桜花妖々録   作:秋風とも

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第110話「狂想の果て」

 

『真実は斬って知る、ね……。でも私には、あんたがその師匠とやらの教えを理解しているとは到底思えないけどねぇ』

 

 ある時、誰かにそんな指摘をされた事を覚えている。

 真実は斬って知る。けれどもそんな教えを理解しているとは到底思えない。かつての彼女は、確かにそんな指摘の通り、師匠を教えを極端に解釈してしまっていた。

 

 彼女には師匠──。祖父である半人半霊の彼しかいなかった。

 両親の事はあまり深く覚えていない。そんな存在が自分にもいたのだと、その程度の情報しか聞かされていない。彼女に物心がつく頃には、既に両親とは死別していたのだから。

 別に、珍しい話という訳ではない。幻想郷というこの世界は確かに楽園であるのだけれど、だからと言って誰に対しても等しく優しい世界という訳ではない。──力のないものは、時に淘汰される事がある。それが偶々、自分の両親だったというだけの話だ。

 

 凶悪な怪異に襲われ、命を落としてしまったのだと。そんな話を聞いている。

 寂しくないと言えば嘘になる。殆ど記憶にないとは言え、人並みに両親の温もりに触れてみたかったのだと。そんな本能のような想いは、彼女の中にも確かに存在していたから。

 けれども彼女は、それでも孤独に苛まれるような事はなかった。何故ならば、彼女には祖父が居てくれたのだから。

 

 祖父は剣士だった。冥界、白玉楼。その主である西行寺幽々子に仕える剣士。基本的には庭師として幽々子に仕えつつも、時にはその剣で幽々子を護るような事もあったという。そしてその剣術は、他に追随を許さない程に凄腕だった。冥界でも幻想郷でも、当時彼を超える剣術の使い手は存在しなかったと言われている程に。

 そんな祖父に対し、彼女が強い憧れの念を抱くまでにあまり時間は掛からなかった。──とても厳格な人だけれど、それ故に剣士としての信念は梃子でも動かない。何よりたった一人の家族だ。憧れない訳がないだろう。

 

 やがて彼女は祖父に弟子入りした。自分もいつか、祖父のような立派な剣士になりたいのだと。そんな真っ直ぐな想いを胸に、彼女は剣士としての道を歩み始めたのだ。

 

『何故、剣士は剣を振るうのか。何故剣術を操るのか。それが判るか?』

 

 不意に提示されたそんな問い。当時まだ幼かった彼女は、そんな問いに対して歳相応の答えしか出てこなかった。強くなる為だとか、幽々子様を護る為だとか。それも強ち間違ってはいないのだと祖父は言っていたが。

 

『人は皆、少なからず真理を追い求める生き物だ。それぞれがそれぞれのやり方で、世界の真理を紐解こうと躍起になっている。魔法使いなら、文字通り魔術的観点。仙人ならば仙術。手段は違えど、最終的に目指すべき場所は突き詰めれば同質。そしてそれは、剣士もまた例外ではない』

 

 祖父は言っていた。

 剣士には、剣術を操る理由があるのだと。

 

『剣士は剣術を用いて真理を探究するのだ。──真理というものは元来、形も答えも定まらぬもの。どんなアプローチが正解なのかも提示される事はない。それ故に、我々は我々のやり方──即ち、剣術を用いたアプローチを仕掛ける事にしている。日々鍛錬を重ね、剣の腕を磨き続け。そうしてその果てにある真理の境地に辿り着く。それこそが、剣士が剣術を操るある種の理由なのだと、私はそう考えている』

 

 正直、祖父の言葉は幼い彼女にとって些か難解すぎた。真理の探究だとか、その為に剣術を操るだとか。そんな事を言われてもいまいちピンとこない。

 真理。それは世界に秘められし絶対的な真実。剣術を操る事でそれを探究するという事は、真実は斬って知るものだという事を言いたかったのだろうか。──その答えは、未だ彼女の中でも解決していない。何故ならばその言葉の真意を探るよりも先に、祖父は突然彼女の前から去ってしまったからだ。

 

 それは、あまりにも突然な出来事。当時まだ幼かった彼女に自らの役割を引き継がせて、彼は忽然と姿を消した。

 幽居したのだという事だけは話に聞いている。けれどもどこで何をしているのかまでは全くの不明瞭。幽々子でさえも彼の行方は把握していないらしく、微かな足取りさえも掴めていない。あまりにも投げやり。殆ど行方不明のような状態だが、それでも彼女はこの状況を()()()()()

 

 自分がまだまだ未熟者であるのだと、そう自覚していたからだろうか。祖父が突然いなくなったのもある種の教えなのだろうと解釈した彼女は、その真意を探るというのも一つの目標として剣術の鍛錬に励む事にした。

 一刻も早く、祖父の教えを理解しなければならない。半人前を脱却して、祖父のような立派な剣士になって。そして祖父の代わりを務められるようにならなければならないのだと。そんな想いが彼女の心に微かな焦燥を生み、祖父の教えを歪曲した解釈のまま信じ込んでしまっていたのかも知れない。

 

 真実は斬って知る。その言葉の通り、彼女は剣を振るい続けた。

 

 だが、歪曲した解釈のまま闇雲に剣を振るい続けた所で、いずれは必ず壁にぶつかる事となる。彼女にとって初めてのそれは、博麗の巫女との対峙だった。

 

『あんたがこの異変の首謀者? ──ってなりでもないか。まぁでも、深く関わっている事は確実よね』

 

 どこか気だるげな印象を受ける少女だった。

 幣──お祓い棒を片手に持ち、紅白の巫女服を身に纏った少女。出で立ちは神職に就く者らしい印象ではあるが、漂わせる雰囲気はどうにも乱雑なように思える。

 神道に対してあまり興味を持ってなさそうな、要するにあまり巫女っぽくない印象の少女だった。

 

『何が目的で春なんて集めてるのかは知らないし、正直キョーミもないけど……。でも、はっきり言って迷惑なのよ。あんたらが春を集めた所為で、幻想郷は未だに降雪が止まらないのよ? これじゃあ、満足にお花見も出来やしない』

 

 博麗の巫女は異変解決のスペシャリストだと聞いている。つまるところ、いつまで経っても春が訪れないという幻想郷の異変を解決する為、遂にはここ冥界まで辿り着いたという事なのだろう。

 つまりこの少女は、異変の首謀者とも言える彼女の主──西行寺幽々子に危害を加えようしているという事になる。ならば幽々子に仕える者である彼女の役割は、たった一つしかない。

 

 剣士として、主の事は護らなければならない。

 幽々子の事を盲目的に信じていた彼女は、主の命こそ正しき道だと思い込んでいた。──例えそれが、人道から足を踏み外した道であったとしても。彼女はその誤りに気づく事さえ出来なかったのだ。

 あまりにも激し過ぎる思い込み。

 何の疑問を抱く事もなく、彼女は博麗の巫女に剣を向けた。

 

『ったく、思った通り頑固な子ね。まぁ良いわ。何にせよ、私のやる事は変わらない。あんたをとっちめて、そしてあんたの主とやらも退治する。それで異変は解決よ』

 

 気だるげな様子ながらも交戦を受け入れた博麗の巫女。異変解決のスペシャリストとは言え、得物を持った人物を前にここまで動じないなんて。

 けれども、だからと言ってこちらとしても加減なんてするつもりはない。全身全霊を以てして、この侵入者を退けて見せよう。それこそが今の自分の課せられた責務なのだと、彼女はそう信じて疑わなかったのだから。

 

 ──けれども。

 交戦の結果は、彼女の惨敗だった。

 

 殺し合いではない。スペルカードルールに則った、所謂弾幕ごっこと呼ばれる決闘方式だ。幾らこの場が冥界と言えど、幻想郷に多大な影響を及ぼすような異変を引き起こしてしまった以上、最低限こちらとしても幻想郷のルールに従わなければならない。

 だとしても、だ。

 この敗北は、どんな言い訳も意味をなさぬ程に絶対的な大敗だった。

 あらゆる面で、彼女は博麗の巫女の足元にも及んでいなかったのだ。

 

