冥界に閉じ込められた。
西行寺幽々子がその事実に気が付いたのは、咲夜に逃げられて少し経ってからの事だった。
「あら……? あらあら?」
唐突に伝わってくる違和感。放出していた呪力が押し戻されるかのような感覚。試しに使役した幽霊に周囲を探らせると、やはり幽々子の違和感は気の所為ではなかった事に気づく。
冥界と顕界の境目。結界が解れているはずのその場所に、重ねるようにして外から別の結界が張られていたのである。しかもご丁寧に、まるで幽々子個人を徹底的に拒むかのように、霊的な呪力を封じる事に特化した効力らしく。
「ふぅん……。まさか、ここまでピンポイントに結界を張ってくるなんてね~」
ちょっぴり関心した様子で、幽々子は鼻を鳴らす。
まさかここまで手際よく結界を張ってくるとは思わなかった。──いや、というか寧ろ手際が良すぎではないだろうか。タイミングもそうだが、この効力。まるで幽々子の覚醒を予め予見していたかのような、そんな印象を受けてしまう程である。
そもそも幻想郷と冥界の境目にある結界は、今は少し解れていたとはいえ、世界と世界を隔てる程に強大かつ複雑な構造をしている。その上を覆うように結界を張りなおしてしまうなんて、並大抵の術者では不可能な暴挙だ。この感じでは、恐らく魔法的な術式であるようなのだが──。
(あのメイドさんが来ていたという事は、やっぱり紅魔館の魔法使い……? いや、だとしても流石にタイミングが良すぎるような……)
そこまで考えた所で、幽々子は気がつく。
紅魔館の主が持っている、『能力』の事を。
「成る程ねぇ……」
クスリと幽々子は破顔した。
「あの子にはある程度読めていた、という事かしら? その上でこんな一手を使ってくるなんて……。私に楯突くつもりなのね」
彼女の『能力』がどれ程までの効力を持っているのかは知らないが、少なくとも幽々子の覚醒は予見していたと見て間違いない。そう考えれば、ここまでの用意周到さにも一応は納得出来る。
だが、それも無意味だ。こうして結界を張って幽々子を封じ込めたつもりなのかも知れないが、こんな物は結局の所、急拵えのその場凌ぎに過ぎないのである。
「くすくす……。この程度の結界なら、私の力が戻れば直ぐに破る事が出来ちゃうしね~」
咲夜によって魔術による妨害を受けた事により、『能力』が完全に馴染むまでもう少し時間がかかりそうだが、それも大した障害にならない。寧ろそれならそれで、
「ふふっ。ワクワクするわぁ……」
愉悦に満ちた表情で、幽々子はそう口にする。
「ねぇ、貴方もそう思うでしょ? リリカ」
声をかける先は、傍らで俯いたまま喋らない少女──リリカ・プリズムリバーである。幽々子の呪力をその身に受け、一度はその演奏で咲夜を退けた彼女だったが、今はこうしてまた大人しくなってしまった。
ぼんやりと、虚ろな表情を続けるリリカ。どうやらまだ目覚め切れていないらしい。
「あらあら……」
胸中の整理が終わるまで、少し時間がかかっている。ルナサ達との思い出が、彼女の
ならば幽々子がサポートをしてやらねばなるまい。偽りの自分を演じ続けるその気持ちは、幽々子が一番よく分かっているのだから。
「ねぇ、リリカ。ひょっとして、貴方はまだ迷っているの? どれが本当の自分で、何が掛け替えのない真実なのか。それが判らなくなっているのね」
「…………」
リリカは何も喋らない。だが、ピクリとほんの少しだけ反応を見せる。
幽々子は背後から彼女の両肩に手を添える。そして耳元に顔を近づけて、囁くように言葉を紡いで。
「大丈夫。落ち着いて、しっかりと考えてみて? 何も迷う事はない。躊躇いなんて必要ない。貴方なら、きっと真実を手繰り寄せる事が出来るわ」
「…………」
西行寺幽々子は知っている。冥界の管理者として、これまで様々な死者を見てきたのだから。
当然、彼女も──。
「ねぇリリカ、教えて頂戴? 貴方は一体、何者なのか。どうして貴方は、ここに存在しているのか。貴方が本当に望んでいるのは、何なのか」
「…………」
何も喋らず、ちょっとの反応しか見せなかったリリカ。そんな彼女の口元が、少しずつモゾモゾ動き始めて。
「わた、し……は……」
消え入るようなか細い声。けれども彼女は、確かに言葉を紡ぎ始める。
「私は、姉さん達の妹で……」
そしてどこか躊躇いがちに。
「
その真実を、口にする。
「……
リリカの瞳が見開かれる。未だボンヤリとした印象は抜け切れていないが、それでも彼女の表情には感情が表面化し始めていた。
幽々子はニヤリと笑う。そんな彼女の目の前で、リリカはますます言葉を紡ぎ始めた。
「そうだ……」
震える声。酷い後悔と罪悪感が感じ取れるような、そんな声調である。
頭を抱える。声だけではなく、身体も小刻みに震え始めて。
