桜花妖々録   作:秋風とも

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第111話「桜吹雪」

 

 それは、宛ら吹雪のようだった。

 ひらりひらりと宙を漂い、風に吹かれて乱れ舞う。浮遊するのは、淡紅色の雪──否、これは桜だ。空を覆うように吹き乱れる、桜の花吹雪だった。

 

 辺り一面に繚乱する、桜の花。しかし風が吹く度にその花弁は花柄から離れ、吹雪の如く宙を舞う。その様は、儚くも美しく、けれどもどこか物寂しい。まるで潔く散りゆく生命の様子を、眺めているかのようだ。

 

 そんな中に、彼女は。

 魂魄妖夢は、いた。

 

(えっ──?)

 

 判らない。

 自分はどうして、ここにいるのか。いつからそこにいたのか。何の為にここまで来たのか。判らない。そんな単純な事すらも、判らなくなってしまっているのだけれども。

 ただ、彼女は。ただ妖夢は、眼前に広がるものから目を離せずにいた。

 咲き乱れる桜。乱れ舞う花吹雪。そんな中を幽雅に漂う、無数の蝶。そしてその中心で佇む、少女の事を。

 

 あれは一体、誰だろう。一瞬、頭が働かない。瞬時に認識する事が出来ない。

 ぼんやりと、夢でも見ているかのような感覚。けれどもこれは、夢じゃない。確かにこの瞬間まで眠りに落ちていたのかも知れないが、肌で感じるこの空気はあまりにもリアリティが強すぎる。目の前の()()は、明らかに現実として繰り広げられている光景。そして桜吹雪の中心にいるあの少女は、間違いなく妖夢も知っている人物だった。

 

 ──彼女は。

 

「──幽々子、様……?」

 

 自然とその名前が妖夢の口から零れ落ちる。

 西行寺幽々子。幽冥楼閣の亡霊少女。妖夢にとって唯一無二の主であり、何者にも代えられない掛け替えのない存在。そんな彼女が、何故かそこにいる。──淡紅色の霊力。渦巻く春の中心で、ただ静かに佇んでいて。

 

「な、に……?」

 

 なんだこれは。一体、何が起きている? 確か、自分は──。そうだ、霍青娥と戦っていたのだ。だけど霊夢が自分を庇って、大怪我を負ってしまって。それから。

 

(それ、から……)

 

 何だか記憶が曖昧だ。底が知れない程に不甲斐なくて、悔しくて。あまりにも弱すぎる自分自身が、何よりも許せなくて。そんな激情が爆発した所までは覚えている。だけど、その後は? その後、自分は一体どうなったのだろう。

 ──いや。そんな疑問など所詮は逃避に過ぎない。記憶が曖昧な感覚は確かに存在するけれど、それでも何も覚えてないという訳でもない。ぼんやりとだが、状況を察する事くらいなら出来る。

 

 自分はこうして倒れ伏している。意識を手放してしまう程に、激しく消耗してしまっている。

 そして幽々子が、そんな自分を庇うかのように佇んでいるのである。それが意味する事は、即ち。

 

「幽々子様……?」

 

 ──嫌な予感がした。

 

「ま、待って……。待って下さい、幽々子様……!」

 

 背筋に悪寒が走る感覚を、妖夢は覚えていた。

 

「な、何を……。一体、何をするつもりですか……!?」

 

 彼女は直感する。このままでは駄目だ、と。これ以上続けさせてはいけない、と。

 だから手を伸ばす。必死になって、声を張り上げる。死に物狂いで、幽々子の名前を口にする。

 

 既に自分は満身創痍だ。大声だって殆ど出せない。けれども今は、そんな自分の状態なんて気にしている場合ではない。自分自身の事なんて考慮する余裕はない。

 嫌な予感ばかりが膨れ上がっていた。このままでは絶対に、取り返しのつかない事になるのだと。そんな警鐘が、五月蠅いくらいに妖夢の中で鳴り響き続けている。

 

 ──でも。

 

「妖夢」

 

 幽々子が振り向く。そして微笑み崩れて、優しく妖夢の名前を口にする。

 

「ありがとう、妖夢。私の為に、こんなにも頑張ってくれて。私達を護る為に、こんなにも必死になってくれて」

 

 苛烈な状況であるはずなのに、幽々子はどこまでも穏やかに。

 

「だけどもう、大丈夫。貴方はもう十分過ぎるくらいに、頑張ってくれたと思うから」

 

 慈愛に満ちた表情を、妖夢に向けてくれていて。

 

「だから妖夢、後は私に任せて」

 

 幽々子のそんな言葉を耳にした途端、妖夢は身体が崩れ落ちるような感覚に襲われた。

 どうして。どうして、こんな事になってしまったのだろう。自分は一体、何をやっていたのだろう。妖夢が護るべきであるはずなのに。護らなければならないのに。

 それなのに、何だこれは。どうしてだ。どうして、どうして、どうして。

 

 どうして自分が、幽々子に護られるような形になってしまっているのだろう。

 

