桜花妖々録   作:秋風とも

120 / 148
第109話「オーバートランス」

 

 白玉楼の玄関から、幽々子は藍と共に外へと足を踏み出す。直後、目の前に広がる光景を目の当たりにして、彼女達は愕然とする事となった。

 絶大かつ気味の悪い霊力の奔流。それを感じて、こうして外へと出てきたのだが──。玄関前の広場に漂っていたのは、意外にも静寂。

 

 霊力の残滓が漂っている。黒い霧のようなものが薄く立ち込めており、視界はあまりよろしくない。状況を、瞬時に判断する事が出来ない。

 

「なっ……なんだ、これは……?」

 

 思わずと言った様子で、藍がそう言葉を零している。そんな彼女の横で、幽々子も必死に状況を確認していた。

 あの時。不意に強烈な眩暈に襲われて倒れてしまってから、幽々子はずっとフワフワとした感覚に襲われ続けている。少し休んだお陰で体調はだいぶ良くなっているのだが、この奇妙な感覚だけはいつまで経っても残り続けているのだ。

 

 ()()してきている、とでも表現しようか。

 兎にも角にも、この感覚が何らかの鍵を握っていると幽々子は睨んでいる。それを確かめる為にも、幽々子は紫達の制止を押し切ってこうして外まで足を運んだ訳だが。

 

「あっ……」

 

 目を凝らすと、そこで何人かの人影を確認する事が出来た。

 一人、二人──いや、四人か。四人の少女。石畳が敷かれた道の脇に、彼女達は集まっている。三人の少女が、一人の少女を取り囲むように。どこか不安気な、緊迫した雰囲気を漂わせていて。

 

 そして、漂う──血の匂い。

 

「あ、あれって……」

 

 段々と、認識出来て来た。認識出来てしまった。

 取り囲んでいる三人は、プリズムリバー三姉妹だ。不安気な表情を浮かべる次女と三女。そんな彼女らの真ん中で、何らかの魔法を行使している長女。そして──彼女らの視線の先。そこに倒れている一人の少女。彼女が問題だった。

 

「……っ! そ、そんな、まさか……!」

 

 愕然とする藍。信じられないものを目の当たりにしたような、そんな表情を浮かべている。

 無理もない。だって、あそこで倒れ伏してしまっている巫女服を着たあの少女は。幻想郷では知らぬ者はいない、『博麗の巫女』その人だったのだから。

 

「霊夢、なの……?」

 

 そう。博麗霊夢。

 紅白の巫女服には赤黒い血をべっとりと滲ませ、ぐったりとした状態で倒れ伏してしまっている。見るからに大怪我。気味の悪い霊力の奔流を追いかけて、その先で霊夢があんな状態に陥ってしまっていたという事は──。

 

「霊夢ッ!」

 

 幽々子が考察を続けるよりも先に、居ても立ってもいられないといった様子で藍が霊夢のもとへと駆け寄っていく。幽々子も一旦思考を打ち切り、そして藍の後に続く事にした。

 霧のように漂う薄気味悪い霊力を掻き分け、幽々子と藍は霊夢のもとへと駆けつける。

 近づけば近づくほどはっきりしていく霊夢の状態。意識はあるが、呼吸は激しく乱れてしまっている。やはり巫女服は血に染まっており、出血量も決して軽視出来るレベルではない。素人目線では、すぐにでも医者に診せるべき大怪我のように思えるのだが。

 

「あなた達は……。白玉楼(ここ)の主と、スキマ妖怪の式神……?」

 

 振り向いて声をかけてきたのは、何等かの魔法を行使していた騒霊三姉妹の長女──ルナサ・プリズムリバーだ。魔法の行使を止めた彼女は、呼吸を整えつつもおもむろに立ち上がって。

 

「成る程……。これだけの霊力が充満すれば、あなた達が黙っている訳がないか……」

「お前達は、確か……。騒霊の楽団か……? 協力してくれているとは聞いていたが……。一体、何があったんだ……!? 霊夢は……!」

「……落ち着いて。博麗の巫女に関しては、私が魔法で止血しておいた。まぁ、回復魔法は専門じゃないから、あくまで応急処置だけど……。取り合えずは安心して大丈夫だと思う」

「ほ、本当か……!?」

 

 詰め寄る藍に対し、ルナサはこくりと頷いて答える。

 感情の起伏が随分と平坦な少女だが、それでも適当な事を言っている訳ではないように思える。勿論、専門の医者に診てもらう事に越した事はないだろうけれど、一先ず命に別状はないという事だろうか。

 

「え、えっと……。私達、さっきまでこの『異変』の黒幕と戦っていたんだけど……」

 

 ルナサの言葉を補足するかのように、口を挟んで来たのは三姉妹の三女──リリカ・プリズムリバーだ。

 あまり感情を表に出していないルナサとは対照的に、彼女は困惑を表情に滲ませているようで。

 

「相手が途中で、ヤンシャオ、グイ? って呪術を使ってきて……。私達は、召喚された霊の対処に手一杯になっちゃって……。そんな中、霊夢さんが相手のキョンシーに……」

「うぅ……! あれは流石に数が多すぎるよ! しかも全然倒れてくれないし……!」

 

 悔しそうにそう口にするのは、三姉妹の次女──メルラン・プリズムリバー。どうやら戦いは相当に苛烈を極めていたようだ。

 彼女達三姉妹は音楽団ではあるが、有する魔力は並みの妖怪よりも絶大である。そんな彼女達でさえも苦戦を強いられたという事は、相手は相当な実力者であるという事になり。

 

「ぐっ……。ったく、ホントに……情けない、限りよ……」

「霊夢……?」

 

