桜花妖々録   作:秋風とも

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第114話「生と死の境界」

 

 息せき切って、早苗は冥界からの脱出を試みていた。なるべく早く、これ以上誰一人として欠ける事もないように。ただひたむきに、早苗は冥界を駆けていた。

 意識が朦朧としている妖夢を支えつつも、早苗は一先ず白玉楼の外に出る。そのすぐ眼前に広がっているのは、先が見えぬ程に続いている下りの石段。ここを下り抜ければ冥界の出口はすぐそこだが、今回ばかりはそれが永遠に続く程に長いものに思えてしまって。

 

「……っ」

 

 一瞬の尻込み。だが、こんな所で立ち止まっている場合ではない。

 折角咲夜が作ってくれたチャンスなのだ。無駄になんて出来る訳がない。

 

「さぁ、行きましょう皆さん! こっちです……!」

「あ、ああ……。いや、ちょっと待ってくれないか」

「……何ですか?」

 

 意を決して先に進もうとしたその時、慌てた様子の藍に声をかけられる。

 焦燥からか、少し素っ気ない返事になってしまう早苗。けれども彼女のそんな態度はあまり気にしていない様子で、藍は続けた。

 

「私達を逃がす事に不満がある訳じゃない……。だが、あの場にいたのはこれが全員という訳ではないはずだ……! あの騒霊の少女は十六夜咲夜が何とかしてくれるとしても、もう一人……」

「……っ! えっと……岡崎さん、ですよね……?」

 

 訊き返すと、藍は食い気味に頷いて肯定した。

 そうだ、すっかり説明を忘れていた。霊夢があっさりと早苗達の意思を汲み取ってくれたから、半ば他のメンバーにも伝わっているものだと思ってしまっていた。

 いや、まぁ、大した説明もなく早苗達の事を察してくれた霊夢の方が、少し特殊だったのかも知れない。──いや、別に悪い意味ではないが。

 

「リリカさんに関しては、絶対に咲夜が助けます……! 岡崎さんに、関しても……。多分、大丈夫だと思うのですが……」

「……ッ! 何故だ? 何を根拠にそう言える……?」

「え、えっと……。じ、実は、私も良く判ってなくて……。ただ、岡崎さんは他の亡霊さんと勝手が違うと言いますか……」

「ど、どういう事だ……?」

 

 どうしてもちぐはぐな説明になってしまう。藍も困った表情を浮かべてしまった。

 ここに来るまでに咲夜から受けた説明の中には、岡崎進一に関する事も含まれていた。──が、はっきり言ってイマイチ内容は理解出来ていない。ただ、彼が単なる亡霊ではない事は確かなのだが。

 

(うーん、咲夜さんも完璧には理解出来ていなかったみたいだし……)

 

 正直、彼に関しては色々な意味で不明瞭だ。正体不明と言ってしまっても良い。

 だが、早苗だって別に彼の事を見捨てた訳では無い。何故ならば、彼は。

 

「……咲夜さんの協力者は、何も私だけという訳でもないんです。岡崎さんに関しては、()()にお願いしているみたいで……」

「……彼女?」

 

 こんなにも曖昧な説明しか出来ない自分がもどかしい。けれども、だって、仕方がないじゃないか。いきなり()()()()を聞かされて、すぐに受け入れろと言う方が無理な話である。幻想郷での生活も長いとは言え、早苗だって元々は外の世界の住民。常識だって、完全に抜け落ちた訳ではないのだから。

 

(タイムトラベラーなんて、そんなの……)

 

 未来が()()()()になってるなんて。にわかには、信じられない──。

 

「……わ、判った。一先ずお前の言う事を信じよう。進一は大丈夫なんだよな……?」

「え、ええ……。それは、勿論……」

「なら、今はそれで良い……。引き止めて悪かった」

「…………っ」

「ほら、早く行こう。あのメイドが足止めをしてくれているんだろう?」

 

 藍にそう促されて、早苗は小さく頷いた。

 はっきり言って、まだまだ不安でいっぱいだ。本当に、この選択で正しかったのか。咲夜の事を疑っている訳ではないけれど、それでも。あんな風に、大変な事を丸投げにしてしまったような形で──。

 それに。

 

(岡崎さん……)

 

 藍に指摘された所為か、微かに不安感が掻き立てられる。

 

(大丈夫、なんですよね……?)

 

 けれどもそんな不安の中でも、早苗は早苗の役割を全うしなければならない。皆を無事に顕界まで送り届けなればならないのだ。

 今は迷いを生じさせている場合ではない。余計な雑念は捨て、今一度しっかりと気を引き締め直さなければならないのだ。

 

(信じよう……。信じるんだ……)

 

 そうだ。

 

(岡崎さんは、こんな所で終わるような人じゃない……。妖夢さんを、守るんだって……。これ以上、妖夢さんに辛い思いなんてさせないって……。そう、約束してくれたんだから……!)

 

 傍らにいる妖夢の姿を見据えつつも、早苗は思い出す。

 あの時の彼の思いは、間違いなく本物だった。──早苗のちっぽけな意地など、まるで入り込む余地もない程に。

 だから、信じる。信じ切る事が出来る。

 

「行きましょう、皆さん。今度こそ……!」

 

 ──だけれども。

 

 ここで、新たな問題が発生する事となってしまう。

 

 

「──駄、目……」

 

 

 不平の言葉が耳に届く。

 どこか酷く、納得が出来ていないような印象。底の知れない拒絶感さえも感じさせられる言葉。

 

 早苗は足を止める。振り向くと、その言葉の主は激情のあまり身体を震わせていて。

 

「私は……。私は、まだ……。納得なんて、出来てない……!」

「……っ。ルナサ、さん……」

 

 ルナサ・プリズムリバー。幽々子の手により妹を捕らえられてしまった彼女は、酷い焦燥に支配された剣幕でそこに佇んでいた。

 

「嫌だ……。リリカを置いて行くなんて……!」

「……っ。あんた、まだそんな事を言ってんの……?」

 

 苦言を漏らすルナサに大して、食ってかかったのは霊夢だった。

 

「いい加減にしなさいよ! あんた、この状況を理解してんの……? あんた一人が突っ走った所で、事態は好転なんかしないわ! 寧ろ泥沼よ……!」

「ッ! そんな、そんな事は……!」

「……あんた、どうしちゃったのよ? 妹の事が心配なのは分かるけど、でも幾らなんでも頭に血が上りすぎじゃないっ。さっきまで冷静だったのに、らしくない……」

「らしく、ない……? それはこっちの台詞……! 博麗の巫女の癖に、『異変』の首謀者を前にして尻尾を巻いて逃げ出すの!? それこそ全ッ然! らしくない!! 何が異変解決のスペシャリストよ……! 今のあなたは、ただの弱虫……!!」

「はぁ……!? あんた、こっちが大人しく聞いてれば……!」

「ちょ、ちょっとお二人とも! 喧嘩をしてる場合ですかッ!?」

 

 堪らず早苗が割って入る。

 霊夢もルナサも気が立っている。こんな状況だから仕方がないと言えばそうなのだが、だからと言ってここで言い合いをしている場合ではない。

 

「今は堪えて下さい……! ここで私達が失敗したら、咲夜さんの頑張りが無駄になっちゃいます……!」

「…………ッ」

「……判ったわよ。ごめん、少し熱くなった……」

 

 言い淀むルナサに、身を一歩引く霊夢。早苗の剣幕に気圧されたのか、二人は少しだけ大人しくなる。

 良いタイミングだと、早苗は思った。

 

「ルナサさん。お願いです、今は咲夜さんの事を信じてくれませんか?」

「えっ……?」

 

 切羽詰まった表情を浮かべたままのルナサに向けて、早苗はそう切り出す。

 

「咲夜さんは皆さんの事を助けるつもりでした。それはきっと、リリカさんだって例外ではないはずです。こうして時間を稼いでいる間にも、きっとリリカさんを助ける事に全力を尽くしているはずなんです……!」

「そ、そんなの……」

「私は咲夜さんの頑張りを無駄にしたくないんです! だからお願いします、ルナサさん……! どうか今は、堪えて下さい……!」

「……っ!」

 

