桜花妖々録   作:秋風とも

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「邪仙に堕ちゆく#4」

 

「どう、して……」

 

 苦しい。胸の奥が、痛い。

 知っている。この感覚を、私は知っている。この、胸の奥から黒い何かが滲み出てくるような感覚。その覚えが、私にはある。

 それは、あの時。父の死を死神から聞かされたあの瞬間、胸の中に生じた感覚。

 絶望、とでも表現できようか。光が断たれ、突然暗闇の中に放り込まれるような。そんな、感覚。

 

「何で、こんな……」

 

 水銀中毒による死を回避する為、尸解仙に至る事を選択した豊聡耳様。丙子椒林剣を苟且の体にして眠りについた豊聡耳様を見て、周囲の人間は彼女の死を認識した。豊聡耳神子という為政者は、今日この瞬間に死んだのだと。そんな確信が確かに認知されていったのだ。

 

 けれども。そんな中で、不測の事態が発生した。

 仏教徒の中に、彼女の死を怪しむ者達が現れたのだ。しかもその中に発言力のある信者も何人か含まれていたのだから、尚厄介だった。

 私は酷く混乱した。だって豊聡耳様は、多くの人に慕われていた、聖人と呼ぶに相応しい程に徳の高い人物じゃないか。それなのに、なぜそんな疑いが生じる? どうして仏教徒達は、そんな豊聡耳様に疑いの目を向けている?

 

 調べてみると、その原因には意外と簡単に行き当たった。

 道教だ。表向きは仏教を信仰して政治に参加し、裏では道教を信仰して真理を探究する。豊聡耳様のそんな二足の草鞋が、どこからか仏教徒達に漏れていたらしい。

 信仰の高い仏教徒達は、こう思ったはずだ。豊聡耳神子は、仏教を冒涜している。目的の為に、仏教を利用しているだけに過ぎない。彼女の本質は道教にある。いつしか仏教を内側から滅ぼし、本命である道教で世を統一するつもりなのではないか、と。

 

 当時、宗教戦争は廃仏派の中心である物部氏が滅びた事により、仏教の勝利という形で終結に向かいつつあった。そんな状況が、仏教徒達をより神経質にさせていたのかも知れない。勝利したとは言え、戦争で疲弊し切った自分達を道教徒が叩きにくるのではないか──と。

 

 だから、封印した。

 豊聡耳様の復活を恐れて、仏教徒達は彼女に封印を施した。──彼女だけじゃない。共に眠りについた布都さん達までも、だ。仏教徒達もまた、豊聡耳様の才能を何より理解していたから。彼女が敵対する可能性を考えると、その前に対策を講じておくべきだと。つまりは、そういう事だろう。

 豊聡耳様は、あまりにも優秀過ぎたのだ。だからこそ、こんな──。

 

「いや……。違う……」

 

 ──そんなのは、体の良い言い訳に過ぎない。豊聡耳様が、どうして封印される事になってしまったのか。そんなの、考えるまでもなく明確であるはずなのに。

 

「私が……」

 

 そう、これは。

 

「私が、余計な事をしてしまったから……?」

 

 私の所為だ。

 仏教と道教を一度に信仰する事を豊聡耳様に提案したのは、他でもない私だ。私がそんな助言をするまで、豊聡耳様はそのような発想には至っていなかった。

 いや。そもそも根本的に、道教を持ち込んだ事自体が間違いだったのではないだろうか。道教を知らなければ、豊聡耳様きっと仏教のみを信仰して、未だ為政者として活躍する事が出来ていたはず。そんな可能性さえも潰してしまったのは、他でもない──。

 

「私……」

 

 吐き気がする。これまで感じた事もないような、底の知れない罪悪感。それが私の心に重くのしかかり、抱いていた希望さえも蝕んでゆく。豊聡耳様達の封印。仏教徒の暴挙。その原因を考えれば考えるほど、私の胸は痛いくらいに締め付けられて。

 

「…………っ」

 

 息が詰まる。本当に、本気の本気で、胸の奥が苦しい。

 目的の為なら家族を欺く事さえも厭わない。かつての私は、天からそんな風に称される通り、他人どころか父親以外の家族の事さえも関心を抱かなかった人間だったはずなのに。今の私は、豊聡耳様の事ばかりを考えている。どうすれば、豊聡耳様達を救う事が出来るのか。どうすれば、豊聡耳様達をこんな事に巻き込まずに済んだのだろうか。

 ──駄目だ。

 一人だと、どうしてもネガティブな事ばかりを考えてしまう。後悔ばかりが、際限なく募り続けてしまう。過去の自分の行動が、こんな結果を招いてしまったのだと。

 

「……いけない」

 

 そこまで考えた所で、私は思考を打ち切る事にする。このままあれこれと過去を思い返した所で、ますます気が滅入るだけだ。精神状態が不安定になってしまったら、百年単位でやってくる死神を撃退する事も出来なくなってしまうかも知れない。

 

 それは駄目だ。

 だって私は、豊聡耳様と約束したじゃないか。彼女が目覚めた暁には、共に真理を目指すのだと。

 

「そう、よね……」

 

 考えるべきは未来の事だ。過去の後悔などではない。

 けれども、どうする? 仏教徒達が豊聡耳達を封印しているのなら、連中を撃退してその封印を解いてしまおうか?

