桜花妖々録   作:秋風とも

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第112話「絶対的な“死”」

 

 何も出来なかった。目の前で繰り広げられていた状況を、上手く呑み込む事さえも出来なかった。

 そうだ。妖夢を助ける事は出来ても、『異変』をどうこうする力なんて自分にはない。あまりにも強大で埒外な幻想を突き付けられれば、自分なんてただ茫然とその光景を眺める事しか出来なくなるのだ。

 目の前の光景を、現実として処理をする間もなく。それはいつの間にか始まり、そして終わっていた。

 

 判らない。何なんだ。一体全体、何が起きたんだ。

 幽々子が現れて、けれども悟りを開いたかのような表情を彼女は浮かべていて。自らの身を犠牲にしてでも『異変』をひっくり返す。そんな彼女の想いだけは、進一にも何となく伝わってきた。

 でも。

 それでも結局、何も出来なかった。自分を犠牲にするなんて、そんな馬鹿な真似は止めるんだと。そんな説得さえも、進一の口からは出てこなかった。

 

 ただ、頭の中が真っ白になってしまっていた。悪い夢でも、見ているかのような。そんな心境に陥ってしまっていたのだ。

 ──気がつくと、全てが終わっていた。

 幽々子は消え、そして冥界の春は霧散された。

 

「幽々子様……。幽々子、様……」

 

 声が耳に届く。満身創痍の状態で進一に支えられている妖夢が、頻りに口にしているのだ。幽々子様、幽々子様と。

 けれどもそんな彼女の言葉に答える者はいない。だって幽々子は、もう──。

 

「妖夢……」

 

 合流した霊夢達に状況を説明したものの、進一だって未だに実感はない。ただ、虚無感ばかりが胸中を支配してしまって。

 

(俺は……)

 

 一体、どうすれば良かったのだろう。自分がもっと、ちゃんと説得出来ていれば。あんな風に、幽々子が自分を犠牲にする事もなかったのだろうか。

 いや。そんなのは所詮、都合の良い想像に過ぎない。あの場で進一が幾ら言葉を並べた所で、恐らく幽々子は止まらなかっただろう。彼女の意思は、それほどまでに強固なものだった。最早何人たりとも、彼女の想いを曲げる事など出来やしなかったのだ。

 

 故にこれは、既に避けようのない結末だったのかも知れない。

 こうして、西行妖が開花してしまった時点で──。

 

(そんなの……)

 

 無論、納得なんて出来る訳がない。幾ら『異変』が終幕したとはいえ、その過程に幽々子の消滅が含まれているなど。そんなの、受け入れられる訳がないじゃないか。

 だが、それでも最終的には受け入れなければならない。強引にでも、納得をしなければならない。

 いつまでも呆然とはしていられないのだ。今は少しでも、前を向く努力をしなければならない。自分がもっと、しっかりしなければ。

 

「そう、だな……」

 

 脱力気味の身体に鞭を打って、進一は心を入れ替えようとする。兎にも角にも、今は誰かが立ち上がらなければならない。この状況を放置する事など出来やしないのだから。

 

「……ルナサ。少しの間、妖夢の事を頼めるか?」

 

 近くにいたルナサへと進一は声をかけた。

 ちらりと一瞥される。疑問と、ほんの少しの困惑。そんな感情が籠められた視線を彼女は向けてきて。

 

「それは構わないけど……。あなたはどうするの?」

「俺は霍青娥の所に行く」

 

 きっぱりとそう答えると、ルナサはますます目を細めた。

 そんな予感はしていたけれど、まさか本当に的中するとは思わなかった。──そう言いたげな表情を浮かべているようで、彼女は若干呆れ気味に。

 

「……助けに行くつもり?」

「まぁ、そうなるな。いつまでも放置という訳にはいかんだろ」

「敵だったのに?」

「今は大人しくなってるじゃないか。それに、あいつの計画は既に頓挫されている。これ以上は何も出来ない」

 

 「はぁ……」と、ルナサは嘆息する。やはりお人好しだと呆れているのだろうか。ここまでの『異変』を引き起こした黒幕の事を気に掛けるなど。

 だが、それでも進一は引き下がれない。例え霍青娥が及んだ暴挙が許されない事だったとしても、ここで見捨ててしまうなんてあまりにも気分が悪いじゃないか。そんなのは我慢ならない。

 

 まぁ、こんな感情を真っ先に抱いてしまうからこそ、お人好しだと呆れられてしまうのかも知れないが。

 

「いや、ほら、あれだ。あいつは訊きたい事もある。俺や妖夢のタイムトラベルに関しても、何か情報を持っている可能性が……」

「……そんなの後付けの理由でしょ? もう、判ったわよ」

 

 やれやれとでも言いたげな声調のルナサ。けれども彼女は進一の想いを否定はしない。肩を窄めつつも、どこか観念したかのような雰囲気を漂わせていて。

 

「……その子の事は私に任せて。あなたはあなたのやりたいようにやれば良い」

「ルナサ……。感謝する」

「お礼なんていらない。……ほら、早く行ってきたら? 逃げられちゃうかも知れないし」

 

 ぷいっと目を逸らしながらも、ぶっきら棒な口調でルナサはそう口にする。それでいて進一を突っぱねたような雰囲気を感じさせていないという事は、進一の想いを尊重してくれたという事なのだろうか。

 

「……ありがとう。それじゃ、行ってくる」

 

 妖夢をルナサに預け、改めて礼を述べた後に進一は立ち上がる。

 向かう先は当然、霍青娥がいる所。幽々子の妨害で吹っ飛ばされた彼女は、ここから少し離れた所で蹲ったままである。彼女の傍らには使役していたキョンシーの姿も確認出来る。

 

 あのキョンシーの姿を見るのも随分と久しぶりのような気がする。未来の世界で襲われた時は理性なんて欠片も残っていなかった印象なのだが、今は大丈夫なのだろうか。青娥と共に大人しくなってはいるが。

 けれども、尻込みなんてしている場合ではない。ここまで来たら突き進むだけだ。

 