 そんな中、ルナサの応急処置を受けていた霊夢が、顔を顰めつつもおもむろに起き上がる。

 未だ表情は苦し気。起き上がったと言っても上半身のみ。霊力も体力も万全とは言えない状態で。

 

「無理に動かない方が良い。魔力で簡単に傷を塞いで血を止めただけだから。傷口が開くかも」

「判ってるわよ、そんな事……。あんたに指図されるまでもないわ……」

「霊夢……! お前、大丈夫なのか……? 霍青娥という、邪仙にやられて……!」

「そんな大声出さなくても聞こえてる……。私はもう、大丈夫よ……。それよりも、あの子の方が……」

「……あの子?」

 

 ()()()。霊夢の含みのある言い方を前にして、幽々子は思わず首を傾げる。

 ──いや、待て。何をしているんだ、自分は。真っ先に気づくべきだったじゃないか。霊夢の大怪我という、眼前に突き付けられた衝撃的な光景を前にして、動揺してしまっていたのだろうか。状況を、しっかりと把握する事が出来ていなかった。

 

 そう。

 この場には、彼女が。

 

(妖、夢……?)

 

 魂魄妖夢が──いない。

 

「……あれは、絶大な“力”だった」

 

 ポツリポツリを語り出したのはルナサだ。

 未だ信じられぬものを見たかのような口調。動揺気味の表情に冷や汗を滲ませて、彼女は口にする。

 

「私達を取り押さえていた養小鬼を、一瞬で蹴散らして……。その後は、あの邪仙とキョンシーへと飛び掛かって……。それから……」

「あの力……。ただの霊力、じゃなかったよね……? どちらかと言うと魔力寄りというか……。何なんだろう……。兎にも角にも、私達じゃ割り込む事なんて出来やしない……」

「ね、ねぇ……。ちょっと……。ちょっと、待って……」

 

 話を進めるルナサとリリカへと向けて、幽々子は口を挟む。

 嫌な予感が膨れ上がっていた。だからこのまま一方的に話を聞いたとしても、冷静さを保てるとは思えなかった。

 

「妖夢は……? 妖夢は今、どこに……?」

「…………」

 

 無言で指を指すルナサ。彼女が示す方向へと、幽々子は視線を向ける。

 そして──。

 

「あっ──」

 

 ──濃度の高い、嫌な霊力の残滓が充満していた。それに加えて半ば暴走気味のこの春力。その奔流の中心にいたから、()()を上手く探る事が出来ていなかった。

 ルナサに示されて、初めて気が付いた。

 それは、西行妖の付近。その眼前。

 

 爆発。

 それは、絶大な力と力の衝突から生まれる、圧倒的な──。

 

「あれ、は……」

 

 禍々しい霊力。それに食らいつくのは、あまりにも荒々しい霊力と魔力の塊。

 後先なんて微塵も考慮されていない。ただ、感情の赴くまま。ただ、心が命じたその通りに。力を振るい、爆発させる。

 あまりにも変貌していた。こんなにも荒々しい力の塊なんて、今まで見た事もなかった。

 だけど──それでも、判る。幽々子には判ってしまう。

 

 あれは。

 感情に身を任せ、ただただ己の力を爆発させ続けている、あの少女は。

 

「妖夢、なの……?」

 

 それは、まさしく狂気の塊。

 絶大な力をその身に纏った魂魄妖夢は、狂気の感情に身を任せて激しく剣を振るい続けていた。

 

 

 *

 

 

 実に興味深い、と霍青娥は感じていた。

 幻想郷から春を集めて、こうして冥界に持ち込んで。そして西行妖を開花させ、内包された絶対的な“死”を手に入れる。徹頭徹尾、彼女の目的は変わらない。その目的達成の為に障害と成り得る要素は徹底的に想定し、そして万全の対策を練って来た。──故に()()は、想定の範囲内。魂魄妖夢という少女との対峙は避けられないのだと、それは真っ先に判っていた事だ。

 

 けれどそれでも、魂魄妖夢の()()()()は青娥にとってちょっぴり予想外だった。

 絶大的な魔力の奔流。それは俗にいう、『狂気』を起因として彼女の中から膨れ上がっている力。彼女が『狂気の瞳』と呼ばれる月が由来の力を持っていた事はリサーチ済みだ。そしてその力を使い熟そうと躍起になっていた事も。

 けれど。

 

(うふふ……。まさか、このタイミングでここまで力が膨れ上がるなんて)

 

 狂気の魔力をその身に纏い、剣を振るい続ける魂魄妖夢。そんな彼女の攻撃を芳香と共に凌ぎながらも、青娥は考察する。

 感情の昂りがトリガーとなって狂気が増幅し、それに伴って瞳による魔力もまた増大する。更に増大した魔力が感情の昂りに影響を与え、狂気を誘発させる。つまるところ、一度枷が外れてしまえば、後はねずみ算のように狂気の魔力が爆発していく訳だ。

 

 無論、枷なんてそう易々と外れるものじゃない。半人半霊だろうが何だろうが、人は必ず無意識下で自らに限界を設定している。それは、自らの力で身を傷つけてしまわぬようにする、言わば本能の一種のようなものである。意識を介入させる事が出来ないであるが故に、そんなリミッターは任意の意思で解除する事など普通は出来ない。

 だが、例外はある。それは例えば、極限状態に陥った際に生じる脳の興奮状態。そんな状況に立たされた際に無意識下の限界が取り払われ、時に普段は出せぬような能力を発揮できる事がある。

 

 それは言わば、火事場の馬鹿力という奴である。

 細かな部分に差異はあれど、今の彼女の原理はこれとほぼ同一のものと見て間違いない。

 

(いや……。それとも一種のトランス状態、とでも表現した方が正しいかしら)

 