 

「……駄目ね」

 

 冷静に考えて、その案は却下した。仙人である私が強引に仏教徒達を突破しようものなら、豊聡耳様の立場は更に悪くなってしまう。反逆者としての烙印を、決定的に押されてしまう。

 実力行使は駄目だ。かと言って、私が何らかの説得を試みたとしても恐らく効果はゼロだ。道教を齎した張本人である私の言葉なんて、きっと仏教徒達は聞く耳を持たない。

 いや。仮にその問題が回避できたとしても、そもそもこんな状況では尸解仙としての復活が不安定な形になってしまいかねない。そうなると、今度は死神の撃退が難しくなるという別の問題も浮上してしまう。

 

 ──駄目だ。私が動いた所で、豊聡耳様を助ける事は叶わない。仏教徒達が道教を敵対視している以上、仙人である私はあまりにも不利だ。

 仏教を巡る崇拝派と廃仏派との宗教戦争は、崇拝派の勝利で終わった。けれどもその結果、こんな状況が待ち受けているなんて。

 

「豊聡耳様は、別に仏教徒達を裏切るつもりなんてなかったはずなのに」

 

 思わずそうボヤいてしまうが、だからと言って状況を打開出来るような策がある訳でもなく。

 結局の所、待つしかないのだ。幸いにも、豊聡耳様達の魂は消滅してしまった訳ではない。仏教徒達に封印されてしまっただけで、いつの日か必ず復活の時は来る。道術の効力は、未だ持続しているのだから。

 

 故に、好機を信じて待つ。それしかない。

 そうだ。豊聡耳様は、とても優秀な人物だったじゃないか。聖人と呼ぶのに相応しい、徳の高い高潔な人物──。そんな彼女の能力は、これからの政治面でもきっと必要となるはずだ。

 いつの日か、限界が来る。そして豊聡耳様が必ず必要となる。

 仏教徒達は、封印を解くしかない。それは確定事項だ。彼らはいつの日か気づくだろう。自分達が、いかに無駄な事をしていたのか。どんなに無意味な事に時間と労力を費やしていたのか。それに気づいたその時こそ、豊聡耳様の復活の時だ。

 

 私は信じた。希望を捨てず、絶望を払拭して。信じて、信じて、どこまでもひたむきに信じ続けて。

 ──それから、二百年程度が経過した。

 

 

 ***

 

 

 豊聡耳様は、未だ復活していない。仏教徒達との根比べは続いていた。

 仏教徒達の意識が変わる事を期待して、こうして待ち続けていたのに。結果として、状況はあまり変わらない。相も変わらず彼らは豊聡耳様達を危険視し、代が変わっても封印を止める事はなかった。

 やきもきする。本当に、こんな調子で豊聡耳様が復活出来る日は訪れるのだろうか?

 けれども、だからといって私の状況だって相変わらずだ。仏教徒に対して直接何かを働きかける事も出来ず、ただ待ち続ける事しか出来ない。

 

 流石に心が折れそうだった。何も出来ないという状況が私の焦燥を助長させ、精神は着実に摩耗していく。

 それでも私が諦めなかったのは、豊聡耳様達と過ごした日々が思い出として残っている事が大きかった。いつの日か、またあの日々に戻れるのなら。それを取り戻せる日が訪れるのなら。そう考えると、私は希望を捨てずに待ち続ける事が出来たのである。

 

 好機を信じて待つ。こう心に決めたじゃないか。

 だから私は、まだ頑張れる。立ち止まらずに前に進める。

 

 例えやきもきしようとも、焦燥感を覚えようとも。──それで心が折れそうになろうとも。

 豊聡耳様達と真理を探究する日々が、いつか再び訪れるのならば。それを夢想して、私は希望を繋げる事ができたのだ。

 

 ──そんなある日の事だった。

 豊聡耳様の復活を信じ、一人でも出来る限り真理を探究し続けて。たった一人で研究の日々を送り続けていた、あの頃。

 私は、一人の少女と出逢った。

 