「私が、出来損ないだったから……!」
それは底の知れない劣等感だった。憧憬を抱き、その為に必死になって努力を続けるのだけれども。どんなに手を伸ばそうとも届く事さえ叶わずに、ただ自らの無力感のみが突きつけられて。やがて憧憬は羨望となり、そして羨望は嫉妬へと姿を変えてしまう。──そんな考えに至ってしまう自分自身が、何よりも嫌で。劣等感と自己嫌悪の渦に飲み込まれてしまって。
そう。だからこそ、彼女には
「だからこそ、私が貴方を救済してあげる」
「えっ……?」
囁くようにそう告げる。するとリリカは、どこかポカンとしたような表情を浮かべ始めた。
そんな事を言われるなんて、思ってもいなかったのだろう。当惑し、言葉を見失ったリリカに対し、幽々子は更に続けた。
「嫌だったのでしょう? あまりにも無力だった自分が。後悔しているのでしょう? 自分が犯してしまった過ちを」
「後、悔……」
「……そして、恨んでいるのでしょう? 虚妄を押し付けてきた、
「────ッ!」
リリカは息を呑む。心の隙に入り込んだ幽々子の言葉は、より深く、そしてより根強く彼女の中に響き渡る。彼女が秘めていた内なる感情を、あっという間に剝き出しにする。
「だったらちゃんと伝えなきゃ。本当は、貴方が何をどう思っているのか。そして見せつけてやりなさい。貴方がずっと抱き続けていた、貴方だけの本当の願いを」
「ねが、い……」
「ええ、そうよ。それを貴方が叶えるの。他の誰でもない、貴方自身の手で……」
甘言は、荒んだ心をあっという間に侵食してゆく。──籠絡するのは時間の問題だった。
「そう、だよね……。私、私は……」
リリカの言葉が強くなる。ただ、思った事をぼんやりと口にしているだけではない。
ようやく彼女は
それは、愛だ。正真正銘、彼女自身が深く抱き続けていた祈り。
「私が、やらなきゃ……」
それをリリカは口にする。
「私が、取り戻すんだ……」
──歪んだ愛が、露呈する。
「その為には……」
「──ええ。その為には、力が必要なのでしょう?」
頷きつつも、幽々子はリリカの想いに同調する。
「そんな力を貴方にあげるわ、リリカ。……いえ、厳密に言えば、貴方は既に持っているのよ。貴方が抱くその想いを、成就させる為の力を、ね」
「ちか、ら……」
「そう。それこそが──絶対的な“死”」
そして蝕んでゆく。
「私と一緒に、幸せな世界を作りましょう──?」
幽々子の呪力が黒い靄となって周囲に放たれ始める。
絶対的な“死”。それは生命ある者にとっての終着だ。顕界の住民は大抵それに恐怖心を抱いているのだろうけれど、幽々子にとってはまさに真逆である。
死という概念そのものこそ、幽々子にとっての理想。彼女が望む未来の為に、必要不可欠なものだ。
そして。リリカ・プリズムリバーにとっても、きっと──。
「うん……。そうだね……」
それ故にこそ、彼女は容易く受け入れる。
「そうすれば、私達は──」
黒い霧として具現化した死の呪い。それがリリカ・プリズムリバーからも放たれ始める。幽々子によって与えられた“呪い”が彼女を侵食し、そして“呪い”は彼女の力へと転換される。
最早彼女は、混濁した記憶の中で、ただぼんやりと呪力を振るうだけの存在じゃない。──彼女の意思は、固まっている。たった一つの願いの為に、彼女はその力を惜しみなく使う事になるだろう。
これ以上、余計な言葉を交わす必要もない。彼女は理解し、そして受け入れてくれたのだ。
幽々子が思い描く理想郷。その先に存在する、輝かしい未来の事を。
「さて。それじゃあ、一緒に始めましょうか」
そして幽々子は、宣言する。
「私達の物語を──」
未来は、少しずつ傾き始めていた。
*
『反魂と死。あの時の私は、ただそれを見届ける事しかできなかった』
明晰夢と呼ばれる言葉がある。人が見る夢のうち、それが夢であると自覚する事の出来る夢である。明晰夢では夢の状況を自分の思い通りに変化させる事が出来るとも聞くが、それでも彼女の場合、そんな事を実行する気は更々起きなかった。
これは夢。それは判っている。だからと言って、それを思い通りに操る事に何の意味があるのだろう。
『でも……貴方なら、或いは……』
この光景には見覚えがある。二年前──未来の世界から帰還する直前にあった出来事だ。
過去の経験を夢という形で追体験している。記憶の想起が発生している。なぜ、このタイミングでこの光景を思い出したのか。
『幽々子様を救いなさい』
そんなの、考えるまでもなく明白だ。
『魂魄妖夢』
──救えなかったからだ。
あの日。あの時。自分は彼女に託されたのだ。幽々子を救い出す事を。想いを認め、自分を認め。そしてそれ故にこそ、彼女は未来を託してくれたのだ。
反魂と死。ただそれを見届ける事しか出来なかった、自分に代わって。他でもない。
