争い事のない平和な世界。誰もが笑顔になれる優しい世界。
そんなもの、結局の所は夢物語に過ぎなかった。
この世界は、醜悪だ。常に毒気に満ち満ちている。少しでも気を抜けば、その“毒”によって一瞬に刈り取られる。例えどんなに順風満帆な日々を送っていたとしても、その終焉はある日突然訪れる。
終焉の瞬間は、誰にも予期する事なんて出来ない。それは多分、神でさえも。
この世界に存在する時点で。その概念から、理から、逃れる事なんて出来やしない。
「……………」
死。それは、生命の終着。夢と現実の終幕。──いや、そんな表現など生温い。
それはあまりにも理不尽な運命だった。それはあまりにも不条理な結末だった。
「ぁ……」
声が漏れる。頭の中が真っ白になって、それでも尚、無意識に。
満月の夜だった。八畳ほどの和室。襖の隙間から月明りが差し込まれ、暗闇の中でも青白い光が限定的に照らされた空間。その真ん中で、一人の少女が倒れ伏している。
見知った少女だ。
──それなのに。
「ぁ、あ……」
どうして。
「ぇ、ぅ……あ、ぁ……」
どうして、こんな事になる。
「よし、か……」
宮古芳香。月明りに照らされた闇夜の和室。そこに倒れ伏した一人の少女は、苦痛に満ちた表情のまま──
「なん、で……。これ……」
目立った外傷は見られない。ただ、横転したお膳と、直前まで食べていたであろう食事の残骸が散乱しているのみ。──いや、恐らくこの食べ物が問題だ。状況的証拠から考えて、芳香は食事をしている最中に激しい苦痛に見舞われ、悶え苦しみ、のたうち回って。けれども、結局。
「死──」
──彼女は。
宮古芳香は、私と交わした約束の通り漢詩人として名声を高めていった。私も私で仙人としての修行と研究を続けていたのだけれども、やっぱりちょっと気になって時たま俗世の様子を確認していたのだ。
芳香の話題を耳にしたのは、彼女と別れて二年ほど経ったある日の事だった。
漢詩人として世間の注目を集めている少女がいる。彼女の詠む詩が、他の漢詩人達の中でも高い評価を受けているのだと。そんな情報を手に入れる事が出来た。
嬉しかった。私との交流はほんの一ヵ月間だけだったのかも知れないけれど、それでも彼女の名声を聴いて、私は自分の事のように喜んだ。
無論、私との交流のみが彼女の詠む詩の全てを形作っている訳ではないだろう。それはあくまで、一つのきっかけに過ぎないのかも知れないけれど。それでも、それだけでも、私は充分だった。芳香が、自らの夢へと向かって躍進する事が出来ているだけで、私は──。
そう。漢詩人としての芳香の人生は、順風満帆だった。──順風満帆
漢詩人として躍進した芳香の詩は、世間にも影響を与える存在になりつつあった。詩だけでなく、宮古芳香という少女本人もまた、大きな存在に成長しつつあったのだ。
風の便りで聞いた話によると、政治界のお偉いさん中にも、彼女の事を一目置く人物が何人か存在していたらしい。漢詩人という観点で俗世を紐解き、時代の流れも見据えつつある少女の事を。
だけれども。
そんな名声を手に入れる事が出来ても尚、芳香は私との約束を忘れる事はなかったのだと思う。私という仙人と再会し、そして弟子入りする。私と交流したあの一ヵ月間で得た知識と教えは、芳香の中に根強く残り続けていた。
芳香は、私から得た道教の教えを抱き続けていたのだ。──自然を崇拝し、自然と一体になる事で不老不死へと至る教え。神道でも仏教でもない。あの豊聡耳様もまた、自らの求める真理探究の為に信仰し続けていた一つの宗教。
二百年前の宗教戦争に勝利した仏教徒達が危険視している、第三勢力。
そう。
漢詩人としての名声を高め、遂には政治界にも影響を与え始めた宮古芳香という少女。彼女は仏教ではなく、道教を信仰しているらしい。豊聡耳神子も信仰していた、あの道教を。──そんな認識が、仏教徒達の間にも広まり始めた。
彼らは未だに道教を危険視していた。道教に対して、あまりにも神経質だった。