『ふぅ。まぁ、こんなもんでしょうね。さっさと道を開けて貰うわよ』

 

 博麗の巫女の要求を拒む権利は、今の彼女にはない。

 彼女は何も言えなくなっていた。底の知れない絶望感に打ちのめされ、完全に目の前が真っ暗になってしまっていたのだ。

 祖父のもとで修業を積んで、祖父の後を引き継いで。剣士として、少しでも祖父に近づけていたと思っていたのに。

 

 何なんだ、これは。

 剣術も、弾幕も。何一つ、博麗の巫女に届いていなかったじゃないか。

 

 弱い。まるで強くなっていない。

 自分は一体、これまで何をしていたんだろう。これまで続けてきた鍛錬は、無駄だったのだろうか。

 

 考えれば考えるほど実感する。自分がいかに、ちっぽけな存在だったのか。自分がどれほど半人前だったのか。鍛錬を積んで、強くなった。その実感が、単なる思い込みだったのだと。そんなどうしようもない事実を、眼前に突き付けられてしまって。

 

『あんた、結局何がしたかったの?』

 

 絶望に打ちひしがれる彼女に対し、博麗の巫女が不意にそんな事を訊いてくる。

 結局、何がしたかったのか。そんなのは決まっている。ただ自分は、いなくなった師匠の代わりに主を護りたかっただけだ。師匠から引き継いだ大切な役割を、最善の形で全うしたかっただけだ。

 だから彼女は剣を振るった。剣術は、自分を正しい方向へと導いてくれるのだと。剣を振るえば真理へと近づく事が出来るのだと。斬れば真実を知る事が出来るのだと、彼女はそう信じて疑わなかったのだから。

 

『ふぅん……』

 

 そんな彼女の言葉を聞き、博麗の巫女は鼻を鳴らす。彼女の言葉に共感したのか、しなかったのか。そもそも興味があるのか、ないのか。正直、読み取りずらい調子だったのだけれども。

 

『別に良いんじゃない? あんたはあんたの意思を貫けば、それで』

 

 博麗の巫女は、肩を窄めると。

 

『まぁ、だけどそれが()()()()()()()()である事が大前提だろうけど』

 

 そう言い残すと、博麗の巫女は去って行った。

 その後、主である幽々子もまた彼女に退治され、春雪異変は終幕を迎える事になる。

 

 ──あんたはあんたの意思を貫けばそれで良い。だけど、それがあんた自身の意思である事が大前提。

 博麗の巫女にとっては何気ない一言だったのかも知れない。けれどその言葉は、不思議と彼女の心に強く響いた。

 大敗を喫した直後で、心身ともに弱っていた所為もあるかも知れない。けれども彼女は、心のどこかでは既に感じていたのだ。本当に、このままで良いのかと。自分が歩む道は、これで本当に正しいのかと。それ故にこそ、博麗の巫女の言葉が図星であるように感じてしまったのである。

 

 けれども彼女は、やはりどうしたって未熟者だった。自らの過ち気づきかけた所で、早々に心情を変える事などできやしない。春雪異変での大敗は、彼女の心に大きな迷いを生じさせた。

 

 判らない。

 自分は、一体何を信じれば良いのだろう。どこに向かえばよいのだろう。そんな迷いが、彼女の胸中を支配する。焦燥を煽り、無秩序な混乱を誘発する。

 彼女はそんな不安定な心境のまま、それでも祖父の教えに従い続けた。

 真実は斬って知る。そんな歪曲した解釈のまま、彼女は辻斬り魔めいた行動を続けたのだ。

 

 判らない。判らないのなら、斬れば良い。

 そんな、あまりにも短絡的で、あまりにも稚拙な思考を続けて。

 

 そんな折に突き付けられたのは、あまりにも的を射たストレートな指摘。

 

 あんたがその師匠とやらの教えを理解しているとは到底思えない。

 

 不羈奔放な鬼の少女にそんな言葉を突きつけられ、彼女は一度剣術を手放しかけてしまった──。

 

 

 ***

 

 

 喧騒が周囲を支配している。

 華やかで賑やかな雰囲気。それでいて無秩序で、些か理性的とは言えない印象のどんちゃん騒ぎ。宵もそれなりに更けて来た事もあり、そんな時間帯が却って皆の心を開放的にするのだろう。周囲の喧騒はますます盛り上がり、賑やかを通り越して騒がしいと感じる程になる。

 

 所謂、宴会という催し物。いや、催し物と呼べる程にしっかりとしたものでもないのだが──ともかく、だ。

 場所は幻想郷。その東部の端に建てられた博麗神社。その境内に様々な少女達が一挙に集まり、宴会という形で騒ぎ立てていた。

 

 異変解決後は宴会で締めくくるのが幻想郷にとってのある種の習わしだ。今回もまた例外ではなく、人間や妖怪問わず異変に関わった様々な少女達が博麗神社に集まっている。その中には、今回の異変──『三日置きの百鬼夜行』の首謀者である鬼の少女の姿も確認出来た。

 例え異変を引き起こした黒幕であったとしても、こうして宴会を通せば大抵の事は水に流してしまう。幻想郷特有の文化と言えよう。──例え異変の首謀者だとしても、その全てを等しく受け入れる。それこそが幻想郷という世界における一つの本質であるのだと、そんな話を聞いた事がある。

 

 そう。幻想郷は全てを受け入れる。現にかつて異変を引き起こした()()達さえも、いつの間にか立派な一員として浸透してしまっているのである。この特殊な世界の移り変わりは、ある意味どんな世界より目まぐるしい。

 

 そんな中で、()()は。

 魂魄妖夢は、少し離れた所から喧騒の様子を眺めていた。

 

 騒ぎ立てる少女達の声はここにも確かに届いてくる。けれども喧騒の中心と比べるとある程度は静寂が強く、熱気も殆ど伝わってこない。まるで自分一人だけが別の世界に弾き出されてしまったかのような心地である。

 だが、それでいい。

 今の妖夢は、あの宴会に加わって一緒に騒ぎ立てるような気分になれない。寧ろ水を差す事になるだろう。それなら寧ろ、ここでこうしていた方が皆の為である。

 

 そうだ。

 今の自分には、この程度がお似合いだ。こうしてただ、皆の楽し気な様子を眺めているだけの状態。気分を上げて、あそこに加わる資格なんてあるはずもない。例えそれが、主の願いだったとしても。

 

「…………っ」

 

 妖夢は俯く。色々な事を頭の中で考えてしまい、心の中も自然と荒んでいってしまう。

 

 もう、何もかもが判らなくなってしまっていた。

 どうすれば良かったんだ。どう解釈すれば正解だったんだ。これまで必死になって努力を続けてきたつもりだったのに、その努力を真っ向から否定されてしまったような心地。最早自分の成す事全てが間違っているのではないかと、そんな事を考えてしまうくらいに。

 

 本当に、何だったのだろう。

 今まで何をしてきたのだろう。

 

 祖父の言葉を自分なりに解釈して、これまでそれを心の底から信じ切っていたはずなのに。

 

「私は……」

 

 こんな様子じゃ、これ以上は──。

 

「姿を見ないと思ったら、こんな所で何してんの?」

「えっ……?」

 

 考え込んでいると、妖夢は不意に声をかけられる。

 反射的に視線を向けると、そこにいたのは紅白の巫女服を身に纏う一人の少女。

 

「随分と辛気臭い表情を浮かべてるのね」

「……霊夢さん、ですか」

 

 博麗霊夢。先の異変でも大活躍だったらしい博麗の巫女は、相も変わらず気だるげな様子でそこに佇んでいた。

 自分の神社を宴会場として貸し切っている以上、彼女もまたあの喧騒の中心にいると思ったのだが──そうでもないらしい。見たところ飲酒等もまだしていない様子で、表情もだいぶ涼し気である。

 

 春雪異変。そしてその後の百鬼夜行。彼女との付き合いは、まだまだ日が浅い。実際、こうして一対一で言葉を交わすのも春雪異変の時以来である。

 そんな霊夢はどういう風の吹き回しか、一人で俯いていた妖夢の傍に歩み寄ってきて。

 