「透き通った空気。晴れ渡った空。そして辺り一面に広がる紅葉。──うん。実に秋らしくて、気持の良い気候と美しい景観!」

 

 それは、木々の葉が紅色に染まる季節。秋入梅が明けた晴れの日の出来事。

 人里からほんの少しだけ離れた山の中。その山腹の見晴らしの良い開けた林道で、私はそんな呟きを零す見慣れぬ少女の姿を見つけた。

 ここは私が仙人としての修行と研究の為に利用している山だ。この先に誰にも使われていなかった小さな小屋があり、私はそこを少々拝借させてもらっている。

 元より仙人は俗世から離れた存在。豊聡耳様と共にいた時は彼女の立場の問題もあって、私もほぼ人里で生活していたようなものだが、本来ならばこういった生活が仙人にとっては普通だ。──人の世を見守る事はあれど、必要以上に干渉しない。そう言った意味では、この山は仙人の修行には都合の良い場所だった。

 

 だから、少し驚いた。

 確かに林道として多少──と言っても殆ど獣道のような有様だが──は整理されているとは言え、普段こんな所で人なんて見かけなかったから。しかも少女である。一瞬、仙人なのではないか──と思ったけれど、そういう訳でもないらしい。

 風変わりな少女だった。身につけた衣服からはあまり裕福な印象を受けないが、それでもどこか独特な雰囲気を漂わせているような気がする。ただの一般人という訳でもなさそうだ。

 

 まぁ、だからと言ってこんな山の中にいるのも不自然な印象だ。何なのだろう、あの子は。

 

「よし、良い感じ。でも、もう一押し。あと少しで、もっと……」

 

 ボソボソと独り言を続けながらも、彼女は紙に何かを書き記しているようだ。

 ──あの様子。心当たりがあるとすれば。

 

「……詩?」

「えっ?」

 

 思わず言葉を零すと、少女は弾かれるように振り返った。あまり大きな声を出したつもりはなかったのだが、どうやら意外と耳の良い少女であるらしい。

 とは言え、興味を引かれて彼女に近づいていたのも私だ。忍び寄っていた訳でもないし、何となく気配に気づかれていたのかも知れない。

 

「あっ、ご、ごめんなさい……! ひょっとして、この辺に住んでる人ですか……? あんまり人気(ひとけ)のない場所だったから、誰かがいるとは思えなくて……」

 

 慌てた様子でそんな事を口にする少女。私がこの辺りの所有者だとでも思ったのだろうか。

 だとしたら勘違いだ。私だって、勝手に使わさせて貰っている身なのだから。

 

「いえ、謝る必要はありませんよ。この辺に住んでる……という表現はあながち間違っていませんが、別に貴方を咎める気なんてありませんから」

「そ、そうですか……?」

 

 少女はホッとしたような表情となる。怯えさせてしまったのだろうか。これでも表面上、愛想良く振る舞うのは得意な方だと思っていたのに。

 いや、こんな人気のない所で急に現れたら、誰だってびっくりするか。迂闊だった。

 

「えっと……。私の方も、こんな所に人がいるとは思えなくて……。何をしていたんですか?」

 

 少しでも場を和ませる為、私はそう話を振ってみた。私とて、出会い頭に怯えさせてしまうのは本意ではない。

 それに、興味もあった。眠りにつく前の布都さんくらいの女の子が、なぜこんな山奥にいるのか。そしてあの紙に何を書き記していたのか。

 

「わ、わたし、ですか……? あの、ちょっと詩を詠みたくて……。そのひらめきを求めて散歩してたら、ここまで迷い込んでしまったと言うか……」

「詩、ですか」

 

 やはりそうだったか。紙に何かを書き記している姿を見てから、もしやと思っていたのだが。

 

「あ、わたし、実は漢詩人なんです。今日は気持ちのいい秋晴れですし、折角ならそれに因んだ詩を詠んでみたいなぁ、なんて……」

「へぇ、漢詩人……」

 

 聞き覚えのある言葉だ。何を隠そう、私の故郷の国における伝統的な詩である。まさか日本にも伝わっていたとは。渡来して既に二百年以上経っている私だが、全く知らなかった。

 まぁ、それだけ豊聡耳様以外の事に関する俗世に興味を抱いていなかった事になるのだが。

 

「その反応……。漢詩をご存知で? ひょっとして、あなたも漢詩を詠むんですか?」

「いえ、私は詠みませんね。知識として知っているだけで、漢詩人という訳ではありませんので」

「あ、そうなんですね。何だか変わった格好──と言うか、雰囲気が独特なので、わたしはてっきり……」

「格好……。雰囲気……?」

 