「なん、で……。どうしてですか、幽々子様……」

 

 認められない。納得なんて、出来る訳がない。

 止めさせなければならない。こんな理不尽、何が何でも阻止しなければならない。例えこの身を犠牲にしてでも、彼女の事を護らなければならなかったのに。

 

「やめ、て……。お願い……。やめて、下さい……」

 

 でも。

 

「こんなの……。こんな結末、絶対に……」

 

 だけど、もう。

 

「絶対に……間違っている、はずなのに……」

 

 妖夢には何もできない。干渉する事が出来ない。幾ら手を伸ばそうとも、幾ら声を張り上げようとも。幾ら必死になって、この幻想を断ち斬ろうとしたとしても。

 無意味。最早彼女の力では、回避なんて出来る訳がない。最早彼女の力では、何も変える事なんて出来やしないのだ。

 

 そう。

 最早彼女は、目の前で繰り広げられているものの結末を、ただ見届ける事しかできない。

 

 幽雅に舞い散る墨染の桜。周囲を漂う無数の蝶。そんな中で、繰り広げられる──。

 ──反魂と、死を。

 

 

 *

 

 

 幽々子は既に理解していた。ある種の悟りの境地にまで彼女は到達していた。

 あの時。紫の制止を振り切り、藍と共に白玉楼の外に出て。そして霊夢やルナサ達に促され、暴走する妖夢の姿を認めたあの瞬間から。何となく、幽々子は察していた。そして唐突に理解してしまった。

 果たして自分は、何をすべきなのか。どうすればこの状況を覆す事が出来るのか。

 ──()()()()()は、何なのか。どうすれば、妖夢を助ける事が出来るのか。

 

 判ってしまった以上、ジッとなんてしていられなかった。

 何とかしなければならない。自分の力でそれが叶うのなら、実行に移さなければならないのだと。そんな衝動が幽々子の中に駆け抜けてしまって。

 気が付くと、彼女は行動を起こしていた。自分でも殆ど無意識の内に、()()に向かって足を向けていたのである。

 

 西行妖。その根元。妖夢達と、そして対峙する青娥のもとへと──。

 

「貴方、本当に何をするつもりなの?」

 

 対峙する青娥がそんな疑問を呈する。

 実に忌々しげな様子。まるでクライマックスに水を差されたような、そんな印象の不機嫌っぷり。

 それもそうだ。比喩でも何でもなく、幽々子は本当に水を差しに来たのだから。──霍青娥が企てた暴挙。それを根元からへし折る為に。

 

「そんなの愚問でしょう? 私が何をするつもりかなんて、たった一つに決まっているじゃない」

「あらあら……。まさか本当に、この状況をひっくり返すつもりなの? だけど無駄よ」

 

 しかし青娥は声高に言い放つ。

 

「貴方も結局、西行妖を掌握する事は出来ない。だって貴方は()に過ぎないもの。この西行妖に内包された“死”を封じ込める為の、ね……」

「…………」

「だけどそんな()の役割もこれでお終い。身体に不調を感じているのでしょう? “死”が解き放たれようとしている証拠よ。幾ら強固な封印でも、()で抑えきれない程に霊力を増大させてしまえば形無しね」

 

 確かに青娥の言う通りなのかもしれない。

 春を一点に集められ、咲かないはずだった桜を開花させている西行妖は、底が知れぬ程に霊力を増幅させてしまっている。このまま春が集まり続ければ、確かにやがて()()()()()()なってしまうかも知れない。最終的には増幅した霊力が内側から破裂し、内包された絶対的な“死”が溢れ出す事になるだろう。

 

 判る。幽々子にも、それが判る。()()()()()()()()()()

 でも。

 

「ええ、そうね。貴方の言っている事は、確かに間違ってはいないのかもしれない」

 

 そして幽々子はかぶりを振って。

 

「だけどそんなの関係ない。私の役割が何であれ、私が抱いたこの想いは絶対に揺るがない。この想いを成就させる為ならば、私はどんな事だってやって退ける」

「へぇ……? 大きく出たわね。だけど幾ら理屈を並べた所で……」

「無駄、なんて言わせない」

 

 青娥の言葉を遮るように、幽々子はきっぱりと言い放った。

 

「私は既に、それを成就させる為の手段を持っているのだから」

 

 何を馬鹿な事を言っているのだと、そう言いたげな青娥の視線が幽々子に突き刺さる。この邪仙は既に確信しているのだ。最早自らの悲願は達成したも同然。何人たりともそれを侵害する事など出来る訳がないのだと。

 けれども、違う。彼女は肝心な事を勘違いしている。

 それは西行寺幽々子の役割。高が()に過ぎないのだという、あまりにも一方的な()()()()

 

「──だったら、見せてあげる」

「見せる……?」

 

 困惑気味な声を上げる青娥の目の前で。

 西行寺幽々子は、()()()()()

 

「────ッ!?」

 

