは失意の底に叩き落されていた。

 スマホの電波状況が直って、夢美と連絡を取ることが出来て。──進一が死んだなんて、青娥のデタラメかも知れない。そんな微かな希望は、その瞬間に無慈悲にも掻き消された。

 

 蓮子が落としたスマホのスピーカーから微かに聞こえてくるのは、慟哭。彼女が夢美とどんな会話を交わしたのかは判らないが、それでも蓮子の様子と、スマホから聞こえてくる慟哭から何となく状況を察してしまう。

 考えたくもなかった。それだけはあってはならないのだと、心の中で必死になって祈り続けていた。

 だけど、駄目だった。

 この状況で冗談なんて無意味な事は言わない。そう口にする青娥の言葉には、文字通り嘘や誤魔化しなんて何も──。

 

「…………ッ」

 

 激しい焦燥感を必死になって抑え込みつつも、メリーは蓮子の落としたスマホを拾い上げた。

 

「もしもし、夢美さん! 私です、メリーです! 返事をして下さい……!」

 

 精一杯に声を上げて、メリーはそう呼びかける。

 こうしてスマホで繋がった以上、まずは合流する事を考えるべきだ。今、夢美達がどこにいて、どんな状況に陥っているのか。その情報を聞き出さなければ、彼女達と再会する事は難しい。

 蓮子が意気阻喪してしまった今、それはメリーの役割だ。──決めたのだ。何があっても、蓮子の事を支え続けるのだと。だからこんな状況だからこそ、もっと、もっと自分がしっかりしなければ。

 

「夢美さん! 夢美さん……!」

 

 だが、幾ら呼びかけようとも夢美から返事はない。ただ、慟哭ばかりがスピーカーから聞こえてきて。

 

(スマホを手放している……? 私の声が届いていないの……!?)

 

 まずい状況だ。折角こうしてスマホで連絡を取れたというのに、これでは。

 

「め、メリー……!? ど、どうしたの、夢美は……!?」

「そ、それが、こちらの呼びかけが聞こえてないみたいで……」

 

 お燐にそう答えつつも、メリーは考える。

 このままこうして続けた所で状況は変わらない。何とか、もう一度夢美とコンタクトを取る方法はないか。こうして声をかけても届かないのなら、もっと別の方法で。

 と、そこで思いついた。

 

(そ、そうだわ……。一度通話を切って、それで……!)

 

 思い立ったメリーはすぐさま行動を開始する。

 スマホを操作し、一旦通話を打ち切る。そして直後にディスプレイに再表示された夢美の電話番号から、再度コールを投げかけた。

 あちらが通話をハンズフリーモードにでもしていない限り、スマホを手放されてしまった以上、こちらの呼びかけは殆ど届いていないだろう。ならばもう一度、着信のコール音を鳴らしてしまえば良い。これなら少なくとも、闇雲に声を荒げるよりも幾分か気づいてくれる可能性も高くなるはず。

 

 この方法に賭けるしかない。

 ほんの少しの静寂の後、正常に呼び出し音が鳴り始める。──通話は問題なく繋がった。後は、夢美が再び連絡に応じてくれるのを祈るばかりである。

 だが。

 そんなメリーの祈りも虚しく、スピーカーから伝わってくるのは何時まで経っても一方的な呼び出し音のみで。

 

(夢美さん……、そんな……!)

 

 駄目なのか。今の彼女は、まるで通話に応じられる状態ではないという事か。

 折角、夢美達と合流出来る手掛かりを見つける事が出来たと思ったのに。

 

「もう、駄目よ……。メリー……」

「蓮、子……?」

 

 焦るメリーの耳に、声が届く。

 酷く、怯え切ってしまった様子の蓮子。普段の彼女からは考えられないような状態に陥ってしまったその少女は、震えた声調で逃避の言葉を口にしていた。

 

「駄目、なの……。もう、何もかも遅すぎるのよ……」

「そ、そんな……。諦めちゃ駄目よ! そう、まだ……! 諦める、なんて……」

 

 鼓舞して士気を高めようとするが、そんなメリーの試みも失敗に終わる。諦めちゃ駄目だと口にした癖に、結局は尻すぼみになってしまう。心の底では、既に悟ってしまっているのだ。最早自分達では、どうする事も出来ないのだと。

 

 ああ、そうだ。

 進一は、死んだ。

 

 間に合わなかったのだ。自分達は、何もかも。

 

(わ、私……)

 