「ふぅ。流石にこの辺はだいぶ静かな印象ね。落ち着くわ」

「……どうしたんです? 今回の異変も、最大の功績者は霊夢さんだったんでしょう? いわばこの宴会の主役みたいなものじゃないですか。皆さんの所に行かなくて良いんですか?」

「はぁ? 冗談でしょ? ここの所、散々宴会尽くしだったじゃない。流石にそろそろ参っちゃうわ」

 

 そう言うと霊夢は、喧騒の中心をチラリと一瞥する。

 その中でも一段と騒ぎ立てている鬼の少女に、呆れたような視線を向けると。

 

「訳の分からない妖術で三日おきに宴会をやらせておいて、いざ私に退治されたら異変解決記念にまた宴会とか……。ちゃっかり参加しちゃっている辺り、あの子何も反省してないんじゃないの?」

「ま、まぁ……。それは、確かに……」

「しかも他の連中もそれに乗じてどんちゃん騒ぎ……。どんな体力してんのよ」

 

 「これ以上は付き合い切れないわ」等と吐き捨てる霊夢。その割に博麗神社を宴会場として貸し出している辺り、どうやら半ばヤケクソ気味になっているらしい。もうどうにでもなれ、と。

 確かに今回の異変の特性上、幾ら幻想郷の住民でも流石にウンザリとしてしまっても無理もない。

 

「という訳で、私はそそくさと退散してきたってワケ。あいつらはお酒を呑んで騒げればそれで良いんだろうし、別に私が混ざる必要もないでしょ」

 

 肩を窄めつつも霊夢はそう語る。彼女には普段から気だるげかつ割と適当な印象を勝手に抱いていたのだが、どうやら霊夢も霊夢で色々と苦労してそうである。彼女への認識を改める必要があるのかも知れない。

 

「で? あんたの方こそ何でこんな所で一人なのよ。幽々子の所に行かなくてもいいの?」

 

 チラリとこちらを一瞥しつつも、霊夢はそんな事を訊いてくる。

 妖夢は思わず口籠るが、それも一瞬。すぐさま言葉を投げ返した。

 

「……ええ、その点は問題ありませんよ。今の幽々子様は、私よりも宴会料理に夢中でしょうし」

「ふぅん……。そう言えばあいつ、やたらめったら大食いなんだっけ? 成る程ねぇ……」

「……まぁ、そういう事です」

 

 霊夢は何となく妖夢と幽々子の事情を察してくれたらしい。理解が早くて大変助かる。

 西行寺幽々子という亡霊少女は、冥界でも幻想郷でも常識外れな程に健啖な亡霊である。宴会の場ともなれば、最早妖夢の言葉など耳に入らない。あの状態に陥ってしまったら最後、満足するまで放置するのが最適解なのである。既に妖夢はそれを悟ってしまっている。

 

 ──そう、だからこそだ。

 宴会料理に夢中になってくれているから、こうしてこっそり抜け出しても主には気づかれない。故に余計な心配をかけずに済む。

 だから、丁度良かったのだ。春雪異変と、今回の百鬼夜行。二つの異変を通して、妖夢には色々と思う事があったのだから。このままでは主に妖夢の心境を悟られてしまう。だからこのように一人になれるタイミングで、色々と踏ん切りをつけてしまえば良いと、そう思っていたのに。

 

「じゃあ、そうね。質問を変えるわ」

 

 博麗霊夢は、嘆息を一つ挟むと。

 

「あんた、一体何を迷ってんの?」

「…………っ」

 

 不思議な感覚だった。

 彼女は。博麗霊夢というこの少女は、基本的に淡白な少女で。他人の事なんて、あまり興味がなさそうな雰囲気を振り撒いているというのに。どうしてここまで、的を射た言葉を口に出来るのだろう。どうしてここまで勘が鋭いのだろう。

 この少女の前では、下手な嘘や誤魔化しなんてまるで意味がないような気がして。態々そんな虚妄を口にするのも、酷く滑稽なような気がしてしまって。

 

「……どうしてそんな事を訊くんですか?」

「別に。ただの興味本位……と言うか、目の前でいつまでもウジウジとされるのも鬱陶しいのよね」

「……鬱陶しい、ですか」

「そう。だからせめて原因だけでも聞いておこうと思って」

 

 妖夢は早々に観念する。実際、傍から見れば本当に鬱陶しい事この上ないのだろう。それは自分でも薄々自覚している。

 だからだろうか。この時の妖夢は、不思議とスムーズに胸の内を霊夢に曝け出していた。

 

「私……もう、止めようかなって思ってるんです」

「……止める? 何を?」

「……剣術、です」

 

 俯きつつも、妖夢は改めてその想いを言葉にする。

 実際に口にすると、心に何かが重く伸し掛かるような感覚を覚えてしまう。これまで強く感じ続けてきた無力感。それが一気に雪崩れ込んで来たような心地になって。

 

「真実は、斬って知る。私は、お爺ちゃん──お師匠様のそんな教えを胸に抱いて、これまで剣術の鍛錬を続けてきたんです。でも……。最近はそれが本当に正しいのか、判らなくなってしまって……」

 

 ぎゅっと、握った拳に力が入る。

 不甲斐なくて、やるせなくて。そんな想いが、胸の中からとめどなく溢れ出てきてしまって。

 

「お師匠様は自らの役割──白玉楼の庭師兼、幽々子様の剣術指南役を私に引き継ぎ、幽居しました。だから私は、お師匠様の代わりにその務めを果たさなければならなかったんです。お師匠様の意思を継いで、剣術の鍛錬を続けて。そしてその先にある真理へとたどり着く。それこそが私に課せられた責務なのだと、そう信じて疑わなかったはずなのに」

 

 それなのに、妖夢は。

 

「霊夢さんに負けたあの日から、少しずつ理解はしていたんです。ひょっとしたら、私は間違っていたんじゃないかって。……でも、すぐには認められなかった。そんなはずはない。間違っているなんて有り得ないんだって。今思うと、酷く滑稽な子供の駄々ですよね」

 

 どうしようもないくらいに、現実を突きつけられてしまって。

 

「萃香さんにも言われたんです。私は、お師匠様の教えを理解出来ているとは思ないって。……確かに、その通りだったのかも知れません」

 

 痛いくらいに、思い知らされてしまったから。

 

「私はずっと、お師匠様の言葉を間違った解釈で鵜呑みにし続けてきた。勝手に思い込んで、我武者羅に剣を振るって……。私はずっと、お師匠様の顔に泥を塗り続けていたんです……。しかも誰かに指摘されるまで、それに気づく素振りすらも見せず……」

 

 だから妖夢は、挫けてしまう。

 

「そんな私がこれ以上剣を振るえば、きっとまたお師匠様を侮辱する事になってしまう……」

 

 師匠が。祖父が。たった一人の家族の事が、大切だったから。

 故に彼女は、決断する。

 

「私では、お師匠様の意思を引き継げない……。そればっかりか、これ以上お師匠様を侮辱し続ける事になるのなら……。私は……」

 

 剣術を、捨てる事だって──。

 

「気に入らないわね」

「──えっ……?」

 

 凛と。不意に割り込んで来た霊夢の言葉によって、妖夢の苦悩は強制的に打ち切られた。

 どこまでもストレート。回りくどい前置きなんて一切ない。思った事をそのまま口にしたような霊夢の言葉を前にして、妖夢は思わずあっけらかんとする。

 気に入らない。妖夢の話を聞いていた霊夢は、辟易としたような表情を浮かべていて。

 

「取り合えず、あんたが師匠の事を大切に想っているって事は判ったわ。その想いを否定するつもりなんてこれっぽっちもない。だけど……。だからこそ、気に入らないのよ」

「気に入らないって……。そんなの……!」

「だって、そうでしょう? 師匠から引き継いだ務めを果たさなければならないとか、師匠の意思を継がなければならないとか。あんたはそんな事ばかり言っていたけど」

 

 妖夢が言葉を挟めぬ程に、霊夢は至極大胆不敵に。

 

「あんた、その師匠の代わりにでもなろうとしているの?」

 

 心が揺れ動いてばかりの妖夢とは、あまりにも対照的に。

 