 今の妖夢は表層的な意識が喪失してしまっているように見える。狂気の魔力に意識を乗っ取られ、無意識下で剣を振るっているのだ。

 変性意識状態。それ故に、通常の意識状態では実現不可能な芸当さえも実行に移す事が出来る。自らの身体にかかる負荷を考慮する事もなく──。

 

 大切な友人達が次々と傷ついて、倒れて。しかも自分を庇った所為で、大きな怪我を負ってしまった人物もいる。

 自分の所為。そんな不甲斐なさや悔しさ等が複雑に絡み合い、彼女の感情を爆発させたのだろう。

 膨れ上がった激情は『狂気の瞳』に大きく作用し、後は──見ての通り、という事である。

 

「がああああああッ!!」

「おっと……」

 

 獣のような怒鳴り声を上げて、魔力を帯びた楼観剣を振るう妖夢。それを青娥はギリギリのところで回避した。

 養小鬼は既に全滅してしまっている。妖夢が()()()を解放させた直後、彼女の剣によって瞬く間に斬り割かれてしまったのだ。プリズムリバー楽団を取り押さえていた個体も含め、全てである。折角青娥が丹精込めて用意したのに、そんな養小鬼がこうもあっさり斃されてしまうなんて。

 

(でも……)

 

 幾ら彼女が絶大な力を手にしたのだとしても、それを自在に使いこなせなければ意味がない。

 確かに今の彼女は、青娥の計画遂行にとって最も大きな障害と言えるだろう。加速度的に増幅する狂気の魔力。視認出来る程に強大なその絶対量は、青娥達の有する霊力を或いは上回るかも知れない。まともに正面からぶつかり合えば、こちらが押し負けるのも想像に難くない。

 

 だが、今の妖夢はトランス状態。しかも単なるトランスではない。

 狂気の魔力に浸食され、激情が抑えられなくなって。表層的意識が喪失し、過度な変性意識状態で荒ぶる激情のまま力を振るい続けているのだ。

 

(狂気の魔力によるトランス状態の暴走……。さしずめ、オーバートランスと言った所ね)

 

 暴走。手にした力を制御する事が出来ず、逆に振り回されてしまっている。

 そんな状態の少女が相手であるならば、こちらとしても幾らでもやりようがあるというものだ。

 

「青娥……」

「ふっ……。ええ、判っているわ芳香。確かにあの子の持つ力は、私達にとって最大の脅威と成り得るわね。でも……だからこそ、興味深い」

 

 不安気な声を上げる芳香に対し、けれども青娥は不敵に笑ってそう答える。

 そう。興味深い。狂気の瞳は、本来ならば地上の住民が手に入れられるような力ではない。あれは、地上から遥か彼方の地──月の住民が持っているはずの力である。

 それがどうして、彼女の『眼』に宿っている? どうして彼女は、その力を手にする事が出来たのだろう? 彼女の力の源は何だ? 根本的に、何が彼女をあそこまで突き動かしている?

 

 狂気。それはある種、人が心に抱く強大な想い。

 一つの仮説を組み立てるのなら、恐らく彼女の力に起因しているのは()()だ。

 

「想い、ね……」

 

 それならば。

 

(ふふっ……。貴方の抱く想いの強さ、見せて貰いましょうか)

 

 ()()()でも、してみようか。

 

「芳香。次、行くわよ」

「次……? ああ、判った……」

 

 未だ声にならない叫怒鳴り声を上げつつも、剣を振るい続ける妖夢。そんな彼女の弾幕と剣撃を回避しつつも、青娥達は一旦大きく後退する。

 気が付くと、彼女達は西行妖の付近まで移動してしまっていた。夢中になって妖夢との交戦を続けている内に、いつの間にかここまで追い込まれていたという事だろうか。

 

 だが、しかし。

 舞台としては、丁度いい。西行妖が花を咲かせるその下で、魂魄妖夢の狂気を凌駕してみせようじゃないか。

 

「通霊『トンリン芳香』」

 

 芳香に貯蔵された霊力を操作し、増幅させる。けれど今回は、青娥本人がそれを身に纏う訳ではない。

 貯蔵された霊力を供物代わりに降霊術を行使して、芳香の身に霊を()()()()憑依させる。そうして芳香に憑依した霊を強引に支配して、一時的にある種の守護霊として昇華させているのだ。

 

 霍青娥と宮古芳香は霊的なパスで繋がっている。芳香に憑依させた霊が守護霊として昇華しているのなら、その恩恵を青娥本人も受ける事が出来る。

 青娥と芳香。増幅する二人の霊力。相も変わらず狂気の魔力を暴走させる妖夢へと向けて、二人は弾幕を展開させた。

 

「さぁ、もっと見せて下さい妖夢さん……。貴方の力を……!」

 

 これまで以上に攻撃的な弾幕。芳香の放つ霊弾をメインに、青娥はそのサポートに徹して更なる霊弾を付け加える。攻撃は苛烈。幾ら暴走状態の妖夢と言えど、流石にこのまま強引に突破する事は難しいようで。

 

「────ッ!!」

 

 動きが鈍る。

 剣を振るって弾幕を蹴散らそうとするが、間髪入れずに撃ち込まれる青娥達の霊弾を捌き切る事が出来ていない。あれでは駄目だ。彼女は恐らく迫る霊弾を反射的に斬りつけているだけ。あれではやがてジリ貧である。

 やはり幾ら絶大な力を有しているのだとしても、所詮は暴走状態という事か。本能的に単調な動きを繰り返すだけの存在。まさに宝の持ち腐れ。

 

 買い被り過ぎだったかも知れない。

 と、そんな考えが青娥の脳裏を過った次の瞬間だった。

 

