桜花妖々録   作:秋風とも

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「邪仙に堕ちゆく#3」

 

 豊聡耳様は確かに為政者であるが、私に興味を抱いた理由は政治とは離れたものだった。

 輪廻転生の輪から外れ、人間を超越する力を有した私。仙人としての能力に興味を持った事は事実なのだが、豊聡耳様の場合、それを国に導く事に繋げるつもりはなかったらしい。ならば何故、私の力を欲したのかと問うと、単なる興味本位だと返答が返ってくるのだから少し拍子抜けである。

 

「私は為政者であると同時に、まぁ、ちょっとした研究者でもあるのですよ。だから君の持っているような力を目の当たりにすると、知的好奇心が抑えられなくなる」

 

 そう口にする豊聡耳様の瞳は、実にキラキラしていた。嘘や誤魔化しを口にする人の瞳じゃない。この人は、ただ本当に、純粋に私の能力に興味を抱いてくれている。故郷の国で私の力に見向きもしなかった人達とは、何もかもが違う。

 

「そんなに興味があるようでしたら、もっと踏み込んだ事を教えてあげますよ。この国には仙人はいないようですし、どうやら基礎的な事も正しく伝わってないようですしね」

 

 そうして私は豊聡耳様に色々な事をお話した。仙人の事。道教の事。そして、自分の肉体の事も。

 別に隠す必要もない。仙人の間でそういった制約がされている訳でもないし、そもそも私は厳密に言えば仙人じゃない。爪弾きにされた異端者である。例えそんな決まり事が存在していたのだとしても、今の私には関係のない事だった。

 

 やはりと言うか何と言うか、豊聡耳様は私の話に興味津々な様子だった。そんな彼女が特に興味を示したのは、私の肉体──つまり、不老不死の身体に関する事だった。

 

「不老、不死……? それは、言葉通りの意味だと捉えてしまっても問題ないのですか……!? 君は、死を超越しているとでも……?」

 

 身を乗り出しつつもそう尋ねてくる豊聡耳様。これまで以上に強い興味を示す彼女の姿を目の当たりにして、私は少し気圧されてしまう。要点だけを述べた所為でやたらと過剰に期待しているようだが、流石にそこまでキラキラとされると流石の私もちょっぴり申し訳なくなってきた。

 確かに仙人は不老不死であるが、実際のところ完全に死を超越した訳ではない。修行を怠れば身体が灰となって死んでしまうし、致命的な傷を負った場合も死ぬ事はある。そもそも完全に不老不死であるのなら、私がこんな不安感を抱く事もなかったはずだ。そう言う意味では、仙人だって意外と万能ではない。

 

「成る程、完全ではないと……。けれど少なくとも、君は死を引き伸ばす事には成功しているという事ですよね? そうなると、もしかしたら……」

「あの……」

 

 興奮気味な豊聡耳様に対し、私は疑問を呈する。

 ずっと気になっていた。私をこの屋敷に招待した事もそうだが、そもそも。

 

「豊聡耳様は、どうしてそこまで私の力に興味を示しているのですか? 特に、不老不死に対する反応は今まで以上に強く感じます。──貴方も、不老不死に至りたいのですか?」

 

 そう尋ねてみると、豊聡耳様はハッと我に返った様子。どうやら興奮しすぎて周りが見えなくなっていたらしい。小恥ずかしそうにコホンと咳払いを一つ挟んで、彼女は乗り出していた身を引いた。

 

「すまない、少し興奮していて……。けれど、そうですね。確かにちゃんと説明しないと不公平ですよね」

 

 何やら一人で納得した彼女は、改めて私に向き直った。

 

「不老不死に至りたい……と言ってしまうと、少し語弊があります。私はただ、知りたいだけなのです」

「知りたい……?」

 

 聞き返すと、豊聡耳様はこくりと頷いた。

 ただ、知りたい。不老不死のメカニズムを知りたいという事なのだろうか? 単なる知識欲? それともそんな情報を使って何らかの利益を得ようとしているとでも?

 あれこれと思考を巡らせていた私だったが、そんな私の目の前で豊聡耳様は言葉を続ける。その内容は、私にとってもある意味予想外のものだった。

 

「私が知りたいのは、ある種この世界の有り様です。人間が持つ運命の終着。その意味、とでも言いましょうか」

「……運命の、終着?」

 

 チラリと、私の脳裏に何かが掠める。

 何だろう、この感じ。豊聡耳様の言葉を聞いていると、記憶の中の何かが刺激されるような。心の奥底で風化してしまった何らかの()()が、想起されるような感覚がある。

 この感覚。何だか判らないけれど、これは──。

 

「運命の終着、とは……。一体、どういう……?」

 

 胸中のざわつきを抑える事もままならないまま、私は豊聡耳様にそう聞き返す。

 「そうですね……」と少し考える素振りを見せた後、彼女は答えた。

 

「私はずっと、幼い頃から疑問に思っていた事があるのです。いえ……疑問というよりも、不満と表現した方が正しいかも知れない」

「不満、ですか?」

「ええ。それは、我々人間が背負う運命に対する不満です。私には、どうしても納得ができない。──なぜ我々人間には、死という終着が待ち受けているのか、と……」

「えっ……?」

 

 どくんと、心臓が一度大きく高鳴ったような感覚を、私は確かに感じていた。そしてそれと同時に、ぼんやりとしていた記憶の奥底に、色がついていくような感覚までも私は覚え始めていた。

 豊聡耳様が抱いている疑問、不満。それは──。

 

「本質的に、この世界はある意味不変です。空も、海も、そして大地も。神々が栄えた神話の時代から、何一つ変わっていない。そこに終わりなんて存在しないはず。それなのに私達人間には、どうして死という終着が待ち受けているのでしょう? どうしてそんな運命を受け入れなければならないのでしょう? なぜ我々人間は、そんな限られた時間の中で生を消費しなければならないのか。──考えれば考えるほど、ますます納得できなくなってしまって」

「…………っ」

 

 豊聡耳様は、ちょっぴり困ったような笑みを浮かべる。

 彼女は自分でも判っているのだろう。そんな疑問や不満など、一般的な人間はまず思い浮かべる事もない。疑問を抱く自分の方こそ、特殊な思想の持ち主であるのだと。判っているから、彼女はこんなにも曖昧な表情を浮かべている。

 

「きっと私は理解できていない。死とは、一体どういうものなのか。生きるとは、一体どういう意味を持っているのか。──理解できていないからこそ、私は知りたい。紐解きたい」

 

 でも。

 だけど、私は。

 

「理解したいのです。生と死という運命の本質を。そして、辿り着いてみたいのです。そんな運命を私達人間に決定づけた、この世界の真理へと」

 