故に、恐れた。道教を信仰する宮古芳香がこのまま大きく成長すれば、自分達の脅威になるのではないだろうか。今度こそ、道教によって世は支配されてしまうのではないか、と。
第二の豊聡耳神子の誕生。それが果たされてしまえば、仏教の立場は今度こそ危うい。
だから──。そうなる前に、芽を摘もうとした。
仏教徒の中でも特に過激な一派が、遂にはそれを実行に移したのだ。平たく言ってしまえば、そう、暗殺だった。
芳香の暗殺計画を私が耳にしたのは、本当に偶然の事だった。封印されたままの豊聡耳様の状況を確認する為、定期的に仏教徒達の動向を探っていたからこそ、私はその情報を掴む事が出来た。
最初は何かの間違いかと思った。どうして芳香を狙う必要があるのだと、そんな疑問が尽きなかった。けれども情報を収集するうちに、先に述べたような事実が浮き彫りになってゆく事になり──。
気がつくと、私は行動を開始していた。これまであくまで動向を探る程度だったのに、その時初めて仏教徒達と直接的な接触をする事になる。
流石に人を殺すような事はしない。でも、それ以外の手段なら躊躇なく選択した。催眠術の類も行使して直接情報を聞き出し、終わった後に記憶を消す事も抜かりない。ただの人間が相手なら、造作もない事だった。
必死だった。ただ、芳香を助けたいその一心で、形振りなんて構っていられなかった。
やがて私は、ようやく仏教徒達の計画の全貌を把握する事になる。いつ、どのタイミングで計画を実行に移すのか、という情報も含めて。
だけれども。
あまりにも、
紆余曲折を経て現場に到着し、邪魔な仏教徒達を一人残らず催眠の道術で眠らせて。そして、ようやくここまで辿り着く事が出来たというのに。
──私が到着する頃には、芳香は既に死んでいた。
何も知らないまま食事に毒を盛られ、そして──。
「よしか……」
倒れ伏し、物言わぬ芳香に対し、私は声をかける。
「芳香……。芳香、芳香っ……」
何度も。何度も、何度も、何度も。
歩み寄り、身体を揺すって。それでも尚、何の反応を示さない彼女の姿を目の当たりにして、私は
「あっ……」
嘘じゃない。夢でもない、妄想でもない。
最早これは、疑いようのないくらいに紛れもなく。
「あ、あぁ……!」
──現実。
「ああああああああッ!」
私は吼えた。感情の爆発に抗う事も出来ず、悲鳴にも似た大声を上げてしまった。
屋敷中の人間は道術によって眠らせている。静寂に満ちた暗闇の中、私の悲痛な叫び声だけがどこまでも木霊していた。
──どうして。
どうして、どうして、どうして。
どうしてこんな事になる? どうしてこんな結末に辿り着く? これが運命だとでも言うのか。私や豊聡耳様が追い求めた、真理の一端だとでも言うつもりか。
そんなの、認められる訳がない。
だって、芳香とは約束していたのだ。いつか必ず再会するのだと。その時は彼女を弟子にするのだと。私の中でそれは、大切な約束の一つだったはずなのに。
だけどそれは、阻まれた。いとも容易く、壊されてしまった。
──死の運命だ。芳香は今頃、漢詩人としてもっと成長出来ていたはずなのに。
「わた、し……」
宮古芳香は殺された。道教を危険視する仏教徒の過激派によって。──道教を信仰してしまったばかりに。
「わたしの、せい……?」
──私と、出会ってしまったばかりに。
「あ……」
それを強く認識してしまった、その瞬間。
「ぅ……え、ぁ……あ」
私の中の何かが、
「あ、は……。ふ、ふふっ……。ふふっ、ふふふふッ……」
一瞬、回路が焼き切れたような。そんな感覚を覚えた。
「アッハハハハハハハハ──!!」
何故だろう? 判らない。
私は笑っている。心の中は、悲痛な感情で満ちているはずなのに。面白い事なんて、何一つとして存在しない筈なのに。
笑っている。涙を流しながらも、私は笑い続けている。
「ふ、ふふふふっ……。フッ、フゥ、ふぅ、ふぅ──……」
苦しい。息が上手く出来ない。