「あんたはあんたでしょ。誰かに代わりなんかじゃない。それなのに自分の意思を押し殺して、借り物の意思ばかりに振り回されて。そんな息苦しい生き方、私だったら真っ平御免よ」

 

 迷いも惑いも、まるで感じさせる事もなく。

 

「あんたの師匠、あんたのお爺ちゃんなのよね? その人、あんたがそんな生き方をするのを望んでいたって言うの?」

「……ッ。それ、は……」

「違うんでしょ? それなのにあんたは勝手に責任を感じて、こうして勝手に悩んでいる。一方的に思想を押し付けてしまってるだけじゃない。挙句の果てに、剣術を捨てて逃げ出そうだなんて。──そっちの方が、余程その人を侮辱しているって事にならないかしら?」

「…………」

 

 ずけずけとした物言い。遠慮なんて一切含まれていない。なんて偉そうな人なんだと、そんな感想が頭の中を一瞬過るのだけれども。

 だからこそ、彼女の言葉は妖夢の中に強く響く。

 正論だった。何も言い返せなかった。確かに妖夢は、一方的に師匠の意思を決めつけていた。師匠なら、こう考えているに違いないと。妖夢は勝手に思い込んでいた。──ああ、そうだ。いなくなった師匠の代わりにならなければと、妖夢はずっと思い込んでいたのだ。

 

 そう。思い込んでいたからこそ、こんな結界になった。そして彼女は今も尚思い込み続けている。在りもしない、師匠の幻影ばかりに拘り続けて。

 

「教えなさいよ、あんたの本心。師匠の代わりなんかじゃない。あんただけの本心を」

 

 そして霊夢に問い掛けられる。

 

「あんたは結局、何がしたいの?」

 

 魂魄妖夢の本心。誰かの借り物なんかじゃない。彼女が持つ、彼女だけの本心。

 胸に手を当てて考える。ふつふつと溢れ出てくる感情。ずっと抑圧し続けていた想い。こんなのはあまりにも稚拙で幼稚だ。師匠が求める真理とは程遠い。そんな思い込みに拘り続けていたからこそ、その想いは妖夢の中で押し殺されていたのだけれども。

 

「私、は……」

 

 けれども今なら、吐き出せる。

 

「私は……! ただ、悔しかった……!」

 

 嘘偽りなく、曝け出せる。

 

「そうだよ、悔しい……。悔しくて、悔しくて、たまらない……! あなたに負けて、幽々子様の事を護れなくて……! もう負けたくない……。だから強くなりたい……! だって、だって私は……!」

 

 感情に身を任せ。

 

「凄く、寂しかった……」

 

 そして、声を震わせて。

 

「真理の探究だとか、その為に剣を振るうだとか……。そんなの全然、訳が分からないよ……。だけどお爺ちゃんは、何も教えてくれなかった……! 私を置いて、突然いなくなってしまった……。本当は、ずっと一緒にいたかったのに……! たった一人の、家族だったのに……」

 

 視界が歪む。自分は、泣いているのだろうか? それすらも判らぬ程に、妖夢は溢れ出る感情を抑え切る事が出来ずに。

 

「だけど幽々子様は、そんな私を優しく受け入れてくれた……。まるで、本当の家族みたいに……。私の事を……」

 

 ただひたすらに、彼女は言葉を紡ぎ続ける。

 

「私には、もう幽々子様しか残されていないんです……。だからこれ以上、大切な人が目の前からいなくなって欲しくない……! 失いたくない! こんなにも寂しい思いなんて、もうウンザリなんです! だから、だから私は……!」

 

 それは。

 彼女が抱く、その想いは。

 

「ただ、幽々子様を……。大切な人を護る為に、強くなりたいんです……」

 

 借り物なんかじゃない。彼女だけの意思だった。

 幽々子を護る。突き詰めれば、それは結果として祖父と同じ事を成し遂げようとしているのかも知れない。けれども妖夢の抱く思想は、祖父のように立派なものではない。

 大切な人を失いたくない。寂しい思いなんてしたくない。──それは、自分の中で完結してしまっている想い。自分の為の無垢なる願い。

 

 そう。これこそが妖夢の本心。

 自分は一人では何も出来ない。常に誰かの温もりを欲している。そして大切な存在が失われる事を、何よりも恐れている。これ以上、大切な人に傷ついて欲しくないのだと。そんな願いばかりが彼女の中に渦巻いているのだ。

 こんなにも臆病な内面なんて、強さとは矛盾しているのではないかと。妖夢は無意識の内に思っていた。こんな弱さを抱いたままでは、いつまで経っても半人前から脱却できないのではないかと。彼女はそう思い続けていた。

 

 だけど。

 そんな妖夢の言葉を静かに聞き終えた、博麗霊夢というこの少女は。

 

「……そう。そうなのね」

 

 妖夢が曝け出したこの想いを、鼻で笑う事もなく。

 

「良いじゃない、それで。剣術を操る理由としては十分過ぎるくらいでしょ?」

「えっ……?」

 

 はにかみ、そして妖夢の肩に優しく手を乗せると。

 

「私は別に嫌いじゃないわよ。誰かを護る為に強くなりたいとか、そういうちょっと暑苦しいのも」

「あ、暑苦しいって……」

「別に馬鹿にしている訳じゃないわ。それがあんたの本心なんでしょ? だったら私には、あれこれ口を挟む権利なんてない。──あんたの表情、少なくともついさっきよりかはだいぶマシになってるし」

「…………」

 

 妖夢は何も言えなくなっていた。気の利いた言葉なんて、返す余裕さえもなかった。

 霊夢の言葉が心に響く。強く、どこまでも強く響き渡る。幽々子の事を護りたい。剣術を操る理由なんて、そんな想いだけ充分なのだと。こんな所で諦める必要なんてないのだと、そんな風に背中を押してくれているみたいで。

 

 ──眩しいなと、妖夢は思った。強い人だなと、妖夢は改めて認識していた。

 憧憬に近い感情が芽生えてくる。彼女は、強い。自分にはないものを持っている。単受な力勝負ではない。思想そのものが、妖夢なんかよりも余程達観している。

 不思議な人だ。だけど、嫌な感じじゃない。

 

 自分も、強くなれるのだろうか。

 博麗霊夢のように、もっと──。

 

「さて、と。流石にそろそろ戻ろうかしらね」

 

 妖夢の肩から霊夢の手が離れる。おもむろに踵を返すと、彼女は大きく伸びをした。

 そして「ふぅ」と、伸ばした身体を軽く解した後に。

 

「あんた、私に負けて悔しかったのよね。だったら強くなってみせなさいよ」

 

 チラリ妖夢を一瞥する。

 どこか満更でもないような、満足そうな表情を彼女は浮かべていて。

 

「まぁ、メンド―だけど、もう一回くらいなら弾幕ごっこに付き合ってあげるわ」

 

 そう口にしつつも片手をヒラヒラと振ると、彼女は妖夢の前から去っていった。

 喧騒の中。未だ盛り上がり続ける宴会の中心へと──。

 

「──待って下さい、霊夢さん!」

 

 完全に去ってしまう前に、妖夢は彼女を引き留める。

 足を止める。そんな彼女の背中に向けて、妖夢は言った。

 

「私、負けませんから」

 

 言いたい事は沢山あった。だけど、思考が上手く纏まらない。

 だから。

 

「いつか必ず、あなたに追いついてみせます!」

 

 そんな言葉を、彼女に届ける事にした。

 

 妖夢の言葉を受け止めて、彼女がどう思ったのか。それは判らない。結局何も言い返す事なく、霊夢はそのまま歩き出して喧騒の中へと消えていった。

 ただ、それでも何となく判った事がある。基本的に不愛想で、あまり他人に興味がなさそうな少女なのだけれども。多分霊夢は、他人に対して丸っ切り興味がない訳ではない。ただ、アプローチが少しばかり独特なだけ。その点において、きっとちょっぴり不器用な少女なのだ。

 

(霊夢さん……)

 

 博麗の巫女の事を、きっと妖夢は誤解していた。

 ただ淡々と、機械的に異変を解決するような少女だと思っていたのだけれども。

 

(負けないよ、絶対に)

 

