桜花妖々録   作:秋風とも

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第12話「桜花」

 

 何もない空間だった。

 辺り一面、真っ暗な世界で。暗闇の中をたゆたって、意識と無意識が混濁して。身を委ね、赴くままに。ゆらゆらと流されていた。

 

(俺は……)

 

 一体何が起きて、今現在はどんな状況に立たされているのか。何も、分からない。けれどもその答えを探求するのさえも億劫になってきて、浮上しかけた意識が再びゆっくりと沈んでゆく。例えるならば、この感覚はまどろみに似ている。もう少しだけでも、眠っていたいと。そんな欲ばかりが強くなって、何もやる気が起きなくなる。

 遠ざかってゆく意識の中。ぼんやりと、だが。声が聞こえた。

 

『へぇ――成――。思っ――以――ね』

 

 なんだ、今の声は。

 まるで波長が合わずにノイズがかかったラジオみたいに、殆んど聞き取れなかったけれども。どこかで聞いた事があるような気がする。具体的に言えば、あの時意識が途切れる直前。

 

(あぁ……。確か、俺は……)

 

 あの時。岡崎進一は古明地こいしと接触し、そして能力を使われた。『無意識を操る程度の能力』。“無意識の領域”を弄り、弄び、そして支配する能力。進一の意識という意識はその“無意識の領域”へと引きずり込まれ、それ故に彼は心が欠落したかのような状態となっている。

 つまり。今の進一は、彼女の操り人形のような状態だ。尤も、こうして僅かに意識が顔を出している辺り、完全に支配されてしまった訳ではなさそうだが。

 

(この感じ……)

 

 ひょっとして今の自分は、能力を使っているのだろうか。あれだけ散々ひた隠しにしようとして、使おうとすら思わなかったあの能力を。

 そう言えば、確かこいしはこう言っていた。貴方は自分の能力を自覚しながら、それをひた隠しにしようとしている。でも意識してそうしている訳じゃない。言うなれば自己防衛本能だ、と。

 確かに、そうだったのかも知れない。表面上では気にしていない、大丈夫だと思い込んで。必死になって目を背けて、ずっと誤魔化し続けてきたけれども。心の奥底で、本当に抱いていた感情は――。

 

(蓮子とメリーには……バレバレだったのかなぁ……)

 

 時折見せる蓮子達の妙な反応。例えば、前に妖夢の日用品を買いに行った際のメリーだってそうだ。妙に何かを気遣って、遠慮して、躊躇して。けれども、今になって分かる。きっと彼女達は進一の真意になんとなく気づいていて、それで気を遣っていたのだろう。あの時は、別に何も気にしていないと、そうは言ったのだけれども。

 

(蓮子とメリー……、か……)

 

 消えかかる意識の中で。進一は、ふと思い出す。

 宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン。秘封倶楽部の二人との、記憶を。

 

 

 ***

 

 

 別に、岡崎進一は人付き合いが嫌いという訳ではない。例えば極度の人見知りだとか、人間不信だとか。少なくとも、そういうのではないと思っている。会ったばかりの見知らぬ人とも一応会話はできるし、笑顔だって見せる。

 だけれども。そんな中でも進一は、どこかで無意識のうちに壁を作ってしまう。人とも話すし笑顔を見せるが、必要以上に距離を縮めようとしない。一定の距離感で、踏みとどまってしまう。

 距離を縮められない事については、自分でも気づいていた。しかし、それでも進一はそんな自分を改めようとは思わなかった。自分はそういう奴なんだと、そう割り切ってこれまで過ごしてきたのである。だってそっちの方が、自分も他人も都合が良いと思ったから。だからどうでもいいじゃないかと、そう思って。故に進一は、本質的に一人だった。

 

 しかし、彼女達は。大学で出会ったあの二人は。そんな進一の壁さえも、乗り越えようとしてきたのである。

 あれは、大学の入学式が終わって数週間が経過した頃だった。

 

「こんにちは。隣、いいかな?」

 

