「邪仙に堕ちゆく#1」
私は、父に憧れていた。
父は聡明でどこか浮世離れした人だった。いつも難しい事ばかりを考え、部屋に籠って何らかの研究ばかりを続ける日々。家族の中でもかなり浮いた存在だったが、そんな事は意に返さずに父は自らの理想を追い求めた。
世界の構造を紐解いて、その先にある真理に辿り着きたい。なぜ人間は、死という終着の運命から逃れる事が出来ないのか。それを知りたい。
──父は口癖のように、何度も私にそう言って聞かせてくれた。
当時まだ幼かったあの頃の私は、そんな父の言葉の真意を紐解けていなかったのかも知れない。ただ、漠然とした感覚ながらも、父のそんな考え方が格好いいと思えるようになっていた。
世界の構造を紐解いて、その先にある真意に辿り着く。今思えば、その時点で随分と漠然とした表現だ。──けれど、そんな言葉に私が魅力を感じていたのも事実なのだ。だから私は、家族の中で一人だけ、そんな父の夢を応援し続けた。
それから、少し経ってからの事だ。
憧れていた父が、幼い私を含む家族を残して家を出て行ってしまったのは。
自分は仙人を目指しているのだと、父は最後にそう言っていた。死を超越し、不老不死の肉体を持つ仙人に至る事が出来れば、自分の掲げる理想に辿り着く事が出来るのではないかと。父はそう思ったのだろう。
突然の父の失踪。幼い私がその時覚えた感覚は、一体何だったのか。寂しかったのか、それとも突然いなくなってしまった父に対して怒りだったのか。今となっては、それも殆ど思い出せなくなってしまったのだけれども。
ただ一つ言える事は、父に対する憧れだけは、私の中に根強く残っていたという事だ。父のように世界の構造を紐解いて、共に真理に辿り着きたいのだと。そんな欲求は、父がいなくなってから日増しに強くなっていたと思う。
故に必然だったのだ。父が残した書物を読み漁り、私も仙人を志そうと思ったのは。──もう一度、父に会いたい。父に辿り着いて、そして答えを聞きたかったのだ。貴方が探求していた真理は、ここにあったのか。世界の構造を識る事が出来たのか、と。
私は仙人への勉強と研究に躍起になっていた。仙人になる事が出来るのならば、どんな犠牲も厭わないと。そう思えるようになっていた。
勉強、研究、勉強、研究、研究──。
私は特に道教についての知識を身につけた。自然を崇拝し、自然と一体になる事で不老不死を得る教え。仙人を志す者にとっては基本中の基本だが、私はそこに父が目指した真理への鍵があるように思えたのだ。
自然と一体になる事で不老不死を得る。つまるところ、死の超越。真の意味でそれに辿り着く事が出来れば、私達が求める真理へと辿り着く事が出来るのではないか。──人はなぜ、死という運命を受け入れなければならないのか。そんな疑問の答えだって得られるに違いない。
やはり父は間違っていなかった。
仙人を目指す事こそ、真理へと辿り着く為の第一歩──。
それから、暫く経って。成長した私は、名家である霍家に嫁ぐ事になった。
この国ではそれなりに知名度のある名家。このまま平穏な日々を過ごせば人並みの幸せを得る事も出来たのだろうが、私はそんな幸せなどに関心を向ける事が出来なかった。
別に、相手に対して何か不満があった訳ではない。悪い人ではなかったと思う。だが、それ以上に私は、仙人への夢をどうしても捨てる事が出来なかったのだ。幼い頃より抱き続けてきた仙人への憧れは、時間が経てば経つほどに自分の中でも大きな存在へと成長し続けていたのだから。
人並みの幸せなんていらない。それ以上に私は、辿り着きたかった。
仙人の世界に。そして父も追い求めていた、世界の真理そのものに。
やがて私は、かつての父と同じように家族から逃げ出した。──唯一父と違った点は、家族の前から失踪する際にとある仙術を用いた点だ。
それは仙人の一つ──尸解仙に至る為に必要な儀式。不老不死の肉体を得る為には輪廻転生の輪から抜け出す必要があり、その為に私は
死を経る、といっても本当に死んでしまう訳ではない。周囲の人間に私が死んだという事を認識させる事が出来れば、儀式の条件は十分に整う。疑似的な死──つまるところ、死の偽装だ。私は竹の棒を死体に見せかけ、それを家族に埋葬させる事で尸解仙への儀式を完遂させた。
私にとって、それは最も都合の良い儀式だった。疑似的な死を迎える事で仙人に至る事が出来る上に、家族の前から姿を消す事も出来る。まさに一石二鳥。仙人への憧れが家族に対する愛情さえも飲み込んでいた私にとって、その選択に躊躇いを生じさせる理由はなかった。
あの時。竹の棒で偽装した私の死体を見つけた家族は、何を思ったのだろうか。元々仙人や道教に関する研究にのめりこみ気味で家族とは疎遠だったし、案外あちらも特に大きな感情は抱かなかったのかもしれない。
