桜花妖々録   作:秋風とも

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第117話「パラダイス・ロスト#2」

 

 斬撃が空を斬り裂いていた。

 ゴーストタウンと化した京都の街中にて光る一閃。街灯すらも役割を放棄した暗闇の中だが、その銀の閃光だけは、はっきりとそこに浮かび上がっている。放出される霊力によって灯る事となる、僅かな光。それを反射する事により、闇夜の中でもその存在を主張する事が出来るのである。

 

 暗闇の中で銀色に光るのは刀身だ。反りのない直刀。古い形状の剣だが、それでも相当な業物である事は間違いない。とうの昔に本来の剣を失ってしまった彼女にとって、この剣は言わば生命線である。──この剣を手に出来ているからこそ、彼女は未だに剣士として生き続ける事が出来ている。

 託されたのだ。

 あの日。あの瞬間。この、七星剣を。()()から──。

 

「はぁッ!」

 

 鋭く声を上げつつも、和装を纏った女性剣士──魂魄妖夢は剣を振るった。

 一閃。剣の切っ先が狙うのは、気味が悪い程に禍々しい黒い幽霊。もう何度目かになる彼女渾身の一撃なのだが、振るった腕に返ってくるのは鈍い衝撃だけで、手応えに関してはあまりよろしくない印象だ。

 斬った感じがしない、とでも言うべきだろうか。剣は確かに()()を捉えているはずなのに、刃がまるで通らないのだ。例えるならば、液状の何かに対してただ剣を振るっているだけのような。そんな感覚だった。

 

(くっ、やはり……)

 

 予想通りの手応えだが、やはり歯痒いものだ。以前に刃を交えた時より、相手は強大になっているような気がする。この数年間あの“結界”に内包され続けた間に、力を蓄えていたという事なのだろうか。

 妖夢が手に持つのは七星剣。刀身に霊力を込めた状態で剣を振るい続けるが、その相手──『死霊』は、まるで意に返さぬといった様子で活動を続けていた。

 

 中々どうして、厳しい状況ではある。幸いと言うべきか、この『死霊』は未だ妖夢達から興味を逸らしていない。進一達が逃げる時間を稼ぐという観点では及第点なのかも知れないが、だからと言っていつまでもこんな調子を続ける訳にもいかない。

 持久戦では勝ち目はない。このままでは押し切られてしまうのも時間の問題だ。

 

(何とか打開を……。だが……)

 

 だからと言って、有効な策などそう都合よく思い浮かばない。

 通常の亡霊や怨霊が相手なら白楼剣で強制成仏も可能だったが、『死霊』が相手なら話は別だ。纏う呪力が強すぎて、白楼剣の効力もまともに発揮できないのだ。──そもそも、今の妖夢の手からは白楼剣は()()()()()()。この状況で今更考慮に入れるなんて詮無き事だ。

 

 それならば、やはり真正面から一気に押し切るしかないのだが──。

 

「妖夢! 下がって……!」

 

 不意に耳に届く声。振り向くと、その声の主である古明地こいしが妖力を高めている様子が見て取れた。

 どうやら何かを仕掛けるつもりらしい。この妖力の高まり具合から察するに、恐らくラストワード級の大技か。

 妖夢は素直に指示に従い、その場から大きく飛び退く事にする。

 

「『ブランブリーローズガーデン』ッ!」

 

 妖夢が飛び退くと共に下されるこいしのスペルカード宣言。直後、無数の薔薇を模した弾幕が『死霊』の周囲に出現し、竜巻となって一気に包み込んだ。

 強大な妖力の奔流だ。その拘束力は凄まじく、『死霊』でさえも身動きが取れなくなっている。妖夢の攻撃では殆ど有効打を与えられていなかったが、この場で初めて『死霊』に対して分かりやすく効果を発揮させる事になり。

 

「おー! 凄い! 流石ですこいし様!」

 

 共にいたお空が感嘆の声を上げるが、当のこいしはかなり辛そうな表情を浮かべており。

 

「うっ……! う、くぅ……!」

「こ、こいし様……?」

 

 だいぶ無理をしている。

 それもそうだ。あそこまで強大な妖力の奔流を、長時間維持するなんて無茶苦茶だ。今は何とか『死霊』を拘束出来ているものの、このまま無理を続ければこいしの身が持たない。

 

「ッ! お空さん、連携を! こいしちゃんが『死霊』を捉えているこの隙に、私達で一気に押し切ります!」

 

 咄嗟にお空に声をかける。苦しむこいしを目の当たりにして慌てた様子のお空だったが、それでも妖夢の言葉は届いてくれたらしい。こいしと、『死霊』と、妖夢。それぞれに視線を巡らせた後に、彼女は小さく頷いて。

 

「う、うん……! わかったよ!」

 

 大きく飛び上がり、そしてお空は自身の持つ強大な妖力を更に増幅させる。

 連携、とは言ったが、恐らくお空では妖夢に合わせた細かな調整は難しい。お空の持つ妖力の絶対量を見極め、こちらが調整して最適な形での追撃をぶつけなければ。

 

 飛び上がったお空の姿を一瞥する。ここまで『死霊』と交戦して、今までのような火力では足りないと判断したのだろう。増大するお空の妖力は、これまで以上に絶大で。

 

(こ、これは……)

 

 想定より大きい。──が、弱音を吐く時間などない。何とかお空の攻撃に合わせなければ。

 直後、お空の妖力が具現化する。幾つもの巨大な妖力の球体が、ゆっくりと彼女の周囲を旋回し始めて。

 

「焔星『フィクストスター』ッ!」

 