「──空観剣『六根清浄斬』」

 

 冷たく響く宣言。先程の獣のような怒鳴り声とは打って変わって、全くの対極に位置するような印象の声調。それが魂魄妖夢のスペルカード宣言だと青娥が気づいた次の瞬間には、状況は一変していた。

 辺り一面に広がるのは、斬撃。斬撃、斬撃、斬撃。そして霧散する霊力。青娥と芳香が展開したはずの弾幕は、魂魄妖夢の剣術によって次々と無力化されていく。迫り来る霊弾に対して反射的に剣を振るっていただけの妖夢。そんなつい先ほどまでの彼女とは、まるで様変わりしてしまったかのよう。

 

「なっ……」

 

 瞬間的に攻略される通霊『トンリン芳香』。そのままの勢いで一気に肉薄してくる魂魄妖夢の姿。青娥は思わず感嘆と驚愕の入り混じった声を上げるが、すんでの所で結界を張って妖夢の攻撃に備える。

 直後、衝撃。芳香と共に纏めて斬りつけられた霍青娥は、そのまま大きく弾き飛ばされてしまう事となり。

 

「うぐっ……!?」

「青娥……!?」

 

 鮮血。結界で防ぎ切れなかったのか、妖夢の剣の切っ先が青娥に届く。傷を負ったのは右腕の上腕付近。それほど深く直撃を許した訳ではないが、それでも鮮血が迸る程度にはばっさりと斬られてしまったらしく。

 

「……っ。少し、油断したかも……。だけど、大丈夫」

 

 しかし、この程度では然して問題にはならない。どうせ青娥の身体は既にあちこちがボロボロなのだ。今更切り傷を負ったくらいでは大して変わらないだろう。

 

「あらあら……。それにしても、精神が完全に狂気に飲み込まれてしまった訳ではない、という事かしら?」

 

 青娥と同じく斬撃を受けてしまった芳香を手早く修復しつつも、彼女は今一度妖夢の姿を見据える。

 空観剣『六根清浄斬』を放ち、青娥達に手痛い一撃を食らわしてきた魂魄妖夢だったが、そこから更に深追いして追撃を仕掛けて来る事はなかった。楼観剣を両手で構え、濁り切った瞳で青娥達を睥睨しているものの。しかし、攻撃は仕掛けてこない。

 

 まるで、何かが彼女の中でせめぎ合っているかのように。

 

「うっ……! ぐ、がっ……あ、ああ……!」

 

 激しく肩を上下に揺らし、呻き声を上げつつも呼吸が乱れた様子の妖夢。

 狂気が精神を浸食していく一方で、彼女の中に残された理性がそれを堰き止めようとしている。表層的意識が戻ってきた訳ではない。彼女は未だ変性意識状態。けれどもそんな無意識下の状態でさえも、魂魄妖夢の中にはある種の躊躇いが残されているのだろう。

 本当に、これで良いのか。この衝動に飲み込まれてしまって良いのか。そんな微かな怯えが、彼女の中には確かに存在している。

 

 ──だが。

 

「わた、し……は……。まだ、もっと……強く……」

 

 膨れ上がる狂気の魔力を抑え切れない。彼女のなけなしの抵抗は、あっという間に飲み込まれてしまう。

 

「もっと……。もっ、と……」

 

 霊力と魔力が爆発する。

 振り上げられた楼観剣。その一点に、混沌とした二つの力が集中して。

 

「もっと……。もっと、もっと、もっともっともっと……!」

 

 膨れ上がる。

 彼女自身でさえも、最早制御出来ぬ程に。

 

「ちか、らを……」

 

 深く。どこまでも深く。

 

「力を寄越せぇぇええええッ!!」

 

 浸食する。

 

「オーバードライブ──」

 

 楼観剣。その一点に集中した霊力と魔力が、再び光の刃を形成している。

 けれども、違う。断命剣『冥想斬』の翠玉色でも、断迷剣『迷津慈航斬』の瑠璃色でもない。それは──真紅。狂気に染まった、歪んだ剣。

 

()()()……!」

 

 真紅の光が、楼観剣から更に膨れ上がる。最早振り上げたままでは支えきる事が出来ず、剣を()()()()()()ような体勢となってしまっている。これまでのどのスペルカードよりも苛烈。いや、最早スペルカードルールさえも度外視しているかのような。

 ただ、激情の赴くままに力を振るう。魂魄妖夢の暴走(オーバードライブ)

 

「成る程……。それなら……」

 

 そんな少女と対峙して、青娥もまた心を決める。

 彼女がそこまでの力を振るうというのなら、こちらとしても相応の力を解放させて貰おう。

 

「青娥……。お前は……」

「良いのよ、芳香。だって……」

 

 青娥は笑う。

 これから、自らの身体を更に追い込む事になるというのに。それでも彼女は、笑みを零して。

 

「これくらいしないと、あの子に失礼でしょう?」

 

 狂想。

 真の意味で狂い、そして壊れているのは──果たして、どちらなのだろうか。

 

「オーバードライブ──道符」

 

 青娥は更なる霊力を芳香から引き出し、そして自らの身に浸透させる。

 最早限界などとうに超えている。これ以上は、身体が受けるダメージだって無視できない。だが、それでも青娥は呪術の行使を止めはしない。中途半端なんて以ての外だ。

 真の意味で“死”の超越を成し遂げる。そんな理想を掴み取る為ならば。

 この程度の限界など、幾らでも超えて見せる。

 

「ッ! 『TAO胎動 ~道~』!!」

 

