桜花妖々録   作:秋風とも

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第参部『墨染の桜篇』
第116話「パラダイス・ロスト#1」


 

『私ね、たまに判らなくなってしまうの。私の人生、本当にこの選択で正しかったのかなって』

 

 純白の部屋。

 床も、壁も、天井も、隙間風に棚引くカーテンも。眩しいくらいの白で統一された空間。その窓際に設置されたベッドの上で、その女性はポツリと呟いた。

 

『思えば、ずっと後悔の連続ばかりだったような気がする。私って、本当にすっごく優柔不断なのよ。一度決めた事さえも、後から不安に思っちゃう事も結構あってね。心配性が過ぎるって、よく言われていたっけ』

 

 純白のカーテンから覗く外の景色を眺めながらも、彼女は言う。

 穏やかな口調。遠い過去を懐かしむような、そんな言葉遣いである。容姿はとても若々しく、非常に端麗な印象なのだが、そんな姿とは不釣り合いな程に悠久の時を生きてきたかのような。何故だかそのような感覚を感じ取ってしまう。

 

『本当に、今更よね。今頃幾ら後悔しても遅いんだって事は、痛いくらいに判っているはずなのに』

 

 女性は窓から視線を逸らし、そして振り返る。

 ベッドの縁。そこから女性の事を見上げる、幼い少女の姿を認めて。

 

『……って、こんな事を話しても訳が分からないわよね。ごめんなさい』

 

 少女は首を傾げる。女性の言葉の通り、彼女は話の内容を殆ど理解していない様子だ。

 けれども、それでいい。だってこの子は、何も知らないのだから。何も伝えず、何にも巻き込まず。ただただ平凡に、今日この瞬間まで、この子は育ってくれたのだから。

 

『貴方は、それで良いの。出来る事ならば、貴方は普通の女の子としてこのまま生きて欲しい』

 

 女性は少女の頭を撫でる。少女はくすぐったそうに瞳を細めた。

 そんな少女の様子を、女性は慈愛に満ちた表情で見つめる。その様は、娘に深い愛情を注げる母親のそれそのものだ。儚げな雰囲気の中で、その愛情だけはどこまでも美しい。

 

『多分、私はもう長くはないのだと思う』

 

 女性は呟く。

 気持ちよさそうに頭を撫でられる、幼い少女へと向けて。

 

『だから最後に一つだけ、貴方に魔法をかけてあげる』

 

 表情にどこか物寂しさを滲ませつつも、その愛情は変わりなく。

 

『この魔法は、きっと貴方の為になってくれる。普通の女の子として、普通の日々を過ごして。私とは違う()()を、貴方は手に入れる事が出来るはずだから』

 

 それでも女性は、そんな中でも。

 

『だけど……。だけど、もし。貴方がその気になってくれる時が来るのなら』

 

 最後にたった一つだけ、希望を託す。

 

『私が果たせなかった約束を、代わりに……』

 

 葛藤していた。彼女は最後の瞬間まで、迷い続けていた。

 彼女は優しい女性だった。自分の事を優柔不断と称しているが、それはそんな優しさの裏返しなのだろう。──優しいからこそ、迷う。優しいからこそ、常に誰かを気遣う事が出来る。

 

 そんな彼女だからこそ、葛藤した。

 この子には、普通の女の子として生きて欲しい。その想いは本物だ。だけどそれと同じくらいに、彼女が抱き続ける“約束”も特別な意味を持っていた。

 あの“約束”を、蔑ろには出来ない。なかった事になんて出来る訳がない。だけど自分には、最早どうする事も出来なくなってしまったから。

 

 それ故に、彼女は祈った。

 もしも。もしもほんの少しだけでも、この子の心が振り向いてくれる時が来るのなら。

 

『その時は──』

 

 窓から隙間風が流れ込んでくる。ふわりと、女性の金色の髪が浮かんだ。

 

 純白色の部屋の中。少女を優しく撫で続ける彼女の表情は、どこまでも慈愛に満ち満ちたものだったけれども。

 そんな彼女の菖蒲色の瞳から、一筋の涙が零れ落ちていた。

 

 

 *

 

 

 暗闇の中を駆けていた。

 

 深く、そしてどこまでも絶え間なく広がる静寂。本来ならば人の往来で溢れていてもおかしくはないはずなのに、今はそんな営みの気配さえも伝わってこない。ただただ、無機質。ともすれば不気味に思えてしまう程に、その街中は一切の人の気配を失っている。

 

 聞こえてくるのは、自分達の息遣いのみ。ただ、我武者羅に走って。走って、走って、走って。その度に息切れは激しくなってゆく。呼吸さえもままならなくなり、心臓も強く脈動し続けていた。

 苦しい。足が縺れる。運動が極端に苦手という訳でもないが、だからと言ってそれほど得意という訳でもない。身に纏う服装もここまで激しく駆ける事を想定したものでもないし、その所為もあってか体力が徒に消耗しているような気もする。

 視界も少しぼやけてきた。酸素が上手く行き届かなくなり、意識が少しずつ遠退きそうになる。

 

 駄目だ。

 最早、限界が近い──。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 疲労困憊。その上、恐怖心と焦燥感に心が押しつぶされそうだ。

 逃げなければならない。そんな意識とは裏腹に、身体はこれ以上の酷使を拒否してしまっていた。無意識のうちに足を止め、そして立ち止まる。ふらつき、そして倒れそうになった事をその直後に認識し、慌てて両足に力を込めて踏ん張った。

 意識を繋ぎ止める。横転を避ける事は出来たが、それでも体力の限界が近い事には変わりなく。

 