今なら判る。きっと彼女は、未来の変革を期待していたのだ。目の前にいるこの少女なら、未来を変える事が出来る。理不尽で不条理なバッドエンドを回避する事が出来るのだと。ただそれだけを祈り、信じて、自分を送り届けてくれた。
でも。
けれども、結局。
反魂と死。ただそれを見届ける事しか出来なかったのは。
結局のところ、自分も──。
(…………っ)
真っ暗だ。何も、何も見えない。どこへ行こうとも、何をしようとも、どんなに藻掻き続けようとも。結局自分は、何も出来ない。何も掴めない。
そう。未来なんて、変えられない。
救うべき大切な人を救う事すら、出来ないなんて。
(……ああ──)
沈んでゆく。
暗闇の中に、ゆっくりと。
(もう、疲れちゃったな……)
このまま身を委ねれば、どうなるのだろう。このまま全てを諦めれば、自分は解放されるのだろうか。楽になる事が出来るのだろうか。
だとすれば、
それならそれで、良いのかも知れない。これ以上、抗う事に意味なんてないのかも知れない。
諦めてしまえば良い。そうすれば。
(私は──)
全てを、終わらせる事だって──。
『妖夢』
──ふと、記憶の片隅に蘇る。
『ありがとう、妖夢。私の為に、こんなにも頑張ってくれて。私達を護る為に、こんなにも必死になってくれて』
場面が切り替わる。
それは、淡紅色の桜吹雪の中。儚げな雰囲気を漂わせる一人の少女が、どこか物哀し気な表情を浮かべている。
『だけどもう、大丈夫。貴方はもう十分過ぎるくらいに、頑張ってくれたと思うから』
表情を綻ばせる。彼女は笑顔を浮かべているつもりなのかも知れないが──。
でも、何故だろう。どうしてこんなにも、哀しいのだろう。どうしてこんなにも、胸が苦しくなってしまうのだろう。
『だから妖夢、後は私に任せて』
慈愛に満ちた表情。まるで全てを包み込んでくれるかのような、そんな雰囲気さえも漂ってくる。
彼女は優しく、そして気高い人だった。普段はいつものんびりとしていて、そして食いしん坊で。凡そ冥界の管理者にはとても見えないような、そんな少女なのだけれども。
けれども自分は知っている。あの少女の優しさを。あの少女の誠実さを。だからこそ、その意思を尊重したい。その優しさを護りたいのだと、彼女は剣をその手に取って──。
──それなのに。
(──なのに)
諦めるのか? この状況を、受け入れてしまうのか?
確かに自分は護られた。護るべき対象であるはずの少女に、護られてしまった。
でも。
(私は、まだ……)
本当に、これで終わりなのか? 本当にこれでバッドエンドなのだろうか?
──否。
(諦め、たくない……)
まだだ。
諦めるには、あまりにも早すぎる。
(確かに私は、幽々子様を護れなかった……。でも……)
希望は潰えてしまったのだと、そう思い込んでしまうには、まだ──。
(幽々子様を、
それは殆ど屁理屈なのかも知れない。諦めの悪すぎる、稚拙な子供の駄々に過ぎないのかもしれない。
でも。だからどうした? それが何だと言うのだ?
──負けてない。自分達は、まだ負けた訳じゃない。
だって。だって、彼女は──。
『私、これから幻想郷を私の思い描く理想郷へと作り変えようと思って』
あの時。西行寺幽々子は、確かにそこにいたのだから。
『その為にまず必要な事は、“死”を蔓延させる事なのよね~。だから手始めに幻想郷の住民を一人残らず殺すつもりなの。人間だろうが妖怪だろうが、はたまた神であろうとも。何の例外もなく無差別に、ね……』
どこかおかしな様子だった。決定的な何かが変わってしまったような、そんな印象だった。
西行寺幽々子は彼女の目の前で反魂し、そして再び死を迎えた。けれどもそれは、終幕などではなかったのだ。
『みんな死んで、いなくなって。だけど魂は私と一緒にひとつになるの。それって凄く素敵な事だと思わない?』
これこそが、全ての。未来を賭けた物語の──。
(ああ、そうか……)
そして彼女は。
魂魄妖夢は、理解する。
(幽々子様を救えというのは、そういう──)
そうだ。これが終わりではなく、始まりだというのなら。
自分にだって、出来る事はある。まだやるべき事は残っている。
(だったら、私は──)
それ故に、諦めない。こんな所で立ち止まるなんて、そんなのは絶対に認めない。
収束する運命に翻弄され、抗いようのない一つの結末を見届ける事になってしまった妖夢。失意のどん底に落とされて、暗闇の中を彷徨うばかりになってしまっていたけれど。
だけれども、もうそれもお終いだ。こんなウジウジとした感情なんて、捨て去ってしまえば良い。迷いも、惑いも、躊躇いも。一切合切、丸ごと全部断ち斬って。
手を伸ばせ。そして掴み取るんだ。
──未来を。
第弐部『幻想入り篇』 完