 とある講義が始まる直前。講義室後方の席につき、片手で頬杖をついて講義開始を待っていた時だ。突然横から声をかけられて、進一は顔を上げた。

 視線を向けると、そこには二人の少女の姿が。一人は、黒い帽子を被った少女。そしてもう一人は、菖蒲色のワンピースを着こなしたブロンドヘアの少女である。ブロンドヘアの少女の方はまるで見覚えがなかったが、黒い帽子の少女の方は前にもどこかで会った事があるような気がする。

 そうだ。確か、入学式。あの時大胆に遅刻をしてきた――。

 

「……宇佐見蓮子?」

「あ、私の名前覚えててくれたんだ」

 

 嬉しそうに表情を綻ばせる黒い帽子の少女こと宇佐見蓮子。覚えているも何も、あんなにも強い印象を植え付けておきながら忘れろと言う方が無理な話である。

 進一は肩を窄ませた。

 

「まぁな。あれだけ笑わせられたんだ。忘れたくても忘れられない」

「む……、古傷を抉っていくわね……」

 

 意外と気にしていたらしい。からかってみると、蓮子はバツが悪そうに目を逸した。

 まぁ、正直に言って。大胆に遅刻してきた事よりも、夢美の弟だと言った後のテンションの上がりようの方が印象に残っていたのだが。まさか夢美をあそこまで尊敬している人がいるなんて、思いも寄らなかった。確かに天才だけれども、何というか。――色々と抜けている所があるし。

 

「初めまして。貴方が岡崎進一君ね?」

 

 蓮子とそんなやり取りをしていると、彼女の傍らにいたブロンドヘアの少女が声をかけてきた。進一はその少女へと視線を向ける。

 

「ああ、そうだが……。お前は?」

「私はマエリベリー・ハーン。蓮子の友達よ」

「ま、マエ、リベリー……?」

 

 外国人だろうか。それにしては日本語がやけに流暢な気がするが、成る程、確かにこの白い肌と金色の髪は日本人のそれとは違う気がする。

 

「……やっぱり言いにくいかしら? 私の名前」

「え? あ、ああ、少し……」

「この国の人には私の名前は発音しにくいらしいのよねぇ……。私の事はメリーで良いわ」

「メリー、か」

 

 マエリベリーよりも、そっちの方がだいぶ呼び易い。彼女自身がそう言うのならば、遠慮なくそう呼ばせてもらおう。

 それにしても、蓮子には外国人の友達がいたのか。意外と顔が広いのだろうか。

 

「なになに? 実は結構その愛称気に入ってたりするの?」

「あまり変な呼び名を増やしたくないだけよ」

 

 しかもかなり仲が良いと見える。

 確かに、蓮子には何か不思議な魅力があるような気がする。話していると毒気が抜かれると言うか、つい心を許してしまいそうになると言うか。憎めない性格、とでも言うのだろうか。――入学式の日から大胆に遅刻したりと、どこか抜けている所があるようだが。

 

「……隣だっけ? 俺は別に構わないぞ」

「そう? それじゃ、遠慮なく……」

 

 別に断る理由もないので、進一は二人を受け入れる事にする。進一の隣に蓮子、その隣にメリーという形で座る事となった。

 

「ところで進一君。あ、別に名前で呼んじゃっても良いよね?」

「ん? ああ。……なんだ?」

「実は、貴方に一つ提案があるんだけど」

 

 席につくなり、藪から棒に蓮子がそう持ちかけてきた。視線を向けると、蓮子は何やらニヤニヤと笑みを浮かべている様子。

 一抹の嫌な予感を覚えつつも、進一は黙って耳を傾ける。

 

「実は私とメリー、とあるサークルを立ち上げようと思っているのよ」

「……サークル?」

「そう。所謂オカルトサークルってヤツでね。名前は、秘封倶楽部って言うんだけど……」

「へぇ……秘封倶楽部、ね」

「どう? 単刀直入に言うけど、進一君も参加してみない?」

 