 そして彼女は宣言する。

 周囲を旋回していた巨大な妖力の球体と共に、幾つもの妖弾がお空から一斉に放たれた。それらは吸い込まれるように『死霊』へと向けて飛んでゆき、一気に爆発的。こいしによって拘束された『死霊』には、その攻撃を避ける術はない。

 凄まじい火力。だが、これでも『死霊』は健在だ。間髪を入れずに攻撃を仕掛け、一気にとどめを刺さねばなるまい。

 

「断迷剣ッ!」

 

 妖夢は飛び出し、そして爆発の中を飛翔する。

 お空の圧倒的な火力を前に、『死霊』だって無傷という訳にもいかない。この隙に精一杯の霊力を込め、渾身の一撃を一気に叩きつけるのだ。勝機は今、この瞬間しかない。

 

「『迷津慈航斬』ッ!」

 

 強大な霊力を纏った剣を一気に振るい、爆発の中の『死霊』を一閃。強烈な閃光が炸裂し、辺りを包み込んだ。

 焔星『フィクストスター』の爆発の中を強引に突進した影響で、妖夢本人のダメージも少なくない。だが、()()()は感じていた。弱っていた『死霊』に剣を振るい、その刃が呪力の塊を一気に斬り裂く感覚を──。

 

「────ッ!!」

 

 断末魔のような()が、妖夢の耳に届く。目を凝らすと、口惜し気に手を伸ばす『死霊』の姿が目に入った。

 だが、その手は妖夢には届かない。それよりも先に身体が黒い靄と化し、消滅してゆく。崩壊が止まらない。閃光と爆発の真ん中で、『死霊』は花弁のようにその身を散らしてゆき。

 

 やがて、攻撃の余波が収まる。

 渾身の一撃で七星剣を振るった妖夢。その目の前から、『死霊』の姿は完全に消滅していた。

 

「…………っ」

 

 静寂を認識した途端、妖夢の身体から一気に力が抜ける。

 

「……、う、ぐ……!」

 

 一瞬の目眩。何とか踏ん張って転倒を回避する。

 妖夢は顔を上げる。本当に、斃す事が出来たのか、それを再確認せずにはいられなかった。

 結果として、妖夢の不安は杞憂に終わる事となる。間違いなく、あの『死霊』は完全に消滅していて。

 

「や、やった……! やったよ! やっつけたんだ!」

 

 ぴょんぴょんと飛び上がって歓喜の声を上げるのはお空だ。気持ちは分かるが、彼女のように喜びを行動で表す元気は妖夢にはない。

 ただ、噛み締める。生き残る事が出来たという、実感を。

 

「……っ。そうだ、こいしちゃんは……」

 

 ふと妖夢の意識がこいしへと傾く。彼女はかなり無理をしていた様子だった。『死霊』を斃す事が出来ても、こいしの身に何かあったら殆ど本末転倒だ。

 妖夢は弾かれるように視線を向ける。ラストワードを行使したこいしは、力なくへたりこんでいるものの、意識ははっきりとしているらしく。

 

「や、やったね、私達……」

 

 力なく、けれどそれでもはっきりとした口調でこいしはそう口にする。そんな彼女の様子を見て、妖夢はようやく肩の力を少し抜く事が出来た。

 剣を鞘にしまう。こいしも自分も、そしてお空も。随分と無茶な事をしたものだ。外の世界のど真ん中で、『死霊』を相手に霊力を激しく行使して。青娥が人払いをしてくれていたのは不幸中の幸いだった。もしも街の住民が京都にまだ残っていたら、『死霊』の被害は際限なく広がっていたかもしれない。妖夢達だってここまで大胆に激闘を繰り広げる事も出来なかった。

 

(……図らずも、青娥さんに助けられる結果になりましたか)

 

 ──ここまで散々引っ掻き回されておいて、少々不服な思いではあるが。

 

「こいし様! だ、大丈夫ですか……? 顔色が悪いみたいですけど……」

 

 不安気な様子でこいしへと駆け寄るお空。対するこいしは、何も問題ないといった様子でおもむろに立ち上がると。

 

「大丈夫だよ、お空。ちょっと、疲れちゃっただけだから……」

「そ、そうですか……? それなら、良いんですけど……」

 

 あまり納得はしていないようだが、それでもお空はこいしの言葉を信じる事にした様子。妖夢から見てもこいしのそれは明らかに虚勢だが、このタイミングでそこをつつくのも野暮というものだろう。

 それに、『死霊』を一体無力化できたからと言って、油断をしても良い理由にはならない。こちらの世界に迷い込んだ個体が、今の一体だけだとは限らないじゃないか。それ故に、早いところお燐や進一達の無事を確認しなければ。

 

「……少し休憩を挟んだ後に、移動しましょう。お燐さん達の事も心配です。一先ず合流を目指した方が得策かと」

「う、うん……。お燐達、大丈夫かな……」

「きっと大丈夫ですよこいし様! お燐だって強いんですから! 簡単にやられちゃうような子じゃありません!」

 

 ポジティブかつテンション高めな様子で、お空が不安気なこいしを励ます。疲弊した妖夢やこいしと違って、元気なものである。

 だが、今は彼女のそんな元気さが実に頼もしい。この沈み切った状況では、お空のように場を明るくしてくれる存在が一人でもいると幾分か楽になるものだ。そういう意味でも、霊烏路空というこの少女は、今の妖夢達にとってなくてはならない存在とも言える。

 

(そうだ……。私もあまり、後ろ向きな考えを抱くのは避けよう……)

 

 不安感は幾らでも膨れ上がる。最悪な想像だって勝手に溢れ出てきてしまう。

 だが、剣士として、今の妖夢はそんな雑念に捕らわれてはいけない。ただ、無心で、『死霊』を斬る。その境地に至る事が出来れば、この状況の攻略だって幾分かスムーズに進められるようになるかも知れない。

 

 心頭滅却。瞑想だ。心のざわつきを抑え込み、落ち着かせて。そして、無我の境地へと──。

 

「──ッ!」

 

 ──そして、気づいた。

 心を落ち着かせる為、精神を集中していたからだろう。ふと、自分達以外の妙な()()を感じ取り、妖夢は顔を上げる。

 視線を感じる。物陰から誰かに見られているような、そんな感覚。思わず警戒心を強めた妖夢は、反射的に気配を感じた先へと視線を向けた。

 

(今、誰かが──?)