 無力だ。なんて無力なのだろう。

 蓮子が引っ張ってくれる。そんな状況に慣れ過ぎて、こうしていざ蓮子が折れてしまった時に、何もしてあげる事が出来ないなんて。

 進一が支えてくれる。そんな安心に慣れ過ぎて、こうして──。

 いざ、彼がいなくなった途端に、何も出来なくなってしまうなんて。

 

(私は……)

 

 こんな状況間違っている。納得なんて出来る訳がない。

 心の中ではそう思っていても、だからと言ってメリーに何が出来る訳でもない。こうしてなけなしの希望を手繰り寄せようとして、けれども結局失敗して。そうなってしまったら、もう八方塞がりだ。どうする事も出来ない。

 お終いだ。蓮子も言っていた通り、何もかも。

 

 そう。

 秘封俱楽部は、もう、これで──。

 

 

「──随分と困り切っているようだな、人間」

 

「……えっ──?」

 

 

 不意に、誰かにそう声をかけられた。

 思考の渦に飲み込まれていたメリーは、その瞬間に現実に引き戻される。弾かれるように顔を上げ、声が流れ込んできた方向へと視線を向けた。

 少女の声だったと思う。だが、聞き覚えのない声だった。少なくともメリー達の知り合いではない。警戒心を強めつつも、メリーは視線を凝らす。

 

「あれ……?」

 

 だが、そこには誰かの人影すらも見当たらない。確かに声が聞こえたと思ったのに、広がっているのは暗闇に沈んだ京都の街並みのみ。

 幻聴だったのだろうか。精神的にあまりにも追い込まれ過ぎて、そこに居ない見知らぬ少女の声を聞き取ってしまったという可能性が──。

 

「どこを見ている? 私はここだ」

「えっ、あ……」

 

 幻聴の可能性を考えた直後、再び声が聞こえてきた。──想像よりも、足元に近い位置から。視線を少し下に落とすと、ようやくメリーは()()()()を認識する事が出来た。

 人間、ではない。黒い毛並みに覆われた、四足歩行の小動物。──猫。黒い、猫だ。

 

(猫……?)

 

 いや、待て。あの呼び声は、この猫が発したという事になるのだろうか、まさかそんな、何かの聞き間違えではないだろうか。だって目の前にいる黒猫は、至ってなんの変哲もない、

 

「何を驚いた顔をしている? まさか今更、言葉を発する猫が珍しいとでも?」

「え、えぇ……!?」

 

 聞き間違えじゃなかった。流暢に喋り始める猫の姿を目の当たりにして、メリーは思わず間の抜けた声を上げてしまう。

 何だ。何なのだ、この猫は。いや、まだメリーだけが聞こえている幻聴である可能性も、

 

「ね、猫……。猫が、喋ってる……」

「…………っ」

 

 それも違った。メリーと同じように、隣で蓮子も驚きの表情を浮かべている。

 幻聴でも妄想でもない。まさか、本当に現実? いや、確かにこの黒猫の言う通り、『死霊』などという異形に遭遇しておいて、今更喋る猫など大した衝撃でもないかも知れないが。

 

「し、喋る猫……? あんた、まさか化け猫の類? いや、なんか少し違和感があるけど……」

 

 そんな黒猫に対して、困惑気味にそう切り出したのはお燐だ。

 そういえば、彼女も自らを妖怪だと称していたか。これまで普通に接し続けていた事もあり、思わず忘れそうになってしまうが。

 

「くくっ……。化け猫、か。残念だが不正解だ、火焔猫燐。まぁ、お前の感じた違和感は、恐らく間違ってはいないと思うが」

「あたいの事を知ってる……? あんた、誰なの? 化け猫じゃないって事は……」

()()は、殆ど普通の黒猫だ。私はそれを遠隔から使役しているに過ぎない。所謂使い魔というヤツ、と言えばイメージくらいは出来るだろう?」

 

 自らの身体を示しつつも黒猫はそう伝えてくるが、だからといってメリーの困惑は解消されない。

 

「使役? 使い魔……?」

 

 何だ、それは。既に非常識的な出来事には充分過ぎるほど遭遇しているが、この状況も中々どうして信じ難い光景である。

 要するに、この声の主は使い魔なる黒猫を使ってどこか遠くからメリー達にコンタクトを取っているという事だろう。実際は黒猫が人間の言葉を発している訳ではなく、スピーカーのような役割を果たしているという理解で問題ないと思う。

 しかし使い魔など、ゲームやアニメの中でしか聞かない単語である。比喩などではなく、実際に本来の意味で耳にする事になるとは。

 