 意外と普通な提案だった。てっきりもっと妙な話を持ちかけてくるのではないかと思ったが、どうやら杞憂だったらしい。

 それにしても。蓮子がオカルト好きだという事は入学式の時の様子から見ても決定的に明らかだったが、まさかオカルトサークルを立ち上げようとしていたとは。まぁ確かに、彼女のようなノリとテンション、そして積極性の強さならそんな事を考えるのも不思議ではないが。

 

「成る程な。お前の言いたい事は分かった」

「おっ、話が早くて助かるわ。それじゃ」

「却下だな」

「ふふーん、進一君ならそう言うと……って、ええええっ!?」

 

 相変わらず反応がデカい。進一がその申し出を断ると、ガバッと立ち上がりつつも蓮子は声を張り上げた。身体を反らせて目を見開くその様は、少々オーバーリアクション過ぎるのではないだろうか。

 進一が蓮子にジト目を向けると、彼女は我に返ったらしく、

 

「ど、どうしてっ!?」

「いや、どうしてって……。前にも言ったと思うけど、俺はオカルトには興味がないんだ。そもそも、最初からサークルになんて入るつもりもなかったし」

「そ、そんな……! 折角の大学生活なのよ? それなのに何のサークルにも参加しないなんて……!?」

「そういう奴もいるって事だ」

 

 生憎、進一はサークルに参加するつもりはない。しかし別に何か特別な理由がある訳ではなく、ただ乗り気じゃないだけである。別に強制でもないのだし、それなら態々参加する必要もないんじゃないかと。そう思ってしまう。

 

「で、でもっ! 例え興味がなくたって、私達は大歓迎よ? これから少しずつ興味を持ってくれれば……!」

「何と言おうと、俺は秘封倶楽部には入らんぞ。て言うか、よく考えてみろよ。俺みたいに冷めた奴が参加したところで、お前たちが迷惑を被るだけじゃないか? 何のメリットもない」

「べ、別に、そんな事は……!」

 

 蓮子は中々引き下がらない。頑なに首を縦に振らない進一もそうだが、蓮子も頑固な少女である。お互い一歩も引こうとせず、このままでは事態は泥沼化だ。

 そんな中で。芳しくない状況を見かねたのか、メリーが間に割って入ってきた。

 

「ちょっと蓮子。無理強いはしちゃダメよ」

「め、メリー……? だ、だって……!」

 

 ポンッと肩を叩いてメリーが宥めようとするが、蓮子は未だに不服そうな表情を浮かべている。そんなに参加して欲しかったのだろうか。正直、別に進一に拘る必要はないと思うのだが。

 

「ごめんなさいね、進一君。私達も強制するつもりはないわ。別に気にしなくても良いからね」

「あ、ああ……。俺の方こそ、何かすまんな」

 

 真面目な少女なのだろう。少し残念そうな表情を浮かべながらも謝ってきたメリーを見て、進一も思わず後ろめたい思いを抱いてしまう。

 しかし、彼女達には悪いが、本当に参加するつもりはないのだ。今後心境が変化するような事があれば分からないが、少なくとも今の所はそんな気分にはなれない。

 

「ふ、ふふふ……。オーケー、全て理解したわ……」

「あぁ、お前もやっと分かってくれたか。それなら」

「つまりあれね……。『そんなに加入して欲しいなら、俺をその気にさせてみろ』と……そう言う事なのね進一君ッ……!」

「…………」

 

 コイツ全然分かってなかった。

 どこをどう解釈したら、そんな結論に至るのだろう。ポジティブシンキングにも程がある。そのどこまでも前向きな気持ちを、少し分けて欲しいくらいだ。

 何と言うか――、蓮子からは夢美に似た何かを感じるような。彼女が夢美を尊敬しているというのも、今なら何となく分かるような気がする。類は友を呼ぶ、とはこの事か。

 

「メリーが諦めたとしても、私はまだまだ諦めないわよ。進一君がその気になるまでね……!」

「……そ、そうか。ま、頑張れ」

 

 何だか突っ込むのも疲れてきたので、進一はぶっきらぼうに受け答えをしておく。それでも彼女は意気揚々と奮起するのだから、単純なものである。そろそろメリーも彼女を諭すのに疲れを覚え始めたようで、乾いた苦笑いを浮かべている。

 