「はぁっ、はぁっ……! う、うぅ……。こほっ、こほっ……!」

 

 咽て、咳き込む。

 胸の奥が痛い。流石に無理をし過ぎたか。いや──だとしても、何と情けない事だろう。こんな調子じゃ、皆の足を引っ張る事になってしまうじゃないか。この状況で足手纏いなんて、それこそお荷物以外の何ものでもないというのに。

 嫌になる。自分はなんて役立たずなのだろうと、そんな自己嫌悪が勝手に溢れ出てきてしまう。心身ともに疲労の所為か、ネガティブな思考ばかりが頭の中を支配してしまっていて。

 

「メリー!?」

 

 そんな中、彼女──マエリベリー・ハーンはその愛称で声を掛けられ、思考の渦から引き上げられた。

 乱れた呼吸を整える事もままならないまま、メリーは反射的に顔を上げる。立ち止まってしまったメリーの事を心配して、戻ってきてくれたのだろう。名前を呼んだ声の主は、慌てた様子で駆け寄って来てくれていて。

 

「大丈夫……!? 顔色が真っ青じゃない……! どこか具合が悪いとか……?」

「ち、違うの……。ただ、ちょっと……。体力が、もう限界で……」

 

 必死になって呼吸を整えようとしつつも、メリーは答える。

 

「本当に、大した事はないわ……。だからそんな顔しないで、蓮子……」

「……っ」

 

 不安げな表情を浮かべる彼女──宇佐見蓮子にそう告げる。だが、彼女の表情はそれでも浮かないままだった。

 無理もない。彼女もきっと不安に思っている。幾ら普段が大胆不敵で恐れを知らぬような性格をしてようとも、結局それは()()の範疇での話だ。こんな()()()、流石の秘封倶楽部でも対処し切れない。

 

(こんな……。こんなのって……)

 

 さっきから、頭の中が混乱しっ放しだ。受け入れて理解しろなど、どだい無理な話である。

 

「二人とも。悪いけど、あんまりのんびりとしていられないかも」

 

 そんな彼女らに声をかけてくる少女がいる。

 先程まで、蓮子に手を引かれるような形で走っていた少女だ。足を引っ張りたくないからと途中で手を離す事になったのだが、はっきり言ってこの中で最も重症のように思える。

 そんな彼女にさえも、気を遣われてしまうなんて。自分はどこまで役立たずなのだろうか。

 

「今は上手く逃げられてるけど、それでも時間の問題だと思う。()()()そのものを根本的に何とかしないと、あたい達の追いかけっこは終わらない……」

「ええ……。そう、よね……。お燐ちゃん」

 

 ボロボロになってしまったゴスロリ服を身に纏う少女。お燐こと火焔猫燐に頷いて答える。彼女の言う通り、今は少しの油断も許されぬような状況だった。

 

 京都の街がゴーストタウンと化してから、もう随分と時間が経っている。霍青娥が使役するキョンシーを退ける事は出来たものの、今度は『死霊』等という良く分からない存在に追い回される事になるなんて。

 

「だけど、今の所は追ってきていない……? 上手く撒けてるって事なのか、それとも……。まさか……」

「うん……。あたい達の方じゃなくて、進一や夢美の方に行っちゃったのかも……」

 

 苦い表情を浮かべる蓮子に向けて、お燐は頷きつつもそう告げる。

 それは、メリーも薄々は感じていた事だ。あの大通りの十字路で進一達と分断されてしまってから、『死霊』に追われているような気配は感じていない。それでも我武者羅に走り続けてきた訳だが、流石にそろそろ嫌な想像も膨らんできてしまう。

 あの時、メリー達を追いかけてきていた『死霊』は一体のみだった。そんな個体が、こうしてこちらを追いかけて来なかったという事は。

 

「た、大変……! こうしちゃいられないわ……!」

 

 不安感が一気に増して、メリーは反射的にスマートフォンを取り出す。進一達の無事を確認すべく、電話をかけようとしてみるが。

 

「圏外……?」

 

 まるで繋がらず、ディスプレイの表示を確認するとその二文字が目に飛び込んでくる。

 何なんだこれは。京都のど真ん中で圏外などと、携帯会社の通信障害でも起きてない限り有り得ない。いや、その線も考えられなくもないかも知れないが、恐らく原因は──。

 

(京都全土を覆っていた……。あの、結界の所為……?)

 

 京都がゴーストタウンと化しているのは、ヒロシゲが急停車する前に感じたあの結界の効力だろう。そしてその効力は、単に人払いをするだけというものではない。内部からも、そして外部からも。一切の連絡と認識さえも遮断する。

 こうしてスマホが役に立たなくなっているのもあの結界の所為と見て間違いない。試しにインターネットにも繋いでみようとしてみたが、ページが表示される前にエラーと出てしまった。

 

 電波が届いていないのだから、スマホを使って連絡を取り合う事が出来ない。これでは、進一達の無事を確認する事も出来ないだろう。

 

「やっぱり電話は繋がらない……?」

「ええ……。駄目みたい……」

「私のスマホもメリーのと同じ状態ね。使い物にならないわ」

 

 お燐の確認に頷いて答えると、蓮子もそれに同調してきた。

 やはり駄目だ。あの時は『死霊』から逃れる事に必死で、分断してでも散開する事を余儀なくされたが、あの選択は正しかったのかと今更ながら不安に思えてくる。もっと上手くやれたのではないかと、そんな後悔にも似た思考が勝手に溢れ出てきてしまうのだ。

 

「…………っ」

 