 何だその表現は。いや、確かに仙人かつ元々この国の住民ではない以上、他の人と比較して違和感があるのかも知れないが。

 

「あの、それじゃあ、あなたはどうしてこんな所に? 詩を詠みに来た訳ではないんですよね? この辺に住んでるとは聞きましたけど、ここって人里からも少し離れた山奥ですし、何か特別な意図があったり……?」

「私は……」

 

 思ったよりお喋りな子だな、と私は思った。ついさっきまで少し怯えたような反応を見せていたのに、今は私に対して興味津々な様子である。

 初対面でここまで捲し立てられたのは久々な気がする。何だかちょっぴり懐かしいような気分になりつつも、私は答えた。

 

「……修行と研究、ですね。私には、辿り着きたい真理がありまして。まぁ、その為の日々の日課とでも言いましょうか」

「修行と研究? こんな山の中で、ですか?」

「ええ」

 

 答えると、どこかきょとんした表情を向けられた。まぁ、無理はないかも知れない。こんな山の中で修行と研究をしている等と言われても、普通は意味が分からないだろう。こんな反応を返されても自然だと言える。

 程なくして、きょとんとしていた少女はハッと我に返る。失礼な態度を取っていたと思ったのか、彼女は慌てた様子で頭を下げて。

 

「ご、ごめんなさい……! 何だか、こう、ちょっぴり実感が湧かなくて……。それで、考え込んじゃったと言うか……」

「……いや、そうですよね。その反応が普通ですよ。私自身、だいぶ怪しげな事を言っている自覚はありますし」

「い、いえいえ、そんな……! 寧ろ、何だかカッコいいですよ! 山の中で修行なんて、まるで仙人さまみたいです!」

「……仙人」

 

 不意にそんな言葉が飛び出して来て、私は思わず反応してしまった。

 仙人みたい、ね。みたい、ではなく、実際は仙人そのものなのだけれど。いや、厳密に言えば私は仙人として認められていないし、()()()()()と言う表現は強ち間違ってはいないのだろうか?

 

 ──妙な思考になっている。何を動揺しているのだろう、私は。

 この少女は、自らを漢詩人と称していた。であるのなら、私の故郷の国についてもそれなりに勉強しているのかも知れない。故に、仙人に関する知識も有していた、と。

 

「あ、あれ? あの、どうかしましたか……? わたし、変な事を言っちゃいましたでしょうか……!?」

「……いえ」

 

 慌てたままの少女に向けて、私は首を横に振る。

 

「貴方の認識、決して的外れという訳でもありませんよ。仙人……。ええ、確かにその通りです」

「えっ……? それって……」

 

 どこか呆けたような表情を浮かべる少女。私の言葉に戸惑いを覚えているような、そんな印象。

 何だかこの感覚も久々のような気がする。父の死を聞かされて、生きる目的を見失っていたあの頃の私は、いつもこんな風に自らが持っている力を見せびらかしていた。──それくらいしか、出来なかったから。心の渇きを少しでも潤す為に、あの頃の私は必死になっていた。

 豊聡耳様と出逢ってから、久しくそんな事はしていなかったけれども。

 今日はなんだか──。そう、()()()だ。

 豊聡耳様の復活を待ち続けて、早二百年。私は少し、気疲れしていたのかも知れない。

 

「……そうですね。それでは一つ、お見せしましょう」

 

 そう宣言すると、私は髪を結っていた簪を手に取り、それをおもむろに抜き取った。

 簪によって結われていた髪が解かれ、重力によって形が崩れる感覚がある。不意に髪を下ろした私を見て少女はますます首を傾げるが、ここまでは予想通りの反応である。

 私は握っていた簪を手放す。当然、それも重力に引かれて落下を初め、地面へと吸い込まれていく。

 そう。()()()()()()()()のだ。軽い金属音を響かせながら地面と衝突すると思われていた簪だったが、そんな結果には帰結しない。簪が落ちるその瞬間、突然地面に音もなく()()が空けられて。

 

「えっ……!?」

 

 驚くような少女の声。そんな彼女の目の前で、今度は私自身がその大穴へと吸い込まれていった。

 私が最も得意とする道術。所謂、壁抜けだ。これはその応用。簪代わりの鑿を使って道術を発動させ、かつ地面を一つの壁と見立ててその効力を発揮させる。一見地味だが、それでも充分に非現実的な光景だろう。掘り進めるのも決して楽ではないこの山道の地面に、いとも簡単に大穴が空けられたのだから。

 

「──と、まぁこんな風に」

「……っ!」

 