「……大丈夫か?」

 

 歩み寄って声をかけると、チラリと青娥に一瞥される。どうやら意識ははっきりとしているようだ。──気力は完全に抜け落ちてしまっているようだが。

 そんな彼女は進一の姿を認識すると、やはり無気力気味な口調で。

 

「貴方は……」

「岡崎進一だ。名前も知らない亡霊、なんて認識はそろそろ改めてくれないか」

 

 そう名乗りつつも、進一は青娥へと手を差し出す。

 

「ほら、手を貸すぞ。立つことくらいは出来るんだろう?」

「…………」

 

 そう言葉を投げかけてみるが、青娥の反応はだいぶ乏しい。積み上げた計画が後一歩の所で盛大に崩されて、やはりまだ放心状態が抜けていないのだろうか。

 ──いや。確かにそれもあるのだろうけれど、今の彼女が浮かべる表情はどちらかと言えば困惑気味な印象だった。まるで、進一の取った行動が理解出来ないような。

 

「……何のつもりです?」

「何のつもりって……。別に妙な事を考えている訳じゃない。ただ、いつまでも倒れ伏しているあんたの事が気になっただけだ」

「気になった……? 心配になったとでも……?」

「……まぁ、そうなるのかな」

 

 頷きつつも肯定すると、彼女はその表情にますます困惑を滲ませ始めた。

 お前は何を言っているんだと、そう言いたげな面持ちで。

 

「理解できないわね……。今の今まで敵対していた相手に対して、こうして手を差し伸べるなんて……。貴方、本気で言っているの……?」

「冗談を言っているつもりはないんだが」

 

 やはりこんな反応になるのか、と進一は内心思っていた。ルナサにも暗に示されたが、やはりこの行動は相当呆れられる部類に入るらしい。

 まぁ、確かに。あそこまで激しく敵対していた相手に対して、こうしていきなり手を差し伸べようとするのもおかしな話だ。こんな反応をされてしまっても仕方がないように思える。

 

 だが、進一はどうしても見過ごす事が出来なかった。青娥を見捨てる事なんて出来なかった。

 確かに彼女は危険な思想の持ち主なのかも知れない。こうして幻想郷と冥界を巻き込む程の大異変を引き起こしてしまう程に。けれど、それでも。彼女の事を根っから否定する事なんて、やっぱり今の進一には出来そうにない。

 だって、彼女は。

 

「多分、ちゆりさんはあんたの事を信用していたと思うから──」

「え……?」

「……いや、何でもない。こっちの話だ」

 

 困惑気味の声を上げる青娥に対し、進一は首を横に振ってそう答える。

 進一が元いたあの時代で、ちゆりは青娥と協力関係にあった。どういった経緯で二人の間にそんな関係性が生まれたのかは分からないが、少なくとも二人は合同で何かを成し遂げようとしていたのだろう。

 進一の知る北白河ちゆりという女性は、とても強い人物だった。例えどんな思惑が含まれていようと、一方的に騙されて使い捨てられるような人間じゃない。そんなちゆりが協力関係を結んでいたという事は、きっと彼女は青娥の中に何かを見出していたのだろう。

 

 進一にとって、ちゆりはある種の憧れとも呼べる存在だ。それ故に、進一の中で彼女のイメージ像が一方的に美化されているのではないかと。そう指摘されればそこまでなのかも知れないけれど。

 だけどそれでも、信じている。彼女を。自分達姉弟を助けてくれた、ちゆりの事を。

 それ故に、知りたいのだ。そんな彼女が信じていた、霍青娥という人物の事も。この時代の彼女が、未だちゆりと面識がないのだとしても。

 

「俺は、あんたの事を少しでも理解したい」

 

 ちゆりが信じた青娥の事を、もっと知ってみたい。

 

ちゆりさん(あの人)と、同じように……」

 

 進一は既に確信している。

 目の前にいるこの女性は、恐らく進一のタイムトラベルとは何の関りも持っていない。そして妖夢のタイムトラベルに関しても。彼女にこれ以上探りを入れても、進一が元いた時代に帰る術を見つける事は出来ないだろう。

 

 だが、そんな事はこの際あまり大きな問題じゃない。

 彼女の事が知りたい。それは、進一の心の中だけに芽生えた、無垢で純粋な単なる欲求に過ぎないのだから。

 

「岡崎、進一……」

 

 横から声をかけられる。

 青娥が使役していたあのキョンシーだ。確か、芳香などと呼ばれていたか。キョンシーらしく血色の感じられない肌に、焦点もいまいち合っていない瞳。文字通り、生気さえも感じられない雰囲気の少女なのだけれども。

 

「お前は、青娥を否定しないのか……?」

 

 けれど彼女が発する声には、どこか強い芯が込められていて。

 

「お前は、青娥を理解しようとしてくれるのか……?」

 

 不思議と、進一の胸中へと響き渡る。

 

「──あなたは……」

 

 この少女は。

 

「仙人さまを──」

「……っ。お前……」

 

 判らない。何なのだろう、この感覚は。目の前にいるキョンシーの少女は、本当に青娥の操り人形なのか。本当に、傀儡に過ぎないのだろうか。

 ──違う。彼女は、何かが違う。

 彼女から伝わってくる、この想いは。

 

「…………」

 

 確信を得られた訳ではない。ただ、何となくそう思っただけ。根拠らしい根拠なんて、どこにも見当たらないのだけれども。

 だけどそれでも、やはり何となく伝わってくる。彼女達もまた、“何か”を抱えているのだと。その“何か”を理解せずに、真っ向から否定してしまうなんて。──やっぱり、進一には出来そうにない。

 だから。

 

「──青娥さん」

 

 進一は、その手を伸ばし続ける。

 

「あんたがやろうとした事、そしてあんたが冥界や幻想郷に齎した事。俺だってそれを赦した訳じゃない。だが……」

 

 躊躇わずに、伸ばし続ける。

 

「教えてくれないか。どうしてあんたが、あそこまで死の超越に拘ったのか」

 