 メリーは思わず唇を噛む。どうしようもない感情に駆られて、否が応でも焦燥感が掻き立てられてしまう。最悪の事態ばかりが、脳裏から離れてくれなくて。

 

「……それなら尚更、ここで立ち止まっていても仕方ないよ」

 

 冷静な口調でそう言葉を発してきたのはお燐だ。狼狽気味のメリーや蓮子とは異なり、彼女は幾分か落ち着いているように思える。──いや、恐らく彼女は表面上の平静を装っているだけだろう。『死霊』と呼ばれる存在の危険性は、メリー達よりもお燐の方が余程理解出来ているはず。それでも何とか落ち着いた振る舞いを続けようとしているのは、メリー達の不安を煽らぬ為という事だろうか。

 

「連絡が取れないのなら、まずは進一や夢美と合流する事を考えるべきじゃないかな。二人の無事を確認する為にも……」

「お燐ちゃん……」

 

 お燐の気持ちを考えると、こちらも少し落ち着いてきたような気がする。いつまでも慌てふためき続けるなんて、そんなのはあまりにも非生産的だ。状況はまるで好転しない所か、もっと悪い方向へと向かってしまう恐れもある。

 落ち着け。今この場ですべき最善を考えるんだ。打開策を考えろ。

 

「……そう、ね。お燐ちゃんの言う通り。兎にも角にも、今は進一君達の無事を確認したい……」

 

 ざわつく心を落ち着かせて、メリーは何とかそう口にする。

 やはり優先すべきは合流だ。連絡もまともに取り合えないこの状況で、バラバラに行動するのは命取りになりかねない。

 そんなメリーの意見に対し、蓮子もそれには同意してくれるらしく。

 

「……そうね。となると、どうやって進一君達と合流するかだけど……」

 

 少しの間思案顔を浮かべた後、蓮子は続けた。

 

「それなら、本来の目的地だった病院に向かってみるのはどう? 明確な集合場所を決めていなかった以上、私達の中で共通して認識していた場所に向かってみるしかないと思う。そうなると、最も可能性が高いのは……」

「成る程……! 確かに、進一達ならそこに向かっている可能性が高いかも……? 流石お姉さん!」

「ふふん。伊達に秘封俱楽部のリーダーやってないって訳よ」

 

 お燐に持ち上げられて、鼻を鳴らしつつも仰々しく胸を張る蓮子。何とも緩い印象だが、二人とも敢えて普段通りの振る舞いをしているように思える。

 皆、不安なのだ。故にこそ、そんな不安を払拭する為に自らを鼓舞しようとしている。少しでも普段通りの心持ちを続け、この“非常識”を“常識”で塗り替えようとしているのである。

 

 ならばメリーもそれに倣う事にしよう。

 ──そうだ。今は少しでも、普段通りの自分を演じなければ。あっという間に、恐怖心と焦燥感に飲み込まれてしまいそうだから。

 

「……私も蓮子の意見には賛成。夢美さんやお燐ちゃんが言っていた結界はまだ残っているかも知れないけれど、私の『眼』ならそれも感知出来ると思うし。もしも進一君達が結界の効力に引っ掛かっていたとしても、上手い具合に合流だって出来るかも」

「そう、そうよ! 私達にはメリーの『能力』があるじゃない! これでどんな結界もお茶の子さいさい!」

「どんな結界もって……。博麗大結界はどうしようもなかったけどね」

 

 苦笑しつつも、メリーは答えた。

 

「……心配かけてごめんなさい。少し休んで、体力も回復してきたから。動けないという程じゃないわ。だからもう、大丈夫」

「……本当に平気? メリーもそうだけど、お燐ちゃんも怪我の具合が──」

「あたいも平気だよ。無理に激しく動き回ったり、過剰に妖力を扱ったりしなければ大丈夫。寧ろ、変に心配される方が困っちゃうかな」

 

 心配してくれる蓮子に向けて、メリーとお燐は揃って問題ない事を伝える。お燐の怪我の具合に関しては正直メリーも心配なのだが、本人がこう言っている以上あまり強く口出しは出来ない。いずれにしても、彼女だけをこんな所に置いていく訳にはいかないだろう。もしも具合が悪化した場合、本人が拒否しようとも安全な場所まで担ぎ込まして貰おう。──そうならないのが一番なのだが。

 

「……判ったわ。それなら、早速行きましょう。勿論、周囲への警戒心は怠らずに、ね」

 

 一先ずメリー達の言葉を受け入れた蓮子の掛け声を区切りに、三人は当初の目的地だった病院へと足を向ける。底の知れない嫌な予感が、胸中に渦巻いて仕方がないのだが──それでも。

 進一や夢美。そしてちゆりとも無事に再会出来る事を祈って、メリー達は行動を開始するのだった。

 

 

 *

 

 

 件の病院には、特に大きな障害もなく辿り着く事が出来てしまった。

 夢美とお燐から聞いた話では、先ほど車での到着を試みたが、それは論理的な結界に阻まれてしまったという話だったはず。グルグルと同じ場所を回っているような感覚に襲われ、近づく事も出来なかったと聞いていたのだが。

 

 実際はどうだろう。そんな感覚を覚えるどころか、メリーの『眼』が結界を感じ取る事すらなかった。痕跡すらも見当たらず、結界そのものが完全に消失してしまったかのような。

 

「……普通に着いたわね」

「あ、あれ? おかしいな……。青娥が呪術の行使を止めている事は何となく察していたけど、それにしてもここまで綺麗さっぱり……」

 