 それはまさに春の暴走だった。

 幻想郷から流れ込み、西行妖へと集中していた淡紅色の霊力。その勢いは衰えるどころか、更に爆発的なものへと引き上げられ、周囲を呑み込んでいく。淡紅色の()()などという表現では甘っちょろい。それは最早、()()。これまでの勢いが可愛く思える程に、絶大な春力の奔流が冥界へと雪崩れ込んで来たのである。

 幾ら青娥の目的が西行妖の開花とは言え、流石にこのタイミングでの春力の増幅は異常に映っているらしく。

 

「なっ……!? な、なに……? 貴方、一体何を……!」

 

 青娥の表情に初めて焦燥が現れる。それはこの状況が、幽々子の宣言通りに傾き始めている何よりの証拠という事になり。

 

「春力の増幅が止まらない……? 私の術式の制御下から外れているの!? まさか、どうしてこのタイミングで……!?」

「どうして? そんなの、判り切っている事でしょう?」

「……ッ! 本当に、貴方が……? こんな力、一体どこから……!」

 

 取り乱し始める青娥とは対照的に、幽々子は至極落ち着いた様子である。自分でもびっくりするくらいに、頭の中は冷静だった。

 これから何が起きるのか。その結果、自分がどういった状態に陥るのか。それは何となく理解しているはずなのに。

 

「ゆ、幽々子……!? 貴方──!」

 

 幽々子の耳に声が届く。

 紫だ。目の前で繰り広げられている状況を受け入れられない。まるでそう言いたげな表情を彼女は浮かべていて。

 

「嘘、よね……? 私の勘違い、なのよね……? だって……だって、貴方がしようとしている事は……」

「…………」

「ねぇ、ちょっと……。何か言ってよ、幽々子……。黙り込んだままだと、何も判らないでしょ……?」

 

 震える声。何も判らない等と言っているが、きっと彼女は察している。理解している。幽々子が抱く、この想いを。

 ──だから。

 

「……ごめんね、紫」

 

 幽々子には、これくらいの言葉を投げかける事しか出来ない。

 

「迷惑ばかりかけて、ごめんなさい……」

「────ッ!」

 

 その次の瞬間。

 紫の感情が、爆発した。

 

「ふざけないでッ! ふざけないでよ!! どうしてそんな事を言うの……!? どうしてそんな表情が出来るの!? 貴方、貴方は……! 自分が何をしようとしているのか判っているの!?」

 

 それは怒号に近い口調であった。

 けれども彼女の言葉から感じ取れるのは、怒りの感情などではない。もっと複雑で、もっと混沌としていて。悲哀だとか、狼狽だとか、困惑だとか。それらを一箇所に纏めてにごちゃ混ぜにしたかのような。そんな感情。

 

「約束したでしょう!? これ以上、あんな馬鹿な真似はしないって……! 西行妖に手を出したりしないって……!! それなのに、なのに……! どうして!? どうして貴方は、こんな事を……!」

「紫……! 落ち着けっ!」

 

 取り乱す紫。堪らずと言った様子でそんな彼女を制したのは進一だ。

 彼はきっと、目の前で何が起きているのか殆ど理解出来ていない。訳が分からぬままに巻き込まれて、理解が追いつく前にこんな事になって。こんなにも理不尽な目に遭っていると言うのに。

 

「幽々子さん、あんたは……」

 

 それでも彼は、ただ、憂慮に満ちた表情を幽々子に向けてくれていて。

 

「あんたはまさか、自分を犠牲にするつもりなのか……?」

「…………」

 

 ああ。彼はこんな時だって、自分ではなく他の誰かを心配してくれるのか。

 やっぱり彼は優しい青年だ。妖夢が好きになっただけはある。──だからこそ、任せられる。

 

「進一さん、後の事はお願い……」

「なに……?」

「妖夢の事を、支えてあげてね……」

「──ッ! あんた、まさかそれは……!」

 

 幽々子はそこで会話を打ち切る。このまま続けた所で、優しすぎる彼らはきっと納得しない。優しすぎる彼らだからこそ、ずっと幽々子の事を心配してくれるだろう。

 だけど、もう良い。もう充分なのだ。

 これは、幽々子が決めた事なのだから。

 

「──反魂蝶」

 

 そして幽々子は静かに宣言する。

 その直後。冥界へと流れ込んできていた春の奔流が、急激な変化を現し始めた。

 

「なっ……!?」

 

 あまりにも強大。冥界と幻想郷の春力が一挙に幽々子へと集まり、そしてそれに呼応するかのように西行妖が淡い光を放ち始める。集中する春力をその身に流し込まれ、西行寺幽々子という存在も少しずつ()()し始めた。

 それは、亡霊という死の存在が持ち得ないはず力。底の知れない、生命の輝き。

 

 目も疑うような光景だろう。すっかり動揺を隠し切れなくなった霍青娥が、信じられぬとでも言いたげな面持ちで声を張り上げた。

 