 別に早苗はルナサの力を侮っている訳ではない。ただ、今の彼女の精神状態で突っ走った所で、良い結果を手繰り寄せられるとは思えないのだ。()()()()()に陥ってしまう可能性が高いだろう。そうなってしまったら、咲夜の努力も水泡に帰す事になってしまう。

 それだけはダメだ。咲夜の努力を無駄にしたくはないし、それに。

 

「目の前で誰かがいなくなるなんて、そんなの耐えられない……」

 

 ルナサとはそれほど深い関係という訳じゃないけれど、それでも知らない仲という訳でもないのだ。もしここでルナサを行かせてしまって、結果として彼女が帰ってこなくなってしまったら。きっと早苗は、死にたくなるほどに後悔する。

 嫌なのだ。

 自分でも救える命が目の前にあるのに、それを手放してしまうなんて。そんなの、絶対に──。

 

 でも。

 

「だから、そんなの……」

 

 結局は、それも早苗の我儘に過ぎない。

 そう簡単に、納得なんて得られるはずもなく。

 

「そんなの、関係ない……! あなた達の事情なんて、知ったこっちゃないッ……!!」

「なっ……」

 

 再びルナサの怒号が響く。

 今にも泣き出しそうな、そんな表情。これまでのルナサからは考えられない程に、感情を剥き出しにして。吐き捨てるように、彼女は言葉を発し続ける。

 

「勝手な事を言わないでッ! あなたに私達の何が判るっていうの!? あのメイドがリリカを助ける……? そんな保証、どこにもないじゃない! 私はあなたほど、あのメイドを信用している訳じゃない……!!」

「そ、そんな……!」

「私は、私の手でリリカを助けなきゃならないの……! だから邪魔しないで! 別に私一人がいなくなった所で、あなた達には何の迷惑も被らないでしょ……? 寧ろお荷物が一つ減って動きやすくなるじゃない! そう、そうよっ! あなた達にとってもメリットはある!」

「な、何を言ってるんですかルナサさん……!」

 

 堪らず早苗も言い返す。

 自分の身を軽んじる発言なんて、そんなの看過出来る訳がなかった。

 

「自分が……自分がどうなっても良いという事ですか!? そんな事、簡単に……!」

「五月蠅い……! もう私の事は放っておいて! 私は私のやりたいようにやる……!」

 

 しかし、早苗の言葉はルナサにはまるで届かない。

 彼女は冷静さを完全に失ってしまっている。最早早苗の言葉程度では、彼女を止めるのは不可能なのかも知れない。

 まずい。このままでは、本当に──。

 

「私は、戻る……。戻って、私の手でリリカを救い出す……! あなた達はあなた達で、尻尾を巻いて勝手に逃げれば良い……!」

「る、ルナサさん……!」

「あんた──!」

 

 無理矢理にでも話を切り上げ、踵を返してしまうルナサ。そんな彼女に対していよいよ何も言えなくなりつつある早苗だったが、その横で再び霊夢が動き出す。

 もう一度ルナサを止めるつもりなのか。だが、おそらく返って逆効果だ。さっきのように食ってかかっては、火に油を注ぐだけ。事態はますます泥沼化してしまう。

 

「ま、待ってっ! 待って下さい、霊夢さ──」

 

 早苗が慌てて霊夢を引き留めようとした、その次の瞬間。

 

 不意に、パシンッと。渇いた音が周囲に響き渡った。

 

「……っ、え──?」

 

 一瞬、早苗の思考が停止する。パシンッというあの音が、ルナサが頬を(はた)かれた為に起きたものであると。そう認識するのに幾許かの時間が必要だった。

 霊夢ではない。彼女が再びルナサに食ってかかろうとする、その前に。間に割り込んできた少女の姿がある。──三姉妹の次女、メルラン・プリズムリバーだ。頭に血が昇って暴走する姉の前に立ち塞がり、そして。

 

「いい加減にしてよ、姉さん」

 

 無駄にテンションが高く、能天気な印象ばかりが強かった普段のメルラン。そんな印象とは、まるで真逆。暴走する姉とは対照的に、落ち着いた口調でしっかりと言葉を紡いでいて。

 

「自分が何をしようとしているのか、判ってるの? 周りを良く見て。姉さんが勝手な事をするから、皆困ってるんだよ」

「メル、ラン……?」

 

 ルナサの表情から血の気が引く。つい直前まで感情を昂らせていたのに、まるで冷や水でも浴びせられたような様子である。

 妹に頬を叩かれて、呆けた様子になってしまうルナサ。意外過ぎるメルランの行動を前にして、その場にいた誰もがポカンとした表情を浮かべてしまう。──だが、お陰でルナサの暴走は止まった。

 

「リリカちゃんの事が心配だっていう気持ちは、判るよ。それは、私も同じだから。だけど、だからと言って皆の厚意を無下にしても良い理由になんてならない。──皆の笑顔を曇らせても良い理由になんて、絶対になる訳がない」

「…………っ」

「私だって……。さっきから、ずっとずっと、胸の奥が張り裂けそうな想いなんだよ……。だから、って言っちゃうのも変な話だけど……。お願い、姉さん。今は落ち着いて……。冷静になって欲しいんだ……」

 

 ルナサは息が詰まるような表情を浮かべる。遂には瞳から涙が溢れ、零れたそれは頬を伝った。

 感情がぐちゃぐちゃになってしまっている。怒っているのか、悲しんでいるのか。恐らく彼女は、それすらも自分の中で整理出来ていない。ただ、嗚咽混じりに言葉を零し続けるだけで。

 

「だったら……。私は……」

 

 消え入るようなそんな言葉を最後に、ルナサは俯いてしまった。

 先ほどまでのような感情の昂りは感じられない。暴走して突っ走るような素振りも見せなくなり、結果としてルナサの暴挙を止める事には繋がったと思う。

 険しかったメルランの表情が、ほんの少しだけ柔らくなる。

 

「今は、皆と一緒に冥界から脱出する事だけを考えよう。話はそれからだよ」

「……っ。ん……」

 

 メルランの言葉が、ルナサに伝わったのだろうか。注意しなければ判らないほど本当に微かではあるが、ルナサは控え目に頷いているようだった。

 そんな彼女の反応を見て、メルランもまた満足そうに頷く。けれども直後、申し訳なさそうな表情を浮かべて。

 

「……引っ叩いちゃってごめん。痛かったでしょ?」

「……そんなの、当たり前……」

「あはは、だよね……。ごめん……」

「別に、良い……。悪いのは、私……」

 

 涙を拭いつつも、ルナサはそう答える。ようやく落ち着いてくれたようだった。

 ──中々に衝撃的な光景だった。早苗達が口を挟む余裕すらない。まさかあのメルランが、あそこまで狼狽していたルナサの事を一発で落ち着かせてしまうなんて。

 相も変わらず言葉を発せない早苗達に気づいたのだろうか。ルナサから離れたメルランは、いつも通りの明るい声調で口を開く。

 

「皆、待たせてごめんね! 姉さんの事は、もう大丈夫だから……! さぁさぁ、早く行こっ!」

「え、ええ、そうね……。あんた、さっきまでキャラ変わってなかった……?」

 

 霊夢の疑問が、早苗の気持ちの殆どを代弁してくれているような気がした。──実は怒らせると一番怖いのはメルランなのかも知れない。

 

 しかし、ともあれだ。

 これでもう一度、ルナサとちゃんと話す事が出来る。納得を得られる事は難しいかも知れないが、それでも。

 

「ルナサさん……。リリカさんは、咲夜さんがきっと助けてくれます。だから……」

「……っ」

 

 そんな早苗の言葉に対して、ルナサは控え目に首を縦に振る。

 

「……良い。今は、それで……」

 

 納得をした訳ではなさそうな表情。だが、それでも早苗の言葉を少しずつ()()しようとしてくれている。そんな想いが、ルナサから微かに伝わって来た。

 

 早苗は内心、ほんの少しだけ安堵する。正直、今の状況で一番の懸念事項はルナサの精神状態だった。まさか彼女がここまで取り乱す事になるなんて、あまりにも想定外だというか何と言うか。