 病院の前で呟くメリーの横で、困惑気味な声を上げるお燐。結界の効力が弱くなっているかもとは言っていたが、まさかここまで何もないとは思っていなかったらしい。

 何かあったのだろうか。あそこまで複雑な結界を展開し、用意周到にメリー達を追い詰めたあの霍青娥が──。

 

「取り敢えず入ってみましょ。確かに気になるけど、考えようによっては余計な手間が省けてラッキーじゃない。ここであれこれ想像しても埒が明かないわ」

「そう、かもしれないけど……」

 

 警戒するメリーやお燐とは違い、蓮子はグイグイ先に進もうとする。こんな状況ではもう少し警戒した方が良いのではないかとも思う一方で、相変わらずなその積極性を見て寧ろ安心している自分もいた。

 蓮子が普段の調子を取り戻しつつあるのだ。自分も臆している場合ではない。堂々とガラス製の手動ドアを開ける蓮子に続き、メリーもまたその病院へと足を踏み入れた。──その後に、おずおずといった様子でお燐も続く。

 

 他の建物と違い、病院の中は淡い光に照らされていた。ゴーストタウンと化した京都の中で、この病院だけは電気が通っている状態らしい。

 まさに敵の本拠地に足を踏み入れたような心地だ。否が応でも、緊張感が高まってくる。息を潜めて、建物の奥へと進んでいくと。

 

「いらっしゃいませ。そろそろ来る頃だと思っていました」

「……っ!」

 

 不意に声をかけられて、メリーの心臓が大きく跳ね上がった。

 周囲の様子を伺っていたメリーだったが、反射的に声が聞こえた方向へと視線を向ける。そこは、病院の受付にあたる場所。気配も殆ど感じ取れなかった故に、まさか人がいるとは気がつかなかった。

 受付テーブルに肘を置き、顔の前で両手を組む女性。群青色の衣服を身に纏う彼女は──。

 

「『先生』……」

「おや? ふふっ……。『先生』と来ましたか……。まさか再びそう呼ばれる時が来るとは思いませんでした」

 

 メリーが口にした呼称を耳にして、女性は可笑しそうに笑う。メリーにとって、彼女と言えば『先生』なのだ。夢の世界に引きずり込まれた時にお世話になった、この病院の──。

 

「……ようやく、会えた。ずっとあんたを捜してたんだ」

「これはこれは、お燐さん。お久しぶりですね。クリスマスの時以来でしょうか?」

「うん……。あの時は、あんただって気づかなかった。だけど、今ならはっきりと認識できる」

 

 言葉を見失ったメリーの横で、お燐が『先生』に詰め寄った。

 

「霍青娥……。あんたには、色々と話して貰わなきゃいけない事がある」

 

 ()()は。

 お燐にそう詰め寄られる『先生』──霍青娥は、どこか憔悴した様子でそれに受け答えしていた。

 

「話して貰わなきゃいけない事……。ええ、そうでしょうね。勿論、お話ししますよ。さて、何から聞きたいですか?」

「えっ……?」

 

 思わずといった様子で、困惑気味の反応を見せるお燐。そんな彼女に対し、至極自然な振る舞いで青娥は続けた。

 

「どうしたのです? 貴方達は、その為に来たのでしょう? ここに……」

「…………っ」

 

 想像とは違う様子だ。京都全体をゴーストタウンにするという、こんなにも大々的な事をしたのだから、もっと掴み所がないような、のらりくらりとした受け答えを想像していたのだが。実際はどうだろう、意外なほど大人しいというか素直というか。

 ──いや。この、投げやりな感じ。

 彼女は既に、()()()()()のか? 全てを放り出し、最早すべてがどうでも良いのだと。そんな境地に至ってしまっているとでも言うのだろうか。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ……。何、それ……。あんたは、一体……」

「お燐ちゃん」

 

 混乱するお燐に声をかけたのは蓮子だ。

 自分だって、訳が分からなくて混乱しているだろうに。それでも蓮子は、お燐を宥めるような口調で。

 

「ここは私に任せて貰える? 私、こういうの得意だから」

「蓮子……?」

 

 大胆不敵な印象の笑み。だが、それが殆ど虚勢である事をメリーは何となく察していた。

 無理をしている。お燐やメリーに自らの不安を伝染させぬようにと、蓮子は内心では必死になっているのだろう。──それが判ってしまうから、メリーもまた蓮子の無理を無碍には出来ない。

 それ故にこそ、支えなければ。

 自分がもっと、蓮子の事を──。

 

「……さて。それじゃあ、『先生』。じゃなくて、霍青娥さん。お言葉に甘えて、色々と聞かせて貰うわ」

 

 メリーが見守るその前で、お燐と入れ替わるような形で青娥の前に立つ蓮子。出来る限りの平静を装い、出来る限り冷静に。

 言葉を選び、宇佐見蓮子は口にする。

 

「ちゆりさんはどこ? 貴方と一緒にいるんでしょ?」

「おや? 真っ先にする質問がそれですか」

「当たり前。私達はそもそも、ちゆりさんに会う為にここを目指していたんだから。貴方、どうせ私達の事をずっと監視していたんでしょ? それなら判るはずよ」

「……そう、そうですね。ええ、そうでした」

 

 納得した様子の青娥。それでも投げやり気味な様子は変わらず、いまいち真意が読み取れない。

 青蛾は肩を窄める。そしてやっぱり無気力気味な様子で、彼女は続けた。

 