「ふっ……。元来、魔女の使い魔と言えば黒猫だと相場が決まっているのだろう? そこまで驚く事でもあるまい」

「魔女……? と言う事は、貴方は魔女──」

「まぁ、私は魔女ではないが」

「──じゃ、ないんですね……」

 

 何なのだろう、この人(?)は。一体何が言いたいのだろうか。

 

「ふむ……。微妙な反応だな。折角この場を和ませる為に冗談を言ってやったのだから、もう少し笑って見せたらどうだ?」

「冗談って……」

 

 まさか今のでメリー達が笑うとでも思っていたのだろうか。どこか、決定的にズレているような感覚がある。やたらと尊大で上から目線の喋り方と言い、身分の高い人物だったりするのだろうか。単純に偉そうなだけ、という可能性もあるが。

 

「ああっ、もう! 御託は良いよ! あんた、何者なの!? 多分、幻想郷の住民だよね……!? あたい達に何の──!」

「耳障りな猫だな……。下品に喚くな、火焔猫燐。もう少し淑やかに出来ないのか? 淑女(レディ)としては程遠い」

「なっ……!? あんた、喧嘩売ってんの……!?」

 

 お燐は熱り立つ。まぁ、この状況であんな態度を取られては無理もない。

 だが、このままでは売り言葉に買い言葉だ。この黒猫も尊大な態度を改めるつもりもなさそうだし、そういう相手だと受け入れて話を進めるしかない。

 それに、メリー達に声をかけてきたのはあちらなのだ。要件もなく煽る為にコンタクトしてきた訳でもなかろう。

 

「あの、一先ず要件を聞かせて下さい。私達、あまり時間がないんです。会いに行かなきゃいけない人がいて……」

「くくくっ……。判っている。お前達の事情など、私は既に把握しているぞ。その為に姿を見せたのだからな」

「え……?」

 

 それは一体、どういう──。

 

「ついて来るが良い、人間どもと地底の妖怪」

 

 メリーが疑問を呈する前に、黒猫は踵を返す。

 

「会いたいのだろう? あの大学教授達に」

 

 

 *

 

 

 辛くも『死霊』を退けた妖夢達は、一先ず青娥が根城としているあの病院に戻ってきていた。

 道中、別個体の『死霊』とは一度も遭遇していない。それらしき気配もまるで感じられず、京都は実に静かな印象である。まさか本当に迷い込んだのはあの個体だけだったのか──等という希望も抱きかけたが、けれども妖夢はそんな考えを払拭する。

 安い希望だ。そんなものを信じた所為で、何度痛い目を見てきた事か。確証もなしに油断なんて出来る訳もない。常に最悪の状況を想定しなければ、簡単に足元を掬われてしまうのだから。

 

 そういう相手だ。()()()は──。

 

「青娥さん、いますか?」

 

 そう口にしつつも、妖夢は病院の扉を開け放つ。

 青娥はこの京都全土に結界を張り巡らせている。京都のどこでどんな事が起きているのか、それを最も詳しく把握しているのは間違いなく青娥だろう。故に彼女と再び接触すれば、闇雲に動き回るよりも確実に状況を把握できると考えた。

 

 病院内に足を踏み入れると、青娥は受付席にてなにやら考え込んでいるような様子だった。

 こちらの存在に気づいていない。歩み寄り、もう一度声をかけてみる事にする。

 

「……青娥さん?」

「……え?」

 

 そこでようやく、顔を上げた青娥と目が合って。

 

「おや? 今度は貴方達でしたか。入れ代わり立ち代わり、忙しいですね」

「……忙しい?」

 

 引っ掛かる言い回しだ。入れ代わり立ち代わりだとか、忙しいだとか。

 いや、まさか。

 

「お燐さん達ですか? お燐さん達が、ここに……?」

「ええ。もっとも、既に彼女達はここから去ってしまいましたが」

 

 妖夢の言葉に肯定の意を示しつつも、青娥はそんな言葉を続ける。一瞬、妖夢の背筋に悪寒が走った。

 嫌な予感がする。入れ違いになってしまったという事実もそうだが、一度はこの場に辿り着いたはずのお燐達が態々去って行ってしまう理由。推測だけでも、最悪な事態ばかりが脳裏に過ってしまう。

 何かあったのか。緊急を要するような、何かが──。

 

「えっと……。あなたが、霍青娥?」

 