 けれどもこの調子なら、少なくとも冥界を脱出するまでは何とかなりそうである。

 

「……ありがとうございます、ルナサさん」

 

 一言だけ礼を述べ、早苗は改めて他の皆に向き直る。

 

「それでは、皆さん。もうあまり時間はありません。急いで冥界を脱出しましょう」

 

 改めてそう声をかけると、皆が頷いて同意してくれる。

 方針が、固まった。

 

(咲夜さん……)

 

 そして早苗は心の中で、未だ幽々子と対峙しているだろう彼女の姿を思い浮かべる。

 

(どうか、無理だけはしないで下さいね……)

 

 そんな彼女の無事を、必死になって祈りながらも。

 冥界の外を目指して、白玉楼の石段を下り始めるのだった。

 

 

 *

 

 

 思った通り、十六夜咲夜のスペルカードは西行寺幽々子に対して殆ど効果を発揮できていなかった。

 幻符『殺人ドール』。一点に集中して大量のナイフを放ち続けるスペルカードだが、そんな集中攻撃でも幽々子の呪力はビクともしない。弾幕はあっさりと弾かれ続け、幽々子に対してかすり傷一つつけられる気もしない。

 

 あの呪力の壁はやはり厄介だ。闇雲に攻撃を続けた所で、間違いなくこちらがジリ貧になってしまう。

 

 それから何種類かのスペルカードも試したが、やはり結果は同じ。十六夜咲夜の攻撃は、西行寺幽々子にはまるで届かない──。

 

「うふふ。どうしたの? そんな攻撃じゃあ、私には全く届かないわよぉ?」

「…………っ」

 

 咲夜は歯ぎしりする。確かにこのままでは体力の無駄遣いだ。

 今は幽々子の足止めという目的こそ達成出来ているものの、それもいつまで続けられるか判らない。この状況を打開する為、そろそろ思い切った行動も必要か。

 

(それなら……)

 

 咲夜は一瞬だけ攻撃の手を緩め、そして『能力』を行使する。

 時間が空間から切り離され、息遣いさえも聞こえなくなる無の世界。この『咲夜の世界』で行動出来るのは、十六夜咲夜本人だけだ。時間が静止した空間の中で、咲夜は次なる行動を起こす。

 

 真正面からの攻撃が有効でないのなら、搦手を用いるだけだ。ナイフをばら撒きつつも幽々子の背後に回り込み、弾幕を形成して。そして『能力』を解除して一気に射出する。反撃する暇も与えない。

 

「あらあら、またこの攻撃? 少し芸がないんじゃない? こんなの今更効かないわよ〜」

 

 飄々とした口調で幽々子がそう言い放つ。確かにこれは、先程の幻象『ルナクロック』と類似した攻撃だ。今更効かないという言葉の通り、幽々子は周囲の黒い幽霊を盾にして難なく攻撃を防いでしまう。

 ──だが、これで良い。攻撃が防がれる事など重々承知の上だ。今は少しでも幽々子の意識を攪乱出来れば、それで。

 

(これで、一か八か)

 

 咲夜は再び『能力』の効力を発揮させる。

 時間が停止した世界の中で、咲夜は幽々子へと急接近する。だが、その目的は幽々子への攻撃ではない。彼女の傍らに捕らえられた、一人の騒霊の少女を──。

 

「──あら? 狙いはそっち?」

「……っ!」

 

 手を伸ばそうとしたその時、不意に強い殺気を感じて咲夜は大きく後ろに飛び退く。直後、強大な呪力の塊が咲夜の鼻先を掠めた。

 

「くっ……」

 

 咲夜の頬に冷や汗が滴り落ちる。もう少し飛び退くのが遅かったら、間違いなくあの呪力に飲み込まれていただろう。ナイフによる弾幕である程度意識を攪乱させ、『能力』を使って接近するまで時間を止めていたのにも関わらず、この反応速度。この程度の策では今の彼女には通用しないという事か。

 

「ふぅん、まさかこの子を助ける事を優先するなんて。どうやら貴方、私を斃す事にあまり拘りは持っていないみたいね」

「……」

「でも残念ね~。結局貴方はワンパターンなのよ。時間を止めて、その隙に接近する。だけど直接干渉するには『能力』を解除しなければならない。()()()()を張り巡らせていれば、察知するなんて容易いわ」

 

 黒い幽霊を周囲に集めつつも、幽々子はそんな事を口にする。

 成る程、()()()()とはあの幽霊達の事か。おそらくあの幽霊全てと幽々子との間には霊的なパスが通っており、幽霊が感知した咲夜の接近を瞬時に幽々子が受信しているイメージだろうか。

 つまりあの幽霊がいる限り、死角に回り込むような動きも無意味だという事だ。隙を見てリリカを救出──と考えていたのだが、どうやらそう簡単にはいかなさそうである。

 

(……『能力』を使った接近も感知されるんじゃ、流石にどうしようもないわね)

 

 一瞬程度の隙じゃあまりにも不十分だ。

 もっと長い間、幽々子の動きを止める事が出来なければ──。

 

「さてさて、次はどうするの? まさかもう万策尽きた、なんて言わないわよねぇ?」

「……そうね」

 

 頬を滴る冷や汗を拭いつつも、咲夜は答える。

 

「それなら次は、()()を使わせて貰うわ」

「……うん?」

 

 何の事を言っているんだと、そう言いたげな表情を浮かべる幽々子。困惑気味な雰囲気を漂わせる、亡霊少女の目の前で。咲夜は()()を解放させた。

 

「えっ……?」

 

 刹那。突如として青白い光が地面から放たれ、周囲の幽霊もろとも幽々子を包み込んでいった。

 バチバチと稲妻が走るかのような炸裂音。急激な状況の変化を前に幽々子は少し間の抜けた声を上げているが、そのタイミングではもう遅い。その次の瞬間には、咲夜が行使したこの()()が、幽々子を容赦なく捉えた。

 

「くぅ……!?」

 

 再びバチリと、電撃音が木霊する。足元から魔術を流し込まれた幽々子はそのまま脱力し、堪らずといった様子で片膝をついた。

 幽々子の表情が歪む。周囲に視線を巡らせて、ようやく何をされたのか気が付いたらしく。

 

「足元の、これ……魔法陣……? いつの間に……」

「……私だって、ただ闇雲にナイフをばら撒いていた訳ではないという事よ」

 

 当惑する幽々子に対し、咲夜は説明する。

 

「貴方を攪乱する目的は勿論あったけど、それでも保険をかけておいて正解だったわ。地面に刺さったナイフをそれぞれ頂点とし、魔力を一気に流し込んで魔法陣を形成する。これで一つの魔術の完成よ」

「へぇ……? いつの間にかそんな準備を進めていたのね~。しかもこの魔術……。さっき私の『能力』を封じ込めたものと同種……? 貴方の所の、動かない大図書館さんの入れ知恵か何かかしら……?」

「それはご想像にお任せするわ」

 

 出来る限り平静を保ちつつも、咲夜はそう答えた。

 ナイフを頂点とした魔法陣を形成し、そして魔術を行使する。咲夜自身が口にしていた通り、これは保険だ。使わないに越した事はなかった。

 ──魔力の消耗が著しいのだ。このまま長時間行使し続ければ、流石の咲夜でもあっという間にバテてしまう。

 

(でも……。流石にこれなら、今の西行寺幽々子にも有効みたいね……)

 

 現に幽々子は片膝をつき、そして周囲の黒い幽霊も動きが乱れ始めているのだ。幽々子の『呪い』が効力を失い始めている証拠だろう。あの数の幽霊達を統率できなくなり始めている。

 これまで以上に大きな隙だ。それを見逃す咲夜ではない。

 

「……さて。それじゃあ、その子を返して貰うわ」

 

 優先すべきはリリカ・プリズムリバーの救出だ。相変わらず黒い靄に捕らわれたまま意識を失っているようだが、大丈夫だろうか。──やはり早いところ彼女を救出し、そして当初の手筈通りに冥界を脱出するべきだろう。こんな所に長居は無用だ。

 