 私の心には、豊聡耳様の言葉は強く強く響き渡っていた。久しく感じていなかったような、強く感情の奔流を私は胸中に覚えていた。

 豊聡耳様の考え方は、はっきり言って傍から見れば実に突拍子もないものだ。生きる意味だとか、死ぬ理由だとか、決定づけられた運命だとか。そんなものにいちいち疑問を抱くなんて馬鹿みたいだと、そう思う人間だって少なくはないだろう。

 

 けれど、違う。私は違う。馬鹿みたいだと、そんな風に一蹴する事なんて出来やしない。寧ろ私は、豊聡耳様が口にした想いに賛同している。彼女の思想に違和感を覚える事も殆どないままに、私は納得してしまっている。

 

 そうだ。

 やっと気づいた。どうして、豊聡耳様の言葉からこんな感覚を覚えていたのか。どうして、記憶の中の奥底がずっと刺激され続けていたのか。どうして私が、酔狂とも捉えられる豊聡耳様の思考に違和感を覚えなかったのか。

 

 ()()なのだ。

 この人が抱く想い。この人の思想は。

 

『世界の構造を紐解いて、その先にある真理に辿り着きたい。なぜ人間は、死という終着の運命から逃れる事が出来ないのか。それを知りたい』

 

 お父様と──。

 

「まぁ、こんな話をしても、今まで賛同してくれた人はごく一部ですけど」

 

 自嘲気味にそんな事を口にする豊聡耳様。私の納得をあまり期待していないような口ぶりだが、その実、私の心情は穏やかではないものになっていた。

 悪い意味ではない。寧ろ逆だ。久しく感じていなかった胸の高鳴りのようなものを、私は感じている。灰色だった私の世界に、一滴の色が落ちてきたような──。などという詩的な表現をしてしまうくらいに、私の心は揺れ動いていた。

 

 この人は。

 豊聡耳様が抱いている考え方は、私の父が描いていた理想と同質のものだった。

 世界の構造を紐解いて、その先にある真理に辿り着きたい。生と死という運命の本質を理解したい。そんな強い探究心は、私の父が抱いていたそれと全く同じ方向を向いているじゃないか。

 

 ──知りたい。この人の事を、もっと良く知りたい。

 自然と私はそう思うようになっていた。かつての父と同じ理想を抱くこの女性の事を、もっと知りたいのだと。そんな欲求は、理性よりも先に私の身体を動かしていた。

 

「あの、豊聡耳様……!」

 

 想像よりも少し大きな声が出てしまった。豊聡耳様も、ちょっぴり面食らっている様子。

 殆ど反射的に、私は心を落ち着かせようとする。そして出来る限りの平静を装って、私は続けた。

 

「私には、判ります。真理に辿り着きたいという、貴方の想いが。生きる意味や死ぬ理由を知りたいという、貴方の探究心が。だって……だって、それは……」

 

 そこまで口にして、私は思わず言い淀む。

 理性が行動に追いついた。豊聡耳様の願いを父親のそれと重ねたなんて、そんな個人的な感情までを吐露する必要もない。

 確かに彼女に父親の理想を重ねたのは事実だ。けれどもそれは、一つのきっかけに過ぎない。今の私が、ここで口にすべき言葉は。

 

「豊聡耳様。是非、貴方に協力させて下さい」

 

 あれこれと御託を並べるつもりはない。出来る限り単刀直入に、私はそう口にした。

 

「貴方が思い描く理想を、私も追い求めてみたいのです」

 

 

 ***

 

 

 はっきり言って、少々勢い余ってしまったのではないかと私は少し不安になった。自分でも驚いている。まさか理性よりも先に、身体が勝手に動いてしまうなんて。私の中にも、未だ情熱のようなものは燻っていたという事か。

 とは言え、私の一抹の不安など杞憂だった。いきなり協力させて欲しい等と言い出し始めた私を、豊聡耳様は快く受け入れてくれた。

 

 本当に、呆気ない程にあっさりとである。まるで、私の思いを見透かしていたかのような──。いや、比喩ではなく、本当に見透かしていたのかも知れない。

 豊聡耳様には不思議な才能があった。人の言葉を聞き取り、そしてその本質を瞬時に理解して。相手の思いや気持ちさえも正しく察する事が出来てしまうような、そんな才能が。──そのような才能を持っているからこそ、彼女は若くして政治的発言力の高い地位に上り詰める事が出来たのであろう。

 

 ともあれ、私は豊聡耳様に受け入れられた。

 それからの私は、少しずつ、失いかけていた()()を取り戻し始める事になる。

 

「私は尸解仙に分類されます。まぁ、実は仙人の中でも、ランクはかなり低い部類に入るのですが」

「ふむ、仙人とは、あくまで広域的な分類という事か……。けれども君は、それでも不完全とは言え、不老不死を実現しているのですよね? たったそれだけでも、充分に凄い事だと私は思いますよ」

「私なんてまだまだですよ。私くらいの仙人なんて、故郷の国にはごまんといますし」

 

 豊郷耳様とは何度も言葉を交わした。政治的なお話は私には殆ど出来ないが、仙人と不老不死についてなら話は別だ。私はこれまで蓄えてきた知識を、惜しみなく豊聡耳様に提供した。

 普通、長年をかけて研究した成果をそう易々と提供したりはしない。私の場合はある程度見せびらかす事はしていたが、それも上辺のほんの一部に過ぎなかった。

 

 だが、豊聡耳様は違う。

 この人は、信用出来る。だって、私と言葉を交わしている時の豊聡耳様は、本当に瞳をキラキラと輝かせているのだ。上辺だけで適当な事を言っている人の表情じゃない。この人は,本当に、心の底から理想を追い求めている。そこに不純な感情など一切混入されていない。

 それ故に、この人の為にもっと力になりたいのだと。日を追う毎に、私は自然とそんな思いを抱くようになっていた。

 きっかけは、豊郷耳様の描く理想が、私の父のそれと重なる部分があったからだ。けれど彼女と関わりつづけるうちに、純粋にこの人の力になりたいと、私は思うようになっていった。

 

「豊聡耳様。貴方が求める世界の真理を紐解くのなら、やはり道教を信仰してみるのはいかがでしょう? 自然を崇拝し、自然と一体になる事で不老不死へと得る教えです。私達仙人の考え方の基本でもあります」

 

 ある日、私は嬉々として豊聡耳様にそう提案した。

 豊聡耳様が追い求める真理は、仙人達の抱くそれとほぼ同質のものだ。ならば仙人としての教えを学び、その観点から研究を進める事こそが、最も手っ取り早く効率的な手段である。少し前の私ならば、意味もなく道教を広めようとしていたのかも知れないが、この時の私は違った。