 弾幕が放たれる。道符『タオ胎動』。そのオーバードライブ。

 限界を超えた青娥の攻撃。芳香の援護も合わさって、強烈な弾幕が妖夢へと襲いかかる。これまでのスペルカードとは桁が違う。纏う霊力も、術の精度も。まさに段違い。

 けれども。それでも彼女は──魂魄妖夢は。

 真紅の剣を振り上げて、臆する事なく突っ込んで。青娥の放つオーバードライブと、真っ向から激しく衝突する。

 

「『六道輪廻斬』ッ!!」

 

 激しい閃光が周囲を包み、強烈な炸裂音が木霊した。

 

 

 *

 

 

「なっ……。何が、起きて……」

 

 岡崎進一は戦慄していた。

 幽々子と藍が揃って白玉楼を出て行ってしまって、そんな彼女達の背中を見送る事が出来なくて。未だ体調が戻らない紫の介抱を続けていた進一だったが、あまりにも異常過ぎるこの()()を肌で感じて言葉を失ってしまう。

 

 幽々子達が出ていく直前、確かに奇妙な感覚を感じてはいた。禍々しい霊力と、更に苛烈な霊力が真正面からぶつかり合うような。そんな感覚。焦燥感を煽られて、嫌な予感ばかりが胸中を支配してしまって。

 それでも進一は、心のどこかでは楽観していたのかも知れない。妖夢は強い。プリズムリバー楽団の皆だっている。だからきっと大丈夫だと、無意識の内にそう思い込んでしまっていたのかも知れない。それ故に、進一が覚えた愕然はより強大なものとなり。

 

「あれ、は……」

 

 進一の視線の先。縁側から一望する事が出来る西行妖。その近くで激しく衝突する力と力。

 片方は青娥だ。それは判る。この禍々しい霊力の奔流は、先程まで進一の眼前に晒されていたものと同質のものだ。幾ら霊力が弱い進一でも、一度肌で感じたら忘れられない。それほどまでに悪い意味で特徴のある奇妙な霊力。

 だが、問題はその霊力とぶつかり合うもう一つの力の方だ。

 一瞬、何が何だか分からなかった。霊力なのか、それとも魔力なのか。身体の中の奥底から際限なく力が放出されて、だたそれに振り回されるばかりで。あまりにも苛烈。そしてあまりにも感情的な力の奔流。

 

 しかし、それでも進一には判る。やがて判ってしまう。

 あまりにも様変わりしていた。にわかには信じられなかった。けれども、()()は。感情の赴くまま、あまりにも苛烈な力を振るい続けるあの少女は。

 

「妖、夢……?」

 

 岡崎進一にとって、最も大切な少女だったのだから。

 

「妖夢、なのか……?」

 

 ──それ故にこそ、信じられない。

 

「どうして、あんな事に……!」

 

 彼女の力の振るい方は、あまりにも激情的だったのだから。

 そう。それは、まるで──。

 

「暴走、しているのかしら……?」

「えっ……?」

 

 進一が愕然としているその横で、そう言葉を零す少女の姿がある。

 弾かれるように振り向くと、上体を起こした彼女もまた、繰り広げられる力の衝突をその瞳に捉えている。これまでは焦点をまともに合っていなかった様子の彼女だったが、どうやら幾分か普段の体調を取り戻しつつあるようで。

 

「紫……? 大丈夫、なのか……?」

「まぁ……。そう、ね……。お陰様で、ほんの少しは……」

 

 彼女──八雲紫はそう口にしているものの、顔色は未だ良い状態とは言えない。呼吸もまだ整っておらず、立ち上がるのだって辛そうだ。

 けれども彼女は、そんな自分の状態なんて意に介さずといった様子で。

 

「このままじゃ、いけない……。幽々子達もそうだけど、妖夢の今の状態は……。うっ……」

「紫……。無理をするなっ。まだ体調が戻った訳じゃないんだろう?」

「良いのよ、これくらい……。大した事は……」

 

 紫は進一の制止を振り払う。本当に大した事はないのだと、彼女は目で訴えてくる。

 進一は息を呑む。どうしてだ。紫もそうだが、幽々子や藍だって。どうして皆、無茶ばかりする? どうしてそこまで、自らの身さえも顧みずに突き進もうとする? 進一はただ、皆にこれ以上の無理はして欲しくない。誰かが傷つく姿なんて、見たくないと思っているのに。

 

(いや……。或いは俺自身が、未だ迷い続けているという事か……)

 

 ──判っている。自分自身の事くらい、本当はとっくに理解している。

 妖夢達も、紫達も。皆、既に覚悟を固めている。幻想郷の『異変』を解決する為に、必死になる事が出来ている。けれども、進一は? 確かにこの『異変』を何とかしたいという想いだって胸中には存在している。見過ごす事なんて出来る訳がない。

 だが、それでもやはり()()()()()()()()

 

 自分には力がない。この『異変』に真正面から立ち向かった所で、きっと足手纏いにしかならない。それ故に、割り切るしかない。それ故に妥協するしかない。

 自分にだって出来る事はある。『異変』に対して直接的なアプローチを仕掛ける事は出来ずとも、それでも何らかの形で役に立つ事は出来る。誰かを助ける事だって不可能ではない。現にこうして、進一は紫の事をここまで連れてくる事が出来た。

 

 ──そうだ。

 適材適所。自分の無力感に打ちひしがれる暇があるのなら、自分でも出来る事を全うすれば良いじゃないか。それは重々理解している。

 だが。

 

「……っ!」

 

 再び、強烈な力の奔流が流れ込んでくる。

 その源は、縁側の先。西行妖の根本付近で、強大な力を振るい続ける一人の少女。彼女が──魂魄妖夢が纏う霊力が、徐々に変貌していく。

 嫌な予感がする。これ以上踏み込んでしまえば、最早後戻りも出来なくなってしまうような。そんな予感が。

 