「これはまさか、反魂……!? いや、既に千年以上も亡霊である貴方がそんな事をすれば……!」

「ええ。直後に再び死を迎えるでしょうね。そして多分、私という存在は完全に消滅する事となる」

 

 そうだ。

 判っていた。この手段を用いた結果、自分がどうなってしまうのか。判っていた上で、実行した。

 でも。

 

「だけどこれで貴方の鼻を明かす事が出来る。貴方が絶対的な“死”を手に入れる前に、私という存在を犠牲にして春を霧散させてしまえば……」

「馬鹿な……!? 一時的にでも春を掌握するとでも言うの!? 高が()に過ぎないはず貴方に、どうしてそんな力が……!? いや、それ以上に……!」

 

 酷く混乱した様子で、霍青娥は怒号する。

 

「怖くないとでも言うの!? 生命を手放す事が……! 再び死を迎えるという事が! 貴方は寧ろ、自らそれを望むとでも言うつもりなの!?」

「……そうね。そういう事に、なるのかしらね」

「──ッ!? 有り得ない、有り得ないわ……! そんな、そんなの……! 消滅を……死を、受け入れるなんて……!!」

 

 霍青娥にとって、幽々子が抱く想いはどうしようもなく理解出来ない代物らしい。

 彼女はきっと、死を恐れているのだ。何よりも、そして誰よりも。それ故に彼女はこんな暴挙に及んだ。何よりも恐れる死を理解し、そして乗り越える為に。

 確かに彼女が抱く想いは純粋だ。悪意なんて含まれていないのかも知れない。

 

 けれども。だからと言って、こんな手段は間違っている。こんなの許されるはずがない。

 故に幽々子が終わらせるのだ。

 ──全てを。

 

「幽々子ッ!!」

 

 悲痛に満ちた紫の声。けれども幽々子は振り返らない。

 もう、決めた事だから。

 

「幽々子さん……!」

 

 憂慮に満ちた進一の声。けれども幽々子は答えない。

 もう、余計な心配はかけたくないから。

 

「幽々子、様……」

 

 そして。

 

「駄目……。駄目、です……」

 

 ずっと幽々子を護ってくれた。ずっと幽々子の力になろうとしてくれた。

 

「それ以上は、駄目……」

 

 そんな彼女の──。魂魄妖夢の言葉にさえも、耳を貸さずに。

 

(皆、ごめんなさい……)

 

 胸の内で、改めてそんな謝罪を口にする。それくらいしか、今の幽々子には出来なかった。

 幽々子はもう、止まらない。例えどんなに悲痛な言葉を投げかけられたのだとしても、振り返る事さえ許されない。

 

 これで良かったのだ。

 そう、これで。

 

「させないわッ!!」

 

 声を張り上げて突っ込んで来たのは青娥だ。

 あまりにも鬼気迫る形相。ここまで綿密に組み立てた計画を壊されまいと、そんな想いで必死になっているのだろう。

 ──だが。

 

「言ったでしょう?」

「────ッ!?」

 

 幽々子は青娥へと手を翳す。

 春力の向上により具現化した蝶々の形をした霊力が、いっせいに彼女へと襲いかかって。

 

「私はこの状況をひっくり返すつもりだって」

「こっ……こん、な……! こんな、事って……!」

 

 青娥は押し返される。最早幽々子に触れる事さえ叶わない。

 終わりだ。彼女の計画も最早ここまで。この『異変』も遂に終幕である。

 

 長かった。

 でも、最初から──。

 

(最初から、こうすれば良かったのにね……)

 

 膨れ上がる霊力。流れ込んでくる生命力。幽々子の意識が、少しずつぼんやりとしてゆく。

 ああ、そろそろか。思った通り、どうやら自分は助からないらしい。

 だけど後悔はない。恐怖心だって不思議と皆無だ。

 だって。

 

(綺麗……)

 

 幽々子は天を仰ぐ。

 眼前に広がるのは、淡紅色の花に満ちた西行妖。枯死したとばかり思っていた妖怪桜が、こんなにも幽雅に花を咲かせているのだ。

 ずっと見てみたいと思っていた。一体どんな光景が広がるのだろうと、そんな夢想をして止まなかった。けれども今、最後の最後にそんな想像を現実として前にする事が出来ているのだ。

 

 それが叶っただけで、もう、心残りはない。

 

(これが、西行妖の……)

 

 そう。

 これこそが、幽々子がずっと夢見続けていた。

 

「──満開」

 

 口元が緩み、愉悦に満ちた表情を彼女は浮かべていた。

 

 

 *

 

 

 一際強い閃光が放出されたのが見えた。

 あまりにも強大な霊力の奔流。けれどもこれまでのようなどす黒い禍々しさとはだいぶ違う。それはどこか、温かささえも感じられる眩い光。生命力に満ちている、とでも表現すべきだろうか。

 

「あれは……」

 

 そんな光景を目の当たりにして、博麗霊夢は思わず言葉を漏らす。

 状況が上手く呑み込めない。何か大きな進展があったのだと、それくらいしか察する事が出来ない。狂気の魔力に飲み込まれた妖夢が青娥に襲い掛かって、その後に駆けつけてきた幽々子もまた飛び出していってしまって。宮古芳香から受けた怪我の所為で自分が動けない間に、色々と状況が大きく動いてしまったような感覚がある。

 

 何なんだ。

 一体何が、どうなっている?