 ただ、純粋な好意。豊聡耳様の力になりたいという、ただそれだけの想いで私はそのような考えを提示したのである。

 

 けれども豊聡耳様は、私のそんな提案に二つ返事で応じる事はなく。

 

「確かに、道教ならば私の求める真理にだって辿り着けるかも知れない。しかし……」

「……何か、気になる事でも?」

「……私は為政者です。勿論、真理を紐解く事だって私にとってはとても大きな意味のある事ですが、それと同時にこの国を導く事だってとても大切な事なのです。宗教戦争のような争いのない、平穏な国を私は築き上げたい」

 

 そこまで口にすると、豊聡耳様は少し申し訳なさそうな表情を浮かべて。

 

「けれど、道教では、それが実現できません。なぜなら道教の考え方は、悪く言ってしまえば自然を我が物にする事と同義なのですから。そんな宗教で国を纏め上げようにも、必ず大きな混乱が生じます。争い事がなくなる所か、新たな争いの火種を生じてしまう可能性も……」

「それは……」

 

 確かに、豊聡耳様が危惧する気持ちも判る。

 豊聡耳様は真理を追い求める事に熱意を注ぐ一方で、為政者として国を導く事に関しても同じくらいの熱意を注いでいた。どちらか一方を蔑ろにする事もなく、彼女はどんな時だって全力だった。

 それ故に、妥協など出来ないのだろう。どちらか一方を取る事で、もう一方を犠牲にしてしまう選択肢なんて。

 

「ふっ……。私って、実はかなり我儘な欲張りなんですよ。理想と現実。そのどちらも捨てる事が出来ないなんて」

 

 豊聡耳様は自嘲する。彼女自身、判って口にしているのだ。自分がどんなに、支離滅裂で理不尽な思想を抱いているかなんて。

 でも。

 

「……それなら」

 

 これまで豊聡耳様の話を聞いて、豊聡耳様の姿を見続けて。それなりに長い時間を経たからこそ、私には判る。

 豊聡耳様なら、選択する事が出来る。為政者か、真理か。そのどちらか一方ではない、第三の()()()を。

 

()()()()のは、どうでしょう──?」

 

 私が提案したのは、言うならば折衷案だった。

 折衷案、と言ってもそれぞれの要素を中途半端に繋ぎ合わせたものではない。一般的な凡人ならば、最後まで成し遂げる前にどこかで必ずパンクしてしまうだろう。だけど、この人なら。超人的な才能を持つ豊聡耳様ならば、きっと成し遂げる事が出来る。

 

 道教が政治に向いていないのであれば、要するに政治面で道教を表に出さなければ良い。表向きは、国を纏め上げる事に適した宗教──この場合は仏教を信仰し、為政者としての責務を全うするのだ。そしてそれと同時に、裏では理想に手を伸ばす為の宗教──道教を信仰する。

 つまるところ、二つの宗教の併用だ。どちからか片方を捨てるのが無理ならば、どちらも纏めて手にしてしまえば良いのだ、と。そんなある種の力技だった。

 

 正直、かなり無茶無茶な案ではある。二つの宗教を同時に信仰し、そしてそれらを利用するなど。一歩間違えば、泥沼に陥ってしまう可能性もある。

 だけど、やはりこの方法が確実だと思うのだ。国を纏め上げ、そして同時に生と死の真理に辿り着く為には。──そして豊聡耳様には、それを成し遂げるだけの力がある。

 

「そ、それは……。いや、確かにそれなら……」

 

 私の提案に一瞬だけ驚いた様子の豊聡耳様だったが、やがて思案顔にある。

 彼女はどこまでも有能だ。自分の持つ能力がどれほどのものなのか、その全容を自分自身でも理解している。故に、推し量れる。私が提示したこの力技は、豊聡耳様なら──否、豊聡耳様だからこそ選ぶ事の出来る選択肢なのだと。きっと彼女は、そう()()してくれる。

 

「勿論、私も全力で豊聡耳様に協力します。政治面では力不足なのかも知れませんが、それでも貴方の理想の為ならば……」

 

 もう一押し。間髪入れずに、私は続けた。

 

「私は……。私の全てを、貴方に預けても良いと思っているのです……」

 

 これは、心の底からの本心だった。

 初めは、豊聡耳様の事を利用するつもりでいた。その為に近づいた訳ではないのだけれども、たまたまそういった状況に巡り合う事が出来たから。心の渇きを潤す為のきっかけ作りをさせて貰おうと、そんな事だけを私は考えていた。この人が何を考えていて、何を成し遂げようとしているのかなんて関係ない。生きる意味を見つける事が出来れば、後の事なんてどうでも良い。そんな事を私は考えていたはずなのに。

 

 豊聡耳様が、父と同じ理想を抱いていたと知って。こうしてそれなりの時間を過ごして。いつしか私の想いは、豊聡耳様に傾き始めていた。

 この人を利用するのではない。この人と共に、生きたいのだと。

 いつの間にか私は、そんな()()()()()を見つける事が出来ていたのである。

 

 私はもう、生の殆どに無気力ながらも、それでも死を恐れるような不安定な矛盾の塊などではない。

 豊聡耳様の為に生きる。そんな確たる思いを、この胸に抱く事が出来たのだから。

 

「……君にそこまで言われると、私だっていつまでもウジウジしている場合ではありませんね」

 

 胸の内を吐露した私。そんな想いを受け止め、噛みしめるように、豊聡耳様はそう口にする。

 

「心強いです。君と出逢えて、本当に良かった」

 

 彼女が浮かべる表情からも、既に迷いは消えていた。そして豊聡耳様は、意を決した様子で私に真っ直ぐな視線を向けてきて。

 

「──私も、覚悟を決めました。君の助言通り、成し遂げて見せましょう」

 

 凛と、宣言した。

 

「理想と現実。そのどちらもを掴み取る為に」

 

 豊聡耳様は、私の案を受け入れてくれた。妥協せず、全力を尽くして。登れる所まで登り尽くしてみるのだと、そんな選択をしてくれた。

 嬉しかった。豊聡耳様に、認められたような気がして。それと同時に、より一層気を引き締めなければと、そんな覚悟も私は胸中には生まれていた。

 当然だ。私の助言──という表現は少々烏滸がましいが、とにかく豊聡耳様は私の言葉で今後の方針を決めてくれたのだ。発言の責任は、しっかりと果たさなければならない。

 

 けれども、そんな責任感さえも私にとっては苦痛ではなかった。

 誰かに必要とされている。それだけで、私は生きている実感を覚えた。死から逃れる為に生きるのではなく、誰かの為に自分は生きているのだと。そんな実感が、私の活力を活性化させてくれたから。

 