 地中を掘り、そして少女の背後から私は地上に現れる。不意に背後から声をかけられて、少女は驚いた様子で振り向いていた。

 

「私、()()()()()()ちょっとした道術を行使する事が出来るのですよ」

「う、嘘っ……」

 

 術の行使を止めると同時に、穴が開いていた地面も一瞬にして元通りに戻る。それを見て、少女は二重に驚いているようだった。

 それにしても、判りやすいくらいに感情が表情に現れる少女だ。私が行使した『能力』を見て心底驚いているらしく、彼女は目を見開いたまま何も言えずに固まってしまっている。

 

 ──いや、それにしたって固まり過ぎではないだろうか? 何も言わない彼女の姿を見て、私の方も少し不安になってきた。これでもやり過ぎだっただろうか。

 と、私がそんな事を考え始めた、その次の瞬間だった。

 

「……すっ、」

 

 思い切り、少女は()()を作って。

 

「凄いっ! 凄い、凄いです! えっ、今のどうやったんですか!? 急に穴が開いて、私の後ろから現れて……! でも、穴はきれいさっぱり消えちゃって……!」

「わっ……。お、落ち着いてください……! 随分と食い気味ですね……」

 

 食い気味だった。流石の私もちょっぴり気圧されてしまう。

 どうどうと少女を宥めようとするが、彼女の興奮は然程収まらない。あまりにも眩しすぎるくらいに、キラキラとした瞳を私に向けていて。

 

「わたし、あんなの初めて見ました! さっきの簪に何か仕掛けが……? いや、だとしてもあの穴の空き方は不自然ですし……!」

「簪はあくまで道術を行使する為のきっかけと言うか……。あの、私がこんな事を言っちゃうのもあれですけど、そんなに凄かったです? ちょっと地味じゃなかったですか?」

「そんな事ありません! 本当に凄いですよ!」

 

 思わず私が謙遜してしまう程に、少女は絶賛してくれた。凄い、凄いと。漢詩のなのに語彙力が消失している。興奮するとこうなるタイプの少女なのだろうか。

 しかし、そんな反応こそが彼女の言葉が世辞でもない事を証明している。彼女は本当に、心の底から私の道術に関心を抱いてくれている。無邪気に、純粋に、真っ直ぐな感情を私にぶつけてくれている。

 

 こんな反応を示してくれたのは、豊聡耳様以来──いや、豊聡耳様以上かも知れない。それほどまでに、彼女は感情を高揚させていた。

 何とも不思議な感情に包まれる。何と言うか、ここまで純粋に驚かれると、こちらまで沈んでいた感情が湧き上がってくるような。そんな気がした。

 

「あのあの、仙人さま!」

「……仙人さま?」

「だって、あなたは仙人さまなんですよね? だから、仙人さまです!」

「は、はあ……」

 

 どうやら私の事を本気で仙人だと疑っていない様子。あの一瞬で信じてしまうなんて、純粋すぎて心配になってしまうのだが。──いや、道術を披露した張本人である私が言うのも何だけれど。

 

「仙人さま! もう少し、仙人さまの事を教えてくれませんか……?」

「私の事を、ですか?」

「はい! あの、わたしが漢詩人だって事はお話したと思いますけど、実は最近ちょっぴりスランプ気味で……。この山に来たのも、それを脱する為のきっかけを見つける為だったんです! だから、仙人さまとお話すれば、何か掴めると思って……!」

 

 成る程。まぁ、何となく気持ちは判るかも知れない。私は漢詩人でもそれ以外の芸術家という訳でもないし、あくまで感覚的な話になってしまうが。身の回りの経験をインスピレーションとして芸術作品を作り上げるというのも、理に適っているのではないだろうか。

 私は改めて少女の姿を見据える。──キラキラとした瞳。穢れなんて知らないのではないかと思ってしまう程に、相も変わらずどこまでも純粋無垢な感情が伝わってくる。期待に胸を膨らませている様子だ。表情は眩し気である。

 

「……そうですね」

 

 こんな感情を向けてくれる少女の頼みを一蹴してしまうのは、流石の私でも躊躇いが生じてしまう。いや、そもそも断る理由もないのだが。

 時間は幾らでもある。仏教徒達が折れて、豊聡耳様が復活出来るその時まで、私は真理を探究しつつも待つ事しか出来ないのだから。

 

 だったら。

 

「判りました。良いですよ、お話しましょうか?」

 

 だったらこの気紛れに、身を任せてしまうのも悪くはない。

 

「わぁ……! ほ、ホントですか!?」

「ええ。幸い、時間は余っているくらいですから」

「ホントにホントですね!? 後からやっぱり止めたなんてなしですよ!?」

「判ってますよ。ちゃんと貴方に付き合います」

 