 この、どこか酷く物悲しい、一人の邪仙と一人のキョンシーを理解する為に。

 

「知りたいんだ。あんたを」

 

 進一が一方的に喋り続ける間、青娥はまるで言葉を発しなかった。ただ、ぼんやりと進一の事を見据えて。困惑気味な雰囲気を、醸し出し続けて。

 だけど、それでも。

 

「私、は……」

 

 強い躊躇い。それは痛いくらいに彼女から伝わってくるのだけれども。

 だけど、それでも彼女は。

 惑いがちにも。困りがちにも。迷いがちにも。まごつきがちにも。

 ただ、それでも。

 おもむろに、差し出された進一の手を──。

 

 

「────ッ!?」

 

 

 ──彼女が取ろうとした、その次の瞬間だった。

 空気が急激に重くなるような感覚。不意にそんな感覚を覚えたかと思うと、激しい耳鳴りと突然の目眩が進一に襲いかかって来た。

 瞬間的に駆け抜ける息苦しさ。頭の中を劈くような頭痛。嘔吐感に似た感覚にも襲われて、進一は思わず青娥に差し出していた手を引っ込めて口元を抑えてしまう。当然、伸ばしかけていた青娥の手は何もない空を掴む事になり。

 

「な、何……?」

 

 困惑気味な反応を見せる青娥。当然だ。突然手を引っ込めたのはこちらなのだから。

 だが、進一とて悪気があった訳ではない。本来ならばあのまま青娥の手を取って、彼女の話を聞くつもりだったのだ。その想いに嘘や偽りなど微塵も含まれてはいない。

 

 だが、事情が変わった。

 あまりにも、突然に。

 

(なっ……なん、だ……?)

 

 突然進一に襲いかかる身体の不調。だが、青娥や芳香が何かをした訳ではない。それなら彼女は進一にこんな反応を見せたりしない。

 原因は、別にある。そして進一は、その原因に関して大きな心当たりがあった。

 

(この、感覚……)

 

 覚えがある。以前にも何度か、自分は全く同じ感覚に襲われた事があるのだ。

 あれは──。そう、あれは確か、進一が命を落とす事になる、少し前。

 

「あ……」

 

 視線を上げると、進一は()()を認識してしまった。

 

 桜の花弁が舞落ちている。絶え間なく、どこまでも。花を満開に開花させた西行妖が風に煽られ、その花弁を散らしているのだ。巨木であるが故に花の数も多く、周囲は再びあっと言う間に淡紅色に染め上げられてゆく。

 

 一体、いつからそこにいたのだろう。桜吹雪のその中には、一人の少女の姿があった。

 ぼんやりと西行妖を見上げている少女の姿。水色を基調とした和装を身に纏った彼女から醸し出される雰囲気は、どこか儚げな印象だった。今にも消えてなくなってしまうような、そんな感覚を覚えてしまうような印象の少女。

 そんな少女が、ただ静かにそこに佇んでいて。

 

「え──?」

 

 様子がおかしい進一につられて視線を向けた青娥が、信じられないとでも言いたげな面持ちで絶句している。無理もない。進一だって信じられないのだ。

 なぜならば。

 

「嘘……。どうして貴方が、そこに……」

 

 倒れ伏していた青娥が、おもむろに立ち上がり始める。今の今まで完全に消失していた気力を、少しずつ湧き上がらせて。

 

「貴方は……。貴方は、ついさっき私達の目の前で消滅したはず……。私の計画をひっくり返す為に、その身を犠牲にして……」

 

 だが、湧き上がらせたその気力は必ずしもポジティブな原動力には成り得ない。

 青娥が浮かべる表情は──憎悪。滲ませるのは、忌々しい存在を前にした時の、底の知れない嫌悪感。

 

「それなのに、どうしてそんな所いるの……!?」

 

 目の前にいるその少女へと、彼女は感情を爆発させる。

 

「答えなさい──! 西行寺幽々子ッ!!」

 

 そう。

 淡紅色の桜吹雪。その中で、西行妖をぼんやりと見上げていたのは。その身を賭して霍青娥の計画を頓挫させた人物──。

 

(幽々子、さん……?)

 

 だが。

 

(幽々子さん、なのか……?)

 

 判らない。強烈な違和感が進一の中を駆け抜ける。目の前にいるあの少女の姿は、間違いなく西行寺幽々子のもの。それは疑いようがない。

 けれども、違う。違うのだ。

 決定的な、何かが。

 

「…………」

 

 頭の中が混乱する進一の目の前で、目の前の少女がおもむろに視線をこちらに向ける。──正確に言えば、彼女が視線を注いでいるのは霍青娥だ。動揺に満ちた青娥の声に反応して、どこか鬱陶しそうな表情を浮かべて。

 

「何よ……。その表情……」

 

 それが青娥の神経を逆撫でする。

 まるで、寝起きの不機嫌気味な子供のような表情。さぞ鬱陶しそうな面持ちで、ぼんやりと青娥を眺めていて。

 

「ふざけないでよ……」

 

 そして青娥は、激情を曝け出す。

 

「貴方の所為で、私はッ……!!」

 

 空気が変わった。感情を高ぶらせた青娥が、その身の霊力を増幅させたのだ。流石にこれまでのように絶大という程でもないが、それでも充分過ぎるくらいに強大だ。空気を震わせ、進一の肌をビリビリと刺激する。禍々しいその霊力から伝わってくるのは、遣り切れない憤りの感情。

 

「私の理想はッ!!」

 

 感情を爆発させた青娥が、次にどんな行動を取るのか。そんなの、考察するまでもなく明らかだった。そして進一の予想通り、青娥は声を荒げつつも幽々子に向けて駆け出していた。

 霊力が増幅する。弾幕を形成し、幽々子に一矢報いるつもりなのだ。半ば我を忘れた青娥は、ヤケクソ気味に激情を滾らせる。それほどまでに、彼女の心は追い込まれていたという事なのかも知れないが──。

 

「駄目だ……」

 