 その日から、妖夢の操る剣術は変わった。

 祖父の幻影に縋るような剣術ではない。大切な人を護りたい。そんな無垢なる想いを籠めた、彼女だけの剣術へと──。

 

 

 *

 

 

 ──そうだ。

 怖いのだ。大切な人がいなくなるのが。大切な何かを失うのが。だから強くなりたかった。大切な人達を護る為の力が、欲しかった。

 

 あの日。一度剣術を手放しかけた宴会の夜。霊夢に叱責され、そして妖夢は自分の意思に素直になる事が出来た。祖父の借り物なんかじゃない。自分だけの剣術を手に入れる。そのきっかけを、霊夢が作ってくれたのだ。

 

 あれから、また何度か異変があって。幻想郷に関わる機会も多くなって。いつしか霊夢とは、友人という対等な間柄と呼べる仲にまで進展していた。

 ──霊夢は相変わらず素っ気なくて、興味なさげな雰囲気は今まで通りだけれども。それでも少なくとも、妖夢は霊夢の事も大切な友人であると認識している。彼女によって、妖夢は救われた。だからいつか、何らかの形で彼女に恩返しがしたいのだと。妖夢はいつも思っていた。

 

 霊夢だけじゃない。

 魔理沙や早苗。そしてお燐やこいし達。幻想郷での日々を過ごす内に、妖夢にとって大切な存在は少しずつ増えていった。みんなみんな、大切な友達。掛け替えのない存在。だから皆の身にもしも何かがあったら、少しでも力になってあげたい。手を差し伸べてあげたい。そして、護りたいのだと。妖夢は強く意識するようになっていった。

 

 大切な人達を護る為に強くなる。

 幽々子の事も。そして、友達の事も。誰にも傷ついて欲しくない。誰にもいなくなって欲しくない。そんな想いが彼女の中で渦巻いていた。そんな願いが、自分でも気づかぬうちに彼女の中で膨れ上がっていた。

 

 怖い。

 何よりも、怖い。

 だから強くならなくちゃ。

 

 皆を護れるくらいに、強く。強く。もっと、強く。

 ──それなのに。

 

『痛い、わね……! もう、ホント、死ぬほど、痛い……』

 

 どうしてだ。

 

『身体が……。勝手に、動いちゃったのよ……。仕方ないでしょ、ったく……』

 

 どうしてあんな事になる?

 

『まったく……。だから、言ったじゃない……。少し、冷静になりなさいって……』

 

 どうして霊夢が、あんな。

 

『まぁ、でも……。あんたが無事なら、飛び出した甲斐があったってものね……。は、ははっ……』

 

 ──どうして? そんなの、判り切っている事じゃないか。

 自分の所為だろう? 何もかも、自分が弱すぎるのがいけないのだろう?

 

 だから、許せない。

 何よりも、自分自身が許せない。許せなくて、許せなくて、気が狂いそうになる。激情に、精神そのものを呑み込まれそうになる。

 だけど、それでも良いじゃないか。

 自分の気が狂ったくらいで、力を手にする事が出来るのなら。それで、霊夢達を護る事が出来るのなら。──代償としては、安すぎる。

 

「ああああああああああッ!!」

 

 だから妖夢は身を委ねた。身体の内から膨れ上がる激情に。伝わってくる狂気の魔力に。

 

 ──そこから先は、正直あまり良く覚えていない。

 プリズムリバー三姉妹を拘束していた養小鬼を一掃したのは辛うじて覚えている。暴れる魔力に身を任せて、剣を振るって。そうして青娥の使役する養小鬼を纏めて消し去り、ルナサ達を助けた。

 

 それからは。

 そう、青娥に飛び掛かった。霊夢達を護る為には、まずは青娥を何とかしなければならないのだと。激情に飲み込まれた自分でも、それだけははっきりと理解していたから。

 だから妖夢は、剣を振るった。

 

「さぁ、もっと見せて下さい妖夢さん……。貴方の力を……!」

 

 理性も既に殆ど消失してしまっていた。自分が何をしているのかさえも、妖夢には判らなくなっていた。

 身体が勝手に動く。けれども自分自身の意識は、どこか暗闇の中に蹲っているかのような感覚を覚えていて。──まるで、身体と意識が乖離しているかのような感覚。まるで夢でも見ているかのような心地で、妖夢は激情に身を任せ続けた。

 

(…………)

 

 感情の海を、フワフワと漂っている。思考が殆ど働かない。

 だけどそんな中、一瞬。ほんの一種だけ、躊躇いのような感情が僅かに芽生えて。

 

(……っ!)

 

 本当に、良いのだろうか? こんな風に力を振るって、それで本当に正しいのだろうか? この衝動に飲み込まれて、暴走して。そんな状態が、本当に自分にとっての最善なのかと──。

 

 でも。

 

(……知るか、そんなの)

 

 躊躇いは。迷いは、本当にほんの一種だった。

 今更何を迷う必要がある。躊躇いになんて意味はない。幽々子や霊夢達を助ける為ならば、自分の身がどうなろうと知ったこっちゃないじゃないか。

 そうだ。どうでも良い。どうでも良いのだ。

 

 今はただ、剣を振るえれば。その為の力を得る事が出来るのなら。

 それ以外の事なんて、どうでも良い。

 

「わた、し……は……。まだ、もっと……強く……」

 

 駄目だ。それ以上はいけない。──そんな躊躇いが、微かに残っているような気がする。

 けれども無意味だ。最早止まるつもりはない。膨れ上がる狂気の魔力は妖夢の意識を容易く呑み込み、原始的かつ単純な衝動のみを浮き彫りにする。

 力が欲しい。もっと、もっと。目の前の障害を排除する為の、絶対的な力が。

 

「もっと……。もっ、と……」

 

 霊力と魔力が爆発する。振り上げられた楼観剣に、混沌とした二つの力が集中する。

 けれどもまだだ。まだ足りない──。

 

「もっと……。もっと、もっと、もっともっともっと……!」

 

 膨れ上がる。彼女自身でさえも、最早制御出来ぬ程に。

 それでも妖夢は、止まらない。

 

「ちか、らを……」

 

 深く。どこまでも深く。

 

「力を寄越せぇぇええええッ!!」

 

 飲み込まれる。浸食する。

 衝動のみが、彼女の事を突き動かす。

 

「オーバードライブ──」

 

 狂気の魔力に浸食された力。振り上げられた楼観剣に形成される、強大な真紅の剣。

 我武者羅な魔力が暴発する。剣も、そして自分自身も。身体中が、激しく悲鳴を上げている事が判る。あまりにも苛烈。身体がバラバラに引き裂かれるような、そんな激痛にさえも襲われてしまう。

 けれども、だから何だと言うんだ。

 どうでも良いんだ。

 霊夢を傷つけてしまった、自分の事なんて──。

 

「断冥剣……!」

 

 真紅の剣を振り上げて、妖夢は更に魔力を爆発させる。

 その間、対峙していた霍青娥もまた動きを見せていた。妖夢の魔力にも劣らない程の、絶大な霊力。それで強大な弾幕を形成して、それが妖夢へと襲い掛かってきて。

 

「オーバードライブ──道符『TAO胎動 ~道~』!!」

 

 だが。

 

(邪魔だ……)

 

 ──知ったこっちゃない。

 

(消えろ……!)