 魔術の行使を続けながらも、咲夜は捕らえられたリリカのもとへと向かう。流石に魔力の消耗が著しい為、魔術と『能力』の併用は不可能だ。

 だからこそ、なるべく急がなければならない。魔術による拘束だって、きっと長くはもたない。幽々子が動けるようになってしまう前に、リリカを助けなければ。

 

(よし……)

 

 リリカの姿は、もう目と鼻の先。幸いにも幽々子はまだ動けるような状態ではない。これなら問題なく救出出来る。

 

「……遅くなって悪かったわね。だけど、もう大丈夫。貴方の事は、私が助け──」

 

 ──けれど。

 

「────ッ!?」

 

 不意に。()()()()()()()

 そうとしか表現できない。それ以外に形容できない。だって、何が起きたのか本当に()()()()()()()()のだから。ただ、何者かによって何らかの干渉を受けたのだと。そんな感覚だけが、咲夜の胸中に燻っていた。

 

 カッと身体が熱くなる。特に熱いのは左の脇腹だ。頬に脂汗が滲み始めて、急激な浮遊感に襲われて。その直後、口の中がドロドロとした鉄臭い何かによって満たされる。

 

「がっ、ふ……!?」

 

 衝撃。気が付くと咲夜は後方へと吹っ飛ばされ、そして口の中を満たしていた鉄臭い液体が吐き出される。

 喉にやたらと絡みつく。堪らず激しく咽返ってしまう。何とか体勢を整え直すが、焼けるようなこの熱だけは一向に収まる気配もなく、

 

「ごほっ、ごほっ! あ、ぐぅ……!? な、に……!?」

 

 つんと、鼻をつくような匂い。そこでようやく、自分が吐血している事を咲夜は認識した。

 ワンテンポほど遅れて、熱くなっていた脇腹に激痛が走っていた事に気づく。思わず手で押さえると、そこでもドロリとした液体が絡みついてきた。

 ──血だ。左側の脇腹から、鮮血が流れ始めている。

 

「くっ……ぐ、ああ……! い、ぅ……!?」

 

 焦燥が駆け抜ける。激しい痛みで思考が上手く働かない。

 何なんだ、これは。攻撃を受けた? いや、西行寺幽々子は間違いなく動けなくなっていたはずだ。それは間違いない。だから自分はリリカの事を助け出そうと、こうして慎重かつ速やかに彼女へと近づいて──。

 

「なっ……」

 

 視線を上げると、気が付いた。

 黒い靄に拘束され、意識を失っていたはずのリリカ・プリズムリバー。いつの間にか掲げられていた彼女の右手に、霊力の残滓が漂っていたのだ。それが意味する事は、即ち。

 

「どう、して……。貴方が……」

 

 リリカに攻撃された? 黒い幽霊達と同じように、幽々子に意識を掌握されているのだろうか。

 ──いや、違う。この感じは、何かが。

 

「…………」

 

 黒い靄による拘束は外されていた。だが、リリカはその場から逃げ出す素振りも見せない。ただ、何も言わずに霊力を循環させて。

 そうして彼女は()()する。あれは、弦楽器──ヴァイオリンだろうか。厳密に言えば実物ではなく、霊力によって形成されたヴァイオリンの幽霊とも呼べる代物。プリズムリバー楽団が、演奏の際に用いている特殊な楽器。

 それを彼女は手に取った。そしておもむろにヴァイオリンを構え、弦に弓をそっと添えると。

 

「──死奏・第一楽章」

 

 ヴァイオリンの緩やかな音色が、周囲に響き渡り始めた。

 淑やかで落ち着いた様子のメロディ。それでいてしっかりと耳の中に残る、不思議な印象の音色だ。普段のリリカはキーボードを主に使っていたはずなのだが、はっきり言ってヴァイオリンの腕前も姉のルナサに負けずとも劣らない。音楽にそこまで詳しくない咲夜でも、思わず聴き入ってしまう程に優しくて魅力的な旋律である。──こんな状況でなければ。

 一体何のつもりだ? 急にヴァイオリンを召喚して、こんな演奏を始めるなんて。

 

「うっ……!?」

 

 そんな疑問の答えは、すぐに得る事が出来た。

 魔術を行使する為に魔法陣を描いていた咲夜の魔力。そんな魔力の制御が急に利かなくなり、魔術の維持が出来なくなってしまったのだ。慌てて魔力を籠め直そうとするものの、しかしそれも直ぐに霧散。魔術への接続には至らない。

 妨害されているのだ。リリカ・プリズムリバーがヴァイオリンで奏でている、この音楽によって。

 

「何の、つもり……!?」

 

 咲夜はますます混乱する。

 何が起きている? どうして彼女までもが咲夜に攻撃する? リリカは黒い幽霊とは違う。幽々子の放つ呪力によって、意識を掌握されてしまった訳ではないように見える。

 彼女は幽々子の傀儡ではない。まさか、これが彼女の意思だとでも──?

 

「ふぅ……。ありがとう、リリカ。お陰で助かったわ」

「……っ!」

 

 幽々子が復活する。慌てて咲夜は魔術の維持を諦め、『能力』を行使してその場から大きく飛び退いた。

 幽々子達から距離を取る。荒い呼吸を繰り返しつつも、混乱する頭の中で咲夜は何とか状況を整理しようとする。

 

 リリカに攻撃された。それは間違いない。幽々子から助け出そうと近づいた咲夜に向けて、彼女が霊弾を放ったのだ。

 脇腹のダメージはその際に受けたもの。魔術を行使する為に魔力を放出していた事が幸いして、リリカの攻撃は咲夜にとって致命傷とは成り得なかった。計らずも魔力が盾となってくれたお陰で、うまい具合に急所を逸らす事が出来ていたのである。

 

 だが、それでもダメージは決して少なくない。攻撃を受けた衝撃で一瞬魔力が暴発し、身体の内側を傷付けてしまったのだ。吐血の主な原因はそれだろう。

 

(……少し、まずいかも)

 

 未だに焼けるような痛みが走る脇腹を抑えながらも、咲夜は冷や汗を流す。

 リリカの奏でる奇妙な音楽によって、魔術も完全に解除されてしまった。再び魔術を行使して、幽々子の事を拘束する──なんて芸当は、残りの体力を考えるとあまりにも現実的じゃない。そもそも同じ手が何度も通用する相手でもないだろう。

 

 困った。まさかリリカがあんな行動を取るなんて、流石に予想外である。この怪我ではこれ以上満足に戦う事も出来ないだろうし、いよいよ万策尽きてきた。こんな状況、事前に聞かされていた『運命』には含まれていない。

 

(お嬢様……)

 

 運命が変わったのか、それとも単に彼女が伝え忘れただけなのか。──後者である可能性もゼロではないのだから、困ったものである。

 

(だけど、うん。そうね……)

 

 頼りがいがあるけれど、同時にどこか子供っぽい主の姿が脳裏に映る。

 

(……私はまだ、こんな所で死ぬわけにはいかない)

 

 このまま無茶を貫けば、ひょっとしたら状況をひっくり返す結果にも繋がるかも知れない。けれどもそれと同時に、そんな無茶を実行に移せば命の保証だってゼロになる。

 それだけはダメだ。命を捨ててまで分が悪い賭けに乗るなんて、そんなの主に顔向けできなくなってしまう。何より彼女が絶対に許す訳ないじゃないか。それこそきっと、死ぬほど()()()()に違いない。

 

(ふっ……。お嬢様を()()()()のは、やっぱりちょっと嫌ね……)

 

 狼狽していた咲夜の胸中が、幾分か落ち着いてくる。お陰で冷静な判断力を取り戻し始めていた。

 そろそろ決断せねばなるまい。自分が取るべき最善は、一体どんな行動なのか。

 

「う~ん、今のはちょっと効いたかも! 流石は紅魔館のメイドさんね~。油断も隙もないわ」

 

 楽し気な様子でそんな声を上げたのは幽々子だ。ケラケラと笑みを浮かべるその様子は、何とも場違いな印象が強くて気味の悪さを真っ先に感じてしまう。この状況で、何がそんなに楽しいのだろう。最早彼女の感性は、今の咲夜には到底理解出来そうにない。

 

「一体、何をしたの……? どうして、その子は……」

「うふふっ。何をしたかって? 別に大した事はしていないわ。でも、そうねぇ……。この子は、()()だから……ね」

「特、別……?」

 

 尋ねてみるが、返ってきたのはそんな返答。

 何の事を言っている? 殆ど答えになっていないじゃないか。そもそもリリカ・プリズムリバーは、幽霊ではなく騒霊の少女。厳密には死者の魂という訳ではなかったはずだ。それなのに、どうして彼女を制御下に置ける? 姉二人は特に何ともなかった様子だったのに、どうしてリリカだけが──。

 

(いや……。今はそんな事を深く考えても仕方ないわね……)

 

 見た感じ、幽々子が答えを提示する気があるとは思えない。ならば幾ら考察した所で、結局は想像止まりで終わってしまう。

 今この場で重要なのは、リリカが幽々子側に回ってしまったという事実だけだ。──あの黒い幽霊達を除外しても、戦況は二対一。あまりにも分が悪い。

 

(……早苗達、そろそろ冥界から脱出出来た頃かしら?)