「……妖夢の事が、気になるのよね?」

「えっ……?」

 

 ふと、そんな声が流れ込んでくる。

 発したのは紫だ。進一と共に、開花していく西行妖と、その付近で繰り広げられる力の衝突を見据えていた彼女。けれどもそんな紫は今や、毅然とした面持ちで進一へと視線を向けている。

 射貫かれる。それはどこか、進一の感情を見透かされているような。そんな視線で。

 

「進一君の気持ち……。私にも、何となく判るの。きっと貴方は、自分の持つ力を弁えている。自分の力でどこまで出来て、そしてどこから出来ないのか。何が出来て、何が出来ないのか。それを貴方はしっかりと自覚している。……だから、貴方は妥協してしまっているのね。妖夢達の足手纏いになる。そんなリスクが大きいから、自分が出しゃばるべきじゃないって……。そうでしょう……?」

「それは……」

 

 そう。紫の言葉は、概ね正しい。

 自分が前に出た所で、きっと足手纏いになる。だったら最初から出しゃばらなければ、結果として状況は良くなるに違いない。──いや、悪化する事はない、という表現の方が正しいだろうか。兎にも角にも、余計な事はしない方が最善なのだと。進一はそう()()()()()()()()()()から。

 

「だけど貴方は、その一方で居ても立っても居られない気持ちにだって駆られている。妖夢達が大変な事になっているのに、自分はこれで良いのかって……。そんな迷いが、胸中に生じてしまっているのでしょう……?」

「……っ。なぜそこまで判る? まさかお前も心が読めるのか?」

「まさか。ただ……。進一君って、よく観察すると意外と判りやすいというか」

「判りやすい……」

 

 何だそれは。そんなにも表情に出ていたのだろうか。

 

「だが……。まぁ、そうだな。確かにお前の言葉は的を射ている。俺は……」

 

 そう。

 進一は。

 

「正直、かなり焦っている。本当に、このまま待っているだけで良いのかと……」

 

 ギュッと、進一は無意識の内に拳を握りしめていた。一度そう口にすると、堰を切ったかのように感情が溢れ出て来た。

 そう。そうだ。確かに無理矢理納得して、進一はここまで行動を起こしてきた。自分でも出来る事をする、リスクと成り得る行動は避けるべきだと。そう何度も自分に言い聞かせ続けてきたのだ。

 けれども。そんなのは結局、ある種のこじつけでしかない。本当の進一は──。

 

「ああ、そうだ……。こんな状況、納得なんて出来る訳がないだろう……」

 

 進一は歯軋りをする。

 これまで表面上は装っていた平静が、徐々に崩れ始めてきて。

 

「俺は妖夢の力になりたい。俺だって妖夢を助けたい。()()()()()を見せられて、それでも尚ここで留守番なんて……。そんなの、我慢なんて出来る訳がない……!」

 

 未だに衝突を繰り返す力と力。その片方が妖夢である事は最早疑う余地もない。

 暴走しているのだと、紫はそう口にしていた。つまり妖夢は何らかが要因となって、自分が有する力の制御が出来なくなってしまっている。このまま暴走を続ければ、彼女の身にどんな影響が及ぶのかも分からない。

 そんな状況を目の当たりにして、冷静になれと言う方が無理な話だ。進一だってそこまで達観している訳ではない。所詮は学生に過ぎないのだから。

 

 しかし。

 

「だが……。俺には、力がない……」

 

 紫の言う通り、そんな障害だって進一は自覚しているから。

 

「そんな俺が出しゃばった所で、何も……」

 

 それ故に。

 岡崎進一は、何も出来ない。行動を、起こせない──。

 

「進一君……」

 

 心配そうに、紫が進一の名前を口にしている。

 判っている。自分があまりにも優柔不断である事くらい。そんなの、嫌と言うほど理解している。この期に及んで、想いを固め切る事が出来ないなんて。

 情けない。嫌になるくらいに。

 

「……迷っているのは、私も同じよ」

 

 ふと、紫がそんな事を口にした。

 納得が出来ない。けれども力がない。そう歯噛みする進一に同調するように、紫もまたポツリポツリと語り出す。

 妖夢と青娥。力と力のぶつかり合い。それを遠い目で眺めつつも、彼女はどこか苦し気に。

 

「私には、幻想郷の管理者としての責務がある。目の前に選択肢が突き付けられたのなら、その中で最も幻想郷の為になるものを選ぶべき。──そんなの、頭の中では理解していたつもりだったんだけどね……」

 

 そして紫は俯いてしまう。

 口惜しさを、滲ませて。

 

「でも……。ダメ、なのよ……。何をどう選択すれば最善なのか、今の私には判らなくなってきてる……。西行妖を開花させてはいけない。その為には、あの邪仙だけじゃない。幽々子だって止めなければならない……。それは判っているはずなのに、それでも何も出来ないの……。幽々子も藍も行っちゃって、私の言葉じゃ届かなくて……。最早私の力じゃ、どこにも届かないんじゃないかって……」

「紫、お前……」

 

 最善と成り得る選択肢を選ぶ事が出来ない。それは八雲紫という少女もまた同じである、という事か。

 ここまで足掻いて、必死になって。けれども彼女が伸ばした手は、結局空を掴む事になってしまっている。妖怪の賢者という大層な肩書を持っているのにも関わらず、それに見合った成果を上げる事が出来てない。それ故に突き付けられる無力感。

 

 彼女も同じだ。

 抱く気持ちは、進一と同じ──。

 

「だけど……」

 

 しかし、それでもと。紫は言葉を続ける。

 

「やっぱり私は、諦め切れない。妖夢の、あんな状態を見せつけられて……。せめて、せめてあの子だけでも、助けられないのかって……」

 