 

 けれども。

 目を凝らし、視線を向けた暗闇の中に確認できたのは。

 

「にゃー」

「…………」

 

 黒い、猫。

 

(……猫?)

 

 いや。待て、猫?

 猫と聞いて真っ先に思いつくのは、これから合流を考えていた火焔猫燐である。まさか彼女が猫の姿でやって来たのかと思ったが、その想像も易々と否定される事となる。

 尻尾が二又に分かれていないのだ。つまるところあの猫は、猫又や火車などといった類の存在ではない事になる。──つまるところ、何の変哲もないただの黒猫。妖怪でも何でもない、恐らくは単なる野良猫だろう。

 妖夢は肩の力が抜けた。

 

(勘違い……。なんてベタな……)

 

 誰かの視線を感じたと思ったら、その主は単なる猫だった──なんて、まるで使い古されたフィクションのネタである。よもや自分がそんな体験をする事になろうとは。

 少々気を張り詰め過ぎたのかも知れない。確かに緊迫した状況ではあるものの、流石にこれは度が過ぎているだろう。この調子では、肝心な所で足元を掬われかねない。もっと、リラックスせねば。

 

「……妖夢? どうかした?」

 

 様子のおかしい妖夢の姿を見て、こいしが不安気にそう問いかけてくる。何とか心を落ち着かせつつも、妖夢はそれに答えた。

 

「……いえ、何でもありません。少し、神経質になり過ぎていただけですので」

「そ、そう……?」

 

 少々不安な様子は残っているものの、それでもこいしは妖夢の言葉に納得してくれた様子。

 やはり駄目だな、と妖夢は思う。この状況で余計な不安を煽ってしまうなんて、下手をすれば命取りになりかねない。今までのままの調子を続けていたら、状況は悪化の一途を辿っていた事だろう。

 そういう意味では、このタイミングで空回りに気づけて良かったのかも知れない。改めて、自らの精神状態を見直す事が出来たのだから。

 

(落ち着け、私……)

 

 妖夢は慎重に深呼吸を繰り返す。そうしている内に、乱れていた感情もだいぶ落ち着いてきた。

 この調子なら何とかなりそうだ。今度こそ、雑念を払拭して。

 

(……いや、待て)

 

 ふと、違和感を覚える。

 

(本当に、ただの猫なんて今の京都に現れるのか……?)

 

 ただの黒い野良猫。その存在に妖夢の何かが引っ掛かる。

 今の京都は青娥の結界によりゴーストタウンと化している。結界の効力は様々らしいが、その中の一つに人払いが含まれているのである。外の世界の人間ならば容易く効力に引っ掛かり、何の疑問も抱く事なく無意識のうちに京都の街から離れて行ってしまう。と、青娥本人からもそう説明を受けていた。

 そう。あくまで()()()。人間以外の生物に効果が及ばずとも、不思議ではないのかも知れないが。

 

(だとしても……)

 

 妖夢は改めて視線を戻す。こちらの様子をジッと見つめていた黒猫。その様子を改めて観察する為だ。

 けれども、妖夢が視線を戻す頃には、黒猫は既にその姿を消していた。──街灯も機能していない今の京都では、あのような黒猫は簡単に闇に紛れてしまう。妖夢があれこれと考えている隙に、踵を返してしまったのだろうか。

 

(もういない、か……)

 

 気になるが、それでもあの黒猫を追いかけるのは利口な選択とは言えない。自分でも口にした通り、今はお燐達との合流を考えるのが先決だ。下手に勝手な行動は取らない方が良い。

 それに、これはあくまで妖夢だけが微かに引っ掛かった感覚だ。確実に何かがあるという証拠が見つかった訳ではない。この状況で、そんな不明瞭な要素に時間を割くわけにもいかないだろう。

 

 優先順位を、見誤ってはいけない。

 

(だが……)

 

 しかし、それでも。

 

(さっきの気配、どこかで……)

 

 喉の奥に、魚の小骨でも引っ掛かっているかのような。

 そんな少し落ち着かない感覚を、妖夢は微かに感じ続けていた。

 

 

 *

 

 

 宇佐見蓮子の精神状態は、控え目に言って最悪だった。

 進一達と分断されて、メリーやお燐と共に『死霊』から逃げる事になって。底の知れない恐怖心に押しつぶされそうになりつつも、それでも蓮子は何とか気丈に振る舞おうとしていた。

 自分はずっと、秘封俱楽部を引っ張っていくような立場だった。自分が立案者で、メリーを誘ってサークルを立ち上げて。そんなリーダーのような立場だからこそ、しっかりしなければならない。自分が真っ先に、冷静さを失う訳にはいかないのだと。

 

 ──いや、違う。そんなのは所詮、建前に過ぎない。

 随分前から、既に蓮子は限界だった。敢えて気丈に振る舞う事で、それを自分でも誤魔化していたに過ぎなかった。

 判らない。何なんだ、この状況は。全くもって、訳が判らない。

 秘封倶楽部が、幾ら世の非常識を暴く事を目的としたサークルとは言え。

 こんなのは流石に、度が過ぎている。──だって。だって、まさか。

 