 それからは、とても濃密で充実した日々を送っていたように思える。

 豊聡耳様は、不老不死の研究の為に仙人としての技術の習得を始めた。と言っても、すぐに仙人になる訳ではない。それはあくまで、人間の範疇での研究だった。

 豊聡耳様の目的は、あくまで真理を紐解く事。仙人になる事ではない。だからまずは、人間としてどこまで真理に近づけるのか試してみたいのだと、豊聡耳様は自らそう言っていた。

 まぁ、それ以外にも立場上の理由もあったのだろう。為政者である以上、()()として政治に関わる必要があったのかも知れない。()()になってしまった時点で、俗世から離れた存在になってしまうのだから。

 

 人間として政治の世界で活躍し、人間ながらも不老不死の研究を続ける。

 辛く、険しい道のりだったはずだ。それでも豊聡耳様は、泣き言なんて一言も口にしなかった。私が会いに行く度に、いつも笑顔で迎えてくれて。疲れを表情に見せないどころか、楽し気な雰囲気ばかりを醸し出していて。彼女は、私以上に充実した毎日を過ごしていたように見えた。

 

 そんな豊聡耳様の姿を見ていると、私も自然と前向きな気持ちになれた。もっともっと、彼女の力になりたいのだと、そう思った。

 私が持っていた知識を全て授けて、豊聡耳様を全面的にバックアップして。豊聡耳様は、一歩一歩、着実に真理へと近づいていった。

 

 ──けれども、そんなある日の事。

 ()()は、唐突に私の眼前に突きつけられた。

 

 

 ***

 

 

「おいお前……! どういう事か説明しろッ!」

 

 いつも通り豊聡耳様に会いに屋敷へと訪れた時の事だ。彼女は、出会い頭にそれだった。

 蘇我屠自古さん。豊聡耳様の同士の一人。元より私に対してあまり良いイメージを持っていないようだったが、その日の彼女はいつにも増して荒れ果てている様子だった。

 とは言え、彼女が何にここまで怒っているのか、皆目見当もつかない。私は宥めるような口調で、彼女から事情を聞いてみる事にした。

 

「待って下さい、屠自古さん。少し落ち着きませんか? いきなりそんな事を言われても、何の事だかさっぱりですよ」

「何の事だかさっぱり、だと……? 惚けるんじゃねぇ! お前が……お前が妙な事を吹き込んでたんだろうがッ! だから太子様は、あんな……!」

「え……? 豊聡耳様に、何か……?」

 

 屠自古さんの慌てっぷりと、彼女が口にした太子様という単語。それらが頭の中で紐付られ、私の中にも微かな焦燥が生まれる。

 そんな感情が、不覚にも表情に出ていたのだろうか。私の顔色を覗きこんでいた屠自古さんは、ほんのちょっぴり冷静さを取り戻した様子で。

 

「お前……。まさか、本当に知らないのか……? 太子様に不老不死の事を教えたのはお前だってのに……!」

「す、すいません……。本当に、何の事だか……」

 

 これは本当だ。屠自古さんが何を言っているのか、心当たりを探ってみても見つからない。

 ただ、何か良くない事が起きている。屠自古さんの様子から、その事実だけは火を見るよりも明らかで。

 

「……太子様が」

 

 一瞬、迷った様子を見せる屠自古さん。けれどそれでも、彼女は私に言葉を紡いでくれた。

 ──だけど。

 

「太子様が、倒れた」

「……えっ──?」

 

 屠自古さんが何を言っているのか、私は瞬時に理解する事ができなかった。どこか呆けたような思考に襲われ、頭の中が真っ白になってしまった。

 倒れた? 誰が? 豊聡耳様が? どうして?

 混乱する。頭の中がぐちゃぐちゃになる。血の気が引いて、表情が青ざめていくような感覚を覚えている。

 

 息をするのも忘れそうになる心境の中、それでも私は無理矢理言葉を紡いだ。

 

「どういう……。どういう、事ですかッ……。豊聡耳様が倒れただなんて……!」

「どういう事も何もねぇ……! 言葉通りの意味だッ! それ以外に何がある……!」

 

 焦燥のあまり、乱暴気味な口調になってしまう私。当然ながら、私のそんな感情をぶつけられた屠自古さんもまた、少しムキになって言い返してくる。

 狼狽が駆け抜ける。けれどもそんな状態でも、私は何とか状況を屠自古さんから確認する事が出来た。

 

 気がついたのは、つい先日のこと。豊聡耳様の様子を見に部屋まで足を運んだところ、地に倒れ伏している彼女の姿を屠自古さんが見つけたらしい。当然ながら、屋敷中は騒然。すぐさまこの辺りで一番の医者が呼びつけられ、豊聡耳様は診察を受ける事となる。

 幸いにも、程なくして彼女は意識を取り戻したようだが──。

 

「詳しい事は私には判らねー。でも、太子様の身体はボロボロだったんだ。まるで、何かに蝕まれちまったみたいに……」

「…………」

 

 屠自古さんの説明は要領を得ない様子だったが、それでも私には何となく状況を察する事が出来てしまった。

 豊聡耳様の状態。その原因に、心当たりがある。それを確かめる為にも。

 

「屠自古さん。私を豊聡耳様に会わせてください」

「あぁ!? お前、私の話を聞いていたのか!? 今の太子様は……!」

「お願いします」

 

 難色を示す屠自古さん。けれど私も引かなかった。

 そうだ。今の話を聞いて、はいそうですかと素直に帰る訳にはいかないじゃないか。

 

「私だって、豊聡耳様をお救いしたいのです」

「……っ。お前……」

 

 毅然とした態度で、私はただそれだけを屠自古さんに訴える。あれこれと御託を並べるつもりはない。ただ、その一言。本心だけを、私は屠自古さんに伝えた。

 ──そんな私の想いを、察してくれたのだろうか。

 

「……判ったよ」

 

 渋々と言った様子は、消えていなかったけれども。

 

「ついて来いよ。太子様の所まで案内する」

 

 屠自古さんは、そう言って私の事を受け入れてくれた。

 

 それから私は屠自古さんに案内され、とある部屋に案内される事となる。屋敷の最奥。その中でも特に風通りの良い部屋だ。豊聡耳様の地位を差し引いても、病人と言う事でなるべく環境の良い部屋にて療養しているという事だろう。屋敷中のどこかピリピリした雰囲気も相まって、部屋の前に到着するや否や私はいの一番で襖を開け放った。

 

「豊聡耳様……!」

 

 屠自古さんに難色を示されるが、流石の私もそこまで気を傾ける事が出来ない。慌てた心境で部屋の中へと足を踏み入れ、そして豊聡耳様の姿を認識しようとする。

 

「おや? 君は……」

 

 ──彼女は、部屋の真ん中に敷かれた布団の上で上体を起こした様子だった。

 