 八雲紫は顔を上げる。

 力を暴走させる魂魄妖夢。そんな彼女の姿を遠目で見据えて、悲痛そうな表情を浮かべて。けれども直後、彼女は改めて進一へと向き直る。

 

「ねぇ、進一君。確かに貴方は、この『異変』を解決できるような術は持っていないかも知れない。世界そのものの命運を左右するような、そんな大それた力なんて持っていないのかも知れない。でも、それでも……」

 

 毅然とした面持ちで、真っ直ぐに進一と目を合わせて。

 

「好きになった女の子を助ける力くらいなら、持っているはずでしょう……?」

「……っ!」

 

 紫の言葉が、深く、深く進一の心へと響いた。

 『異変』を解決する術。幻想郷を救えるような力。そんな大それたものなんて確かに進一は持っていない。力がないから足手纏いなる。多大な迷惑がかかる。だから出しゃばるべきではないのだと、そんな理屈ばかりが進一の脳裏を支配していた。

 ──けれど。

 

「あの状況から推察するに、今の妖夢は『狂気の瞳』が暴走している状態だと思うの……。永遠亭の薬師から貰った薬を、服用していたはずだけど……。多分、そんな薬の効力を上回ってしまう程に、あの子の感情は爆発してしまっている……。このまま放っておけば、あの子の精神は狂気に飲み込まれてしまうかも知れない……」

 

 暴走する妖夢の霊力と狂気の魔力。それを肌で感じながらも、進一は紫の言葉へと耳を傾ける。

 

「だから妖夢を助ける為には、あの子を狂気から解き放ってあげる必要があると思う……。あの子の激情を、抑え込んであげる必要があるのよ……。そして、進一君。貴方なら、きっとそれを成し遂げる事が出来るはず……」

「俺が……」

「ええ、そうよ……。今の妖夢へと、言葉を届ける事が出来るのは……。多分、貴方しかいない……」

「…………」

 

 ぎゅっと、進一は無意識の内に拳を握りしめていた。頭の中は、様々な感情でいっぱいになっていた。

 そう。そうだ。一体、何を迷っている? 一体何を躊躇っている? 妖夢が大変な事になっている。その事実を、眼前に突き付けられているというのに。それなのに、こんな所でウジウジと迷っている場合なのか?

 

 力がないだとか、戦う術がないだとか。そんな理屈なんてどうでも良いじゃないか。

 妖夢を助ける。助けられる。その可能性が、たった1%でも自分に残されているのなら。是が非でも、手を伸ばすべきであるというのに。

 

 それなのに。

 

(それでも、俺は……!)

 

 どうしても。

 ()()()を払拭する事が出来ない──。

 

「ありがとう、紫。お前の言葉は、俺にとっても確かに救いになっている……。こんな俺でも、妖夢の力になれるんだって……。そう、信じる事が出来るから……。だが、それでも……」

「進一君」

 

 絞り出すように言葉を続ける進一。けれどもそんな彼を遮るように、ぴしゃりと紫に名前を呼ばれる。

 進一は思わず言葉を呑み込む。今の紫の雰囲気は、これまでとはどこか違う。まるで、有無も言わせぬような勢い。そんな凄みが微かに伝わってくるような面持ちで。

 

「貴方は、少し優しすぎるのよ……」

「えっ……?」

 

 言うが早いか、紫はおもむろに敷布団から立ち上がる。これまで上体を起こすだけでもやっとだったはずなのに。体調だって、未だ万全とは程遠いはずなのに。足元をふらつかせつつも、紫は無理矢理立ち上がった。

 

「ゆ、紫……? お前、何を……!」

 

 無理をする紫に戸惑いつつも進一は彼女を制しようとするが、当の紫はまるで聞く耳も持たない。

 ふらつく足取り。そのまま彼女は縁側まで足を進め、開花する西行妖を改めて見据えて。そして彼女は、ゆっくりと腕を掲げる。

 

「万全じゃない。でも……。処理する情報を極端に絞れば、或いは……」

 

 ボソリと紫が呟くと、直後に彼女から妖力が放たれ始める。

 出力は不安定。普段の彼女からは考えられぬ程に弱々しい。けれどそれでも、紫は妖力の放出を止めない。無理矢理にでも、妖力を循環させて。

 

「…………っ」

 

 そして彼女は『能力』を行使する。

 普段は何食わぬ顔で扱っていたスキマ。それを彼女は必死になって構築し、そして目の前の空間に出現させた。スキマ妖怪たる彼女にとっての十八番と呼ぶべき能力であるが、けれども今の彼女はそれを行使するだけでもかなりの負担がかかってしまうらしい。

 肩を上下に揺らしている。息が上がり、顔色はますます悪くなる。それでも彼女は出来る限りの平静を装い、そして進一へと向き直って。

 

「私のスキマで、貴方を何とか妖夢のところへ連れていく。だから進一君は、あの子の事を助けてあげて……」

「っ。紫、お前……!」

 

 疑う余地もない。彼女は明らかに無理をしている。本当は立っているだけでも辛いはずなのに、それでも彼女は『能力』を行使しようとしている。まるで、自分は大丈夫なのだと。心配をする必要なんてないのだと。そう、進一に訴えかけるかのように。

 

「言ったでしょう? 進一君の気持ち、私にも何となく判るって……。今すぐにでも飛び出して、妖夢の事を助けたい。それが貴方の真意であるはず。それなのに、どうしてそこまで躊躇ってしまうのか……」

 

 そしてどこか、物悲し気な雰囲気を漂わせて。

 

「……()()()()、なのでしょう?」

 

 悲痛な感情が、彼女から伝わってきてしまって。

 