 

 最早妖夢は、この程度ではまるで止まりはしないのだから。

 

「『六道輪廻斬』ッ!!」

 

 炸裂した。

 振り下ろされた楼観剣と、青娥による一際強大な霊弾。それが真正面から衝突して、互いに力を反発し合って。それ故の、炸裂。

 

 あまりにも激しすぎる衝突音が周囲に木霊する。眩すぎる閃光が、妖夢と青娥を包み込んでゆく。

 視界が光に飲み込まれる。辛うじて視認できるのは青娥と芳香、そして彼女らの弾幕だけ。一気に肉薄した事により弾幕の殆どを突破する事が出来たものの、この強大な霊力の塊だけはそうもいかない。

 

 おそらくこれが、霍青娥の全力全開。彼女らもまた、この一撃で勝負を決めようとしているのだろう。

 だが、関係ない。幾ら強大な霊力だろうとも、そんな事は知ったこっちゃないのだ。

 

「うぐっ……。ぐ、ぐぅぅ……!」

 

 強く力が反発している。両腕に衝撃が走っている。

 簡単には斬り割けない。刃がまるで通らないが──。

 

「ふふふっ……! ダメですねぇ、届きませんよ……!」

 

 挑発口調で青娥が何かを言っている。だが、そんな煽りは妖夢の耳には届かない。

 何故ならば。

 

「ぐっ……。が、ああああ……!」

「っ!? なっ……!?」

 

 狂気の魔力が更に増大する。楼観剣を纏う真紅の光が、さらに強くなった。

 ギチギチ、ギチギチと。そんな音が響く。そして反発されてばかりだった楼観剣の刃が、少しずつ青娥の霊弾へと入っていく。

 

 この局面で、狂気の瞳から更に魔力が送り込まれたのだ。

 そう。それは最早、正気では扱い切れぬ程に──。

 

「あ、貴方……! 一体、どこまで……!?」

 

 青娥の表情に焦燥が滲み始める。流石の彼女もこのレベルは想定外という事なのだろう。

 ならば結構。元より妖夢は止まらない。──いや、止まれない。

 

 斬るんだ。目の前の障害を、斬り割くんだ。

 

(と、どけ……)

 

 もう少しだ。もう少し。

 力。力、力、力。もう少しでも、力があれば。

 

(届け……)

 

 斬れるんだ。目の前の障害も。どうしようもない現実も。

 そして、何より。大切な友達さえも護れない、脆弱過ぎる自分自身さえも。全部、全部、全部全部全部。何もかも。

 

 だから。

 委ねるのだ。全てを──。

 

「届けええええええええッ!!」

 

 ──だけれども。

 

 

『駄目だ、妖夢……!』

 

(──えっ……?)

 

 

 今、何かが──。

 

「あ……」

 

 がくん、と。奇妙な手応えを妖夢は覚えた。まるで、おかしな方向へと力が逃げてゆくような。そんな感覚が妖夢の中に駆け抜けた。

 バキン、と。何かが砕けるような音。閃光と炸裂音に包まれていたはずなのに、なぜかそんな音だけは嫌というほど妖夢の耳に届いて。

 

 何が起きたのか、まるで訳が分からなかった。理性を殆ど失った今の妖夢では、状況を瞬時に飲み込む事なんて出来る訳がなかったのだ。

 何かが視界に飛び込んでくる。何かが宙を舞っている。

 光を反射して銀色に輝く何か。金属。刃。

 そこまで認識した途端、妖夢は一瞬だけ我に返った。強制的に現実に引き戻された。

 

(う、そ……)

 

 理解したくない。けれども、彼女は認識してしまった。

 銀色の刃。剣の刀身。()()()()が、目の前の宙を舞っている。

 急激に軽くなる手応え。力が抜ける感覚。宙を舞う、見覚えのある刀身。

 

 剣。太刀。──楼観剣。

 その刀身が、真っ二つに。

 

(折れ──)

 

 瞬間。

 やや遅れて、凄まじい衝撃が妖夢の全身に叩きつけられた。

 

「うぐっ!?」

「……!?」

 

 妖夢と青娥はそれぞれ逆方向に弾き飛ばされる。予想外のタイミングで力が抜け、炸裂する霊弾を回避する事が出来なかったのだ。

 勢いを殺せない。なすがままになるしかない。

 踏ん張る暇も与えられず、妖夢は吹っ飛ばされて。

 

「かっ、は……!」

 

 背中を強打。そして墜落し、地面に叩きつけられる。飛ばされた先は西行妖。その幹に衝突したのだ。

 肺の空気が吐き出される。その直後に全身を襲いかかる激痛。むせ返る度に、身体が軋んで。

 

 そしてやや遅れて響き渡る金属音。何かが地面に落ちてきた音。全身の痛みに苛まれながらも、妖夢は反射的に顔を上げた。

 

「う……ぁ……」

 

 視界に入る。目の前に転がっている、()()()()()()()()。そして手元から抜け落ちた()()()()()

 妖夢は改めて認識した。一体、何が起きたのか。どういう状態に陥ったのか。

 

「あ、あ……」

 

 折れたのだ。

 楼観剣が、魔力と霊力の衝突に耐えきれずに。

 

 ──そして、妖夢自身も。

 

「ああ、ああああッ……!」

 

 狂気の魔力が逆流している。妖夢の意思とは無関係に、溢れ出る魔力に歯止めをかける事が出来ない。

 制御がまるで効かない。精神への侵食が止まらない。一瞬だけ我に返った妖夢の心は、再び狂気に飲み込まれていく。

 

 ──駄目だ。これは、もう駄目だ。

 薄れゆく意識の中、妖夢はそう悟った。後戻りは出来ない。元の自分には戻れない。このまま狂気に飲み込まれて、侵食されて。

 そして。

 

(わ、たし、は……)

 

 自我が、崩壊して──。

 

「妖夢ッ──!」

 

(…………)

 

 誰かに、名前を呼ばれた気がした。

 

 

 *

 

 

 嫌な予感が止まらなかった。焦燥は、時間が経てば経つほどに強くなっていった。

 紫に背中を押されて、スキマに飛び込んで。けれども妖夢の所にまで辿り着く間、進一の脳裏には最悪の光景ばかりが投影されていた。

 

 一瞬の時間さえも極端に長く感じる。駆け抜ける焦燥が強過ぎて、冷静な決断力を鈍らせている。

 暴走している。紫からも、そう聞かされていたからだろうか。

 先程も肌で感じた絶大過ぎる力の奔流。そんなものを感情の赴くままに放出してしまったら、彼女は。

 

(妖夢……)

 

 このままでは──。

 

(駄目だ、妖夢……!)

 

 止めなければならないと、そう思った。

 

「……そろそろスキマを抜けるわ、進一君」

 

 スキマの中で進一を導いていた紫にそう告げられる。

 その直後。進一の視界が一気に開けた。

 

「…………っ」

 

 薄暗いスキマの中にいた所為で、外の光に目が慣れない。眩しさのあまり、進一は一瞬だけ腕で陰を作る。

 

 ──淡紅色が、目の前に広がっていた。

 桜だ。桜の花弁。それが絶え間なく周囲に降り注ぎ続けている。思わず顔を上に上げると、真っ先に目に入ってきたのは花を乱れ咲かせる巨木。あまりにも巨大な桜の木。

 西行妖だ。つい昨日まで枯死しているのだとばかり思っていたのに、今は不自然な程に生命力に溢れているのだ。

 

 何なんだ、これは。ここは死者の世界であるはずなのに、まさかこんなにも──。

 

「西行妖が……。もう、ここまで……」

 

 傍にいた紫の呟きが耳に入る。愕然とした感情を隠す事が出来ない。

 知識の乏しい進一でも何となく判る。この光景はあまりにも異質だ。このまま西行妖が満開になれば、きっと良くない事が起きる。この奇妙な霊力を肌で感じれば感じる程、そんな予感は強くなって。

 

「っ! あれは……」

 

 そんな中、見つけた。

 満開まであと一歩の西行妖。その巨木の根本付近。そこで倒れ伏している、一人の少女の姿を。

 

 さっと、血の気が引くような感覚に襲われる。心臓が痛いくらいに締め付けられる。

 瞬時に状況を呑み込む事が出来ない。何かの間違いであって欲しいと、そんな願望が進一の脳裏に過ぎるのだけれども。

 

「妖、夢……」

 

 それは、最早覆りようもない現実だった。

 

「妖夢ッ──!」

 

 思わず彼女の名前を叫ぶ。居ても立ってもいられずに、進一は反射的に駆け出していた。

 

 苛烈な魔力の奔流を未だ感じ取っている。その中心にいるのはやはり彼女。気の所為でも勘違いでも思い込みでもない。どうしようもないくらいに紛れもなく、事実としてそれは進一の眼前に突きつけられているのだ。

 力の暴走。原因はおそらくあの『眼』だ。

 狂気の瞳、と言ったか。何らかの要因がトリガーとなって、永琳の薬の効力を上回る程に狂気の魔力が爆発して。

 