 反射的に進一は手を伸ばす。そんな事をした所で青娥は止まらないだろうが、それでもだ。何かしらの行動を起こさなければ、気が狂ってしまいそうだった。

 頭が痛い。気持ちが悪い。どうしてこんな感情が溢れ出てくるのだろう。どうしてこんな感覚が襲いかかってくるのだろう。判らない。全くもって、訳が判らない。理解する事が出来ない。

 

 ──いや、違う。()()()()()()()のではなく、()()()()()()()()だけだ。嘘だ。そんなはずはないのだと、そんな逃避が際限なく溢れ出て来てしまって。

 だって。だって、()()は。

 あの少女から伝わってくる、底の知れないこの感覚は。

 

「止めろ、青娥さん……!」

 

 このままではいけない。

 一際強い()()()()が進一の中を駆け抜けた、その次の瞬間だった。

 

 

「青娥ッ!!」

「えっ……?」

 

 

 響き渡る芳香の声。困惑した様子の青娥。──それは、突然の出来事だった。

 進一が嫌な予感を覚えたのとほぼ同時の事だ。青娥の名前を口にしつつも芳香が飛び出し、彼女を突き飛ばした。

 青娥が指示を出した訳ではない。その証拠に、彼女が浮かべる表情は当惑だ。どうして? なんのつもり? そんな感情が彼女の表情から読み取れる。

 なぜ、芳香がそんな行動を取ったのか。それは、青娥に比べて彼女の方が冷静だったからに他ならない。冷静だったからこそ、客観的に状況を観察して彼女は()()を察知出来た。それ故に、芳香は反射的に飛び出してしまったのだ。

 

 そう。それは全て、青娥を。

 大切な彼女を、護る為に。

 

「よ、よし、か……?」

 

 刹那、黒い霊力の塊が放出された。

 どこから、なんて考えるまでもない。鬱陶し気な表情を青娥に向けていた幽々子。彼女が掲げた右手から、それは放出されたのだ。──弾幕のように整った霊弾という訳ではない。暴力的なまでに、殺意のみが籠められた霊力の塊。それが襲いかかって来た。

 その標的は間違いなく霍青娥。だが、芳香に突き飛ばされた事により、すんでの所で彼女はその照準範囲から外れている。その代わり、青娥を突き飛ばした宮古芳香が、攻撃を受ける事となり。

 

「仙人、さま……」

 

 一瞬だった。

 何かを言い終わる前に、芳香は黒い霊力によって大きく吹っ飛ばされる。飛翔して体勢を立て直す間もなく、そのまま墜落。どさりと鈍い音を立てて、彼女は地面に叩きつけられた。

 芳香に突き飛ばされた青娥もまた、呆けた表情で尻餅をつく事となる。突然の出来事を前にして、受け身を取る事が出来なかったのだ。一体、何がどうなったのか。その状況をまるで呑み込む事が出来なくて。

 

「芳香……?」

 

 ただ、彼女が認識出来ているのは。

 地に倒れ伏している、宮古芳香の姿のみ。

 

「ど、どうしたの……? 一体、何が……?」

 

 けれども、彼女は。

 倒れ伏したキョンシーの少女は、主が幾ら呼びかけようとも反応を示す事はなく。

 

「ね、ねぇ……。悪い冗談は、止めて頂戴……? 芳香……どうして、何も答えてくれないの……?」

 

 それは、まるで。

 物言わぬ死体の姿に、戻ってしまったかのような。

 

「芳、香……?」

 

 いや。

 比喩などではなく、それは。

 

「芳香……? 芳香、芳香っ……! 芳香ぁ!?」

 

 彼女に宿っていた魂魄の、消滅──。

 

 

「あらあら……。余計な邪魔が入っちゃったみたいね?」

 

 

 周囲に響くそんな声。進一にとっても聞き馴染みのある、少女の声だ。

 視線を向ける。右手を掲げ、黒い霊力の残滓をそこに残した少女。彼女は。──西行寺幽々子は。どこか嘲笑するような、そんな表情を霍青娥に向けていて。

 

「まったく、欲張りさんなキョンシーね。駄目じゃない、横取りなんてしちゃ」

「な、何を……。貴方は一体、何を……!?」

「何って……。だって、欲しかったんでしょう? ()()

 

 酷く混乱した様子で疑問をぶつける霍青娥。そんな彼女に見せつけるかのように、幽々子は黒い霊力の塊をその右手に掲げて。

 

「絶対的な“死”」

 

 瞬間。岡崎進一は確信した。──確信せざるを得なかった。

 彼女が青娥達に放った攻撃。黒で塗り潰された霊力の塊。そしてそれが芳香に着弾した途端、周囲に充満したのは筆舌に尽くしがたい強烈な“気味の悪さ”。黒い霧状の何か。霊力と形容したものの、本質的には霊力とはまるで別物で。

 強いて表現するならば。

 ()()

 それは、ある種の概念そのもので。

 

「嘘、だろ……?」

 

 認めたくない。けれども、認めざるを得ない。

 だって、忘れる訳がないじゃないか。()()は。()()()()は。

 

「幽々子さん……、あんたは……!」

 

 身体中を蝕むような、あまりにもどす黒い超常的なこのナニカは。

 

「『死霊』、なのか……?」

 

 八十年後の未来の世界。

 進一の生命を奪った、あの黒い影から感じたそれと同質だったのだから。

 

 

 *

 

 

 訳が判らない。それが、博麗霊夢が真っ先に抱いた感想だった。

 底の知れない嫌な予感。ざわつき続ける胸騒ぎ。幾ら数多くの『異変』を経てきた霊夢でも、流石にこんな感覚は初体験である。黒幕である青娥の野望は阻止されたはずなのに、まるで何も終わっていないかのような。そんな感覚を霊夢は覚え続けていた。

 

 そしてやがて、彼女の予感は現実として現れる事となる。

 消滅したはずの西行寺幽々子。あまりにも唐突な、彼女の復活という形で。

 

「幽々子……?」

 