まぁ、今となってはそんなのどうでも良い事だ。あの頃の私にとって、家族が何をどう思おうとも知ったこっちゃなかったのだから。
それよりも、何よりも。私は私の憧れに手を伸ばす事を優先したかった。こうして疑似的な死を迎えた今、私は輪廻転生の輪から外れた状態。つまるところ、死を超越したのだ。後はこのまま修行を積めば、憧れの仙人に辿り着く事が出来る。
それからの私は、仙人に対する執着を今まで以上に強くしていった。夢中になって、仙人としての力を身に着け続けた。死の超越を成し遂げる事の出来た私にとって、最早怖いものなどない。このまま修行を続ければ、きっと私の求める真理へとたどり着く事が出来る。そしてやがて、仙人となった父との再会を果たすのだ。
既に私は家族を欺いている。だから今更、目的の為にどんな手段に及ぶ事も厭わない。
私は修行を続けた。真理に辿り着き、そしていつの日か父に再会出来る日を夢見て。
──だけれども。
天は、そんな私を仙人として認める事はなかった。
***
仙人とは元来、誠実な人間が至るべき存在であるらしい。
清き心を持ち、俗世から離れながらも人の世を忘れない。人里から離れながらも人を思いやり、道教に従って自然への感謝も忘れない。その上で不老不死に至る為の厳しい修行を経て、それぞれがそれぞれの求める真理へと向かって、日々精進を続ける。
不老不死などという、倫理に逸れた事を目指している癖に誠実であるべきなんて、中々どうして矛盾した考えではないかと私は思う。だが、一般的な仙人とは皆そんなものらしい。私の考え方こそが異端だったという事だ。
それ故に、天は私を仙人として認める訳にはいかなかったのだという。
目的の為ならば手段を選ばない。例え家族を欺く事になろうとも、そんな要素は躊躇いを生じさせる理由になんてならない。求める真理に辿り着く事が出来るのならば、どんな事だってやってのける。──そんな私の性格が問題だったらしい。
頭の固い連中だ。私は既に、仙人に成り得る力を十分過ぎる程に持っている。それなのに、自分達の思想とは少しでも相容れぬと感じるや否や、問答無用で爪弾きにするなんて。
──まぁ良い。連中が何をどう思おうとも、結局のところ私には関係のない事だ。私は別に、天に仙人として認められる為にここまで頑張ってきた訳じゃない。父と再会し、そして世界の真理へと辿り着く。そこに至る事が出来れば、最早過程なんてどうでも良い事だった。
天から爪弾きにされた後も、私は仙人としての修行と研究を続けた。形式上、仙人とは認められなかったとは言え、私の肉体は仙人のそれと同等である。竹の棒を苟且の体として輪廻転生の輪から抜けた私は、既に尸解仙としての肉体と能力を有している。修行を怠れたればあっという間に肉体は朽ち果て、灰となって消えてしまうだろう。そんな死に方をするのは真っ平御免だ。
それに。仙人として認められずとも、この肉体と力を手に入れた時点で、私は十分に理想を追い求める事が出来る。他の仙人の力なんて必要ない。別に一人でも問題ないじゃないか。
父と再会するまで、私は絶対に諦めない。他の連中に仙人だと認められなくても構わない。
そうだ。この想いを成就させる事が出来るのならば、私は──。
──そんな決意を新たに鍛錬を続けていた、ある日の事だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
呼吸が激しく乱れる。息せき切って、私は雑木林を駆け抜けていた。
人里離れたとある山奥での出来事である。あれは、私が霍家から姿を消し、尸解仙としての肉体を手に入れてから百年ほど経った頃の事だろうか。
有無も言わせぬような勢いだった。こちらの命を奪う事だけを優先しているような、あまりにも暴力的かつ一方的な殺意。初めこそ抵抗を試みた私だったが、それも早々に諦めて逃亡を選択する事にした。
仙人になってから約百年。それなりに力をつけてきたとは言え、それでもまだまだ未熟者。あんな力を持つ相手とまともにやりあった所で、勝ち目はないのは目に見えている。
それ故の逃亡。合理的な判断だ。こんな所で命を捨てる私じゃない。
「ふぅ、ふぅ……! しつ、こい……!」
今も尚、殺気は背中に刺さり続けている。どんなに全力で逃亡を続けても、それはしつこく追いかけてくる。流石の私も、そろそろ体力の限界だ。呼吸が乱れ、酸素不足で頭も痛くなってきた。このままでは、身体が動かなくなってしまうのも時間の問題だった。
「うぐっ……!?」
直後。付近の足元で何かが爆発し、私は為す術もなくバランスを崩して激しく転倒してしまった。
攻撃された。恐らく霊弾か何かだろう。ちょこまかと逃げ回る私に対し、まずは足止め目的でこんな攻撃を放ってきたのだろうか。だが、幸いにも直撃はしていない。派手に転倒はしてしまったが、できたのは擦り傷程度である。これならまだ動ける。