 取り敢えず。随分と個性的な奴に絡まれてしまったなーと、意気込む蓮子を前にして進一は内心そう思うのだった。

 

 

 ***

 

 

 昼時。午前の講義が全て終わり、そろそろ昼食を食べる頃合。春特有の暖かな風が吹く大学のキャンパス内を、マエリベリー・ハーンは一人歩いていた。

 岡崎夢美の弟さんこと岡崎進一と出会ったのは、今日の1限目の講義が始まる直前の事だ。蓮子とメリーが履修した教養科目を彼もたまたま履修していたらしく、講義室後方の席に座って片腕で頬杖をついていた。

 

 話には聞いていたが、確かにちょっぴりクールな青年である。ただ、冷め切っているという訳ではなく、言動一つ一つが落ち着いているといった印象であるが。それでも蓮子をからかってみたり、快く受け入れてくれたり。意外とお茶目で人の良い所があるんだなぁと。そんな印象だった。

 

(秘封倶楽部には、入るつもりはないみたいだけど)

 

 それについては少し残念だが、だからと言って無理強いはできない。蓮子は少し強引過ぎると思う。彼にだって都合があるだろうに。

 まぁ。もしも気が変わって参加したいと言ってくれるのならば、メリーとしても嬉しいのだけれども。

 

「……ん?」

 

 雲一つない快晴。そんな空を仰ぎながらもキャンパス内を歩いていたメリーだったが、ふと視界にあるものを捉えて不意に足を止める。

 大学に沿って植えられた、満開の桜の木。それが一望できるような場所に置かれたベンチに腰掛ける、一人の青年の姿だった。

 

「あの人って……」

 

 間違いない。進一である。まさかこんな所で再び会う事ができるとは。

 メリーはベンチまで歩み寄り、そして彼に声をかける。

 

「進一君?」

 

 声をかけると、彼は落としていた視線を持ち上げてこちらへと顔を向ける。よく見ると、彼が手に持っているのはタブレット端末。何かを閲覧していたのだろうか。

 

「あぁ……メリー、だっけ?」

「ええ。こんな所で会うなんて、奇遇ね」

 

 笑みを零しつつもそう言うと、彼もそれにつられるように破顔して、

 

「ま、同じ大学の学生だからな。会っても不思議じゃない」

「ふふっ、それもそうね」

 

 冗談口調でそう口にする進一の許可を取り、メリーは彼の隣に腰掛ける。背凭れに身を委ねて短く息を吸い込むと、温かい空気が流れ込んできた。

 ポカポカとした陽気。気を抜くと、ついウトウトと眠りに落ちてしまいそうだ。メリーは思わず欠伸を零す。

 

「眠いのか?」

「そうねぇ……。気持ちの良い気候だから」

「まぁ、分からなくもないな」

 

 確かに眠いが、だからと言って本当に眠る訳にはいかないんだろう。幾ら温かいと言っても、こんな所で眠ってしまったら風邪をひく。

 そんな眠気を紛らわす為にも、メリーはさっきから気になっていた事を進一に尋ねてみた。

 

「ところで、進一君は今まで何をやっていたの? タブレットを見ていたみたいだけど……」

「ん? あぁ、履修科目の確認をな。計画的に履修しないと」

「へぇ……履修科目、ね」

 

 大学で年に履修できる単位の数には上限がある。取得の合否に関わらず、年間ある一定の単位数以上は受講できない事になっているのだ。それ故に、履修する講義はある程度絞り込む必要がある。進一はその作業を行っていたらしい。

 

「で? お前は何をやってたんだ? 蓮子は一緒じゃないみたいだが」

「蓮子は『提出する書類がある』とかなんとか言ってどこかに行っちゃったのよ。それで、仕方がないから一人で学食に行って、お昼にしようと思っていたのだけど……」

「学食に行く途中だったのか?」

「いいえ、学食には一度行ったわ。でも丁度一番混んでいる時間帯だったみたいでね」

「あー……。成る程な」

 