 

「…………っ」

「大丈夫か霊夢……? やっぱりまだ安静にしていた方が……」

 

 顔を顰めつつも閃光の発生源へと飛翔して向かっていると、横から心配そうな声が流れ込んでくる。

 紫の式神──九尾の狐の八雲藍である。やたらと不安気な面持ちの彼女は、飛び出していってしまった幽々子よりも怪我をした霊夢の方を気にかけてくれているらしく。

 

「大丈夫よ。血は止めて貰ったし、この程度じゃ死にはしないわ」

「だが……」

「ったく。あんたも紫と同じで心配性が過ぎるのよ。私だって子供じゃない。自分の身体の事くらい、自分で管理出来てるわ」

 

 不安気な表情を崩そうとしない藍へと向けて、辟易としながらも霊夢はそんな言葉を投げかける。

 本当に心配なんて必要ないのだ。確かに傷口はまだ痛むし、足元だってふらつくような感覚はあるのだけれども、それでも動けない程ではない。こうして一人で飛翔する事だって出来るのだ。それなら十分じゃないか。

 余計なお世話なんていらない。そんなの鬱陶しいだけだ。

 

「……強気になっちゃって。空回りしなければ良いけど」

「あ? 何? なんか文句あんの?」

「ちょ、ちょっとルナサ姉さん……! だからあんまり余計な事は言わない方が……!」

 

 相も変わらず抑揚のない口調でルナサが何かを言ってくるが、妹のリリカが慌てた様子で彼女を制しようとしている。霊夢に魔法で応急処置を施してくれたのもルナサだったが、こうして突っかかってくる辺り善意で治してくれた訳ではないのだろうか。

 ──いや、違う。この雰囲気は、恐らく。

 

「あわわ……! ごめんね巫女さん! 姉さんは巫女さんの事を心配しているだけで……! だけどちょっとコミュ障過ぎて言葉が悪くなっちゃってるだけだから……!」

「ちょ、引っ付かないでよ鬱陶しい! 判ってる、判ってるわよ!」

 

 グイグイと身を寄せながらもそんな弁明をしてくるメルランに対し、鬱陶し気に霊夢はそう言い返す。

 何だかんだでお節介な三姉妹である。自分の周りにはお人好ししかいないのだろうか。

 

(いや……。あんな風に妖夢を庇った私が言えた事じゃないか)

 

 自分の取った行動を思い出し、何とも言えない心境になる霊夢。妖夢も言っていたが、確かに自分らしくない行動だったかも知れない。咄嗟の行動だったとは言え、まさか身を挺して妖夢の事を庇う事になろうとは。

 まぁ、だからといって後悔などをしている訳ではない。妖夢が無事なら飛び出した甲斐があった。嘘でも偽りでもなく、その想いは紛れもなく本物だったから。

 

「はぁ……。何だか色々と毒されてきているような気がするわ……」

「……? な、何か言ったか、霊夢……?」

「いや、別にー」

 

 首を傾げる藍に対して、霊夢は適当に受け答えしていく。

 口ではそんな事を言ってみたものの、別に嫌な感じという訳でもない。ただ、ちょっぴり戸惑い気味になってしまっているだけ。自分の中の心境の変化に自分でもびっくりしているというか。

 

(……まぁ、どうでもいいけど)

 

 悶々と思考を巡らせていると何だか小恥ずかしくなってきたので、霊夢はさっさと思考を打ち切る事にする。今は目の前で起きている状況の把握に注力すべきだ。

 

 さて。

 一先ず一行が向かうのは西行妖である。妖夢も青娥も、そして幽々子も早々に向かった妖怪桜。あの激しい閃光は、間違いなくあの桜から放たれていた。

 霊夢は改めて西行妖の姿を見据える。春雪異変の時とは比べ物にならない程に濃い淡紅色。満開と言っても差し支えない光景を前にして、霊夢は思わず心奪われそうになっていた。

 

 確かに綺麗な光景だ。まさに絶景。文字通り、この世のものとは思えないほど。

 けれども、なんだろう。この()()()は。

 心奪われるとは言っても、決して綺麗な光景に魅了されているのではなく。

 

「……どうやら、急いだ方が良さそうね」

 

 嫌な予感がする。

 神霊騒動が始まってから胸の内に燻っていたこの感覚が、どんどん膨れ上がっていくかのような。

 

(──っ。何なのよ、一体……)

 

 そしてやがて一行は、西行妖の根元部分まで辿り着く。

 真っ先に霊夢の目に入ったのは、地に倒れ伏している一人の女性。そしてその傍らで座り込む少女の姿だった。

 

「あいつらは……」

 