「妖夢、妖夢……!!」

 

 魔力の奔流を何とか掻き分けて、進一は妖夢のもとへと辿り着く。──状況は想像以上に最悪だった。

 倒れ伏した妖夢からの返事はない。苦しげに蹲った彼女からは、未だに魔力が放出し続けているのだ。

 

 まるで収まる気配がない。こんな状態がいつまでも続けば、間違いなく彼女の身が持たない。

 進一の『眼』が妖夢の『生命』を捉える。激しく乱れ、そして別の()()()に侵食されていくような。見ているだけで、こちらの気も狂いそうになってしまう。

 

「くっ……」

 

 思わず目を逸らすと、今度は()()が視界に飛びこんできた。

 折れた剣の刀身。見覚えがある。確か、妖夢が普段から身につけている──。

 

「楼観剣……? 折れた、のか……?」

 

 妖夢にとっても思い入れのある剣だったと記憶している。そんな剣が、こんな風に真っ二つに折れてしまうなんて。一体、どんな攻防が繰り広げられていたのだろうか。

 

「こ、これ、は……」

 

 やや遅れて紫が追いついてくる。妖夢の状態を認識した彼女もまた、愕然とした表情を浮かべていた。

 震える瞳が妖夢の姿を捉えている。血の気の引いた表情からは、焦燥と動揺がありありと伝わって来た。

 

「そ、そんな……。狂気の魔力が……。ここまで、浸食して……」

「狂気の、魔力……」

 

 進一は改めて倒れ伏した妖夢へと視線を戻す。

 暴走する狂気。妖夢の身体からは今も尚魔力が放出し続け、苦し気に表情を歪めている。自分の中から溢れ出る魔力を制御できず、却って自らの身を蝕んでしまっているのだ。

 妖夢はそもそも霊力の類の扱いがそれほど卓越している訳ではない。狂気の瞳から得たこの魔力だって、高める事が出来ても瞬時に四散させる事は元より苦手だった。それ故に、彼女は永琳から処方された薬を服用し、適宜に魔力を中和させていたのだ。

 

 けれども、今の妖夢にはそんな薬の効力さえも意味が成さなくなってしまっている。

 恐らくこれは、あの八意永琳でさえも予測し切れなかった状況。この短期間で、妖夢がここまで魔力を高める事になろうとは──。

 

 進一の『眼』が再び妖夢の『生命』を捉える。別の何かに『生命』が浸食されていくようなこの光景は、やはり見ていて気分の良いものではない。このままでは、妖夢が妖夢でなくなってしまうような。そんな予感ばかりが進一の中を駆け抜けていて。

 ──でも。

 

(妖夢……)

 

 けれど進一は、今度こそ目を逸らすような事はしない。そんな逃避なんて自分自身でも許せない。

 目を逸らすな。考えるんだ。──自分が出来得る、最善を。

 

「あぐっ……ぐ、あ、ああ……!」

 

 妖夢の呻き声が進一の耳に届く。

 魔力の制御を失い、精神が狂気に汚染されて。楼観剣も真っ二つに折れてしまったのに。それでも妖夢は、必死になって手を伸ばそうとしている。

 

「わた、し……。わたし、は……」

 

 身体はとうに限界を迎えているはずなのに。暴走する魔力に身を打たれ、動く事さえもままならないはずなのに。

 それでも妖夢は、無理矢理にでも上体を起こそうとしている。自分の身体なんてどうなっても良い。死に物狂いで、何かを掴みとろうとして。

 

「まだ、まだ……。まだ、こんな、所で……」

 

 どうして。

 なぜそこまで必死になる。どうしてそんなに無理をする。諦めてしまえば良い。投げ出してしまっても構わないじゃないか。

 それなのに、どうして。

 

「もっと、強く……ならないと、いけないのに……」

 

 ──いや。

 その答えを、進一は既に知っている。

 

 だから。

 

「妖夢」

「えっ……?」

 

 上体を起こし、必死になって手を伸ばす妖夢。

 そんな彼女を、進一は背後から優しく抱き寄せていた。

 

 ポカンとした表情になる妖夢。状況を上手く呑み込めていないような様子。目を見開き、ちょっぴり間の抜けた声を上げてしまって。

 そんな妖夢に、進一は静かに言葉を投げかける。

 

「もう良いだろう、妖夢……」

 

 真っ直ぐで真摯な想い。

 それを嘘偽りなく、どこまでもストレートに。

 

「これ以上、独りで頑張る必要なんてないんだ……」

 

 届けるんだ、彼女に。

 

「なぁ、妖夢。お前の気持ち、俺にも何となく判るよ。どうしてそこまで必死になれるのか。どうしてそんなに頑張れるのか。──どうしてそこまで、強くなる事を諦めないのか」

 

 そして伝えるんだ。

 

「幽々子さんや、霊夢達。みんなの為なんだろう? みんなの力になりたくて、みんなの事を助けたくて。だから強くなりたいんだって、妖夢はそう思っているんだろう?」

 

 進一の意思を。進一の感情を。

 決めたんだ。もう迷わないって。もう足踏みなんて続けないって。だから進一は意思を貫く。この感情を曝け出す事に、躊躇いなんて生じさせない。

 

「お前は前からそうだったじゃないか。どんなに自分が大変でも。どんなに追い詰められていたのだとしても。お前はいつだって、俺達の事を想ってくれていた。大切な誰かの為に、お前は必死になって努力を続けていた」

 

 進一は言葉を続ける。

 彼女なら、きっと受け取ってくれるはずなのだと。そう信じて。

 

「言っただろ? ──俺はお前の、そんな姿に惚れたんだって」

 

 彼女の事が、心の底から大切だから。

 

「だからさ、妖夢。俺にお前の手助けをさせてくれないか?」

 

 幻想郷が大変な事になって、冥界だって大きな悪影響を受けてしまって。

 そんな『異変』を解決できるような力なんて、確かに進一は持っていないのだけれども。

 

「お前が感じた喜びも、お前が感じた悲しみも。お前が感じた楽しさも、お前が感じた苦しさも。全部、全部。お前の全部を、俺も一緒に感じたいんだ。──お前の全部を、俺が支えたいんだ」

 

 だけど進一は知っている。紫にだって、教えて貰えた。

 

「図々しい想いだって事は判っている。だけど、妖夢」

 

 好きになった女の子を助ける力。

 それくらいなら、進一だって持っているから。

 

「俺はもう、自分の気持ちに嘘なんてつきたくない」

 

 だから。

 だから進一は、『能力』を行使する。

 

「お願いだ。お前の隣で、お前と同じ道を──。俺にも、歩ませてくれ」

 

 この想いを、成就させる為に。

 

 

「──しん、いち……」

 

 

 ──その時だった。

 淡く、そして暖かい光が、進一と妖夢を包み込んでいく。妖夢が常に放出する苛烈な魔力とは、何もかもが違う。そんなあまりにも暴力的な力の奔流とは、あまりにも対極に位置している。静かで、そして優しい光。それが妖夢から溢れ始めているのだ。

 初めての感覚。だけど、進一には判る。

 どうすれば、妖夢の力になれるのか。どうすれば妖夢を助ける事が出来るのか。その方法が。

 

(ああ──そうだ……)

 

 得体の知れぬ何かが、彼女の『生命』を蝕んでいると言うのなら。──『生命』で、包み込んでしまえば良い。

 

「……っ! こ、これって……!」

 

 信じられない。そう言いたげな声を上げる紫の目の前で、その光景は着々と繰り広げられていく。

 妖夢から徐々に膨れ上がる優しい光が、あの苛烈な魔力の奔流を包み込んでいくのだ。あまりにも暴力的で、彼女自身の身体さえも激しく傷つけていたあの魔力が、飲み込まれていく。

 それは中和とでも表現すべきか。ゆっくりと、けれども確実に。あんなにも強大だった狂気の魔力が、少しずつ収まってゆく。

 

(そうだな……。これで良い、これで──)

 