「残念ながら、ちゆりさんはここにはいませんよ。いえ、確かについ先ほどまでは一緒だったのですが、飛び出して行ってしまいました」

「飛び出した……? それって……」

「いても立ってもいられなくなったみたいですよ。──『死霊』が、夢美さん達を狙っていると知って」

「ッ!?」

 

 蓮子の表情が驚愕の色に染る。目を見開き、そして言葉を見失った様子だった。

 いや、蓮子だけじゃない。お燐も、そしてメリーだって同じ状態だ。青娥に伝えられた言葉の内容は理解しているものの、その意味を消化するのに時間がかかっている。飛び出した? 『死霊』が夢美達を狙っていると知って? それなら、彼女は──。

 

「お二人──蓮子さんとマエリベリーさんの反応から察するに、お燐さんから既に説明済みのようですね。『死霊』と呼ばれる連中の持つ危険性を……」

 

 青娥の言葉が耳に入るが、それにまともな反応を返す余裕もない。

 『死霊』と呼ばれる存在がどれ程の危険性を持っているのか、それはメリーだって殆ど理解出来ていないのかも知れない。だが、連中とほんの少し対峙しただけでも、その圧倒的な()()()()()()()は肌で感じ取る事が出来た。

 本能が叫んでいる。アレだけは、駄目なのだと。まともにぶつかってどうにかなる相手ではないのだと。

 

 そんな相手に、ちゆりはたった一人で飛び出して行ったとでも言うのだろうか。

 自分の身も顧みずに──。

 

「そんな……。危険すぎる! あんたは止めなかったの!? こっちの世界の人間じゃ、『死霊』は……!」

「ちゆりさんの意思は確たるものでした。最早、私の言葉程度では今の彼女を止める事なんて出来ませんよ」

 

 鬼気迫る様子で声を荒げたお燐だったが、それに答える青娥は相変わらず淡々とした様子である。

 何なのだろう、この淡泊とした印象は。青娥とちゆりは結託していたのではなかったのか。それなのに、なぜこうも簡単に諦観出来る? やはり彼女は、ちゆりの事を都合の良い駒としか見ていなかったのだろうか。

 気になって、メリーは尋ねた。

 

「ちゆりさんは……。ちゆりさんは、貴方とは協力関係だったんじゃなかったんですか……? 貴方にとって、ちゆりさんは何だったんですか……?」

「協力……。協力関係、ですか。ふふっ……」

 

 失笑。だがそれは、心の底から自虐気味な印象で。

 

「たまたま利害が一致しただけで、私達は心から信頼していた訳ではありませんよ。……ええ、そうです。()()()()()()()()()()なんて、私にはない」

「えっ……?」

 

 青娥の言葉回しが気になって、メリーは思わず息を呑んだ。

 何だろう、この違和感。ちゆりの事を体のいい駒としか思っていなかったのなら、もっと無感情で無機質な言葉が飛び出してきたはずだ。けれども、どうだろう。彼女が口にした言葉には、何の感情も灯っていないとはとても思えなくて。

 

「それって、どういう──」

 

 ──そんな疑問をメリーが呈しようとした、その次の瞬間の事だった。

 

「あっ……」

 

 不意に、青娥が間の抜けた声を上げた。

 これまでの無気力かつ投げやり気味な印象の声色とは、少し違う。彼女から初めて感情らしきものをほんの少し感じ取れたような気がする。

 

 驚きと、困惑。それらが伴った表情を、青娥は浮かべていた。

 

「……そう。この感じ、ちゆりさんを庇ったのかしら……? あの子もまた、誰かの為に命を投げ出せるという事なのね……」

「青娥、さん……?」

 

 唐突に何かを呟き始める青娥。その言葉はメリーの耳にも流れ込んできたのだが、あまりにも脈絡がなさ過ぎてその意味を上手く理解する事が出来ない。

 突然何を言っている? ちゆりを庇った? 命を投げ出せる? 一体何の話だ?

 頭の中が混乱している。確かに青娥が口にした言葉は脈絡のないものだったが、この混乱の原因はそれだけではない。──認識できた断片的な単語を繋ぎ合わせると、否が応でも嫌な予感が溢れ出てきてしまうからだ。

 そんな訳がない。きっと気の所為だ。そう何度も自分に言い聞かせるのだけれども、一度感じたこの予感は中々払拭できなくて。

 

「な、何を、言ってるんですか……?」

 

 おずおずと、尋ねる。チラリとこちらを一瞥した後、青娥は口を開いた。

 

「京都の全土を覆うこの大結界の効力により、今の私は結界の内側にいる人間と『死霊』の位置をある程度探る事が出来ます。──そして、今。一つの生命が『死霊』によって蝕まれ、消滅した事を感知しました」

「…………っ!」

 

 予感していた通りの、答え。メリーは心臓を鷲掴みにされたかのような感覚を覚えてしまう。

 誰かが、死んだ? 『死霊』の手によって殺された? ちゆりを庇って? 何なんだ、それは。一体誰が──なんて、そんなの殆ど絞られてしまうではないか。

 

「そ、それって……」

 

 駄目だ。聞きたくない。それ以上は、踏み込んではいけない。

 そんな考えが頭の中から自然と溢れ出てくるが、それでもメリーは踏み込んでしまう。思考と行動が一致しない。混乱と狼狽が、最高潮に達してしまっていて。

 

「一体……誰、が……」

 

 ──そして、青娥の口から語られる。

 それは、あまりにも残酷な物語の結末だった。

 

「──岡崎進一さん」

 

 あまりにも醜悪な、運命の終着だった。

 

「つい先ほどちゆりさんを庇い、『死霊』に殺されてしまったのは……彼です」

「……っ。は……?」

 

 頭の中が、一気に真っ白になるかのような。例えるならば、そんな心地だった。

 判らない。理解できない。噛み砕けない。飲み込めない。殺された? 誰が? ──進一が? 冗談を言っているのか? このタイミングで? そんなのあまりにも不自然だ。だとしたら、彼女が口にした言葉は真実? 本当に、本気の本気でそんな事を言っているのか? なぜそんな確信が持てる? 結界の効力? 人間と『死霊』の位置を把握する事が出来て、誰が生きてて誰が死んでいるのかも判別する事が出来るから。故に、進一の死を感知する事が出来たとでも?