 基本的に学生食堂はキャンパス内に一箇所しかない訳だが、お昼時にもなるとその一箇所に大量の学生が集まる事となる。特にこの大学の学食は美味しいと評判が良い為か利用しようとする生徒も多く、この時間にはちょっとした行列までも出来上がってしまう程だ。

 確かにここの学食は評判通り美味しいのだが、それでも毎回あの行列に並ぶのは少し気が引ける。

 

「それで、ちょっと時間をずらしてみようかと思ってね。少し落ち着いた頃に行けば、多少はマシになってると思うし」

「で、それまでの間キャンパス内をぶらぶらと歩いていた、と」

「そう言う事よ」

 

 大学に入学してから、まだ日は浅い。キャンパス内のどこに何があるのか、それを把握しておくのも良いんじゃないかと。そう思って宛てもなく歩いていた矢先、この場所に辿り着いたと言う事である。

 まさか、ここまで桜を一望できる場所があったなんて。宛てもなく歩いて正解だった。

 

「それにしても、桜が綺麗ね……」

 

 規則的に植えられた桜の木々が自己を主張するかのように淡紅色の花を咲かせるその様は、思わず息を呑んでしまう程に壮麗である。この世の物とは思えない、などと言ってしまうのは些か大袈裟だが、思わずそんな感想を抱いてしまう程に壮観で幽雅な光景なのだ。

 その光景に改めて見惚れてしまうメリー。きっと進一も、この絢爛な光景に目を奪われている事だろう。そう思い、ふと彼の方へと視線を移すと、

 

「……好きじゃないんだ。桜」

 

 ――えっ?

 あまりにも唐突過ぎる進一の物言いに、メリーはあっけらかんとしてしまった。

 桜が好きじゃない。そう口にする彼の横顔は、どこか陰があるようにも思える。メリーが振った桜の話題に反射的に反応し、思わず意識もしない内にぼんやりと口にした言葉。それから感じ取れるのは、今の今まで察知する事もできなかった彼が胸中に抱える思い。

 言葉を失ったメリーが茫然自失としていると、気まずい雰囲気に気がついた進一が慌てて視線を向けてくる。

 

「あっ……す、すまん。水を差しちまったか?」

「へっ……? い、いや……」

 

 すぐに言葉が出てくる訳もなく、メリーは口篭ってしまう。進一から目を逸らして俯くと、それ以上彼も何も言わなくなった。

 気まずい。ギュッと、メリーは服の裾を握る。ひょっとして、進一に桜の話題を持ち出すのはタブーだったのだろうか。あんな風に、今まで見せた事もないような表情を浮かべるなんて。

 だけれども、やっぱりどうしても気になる。ただ単に桜という花が嫌い、という訳ではないような気がする。

 

「理由、聞いてもいい?」

「え?」

「どうして、桜が好きじゃないの?」

 

 チラリと横目を向けてそう尋ねると、進一は難しい表情を浮かべる。束の間の思案の末、再び桜に視線を戻しながらも彼が口にしたのは、

 

「あまりにも脆すぎるからだ」

 

 目を細め、表情を消し、表面的な感情を殺して。ポツリポツリと、彼は続ける。

 

「あんな風に優雅な花を繚乱させる癖に、高々一、二週間でその花弁を散らしてしまう。壮観な光景を保っていられるのは本当に一瞬だけで、それからはあまりにも簡単に、どうしようもないくらいにあっさりと、花を散らし尽くしてしまう」

 

 そう口にする進一の視線の先にあるのは、満開の桜。けれどもその花弁は今も尚散り続け、淡紅色の花吹雪が絶え間なく降り続いている。あの調子なら、確かに精々一、二週間で花弁を散らし尽くしてしまうだろう。自己を主張するかのように壮観で幽雅な花を咲かせ、けれどもあまりにも儚く花を散らすその様を、例えるならば。

 

「まるで……散りゆく生命の様子を、見せつけられているみたいだ」

 

 風が吹いた。帽子が飛ばされそうになって、思わず手で押さえてしまうような。それくらいの風。桜の木々もさわさわと揺れ、擦れ合った花弁が花柄から離れる。風に乗った花弁が淡紅色の吹雪となって、メリー達の視界を彩った。