 だが、必ずしもそれは良い状況だとは言い切れない。文面だけを見れば、消滅するはずだった幽々子が助かったのだと捉える事も出来るだろう。いや、その表現は強ち間違ってはいないのだが、それだけではないのだ。

 だって、霊夢は何となく直感してしまっているのだ。

 自分がずっと覚え続けていた嫌な感覚。その原因こそが、幽々子なのだと。そんな直感が霊夢を捉えて離さない。

 

「芳香……? 芳香、芳香っ……! 芳香ぁ!?」

 

 悲痛な様子の青娥の叫びが耳に入る。幽々子の放った黒い霊弾に撃ち抜かれ、あのキョンシーが一撃で下されてしまったのだ。容赦も手加減も微塵も感じられない。それは、純粋な殺意。命を奪うという行為そのものに、一切の躊躇も感じていないような。

 

「な、なに……?」

 

 それ故にこそ、判らない。

 

「何なのよ……」

 

 あれは、本当に西行寺幽々子なのだろうか。

 確かに『死を操る程度の能力』という、中々どうして危険な『能力』を持ってはいた。いたのだが──。

 

(だけど、こんな……)

 

 こんなにも簡単に、誰かの命を奪おうとする少女だっただろうか。

 

「幽々子様……?」

 

 そんな中、震える声が伝わってくる。

 魂魄妖夢だ。主を喪い、失意のどん底に叩き落とされていた彼女。そんな妖夢は、どこか救いを求める表情を浮かべていて。

 

「幽々子様、なんですか……?」

 

 しかし彼女は肝心な事を認識出来ていない。

 

「幽々子様……。良かった、ご無事で……」

「……待って。待ちなさい、白玉楼の庭師」

 

 ずるずると幽々子のもとへと向かおうとする妖夢を、ルナサが制する。普段通りの抑揚のない声調。最早安心感を覚える程に、冷静な雰囲気を漂わせていて。

 

「博麗の巫女。あなたなら何となく感じているんでしょ? ()()は一体、何なの?」

 

 ()()とは、十中八九幽々子の事を示しているのだろう。だが、そんな事を聞かれても。

 

「私が知るワケないでしょ。まぁ、相当ヤバい奴だって事くらいなら判るけど」

「そう……」

 

 霊夢だって万能じゃない。彼女がよく感じるのは勘という不確かな感覚だけで、具体的な答えではないのだから。

 だが、それでも確かに言える事は、今の幽々子が相当危険な状態であるという事だ。

 

 幽々子の放った霊弾に貫かれた宮古芳香は、そのまま事切れるように倒れて動かなくなった。──キョンシーは人間の死体に疑似的な魂と魄を定着させ、術者が使役しているに過ぎない。肉体的な生命活動は既に停止しているため、多少の物理ダメージなど物ともしないのが基本であるはず。幽々子の攻撃はそこまで攻撃に特化していたような印象は受けなかったはずなのに、あんなにも一瞬で芳香を斃してしまうなんて。

 

 恐らくあれは、呪いの類。物理的なダメージを期待して放った攻撃ではない。

 宮古芳香という死体に定着していた疑似的な魂魄を、直接消滅させたのだ。故にあのキョンシーは、文字通り抜け殻となって呆気なく倒れ伏した。

 

「幽々子はあの攻撃を霍青娥に向けて放っていた。つまり何の躊躇もなく人を殺そうとしたって事よ」

 

 霊夢の知る西行寺幽々子は、無闇矢鱈に人を殺そうとするような人物ではない。彼女の『能力』を考えると誰かを殺す事など造作もないだろうが、それでも彼女がその『能力』を行使して実行に移した事は見た事がなかった。

 だが、今の幽々子は違う。

 それこそ、根本的な何かが──。

 

「ね、姉さん! ひょっとして、さっき彼氏さんから聞いた『死霊』って……!」

「あっ……そ、それ私も思ってた! ねぇ、ルナサ姉さん……! 多分、そうだよね……!?」

「……判らない。でも、可能性としては高いかも……」

 

 プリズムリバー三姉妹がそんなやり取りを交わしている。まさか、彼女達には何か心当たりがあるのだろうか。

 

「何よ、あんたら……。何か知ってるの……?」

「え? あっ、えっと……。私達も、ちょっと話に聞いた程度で……。詳しくは良く判らないんだけど……」

「『死霊』だよ! 彼氏さんが……。進一さんが死んじゃった原因!」

「は……? な、何よそれ……」

 

 困惑気味のリリカと興奮気味のメルランが、そんな事を口にしている。中々どうして、要領を得ない説明。霊夢の混乱は増すばかりである。

 死霊? 進一が死んだ原因? 一体、何の話だ? 確かに進一もさっき死霊がどうのと言っていたが、まさか彼のタイムトラベルとも何か関係があるのだろうか。八十年後の未来の世界。有り様が変わってしまったらしい、幻想郷とも──。

 

「っ。そうだ紫……。あんたは、何か──」

 

 ふと思い立ち、霊夢は紫に幽々子の事を尋ねようとする。

 あまりに突然の出来事に少し気が動転していたが、この場において幽々子の事なら他の誰よりも紫が詳しいじゃないか。彼女は幽々子がまだ生きていた頃からの付き合いだと聞いている。そんな紫なら何か情報を持っているのではないかと、そう思って声をかけようとしたのだが。

 

 しかし、霊夢は言い終わる前に言葉を呑み込む事となる。

 

「う、ぁ……。あ、ああ……」

「紫様……! 落ち着いて下さい、紫様……!」

 

 ──八雲紫は、先程の様子から更に様変わりしてしまった印象だった。

 縮こまり、何かに怯えるように身体を震わせていた彼女。けれど復活した幽々子の姿を認識した途端、彼女の怯えは明確な恐怖心へと変貌を遂げていた。

 頭を抱え、絶望に染まり切った表情を浮かべる紫。そんな彼女を前にして、式神である八雲藍も酷く混乱した様子だった。それでも尚、彼女は取り乱した紫を必死になって宥めようとしていて。

 

「紫様……。一体、どうしてしまわれたのですか……? 紫様は、一体何を……?」

「い、いや……。いや、いやぁ……!」

 