 

 止まらない。思考が、一向に止まる気配もない。混乱の渦中から抜け出す事が出来ない。

 身体が。心が、拒否している。

 霍青娥が口にした言葉を、受け入れてしまうのを──。

 

「ふざけないでッ!!」

 

 どんっと、そんな音と共に流れ込んでくる怒号。それにより、メリーの思考は瞬時に現実へと引き戻された。

 弾かれるように顔を上げる。聞こえてきた大きな音は、受付テーブルが強打された音だ。そしてあの怒号は、蓮子の口から飛び出してきたもの。見ると、蓮子は文字通り身を乗り出す勢いで青娥に詰め寄っている様子だった。

 身を乗り出す際に、両手を勢いよく受付テーブルに叩きつけたのだろう。先ほどまで表面上は保てていた()()()()()()()()さえも、既に彼女からは欠落してしまっている様子で。

 

「何を……! 何をいきなり訳の分からない事を言っているのよ!? 殺された……!? 進一君が、『死霊』に……!? それは、冗談で言っているつもりなの!? 笑えないわ! 全ッ然! 笑えない……!!」

「冗談? この状況で、そんな無意味な事なんて言いませんよ。私は事実だけを口にしています。岡崎進一さんは、恐らく『死霊』に殺されました。『死霊』と接触した直後、私の結界でも彼を探る事が出来なくなっています。それが意味する事は、即ち……」

「……ッ!!」

 

 何かを言い返そうとして、けれども言葉が詰まってしまっているような様子。受付テーブルに置かれた蓮子の拳には震えるくらいの力が込められており、表情にだって余裕がない。

 狼狽。宇佐見蓮子のそれは最早、平静なんて保てぬ程に大きく膨れ上がってしまっていた。

 

「死ん、だ……? 本当に、進一君が……? 死ん、じゃって……?」

 

 掠れ、震えた声で蓮子が呟く。

 見開かれた彼女の瞳が震えている。混乱に支配された彼女は、最早目の前にいる青娥の姿さえも見えなくなっている様子だった。

 先ほどのメリーと同じだ。恐らく彼女もまた、思考の渦に飲み込まれてしまっている。突拍子もない事実を受け入れる事が出来なくて、そんな事はないはずだと必死になって否定して。けれども嫌な予感というのは、往々にして否定するほど強く膨れ上がってしまう。事実を否定するよりも先に、確たる証拠も見つからないまま確信めいた感覚だけに支配されてしまって。

 そんな感覚から逃れる事も叶わず、抑圧された感情はやがて爆発を引き起こす。

 

「進一、君……」

 

 それは、そう。然しもの宇佐見蓮子もまた、例外ではない──。

 

「進一君ッ……!」

「蓮子……?」

 

 メリーが気づいた頃には、もう遅かった。

 進一の名前を口にして、乱暴に踵を返した蓮子は、そのまま勢いよく駆け出してしまったのだ。メリーが状況を飲み込む前に蓮子が入口の扉を開け放ち、病院の外へと飛び出していく。そんな彼女の姿を認め、メリーが事態の深刻さに気がついたのは、ワンテンポほど遅れてからの事だった。

 

「蓮子っ!?」

 

 一人で飛び出していったのか? 進一の事を聞いて、なりふり構わず? 未だ『死霊』が徘徊している可能性が高いというのに。

 それほどまでに、彼女は追い込まれていた。冷静な判断なんて下せる状態ではなかったのだ。

 

(何をしているのよ、私は……!)

 

 メリーは息を詰まらせる。自分が蓮子を支えるのだと、そう決心したばかりじゃないか。

 それなのに。そんな自分自身さえも、狼狽と混乱で蓮子の事を気にかけられなくなってしまうなんて。

 

(追いかけなきゃ……! でも……)

 

 メリーは青娥を一瞥する。彼女もまた、余裕を失っているかのような表情を浮かべている。この状況は、やはり青娥が望んだものではなかったという事か? だとしたら、彼女の真の目的は一体──。

 

(ううん、違うわ……。今は……!)

 

 気になるが、天秤にかけるまでもなかった。青娥の事か、蓮子や進一の事か。この場で優先すべき事がどちらなのかなんて、そんなの最初から明らかじゃないか。

 

「蓮子! 待って……!」

 

 メリーだって、なりふり構ってなんかいられない。

 飛び出して行ってしまった蓮子を追いかけて、メリーもまた病院の外へと走り出すのだった。

 

 

 *

 

 

「待って下さい、お燐さん」

 

 岡崎進一の死。それを青娥から聞かされた蓮子とメリーが、揃って病院を飛び出して行ってしまった。

 まさか、本当に。本当に進一は死んでしまったのだろうか。その点がお燐もにわかには信じられず、胸中の混乱は限界をとうに超えている。故に一刻も早く、この目で事実を確かめたかった。

 ──それに、蓮子達の事も心配だ。もしも彼女達だけの時に『死霊』と遭遇してしまっては、成す術なく殺されてしまうかも知れない。そういう意味でも、早く彼女達を追いかけなければ。