 人が、死ぬなんて。

 

「────ッ!」

 

 蓮子は下唇を噛み締める。心臓がきゅっと締め付けられ、息苦しさが更に増加した。

 霍青娥から突きつけられた事実。ちゆりを庇った進一が命を落としたと聞かされた瞬間、蓮子の平静は完全に瓦解した。有り得ない、そんな訳がないのだと。否定の感情が蓮子の中で激しく渦巻き、冷静な思考をいとも容易く飲み込んでいく。その結果がこれだ。

 

 青娥に対して怒号を荒らげ、それでも尚激情を抑えきれずにあの病院を飛び出してしまった。事実をこの目で確かめなければ、青娥の言葉なんて信じられない。──そんな感情に支配されて。

 まさか自分がここまで感情的になるとは思わなかった。これでも仮にイレギュラーなケースに遭遇した場合でも、多少は冷静さを保てる方だと思っていたのに。実際はどうだ。こうも簡単に不安定な心を崩してしまっている。

 

 否が応でも突きつけられる。

 所詮自分は、ちっぽけな人間に過ぎなかったのだと。

 

「う、く……」

 

 病院を飛び出して、全力で駆け出して。暫く走って、蓮子は徐々にスピードを緩める。やがて立ち止まってしまった。

 呼吸が乱れる。心臓が激しく脈打っている。全速力で駆けた事による酸素の欠乏も原因の一つなのだろうが、この息苦しさの原因はそれだけではない。

 

 精神的な問題が非常に大きい。胸が苦しくて、気持ち悪い──。

 

「進一君……」

 

 無意識のうちに、その名を呟く。

 

「嘘、よね……? 死んじゃったなんて、そんなの……」

 

 青娥の言葉を思い出す。

 ちゆりを庇い、『死霊』に殺されてしまった人物がいる。その人物こそが、岡崎進一。『死霊』と接触した直後、彼の事を探れなくなってしまって。だから、死んだのだと。青娥はそう言っていたが。

 

「本当に、ふざけないでよ……」

 

 はいそうですかと、それで信じられるはずもない。

 だって。だって、進一とは、つい先ほどまで普通に会話をしていたじゃないか。そんな中で『死霊』に襲われて、自分達は分断されてしまって。それでも彼なら、きっと大丈夫なのだと。蓮子はそう思っていたのに。

 

「……きっと?」

 

 そう。

 ()()()、大丈夫なのだと。

 

「はっ……。何よ、それ……」

 

 そこで蓮子は気づいてしまう。

 自分自身の、浅はかさに。

 

「どれだけ、無責任なのよ……。私……」

 

 きっと進一なら何とかしてくれる。きっと進一なら大丈夫だ。

 ──そう自分に言い聞かせて、これまで蓮子は目を背けていたに過ぎないのだ。進一を信じ切ったつもりになる事で、瓦解しそうな自らの心を必死になって支えようとしていた。

 確証なんて何もない。相手は『死霊』などという異形の存在じゃないか。誰も絶対に死なないなんていう保証はどこにある?

 

 もっと、上手く立ち回れたはずじゃないのか。──秘封俱楽部のリーダーを名乗るくらいなら。

 それなのに。

 

「蓮子っ!」

 

 項垂れていると、名前を呼ばれた。力なく振り返ると、そこにいたのは見知った少女の姿。

 マエリベリー・ハーン。突然病院を飛び出してしまった蓮子の事を、彼女は追いかけて来てくれたらしく。

 

「蓮子……! やっと、追いついた……!」

「メリー……」

 

 大きく息を切らしている。どちらかというと運動はあまり得意な方ではないはずなのに、それでも蓮子の事を全速力で追いかけて来てくれたようだ。

 心配してくれたのだろうか。そう思うとちょっぴり嬉しい反面、申し訳ない気持ちが際限なく溢れ出てきてしまって。

 

「まったくもう、急に飛び出して行っちゃうんだから……。でも、追いつけて良かった……」

「…………っ」

 

 何も、言えない。

 メリーにかける言葉さえも、見当たらない。

 

「……蓮子?」

「……メリー。私……」

 

 だが、それでも。

 それでも、何か。少しでも、自分の気持ちを伝えなければ。

 

「私……。私、ね……。何だか、自分の事が、信じられなくなってきちゃって……」

「え……?」

 

 メリーから伝わってくるのは当惑。当然だろう。突然こんな事を言われて、理解しろというのは実に酷な話だと思う。

 けれども、そんな中でも蓮子は口にせずにはいられない。それくらいしか、今の蓮子には出来ないのだから。

 

「京都に帰ってきてから……。いや、違うわね。そもそも東京旅行に行く前……。ちゆりさんがこいちゃんを連れ去る瞬間を目撃したあの時から、私はずっと自分の感情を誤魔化し続けてた。ずっと不安でいっぱいだったのに、きっと大丈夫、何とかなるはずだって……。そう、自分に言い聞かせて……」

 

 一度吐き出すと、もう止まらない。

 弱音が、堰を切ったように溢れ出てくる。

 

「でも結局、私は心の底から信じ切れていなかったかも知れないの。きっと大丈夫だとか、何とかなるだとか。そんなの、不安定な自分の心を隠す為の蓋に過ぎなかった。だからこんなにも、簡単に、崩れ落ちて……」

 

 情けない。──なんて、そんな気持ちも確かに存在するけれど。

 流石に今は、だからと言って自分の気持ちを抑えられそうにない。これ以上、秘封倶楽部のリーダーとしての体裁なんか、保てる訳が──。

 

「私は、もう……」

「蓮子待って、お願い……!」

 