 少女の願いを受け入れると、彼女は大袈裟なくらいに喜んでくれた。何度も本当か確認して、その度に私は頷いて。何ともまぁ、落ち着きのない印象だけれども。

 

「ありがとうございます、仙人さま!」

 

 太陽みたいに眩しい笑みを浮かべる少女を見ていると。

 何だか彼女に力になってあげたいなと、心の片隅で自然とその気になりつつあった。

 

 

 ***

 

 

 宮古芳香。彼女は私にそう名乗った。

 漢詩人だという説明は受けていた。しかし、現在は少しスランプ気味で、それから脱却する為のインスピレーションを得る為に各地を放浪しているのだと。その偶々一環でこの山に立ち入り、偶然にも私と邂逅した。──ざっくりと状況を整理すれば、そういう事になる。

 

 そんな彼女にせがまれて、私は仙人としての話を披露する事にした。気紛れで使った道術にまさかここまで興味を示してくるとは思わなかったが、実は私だって満更ではなかったりする。私の能力に純粋な興味を抱いてくれて、はっきり言ってしまえば普通に嬉しかった。

 そんな訳で、宮古芳香と名乗った漢詩人の少女とのお喋りの時間が始まる事となる。

 

 初めこそ少しおどおどしていた芳香さんだったが、こうして会話を続けると寧ろグイグイ引っ張っていくタイプのように思える。多少なりとも人見知りをしてしまう一面はあるものの、根は明るく陽気な性格なのだろう。

 それに、好奇心にも忠実だ。その点は豊聡耳様にも通ずる所があるが、芳香さんの場合はどちらかと言うと“憧れ”の感情が強い。

 

「へぇ……! 仙人さまって、そんなに長い年月を生きる事が出来るんですね! 知識も沢山ため込む事が出来るだろうし、漢詩にも応用できそうだなぁ」

「まぁ、確かに普通の人間よりは不老不死に近いのかも知れませんが、でも“近い”だけでそこに至った訳ではありません。私達仙人は、日々それを極める為に修行を怠らず続けているのです」

「不老不死……! 言葉では聞いた事がありますが、まさかそこまで本格的に実現を目指す人に会えるなんて……。やっぱり感激です!」

「そ、そうですか? ありがとうございます……?」

 

 不老不死に興味を示すのは豊聡耳様と同じだが、芳香さんの場合は御伽噺を聞く子供のように無邪気な表情を浮かべている。天才であるが故に真理の一端に触れる事の出来た豊聡耳様とは違い、彼女は私の話をある種の物語として楽しんでいるようなのだ。

 観点が違うのならば、話の雰囲気や内容だって異なってくる。豊聡耳様のように意見を出し合って研究を続けるようなやり取りも良いが、芳香さんとの物語を聞かせるような会話だって、これはこれで──。

 

「あ……。もう日が沈む時間ですか……」

 

 話し込んでいると、あっという間に多くの時間が経過していた。太陽は西に傾き、空は茜色に染まっている。

 芳香さんに言われるまで私も気づかなかった。それほどまでに深く話し込んでいたという事か。

 

「そろそろ帰らないと暗くなっちゃいますね。もうお開きですか……」

「……そう、ですね」

 

 胸中に仄かに感じる物寂しさ。まだまだ喋り足りないのだと、そんな思いが自然と溢れ出てくるようだ。

 思えば、この二百年でここまで人とお喋りしたのも久しぶりだった。それ故に、余計にこの時間が至福に感じたのだろう。──以前は一人でもへっちゃらだったのに、私も変わってしまったものだ。

 

「……芳香さん。貴方は漢詩の為に各地を放浪していると言っていましたよね。そうなると、明日には他の場所を目指してしまうのですか?」

「えっ……?」

 

 自然と、殆ど無意識に私は口にしていた。

 感情を、吐露していた。

 

「良かったら、明日もこうしてお喋りしませんか? 仙人について、今日一日じゃ全然伝えきれていませんし、だから……」

「それって……」

 

 ぱぁっと、そんな効果音でも聞こえてきそうな様子で、芳香さんはあっという間に表情を煌めかせた。

 本当に、考えている事が分かりやすい子だ。それ故に、私の方も感情が豊かになる。抑圧され、沈み込んでいた明るい感情が、自然と引き上げられるような。彼女と話していると、そんな感覚を感じ続けていた。

 

 だから私は、彼女ともっとお話してみたいのだと。

 そう、自然と思えるようになっていたのかも知れない。

 

「はい! 喜んで……! 私も直ぐにあちこち移動しちゃったりはしないので!」

 