 動揺する妖夢の横で、小首を傾げつつもお空が青娥へと声をかける。

 そう言えば、彼女は青娥とはこれが初対面なのか。比較的広い範囲を行動していたお燐とは異なり、お空の場合は基本的に主の傍にいたと聞く。彼女の友好範囲は意外と限定的である。

 

 そんなお空の事を、青娥はちらりと一瞥する。そして特に驚いた様子もなく、彼女は視線を戻すと。

 

「貴方は霊烏路空さんですね。お初にお目にかかります。まさか貴方までもがこちらの世界に足を踏み入れていたとは」

「…………っ」

 

 投げやり気味な様子の青娥。対するお空は、ちょっぴりムッとした表情を浮かべていた。

 彼女もまた、青娥に対してあまり良い印象を抱いていないという事なのだろう。その気持ちは無理もない。幻想郷の、今の状況を考えると。そして彼女がこちらの世界でこいしにした仕打ちを考えると、やはりどうしたって割り切れないに違いない。

 

「私、あなたの事はあんまりよく知らないけど……。でも、やっぱちょっとムカムカするよ。こいし様の事だって、利用して……」

「……そうですか。まぁ、そうでしょうね」

「どうしてなの? どうして、こんな……。あなたは一体、何がしたくて──」

「お空、もう良いよ」

 

 矢継ぎ早に疑問を呈するお空を制したのは、こいしだった。

 どうして止めるのだと、お空はそう言いた気な表情を浮かべるが、それを言葉にする前にこいしの視線に射抜かれる。

 お空の気持ちは嬉しい。だけど、そんな感情を青娥にぶつける事なんて、こいしは望んでいない。

 傍で見ている妖夢にさえも、そんな気持ちが伝わってくるのだ。お空にだって、彼女の気持ちはしっかりと届いたのだろう。それ以上お空は感情的になる事もなく、言葉を飲み込んだ。

 

「意外ですね。私の取った行動を客観的に分析すると、貴方はもっと感情的になるかと思っていましたが」

「確かに、お前には色々と言いたい事があるけど……。だけど、今はそんな事をしている場合じゃない」

 

 きっぱりと、こいしはそう言い放つ。

 

「私をダシにして、妖夢達を戦わせて……。それでお前の目的は達成出来たの? 子供の妖夢は過去に帰って、だけど今度は『死霊』が現れて。結局、事態は何も変わってないように思えるんだけど」

「…………っ」

 

 こいしのそんな問いかけに対し、青娥が返した反応は無言だった。──口篭っているようにも見える。

 

 幻想郷を救う事。それが自らの目的だと語った青娥は、八十年前の過去から連れ出した魂魄妖夢を鍛え上げ、そして彼女に『異変』を解決させようとした。こうして妖夢が過去に帰還した今、その目論見が達成しているのなら、既に未来は変わっていてもおかしくはないはずなのに。

 けれども、実際はどうだ。未だ『死霊』は健在し、こちらに牙を剥いてくる。絶望的なこの状況は、何一つとして変化していない。

 

(私は、やはり失敗したのか……。幽々子様を……)

 

 妖夢は歯噛みする。胸中にやるせなさが際限なく募っていく。

 だが、だからと言って過去の自分を今更責め立てるつもりはない。狂気の瞳を開眼させたあの子は、間違いなく今の自分以上の力を有していたはずだ。それでも至らなかったという事は、最早相手の次元があまりにも違いすぎたと言わざるを得ない。

 足りないのだ。魂魄妖夢の覚醒だけでは。

 この『異変』を、解決するには──。

 

「申し開きもありませんね。ええ、貴方の認識通りですよ、こいしさん。私は、失敗したのです。ここまで念入りに準備を重ねておいて、結局はこのザマ……。笑えますね」

 

 自嘲気味にそんな事を口にする青娥。これまで漂っていた胡散臭さは、今の彼女からは微塵も感じられない。諦め、無気力になってしまったかのような。そんな印象。

 妖夢はますます言葉を失った。まさかあの青娥が、こんな状態に陥る事になるなんて。本当に、失敗したのだと。打つ手もない、八方塞がりな状態なのだと。そんな事実を突きつけられてしまったような気がして。

 

「そう……。そう、だよね。そうだろうと、思ってた……」

 

 青娥の言葉を受け止めたこいしもまた、どこか動揺と焦りを滲ませた口調でそう口にする。

 ここまで散々に妖夢達を翻弄し続けてきたあの霍青娥が、今やこんな状態だ。その事実が、事態の深刻さをありありと物語っているように思える。本当に、どうする事もできないのだと。もう諦める他に道はないのだと。そんな事実を突き付けられているような気がして。

 

「こいし様……」

 

 深刻な雰囲気。それに呑まれたお空が、縋るような口調でこいしの名前を口にする。けれどこいし本人もまた、そんなお空をフォローする余裕も残されていないようだった。

 

 ──どうする? これから一体、どうすれば良い?