「私が、こんな状態だから……。だから放っておけないって、貴方はそう思っているのでしょう……?」

「……っ。そ、それは……」

「貴方のそれは、躊躇いというよりも葛藤……。妖夢を助けたいという気持ちと、私を放っておけないという気持ちがせめぎ合っている……。だから貴方は、自分の気持ちを押し殺してしまっているのよね……」

「……ッ!」

 

 それは違うと、すぐには否定できなかった。それほどまでに、紫の言葉は的を射ていたのだ。

 ああ、そうだ。確かに進一が動けない理由は、八雲紫という少女がある意味で起因している。けれども()()()()()などとは進一は微塵も思っていない。これはあくまで、進一が抱く気持ちの問題だ。それを紫に押し付けるなんて、そんな事は出来る訳がないじゃないか。

 

「……お前は何も悪くない。悪いのは、俺だ。お前の言う通り、俺は優柔不断にも葛藤している……。確かに、妖夢の事は絶対に助けたい。だが、だからと言ってお前を見捨てる事だって出来ない……。切り捨てる事なんて、出来やしないんだ……」

「…………」

「だから俺は、こんなにも……」

「違うわ……」

「はっ……?」

 

 言葉が遮られる。進一の思考が、そこで強制的に中断させられる。

 

「進一君の気持ちは、ありがたいけど……。でも……」

 

 進一の言葉を遮った彼女──八雲紫は、ふるふると首を横に振っている。違うんだ、そうじゃないんだと。彼女は進一にそう訴えている。

 

「私は、そんなの望んでいない……」

「っ。望んでないって……」

「貴方に助けて欲しいなんて、そんな事は頼んでない……」

 

 それは拒絶の言葉のようにも捉えられる。けれども彼女は、別に進一の厚意そのものを無下にしたい訳ではない。

 ただ、彼女は必死になって訴えようとしているだけだ。諭そうとしているだけだ。

 掘り起こそうと、しているだけなのだ。──岡崎進一の、真意を。

 

「確かに私は、一度敗北を喫する事になってしまった……。その所為で、貴方達に余計な心配をかけてしまった事だって……。それは、自覚している……」

「紫……。だが、それは……」

「良いのよ。事実として、私はこうして貴方達に迷惑をかけているのだから。私がもっと上手く立ち回れれば、こんな事にはならなかったかも知れない……」

「そんなの……。だからと言って……」

 

 だからと言って紫の所為という訳ではないだろうと、進一はそう伝えたかった。けれどもそれは出来なかった。言葉を繋げる事は出来なかった。

 なぜなら紫は、どこまでも必死だったからだ。必死の形相で、進一へと言葉を並べていたから。

 だから、遮れない。

 

「でも……。でもね、進一君。言ったでしょう? やっぱり私は、諦め切れないって……。私が不甲斐ない所為でこんな事になってしまったのなら、少しでもそれを挽回したい。……やられっ放しじゃダメなの。だから、ほんの少しだけでも良い。せめて、誰かの力になれれば……」

 

 「だから……」と、紫は続ける。

 

「進一君。貴方ももっと、素直になって……。私の事は気にしなくて良い。心配なんて必要ない。貴方は貴方の心が命じるままに、行動を起こしても良いのよ。……私はそれの、手助けをしたい。それが今の私にとっての願い、なのだから……」

「…………」

 

 息が詰まった。紫の想いを、否定する事なんて出来る訳がないかった。

 彼女はきっと、進一の背中を押してくれている。自分の所為で、進一が行動を躊躇ってしまっているのだと。そんな自覚を抱いてしまっているから、だからこうして無理矢理にでも振舞っているのだ。

 自分は大丈夫なのだと。進一の枷などにはならないのだと、そう進一に伝えたくて──。

 

(それなのに、俺は……)

 

 紫の事を放っておけない。そんな心配が、却って彼女の事を苦しめてしまっていた。進一はそれに気づかずに、こうして勝手に葛藤してしまっていたのだ。

 ──馬鹿か。何をやっている、自分は。結局は自分の事ばかりで、紫の気持ちに気づいてやる事も出来なくて。それで彼女に、こんな事を言わせてしまうなんて。

 

「紫、俺は……」

 

 進一は言葉を絞り出す。

 遅すぎるかも知れない。紫にこんな想いを抱かせてしまった事実は、今更覆る事はない。だけど、それでも──これ以上、紫に不義理をする訳にはいかないなら。彼女の想いを、否定する訳にはいかないのだから。

 

「俺は、妖夢の事を助けたい。妖夢の事を救いたい。だから……!」

 

 それ故に、進一は迷いを払拭する。

 心が命じる強い意思。ただそれだけを、しっかりと見据え直して。

 

「だから、頼む……。俺に、力を貸してくれ……」

 

 どれが正解かなんて判らない。何が最善なのかなんて、そんなのは判断できる訳がない。

 けれど、それでも。このまま自分の気持ちを押し殺し続けたとしても、決して良い結果には繋がらないのだと。それだけは、はっきりとしているから。

 

 それ故に、岡崎進一は自らの想いを吐露する。自分の心を、曝け出す事にする。

 そんな進一の言葉を、真正面から受け止めてくれた八雲紫は。

 

「……うん」

 

 仄かに、破顔して。

 

「任せて、進一君」

 

 そう言って、進一へと手を差し伸べてくれた。

 

 もう、これ以上は躊躇わない。これ以上、足踏みなんて続けない。

 妖夢を助けたい。それが進一の抱く真意だ。そして紫の想いを無駄にしない為にも、進一はそんな真意を貫くべきなのだ。

 故に進一は足を踏み出す。迷いも惑いも、一切合切払拭して。

 

 そして彼は、紫の手を取るのだった。




実験的にさらりとオリジナルスペルカードを混入させてみました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。