 それから私は、ほぼ毎日のように芳香さんと交流する事になる。

 基本的にはお喋りをするだけだ。豊聡耳様の時のように、知識や技術を提供して共に研究を続ける訳ではない。真理探求という観点から見ると、それほどまでに貢献しているとは言えない時間なのかも知れないけれど。

 それでも、止めようとは思わなかった。確かに私にとって直接的な利益はないのかも知れないけれど、だけど楽しかったのだ。──こうして、芳香さんとお喋りする事が。

 

「あ、わたしの事は、芳香とお呼びください。さん付けは必要ないですし、敬語だって使わなくても結構ですので!」

「……そうですか? それなら、貴方は」

「あ、わたしはこのままで。こっちの方が喋りやすくて……! あ、勿論、仙人さまも敬語の方が話しやすいのであれば……!」

「……いえ、そうね。それなら、お言葉に甘えさせて貰うわ」

 

 交流を始めてから少し経ってからの事だ。このようなやり取りもあり、私は彼女──芳香とは、比較的フランクに話すようになる。そうする事で、芳香との距離が更に近づけたような気がして、何だかちょっぴり嬉しくなった。

 

 薄々感づいていた事であるが、どうやら私は寂しがり屋であるらしい。一人でいるよりも、こうして誰かと交流を深めていた方が心が軽やかになる。

 ほんの数百年前まではずっと一人で研究を続けていた癖に、今更おかしな話だ。けれども、きっと、豊聡耳様との出会いが私を変えてくれたのだと思う。彼女との出会いが、私を人間らしくしてくれたのだ。

 

 豊聡耳様だけじゃない。

 芳香との出会いもまた、私にとって大きな転機だった。

 

 だって、改めて認識する事が出来たのだから。

 人と交流する事の楽しさを。誰かと共にいる事への、喜びを。

 

 そんな日々が、一ヶ月ほど続いた頃の事だった。

 

「あの、仙人さま。実は、仙人さまにお伝えしなきゃならない事があって……」

 

 珍しく歯切れが悪い様子で、芳香はそう切り出してきた。

 グイグイと積極的が基本の彼女にしては珍しい。何か良くない事が起きたのかと聞いてみると、芳香はバツが悪そうに頬を掻いて。

 

「あー……。悪い事、と言っちゃうと語弊があるんですけど……。わたし、そろそろここを離れようと思ってて」

「離れる……?」

 

 一瞬何を言っているのか分からなかった私だが、すぐに察する事が出来た。──そうだ。そもそも彼女は、漢詩の為に各地を放浪していた身。ここ一ヶ月ほど毎日のように会っていたからすっかり失念していたが、いつまでも同じ所に留まっている事の方が例外だったのだ。

 そろそろここを離れようという言葉は、つまりはそういう事なのだろう。

 

「あ! えっと、仙人さまが嫌いになったとか、そういうのじゃなくて! その……!」

「ええ、分かってるわ。そろそろ旅を再開するのでしょう?」

 

 慌てた芳香に宥める口調でそう言うと、彼女は控え目に頷いた。

 

「──はい。仙人さまとお話して、最近は漢詩の方も調子が良いんです。スランプも脱する事が出来ましたし、そろそろ……」

「……そう」

「あ、でも勘違いして欲しくなくて……! 当初の目的を果たしたから仙人さまはもういらないとか、そういう意味でもなく……!」

「ふふっ。判ってるわよ。──貴方には、貴方の成すべき事があるのでしょう?」

 

 随分とおどおどした様子を崩さない芳香を見て、私は思わず笑いを零してしまう。芳香の思いが伝わっている事を伝えると、彼女はようやく落ち着いた表情になった。

 まったく、相変わらず真っ直ぐで真面目な子だ。こうして一ヶ月も交流を続けたのだから、態々そんなフォローなどせずとも充分なのに。

 

「貴方の詠う詩は、漢詩にそれほど深い関心がある訳でもない私の心にも強く響いていた。貴方には才能がある。きっと大物になれるわ」

「仙人さま……」

 

 これは嘘偽りのない本心だ。この一ヶ月、私は彼女の詠う詩を何度が聴いてきたが、それはどれも心情を動かされるような深い詩ばかりだった。

 まぁ、完全に素人意見ではあるけれど。それでも私は、彼女の詩が好きだった。彼女の詩には、こんな私の心さえも惹かれる程の不思議な魅力があるように感じられた。──だからこそ、私だけに聴かせるのでは勿体ない。芳香は躍進すべきなのだ。

 