 この『異変』を解決する鍵を握っているのが、外の世界に潜伏している霍青娥。そんな情報を聞かされて、藁にも縋るでこいしに協力を求めて。彼女の力で結界を抜けて、こちらの世界に足を踏み入れて。そしてようやく、こうして青娥と直接会話する機会を得られたというのに。

 結局。結局、妖夢達は──。

 

(……いや、待て)

 

 ──しかし。

 そこで妖夢は、唐突に()()()に気づく。

 

(──()()()()()?)

 

 そもそも妖夢が幻想郷から外の世界に足を踏み入れようと思った理由。霍青娥が鍵。そして彼女は外の世界にいるのだと。だから妖夢は行動を起こした。

 ──誰に?

 一体どこで、誰からそんな情報を得たのか?

 

 記憶が曖昧になっている。過去の自分と交戦して、彼女の記憶が今の妖夢にも流れ込んできて。その所為で、気がつかぬうちに、自然と()()から意識を逸らしてしまったのだけれども。

 そもそも、根本的に、妖夢がこの行動に思い至った理由は──。

 

「……っ。まさか……!」

 

 そこで、妖夢は気がつく。──否、()()()()

 霍青娥や、『死霊』を操る()()()だけじゃない。妖夢達を取り巻く、“彼女”の思想を。

 

「いや、だとしたら……」

「妖夢……?」

 

 思わず口にしていた呟きは、近くにいたこいしの耳にも入っていた。様子のおかしな妖夢の姿を目の当たりにして、彼女は怪訝そうに首を傾げている。

 そんな彼女を一瞥しつつも、けれども妖夢は思考を止める事が出来ない。

 だって。だってもし、妖夢の感じたこの違和感と予想が当たっているのだとしたら。

 

 それは、つまり。

 希望は、まだ──。

 

「どうやら、貴方も何かに気づいたようですね、妖夢さん」

 

 ふと耳に届く。

 椅子の背もたれに体重を任せた霍青娥。相も変わらず無気力ながらも、それでも彼女は言葉を紡ぐ。

 

「私の目論見は失敗し、過去も未来も結果は変わらず、そして『死霊』がこちらの世界にも現れた。その時点で私は既に諦観していたのですが……。けれど、そこから更に想定外の事態が起きました」

「想定外……?」

 

 頷き、そして青娥が続ける。

 

「こちらの世界に迷い込んだ『死霊』は二体。けれども今この時点で、その二体はどちらも既に消滅している」

「……! 二体とも、消滅……?」

「ええ。一体は貴方達でしょう? 判っています。それに関しては充分に想定の範疇です。──問題なのは、もう片方」

 

 そこで青娥は、姿勢を正して。

 

「秘封倶楽部と岡崎姉弟の前に現れた個体は、しつこく彼らを追い回しました。共にいたお燐さんもまともに抵抗する力が残されておらず、ただ逃げ惑う事しか出来なかったはず。──けれども、ある瞬間、唐突に状況は変わりました」

「変わった……? まさかお燐さんが、『死霊』を……」

「いえ、少なくともお燐さんの力ではありませんよ。もっと何か、別の力……。『死霊』が、()()()()()()()()()その瞬間。そんな力が働いて──」

「え……?」

 

 一瞬、息を飲んだ。心臓が締め付けられるような感覚を妖夢は覚えた。

 妖夢達と交戦していた『死霊』とは別の個体が消滅した。その事実も気になる点ではあるが、ここで重要なのはそこではない。

 今、彼女は何と言った? 『死霊』が、岡崎進一を──。

 

「ちょ、ちょっと待って……! 待ってよ!」

 

 妖夢よりも先に感情を曝け出したのはこいしだった。

 思わずと言った様子で、こいしは身を乗り出して。

 

「い、今の、どういう事……!? 『死霊』が、お兄ちゃんを……進一を喰らったって……!」

「ああ──。貴方も、そんな反応になるんですね……」

「答えてよッ!」

 

 気圧されそうになるこいしの剣幕。けれどもそれに臆した様子もまるで見せず、青娥はただ淡々と続けた。

 

「殺されたんですよ。──『死霊』に」

「…………っ!」

 