 一瞬、ゾクリとした感覚が霊夢の背筋を駆け抜ける。気持ちの悪い悪寒だ。あのキョンシーに怪我を負わされた事がトラウマになりかけているのだろうか。

 冗談じゃない。そんなのあまりにも癪じゃないか。

 

「……あんたら、そんな所で何してんの?」

 

 若干の躊躇いを一気に払拭して、霊夢はその女性達へと声をかける。

 

「その様子じゃ、随分手痛くやられたようね」

「貴方、は……」

 

 蹲っていた女性との視線がぶつかる。

 驚いた。彼女──霍青娥からは、先程までの飄々とした雰囲気は殆ど感じられない。寧ろやつれ切ってしまっているかのような、そんな雰囲気。肉体的にも精神的にも限界が到来しているような印象である。

 そんな彼女は霊夢の姿を認識すると、自嘲気味な笑みを浮かべて。

 

「ふっ……。無事だったんですね。思わず殺しちゃったんじゃないかって、内心ヒヤヒヤしていましたよ」

「はぁ? なに? 殺す気はなかったとでも?」

「当たり前でしょう? 私の目的は死を超越する事。死を利用する事はあれど、死を齎すなんて以ての外です。そんなの私の流儀に反します」

「意味わかんないわ。理解出来ないわね」

「……そうでしょうね。その反応は正しいのかも知れません。──だけど、私のそんな悲願も、もう……」

 

 青娥の視線は霊夢の方を向いていない。霊夢の後ろ、西行妖へと注がれていて。

 

「青娥……」

「良いのよ芳香。貴方はよくやってくれたわ。でも……」

 

 しょんぼりと青娥の名前を口にするキョンシー──宮古芳香を宥めながらも。

 

「私が集めた春は霧散されました。これでは“死”の封印を解くことが出来ない……。最後の最後に、西行寺幽々子にしてやられたと言う事ね……」

「幽々子……?」

「ふっ……。ふふっ、あっははは……」

 

 渇いた笑い声を上げる青娥。完全に自暴自棄になってしまっている。彼女の気力をここまで削る何かが、起きたという事だろう。

 青娥の視線に釣られて、霊夢は改めて西行妖の姿を見据える。満開と表現しても良いくらいに花を繚乱させているものの、確かにやたらと静かな印象だ。霊力の流れだって殆ど感じられない。このまま放っておいても、すぐに花を散らし尽くしてしまうのではないだろうか。

 

 そうなれば 、何もかもが元通りだ。

 そう、何もかも。

 

「終わった、の……?」

 

 ──本当に、そうなのだろうか?

 

「紫様ッ!?」

 

 霊夢が改めて胸騒ぎを認識した辺りで、藍の主を呼ぶ声が耳に飛び込んでくる。

 弾かれるように振り返る。霍青娥から少し離れた場所。藍が駆け寄るその先に、確かに彼女の姿はあった。

 

「紫……?」

 

 霊夢も思わず足を向ける。紫と言えば、つい先ほどまで身動きが取れぬ程に消耗してしまっていたはず。最後に霊夢が紫を認識したあの段階では、彼女は完全に昏倒していたはずなのだが──。なぜこんな所に? 進一に介抱されていたのではないだろうか。

 そんな彼女は、霊夢が駆けつけた頃には何やら藍に声をかけられている所であり。

 

「紫様……! もう、お体は大丈夫なのですか……? いつの間に、こんな所に……」

「…………」

「──紫、様……?」

 

 ──何かがおかしい。

 地面にへたり込んだ紫。藍がこうして声をかけても、あまり大きな反応は見せない。ただ、自らの両肩を抱いて、小刻みに震え続けて。

 何かに、怯えているかのような。

 

「わ、わた、し……。なに、何、も……」

「紫様……? 一体、何を……?」

「駄目……。駄目、なの……。もう、これじゃ……」

「ゆ、紫様……! 気を確かに持って下さい! 一体、何があったんですか……!?」

 

 慌てた様子で藍がそう尋ねるが、けれども紫からはまともな答えが返ってこなかった。

 ただ、縮こまって。何かに酷く怯えたように、小刻みに震え続けて。普段通りの彼女の様子など、まるで見る影もないくらいに。八雲紫という少女の姿は、あまりにも様変わりしてしまっていた。

 

「何なのよ、これ……」

 

 霊夢の口からそんな言葉が自然と零れる。

 状況が理解出来ない。一体全体、何が起きた? どうして紫がこんな状態に陥っている? どうして周囲は奇妙な静寂に包まれている? 確かに、暴走とも表現できる程の春力の奔流は、今や鳴りを潜めている。一見すると、既に『異変』は終幕したかのような雰囲気にも捉える事が出来るのだけれども。

 それなのに、何だ。何なんだ、()()()()は。

 

「妖夢と、進一さんは……?」

 