けれども、抑えられない。感情を、勝手に湧き上がってくる衝動を。私は、私自身で制御する事が出来ない。ただ──そう。頭の中を支配しているのは、ある種の悟りにも似た感情で。
「そう……。そうなの、そうなのね──」
震える声。変な笑いを上げてしまった所為か、喉の奥が掠れているような感覚も覚えている。
動悸が激しい。息も乱れ続けている。喋る度に喉の奥から鋭いくらいの痛みが走り抜けているようだ。
だけれども。この時の私は、既にそんな痛覚にも意識を傾ける事が出来なくなっていた。
「結局……。死の運命は、どこまでも私に付きまとってくるのね……」
そうだ。
この時、私は確信したのだ。
「私だけじゃない……。私に関わった人にさえも、牙を剥いて……」
私は死ぬのが怖かった。自分という存在が消えてしまうのが、何よりも怖かった。
だから、逃げ続けた。“死”がにじり寄ってくる度に、私は全力で逃げ出して。父を喪い、無気力になっていた時でさえも、“死”に対する絶対的な恐怖心だけは私の中に残り続けていた。
逃げて、逃げて、逃げ続けて。その先で豊聡耳様や、芳香と出逢って。
勘違いしていたのだ。生きる目的を見出せた私は、“死”から逃れる事が出来たのだと。
だけど、結局。
私は“死”から逃れていない。死の運命はいつだって、私に付きまとい続けていた。例え仙人として延命を続ける事が出来ていたとしても、
そればかりか、巻き込んだ。芳香は私と関わった所為で、私に纏わる死の運命に絡み取られてしまったのだ。
私と関わった所為で芳香は死んだ。
芳香をこんな結末に導いたのは、他でもない。──この私だ。
それに。
「……芳香だけじゃない」
豊聡耳様。仏教徒達に封印されている状態で、厳密に言えばまだ死んでしまった訳ではないけれども。
だけど、仮に復活する事が出来たとして、その後どうなる? 私と関わってしまった以上、豊聡耳様も死の運命に絡め取られてしまうだろう。約束という繋がりを持ってしまっている以上、私を取り巻く死の運命は、必ず豊聡耳様にも牙を剥く。そうなってしまったら。
「うっ……」
吐き気がする。私は思わず口を覆い、そして蹲った。
死。それは生命ある者にとっての最大の天敵。──猛毒だ。それがこの世界には蔓延している。生きている以上、人はそんな猛毒に必ず侵されてしまうのである。
私はそんな“死”の事が怖くて、ずっと逃げ回り続けていたけれど。そのツケが回り、私以外の誰かの事も巻き込む事になるのなら。
「豊聡耳様……」
逃げ続けるのは、これで終わりだ。
「ふ、ふふっ……」
身体が動く。吐き気の代わりに湧き上がってくる、
憎悪。“死”という理不尽な天敵に対する、底の知れない程に強大な──。
「待っていて下さい、豊聡耳様……」
胸の奥の衝動に導かれるまま、私は立ち上がる。
「私はもう逃げません。どんな手段を利用してでも、私は真の意味での
そこにはいない、彼女に向けて。
虚空を見つめ、私は口にする。
「そうすれば……。そうすれば、貴方の事だけは──」
──助ける事が出来ます。
これは宣戦布告だ。死の運命に対する、私からの宣戦布告。仙人が目指す不老不死とは訳が違う。もっと、徹底的。徹底的に、超越する。完膚なきまでに叩き滅ぼす。
“死”を。生命ある者にとっての、天敵を。
「だから、芳香。豊聡耳様──」
どうか。
どうか、私を──。
【予告】
西行妖は満開に開花し、内包されていた絶対的な“死”が解き放たれた。
覚醒した西行寺幽々子の宣戦布告により、幻想郷は未曾有の危機に襲われる。
けれどもそんな中、未来からの来訪者が幻想郷に現れた。
彼女達は語る。迫り来る運命を。そして導かれる結末を。やがてこの世界が辿る事になる、一つの可能性を。
交錯する意思。ぶつかり合う信念。絶対的な“死”が蔓延し、未来と現在が交わる運命の特異点で。
少女は再び、剣を持つ。
桜花妖々録
第参部『墨染の桜篇』
2022年初頭、連載予定。