 

 木々から離れた花弁がひらひらと舞い散る中、メリーは息をするのさえも忘れそうになってしまう。

 今の進一の言葉は、表面だけ見ればとんでもなくひねくれた意見に過ぎない。ただ単に綺麗だと思えばいいものを、あえて奇妙な観点からその様子を捉え、あろうことかネガティブな意見を引き摺り出す。

 しかし。こうして進一と対面し、彼の口から直接声を聞いているメリーなら、何となく分かる。彼はただのひねくれ者なんかじゃない。こんなにも壮麗な桜の花を目の当たりにして、あんな感想を抱いてしまうのも。何か、理由があるのだろう。そんな気がする。

 

「……ねぇ、進一君」

 

 どうしてそう思うのかと、戸惑いながらも尋ねようとした矢先。話題を強引に変えるかのように、進一が立ち上がった。

 

「さてと。俺もそろそろ学食に行こうかな。昼飯、まだだったんだ」

「あっ、えっ……?」

 

 まるで関連性もない話題を前にして、流石のメリーも困惑顔だ。ついさっきまでの様子がまるで嘘だったみたいに、彼はやんわりと笑みを浮かべてこちらに視線を向けてくる。

 メリーは口篭る。やっぱり、この話題はあまり触れない方が良かったのだろうか。笑顔こそ浮かべているものの、何と言うか。今の進一からは、どこか距離を感じる。いや、何もメリーを避けようとしている訳ではないようだが――。

 

「……お前も来るか? そろそろ空き始める頃合だと思うぞ」

「あ、う、うん……。そうね、私も行こうかしら」

 

 困惑しつつも、メリーもベンチから立ち上がる。そんなメリーの心境に気づいていないのか、はたまた見て見ぬ振りをしているのか。進一はそれ以上は何も言わずに、ただメリーに目配せした後おもむろに歩き出す。

 

(進一君……)

 

 胸中に強い違和感を残したままで、メリーも進一に続く。

 

『……好きじゃないんだ。桜』

 

 あの時言い放った進一の言葉が、未だに胸の奥底で反響する。今まで聞いた事もないような、冷たい口調で放たれた言葉。確かに彼はちょっぴりクールであるが、普段の喋り方だってあそこまで冷たくはない。

 違和感の正体はこの言葉である。だって、言っている事とやっている事が、少し矛盾しているじゃないか。桜が好きじゃないって、そう言っている癖に。

 

(どうして、桜が一望できる所に……?)

 

 その答えは進一にしか分からないだろう。けれどもそれを確認する勇気など、今のメリーにはない。きっとこれは、そんなにも不用意に触れてはいけない事なんだ、と。そんな思いばかりが強くなって、結局言葉にする事が出来ない。

 一定の歩調を保ったまま、メリーの前を歩く彼の背中。しかしその間には、見えない壁でもあるかのような。メリーはそんな感覚を覚え始めていた。

 

 

 ***

 

 

「あー、悔しい。悔しいわ……」

 

 黄昏色に染まる空が夕暮れ時を告げる頃。蓮子はぼやいていた。

 大学からの帰り道。蓮子は難しい表情を浮かべて腕を組み、「むぅ……」と唸りながらもトボトボと帰路に就く。普段の様子からは能天気で楽観的な印象を受ける蓮子だが、その思考は意外と論理的である。確かに考えるよりも先に行動してしまう事もあったりするが、やること成すこと全てがそうという訳ではなく、状況を客観的に判断してその上での最適解を見つける事だってある。

 深く考える前にまず行動。それは蓮子にとっても一選択肢に過ぎない。時には立ち止まって考える事も必要だと、それは彼女も心得ている。

 

「悔しいって、進一君の事?」

「そう。どうすればオカルトに興味を持ってくれるのかなぁって」

 