早いところ立ち上がって、出来るだけ遠くに──。
「まったく。貴方もいい加減、諦めが悪いですね」
直後。私の背後から、そんな声が流れ込んでくる。
思ったよりも声が近い。まさかあの一瞬で追いつかれた? 弾かれるように振り返ると、そこにいたのは仰々しい“鎌”を肩に背負った一人の女性だった。
分かりやすいくらいにあからさまなビジュアルである。噂には聞いていたが、まさか本当にこんな姿をしているなんて。──そんな風に少し呆けた事を思ってしまう辺り、命の危機を前にして無意識のうちに現実逃避をしてしまっているのかも知れない。
だが、私だってこんな所で終われない。呆けた思考を現実に戻して、私は目の前の女性を睨みつけた。
「それは、こちらの台詞です……。貴方の方こそ、いい加減諦めたらどうですか……?」
「そうはいきませんね。これがあたしの仕事ですので」
ふんっと鼻を鳴らしつつも、目の前の女性は答える。
「あたしの役割は本来寿命を迎えるはずだった現世の魂を刈り取る事です。そして貴方は、仙術を用いて輪廻転生の輪から強引に抜け出した身。輪廻転生から抜け出した仙人達は、生きている分だけ罪を負う事になりますからね」
そして彼女は、手に持っていた鎌を私に向けて突き出すと。
「あたしは死神。地獄からの使者です。故に罪を犯した貴方達仙人を、閻魔様の所に送る義務があります」
淡々とした宣言。私の重ねていた罪を突き付けてきた彼女は、自らを死神と名乗った。
死神。地獄からの死者。確か、是非曲直庁と呼ばれる地獄の公的組織に属する労働要因だったはず。不老不死を目指す仙人にとっては無縁の存在に思えるかも知れないが、実際はその逆である。
是非曲直庁は輪廻転生の管理も担っている。そんな連中にとって、強引に死を引き伸ばす仙人達は、まさに目の上のたんこぶのような存在なのだろう。だからこうして、無理矢理にでも命を刈り取りに来る。
要するに、この死神は輪廻転生のバランスを保つ為に、私を地獄に送るつもりだという事だ。──天に仙人とは認められなかった、この私を。
「ふっ……。仙人、ですか……。貴方は私を仙人と称するのですね……」
自嘲気味に、私はそう口にする。天は私を仙人として認めなかったのに、自分の命を刈り取ろうとする相手には仙人として属されるなんて。何とも皮肉な話である。
「……? あぁ、そう言えば、天は貴方を仙人として認めていませんでしたね。だけどそんなのはあたし達にとって関係のない事です。禁忌を犯して輪廻転生から強引に抜け出した時点で、貴方の名前はブラックリストに上がっています。他の仙人と何ら変わりないのですよ」
「……そうですか」
この死神にとって、天の意向などまるで意に介さない要素だという事か。──いや、この死神というよりも、それが是非曲直庁の意向という事なのだろう。
滑稽な話だ。やはり天に認められる事になんて意味はない。真理探求への道筋に、それは必ずしも必要な要素とはなり得ないのだ。
「ふふっ……。礼を言いますね、死神さん。お陰で私の思想が間違っていなかった事を再認識出来ましたから」
「……この状況でそんな事が言えるなんて、やはり仙人やそれに相当する人は変わり者ばかりですね。まぁ、今更ですけど」
呆れた様子で死神がそんな事を口にしている。変わり者だなんて、そんなの本当に今更だ。私だって自覚している。自覚した上で、半ば開き直っているのだ。
変わり者だから何だ。周囲の評価などどうでもいい。そんなの理想に向かう事と比べれば些末な問題なのだ、と。
「ふぅ……。まったく」
──私がそんなふてぶてしい思考を抱き始めた、次の瞬間の事だった。
「
「──えっ……?」
死神が呟いたその言葉。『父娘』という単語を耳にして、私の思考が一瞬だけ止まる。あまりにも予想外だった所為か、一瞬彼女が何を言っているのか理解が遅れてしまった。
父娘。私に向けて、彼女はそう言ったのか? それが意味する事は、即ち──。
そこまで考えた所で、私は思わず身を乗り出した。
「父を……。貴方は、私の父を知っているんですか……!?」
興奮気味な口調。否が応でも、心臓の鼓動が高鳴ってゆくのを感じている。
突如として舞い降りた父への手掛かり。この死神が私に向けて
この百年間、私は修行と研究を重ねながらも父の足取りを追いかけていた。だが、その手掛かりはまるで掴み取る事が出来なかったのだ。
そんな折に、こうして明確な手掛かりが目の前に現れたのである。気分が高揚するのも無理はなかったと思う。だって、父と再会する事こそが、私が仙人になった目的の一つだったのだから。
「……ええ、良く知ってますよ。貴方の父親の事は」
──だけど。
直後に死神から聞かされた言葉を前にして、私は再び愕然とする事になる。
「だって、あたしが命を刈り取りましたからね」
「……っ。は──?」
一体全体、この死神は何を言っている?