 不意に、蓮子の言葉が遮られる。メリーによって肩を支えられ、俯いていた蓮子は顔を上げた。

 メリーの震える瞳に自分の姿が写っている。なんて酷い顔をしているのだろうと、他人事みたいにそう思ってしまった。

 

 そんな蓮子を見つめるメリーの表情は、今にも泣き出してしまいそうなものだ。彼女だって、きっと不安に苛まされてしまっている。それでもメリーは気丈にも、蓮子の事を鼓舞しようとしてくれていて。

 

「そんなに自分を責めないで……。蓮子は何も、悪くないじゃない……!」

「メリー……?」

「そうよ、悪くない……。寧ろ、私が……。私が蓮子を、支えるべきであるはずなのに……。それ、なのに……」

「そんな……」

 

 そんな事、メリーが抱える必要なんてない。そんな責任を彼女が負う必要なんてないはずだ。

 やはり、そうだ。やはり、自分が──。

 

「これ以上、私は蓮子に無理はして欲しくない……。蓮子が一人で抱え込む必要なんてないはずでしょ……? だって、蓮子は一人じゃない。私だって、秘封倶楽部のメンバーなんだから……。私だって、蓮子の事を支えたい」

「…………」

「だから、蓮子。行くのなら、私と一緒に行きましょう? 辛い事や、悲しい事も、私は貴方と分かち合いたいのだから……」

 

 ああ──。メリーなら、そう言ってくれるだろうと思っていた。落ち込んだ蓮子の姿を目の当たりにすれば、必ず励ましてくれるだろうと。そう思っていた。

 甘えだ。

 この期に及んで、自分はメリーのこんな優しさに甘えている──。

 

「あの人……。青娥さんの言っていた事、私だってまだちょっと信じられない……。ううん、信じたくないわ。だから私は、まだ希望を捨てない」

「希望……」

「夢美さんだって一緒なのよ? 幾ら相手が『死霊』だって、そんな、簡単、に……」

 

 メリーの喋り方が次第にしりすぼみになる。言葉に詰まっている、そんな印象だ。

 不安感が抑えきれていない。進一は生きている、そうであって欲しいと思うのだけれども、最悪の想像はどうしたって頭の中から離れてくれない。蓮子もメリーも、それは同じだった。

 

 判らない。一体全体、何をどうすれば良いのだろう。この状況、前に進むべきなのか、それとも逃避して目を背けるべきなのか。──無論、前者を選択すべきだという事は理解している。理解しているのだが。

 

(怖い……)

 

 身体の震えが、止まらない。

 

(嫌よ、もう……。こんなの……)

 

 知ってしまうのが。

 現実を、突きつけられてしまうのが。

 

 何よりも、怖い──。

 

「おーい! メリー! 蓮子ー!」

 

 不意に、蓮子は再び名前を呼ばれる。誰かが駆け寄ってくるような、そんな足音が耳に入った。

 視線を向けると、目に入ったのはお燐の姿だ。メリーに少し遅れるような形で、彼女も蓮子の事を追いかけてきてくれたらしい。

 

「お燐ちゃん……」

「もうっ。二人とも、勝手に飛び出したら危ないよ。『死霊』がまだこの辺りを徘徊してるのかも知れないんだから」

 

 いや。この口振りから察するに、蓮子とメリーの二人の事を追いかけてきてくれた形か。飛び出して行ってしまった蓮子を追いかけてメリーもまた病院を飛び出し、その後をお燐が追いかけたのだと。状況はそんな所だろう。

 いずれにせよ、蓮子の軽率な行動が二人への負担になってしまった事には変わりない。この状況では、少しのパニックでも命取りになりかねないというのに。

 

「…………」

「……え、えっと、蓮子?」

 

 名前を口にした切り何も喋らなくなってしまった蓮子を見て、お燐は怪訝そうに首を傾げる。まぁ、そんな反応をされてしまっても仕方がない態度である。

 自分の事を心配してくれて、それでメリーやお燐が追いかけてきてくれた事は嬉しい。けれども、やっぱりそれ以上に申し訳なさの方が強く募ってしまうのだ。自分の所為で、皆を巻き込んでしまったのではないか、と。

 

 初めての心地だ。このような感情、今まで抱いた事もなかった。──それ故に、心苦しい。

 これまでも、ずっと。ずっと自分は、皆に迷惑をかけ続ける疫病神だったのではないかと。そんなネガティブな思考に支配されてしまって。

 

「ごめんなさい、お燐ちゃん。私がもっと、ちゃんと蓮子の気持ちに気づいてあげられていれば……」

「え? え、えっと……。別に、メリーが謝る事じゃないよ。あたいだって、別に怒ってるとかじゃなくて……。ただ、ちょっと心配だっただけだから」

 

 お燐とメリーのそんなやり取りが目に入る。二人とも、蓮子に悪意を向ける事はない。蓮子は何も悪くないのだと、あくまでそんなスタンスを続けてくれている。

 優しいな、と蓮子は思った。こんなにも優しい人達に囲まれている自分は。

 自分は──。

 

(私には……)

 

 こんなにも、不安定で不誠実は自分なんかには。

 

(皆を、引っ張っていく権利なんて……)

 

 そんな責任を負う“覚悟”さえも。

 最早、残されていない──。

 

「……取り合えず、先に進みましょう」

 

 ふと、そんな声が蓮子の耳に届く。

 

「どっちみち、進一君達とは合流しなければならないもの。あの病院で待っていれば、自然と合流出来たかも知れないけれど……。でもそれだって確実じゃないし、ここまで来ちゃったら引き返すよりも先に進んだ方が良いと思う。勿論、『死霊』に捕捉される危険性は高まっちゃうけど……」

 