 共に帰路に就いていたメリーに受け答えしながらも、蓮子はふぅっと息を吐いて空を仰ぐ。

 進一に秘封倶楽部の加入を断られてから早数日。あれから何度か再び勧誘をしてみたものの、結果は同じだった。相も変わらず「興味がない」だとか「他を当たってくれ」だとか、返ってくるのはそんな答えばかり。蓮子が熱意を込めてオカルトの魅力を語ったとしても、彼の様子は全くの正反対。至ってクールな様子である。まぁ、それでも律儀にしっかり蓮子の話を聞いてくれる辺り、人が良い青年である事は確かなのだが――。

 

「あんまりしつこいのもどうかと思うわよ? 進一君にだって、事情があるのだろうし」

「それは、分かっているけど……」

 

 それでも、彼には秘封倶楽部に加入して欲しい。ここまで来たら、引き下がるのは負けのような気がする。――何だか意地の張り合いのようになってきたような。

 

「まったく、進一君も意地っ張りよねぇ」

「それを貴方が言うのかしら?」

 

 まぁ、五十歩百歩だろう。そうでなければここまで泥沼化していない。

 

「じゃあメリーはどう思っているのよ。進一君の事」

「……へ? わ、私?」

 

 蓮子に突然尋ねられて、メリーは少し面食らっているようだ。思案顔を浮かべつつも、メリーはしどろもどろといった様子で、

 

「何て言うか……、ちょっと気になっていると言うか……」

「気になっている? へぇ……。ひょっとして、メリーって進一君みたいな人がタイプだったりするの?」

「へっ……!? い、いやっ、そうじゃなくてっ!」

 

 ニヤニヤしながらからかうと、メリーは慌てて反論してきた。頬を染めながら露骨に食いついてくるその様は、随分とうぶな反応である。友人ながら可愛らしい。

 からかわれている事に気がついたのか、メリーはそこであからさまに咳払いを一つする。気を取り直して、彼女は続けた。

 

「上手く表現できないけど……少し、違和感があるのよ」

「違和感?」

「ええ。進一君、まるで無意識の内に他人を拒んでいるみたいな……」

 

 違和感。メリーのその話を聞いて、流石の蓮子も軽い心境ではいられなくなった。

 無意識の内に他人を拒んでいる。随分と釈然としない様子でメリーはそう口にするが、その感覚は間違ってはいないと蓮子は思う。

 思い過ごしなんかじゃない。岡崎進一というあの青年は、何かを抱えている。

 

「……やっぱり、メリーもそう思っていたの?」

「メリー“も”って事は……それじゃあ、蓮子も?」

「まぁ、ね……」

 

 確かに進一は比較的フレンドリーに接してくれている。会ったばかりの蓮子が相手でもちゃんと受け答えしてくれるし、時には冗談を言ってからかったりもする。

 だけれども、何と言うか。どこか余所余所しいと言うか、距離があると言うか。時折り、進一からはそんな隔たりを感じる事がある。浮かべる笑顔もどこか冷たくて、愛想笑いとまでは行かないが心の底から笑えていないような。そんな印象さえも受ける。

 尤も、本当に注意しなければ気づかないような、そんな小さな心境なのだけれども。

 

「なんだか、放っておけないのよね」

「えっ?」

「あのまま進一君を一人にさせたくない。力になってあげたいって、そう思うから」

 

 だから蓮子は、執拗に進一を勧誘していたのかもしれない。少しクールな反応だとか、一向に首を縦に振らない頑固さだとか。そんな彼の様子にただ意固地になって、しつこく声をかけ続けていた訳ではない。勿論、多少意地になっている所もあるが、その本質は違う。

 蓮子はあくまで、進一に笑って欲しいのだ。本当に、心の底から。

 

「蓮子はどうして、そこまで進一君に拘るの? 仲良くして欲しいって、夢美さんに頼まれたから?」

「へ? うーん……どうしてだろう。ただ……」

 

 夕暮れ時の、生暖かい春風。それを肌で感じながらも、蓮子は腕を組む。

 

「別に、教授に頼まれたからって訳じゃないわよ。えっと、上手く言葉に出来ないんだけど……、その……。と、とにかく、放っておけないのよ」

「ふふっ。何よ、それ」

 