 いやいやと首を横に振る紫。まるで会話が成り立たない。

 何なのだ、これは。こんな紫の姿など、今までだって一度たりとも見た事がない──。

 

「藍、どうなってんのよ……!? 紫は……!」

「わ、私も何が何なのかさっぱりなんだ……! さっきからずっと、この様子で……」

 

 この反応。どうやら藍にも心当たりはないらしい。

 タイミングから考えて紫がこうなった原因は、幽々子の変貌と密接な関りを持っていると見て間違いない。恐らく彼女は、幽々子の今の状態の事を知っている。知った上で、ここまで強い恐怖心を露わにしている。

 

 その推測が、霊夢の焦燥を駆り立てる。

 居ても立っても居られずに、霊夢は紫の両肩を掴んで。

 

「──ッ! 紫! しっかりしなさい! 何か知ってるのなら、ちゃんと説明しなさいよ!」

 

 そして正面から声を張り上げる。

 

「何なの!? 一体全体何が起きてるの!? あんたは一体、何を知ってるっていうのよッ!?」

「わ、わた……わた、し……」

 

 けれども、紫は。

 

「し、知ら、ない……」

 

 髪がぐちゃぐちゃになるくらいに、強く頭を抱えたままで。

 

「知らない……。知らない、知らない、知らない……! わたし、私は……あんなの……!」

「知らないって、あんたね……!」

 

「──冷たいわ。知らないなんて、そんな素っ気ない事言わないでよ。ねぇ、紫?」

 

「えっ……?」

 

 瞬間。突然強い衝撃に全身を打たれ、霊夢はいつの間にか吹っ飛ばされていた。

 ふわりとした浮遊感。直後、どさりという音と共に地面に身体が叩きつけられるような衝撃に襲われる。何をされたのか判らない。ただ、何者かの手によって紫から払い退けられたような──。感じたのは、そんな印象で。

 

「いっつぅ……! 何……?」

 

 鈍い痛みを耐え凌ぎながらも、霊夢は身体を持ち上げる。

 いつからそこにいたのだろう。視線を向けると、そこにあったのは西行寺幽々子の姿。恐らく霊夢を払い退けたのは彼女だ。霊夢だけでなく、藍も同じように吹っ飛ばされて尻餅をついている。

 

 払い退けられる直前、幽々子の声は霊夢の背後から流れ込んで来た。今の今まで青娥達と対峙していたはずなのに、いつの間に接近していたのだろう。気配も何も感じられなかったのだが──。

 いや、今はそんな方法の考察など後回しでも良い。もっと重要視すべき出来事が、目の前で繰り広げられているのだから。

 

「あっ、ぐぅ……!? う、うぅ……!?」

「紫……!?」

 

 苦しそうな呻き声。幽々子の手により、紫の首元が掴み上げられてしまっているのだ。

 厳密に言えば、自らの手を使って直接紫を掴み上げている訳ではない。幽々子は手を掲げているだけ。そこから漂う黒い靄のような霊力が、紫の首を締め上げている。

 直前までへたり込んでいた紫は爪先立ちを余儀なくされ、呼吸が極端に制限された事により顔が真っ赤に火照り始める。けれども酷く苦し気な様子の親友を前にしても尚、幽々子はその手を緩める気配すら見せず。

 

「はろー、紫。まったくもう、酷いじゃない。知らないなんて、そんな訳がないでしょう? 親友の事を忘れるなんて、私の知っている紫はそんな薄情な子じゃありませんっ!」

「ぅ、あ、ぅ……! ひっ、ぁ……!」

「あははっ! んー? なになに? もぅ、何て言ってるか全然分からないわよぉ」

 

 幽々子は笑っている。無邪気に、まるで純粋な子供みたいに。首を締め上げられ、苦痛に満ちた表情を浮かべる紫を前にしているのにも関わらず。寧ろ彼女は、そんな様子をさも楽しんでいるかのような印象で。

 

(なっ……。何なの……? 何なのよ……!?)

 

 このままではいけない。止めに入らなければいけないのだと、そんな想いは霊夢の中にも存在するのだけれども。

 それでもなぜか、動けない。身体が竦んで、動けない。

 何だ。何なんだ。まさか自分は、恐怖しているのか? これまでの奴らとは何かが違う。根本的に訳の分からない存在を前にして──。

 

「はぁ……! うふふ、ゾクゾクしちゃうわぁ……! ねぇ紫、覚えてる? 私の生前、もう千年以上も昔の事になるのかしら……。あの時、紫は約束してくれたじゃない。いつか必ず、私の事を助けてくれるって」

「うぅ……! が、ひゃ、ぁ、ああ……!」

「私もう嬉しくって。その時の感情、今でも鮮明に思い出す事が出来るの……。胸の奥がポカポカして、心の中がキラキラして。私の為に、そこまで必死になってくれる子がいる。ああ、私は何て良い友達を作る事が出来たんだろうって……。だから──」

「ゆ、ゆ、こ……」

「……うん? なに、紫?」

 

 黒い靄に首元を掴み上げられ、苦痛に満ちた表情を浮かべていた紫。そんな彼女が、絞り出すように親友の名を口にする。

 薄く瞼が開き、震える瞳が目の前の幽々子へと向けられる。──あまりにも強い、後悔。底の知れない罪悪感。そんな感情ばかりが、紫の瞳から伝わってきて。

 

「ご……めん、な、さい……」

 

 そんな言葉が、紫の口から零れ落ちる。

 

「ごめん、なさい……」

 

 ただ頻りに、同じ言葉を繰り返す。

 

「ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめん、なさ──」

「──それは一体、何に対する謝罪なの?」

 

 冷たい声調だった。

 今までのような、どこか無邪気で楽し気な様子とはまるで違う。無感情。その言葉がぴったりなくらいに、突き放すような雰囲気の声色。背筋が凍てついてしまう程に、どこまでも。

 