「ああ、そうでした……。そういえば、今日も君を招いていたのでしたね……。すいません、こんな状態で……」

「豊聡耳、様……」

 

 一目見ただけでも判る。彼女は、酷くやつれた様子だった。

 最後に会ったのだって、そう遠い時間という訳ではない。あの時の豊聡耳様は確かに普段通りで、身体を悪くしているような様子なんてこれっぽっちもなかったはずなのに。

 けれども、どうだろう。今の豊聡耳様は、最後に会ったあの時とはまるで別人じゃないか。見るからに痩せ細り、そして弱々しい。瞳も虚ろで、いつ再び倒れてしまっても不思議ではない雰囲気だ。少しでも力を加えれば、ぽっきり折れてしまうような。そんな印象を受けてしまうくらいに、彼女は儚げだった。

 

「おぉ、おぬしは……! 来てくださったのか……!」

 

 そう声をかけてきたのは布都さんだ。どうやら彼女は、豊聡耳様に付きっ切りだったらしい。先ほどの屠自古さんとは違い、彼女の場合は最初から私を歓迎してくれているようだった。

 

「布都さん……。あの、豊聡耳様の容態は……?」

「う、うむ……。見ての通り、少なくとも今の時点では意識ははっきりしておる……。だが……」

 

 口籠る布都さん。そんな彼女の躊躇いを前にすれば、豊聡耳様の容態があまりよろしくない事がはっきりと伝わってくる。

 私は改めて豊聡耳様に向き直る。顔色は悪く、衰弱した様子。目を背けたくなる程に痛々しい様子だが、そうも言っていられない。

 

 私は彼女に歩み寄る。そしてその横に腰を下ろし、上体を起こした体勢の豊聡耳様と視線を合わせると。

 

「豊聡耳様、正直に答えて下さい。その衰弱した様子──原因は、錬丹術ですよね?」

「…………っ」

「練丹術? 何の事だよッ」

 

 口籠る豊聡耳様。そして疑問を呈する屠自古さん。

 状況の整理も兼ねて、私は簡単に説明した。

 

「不老不死に至る為の道術の一つです。不老不死に対する考え方は様々ですが、練丹術の場合は専用の霊薬──丹薬を調合し、それを服用する事で不老不死の肉体を手に入れます」

「霊薬? 薬って事か……?」

「ええ。ですが、その原材料に問題があります。丹薬の主な原材料は、硫化鉱物である辰砂です」

「鉱物、だと……?」

 

 ますます訳の分からないとでも言いたげな表情になる屠自古さん。けれどもすぐに何かを思い出したような表情になって。

 

「そういえば、太子様はここ最近、妙な鉱物を多く仕入れていた……。まさか、あれが……?」

 

 屠自古さんのそんな呟きを聞いて、私は予想が確信に変わる感覚を覚えていた。

 練丹術。やはり、そうだったのだ。それは今の説明の通り、不老不死に至る為の道術の一つ。丹薬を作り、それを服用する事で不老不死の肉体を手に入れる事が出来ると言われている。私のように苟且の体を用いる手段とはアプローチが違うが、練丹術だって立派な道術である。

 

 私の全てを預けたい。その言葉の通り、私は練丹術の知識に関しても豊聡耳様に授けている。真理を探究する過程上、そちらの方面の道術に関しても私は研究していたのだから。

 けれど、練丹術にはとある危険性が伴う。それは丹薬の原材料──辰砂に原因があった。

 

「辰砂は、人体にとって有毒な有害物質です。勿論、単に原石を手元に置いておくだけなら然程問題はありませんが……。丹薬を作るとなると話は別です。辰砂を加工する段階で、水銀蒸気が発生する事になる」

「水銀、だと……? それじゃあ、太子様は……!」

「ええ……」

 

 恐らく、屠自古さんの予感は当たっている。

 つまるところ、水銀中毒である。漢方などの一般的な用途ならばそこまで過剰に水銀を取り込んでしまう事もないだろうが、練丹術に用いるとなると話は別だ。知らず知らずの内に、その身に水銀蒸気を大量に受けてしまう事もある。

 それ故に、危険なのである。生身の人間が、おいそれと練丹術に手を出す事は。

 

「どうしてですか、豊聡耳様……」

 

 私は思わず、豊聡耳様に疑問を呈する。

 口にせずには、いられない。

 

「練丹術の危険性については、説明していたはずです。一歩間違えれば、人体に悪影響を及ぼす事もあると……。それなのに……まさか、豊聡耳様がそんなヘマをするなんて……」

 

 そもそも私は、豊聡耳様が練丹術に手を出している事すら把握していなかった。私が会いに行く時は人間の範疇での研究ばかりだったし、本格的に不老不死を得るような実験にまではまだ手を出していない認識だったはずなのに。当然、身体を悪くしているだなんて、そんな素振りも一切私には見せていなかった。

 要するに、豊聡耳様は私に隠れて練丹術の実験を繰り返していた事になる。練丹術は危険なのだと、そう伝えていたはずなのに。

 

 この様子だと、豊聡耳様の身体はかなり前から蝕まれていたに違いない。彼女が倒れるまでそんな事実に誰も気づかなった理由は、豊聡耳様が無理をして平静を振る舞っていた為だろう。

 求める真理に近づき、活力に満ちていた為でもあるかも知れない。何とか普段通りの振る舞いを続けていた彼女だったが、それも遂に限界が訪れた。

 

 だから、こんな風に──。

 

「どうして、何も相談してくれなかったんですか……。私の事は、信用できませんでしたか……?」

「……っ! 違う、そういう訳ではありません……! ただ、私は……」

 

 慌てた様子の豊聡耳様。彼女のこんな反応は、初めて見たかも知れない。

 私は、と何かを言いかけ、豊聡耳様はそのまま口籠ってしまう。そして彼女は、視線を逸らして俯いて。

 

「……ごめんなさい。これは、私の自業自得なのです。練丹術の危険性については、確かに認識していました。でも……。だからこそ、君に余計な心配はかけたくなかった。だから、君に隠れて……」

「そんな……。そんなのって……」

「君の所為ではありません……! ただ、私の方が自制出来なかっただけなのです……。知識をつければつける程……。真理に近づけば近づく程、私の中の探究心が更に大きくなってしまって……。もっともっと、紐解きたい。知識を積み重ねたいのだと、そう思ってしまったのです……。そんな思いが、強くなってしまったからこそ……。辰砂に対する危機感も、薄れてしまっていて……」

 