 

 こうして幽々子との交戦を始めたそもそもの目的は、早苗達が冥界を脱出するまでの時間を稼ぐ事だ。その観点で言えば、そろそろ咲夜の目的が達成されていてもおかしくない頃合だろう。

 それならば。

 

(──ここまで、かしらね)

 

 十六夜咲夜は、決断を下す。

 

「さて、そろそろお遊びも終わりかしらね~。そんなに血が出て、痛いでしょう? だから私が、すぐ楽にして──」

 

 幽々子が何かを言っていたが、そんな言葉など完全に無視をして咲夜は『能力』を行使した。

 静止した時間。そこで数本のナイフをばら撒きつつも、咲夜は大きく後退する。──この怪我と体力じゃ、流石に長時間の行使は出来ない。ある程度離れた所で、一度『能力』を解除すると。

 

「……あら?」

 

 幽々子の困惑気味な声が聞こえてくる。気がつくと咲夜の姿が目の前から消え、代わりに現れたのは大量のナイフだ。そんな反応になるのも無理はない。

 直後に響くのは金属音。射出されたナイフが一斉に幽々子へと襲いかかっているのだ。あわよくば一矢報いればと思ったが、大したダメージは期待出来ないだろう。今の状況では、少しでも時間を稼げれば御の字。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 息を切らしつつも、踵を返して咲夜は飛翔する。警戒心は緩めない。早苗達が向かった冥界の外へと、自分も目指して。

 

(……本当、みっともない)

 

 今更ながら、咲夜の脳裏に自己嫌悪の念が駆け抜ける。

 

(恨まれるでしょうね。あの子達に……)

 

 プリズムリバー三姉妹。その長女と次女。自分が助けられなかった騒霊少女の姉二人。その姿を、脳裏に思い浮かべながらも。

 十六夜咲夜は、撤退を余儀なくされた。

 

 

 *

 

 

「……あら?」

 

 幽々子が言葉言い終わる前に、気がつくと咲夜の姿は目の前から消えていた。──代わりにあるのは、弾幕として展開された大量のナイフ。それが幽々子目掛けて、一斉に襲いかかってきて。

 

「ふぅん、またこの攻撃」

 

 そんな弾幕を幽々子は難なく凌ぎ切る。掌握した幽霊達と自分の呪力を盾にすれば、そんなの造作もない事だ。演奏を続けるリリカも一緒に呪力で囲み、幽々子はナイフを弾き飛ばす。

 

「もうネタ切れなのかしら? 流石にそろそろ飽きてきたわね〜」

 

 そう言いながらも、程なくして全てのナイフが弾かれる。涼しい表情のまま呪力の放出を一旦止めて、改めて咲夜へと向き直ろうとするが。

 

「……んー?」

 

 目的の彼女の姿が見当たらない。こうして幽々子が弾幕の対処をしているその隙に、攻撃でも仕掛けてくるのかと思っていたのだが。

 

「……ひょっとして、逃げちゃった?」

 

 少なくとも、この周囲に彼女の気配は感じられない。攻撃ではなく撤退を選択した、という事なのだろうか。

 それに気づくと、何だか少し拍子抜けに思えてしまう。折角殺して楽にしてあげようと思ったのに、まさかこうも呆気なく逃げてしまうなんて。

 

「むぅ……。どうしようかしら?」

 

 このまま追いかけるのもありと言えばありなのだが、時間に干渉出来る彼女とまともに追いかけっこをするもの骨が折れそうだ。『能力』が万全な状態ならともかく、今の幽々子には咲夜が使った魔術の効力がまだ少し残っている。回復にはもう少しだけ時間が必要になるだろう。

 

「まぁ、取り合えず今は良しとしようかしら。どうせあの子も最終的には殺すつもりだし、後にも機会は幾らでもあるわ~」

 

 まぁ、本命である絶対的な“死”はあまり試す事が出来なかったが、幽霊を“呪い”で掌握する事に関しては上手く扱う事が出来た。『能力』の試運転としては、一先ず御の字としよう。メインディッシュは最後に取っておくのもありだ。

 

「さて、と。リリカ、もう良いわよ。ご苦労様」

 

 ヴァイオリンでの演奏を続けていたリリカ。幽々子がそう声をかけると、彼女は演奏の手を止める。──静寂が周囲を包み込んだ。

 良い演奏だった。やはり幽々子の目に狂いはなかったようだ。

 リリカ・プリズムリバーは、()()だ。彼女なら、きっと──。

 

「……それにしても」

 

 ふと思い立ち、幽々子は視線を巡らせる。

 幽々子とリリカ、そして意識を掌握した幽霊達以外に、既に誰の姿もない。十六夜咲夜も、そして彼女が逃がした霊夢や紫達の姿も、当然視界に入ってこない。そろそろ結界を超えて幻想郷に辿り着いた頃だろうか? 幽々子がのんびりしていたとは言え、随分と逃げ足が速いものだ。

 それに。

 

(進一さん……)

 

 脳裏に浮かぶのは、あの亡霊青年の事だ。

 彼もまたいつの間にか姿を消していた訳だが、幽々子でも気づかぬうちに霊夢達と合流していたのだろうか? ──いや、今はこの際そんな事などどうでも良い。もっと気になる要素が、彼には含まれているのだから。

 

(あの人も、亡霊だったはずなのに……)

 

 それなのに。

 

(……どうして、私の『能力』で()()()()()()の?)

 

 幽々子はこの周囲に“呪い”を振り撒き、そして死者の魂を掌握した。冥界に漂っていた幽霊はその殆どが“呪い”によって蝕まれ、意識を掌握されたはず。それは例え相手が亡霊でも例外ではなかったはずなのに。

 

(うーん……)

 

 無論、この『能力』だって万能じゃない。例えば咲夜に行使された魔術の影響が、こちらの『能力』にまで及んでいたとか。そういった可能性も考えられるのだけれども。

 しかし、それにしても妙なのだ。なぜか彼だけが、ピンポイントで“呪い”を弾いていたような──。

 

「……ま、いっか」

 

 しかしそこまで考えた所で、幽々子は思考を切り上げてしまった。

 

「あの人は既に死んでいる訳だし、私が改めて殺す必要もないわよね~」

 

 考えるのも面倒だ。今の幽々子の目的は、命あるものを皆殺しにする事。既に死んでいる進一の事をあれこれと考えるのは、その後でも遅くはない。

 まずは目下の目的達成が先決だ。全ては、幽々子にとっての理想の世界を作り上げる為に。

 

「ふふっ……」

 

 幽々子は愉快そうに笑う。

 あの邪仙には感謝しなければならないだろう。彼女のお陰で、幽々子は目覚める事が出来た訳だ。千年以上もの長い眠りから解き放たれ、こうして再び理想を掲げる事が出来る。これからの未来を想像するだけで、興奮で身体が震えそうになるくらいだ。

 

「楽しくなってきたわね」

 