私が真っ先に抱いた感想がそれだった。
さも当然の事であるかのようにそんな事を口にする死神。あまりにも自然過ぎて、私の思考は再び理解を放棄する事になる。
あたしが命を刈り取った。彼女は今、そんな事を口にしたのか? 何だそれは。一体全体、どういう意味だ。話の前後から推察するに、
いや。待て。何だ、それは。
意味不明。訳が、分からない──。
「な、何を……。何を、言って……」
「おや? 意味が伝わりませんでした? あたしは別に捻った事なんて何も言っていないつもりだったんですが」
自分でも驚く程に声が掠れている。心臓が激しく締め付けられるような感覚に襲われて、急激に息が苦しくなる。呼吸が乱れる。動悸が激しい。
けれどもそんな私とは対照的に、死神の女性は至極落ち着いた様子で。
「殺したんですよ。あたしが」
彼女はチラリと、自らが持つ大鎌を一瞥して。
「貴方と同じように禁忌を犯した、貴方の父親の事を」
やっぱり彼女は、さも当然の事であるかのように。
「貴方の父親は確かに聡明な人間でした。仙術なんかに手を出さなければ、真っ当な最期を迎える事だって出来たものを」
感情さえも感じ取れぬ程に、ただ淡々と。
「でも仕方ありませんよね。どんな理由があるにせよ、あたし達は輪廻転生の理を管理しなければなりませんから。──だから、殺したんですよ。そんな理から逸脱してしまった、貴方の父親の事を」
私に向けて、そう言い放った。
「そして同じように理から逸脱した貴方の命も、刈り取ろうと思います。──貴方の父親と同じように」
「…………っ」
私は何も言えなくなってしまった。あまりにも衝撃的な事実を突き付けられて、俯く事しか出来なくなってしまった。
殺されていた? 誰が? 私の、父が? 目の前にいる、この死神に?
私が仙人を志すきっかけになったのは、父の存在が大きかった。仙人を目指した父と同じように、いつか私も仙人になって、やがて仙界で父と再会して。そして父と共に、世界の真理を紐解く事を夢見てここまでやってきたのに。
「そん、な……」
その父が、既に死んでいた?