 震える声で、豊聡耳様は必死になってそう語る。よく見ると、肩が小刻みに震えているようだった。

 伝わってくる感情は、後悔。自制する事が出来なくて、独断だけで身を投じてしまって。その結果として、最悪な事態に辿り着いてしまった。それ故の、後悔。

 けれども彼女の後悔は、彼女自身の状態に起因しているのではない。こうして身体を壊して、床に臥す事になってしまって。その結果から齎される状況に対しての、底の知れない強い後悔。

 

「屠自古、布都……。ごめん、なさい……」

「えっ……?」

「太子、様……」

 

 突然の謝罪。屠自古さんと布都さんは、揃って困惑した反応を見せている。

 けれどそれでも、豊聡耳様は言葉を続ける。自らが犯してしまった罪を、少しでも贖うように。

 

「この国を導いて、争い事のない平和な時代を作ってみせるのだと、君達とはそう約束をしていたはずなのに。それなのに、こんな……」

 

 息を詰まらせる。今にも泣き出してしまいそうな、そんな弱々しい雰囲気。

 豊聡耳様は、疲弊し切ってしまっていた。

 

「私の勝手な行動で、君達も振り回してしまった……。国を導くという使命を抱きながら、私的な理想も追い求めようとした私の傲慢が招いた結果です……。本当は、君達の事を第一に考えるべきだったはずなのに……。こんな事に、なってしまって……。これじゃあ、私はもう、国を導く事なんて……」

「──っ! ま、待って下さい太子様! そんなの、太子様の所為じゃないじゃないですか! 元はと言えば、下らない争いを始めたウチらの一族が原因で……! そんな中、太子様は充分過ぎるくらいに抗ってくれたんだ……!」

「屠自古の言う通りですぞ、太子様! 我らは太子様に感謝する事はあれど、恨む事など決してありませぬ!」

 

 屠自古さんと布都さんは、けれども豊聡耳様を責めるような事は口にしない。

 私も二人の意見には賛同できる。確かに豊聡耳様は個人的な理想を追い求めはしたものの、本来の役割である為政者としての仕事も一切手を抜かず取り組んでいた。終わりの見えない宗教戦争を何とか鎮静化させる為、彼女は彼女の立場で全力を尽くしていたのだ。

 何よりも、豊聡耳様には人望がある。屠自古さんも布都さんも、豊聡耳様だからこそ、ここまで一緒についてきたのである。自分達の望む未来を掴み取るだけじゃない。豊聡耳様の力になりたいという、そんな純粋な想いだって彼女達の中には強く存在していたのだろう。

 

 そうでなければ、ここまで強い信頼関係は築けない。

 最早、今の屠自古さんと布都さんにとって、豊聡耳様と共に過ごす時間こそが、何よりも大切な掛け替えのないものになっている。そして多分、それは私にとっても──。

 

「おい、お前……! 何とか出来ないのか……!? どうにかして、太子様を救う事が……!」

 

 これまで以上に必死な形相で、屠自古さんが私にそう訴えてくる。

 私に対してずっと警戒心を解かなかった彼女が、藁にも縋る思いで私を頼りにしている。もう、手段は選んでいられない。それほどまでに、彼女も追い込まれているのだろう。

 

「太子様を救いたいって、お前はそう言ってただろ!? だったら何か知ってるんじゃないか……!? 太子様を……! 太子様を、救う、何かを……」

「屠自古さん……」

 

 きゅっと、胸の奥が苦しくなる。彼女の想いに、私の想いが同調している。

 まさかこの私に、そんな感情が残っていたなんて──なんて、今更そんな事は思わない。だって、私の思いも間違いなく彼女達と同じなのだから。

 豊聡耳様を救いたい。その通りだ。この感情は、誰かの借り物でも、ましてや紛い物なんかでもない。

 

「……豊聡耳様の水銀中毒は、見たところかなり進行してしまっているように見えます。ここまで進行してしまったら、恐らくこの国の医療技術では、豊聡耳様の身体を完治させる事は出来ないでしょう。このままでは、遅かれ早かれ、彼女の身体は朽ち果ててしまう……」

「そん、な……。それじゃあ、太子様は……!」

「……一つだけ、豊聡耳様を救う方法はあります」

「え──?」

 

 そう。諦めるには、まだ早い。

 もしも。もしも豊聡耳様に、生きる意志があるのなら。例えどんな形になろうとも、死を回避する意思があるのなら。彼女を救う方法は、まだ残されている。

 

「豊聡耳様は超人的な能力を有していますが、それでも人間である事に変わりはありません。水銀蒸気に蝕まれればこうして中毒症状を引き起こしますし、身体だって壊してしまう。人間の身体というのは、本当に繊細で、言ってしまえば脆弱なのですよ」

「回りくどい……! 結局のところ何なんだ! 太子様を救う方法ってのは……!」

「簡単です。──豊聡耳様が、仙人になればいいのです」

「仙、人……?」

 

 オウム返しする屠自古さんに対して、私は頷いてそれに答える。

 これこそが、この状況を打開する為の秘策。豊聡耳様が生き残る為に残された、唯一の道だった。

 

 人間の肉体では水銀中毒に耐えられない。だったらいっその事、仙人の肉体を手に入れてしまえば良い。仙人ならば水銀中毒程度ならどうとでもなるし、肉体だって丈夫になる。その代わり、毎日欠かさず修行を続けなければ肉体が朽ちてしまうが──。それでも、このまま死んでしまう事より遥かにマシだろう。

 豊聡耳様は、ずっと不老不死の研究を続けてきた。徳だって高い。そんな彼女ならば、或いは私以上に立派な仙人になれるに違いないだろう。それどころか、全ての仙人が追い求める不老不死の真理にだって、彼女なら辿り着く事が出来るかもしれない。

 

「何よりも、仙人になれば豊聡耳様は生き残る事が出来ます。今この場に迫り来る死を、回避する事が出来るのです。いや……豊聡耳様の死を回避するには、最早この方法しかない……」

 

 でも、この方法には一つだけ問題がある。──それは、豊聡耳様の信念だ。

 彼女は不老不死の研究を続けながらも、それでも自らは人間である事に拘り続けた。それは少なくともこの時代では、仙人になってしまったら為政者として直接活動出来なくなるからだ。

 仙人は、俗世から離れた存在。人の世に干渉する事がない訳ではないが、為政者として堂々と活動するのは流石に無理がある。これまでのようにはいかなくなるだろう。

 

 だけど。

 けれどももし、この先時代が変わって。仙人だろうと、豊聡耳様が求められる日が訪れるのならば。

 

「豊聡耳様、いかがでしょう……」

 

 故に私は確認する。

 

「仙人になってでも生き残る意思が、貴方にはありますか──?」

 

 豊聡耳様は聡明な人物だ。真理探究に熱中して冷静さを事欠いていた頃ならともかく、過程はどうあれ、こうして落ち着いて思考出来る環境の今なら私の考えなど瞬時に読み解く事が出来るだろう。