 目を見開き、愕然とした表情をこいしは浮かべていた。誤魔化しや言い訳も出来ない。明確な事実のみを突きつけられて、妖夢もまた完全に言葉を失ってしまった。

 殺された。『死霊』による犠牲者が、こちらの世界でも遂に出てしまった。

 しかも、よりにもよって、殺されてしまったのは──。

 

「そん、な……」

 

 こいしの力ない呟きが耳に入る。妖夢もまた、概ね彼女と同じ反応だった。

 言葉が出ない。突きつけられた事実を上手く受け止める事ができず、打ちのめされてしまう。想定していた最悪の事態が、起きてしまったのだ。こんな事にだけはなってはいけないのだと、必死になって立ち回ってきたのに。

 でも、駄目だった。

 失敗したのだ。自分達は──。

 

(こんな……。こんなことっ……!)

 

 ギリっと、妖夢は歯ぎしりをする。力一杯握った拳が震える。

 納得なんて出来る訳がない。けれども、これが現実だ。もう既に、様々な要素が限界なのだ。幻想郷も、あの()()も。()()()を、これ以上留めておく事なんてできやしない。

 時間切れ、という事なのか。

 過去も、今も、未来も。

 ほんの少しの可能性さえ、もう──。

 

「……けれど」

 

 ──だが。

 

「“彼女”には、まだ保険が残されているのかも知れない」

「彼女……?」

 

 不意に出てきた青娥の言葉。それが妖夢の耳に届き、瞬間的に我に返る。

 直後、思い出した。

 

「“彼女”……! そう、そうですっ!」

 

 思わず感情が高騰する。

 身を乗り出す勢いで、妖夢は矢継ぎ早に言葉を続けた。

 

「“彼女”なら何かを掴んでいてもおかしくない……! 『能力』を使えば、この状況だってある程度見据える事だって可能かも知れない! 私達が計画を遂行するその裏で、粛々と……!」

 

 そうだ。

 そもそも妖夢が、外の世界を訪れようと思い立った理由。外の世界に潜伏している霍青娥の情報を得た、発信源。妖夢はそれに従ってこいしと接触し、彼女と共に外の世界に足を運んで。そして過去の自分の出現という、ある種の『異変』と遭遇する事になった訳だが。

 もしも、それが“彼女”の狙いだったら?

 今のこの状況さえも、“彼女”にとって想定の範疇なのだとしたら?

 

「兎にも角にも、岡崎進一を殺したはずの『死霊』が、直後にあっさりと消滅した事は確実です。──つまり、彼は何らかの特異性を有していた可能性が高い。何らかの『能力』を持っていた事だけは確かなのだけれど」

「つまり、貴方にとっては偶然……。過去の私を鼓舞する為に進一さんを巻き込んだものの、その特異性を考慮していた訳ではなかったという事ですか」

「そうね……。その認識で相違はありません。けれど、偶然の一言で片づけるには、些か──」

「ええ……。でしょうね」

 

 青娥の言葉を聞きつつも、妖夢は思案する。

 もしも妖夢の予想が正しかったとしたら、自分達は完全に“彼女”に乗せられていたという事になる。いや、百パーセント全てが全て想定内という事は流石にないのだろうけれど、それでも相当先を見据えていたとみて間違いないように思える。

 彼女の『能力』はそれほどまでに未知数だ。

 一体、どこまで読んでいた? どこからどこまでが想定の範疇なのだ?

 もしも本当に、次の手を打っているのだとすれば。

 

「え、えっと……。どゆこと? 全然分かんないんだけど……」

 

 話に全くついてこられないお空が、軽く目を回すながらもそう口にしている。こいしもまた、状況が上手く呑み込めていないような表情を浮かべていた。

 無理もない反応だ。妖夢でさえも、正直激しく混乱している。判りやすい説明をお空達に提示できる自信も確証もない。

 

「…………ッ」

 

 ならば、やるべき事は一つだ。

 意を決し、妖夢は踵を返す。

 

「妖夢……?」

「私は一度、幻想郷に戻ります」

 

 不安気に妖夢の名前を口にするこいし。ぐるぐると目を回すお空。

 そんな彼女らに向けて、妖夢はそう口にする。

 

「改めて、“彼女”の真意を確認する必要が出てきました」

 

 

 *

 

 