 霊夢の脳裏にふと過る。そう言えば、あの二人はどうなったのだろうと。そう思って視線を巡らせると、彼女らの姿は存外早く見つける事が出来た。

 様変わりした紫の衝撃が強すぎて、意識の外の零れ落ちていたのだろうか。或いは彼女らもまた、愕然とした様子で言葉も発せられない状態に陥っていたからかも知れない。妖夢と進一の二人は、揃って虚空を見据えたまま何も言えなくなっている様子だった。

 

「妖夢……! 進一さん! 一体、何があったのよ……?」

 

 今の紫からは何も聞き出せないと判断した霊夢は、この二人から状況を確認する事にした。

 いつの間にか進一までもがこの場にいる理由は、恐らく紫の手引きであろうと推測出来る。先程まで暴発していた妖夢の魔力も今や落ち着いているが、一体どんな手段を使って彼女を抑え込んだのだろう。

 そんな諸々の疑問も含めて、霊夢は何があったのかと二人に尋ねる。真っ先に反応を示してくれたのは進一だった。

 

「霊夢……?」

「良かった、どうやらあなたは会話が出来るみたいね……。ちょっと状況を説明して欲しいんだけど」

「それ、は……」

 

 しかし、どうにも煮え切らない反応を見せる進一。この反応から察するに、彼もまた状況を上手く呑み込めていないという事なのだろうか。

 と、そんな中。

 

「西行寺幽々子の身に何かが起きた」

 

 凛と。

 動揺が漂う中、冷静な口調で言葉を挟んで来たのはルナサだった。

 

「この状況から察するに、考えられるのはそれくらいしかないと思うけど」

「……っ。ああ、そうだな……」

 

 進一は頷く。

 最早逃避も誤魔化しもしない。観念したかのように、彼は少しずつ状況を噛み砕き始めた。

 

「西行妖に、春が集まって……。だが、後一歩で春が溢れるという状況で、幽々子さんが俺達の前に現れたんだ。その後、集められた春の制御を幽々子さんが掌握して……。後は、そのまま……」

「幽々子が……?」

 

 霊夢は改めて周囲の状況を確認する。

 ──自分達よりも先に妖夢のもとへと向かっていたはずの幽々子の姿が、やはりどこにも見当たらない。この状況。そして進一達の様子から推察するに、考えられる理由はたった一つだけ。

 

「まさか……。幽々子が、犠牲になったとでも……?」

 

 息が詰まるような感覚。霊夢の口から、自然とそんな言葉が零れる。

 

「あの邪仙の計画を、頓挫させる為に……? 幽々子が、自分の身を挺したとでも言うつもりなの……?」

「…………ッ」

 

 進一は言葉を発しない。ただ、ギリッと、悔しそうに歯軋りをして。──そんな沈黙が、何よりの肯定の意だった。

 

 まさか、そんな。

 細かい経緯は流石に判らないが、ここまで進行してしまった『異変』を覆す手段を幽々子は持っていたというのだろうか。思えば西行妖は、ここ白玉楼に鎮座し続ける妖怪桜。幽々子との間に密接な関係が存在してもおかしくはないが。

 しかし、だとしてもだ。

 まさか幽々子が、そこまでの覚悟と決意を持って飛び出して行っていたなんて。

 

「そ、そんな……。本当に、幽々子さんが……?」

「嘘……。嘘だよね、彼氏さん!?」

 

 リリカとメルランがそんな調子で進一へと詰め寄るが、やはり彼の反応は変わらない。

 何も言えず、かと言って否定をする事も出来ない。気休めを口にする余裕さえも、今の彼には存在していない。

 

 ああ、そうだ。

 最早覆りようもない。この現実を、否定する事なんて出来やしない。

 

「幽々子様……」

 

 声が聞こえる。進一に支えられるように、ぐったりとした様子だった妖夢の声だ。

 震える言葉。今にも泣き出してしまいそうな、あまりにも悲痛に満ちた少女の声。

 

「どこ……? 一体、どこに行ってしまったんですか……?」

 

 濁り切った彼女の瞳は、もう、目の前の現実を見据える事が出来ていない。

 

「私は、ずっと……。幽々子様の、力になりたくて……。それで……」

 

 だが、それでも受け入れなければならない。

 

「それなのに……。なの、に……」

 

 これは。

 

「どうして……」

 

 そう、これは。

 

「どうしてッ……! あんな、事を……!!」

 

 西行寺幽々子の犠牲。その上に成り立つ、たった一つの終幕なのだと──。

 

「妖夢……」

 

 心臓が痛い。息が苦しい。悲痛に満ちた妖夢達の様子を眺めていると、霊夢の胸も激しく締め付けられるような感覚に襲われて。

 

(何なのよ……)

 

 イライラする。

 この感覚は、あまりにも不愉快だ。

 

(ふざけないでよ……)

 

 納得が出来ない。この状況を理解する事は出来ても、すんなりと受け入れる事なんて出来る訳がないじゃないか。

 幽々子が犠牲になった? この『異変』を解決する為に? そんな、馬鹿な。

 

(私が……)

 

 考えれば考える程湧き上がってくる。

 底の知れない苛立ち。けれどもその矛先は、他の誰かなどではない。紛れもなく、自分自身。何も出来ず、勝手を許して。そしてこんな結末を手繰り寄せてしまったのは、自分自身にも責があるのだと。そんな感情が霊夢の中から溢れ出てきて。

 

(私があの時、ちゃんと『異変』を食い止められていれば……!)