 そう提案したのはメリーだ。普段ならば蓮子が率先して動く所だが、今はその役割をメリーが買って出ている。

 判っている。メリーには、蓮子の気持ちなんてお見通しだ。蓮子の心が折れてしまった事を察して、故にこそ、その代替役を務めてくれている。

 

 蓮子の事を支えたい。そう言ってくれたのはメリーだ。

 本来ならば、蓮子はここで立ち上がるべきなのだろうけれど──。

 

 ()()()()()()()

 今は、メリーのそんな優しさに甘える事しか、出来ない──。

 

「うん。まぁ、そうなるとは思ってたよ。だからこそ、あたいだって慌てて追いかけてきたんだし……。ここまで来たら、とことんまで二人に付き合うよ」

「お燐ちゃん……。ありがとう、でも……」

「ああ、あたいの事なら心配いらないよ? さっき青娥に薬を貰って、それを呑んだから今は少し調子が良いんだ。『死霊』を斃す……のは、無理かも知れないけど、でもそれなりに戦う事は出来ると思う」

「そう……。ごめんなさい、お燐ちゃんにばかり負担をかけて……」

「だから、気にしなくて良いって。そもそも『死霊』は幻想郷の問題なんだ。だから幻想郷の住民であるあたい達が、責任を持って対処するのが筋だと思うし」

 

 蓮子の前で、二人のやり取りが続く。

 あくまで気丈に振る舞い続けるお燐。青娥に薬を貰ったと言っていたが、それでも怪我の具合は劇的に良くなっているようには見えない。その実、やはり無理をしているのではないだろうか。

 無理をし過ぎだ。皆、誰も彼もが。──蓮子は既に、諦めかけてしまっているというのに。お燐も、そしてメリーだって。逃避も諦観も、していない。

 

「……お燐ちゃんが、そこまで言うなら」

「うん。まぁ、取り敢えずあたいの事は置いといて良いよ。今考えるべきは、どうやって進一達と合流するか、でしょ? 先に進むとは言っても、ただ闇雲に突き進むだけじゃ……」

 

 お燐の意見は真っ当だ。ある程度逃げた方向は分かっているとは言え、単にその方向へと進んだ所で簡単に合流出来るとは思えない。一箇所に留まり続ける事だってそう無いだろうし、下手をすればいつまで経っても入れ違いになってしまう可能性だって考えられる。

 スマホで連絡を取り合える事が出来れば一番手っ取り早かったのだが、現在も相変わらず圏外で使い物に──。

 

(あれ……?)

 

 使い物にならないと思いつつも蓮子がスマホに視線を落とすと、そこで気づいた。

 画面上部の電波状況の表示。つい先程まで圏外と表示されていたはずのそこに、いつの間にかアンテナマークが表示されている。それが意味する事は、即ち。

 

「スマホの電波が、戻ってる……?」

「えっ……?」

 

 蓮子の呟きに反応したメリーが、反射的に自らのスマホを取り出している。蓮子に倣って画面へと視線を落とし、そして目を見開いた。

 

「これは……! 蓮子の言う通りよ! スマホ、使えそう……!」

 

 メリーの声が上擦っている。それほどまでに、この事実は蓮子達にとって僥倖だった。

 スマホが使える。つまるところ、連絡を取り合う事が出来る。この場からでも進一達の無事を確認する事が出来るようになった訳だ。

 

 しかし、解せない。なぜ急にスマホが使えるようになったのだろう。青娥の結界が弱まりつつあるとはお燐も言っていたが、これもその状況に起因しているのだろうか。

 だとすれば、もうあまり時間は残されていないのかも知れない。未だ『死霊』が徘徊しているかも知れないこの状況で、普段通りに京都の住民が戻って来てしまったら、どんな被害が出るか。

 

「と、とにかく、進一に連絡を取ってみようよ……!」

「う、うん……!」

 

 どうやらそれはお燐やメリーにとっても共通認識だったらしく、二人は慌てた様子で次なる行動に移す。

 お燐の提案を呑んだメリーがスマホを操作している。進一の連絡先を開き、通話ボタンをタップした。

 

 スマホを耳に当てる。最初の内は興奮の色が表情に濃く出ていたメリーだったが、けれども次第に焦りの色が滲み始める事となり。

 

「出ない……? どうして……!?」

 

 進一に通話を飛ばしてから数秒。いつまで経っても応答がないらしく、メリーは思わずと言った様子で声を上げた。

 

「で、出ないの? まだ電波が……?」

「う、ううん……。ずっと呼び出し音が鳴っているから、多分進一君のスマホには繋がってると思う……。でも……!」

 

 不安気な様子のお燐とメリー。そんな二人を目の当たりにして、蓮子もまた否が応でも胸が締め付けられる。

 進一が、メリーからの電話に応じない。何故だ? 今は電話に出られる状況じゃない? 『死霊』から逃れる為に必死になっている、などだろうか──?

 

「…………っ」

 

 いや。まさか。

 まさか本当に、青娥の──。

 

(い、嫌……)

 

 一瞬脳裏を過ぎる最悪の結末。それを必死になって払拭し、蓮子は苦し紛れに自らのスマホを操作する。

 電話帳アプリを開く。そしてその中から選択したのは、進一の姉である夢美の連絡先。

 

 進一への通話が駄目なら、ひょっとしたら夢美なら──?