 メリーに笑われた。蓮子はバツが悪そうに帽子を深く被り直す。

 上手く説明はできない。ただ、放っておけないって、彼を見ているとそんな思いが強くなる。

 入学式で初めて会ったあの時から。何となく、彼はただの他人ではないような気がしている。酷く漠然とした感覚だけれども、彼からはどこか親近感を感じると言うか。初めて会った気がしない、とでも言うべきか。

 だからこそ、蓮子の胸中にこんな感情が芽生えているのかも知れない。

 

「メリーの方こそ、どうなのよ?」

「へ? どうって……?」

「進一君の事、気になってるんでしょ? それはどうして?」

 

 上手く説明が出来ない苦し紛れに、蓮子はメリーにそう投げかけてみる。けれども、殆んど誤魔化し目的である。別にこれと言って特別な答えを期待した訳ではない。

 だけれども。物思いにふけったような表情を浮かべつつも、メリーはそれに答えてくれた。

 

「……似ているから、かな」

「似ている?」

 

 蓮子は思わず首を傾げる。あまりピンと来ない答えだった。

 

「ほら、私ってこんな『眼』を持っているじゃない? だから今まで、自然と周囲に壁を作りがちだったのよ。自分だけが、皆とは違う。だから溶け込む事は出来ないんだって、そう心の片隅で思い込んでいたの」

「全体的に過去形ね。今は違うの?」

「ええ」

 

 それからメリーは、ふっと笑みを浮かべて、

 

「蓮子や夢美さん達と話をして、なんだか吹っ切れちゃったのよ。自分の能力に怯えるのも、それで変に思い込むのも。馬鹿らしくなってきちゃった」

 

 マエリベリー・ハーンは、少なからず自分の能力に不安を抱いていた。本来見えるはずのないものを視覚し、その存在を認識する能力。そんな実態が分かりにくい能力だからこそ、余計に奇妙に思えてきたのだ。なぜ自分がこんな『眼』を持っているのか。そもそもこの『眼』は、一体何なのか。考えれば考える程不安感は強くなり、特別であるが故に周囲とも距離を置きがちになってしまう。

 そんな風にあまりにも生真面目なメリーだったが、蓮子と出会ってその心境に変化が訪れたらしい。

 

「まさか私と同じように『眼』の能力を自覚しておきながら、あんなにも楽天的な思考でいられる人がいるなんて。正直、あの時はびっくりしちゃったわ」

「……ん? ねぇ、ちょっと。ひょっとして貶してない?」

「まさか。蓮子には感謝しているのよ」

 

 なんだか遠まわしに「能天気で何も考えてないヤツ」と言われたような気がしたのだが、気の所為だったのだろうか。

 

「蓮子や夢美さん達のお陰で、私はしっかり前を向けるようになった。だからもう、自分の能力に怯えて逃げ出したりなんかしない」

 

 とにもかくにも、メリーは克服できたのである。蓮子と出会い、彼女と話して。この『眼』の事を、素敵な能力だと言ってくれて。屈託のない蓮子の気持ちに引き込まれて、メリーも前を向けるようになった。

 

「……今の進一君は、多分昔の私と同じなんだと思う。理由は分からないけれど、周囲への深い関わりを無意識のうちに拒んでいる」

「成る程。似たような状況を克服できたからこそ、メリーは進一君を放ってはおけないって事ね」

「……うん」

 

 だからこそ、メリーは進一を気にかけている。似たような心境だったから、少なからずその気持ちが分かるから。何とかしたいと、そう思っている。

 根本的には、蓮子もメリーも同じ気持ちだ。結局二人共、岡崎進一というあの青年に、前を向いて欲しいのである。

 

「なぁんだ。結局メリーも、私と同じ気持ちだったのね」

「まぁ、私は蓮子と違って力技でゴリ押ししようとは考えていないけど」

「む? それはちょっと心外ね。私はそこまで猪突猛進じゃないわ」

 

 西の地平線に太陽が沈み、黄昏色に染まる空。その下で、互いの気持ちを確認しあったその二人の少女は、再び歩き出す。

 

「でも、進一君って……」

「……ん? 何か言った、メリー?」

「……ううん。何でもないわ」


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