 だから多くは語らない。余計な言葉は付随しない。

 私はただ、豊聡耳様の率直な感情を知りたいのだ。他の誰かに強制されたものではない。豊聡耳様だけの感情を──。

 

「私は……」

 

 そして豊聡耳様は、おずおずと言葉を紡ぎ始める。

 

「そう、ですね……。確かに私は、この期に及んでも死を受け入れる事は出来そうにありません。だって、私にはまだ成すべき事が残されているのだから。それなのに、こんな、中途半端な……。志半ばで諦めるなんて、そんなのは我慢なんて出来る訳がない……」

「……っ! それでは……!」

「──ええ。随分と遠回りになってしまったが、私もようやく心を決める事が出来ました」

 

 豊聡耳様は顔を上げる。

 つい先ほどまでのように、後悔と贖罪の念に捕らわれた弱々しい姿などではない。彼女はしっかりと前を見ている。そして私の姿を、はっきりとその目で見据えている。

 

「お願いします。私を仙人に昇華させて下さい」

 

 そう口にする豊聡耳様からは、言葉だけじゃない、確かな覚悟が伝わってきた。私が抱くどの想いなんかよりも、余程強固で力強い覚悟が。

 

「君の想像している事は判ります。確かにいつの日か、私が必要とされる時代が訪れるかも知れない。そんな私の導きで、本当に争いのない未来にだって辿り着く事が出来るかも知れない……。いずれにせよ、私はまだまだ死ぬわけにはいかないのです。その為の手段が残されているのなら、私は……」

 

 豊聡耳様は本気だった。

 

「私は、手を伸ばす事を躊躇いません」

「豊聡耳様……」

 

 本気の本気で、生き抜く事を選択してくれた。それなら私のすべき事は、最早たった一つしかない。──豊聡耳様を救うため、豊聡耳様が仙人としての肉体を手に入れる手伝いを最大限に行う。尽力をするのだ。

 だって。豊聡耳様がこんな事になってしまったのは、私にだって責任がある。そもそも練丹術の知識を豊聡耳様に授けなければ、彼女だってこんな形で身体を壊す事もなかったはずだ。気を良くして、何でもかんでも情報を提供してしまって。そんな私の油断だって、直接的な原因の一つになっているのだから。

 

 それ故に、私は責任を果たさなければならない。

 

「仙人……。不老、不死……。それなら、太子様だって……」

「…………っ」

 

 深刻な表情で何やら呟きを零す屠自古さん。けれどもその声色は、どこか希望を見出しているようにも聞こえた。

 そしてそれは、布都さんも同様のようだった。どこか、ホッとしたような表情。豊聡耳様の意志を聞き、彼女もまた希望を感じている。豊聡耳様を救い出し、この状況を打開する。そんな未来を、彼女達は夢想しているのだ。

 

 期待してくれている。それなら私は、より一層全力を尽くすだけだ。

 豊聡耳様を、救い出す。その為ならば。

 

「それでは、早速動き出しましょう」

 

 立ち上がり、私はそう宣言する。

 

「豊聡耳様には、尸解仙になって貰います」

 

 

 ***

 

 

 数ある仙人の中で尸解仙を選んだ理由は、至極単純。それは私が最も的確にサポートが出来る道術だからだ。

 私はほぼ独学でその道術を学び、結果として自らの肉体を尸解仙と至らせる事に成功している。それは既に百年以上も昔の事だが、感覚は肉体が覚えていた。

 

 だが、自ら術を施すのと、他人にそれをレクチャーするのとでは訳が違う。私はより一層慎重となり、準備を進めた。

 豊聡耳を尸解仙に至らせる事で最も大きな障害となったのは、苟且の体の事だった。私は竹の棒を用いて尸解仙に至ったが、あれは豊聡耳様には相応しくない。

 竹の棒を苟且の体にした尸解仙は、尸解仙の中でも最も位が低いと言われている。豊聡耳様には、もっと位の高い物品が必要だ。

 

 その事を伝えると、豊聡耳様達は一つの宝剣を用意してくれた。

 名を、丙子椒林剣というらしい。豊聡耳様の持つ佩刀の一つで、由緒のある位の高い宝剣だ。この剣ならば、豊聡耳様の苟且の体に相応しい。──いや、これ以上に相応しい物品はないと言っても過言ではないだろう。

 宝剣を苟且の体とした尸解仙は、尸解仙の中でも最も位が高いと言われている。竹の棒を用いた私とは、まさに対極に位置していると言える。

 

 兎にも角にも、苟且の体の問題が解決したのなら話は簡単だ。後はそれを用いて死を偽装し、輪廻転生の輪から抜けてしまえば良い。それでも流石の豊聡耳様も、初めて行使する術に若干の不安を覚えていたようだが。

 

「太子様、ご安心を。太子様だけが危険を冒す必要はございませぬ」

 

 そう名乗り出たのは、布都さんだった。

 

「い、いえ……! 勿論、この道術を疑っている訳ではありませんぞ!? ただ、万が一という事もあるかと思うのです……! だからまず、我が実験台になりましょう!」

「布都……。しかし、それは……」

「太子様。我はいつまででも、貴方様と共に行きたいのです」

 

 自己犠牲的な提案をする布都さんに難色を示す豊聡耳様だったが、そんな言葉を遮るように布都さんは口を開く。

 彼女の瞳は真っ直ぐで、どこまでも決意に満ちていた。或いは、豊聡耳様のそれと匹敵するくらいに──。

 

「太子様が尸解仙になると言うのなら、我だって同じ道を行きます。だって、太子様が言ってくれたのではないですか。我らは、同士であると……」

「布都……」

「たく。何カッコつけてるんだよ、お前は」

 

 嘆息混じりにそう口にしたのは屠自古さんだ。

 彼女はちょっぴり呆れたような、それでいてどこか満更でもない表情を浮かべていて。

 

「お前にだけ良い所は持っていかせねー。私もなるぞ、尸解仙」

「む、屠自古もか? それは実に心強いが……。無理はせずとも良いのだぞ?」

「してねーよ! つーか、お前に太子様を任せるのは不安で不安で仕方ねーんだよ。だいぶアホだしな、お前」

「な、なにおう!? 我のどこが阿呆だと言うのだッ!?」

 

 こんな時でも馴れ合いを始める布都さんと屠自古さん。彼女達は普段からこんな感じなのである。

 一見相性が悪そうに見えるが、実際はそうでもない。二人の間には、豊聡耳様を通じて出来た絆がある。表面上はいがみ合っているようでも、その実、心の中では互いに強く信頼し合っているのだ。それ故に、何の遠慮もなくこうして本音をぶつけ合える。

 