「ああ、ごめんなさい。意地悪な質問をしちゃったかしら? 良いのよ、判ってるわ。貴方は昔から生真面目な子だったもの。あんな方法しか取れなかったから、きっと罪悪感を覚えているのね? だからこうして少しでもその贖罪をしようと、そんな風に躍起になっているのでしょう?」

「あ……あ、あぁ……。う、ぅ……!」

「もうっ。本当、今更って感じよねぇ。貴方は昔から相変わらずなんだからっ!」

 

 そう口にすると、幽々子は掲げていた右手を振り払う。そんな動作と連動して黒い靄も振り払われ、紫は地面に叩きつけられていた。

 酸素が一気に肺に送り込まれる。紫は苦しそうに咽返り、激しく呼吸を乱れさせた。

 

「ごほっ! ごほっ! はぁ、はぁ、はぁ……!」

「ねぇ、紫。そんな風に謝って、その後どうするつもりだったの? 私に赦して貰えれば、貴方はそれで満足?」

 

 ぜぇぜぇと乱れた呼吸を続ける紫に対し、幽々子は再び言葉を投げる。

 

「傲慢ね。ずっと、ずっと。千年以上も嘘を貫き通してきた癖に。私が()()を思い出したから、今更謝って赦して貰おうと? ねぇ紫。それってすっごく虫が良過ぎる話じゃないかしら? あんまりだわ。私、哀しくなっちゃう……」

「う、うぅ……。うぅぅ……!」

「ぷっ……あははっ! 嫌ねぇ、冗談よぉ。そんな顔しないで、紫。私は別に怒ってないから」

 

 幽々子の表情がコロコロと変わる。一体何を考えていて、一体何が真意なのか。そんなのまるで読み取る事が出来ない。

 

「言ったでしょう? 貴方と私は親友同士。──ああ、嘘つきの紫が本当はどう思っているのかは分からないけれど、少なくとも私はそう認識しているわ。私にとって、貴方は掛け替えのない大切な存在なの。だって、初めてだったんだもの。私に対して、あんな風に対等に接してくれた人は──」

 

 愉悦に満ちた表情。けれども発する言葉の声調は、氷のようにどこまでも冷たく。

 

「愛してるわ、紫。ええ、本当に、心の奥のそのまた奥から……。だから、ね?」

 

 どこか、寄り添うような雰囲気で。

 

「抉って。蔑んで。弄んで。辱めて。徹底的に、壊し尽くしたその後に」

 

 けれども苛烈に。

 

「貴方は最後に殺してあげる」

 

 西行寺幽々子は口にする。

 

「絶対的な“死”。それを二人で、存分に味わいましょう──?」

 

 

 ──そこまでのやり取りを眼前にして、霊夢はようやく我に返った。

 竦んで硬直気味だった身体が動く。随分と時間がかかったが、この状況をようやく現実として飲み込む事が出来始めた。それでもどうして、という疑問は尽きないが、今はそんな事を気にしている場合ではない。西行寺幽々子がこちらに攻撃を仕掛けてきた。重要なのは、その事実。

 

「……ッ! 待ちなさい、幽々子ッ!」

 

 そう口にしつつも、霊夢はお祓い棒を幽々子へと突き出す。

 困惑が拭い切れぬ中、背一杯の大声を上げる。殆ど虚勢のような状態。それは自覚しているけれど、構わず足を無理矢理一歩前に踏み出して。

 

「何なのよ、あんた……。いきなり何を言ってるのよ!? 殺す……? 絶対的な“死”……? 言ってる事、全然判んないわッ!」

「うふふっ。なぁに、霊夢? そんなに熱くなっちゃって。私は別に、難しい事なんて何一つ言ったつもりはないわ」

 

 幽々子は肩を窄める。

 口調自体は普段通りのおっとりとした印象。けれども漂わせる雰囲気は、いつもの幽々子とは根本的に様変わりしてしまっていて。

 

「言葉通りの意味よ。私の力で貴方達を殺し、絶対的な“死”をプレゼントするの。そうすれば、ずっと一緒にいられるんだから」

「貴方達、って……?」

「ああ、そうね。ごめんね、やっぱり言葉不足だったかしら」

 

 そこで幽々子は、こほんっと咳払いを一つ挟むと。

 

「私、これから幻想郷を私の思い描く理想郷へと作り変えようと思って」

 

 眩しい。けれどもどこか不気味な笑顔を満面に浮かべて。

 

「その為にまず必要な事は、“死”を蔓延させる事なのよね~。だから手始めに幻想郷の住民を一人残らず殺すつもりなの。人間だろうが妖怪だろうが、はたまた神であろうとも。何の例外もなく無差別に、ね……」

「は……?」

 

 まるで、玩具を前にした無邪気な子供みたいに。何の悪意も感じさせず、けれども口にするのは突拍子もない宣言で。

 

「みんな死んで、いなくなって。だけど魂は私と一緒にひとつになるの。それって凄く素敵な事だと思わない?」

「何……言ってんのよ……」

 

 けれどもそれは、霊夢にとってどうしようもなく理解出来ない理屈だった。

 

「ふざけないでよ! あんたそれ、何……? 宣戦布告って事……!? これから『異変』を引き起こそうって、そういう事なの!?」

「異変……? あ、そっか。うん、そうなるのよねぇ。だったらそういう認識で構わないわ。私、これから『異変』を引き起こしちゃいますっ!」

「なっ……」

 

 なぜか楽し気にそんな事を口にする幽々子。言っている事とテンションのギャップが大きすぎて、流石の霊夢も絶句して何も言えなくなる。

 何を言っているんだコイツは。正気の沙汰とは思えない。何者かに意識でも掌握されているのか? そうとでも言われない限り、この変わりようは説明がつかないじゃないか。

 

「ゆ、幽々子様ッ!? 一体、何を……!? どうしてしまわれたのですかッ!?」

「んー? あら、藍。どうしたの? 霊夢と言い、今日は何だかみんな熱くなってばっかりね……」

「ッ! それは、そうでしょう……! だって、幽々子様、貴方は……!」

 