 絶対的な“死”が、全身に馴染んでゆく感覚が実に心地よい。“死”という概念そのものに変貌してゆく自分の身体。その感覚を存分に楽しみながらも。

 西行寺幽々子は、未来を夢想し続けるのだった。

 

 

 *

 

 

 早苗達は、ようやく冥界から脱出する事に成功していた。

 ルナサの事を何とか宥めて、白玉楼のやたらと長い石段を下りてゆく事数分。冥界全体の空気がおかしくなってゆくような感覚を肌で感じながらも、それでも立ち止まる事なく突き進み続けて。そして誰一人として欠ける事なく、冥界と顕界の境界にまで辿り着いた。

 

 意外にも追手に追われるような事もなかったと思う。幽々子は周囲に“呪い”を振り撒いて幽霊達を掌握していたと思うのだが、彼らを使って早苗達を追跡させるような事もしなかったのだ。

 やはり咲夜が彼女の注意を引き付けてくれたお陰だろう。幽々子の気紛れも多少含まれているのだろうが、咲夜がいなければ今頃みんな殺されていたかも知れない。こうして無事に脱出が成功しただけでも、少しでも咲夜の頑張りに報いる事が出来ただろうか。

 

「と、取り合えず、ここまで来れば安全……か?」

「安全かどうかは保障できませんけど、少なくとも冥界にいるよりは……」

 

 藍の問いかけに、早苗は曖昧気味に答える。

 咲夜から聞かされていた手筈は、彼女達を連れて冥界から脱出するまでの話だ。それ以上の細かな部分までは早苗も把握していない。

 だが、冥界と幻想郷はかなり密接に繋がってしまっているはずだ。こうして顕界側に逃げ果せた所で、幽々子側も簡単に追跡出来てしまうと思うのだが──。

 

「──来たわね。そろそろだと思っていたわ」

「……え?」

 

 考えていると、不意に声をかけられて早苗は思考を打ち切る。反射的に振り向くと、そこにいたのは薄紫色の衣服を身に纏った少女だった。

 微妙に眠たそうな表情を浮かべている少女で、肌は白く、血色が悪そうな印象を受ける。半人半霊である妖夢の肌も白いと言えば白いのだが、目の前にいるこの少女はどちらかと言えば病的な白さだ。──こう言ってしまっては何だが、普段から部屋に閉じ籠ってばかりで、あまり日の光を浴びていないかのような。

 

「……なに? そんなに私の顔をジロジロ見て」

「あっ、いえ、その……」

 

 ジト目のまま少女に睨まれて、早苗は思わずぼんやりとしていた事に気が付いた。

 いけない。そんなにジロジロと眺めてしまったか。珍しい姿を見てしまったから、つい。

 

「ご、ごめんなさい。まさかこんな所でお会いするとは思ってなくて……」

「こんな所って……。魔理沙もそうだったけど、私が外に出ているのってそんなに珍しい事? ──いや、まぁ、判らなくもないけど……」

 

 疑問を呈しつつも、一人で勝手に納得してしまう少女。どうやら自覚はあるらしい。

 パチュリー・ノーレッジ。紅魔館の地下にある大図書館を根城にしている魔法使いである。以前に魔理沙が青娥の捜索と称して魔導書を持ち歩いていたが、あの魔導書の本当の持ち主こそが彼女だったはず。早苗もそれほど会話をした事がある訳でもないのだが、基本的に根城である図書館に引き籠っている印象だった。

 

 そんな彼女が、珍しくもこうして外出しているのである。──タイミング的に、その目的は明確ではあるが。

 

「あの、ひょっとして咲夜さんと同じように……?」

「ええ。まぁ、そうね。西行寺幽々子の件で色々とね。それで、その咲夜は……?」

 

 キョロキョロと周囲を見渡すパチュリー。どうやら当初の予定では、咲夜も一緒に冥界を脱出する手筈だったらしい。

 早苗は一瞬言い淀む。咲夜さんは自分達の為に囮になりました、なんて簡単に言ってしまって良いものか。

 だが、説明しない訳にもいかない。こんな状況になっている以上、誤魔化しなんて効く訳がないのだから。

 

「え、えっと、その……。咲夜さんは……」

「──私なら、ここよ……」

「うひゃあ!?」

 

 おずおずと状況を説明しようとした、その瞬間。不意に傍らからそんな声が流れ込んできて、早苗は素っ頓狂な声を上げてしまった。──何だかついさっきも全く同じ反応をしてしまったような気がする。やっぱり心臓が痛い。

 だって、仕方がないじゃないか。いないと思っていた人物が文字通り急に現れて、こうして不意に声をかけてくるなんて。びっくりしない方が稀である。

 

「さ、咲夜さんッ!? い、いつの間……、に……?」

 

 振り返りつつも、声の主の名を口にする早苗。無事だったのかと、安堵の息を零すのも束の間の一時だった。

 

「咲夜さん……? そ、その怪我は……!?」

「…………ッ」

 

 額に脂汗を滲ませて、酷い顔色の表情を浮かべている咲夜。苦し気に抑えた脇腹からは、赤黒い血が滴り落ちている様子も見て取れる。呼吸も荒く、見るからに大怪我じゃないか。

 早苗の胸中が狼狽によって一気に支配される。そんな心境に陥ったのは、どうやら早苗一人だけじゃなかったようで。

 

「咲夜……!? あんたまさか、私達が撤退する時間を稼ごうとした所為で……!?」

「……まぁ、そうなるわね……。だけど、別に貴方が気に病むような事じゃない……」

 

 熱くなる霊夢。そんな彼女を宥めるような口調で、咲夜はそう答える。

 早苗達は悪くないのだと、そういう事を言いたいのだろうか。だが、彼女がそのつもりでも、そう簡単に納得なんて出来る訳がない。だって、もっと早苗が上手くやれていれば、咲夜がこんな怪我を負う事もなかったかも知れないじゃないか。 

 早苗は下唇を噛み締める。居た堪れなくて、仕方がない。

 

「さ、咲夜……! あなた、その怪我……! 大丈夫なの……!?」

「……ええ。私の事は……問題、ありません……。それよりも、パチュリー様……。今は、お嬢様の手筈通りに……」

「でも……!」

「パチュリー様っ……!」

 

 咲夜の語調が強くなる。

 彼女の身を案じ、狼狽気味な様子だったパチュリーは、そんな咲夜の一声で気圧されるような形となり。

 

「お願いします……。どうか今は、作戦の事だけをお考え下さい……」

「……っ。そうね、ごめんなさい……。そうだったわね……」

 

 咲夜の熱意に押されたパチュリーが、そこで冷静さを取り戻す。一度軽く深呼吸して、昂る感情を押さえつけて。

 そして彼女は向き直る。視線の先は冥界──厳密に言えば、その先に繋がる結界の境界。彼女はそこを見据えつつながらも、何らかの魔術を行使して。

 

「──二人とも、準備は良い? ええ、そうよ。予定通りに……」

 

 誰かと会話を交わしている。あれは、所謂通信系の魔術というヤツだろうか。遠く離れた人物との会話を実現する魔術──要するに、外の世界で言うところの、携帯電話とかスマートフォン代わりと考えれば判りやすい。

 何をするつもりだろう。何らかの魔術を行使しようとしている、という事くらいしか早苗には判断出来ないが──。

 

「……止血、するわ」

「えっ……?」

 

 そんな中、苦し気な様子の咲夜にそう提案してきたのは、ルナサ・プリズムリバーだった。

 ちょっぴり困惑した様子の咲夜。けれどそんな彼女の返事を待たずに、ルナサはさっさと魔法の行使を始めてしまう。かざした両手から放たれるのは、優し気な暖かい光。行使しているのは回復魔法だろう。この少女、こんな事も出来たのか。

 

「……私も専門じゃないから、応急処置レベルの事しか出来ないけど」

「え、ええ……。充分よ、ありがとう……」

 

 けれども咲夜は何とも気まずそうだ。ルナサに対して、後ろめたい思いでもあるかのような。

 

「……ごめんなさい」

「……どうして、謝るの?」

「……っ。貴方達の、妹を……。私は……」

「…………」

 