 正直、不用意な行動だったかも知れないとメリーは感じていた。

 突如としてメリー達の前に現れた喋る黒猫。それを使い魔として遠隔から操作しているらしいその使役者は、自分達の探し人である夢美達の居場所を知っているらしい。スマホを使っての情報収集に失敗した以上、明確な手掛かりを持っているのはこの黒猫だけだ。故に彼女に従う以外の選択肢は、メリー達には残されていなかった。

 だが、だとしてもだ。

 あまりにも胡散臭すぎるではないか。こちらを見下すような尊大すぎる喋り方と言い、にも関わらず比較的協力的な雰囲気を醸し出す態度と言い。一体彼女の目的は何だ? 少なくとも、単なる善意でメリー達に協力している訳ではないように思える。

 

(何なの、一体……)

 

 自分達を先導する黒猫の後ろ姿を見据えつつも、メリーの思考がぐるぐると回る。

 不信感が拭えない。本当に、この選択で正しかったのだろうかと。そんな不安がいつまでたっても晴れてくれないのだ。

 

「何をそんなにピリピリしている?」

 

 ふと、黒猫からそんな声が聞こえてきた。

 歩きながらも、彼女は背中を向けたままで疑問をぶつけてきた。

 

「この期に及んで、私の事が信用できないと見える。一体何が不満だ?」

「不満と言うか……。正直、解らないんです。唐突に現れて、それでいきなり協力するなんて言われても……」

「ほう……?」

 

 興味深そうな声を上げつつも、猫は続ける。

 

「成る程、確かに一理ある。この状況で、その警戒心は正解だぞ、人間。今は少しの油断もするべきではない」

「…………」

 

 ──それをこの黒猫から言われるのも奇妙な話だ。自分が酷く疑われていると知りながらも、この態度。単に楽観的なだけなのか、それとも。

 

()()()()()()、死なれては困るのだからな」

「え……?」

 

 意味深な言葉。否が応でも、メリーの中で怪訝な気持ちが募っていく。

 何だ。一体どういう意味だ、それは。彼女は何を考えている? 『死霊』の出現と何か関係があるのか? 或いはまさか、元凶そのもの? こんな状況に陥ってしまったのも、全部──。

 判らない。想像だ。けれどもそれは、メリーの焦燥を掻き立てるのに充分過ぎるほどの要素だった。

 溜まらずメリーは疑問を呈した。

 

「どういう意味です……!? 貴方は一体、何者なんですか!? 『死霊』とかいう奴らと何か関わりを持っているんですか!? ならどうして、私達を……!」

「落ち着け人間。火焔猫燐と言い、どうしてお前達はすぐに冷静さを事欠く?」

 

 メリーとは対照的に、酷く冷静な口調で黒猫がそう宥めてくる。蒸し返されたお燐が不満気に唸っているが、それでも何かを言い返す事だけはグッと堪えているようだった。これ以上、偉そうにたしなめられるのは彼女も御免らしい。

 そしてメリーもまた、猫の冷静な反応を見て思わず言葉を飲み込んでしまった。──どこか彼女の雰囲気に呑まれてしまった、とでも言おうか。冷静ながらも、どこか重厚な気高さが彼女の声色から伝わってきて。

 

「そうだな。今はその時ではないが、お前の疑問は近いうちに明らかになる時が来るだろう。故に、この場で私から言える事は三つだけだ」

 

 言い淀んだメリーへと向けて、猫は淡々とそう続ける。

 

「一つ。少なくとも、私はお前達と敵対するつもりはない」

 

 どこか尊大な態度はそのままで。

 

「二つ。私にとっても『死霊』は邪魔な存在だ。排除できる事に越した事はない」

 

 いっその事、安心感すら覚えてしまうくらいに。

 

「そして、三つ」

 

 不意に立ち止まり、猫が振り向く。

 ギラリとした赤い瞳。それが細められ、猫はニヤリと笑った。

 

「お前と会ったのは、これが初めてという訳ではない」

 

 不意に猫から告げられた言葉。その意味が一瞬理解出来なくて、メリーは反応に遅れてしまう。ワンテンポほど遅れて、メリーは少し間の抜けた声を上げてしまった。

 初めてではない。つまり自分は、以前にもこの猫と会った事があるのだろうか。或いは、猫を使役している彼女本人か。──いずれにしても、心当たりなどすぐには思いつかない。また冗談か、出任せでも言っているのではないだろうか。だとすれば、質が悪い。

 

「猫……。黒い猫……。初めてじゃ、ない……?」

 

 と、今度はボソリとした呟きがメリーの耳に流れ込んでくる。

 蓮子だ。すっかり口数が少なくなっていた彼女だったが、それでも黒猫の発した言葉に反応を示していて。

 