 八雲藍もまた、感情を高ぶらせて幽々子にそんな言葉を投げかけている。けれども当の幽々子は然して意に介した様子もなく、相も変わらずニコニコしていた。

 

「何か勘違いしているようだから教えてあげるけど」

 

 そして幽々子は両手を広げ、自分自身を見せつけるかのように。

 

「私、誰かに操られているとか、正気を失っているのだとか。別にそんなのじゃないのよ」

 

 どす黒い、影のような霊力を漂わせて。

 

「だってこれが、()()()()なんだから」

 

 彼女は淡々と口にする。

 

「全部思い出したのよ。反魂と死を経て、ね……」

「思い、出したって……」

 

 霊夢は思わず視線を上げる。彼女の背後。そこに鎮座する西行妖は、墨染の桜を幽雅に咲かせ続けている。冥界に集められた春力を身に纏っている様子はない。強大な怪異のように、周囲にその霊力を振り撒いているような様子もない。ただ、静かに花を咲かせるのみで。

 しかし。

 

「……っ。まさか……」

 

 そんな様子の西行妖を認識して、霊夢は直感する。

 

「西行妖に施されていた封印って……!」

 

 封印されていたのは西行妖そのものじゃない。あの妖怪桜は、単なる“死”の貯蔵庫に過ぎなくて。

 本当に、封印されていたのは──。

 

「さて。いい加減、お喋りもおしまいにしましょうか」

 

 霊夢がそこまで考えた所で、不意に幽々子の声が耳につく。反射的に視線を戻すと、彼女は再び掲げた右手に霊力を集中させている所だった。

 黒い霊力。いや、あれはそもそも霊力と呼べる力なのだろうか。青娥が行使していた霊力も大概だったが、今の幽々子が身に纏う()()は青娥とは比べものにならないくらいに禍々しい印象で。

 

()()()もそろそろ馴染んできた事だし、ね……?」

 

 何をするつもりなのか──なんて、考えるまでもない。彼女自らが直々に宣言していたじゃないか。幻想郷を自分が思い描く理想郷に作り変える。その為に『異変』を引き起こすのだと。

 

「まずは霊夢。貴方から殺してあげる」

「くっ……!」

 

 正直、説明されてもこの状況を霊夢は殆ど理解出来てない。状況の変化が目まぐるし過ぎて受け止めるだけで精一杯だし、その上あまりにも常識から逸脱してしまっている。今の幽々子が何を考えていて、何が目的で何を成そうとしているのか。はっきり言って、毛ほども理解出来ないのだけれども。

 それでも、たった一つだけ確信できる事がある。

 

 彼女は。

 西行寺幽々子は、危険だ。

 

 ここで何とかしなければ、本当に取り返しのつかない事になる──。

 

「スペル、カード……、うくぅ……!?」

 

 攻撃に備えるべくスペルカードを行使しようとするが、瞬時に上手く霊力を籠める事が出来ない。先程の戦闘で受けた傷がまだ癒えていないのだ。霊夢が受けたのは応急処置。傷も治っていなければ、激しく消耗した霊力だって戻ってきていない。

 

「こほっこほっ! 何なのよ、こんな時に……!」

 

 咽てしまう。痛い。傷口だけでなく、身体中が激しく痛い。こんな調子じゃ、まともに弾幕も張れやしない。

 ダメだ。これは、流石にダメだ。

 

「ふふっ。無理しちゃダメよ、霊夢」

 

 このままじゃ、本当に。

 

「ジッとしてて。すぐに楽にしてあげるから」

 

 殺され──。

 

 

「──時符」

 

 

 不意に、そんな宣言が聞こえたような気がした。

 直後に走るはずだった衝撃が来ない。宮古芳香の時と同じように、あの黒い霊力の塊で霊夢の事を貫いてくるとばかり思っていたのに。攻撃に備えて身構えていたが、けれどいつまで経っても幽々子が霊力を放出する事はなく。

 

「え……?」

 

 その代わり。掲げた幽々子の右手から、鮮血が滴り落ちていた。

 思わず霊夢は間の抜けた声を上げる。何なんだ、今度は。よく見ると幽々子の右腕には一歩のナイフが突き刺さっており、どうやらそこから出血しているらしい。特に痛がる素振りも見せていない幽々子だったが、それでも集中していた霊力は霧散。放出には至らない。

 幽々子の攻撃が妨害された。霊夢ではない、何者かの手によって。

 

「あら? これは……」

 

 ナイフが突き刺さった自らの右腕を一瞥した幽々子は、ちょっぴり関心したような声を上げる。

 

「随分と狙ったかのようなタイミングね。しかも急に現れたように見えたけど……」

 

 そして幽々子は()()へと言葉を投げかける。

 

「一体どういうつもりかしら? ねぇ、紅の館のメイドさん?」

「メイド……?」

 

 呟き、そして霊夢は弾かれるように振り返る。一体、いつから居たのだろう。そこには確かに、一人のメイドの姿があった。

 銀色の髪を棚引かせる背の高い少女である。頭のカチューシャに白いエプロンとまさにメイドといった出で立ちの少女で、こんな冥界のど真ん中に居ると少々浮いているような印象を受ける。けれども当の彼女はそんな場違い感などまるで意識もしていないようで、実に飄々とした面持ちでそこに佇んでいた。──そして彼女の右手には、幽々子の腕に突き刺さっているナイフと同種のものが幾つか存在しており。

 

「あ、あんたは……! でも、どうして……?」

 

 そんな彼女の事を、霊夢は知っていた。

 あまりにも唐突な登場を前に、動揺は隠し切れないが。

 

「──どういうつもりも、どうしても、何も。ただ、お嬢様に色々と()使()()を頼まれてしまって」

 

 メイド少女は淡々とそう答える。

 別に大した用事じゃないと、そう言いたげな雰囲気も漂わせていて。

 

「貴方の思惑を引っ掻き回しにきたわ。『死霊』に堕ちた西行寺幽々子」

 

 完全で瀟洒なメイド──十六夜咲夜は、凛とした声調でそう高々に宣言した。


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