 絞り出すような咲夜の言葉。それだけで、ルナサは彼女が言わんとしている事を察したらしい。

 ルナサの目が見開かれ、そして瞳が揺れる。傍らにいたメルランもまた、血の気の引いた表情を浮かべていて。

 

「そう……。リリカ、は……」

「姉、さん……」

 

 そして事情を察したのは早苗も同じだった。──リリカの事は、咲夜がきっと助けてくれる。そうルナサに口にしたのは、紛れもなく早苗だったのだから。

 

「咲夜さん……。ルナサ、さん……」

 

 また、ルナサが激情に支配されてしまうかもしれない。

 そう思った早苗が、何とか言葉を投げかけようとするが。

 

「──よしっ、準備完了よ!」

 

 パチュリーのそんな声が流れ込んできて、早苗の思考は中断されてしまった。

 

 膨大な魔力の奔流を感じる。パチュリーを中心として、まるで空一面を覆い隠すかのようだ。いや、厳密に言えば、覆っているのは世界と世界の境界。つまるところ、顕界と冥界を隔てる結界だ。

 その一部が極端に解れ、容易に行き来が出来るようになっていた結界。それを魔力で包み込み、幾つもの魔法陣を上空に描いて。

 

「これで……! 仕上げッ!」

 

 そんな掛け声と共に更なる魔力がパチュリーから放出され、そして魔術が発動した。

 上空の魔法陣が更なる光を放つ。魔力は空気と共に溶け、そして元より存在していた結界へと馴染んでゆく。──魔術による結界の重ね掛けだ。魔法やら魔術やらにまるで詳しくない早苗だが、そんな素人目線でも一目見ただけで判る。咲夜の言っていた()()。そしてパチュリーが協力者と力を合わせて発動させた、この魔術の意味を。

 

「冥界に、結界を……? 幽々子さんを冥界に閉じ込めたという事ですか……!?」

 

 空に両手を掲げていたパチュリーが脱力する。結界が完成したという事だろう。

 周囲に放出されていた魔力が少しずつ霧散していく。その中心にいたパチュリーは、疲労のあまり激しき息を切らしているようで。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……! まったく、レミィったら……。無茶、させるんだから……」

「ちょっとあんた、大丈夫なの……?」

 

 心配そうな声を上げたのは霊夢だ。声をかけられたパチュリーは、少しバツの悪そうな表情を浮かべると。

 

「大丈夫よ、このくらい……。少し疲れただけで……けほっ、けほっ!」

「いや、咽ちゃってるじゃない。強がりも形無しね。冥界を覆う程の結界を張るなんて、随分と無茶苦茶な事をしたわね……。それがあんた達の作戦ってワケ?」

「まぁ、そうね……。まだ第一段階、って感じだけど……」

「ふぅん……」

 

 霊夢が改めて上空を見上げる。つられて早苗も視線を戻した。

 かなり大規模な術式だ。並大抵の魔術ではない事くらい、早苗にも何となく判る。先程誰かと通信していた事から察するに、パチュリー以外にも複数の術者が協力して魔術を発動させたという事なのだろうか。

 

「凄い……。これなら……」

「──残念だけど、これも一時凌ぎに過ぎないわ」

「えっ……?」

 

 これなら、被害はこれ以上広がらないのではないか。そう口にしかけた早苗だったが、そんな考えはパチュリーによって即否定される事になる。

 息を整えたパチュリーは、改めて早苗達へと向き直ると。

 

「私達も手を抜いた訳じゃないけど、だけど()()()()じゃ西行寺幽々子は恐らく止められない。持って数日……。彼女が完全に覚醒してしまえば、こんな結界なんて簡単に破られてしまうでしょうね」

「そ、そんな……」

「それくらい強大な存在、らしいわよ。『死霊』と化した西行寺幽々子は、ね……」

「『死霊』……」

 

 『死霊』。早苗は改めてその名前を口にする。

 咲夜から多少説明は受けている。そう呼ばれる存在によって、このままでは幻想郷は大変な事になってしまうのだと。それ故に、収束した運命から最善の未来を掴み取らねばならないのだと。

 曖昧な表現だ。だが、今ならその意味が何となく判る。

 

「つまり……。幽々子さんを止めないと、幻想郷に未来はない、と……」

「そういう事。だからこうして時間を稼いだその間に、何とか対策を練らないといけないんだけど……」

 

 パチュリーは改めて集まった面々への視線を巡らせる。

 ──そしてその表情を、曇らせた。

 

「思っていたより、こっちの被害は大きいみたいね。魂魄妖夢は、聞いていた通りだったけど……。咲夜もあんなに怪我をしちゃって、霊夢だって……」

「……何よ。私は別に……」

「さっき私に強がり云々言っていたけど、その言葉をそっくりそのままお返しするわ。……そんなに血塗れで、何ともないなんて言われても説得力の欠片もないわね」

「……血は、一応止まってるんだけど……」

「どうせ咲夜みたいに応急処置をして貰っただけでしょう? 顔色を見れば、体調が万全じゃない事くらい一目で判るんだから」

「……何それ。あんたそんな事も判るの?」

「いや、まぁ……。私自身も虚弱体質で、だからこそと言うか……。って、今はそんな事どうでもいいわっ」

 

 強引に切り上げて、パチュリーは会話を元のレールに戻す。

 

「兎にも角にも、作戦の第一段階がこうして完了した以上、今は一分一秒でも時間が惜しいの。悪いけど、事情の説明やら何やらは後にさせて貰うわ」

 

 いつになく真剣な様子のパチュリー。今がどれほど切羽詰まった状況なのか、その言葉だけで早苗にもひしひしと伝わって来た。

 パチュリーの言う通り、モタモタしている時間はない。今の幽々子は、間違いなく危険な存在へと化してしまっている。早苗の場合は本当に少しだけ見た程度だったが、あの瞬間だけでも彼女の持つ“異常性”は否が応でも伝わって来た。

 

 これまでの相手とは、根本的に次元が違う。

 早々に対策を練らなければ、冗談抜きで取り返しのつかない事になる──。

 

「そうね……。咲夜の応急処置が終わったら、怪我人は一先ず永遠亭ね。それ以外の人達は紅魔館に来てもらうわ。それで良いでしょう?」

「怪我人って……。それ私も含まれてんの?」

「当たり前じゃない……。えっと、それなら、そこの九尾の狐。怪我人を永遠亭まで連れて行ってくれる? 勿論、霊夢も含めてね」

「む……? わ、判った……。と言うか、私の名前は八雲藍だ。ちゃんとそう呼んでくれ……」

「そう? 悪かったわね。それじゃあ……。頼んだわよ、藍」

「……ああ」

 

 渋々顔の霊夢を押し付けるような形で、パチュリーが藍へと指示を飛ばす。

 早苗は内心少しホッとした。力不足であるが故に霊夢には色々と頼ってしまったが、彼女だって怪我人だ。血は既に止まっているという言葉は嘘ではないのだろうけれど、やはりちゃんとお医者さんに診てもらうべきだろう。何かあってからでは遅いのだから。

 

「決まりね。それで、他の残ったメンバーは私と一緒に紅魔館。諸々の説明はそこでさせて貰うわ。()()()とも、そこで合流する手筈になっているから」

「は、はい……」

「う、うん……。判ったよ」

 

 返事をしたのは早苗とメルランのみだ。ルナサはやはりショックを受けているようだし、紫だってさっきからずっと俯いたままである。

 ──プリズムリバー三姉妹にばかり気を取られていたが、紫も紫でどうしたのだろう。明らかに様子が変だ。激情に支配されて暴走していたルナサと違って、彼女の場合はやけに大人しいようだが。

 

「……あの、紫さん?」

 

 堪らず早苗は声をかけてみる。すると、彼女から返ってきたのは。

 

「……無理、よ」

「……え?」

「何も……。何も、判っていないわ……。何、も……」

 

 言葉。

 けれどその内容は、不穏を煽るものでしかなく。

 

「紫、さん……?」

 

 判らない。

 だが、どこか強い恐怖心のようなものを、早苗は紫から感じ取っていた。

 

 

 *

 

 