 

 けれども、お燐も蓮子達を倣って駆け出そうとした直後の事だ。

 唐突に、青娥に呼び止められてしまったのは。

 

「何……!? あたいは早く、蓮子達を……!」

「いえ。これを受け取って下さい」

「え……? わっ、わわ……!」

 

 振り向くと、不意に何かを投げ渡される。反射的に手を伸ばし、お燐はそれをキャッチした。

 危ない。何とか上手く受け取る事が出来たものの、落としてしまったらどうするつもりだったのだろう。青娥に投げ渡されたのは、掌サイズの小瓶だった。

 中に何かが入っている。液体である事くらいはお燐でも認識できるが、それが何の用途で使われるものなのかは流石に判別出来ない。

 

「な、何これ……?」

「私が調合した飲み薬です」

 

 お燐が疑問を口にすると、その答えは青娥の口からすぐに返ってきた。

 

「薬の効力は、まぁ、掻い摘んで説明すれば鎮痛効果と、欠乏した妖力の回復です。と言っても、それ一本で完治出来るような代物ではありませんが。それでも多少は楽になると思いますよ」

「く、薬……? え、何? どういうつもり……?」

「貴方、かなり無理をしているでしょう?」

 

 困惑するお燐に対して、間髪入れずに青娥は続ける。

 

「蓮子さん達を追いかけるのなら、少しでも体調を整える事をおすすめします。途中で倒れでもしたら元も子もありませんからね」

「…………っ」

 

 何だ。彼女は一体、何を考えている?

 お燐の困惑は収まらない。今の青娥の口振りから察するに、彼女はお燐の身を案じているのだろうか。確かに今のお燐は見るからにボロボロな様子となっているが、それでも青娥が心配してくれるなんて流石に信じられない。

 お燐は再び視線を下ろす。目に入るのは、飲み薬が入っているらしい小瓶。その効力は鎮痛効果と、妖力の回復。

 

(まさか、毒でも入っているんじゃ……?)

 

 油断をさせておいて、ここで自分を始末するつもりなのではないか。──と、そんな事を考えてしまうのも仕方がない状況な訳で。

 

「警戒していますか? まぁ、そうでしょうね。貴方の気持ちは至極正常なものです。そもそも、貴方にそんな怪我を負わせたのも、元を辿れば私ですしね。そんな相手に薬を渡されても反応に困りますか」

「それは、そうだよ……。あんた、一体何を考えてるの……? これだけ好き勝手な事をやったあんたが、いきなりこっちの手助けをするなんてとても思えない。薬だと称して毒を盛るつもりだとでも考えた方が、余程しっくりくる……」

「毒……。毒を盛るつもり、と来ましたか……」

 

 再び青娥が自嘲気味に苦笑する。それはどこか、物哀し気な雰囲気を伴っているような気がした。

 

「ええ、判っています。今更無理に取り繕うつもりもありません。貴方にとって、私は悪。その認識を改めさせるつもりだってありませんよ。──だけど、それでも。これだけは言わせて頂戴」

 

 青娥の表情が変わる。これまではどこか無気力というか、投げやり気味というか。何もかもがどうでも良くなってしまったかのような、そんなフワフワした感情しか伝わってこなかったのだけれども。

 何かが、変わった。

 

「私は誰も死なせない。誰も殺さないし、殺させない。騙して毒を盛るだなんて、そんなの以ての外よ」

 

 毅然とした表情で、青娥はお燐にそう告げる。

 

「私にとっては、“死”こそが最大の敵なのよ。だから私自らが死を振りまくなんて、それこそ死んでも御免だわ。こんな状況でも、その信念だけは絶対に捻じ曲げない」

「青、娥……?」

 

 真っ直ぐな瞳に射抜かれていた。それは、嘘や適当な誤魔化しを口にしているような者の瞳などではない。

 誰も死なせない。誰も殺さないし、殺させない。自らが死を振りまくなんて、それこそ死んでも御免だ。

 少なくとも、その言葉だけは心の底からの本音であると感じられる。何を考えているのかがまるで読み取れない相手だったが、今の言葉を聞いてお燐の心は確かに揺さぶられたのだ。──彼女にだって、確たる信念があるのだ、と。

 

 無論、青娥の暴挙をそう簡単に赦すつもりはない。だが、彼女にも彼女なりの事情があったのではないかと。──それくらいなら、察する事も出来るから。

 

 お燐だって、後ろめたい行動を取っていた事がある。自分の目的の為、幻想郷への道を探す進一やメリー達をずっと騙し続けていた。

 だからだろうか。青娥の言葉を、真意を、少しでも理解しようとしてしまうのは。

 

(だったら、あたいは……)

 

 故に、火焔猫燐は意を決する。

 手に持っていた小瓶の蓋を勢いよく開け放ち、そして。

 

 中の薬品を、一気に呷って飲み干した。

 

「おえっ……」

 

 ──とんでもなく苦かった。

 

「な、何これ、まっず……!? えっ、でたらめに苦いんだけど!?」

「薬ですし。味は保証してませんね」

「さ、先に言ってよぉ……!」

 

 不味い、不味すぎる。一体なんだ、この苦さは。味覚がおかしくなりそうだ。味の保証はしていないのだとしても、もう少し何とかならなかったのだろうか。一体何を調合したらこんな味になるんだ。

 

「うぅ、苦すぎて気持ち悪い……。口の中が大変な事になってるよ……」

「良薬は口に苦し、という言葉もありますよ」

「それは、そうかも知れないけど……」

 