 ──やがて光が収まると、狂気の魔力は完全に鳴りを潜めていた。

 魔力の奔流が止まる。今の今まで荒れ狂う魔力で烈風さえも形成されていたはずなのに、それも完全に落ち着いて。進一の腕に抱かれた妖夢から、かくんっと力が抜け落ちた。

 慌てて彼女の身体を支える。肝が冷えたが、気を失っているだけだ。これ以上、あの魔力に身を蝕まれる事はない。

 

 静寂が辺りを支配する。桜の花弁が舞い散る中、進一の腕の中で妖夢は静かに寝息を立てていて。

 

「嘘、でしょう……? こんな、事って……」

 

 そんな彼らの様子を、八雲紫は愕然とした様子で眺めている。

 

「妖夢の生命力を活性化させて、狂気の魔力を打ち消したと言うの……?」

 

 疑問を呈さずにはいられない。答えを探らずにはいられないのだと、そんな様子で。

 

「進一君……。貴方は、一体──」

「…………っ」

 

 一体、何者なのか。紫はそう訊きたかったのだろうか。

 生憎、彼女が納得できるような答えなんて進一は持ち合わせていない。これは、進一の中に勝手に覚醒してしまった『能力』だ。今はそれが少しばかり強くなっただけ。その全貌なんて、進一にさえも判らない。こっちが訊きたいくらいなのだ

 だけど。だけど今は、そんな『能力』に救われた。

 

「妖夢……」

 

 助けられたのだ。

 進一の力で、彼女の事を。

 

「良かった──」

 

 ならばそれで、良いじゃないか。

 そうだ。今は、それで──。

 

 

「アッハッハッハッハッハッハ──!!」

 

 

 瞬間。甲高い笑い声が、辺り一面に木霊した。

 紫と揃って、弾かれるように顔を上げる。響き渡る笑い声が聞こえる先。その方向へと視線を向けると、真っ先に目に入ったのは一人の女性の姿。

 乱れた群青色の長髪を棚引かせ、愉悦に満ちた表情を浮かべるその女性は。

 

「あ、貴方は……!」

「霍、青娥……」

 

 この『異変』の首謀者にして、今の今まで妖夢と激しい交戦を繰り広げていた人物。

 無理非道な邪仙──霍青娥。見るからに満身創痍なその女性は、けれども狂乱に満ちた様子で笑い声を上げ続けていて。

 

「勝った……! 勝ったのよ! 私の方が上回った……! 力も……! 想いも、願いも! 全部全部、貴方達を上回った! これで超越できる……! 私は境地に辿り着く事が出来るのよ! もう、私の邪魔をするものはいない……! 私の願いを阻む障害なんてどこにもいない! ふ、ふふ、ふふふ……! あっはははははは!!」

「あ、貴方……! 貴方は……!!」

 

 ぎりっと歯軋りをしつつも、紫は青娥を睥睨する。けれども当の青娥は、そんな睥睨などまるで意に介さない。

 まるで、力のない愛玩動物が必死になって力を誇示する様を眺めているかのように。彼女はどこか、愛らしさを感じているような表情を浮かべていて。

 

「あら? あらあら? あらあらあら? これはこれは紫さん。もう動けるようになったのです? 意外と早かったですね。でも残念。今更のこのこと現れた所で、最早貴方には何も出来ません。そうでしょう?」

「ふざけないで! そんな事……!」

「そんな事、あるのですよ。ほぉら、刮目しなさい!」

 

 そう口にすると青娥は両手を掲げる。

 彼女が示す先は、西行妖。淡紅色に染まり切った、巨大な妖怪桜。

 

「西行妖は満開寸前です! 最早誰にも止められない……! ましてや貴方程度では、干渉する事さえも叶わない!」

「……ッ! そ、それは……!」

「ええ、そうでしょうそうでしょう。判っています。判っていますとも。これこそが絶対的な“死”の概念。私が掲げた理想の為に不可欠な鍵なのですから……!」

 

 口籠る紫。青娥の言葉に対して、彼女は何も言い返す事が出来ない。

 実際、一度彼女と交戦して敗北しているからだろうか。自分の言葉など、霍青娥には何も響かないのだと。そんな確信を抱いてしまっている。

 

「もうすぐです……。もうすぐ、私の願いが成就される……!」

「何なんだ、あんたは……。あんたは一体、どんな理想を掲げてこんな……」

「ふふっ。私の理想は一つですよ、名前も知らない亡霊さん。まぁ、亡霊である貴方には理解できない事かも知れませんが」

 

 堪らず進一が尋ねると、彼女は傲慢な口調で言葉を繋ぐ。

 

「私は死の超越を成し遂げたいです。単なる不老不死じゃない。真の意味で、完膚なきまでに、死という概念そのものの超越を……!」

「死という概念そのものの、超越……?」

 

 何だ、それは。彼女は一体、何を言っている?

 

「死は良くないもの……。私達のような生ある者にとって、それは紛れもなく()そのものなのよ! 解毒不可能な猛毒と言っても良い……。理不尽よね、本当に理不尽……」

 

 判らない。言葉を聞いても、彼女の真意を読み解く事がまるで出来ない。

 何か。決定的な何かが、壊れてしまっているかのような。

 

「もうウンザリなのよ……。だから私はそんな理不尽を超越する……。毒を以て毒を制する事が出来るのなら、大凡の理屈は同じ。私は“死”を以て“死”を制するのです……!」

 

 既にどうしようもないくらいに、人としての常識から()()してしまっているかのような。どうしようもないくらいに、後戻りが出来ぬ領域にまで足を踏み入れてしまっているような。

 

「さぁ、始めましょう。ここまでは単なる下準備。そしてここから新しい概念が誕生するのです……!」

 

 狂想。

 

「そして皆さんにも、特等席でお見せしましょう!」

 

 彼女の想いは、あまりにも歪み切ってしまっている。

 もう、止まらない。止まる事が出来ない。誰も彼も、そしておそらく彼女自身も。彼女の狂想を、止める事なんて。

 

「絶対的な“死”を以てして、“死”という概念そのものを真の意味で超越する──。その瞬間を!」

 

 そんなの──。

 

 

「──悪いけど、そんな理想は叶わないわ」

 

 

 手遅れなのではないかと、そんな予感が進一の脳裏に横切った刹那の事だった。

 桜の花弁が、一際激しく乱れ散る。突風に煽られて、ひらひら、ひらひらと。まるで周囲の空間そのものを呑み込まんとする程の淡紅色。まるで吹雪の中に放り込まれてしまったかのような心地。

 

 桜の花吹雪だ。

 世界を春色に染め上げる、儚くも苛烈な生命の輝き。

 

 いつの間にか、()()はそこにいた。

 淡紅色の世界の中で、幽雅な雰囲気を漂わせる一人の人物。少し強い風でも吹けば、あっと言う間に吹き消えてしまうような。そんな印象さえも感じてしまう儚い少女。

 

「幽々子、さん……?」

「幽々子……!?」

 

 幽冥楼閣の亡霊少女。

 西行寺幽々子が、そこに佇んでいた──。

 

「西行寺幽々子……? 突然現れたと思ったら、一体何のつもり?」

 

 忌々し気な口調で青娥がそう口にする。理想の成就を真っ向から否定されて、癪に障ったのだろうか。

 けれども幽々子は多くを語らない。チラリと青娥を一瞥した後、今度は進一達へと視線を向けて。

 

「紫。そして、進一さん」

 

 にこりと、笑み崩れると。

 

「ありがとう、妖夢を助けてくれて。でも、もう大丈夫」

 

 かつてない程に、穏やかな口調で。

 

「後は私が、終わらせるから」

 

 そう。

 かつてない程に、それこそ実に()()()なくらいに、あまりにも穏やか過ぎる口調だった。

 

「な、何……? ちょっと、待って、幽々子……」

 

 嫌な予感。どうやらそれを感じ取ったのは、進一だけではなかったらしい。

 震える声で、紫は幽々子に語り掛ける。

 

「貴方、何を……? 一体、何をするつもりなの……!?」

 

 けれども幽々子は何も答えてはくれなかった。ただ、笑みを浮かべて、儚げな雰囲気を漂わせるだけで。

 何も。何も、言わない。何も答えてくれない。そう、何も──。

 

「──幽々子、様……?」


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