 

 激しい後悔が渦巻く。ここまで強い感情を抱いたのは、彼女にとっても初めての経験だった。

 悔しい。腹が立つ。不甲斐ない自分に対する底の知れない苛立ち。どうしてもっと上手く出来なかった? どうしてちゃんと立ち回れなかった? 知らず知らずの内に、霊夢は慢心していたのだろうか。これまでずっと異変を解決出来ていたから、今回だって問題ないだろうと。そんな油断が心のどこかに存在していたのだろうか。

 だとしたら、尚更ふざけるなだ。その結果、こんな状況に陥ってしまうなんて。

 

「本当に、何なのかしらね……」

 

 霊夢の口から、思わずそんな言葉が零れる。

 

「こんな、結末なんて……!」

 

 認められない。

 いや、それ以上に。

 

「何なの……」

 

 霊夢は思わず両肩を抱く。

 高鳴る心臓。乱れ始める呼吸。胸の奥を締め付けられるかのような、あまりにも不快な感覚。後悔とか、焦燥とか。そんな感情でぐちゃぐちゃになった霊夢の心の中に渦巻く、予感。

 さっきから、ずっと、ずっと際限なく膨れ上がっていく、不安感。

 

(うるさい……)

 

 頭の中がザワザワする。雑音がずっと耳に張り付いているかのような、そんな感覚。

 これは警鐘だ。ウンザリするくらいに執拗で、嫌になるくらいに不愉快な。

 

「何で……!」

 

 ──そう。

 

「どうして、胸騒ぎが収まらないの……?」

 

 勘だ。

 高が勘。けれどもそれは、幼き時より霊夢の中に存在していた奇妙な感覚。気の所為だとか、思い込みだとか。そんなものとは少し違う。ある種の異能と言ってしまっても差し支えない程に、これは絶対的な一つの基準。霍青娥の企み全てを察する事が出来なかったように、全知全能の正確無比な能力という訳ではないのだけれども。

 でも。

 

 だけど。

 

「何かが──」

 

 一度覚えた確信が、的外れになった事など──ない。

 

「何かが、起こる……?」

 

 

 *

 

 

 暗闇の中にいた。

 ずっとずっと、長い間、あまりにも深い眠りに落ち続けていた。

 

 ずっと抑制され続けていたような気がする。手を出してはいけない。それに興味を引かれてはいけないのだと、そんなある種の暗示のようなものをかけられていたような気がする。けれども、それが正しい事なのだと。間違いなんてどこにも存在しないのだと。そんな風に当たり前だと思い込み、ずっと平穏な日々を送り続けてきた。

 

 あまりにも穏やかな日常だった。何の(しがらみ)に捉われる事もなく、何の違和感を感じる事もなく。ただ飄々と、緩やかな時間を浪費するのみ。そんな日々にほんの少しの疑問を抱く事さえしない。

 当たり前なのだから、何も不安を抱く必要なんてない。難しい事なんて何も考える必要はないのだと。知らず知らずの内に、そう納得してしまっている自分がいた。

 

 悪くない日々だったと、確かにそんな感情は存在している。

 何の不安もなく、何の気兼ねもなく、何の後ろめたさもなく、何の後悔もなく、何の疚しさもなく、何の疑問もない。あまりにも純粋で、あまりにも真っ新で。そんな平穏で何もない日常だって、今思えばそれなりに謳歌していたように思うのだ。

 

 だけれども。

 そんなのは結局まやかしだ。仮初に過ぎない。ある種の虚妄に過ぎない。()()によってでっち上げられた、都合の良い幻想に過ぎないのだ。

 そうだ。

 自分は、ずっと。ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと。千年以上もの長い間、そんな幻想に飲み込まれ続けていた。自分だけど、自分じゃない。幻想という演目の中で、そんな自分をずっと演じさせられ続けていたのだ。

 

 だけれども、それももう終幕だ。幻想という演目はエンディングを迎え、現実という演目が再び開演されるのだ。

 目覚めなければならない。夢から覚めなければならない。だってこんなのは自分じゃない。自分が一体何を抱き、そして何を求めているのか。自分に与えられた役割は何なのか。自分が思い描く理想とは、一体なんだったのか。

 

 ()()()()()()()()()()()

 

「──ええ、そうね」

 

 故に少女は目を覚ます。

 偽りの幻想を脱ぎ捨て、誠の現実へと足を踏み入れる為に。

 

「そうよ、その通り。その通りだったわ」

 

 彼女はそこに、顕現する。

 

「私は──」

 

 ──身のうさを思ひしらでややみなまし

 そむくならひのなき世なりせば


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