 そんな微かな希望を胸に連絡先を開いたのだが。

 

(ちょ、ちょっと、待って……)

 

 通話ボタンをタップする直前、躊躇いが生じる。

 ここで夢美に電話をかけてしまったら、必死になって目を背けていた予感が現実になってしまうような。そんな気がして。

 

(で、でも……)

 

 だけれども。

 

(わたし、は……)

 

 もう、引き返せない。

 夢美に電話をかける。宇佐見蓮子には、もうその選択肢しか残されていない──。

 

「…………ッ」

 

 意を決し、蓮子は通話ボタンをタップする。そして静かにスマホを耳へと当てた。

 呼び出し音が鳴り響く。一回、二回、そして三回。四回目が耳に届く頃には、蓮子の緊張は最高潮に達していた。

 心臓が痛いくらいに脈動している。早く通話に応じて欲しいという反面、これ以上は踏み込みたくないという恐怖心も次第に膨らんでいるのが分かる。

 

 この緊張は、あまり気持ちの良いものではない。べっとりとした嫌な汗が、頬を滴り落ちている。酷く不快な感覚だ。

 

(教授……)

 

 まさか、夢美も電話に出れる状態ではないのだろうか。

 もう何度目かも判らない呼び出し音が耳に入り、そんな予感が蓮子の脳裏に過ぎり始めた時だった。

 不意に、呼び出し音が途切れる。そして受話器越しに、誰かの息づかいが聞こえてきた。

 

「っ! 教授……!?」

 

 思わず声を上げる蓮子。何事だといった様子で、お燐とメリーの視線が彼女に集中した。

 思ったより大きな声が出てしまったらしい。それほどまでに、蓮子の感情は不安定になっている。だが、それが分った所で、蓮子本人がすぐさま冷静さを取り戻せる訳でもなく。

 

「あ、あの……! 教授……? 教授、ですよね……!?」

『……蓮子?』

 

 興奮気味に確認を繰り返すと、ようやく応答が返ってきた。

 聞き慣れた声。馴染みのある雰囲気。間違いない、岡崎夢美だ。

 

 安堵感がほのかに広がる。夢美の声を聞くことが出来て、蓮子の狼狽がほんの少しだけ楽になった。

 

「教授……? まさか、夢美さん……? 夢美さんが電話に出たの……!?」

「ええ……! ちゃんと、通話が出来てるわ……!」

 

 メリーの言葉を肯定する。希望が見えてきたような、そんな予感がした。

 夢美が電話に出てくれたという事は、少なくとも彼女については無事だという事になる。これなら話は進みそうだ。状況を聞いて、何とか合流を果たして。そして──。

 

「あ、あの、教授……! そっちは、大丈夫ですか……? 怪我とかしていたりは……?」

 

 興奮も冷めぬ内に、蓮子は夢美にそう確認する。返事は比較的すぐに返ってきた。

 

『怪我……? ええ、そうね……。大丈夫。私は、平気よ』

「……っ。そうですか……!」

 

 大丈夫。平気。その言葉を耳にして、蓮子の胸中に安堵感が一気に広がる。

 やっぱり、杞憂だったのだ。青娥の言葉なんて、全てデタラメで──。

 

「教授、進一君は……? 進一君も、一緒なんですよね? メリーが電話をかけたんですけど、全然出てくれなくて」

 

 そう。

 それは、まるで。

 

『進、一……?』

 

 まるで、あらゆる最悪の想像から逃避するかのように。

 

『進一……。うん、一緒。進一は、私と一緒よ』

「……! それじゃあ……!」

 

 ()()()()()()()()()()()

 

『でも……。でもね、おかしいの。おかしいのよ、蓮子』

「……? 教授……?」

 

 判っている。いや、判っていた。

 こんな感情、所詮はまやかしの希望に過ぎなかったのだという事を。

 

『進一、起きないの。全然、目を覚ましてくれないの。何度も、何度も。何度も何度も何度も。ちゃんと、声をかけたのに。全然、応えてくれなくて……』

「え……?」

 

 心臓が跳ねる。頭の上から、冷水での浴びせられたかのような。そんな悪寒が蓮子の中を駆け抜けた。

 呼吸が一瞬止まる。多少は紛らわす事が出来たかに思えた焦燥感が、再び蓮子の胸中に顔を出す。──嫌な予感が、膨れ上がる。

 

 何だ?

 彼女は。夢美は、一体何を言っている?

 

「あの……。それって、どういう……。進一君が起きないって、どういう意味ですか……?」

『意味? 意味って、何……? 判らない……。そのままよ、そのままの意味なの。進一……進一、が……』

 

 ぐらりと視界が揺れる。極度の緊張状態に襲われて、軽い貧血のような症状も起き始めたらしい。

 胸が痛い。心臓がずっとバクバクと高鳴り続けている。気持ち悪い。胃の中身を無理矢理掻き回されたような、そんな感覚に襲われて。

 

 おかしい。おかしい、おかしい、おかしい。

 何だこれは。通話の相手は、本当にあの夢美なのか? 確かに、聞こえてくる声は彼女のそれそのものだ。聞き間違えるはずもない。

 でも。だけど、こんなの。

 

「あ、あの……」

『ねぇ、蓮子……。私、どうすればいいの……? 一体、何をどうすれば……? 判らないの。声をかけた。身体だって何度も揺すった。でも、駄目なの。何度やっても、繰り返しても、全然何も変わらないの』

「ま、待って……。待って下さい、教──」

『何なの……。おかしい、おかしいわ。こんなの、絶対……。ねぇ、どうして? どうしてなの、進一……? どうして何も答えてくれないの? どうして何も反応してくれないの? 酷いじゃない、そんなイジワルしなくなって……。お姉ちゃんだって、そんなに余裕がある訳じゃないのよ……? だからお願い、冗談は止めて……。ほら、起きて。起きてよ。風邪ひいちゃうでしょ? 外はまだ寒いでしょう? 身体が冷えちゃうわ。ほら……。冷たく……。どんどん、冷た、く ……』

 