「お父様は、もう……」
それじゃあ私は、一体何の為にこれまで──。
頭の中がぐちゃぐちゃになっている。酷い混乱が私の中を駆け抜けている。
父親が、死んでいた。ただその事実のみが、私の胸中でぐるぐると回り続けていて。
殺したのは、目の前にいるこの死神。だけど意外にも、怒りのような感情はそれほど強く湧き上がってこない。悲しみのような感情に関しても、不思議と強く感じられない。
ただ──。何だろう、この感じ。様々な感情が、ぐちゃぐちゃになっているかのような──。
「おや? 大人しくなりましたね。戦意が喪失してしまいましたか?」
「…………」
死神が何かを言っているが、そんな言葉に答える余裕なんて今の私にはない。
ぐわん、ぐわんと。視界が揺れているような感覚に襲われている。死神が口にした言葉の意味は理解できているものの、それを嚙み砕いて受け入れる事が出来ないのだ。
嘘だ。そんな訳がない。
否定の言葉ばかりが私の脳内を駆け抜けるのだけれども、でも──。
「ふぅ……。酷い顔ですよ? そんなにショックだったんです?」
「……っ。わ、私、は……」
「ふむ……? 成る程、貴方は父親との再会を望んでいた訳ですね? それなら少し悪い事をしました。残念ながら、貴方はこの顕界で父親と再会する事は叶いません」
「…………っ」
血の気が引くような感覚を覚えている。何かを言い返さなければとは思うのだけれども、言葉が全く出てこない。
父は既に死んでいた。その事実を認識すればする程に、身体が凍るように冷えていくような感覚を覚えている。
何だ、これは。この感覚は、一体何なんだ。
「ですが安心して下さい。父親と同じ罪を犯した貴方は、死ねば
父が既に死んでいて、私は仙人としての目的を失って。
酷い虚無感のようなものを感じている。このまま仙人として生き続けても意味なんてあるのかと、そんな思いさえも微かに生じ始めている。
でも。
「まぁ、死んで魂だけの存在となった時点で、生前の記憶は殆ど失われているでしょうけど」
だけど私は、それでも命を捨てる事が出来なかった。
生きる理由の一つを見失ってしまったのだけど、それでも。寧ろ、私は。
「それでも、閻魔様はきっと貴方に救済を与えてくれます。罪を犯した貴方達の魂を浄化し、もう一度更生するチャンスを──」
私は、ただ。
「だから安心して、貴方はあたしに命を刈り取られ……」
「……い、や……」
「……何です?」
寒い。
寒い、寒い、寒い寒い寒い。
身体と心が、凍えるように──。
「いや……。嫌ぁ……!」
この感覚は知っている。父を殺された怒りでも、父を喪った悲しみでもない。
恐怖だ。
明確な死を目前としたが故に湧き上がってくる、どうしようもないくらいに原始的な。
「私、は……!」
──ある種の、本能。
「私は……! 死にたくないッ!!」
「……っ! なっ、これは……!」
感情の爆発と共に内なる何かが増大するような感覚を覚えている。これまで無表情だった死神の女性が初めてその表情を崩したが、そんな事を気にする余裕なんてこの時の私にはない。
ただ、死にたくない。例え目的を失ってしまったのだとしても、それでも生き続けたいのだと。死への恐怖と共に、そんな欲望が爆発してしまって。
「あ、貴方……! まだ、こんな力を……!」
「ああああああああああッ!!」
「くっ……!?」
激情に支配されている。自分が何を考えていて、自分がどんな行動を取っているのか。それすらも自覚する事が出来なくなっている。
ただ、身体の内側から底の知れない霊力が、吹き上がって来て。
死にたくない。死ぬのは怖い。
怖い、怖い、怖い。
父親という身近な人物の死を聞かされた私は、あまりにも強い死への恐怖に胸中を支配されてしまったのだ。
──それから後の事は、正直あまりよく覚えていない。
こうして今も尚仙人としての肉体を維持出来ているという事は、少なくともあの死神から逃れる事は出来たのだろう。爆発する霊力を用いて撃退したのか、それとも単に逃げ出す事に成功したのか。それすらも曖昧なのだけれども。
気がつくと、私は一人でへたり込んでいた。
夜。月や星の明かりさえも殆ど届かない森の中で、私は脱力していた。
身体が怠い。気力さえも抜け落ちた。ただ──それでも私は、生きている。
「…………っ」
父は死んだ。あの死神が嘘をついているとは思えない。本当に、私と再会する前に、父は──。
別に、再会の約束を交わした訳ではない。私がただ、一方的に憧れていただけ。勝手に期待して、そして勝手に裏切られた気になっているだけだ。
「お父、様……」
それでも。
「わた、し……」
それでも、私は。
「私は、これから一体……」
一体、どうすれば良いのだろう。何を目指して生きていけば良いのだろう。
この瞬間、私は気づいた。真理を目指すなんて夢も、結局のところ父親ありきの夢だったのだと。父親の死を突きつけられた今、私はそんな夢を目指す事に意味を見いだせなくなっている。
それなら、どうする? 夢を見失っても尚、中途半端な似非仙人として生き続ける事に、意味なんてあるのだろうか。
でも。
「嫌だな……」
だとしても。
「死ぬのは、嫌……」
私は生にしがみついた。例え生きる目的を見失ったのだとしても、だからと言って命を捨てるという気には全くと言っていいほどなれなかった。
怖い。
死ぬのが、何よりも怖い。
死神に命を狙われて、そして父の死を突きつけられて。
死に対して強い恐怖心を心に植え付けられた私は、生きる目的を見失いながらも、ただ泥臭く生き続ける事を選択する──。