「もしかして、去年のクリスマスの少し前……。火車と間違えて、私達が捕まえたあの黒猫は……」

「え? あっ……!」

 

 蓮子に言われて、気づいた。

 そう、そうだ、その通りだ。あれは確かに、クリスマスの少し前での事だ。当時は墓荒らしの騒動が話題になっていて、犯人は火車ではないかという話になって。幻想郷への手掛かり探しの為、メリーと蓮子は火車の捕獲を敢行したのだった。

 それで結局、見つけられたのは火車でも何でもない、ただの黒猫だった訳だが、

 

「で、でも……。あれは、ただの黒猫だったでしょう? 火車みたいな妖怪でも何でもなく……」

「くくっ……。さっき私も説明しただろう? ()()()()は、殆ど普通の黒猫であると」

 

 困惑するメリーの目の前で、黒猫はくるりと身を翻して見せる。

 見て呉れはただの黒猫。今は使役者が深く干渉している所為で、人の言葉を話しているようにも見えるのだけれども。その身体は、本当にただの黒猫そのものだ。

 まさか。まさか本当に、あの時の黒猫がそうだったとでも言うのだろうか。

 あの時から既に、この黒猫を使役する術者は、メリー達に接触していて──。

 

「私は、随分と前からこちらの世界──。お前達の動向を観測してきた」

 

 再び前を向き直し、歩き出しながらも猫は語り出す。

 

(きた)るべき日の来るべき瞬間に備え、準備と保険にかなりの時間をかけたものだ。その間に『異変』が収束すれば御の字だったのだが、やはりそう上手く行かないらしい」

 

 余裕のありそうな口調で、猫はそう語っている。

 つまり、最初から過剰な期待はしていなかったと。()()()()事が前提で動き続けていたのだと。そういう事なのだろうか。

 

「さて。無駄話はそろそろ終わりだ」

 

 暫く歩き、猫は再び立ち止まる。そして、おもむろに振り返ると。

 

「私の言葉を信じる信じないはお前達の勝手だが、他に道がある訳でもないだろう? ならば先に進むしかない」

 

 クイッと、首で道の先を示す黒猫。彼女が示す先にあるのは、曲がり角。その先に進めという事らしい。

 

「答えはお前の意思で掴み取れ。誰かの借り物などではない、お前自身の意思でな」

「…………」

 

 メリーは道の先を見据える。

 曲がり角。ここからでは死角になっていて、その先を確認する事が出来ない。──立ち止まっていては、何も得られないという事か。ここまで来たら、腹を括るしかない。

 

「……行きましょう、みんな」

 

 蓮子とお燐に声をかけ、そしてメリーは歩き出す。

 黒猫に見据えられながらも、三人は曲がり角へと向かう。この黒猫が、嘘をついていないのなら。きっと自分は、否が応でも残酷な事実を突きつけられる事になるだろう。僅かに残ったなけなし希望さえも、完全に掻き消されてしまうに違いない。

 でも。だとしても。

 猫の言う通りだ。先に進むしかない。最早自分達に、道など残されていないのだから。

 

 ──そして、メリー達は辿り着く。

 曲がり角。道のその先へ。

 

「あっ──」

 

 思わず零れたその声は、蓮子のものだったか。それともお燐のものだったか。判らない。だが、それでも一つ確かな事は。

 黒猫は、嘘など言っていなかったという事だ。

 

「さて人間。お前達はこの()()をどう受け止める?」

 

 背中越しに猫の声が聞こえる。けれどもメリーはそれに反応を示す事が出来ない。

 

「打ちのめされ、折れてしまうか。或いは、それとも──」

 

 言葉が出ない。瞳が揺れる。身体の震えが止まらない。

 何だ、これは一体何だ。判らない、判らない。──判る訳がない。

 

「な、に……」

 

 判っていたはずなのに。覚悟を決めていたはずなのに。

 だけれども、やっぱり。

 

「こん、な……」

 

 やっぱり。

 平気で受け入れる事なんて、どだい無理な話だった。

 

「だ、め……」

 

 ──猫に導かれた曲がり角の先。その先で待ち受けていたものは。

 全身砂埃塗れになりつつも、生気を失ってしまった様子で項垂れる北白河ちゆり。涙が枯れる程に泣きつくし、最早掠れ声しか上げる事の出来ない岡崎夢美。

 

 そして。

 事切れて、物言わぬ亡骸となってしまった岡崎進一の姿だった。


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