 そこまで口にして、お燐は気づいた。

 

「あ、あれ……? 何だか、身体が……」

 

 キョンシーを退ける為の自爆特攻と、それ以降の無茶苦茶な身体の酷使。幾ら妖怪の身とは言え、青娥の指摘通りお燐はかなり無理をしてここまで辿り着いた。蓮子達に余計な心配をかけぬようあまり表には出さなかったが、傷口はずっと痛かったし妖力はずっとすっからかんで、今すぐにでも倒れてしまいたい程だったのだ。

 けれども、どうだろう。少しずつだが、身体の痛みが引いてきているような気がする。おまけに妖力もほんの少しだがマシになってきた。万全とは程遠いが、蓮子達を追いかける分には何も問題はなさそうだ。

 

 身体の怠さが引いていく。気休めな部分もあるかも知れないが、随分と楽になってきた。

 

「これは……」

「どうやら、ちゃんと効いてきたみたいですね」

 

 困惑気味に身体の調子を確かめるお燐に向けて、青娥は補足する。

 

「先程も似たような事を言いましたが、その薬は一本で怪我を完治させるような便利な代物ではありません。あくまでも応急処置……。殆ど気休めのようなものです。あまり無理はしない方が賢明かと」

「いや、充分過ぎるくらいだよ。まさか、こんな薬が作れるなんて……」

「まぁ、これでも一応、こっちの世界ではこの病院の『先生』という事になっているので。それなりに知識は心得ていますよ」

 

 「永遠亭にいた薬師には遠く及びませんが」と青娥は付け加える。謙遜しているのか何なのかは判らないが、お燐にとってはこれでも充分なサポートである。このまま無理を貫き通して蓮子達を追いかけるつもりだったが、この調子ならこれ以上足手纏いになるような事は避けられるはず。

 

「……一応、お礼は言っておく。ありがとう、助かったよ」

「お礼なんて結構です。──引き留めて悪かったですね。早く蓮子さん達を追いかけて下さい」

「うん……」

 

 話を切り上げる青娥。それに頷いて答えて、お燐は踵を返す。

 だが、駆け出す前にどうしても気になった。このまま蓮子達を助けに行って、もう一度青娥と接触出来るとは限らないから。故に、今ここで聞いておきたい。

 

「ねぇ、青娥。最後に一つだけ答えて」

 

 振り向かぬまま、背中の先にいる青娥へと疑問を投げかける。

 

「過去の幻想郷から子供の妖夢を連れて来て、このタイミングでキョンシー達に襲わせて。あんたは……。あんたとちゆりは、結局何が目的だったの?」

 

 青娥の投げやり気味な様子から察するに、恐らく彼女の本来の目的は達成出来なかったのだろう。だが、それでも聞いておきたかった。自分達は一体何に巻き込まれ、そしてどんな結末に辿り着いたのか。どうして妖夢ばかりがあんな目に遭わなければならなかったのか。

 それに、知りたかった。

 霍青娥の本心を。そしてちゆりが、一体何を夢見て青娥と協力していたのかを。

 

 ちゆりの事を、諦めたくない。

 進一達にも口にしたお燐のそんな本心は、ずっと胸の中に在り続けていたのだから。

 

「私達の、目的……」

 

 そして青娥は口にする。

 お燐が呈した、疑問の答えを。

 

「──未来を変えたかった」

 

 ただ、静かに。けれども、凛と。

 

()()()を、信じてみたかった」

「可能性……」

 

 抽象的な答え。だが、それが適当な誤魔化し等ではない事はお燐には伝わってきた。

 その言葉が、全てなのだろう。霍青娥は未来を変えられる可能性を信じて、妖夢を過去からこの時代に連れてきた。そして、託そうとしたのだ。自分達では成し遂げる事の出来なかった変革を。閉ざされてしまった未来への可能性を、彼女なら掴み取る事が出来ると信じて。

 

 無論、その目的の為にそれ以外をあまりにも顧みなかった事については、簡単に赦される事ではない。だが、彼女の奥底に確かに存在する真意だけは、お燐にだって理解する事が出来るから。

 お燐だって同じだ。自分達では最早、この醜悪な結末を変革させる事は出来ないけれど。

 もし。もしも、本当に。あの子に──魂魄妖夢に、それだけの希望が。無限の可能性が秘められていると言うのなら。

 心の底から信じてみたいと、切に思う。

 

「そう……」

 

 短く頷き、お燐は改めて前を向く。

 

「それじゃあ、あたいはもう行くよ」

「……ええ。貴方は貴方の好きにすれば良い」

 

 最後にそれだけを言い残し、お燐もまた病院を後にする。

 青娥は既に諦めているのかも知れない。未来を変える事は出来なかったのだと。希望は潰えてしまったのだと。可能性は途切れてしまったのだと、そう悟っているのかも知れない。

 だけど、お燐はまだ諦めない。希望は捨てない。

 

 確かに状況は最悪なのかも知れない。最早取り返しのつかない段階にまで到達してしまっているのかも知れない。だけど──。だけど、それでも。

 自分達は生きている。自分達は負けていない。

 

『なんで、諦めないの……?』

『決まってるわ!』

 

 思い出す。

 泥臭くも希望にしがみつき続けた、彼女の言葉を。

 

『どうしようもないくらいに執念深いからよ! この私はね……!』

 

 ああ、そうだ。絶望的な状況に立たされても尚、彼女は──夢美は、絶対に諦めてなかった。

 だったら今度は、お燐がその執念深さを見習わせて貰う事にしよう。


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