「貴方の詩は、もっと沢山の人に聴いてもらうべきだと思うの。私が聴いた貴方の詩は、それくらいに魅力的だった。こんな所で燻ってちゃ勿体ないわ」

「そ、そうですか? えへへ……。仙人さまにそこまで言われちゃうと、何だか恥ずかしいです」

 

 そう口にしつつも嬉しさが表情から滲み出ている。彼女は素直に、私の気持ちを受け止めてくれているようだった。

 そう。彼女には才能がある。漢詩だけじゃない。それ以外の要素でも、人を惹きつける事の出来る才能が。現に私は、こんなにも彼女に惹かれてしまっているのだから。

 

 ──それ故にこそ、ここで芳香を引き留める訳にはいかない。

 芳香の意思を邪魔するような事だけは、したくないから。

 

「仙人さま。わたしには、夢があるんです。漢詩人として有名になって、沢山の人の詩を聴いて貰って。そんな私の詩で、少しでも多くの人に笑顔を届けたいんです。今のわたしはまだまだ未熟者で、半人前も良いところですけど……。でも、いつの日かそんな夢に辿り着きたい……」

「ええ。貴方らしい、とても良い夢ね」

「あの、だから、というのも図々しいかもなんですけど……。一つだけ、仙人さまにお願いしたい事があるんです」

「……お願い?」

 

 そして芳香は、改めて私の事を見据えなおす。

 凛と、真っ直ぐな誠実さが伝わってくるような瞳を、私に向けてくれて。

 

「わたしが、漢詩人として一人前になった暁には──」

 

 芳香は言葉を紡ぐ。

 

「もう一度、仙人さまに会いに来ても良いですか?」

 

 それはやっぱり、どこまでも純粋な想いで。

 

「わたしを、仙人さまの弟子にして欲しいんです!」

 

 そしてそれは、私にとっても心躍る申し出だった。

 

「仙人さまと一緒なら、夢の高みをもっと目指す事が出来ると思うから……!」

「芳香……」

 

 芳香の抱く夢。芳香の想い。それを真正面から受け止めて、私の心も強く揺り動かされていた。

 ──見てみたい。芳香が思い描く世界を、私も見てみたい。

 きっとそれは豊聡耳様が思い描いていた未来とも繋がっている。争い事のない平和。それはつまり、誰もが笑顔になれる優しい世界だ。

 もしかしたら、芳香となら。豊聡耳様も夢見ていたそんな世界を、作る事が出来るのではないだろうか。

 

 それに、何よりも。

 この一ヶ月は、私にとってもとても有意義なひと時だった。ただ、純粋に、心の底から楽しい一ヶ月間だった。そんな時間を、再び過ごす事が出来るというのなら。

 

 芳香の願いを、断る理由なんてこれっぽっちもなかった。

 

「……ええ、そうね。それなら、芳香。()()しましょう」

 

 故に私は、手を差し伸べる。

 

「漢詩人として、貴方が一人前になるその日まで。──私は、貴方の事を待ち続けるわ」

 

 芳香の願いを、受け入れる。

 

「いつの日か、必ず。私達は再会しましょう」

「…………っ」

 

 感極まった表情を、芳香は浮かべていた。いや、芳香だけじゃない。多分、私も似たような表情を浮かべていたに違いない。

 泣きそうな表情。けれども同時に、心の底から嬉しそう。今まで見てきたどんな感情よりも強く表情を煌めかせて、芳香は大きく頷いた。

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

 そう。()()だ。約束という名の繋がりで、私達はもっと強くなれる。私は仙人。芳香は漢詩人。ひと時の間だけ、それぞれはそれぞれの道に別れる事になるのかも知れないけれど。けれどもそんな道は、いつの日かきっと交わる事となる。

 

 だからそんな瞬間を夢想して、私達はそれぞれの歩みを進めるのだ。

 

 胸の奥が温かい。豊聡耳様達との別れを経て欠落してしまった心の温もりが、ようやく戻ってきたような気がする。芳香との出逢いが、もう一度歩みを進められる力を私に与えてくれた。芳香と出逢う事がなかったら、私は今頃、歩みを止めてしまっていたかも知れない。

 だけど、もう怖くない。孤独に苛まれる事なんて決してない。

 

 豊聡耳様と、芳香。二人との約束が、私の心を繋ぎとめてくれる。二人の想いが、私に生きる勇気を与えてくれる。

 だからもっと、頑張って生きてみる事にしよう。豊聡耳様と芳香、二人と交わした約束を果たせるその日まで。そして、それ以降。彼女達と歩める未来が訪れる、その瞬間まで。

 

 夢を、叶えよう。そんな願いを活力にして、私はこれからも生き続けよう。

 

 

 ──ああ、そうだ。()()()()()

 そう、思っていたはずだったのに。


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