 スキマというヤツは、どうしてこうも薄気味悪いのだろうと、進一は改めて思っていた。

 暗闇。その中に、ギョロリとした無数の瞳がうじゃうじゃと蠢いている。視界も悪いし、空気だって淀んでいる気がする。あまりここに長居していると、身体にだって悪いのではないだろうか。まぁ、既に死んでいる進一にとってはあまり関係のない事かも知れないが。

 

 突如として幽々子が『死霊』に変貌し、そしてあの黒い幽霊にも襲われて。機能を停止した芳香を背負い、青娥の手を引いて逃げ出して。そして突然このスキマが目の前に出現し、進一は咄嗟に飛び込んだ。

 あの時は、あまり深く考える余裕なんてなかった。だが、スキマは紫の『能力』によって生み出されるもの。それ故に警戒をする必要なんてないのだと。そんな安心感から、進一は躊躇なくこの不気味な空間に飛び込む事が出来たのだ。

 

 しかし、直後に問題が発生した。

 スキマの中にいると思われたはずの紫の姿が、どこにも見当たらなかったのだ。お陰でこうして、青娥達と共にスキマの中を彷徨う事になり。

 

「紫! どこだ!? どこにいる!?」

 

 声をかけてみるが、返事はない。ただ、静寂のみがスキマの中を漂っていて。

 

「参ったな……」

 

 困った。紫の案内なしでは、流石にスキマを抜けられない。いや、そもそも出入り口など存在するのか? 紫が開けてくれない限り、進一達は永遠にスキマの中を彷徨う事になるのではないだろうか。

 

(それは……まずいな)

 

 確かに紫はまだ体調が本調子ではなかったはず。先ほど白玉楼から妖夢のもとまで連れて行って貰った時だって、かなり無理をしていたはずなのだ。

 それ故に、今回は『能力』の行使を失敗してしまったのかも知れない。進一達をスキマの中に引き入れる事は出来たものの、そのまま外まで送り届ける事が出来なかった──とか。

 

「いや、そうだとしたら……」

 

 本気の本気で、まずい事になってしまったかも知れない。

 そんな不安感を進一が胸中に感じ始めた、その次の瞬間だった。

 

「……っ。な、なんだ……!?」

 

 ふわりと、急に感じる浮遊感。その直後、進一達はスキマの中で()()を始めていた。

 

「うお……!? こ、これは……!」

 

 何だこれは。流石に訳が判らない。

 落下している。いや、そもそもこの空間に上下の概念などあったのか。だが、少なくとも身体が下方向に引っ張られている事だけは判る。今の今までフワフワと漂う事が出来ていたはずなのに、どうして急に──。

 

「──んい──くんっ!」

(……ッ! え……?)

 

 何だ。

 急に、誰かに声をかけられたような──。

 

「──進一君ッ!」

「なっ……」

 

 ガシッと、誰かに腕を掴まれる。そのままグイッと引っ張られて、成す術もなく身体が流されて。

 

「……っ! くぅ……!?」

 

 ズシンという、鈍い音。直後に身体の半身が、何かに激しく叩きつけられた。

 ワンテンポほど遅れて響く、鈍い痛み。そして身体に伸し掛かる()()。何だこれは──と思ったが、直後に芳香が視界に入って進一は状況を理解する。芳香を背負ったまま倒れ込み、そのまま彼女の下敷きになるような形になってしまったのだ。そして身体の片側に響く鈍い痛みは、地面に叩きつけられた為のもので。

 

「ここ、は……」

 

 芳香を退けて地面に寝かし、そのまま何とか起き上がると、確認出来たのは木々や草花だ。先程まで蠢いていた、ギョロリとした無数の瞳はどこにも見当たらない。

 明るい。いつの間にか空は晴れ渡っており、今は月明かりが地表を照らしている。まるで、それこそ全く別の空間に放り出されたかのような。

 

「いや……。ここは、森? 俺達、スキマの外に放り出されたのか……?」

 

 近くには青娥の姿も確認できる。彼女も進一と同様に転ぶような形となってしまったが、それでも何とか外に出てくる事が出来たようだ。

 進一はホッと一息をつく。スキマの中で落下している最中、誰かに声をかけられて腕を引かれた感覚があった。咄嗟の事であの瞬間では誰の声か判別出来なかったが、恐らく紫だったのだろう。全く、それならそうと言ってくれれば良かったのに。いや、あちらも慌てていたようだったので、仕方のない事ではあるが。

 

「ったく。紫、少し乱暴過ぎないか? もう少し優しく助けてくれても良かったじゃないか」

 

 冗談交じりの口調で、進一はそんな事を口にしてみる。自分は無事だ、何ともないのだと。そんな思いが紫に届くと期待して。

 ──でも。

 

「いったぁ……。うっ……気持ち、悪い……。こっちが酔っちゃいそうだわ……」

 

「…………っ。え──?」

 

 ──例えるならば、心臓が止まるような。

 そんな感覚に、進一は突然襲われた。

 

「こんな調子じゃダメ、よね……。もっと、もっと上手く扱えるようにならなきゃ……」

 

 進一が振り向くと、そこにいたのは一人の少女。恐らく、進一達をスキマの中から引っ張り出してくれたのだろう。その拍子に彼女も転んでしまったらしく、ぶつけた身体を摩っていた。

 気持ち悪い。酔っちゃいそう。成る程、確かに()()は高所恐怖癖だった。先程のような浮遊感は、そんな彼女が最も苦手とする感覚の一つであろう。あんな状況に身を投じれば、気分を悪くしてしまっても何らおかしくはないと思う。

 

 そう、おかしくはない。

 いや、何を言っている。どう考えてもおかしいじゃないか。

 だって。だって、こんな──。

 

「でも……。うん、良かった……。今度はちゃんと、間に合った……」

 

 頭の中が混乱する。何が何だか判らない心境に陥った進一の目の前で、砂埃を叩きつつもその少女は立ち上がった。

 てっきり、その場にいたのは紫なんだと思い込んでいた。だって、そうだろう? あんな風にスキマの中に助けに来てくれる存在なんて、紫以外にあり得ない。だってあの空間は、紫が行使する『能力』の産物のようなものじゃないか。スキマに干渉する為には、境界を操れなければ話にならないはずなのに。

 

 だけど、違う。

 進一の目の前にいる少女は、八雲紫などではなくて。

 

「ちゃんと、助けられた……」

 

 少女が振り返る。

 美しい金色のセミロングヘアを棚引かせて、菖蒲色のワンピースが風に吹かれて靡かせて。若干の幼さを残しつつ、それと同時に美貌までも兼ね備えた容貌。そんな彼女のワンピースと同じ色の瞳が、進一の姿を捉えていて。

 

「──()()()()ね、進一君」

 

 彼女の瞳が揺れる。うるうる、うるうると。あっという間に涙を滲ませて、零れ落ちたそれが頬を滴り置いて。

 けれども涙を拭う余裕さえもない様子で、彼女は言葉を紡ぎ続ける。

 

「会いたかった……。ずっと、すっごく……」

 

 胸元に手を抑え、そして少女は涙する。再会への喜びか、それとも死者に対する悲しみか。多分、どちらもなんだと思う。だって、彼女にとっての進一は、既に死んでしまっている人間で。本来ならば、こうして会話をする事なんて二度と出来ないはずだったのだから。

 ロクにお別れも言えなかった。あまりにも突然訪れた、死という永遠の別れ。取り残された彼女達は、一体どんな思いだったのだろう。恨んだのだろうか。それともただ、悲しみ続けたのだろうか。──判らない。だけど少なくとも、目の前にいるこの少女は、進一を前にしてこうして涙を流しているのだから。

 

 ほんのりと、罪悪感が進一の心を突き始める。

 

「嘘、だろ……?」

 

 夢じゃないのかと一瞬だけ思ったが、違う。

 これは、紛れもなく現実だ。

 

「お前は、本当に……」

 

 疑問を呈する。だが、そんなものはあまりにも愚問だ。

 間違えるはずがない。見間違える訳なんてないじゃないか。

 

「メリー、なのか……?」

 

 マエリベリー・ハーン。

 秘封倶楽部の一員である進一の大切な友人が、今、目の前にいる──。


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