 矢継ぎ早だった。

 蓮子の声が聞こえていない。息つく暇も与えずに、ただ一方的に夢美は言葉を紡ぎ続けて。

 

『ぅ……ぁ、あぁ……』

 

 ごんっ、と。何かに強打するような鈍い音。恐らく夢美がスマホを落としたのだ。その衝撃を、音としてマイクが拾っていて。

 そして。

 

『あ、ああ、ああああ──!』

 

 少し遠めに聞こえてきたのは、あまりにも悲痛すぎる慟哭だった。

 

『嫌……。嫌……! 嫌、嫌、いやぁ! 進一……! 進一、進一ッ! 起きて!! 目を覚ましてッ!! 駄目……! 駄目、駄目ダメだめぇ……!! 目を覚ましてよぉ! 声を聞かせてよぉ……!! こんなの、嫌……! 止めて……。止めてよぉ……! 貴方が、いなくなってしまったら……。わたし、私は、何の為に──』

「ひっ……」

 

 抜けるような小さな悲鳴が蓮子の口から漏れる。その直後には、彼女の手からもずるりとスマホが滑り落ちていた。

 地面を跳ね、転がる。上を向いたスマホのディスプレイに表示されているのは、通話相手だった岡崎夢美の名前。そして通話中を示す緑色のアイコン。スピーカーからは、未だ悲鳴にも似た慟哭が漏れ聞こえている。

 

 蓮子の身体が震えている。力が上手く入らない。だから、スマホも手から滑り落ちた。

 痛い。痛い、痛い、痛い。胸の奥が、無理矢理締め付けられるみたいに。

 ──痛い。

 

「れ、蓮子……?」

 

 メリーの呼び声。視線を向けると、彼女も酷く焦燥した様子の表情を浮かべていた。

 蓮子の反応、そしてスピーカーから漏れ聞こえる声を聞いて、察してしまったのだろう。──スマホの先。通話相手とその周囲が、どんな状況に陥っているのかを。

 

「夢美、さんは……」

「…………ッ」

 

 答えられない。答えられる、訳がない。

 判っている。理解している。蓮子も、そしてメリーやお燐だって。けれども、駄目だ。口に出来ない。受け入れられない。目を向ける事なんで、出来る訳がない。

 

 だって、こんなの。こんな結末なんて、認められる訳がないじゃなか。

 

 初めて出会ってから約一年。蓮子にとっても、彼は大切な友人だった。つい先程までお喋りしていた。東京旅行だって一緒に行った。

 変な所で素直じゃなくて、はっきりと口にはしてくれなかったけれども。秘封俱楽部を認めてくれて、蓮子達と共に行く事を選んでくれて。これから先、もっともっと、掛け替えのない大切な思い出を沢山作れると思っていたのに。

 

 それなのに。

 

「進一、君……」

 

 どうして、こんな。

 こんな理不尽に巻き込まれなければならなかったのだろうか。

 

 

 *

 

 

「……っ。え……?」

 

 一人奇妙な感覚を敏感に捉え、霍青娥は思わず少し間の抜けた声を上げてしまった。

 病院の一室。蓮子とメリー、そしてお燐が去ってから少し経っての事だ。半ば無理気力になりながらも、それでも結界の“調整”を続けていた青娥は、その中で一つの異変に気がついた。

 

 京都の街に迷い込んだ『死霊』の気配。青娥が感知出来ていたのは、少なくとも二つ。──その二つの気配が、共に消滅していたのである。

 片方は判る。恐らく、妖夢達だ。だいぶ苦戦していたようだが、それでも辛くも退ける事に成功したらしい。交戦の気配の後、『死霊』のみが消滅した気配を感じ取っている。

 

 問題は、もう片方。進一の生命を刈り取った方の『死霊』。

 そちらの気配も、いつの間にか消滅している──。

 

「どういう事……?」

 

 交戦の気配は感じられなかった。文字通り、一方的。一方的に岡崎進一の生命が刈り取られ、そして消滅した。何度も、何度も。嫌と言うほど感じてきた気配。『死霊』による生命の蹂躙。

 だが、何かが違う。『死霊』によって刈り取られたのは進一の生命だ。それは間違いない。──だけど。

 

 だけど、どうして。

 どうして、()()()()()()である『死霊』までもが、共に消滅しているのだろう──?

 

「気の所為……? いや、違うわね。これは……」

 

 『死霊』が感知出来ぬ程に結界の効力が弱まってしまったのかと思ったが、それも違う。確かに、青娥は気紛れなお節介から、結界内でもスマホによる連絡が取り合えるような“調整”を施した。だが、それでも感知の効力にまで影響が及ぶような調整ではなかったはずである。

 効力は持続している。特に大きな問題は見られない。だとすると──。

 

「本当に、消滅したという事……?」

 

 進一の生命を奪った直後。何らかの()()により、『死霊』は消滅した。

 その事実は、間違いないという事になる。

 

「……っ」

 

 霍青娥は考える。神経を研ぎ澄ます。

 考えろ。思い出せ。進一の生命が消える瞬間、他に何か妙な感覚は覚えなかっただろうか。『死霊』の消滅の原因となるような、何か。何か、絶対的な“死”と対極に位置するような──。

 

「あっ……」

 

 そこで、思い出す。

 『死霊』による生命の蹂躙。その裏で、微かに漂っていた、もう一つの──。

 

「まさか……!」

 

 有り得ない。気の所為か? だが、しかし──。

 勘違いかも知れない。何せ記憶という曖昧な情報から引き出した予測だ。自分自身の中で、勝手に都合の良い仮設を組み立ててしまっただけという事もあるのだろうけれど。

 でも。

 これは。

 

「岡崎進一……。貴方は──」

 

 彼の魂には、一体何が住み着いている──?


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