 そんな関係性がちょっぴり羨ましいと思った事は一度や二度ではない。私には、そんな関係の人物など一人もいなかったのだから──。

 

「……ありがとうございます。布都、そして屠自古」

 

 豊聡耳様が感謝を述べる。何の躊躇いもなくついて行くと言ってくれた、二人の同士へと向かって。

 

「君たち二人が一緒なら、何より心強いです 」

 

 ──そして、それから。

 二人は宣言通り、豊聡耳様より先に道術を行使した。

 

 二人が苟且の体に選択した物品は、それぞれ壺と皿だった。どちらも布都さんが用意したものらしい。二人ともつつがなく道術を行使し、そして魂をそれらの物品に移植した。

 成功だった。魂は問題なく移植され、二人の身体は長い眠りについた。後は然るべき時が来れば彼女は目覚め、そして仙人として復活するだろう。私とは苟且の体の種類が違うが、要領は同じだ。このまま二人の“死”が周囲に認知されれば、輪廻転生の輪から抜ける条件は揃う。

 

「──成功、なのでしょうか?」

「ええ。お二人は深い眠りに落ちてしまっただけで、その魂が顕界から消えてしまった訳ではありません。第三者が彼女達の姿を見れば、死んでしまったと()()()するのでしょうが……。その認識こそが、この術の肝ですので」

「そう、ですね……」

 

 術の行使を見守っていた豊聡耳様と、そんなやり取りを交わす。

 豊聡耳様はどこか申し訳なさそうな表情を浮かべている。表情の変化は微かだが、ここまで共に過ごした私なら何となく判る。後悔──とまではいかないが、彼女は何かを少し案じているようで。

 

「いえ……。何だか自分が情けなく思えてきてしまって。水銀中毒で身体が弱っているとは言え、心まで脆弱になってしまったのかと」

 

 気になってどうしたのか尋ねてみると、彼女からはそんな答えが返ってきた。

 元はと言えば、ギリギリの所で術の行使に躊躇いを生じさせてしまった豊聡耳様を、安心させる為に二人が買って出た事だ。二人にそんな行動を取らせる事になってしまった自分に対して、豊聡耳様は情けないと思っているのだろう。

 だが、仮にその想いを吐露した所で、屠自古さんも布都さんも考えを改める事はなかっただろう。豊聡耳様が尸解仙に至る事を選択した時点で、あの二人は間違いなくその後を追う。今はちょっぴり、その順序が逆になってしまっただけなのだ。

 

 だから、豊聡耳様が気に病む必要なんてない。

 それが屠自古さんや布都さんの為になるのだと、私はそう思うから。

 

「豊聡耳様、それは……」

「ええ、判っています。きっとそれでも、あの子達は私についてきてくれるでしょうね。──だからこそ、私はせめて、あの子達の思いをしっかりと受け止めなければならない。布都や屠自古が、あんなにも大きな勇気を見せてくれたのだから。だったら、私は」

 

 そこで、豊聡耳様の表情から憂いが消える。

 真っ直ぐな瞳。私に向き直った豊聡耳様からは、既に怯えも迷いも消えていた。屠自古さんと布都さんの勇気と思いに感化され、鼓舞されて。そして彼女は立ち上がった。弱々しい自分自身を、払拭して。

 

「──私はもう、迷いません。屠自古や布都と同じように、私も勇気を振り絞って見せる」

 

 彼女は、今度こそ強く意を決した。

 

「道術を行使します。そして尸解仙となる為に、私もまた眠りにつきましょう」

 

 そして豊聡耳様は、そこで表情を綻ばせる。

 彼女はこれまで、私に対して何度も笑顔を浮かべてくれた。けれど今回の笑顔は、これまでのものとは少し違う。本当の意味で、心の中を曝け出してくれているかのような。そんな眩しすぎる笑顔。それを私に向けてくれていて。

 

「ありがとう。君のお陰で、私は道を決める事が出来ました」

 

 突然のお礼。私はちょっぴり戸惑ってしまう。

 こそばゆい感覚。私は思わず視線を逸らした。

 

「急にどうしたのです。お礼なんて……」

「いいえ、言わせて下さい。君には感謝しているのです。為政者としての私と、探究者としての私。どっちつかずだったそんな私を、君は導いてくれたのですから。──ええ。それでも君はきっと、そんなつもりなんてなかったと思っている事でしょう。けれどもそれは、私にとっては紛れもなく事実なのです。君のお陰で、私は前に進むことができた」

「…………っ」

 

 そんなつもりはなかった。私の方こそ、豊聡耳様に救われた。

 ──なんて事を言うタイミングを失ってしまった。だって豊聡耳様は、心の底からそう思っている。私に対して、篤い信頼を抱いてくれている。

 だから。

 

「約束、しませんか?」

 

 私はただ、豊聡耳様の思いを受け入れる。

 

「いつの日か、尸解仙として私が目覚めたその暁には」

 

 豊聡耳様の願いを、聞き入れる。

 

「私と再び、真理を探究してほしいのです」

 

 答えなんて、とうの昔に決まり切っていた。

 それ以外の返答なんて、天地がひっくり返っても絶対にあり得なかった。

 

「……はい」

 

 私もまた微笑んで、私の思いを彼女に吐露した。

 

「約束です。豊聡耳様が復活したその時には、私が必ず貴方を迎えに行きます」

 

 ──そんなやり取りを最後に、豊聡耳様も深い眠りについた。

 

 丙子椒林剣を苟且の体にした術の行使。──成功だ。これで豊聡耳様は水銀中毒に侵された身体を捨て、仙人として位の高い肉体を手に入れる事だろう。天から爪弾きにされた私とは違い、彼女ならきっと立派な仙人になれる。真理にだって辿り着く事が出来る。

 

 私は確信していた。そして今から楽しみでしかたなかった。

 仙人として復活した豊聡耳様と再会する事を。そして共に真理を探究する事を。私は再び一人になってしまったけれども、それでも以前のような無気力感は微塵も感じられなかった。

 だって、私には夢がある。生きる為の目的がある。豊聡耳様と再会し、共に同じ道を歩むという夢が。

 

 だからいつか訪れるその日まで、私は精一杯生き続けよう。これまで通りの研究と鍛錬を続け、少し真理に近づいて。そして豊聡耳様の隣に立つのに相応しい人物に至るのだ。

 希望に満ち溢れていた。人間としてでも、仙人としてでも。これまで生きてきた人生の中で、これほどまで活力が満ちたのは初めての経験だった。怖いものなど何もない。あんなにも恐れていた死さえも、克服できるかも知れない。死を払いのける程の希望を抱く事のできた、この時の私なら──。

 

 それから、しばらくして。

 ──豊聡耳様達は、仙人として復活する前に仏教徒によって封印を施された。


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