桜花妖々録   作:秋風とも

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第11話「出会いの記憶」

 

 今日の京都は一段と冷え込んでいた。

 ここ最近は気温が低い日が何日か続いてはいたが、今日は特に寒い。曇り空の所為で日光があまり降り注がない故に、気温が上がりにくいのだろうか。昼を過ぎても気温は殆んど上昇せず、夕暮れにもなればたちまち突き刺さるような寒さが襲いかかってくる。雪でも降ってきそうな気候である。

 

 外がそんな寒波の中。岡崎宅では、仰々しい叫び声が響き渡っていた。

 

「熱っ!? な、なんだよこれ! こんなにはねんのかよ!?」

「ちょ、ちょっとちゆり! 勢い良く入れすぎよ! はねるに決まってるじゃない!」

 

 原因は主にちゆりである。

 秘封倶楽部が主催のクリスマスパーティに招待された夢美とちゆりだったが、だからと言って準備も諸々任せっきりにする訳にもいかないだろう。一応、こちらの方が大人である。流石に全て丸投げというのは気が引ける。と、言う訳で。仕事を少し早めに切り上げた彼女達は岡崎宅に集まって、パーティ準備の手伝いをする事にしたのだ。

 

 そこまでは良い。問題はここからだった。

 パーティと言えば料理だ。取り敢えず手頃な料理から作ってみようと、そう思い立ったのが間違いだった。

 

「本当、ちゆりは料理ダメねぇ……」

「し、仕方ないだろ……。誰にでも、向き不向きがあるんだ。うん」

 

 北白河ちゆりは料理が大の苦手である。

 先に言っておくが、彼女は何も不器用という訳ではない。身の回りの事は何でもテキパキ熟すし、周囲への気配りも出来る。一人暮らしをしているだけあって、家事等もそれなりである。

 だけれども。なぜか、料理だけはどうしても駄目なのだ。

 

「大体、料理なんて別にできなくても良いだろ。世の中にはインスタント食品っていう便利な物があるんだぜ」

「ちゆり……あなたは本当にそれで良いの……?」

 

 フライドポテトを油の中に勢い良くぶち込んだちゆりが、なぜだか得意気な表情を浮かべている。どうやら彼女は、料理の腕を向上させる気など更々ないらしい。

 夢美は思わず頭を押さえた。

 

「一人暮らしなんだから、料理くらい出来た方がいいでしょ? インスタント食品ばっかり食べて……」

「何言ってるんだ夢美様。インスタント食品だって美味しいだろ」

「味じゃなくて、栄養バランスが問題なのよ。まったく……そんなんだから背も小さいし、胸も大きくならなかったんじゃないの?」

「なっ……それは言わない約束だぜ!」

 

 ちゆりがいきり立つ。彼女の前では、その手の話題は御法度である。

 しかし、まぁ。胸の大きさ云々以前に、インスタント食品ばかりの食生活は如何なものかとちゆりも多少は思う。健康面でもあまりよろしくないだろうし、やはりちゃんとした料理を食べた方が良いだろうと、それは分かっているつもりだ。

 けれども、料理の腕が上達する兆しすら一向に見えないのもまた事実。苦手なものは苦手なのである。

 

「あれだ。インスタント食品が美味し過ぎるのが悪い」

「はいはい、インスタント食品の所為にしない。この際だから、料理できるようになっちゃえば?」

「それができれば苦労しないぜ……」

 

 ちゆりは肩を落とす。これでも一応、それなりに料理の練習をしてみた時もあった。しかし、結果はご覧の有様である。その事実を目の当たりにした瞬間、ちゆりは悟った。料理は駄目だ、と。

 そもそも、料理なんて出来なくても問題ないじゃないか。死ぬ訳じゃあるまいし。

 

「時には諦めも肝心なんだ」

「あぁ……ちゆりの女子力が下がっていく……」

「ほっとけ!」

 

 料理の腕前と女子力を結び付けないで欲しい。大丈夫、料理以外の家事は出来るんだ。だから何も心配する事はない――はず。

 

 ちゆりがそんな阿保な事を考え始めた所で。ガチャりと、玄関の方から扉が開く音が響いた。

 二人は料理の手を止めて、一斉に顔を上げる。

 

「ん? 今のは……」

「進一達かしら?」

 

 確か進一達は足りない食材等の買い出しに行っていたはず。時間的に、彼らが帰ってきたのだろうか。何であれ、出迎えに行った方が良いだろう。――料理をしなくて済みそうだし。

 IHの電源を切った後、手を洗って玄関へと向かう。そこにいたのは案の定、妖夢と蓮子と――。

 

「……あれ? 進一は一緒じゃないのか?」

 

 両手に買い物袋を持った妖夢と蓮子。しかし進一の姿がどこにも見当たらなかった。

 ちゆりは腕を組んで首を傾げる。事前に遅れると告知したメリーがまだいないのは良い。だけれども、進一は妖夢達と共に買い出しに出かけたはずなのだ。そんな彼が共に帰ってきてないという事は、何かあったのだろうか。

 ちゆりが疑問を呈すると、妖夢達も困った表情を浮かべて、

 

「その様子だと、まだ帰ってきてないんですか?」

「……へ? あ、ああ……。帰ってきてないぞ?」

「そうですか……」

 

 そう言うと妖夢はしょんぼりとする。

 ちゆりが訝しげな表情を浮かべた。

 

「何かあったのか?」

「あ、あの、実は……」

「買い物してる途中に、進一君とはぐれちゃったんですよ。電話にも出ないし、先に帰ってきてるのかなぁと思ったんですけど……」

「はぐれた?」

 

 成る程、そういう事か。確かにこの時期、街中はいつにも増して人々で溢れかえっている事だろう。人波に揉みくちゃにされている内に、いつの間にかはぐれてしまったという事か。

 しかし、電話をかけても無反応となると――。

 

「あー、そう言えば進一、スマホ忘れていったみたいよ? 充電したまま、部屋に置き忘れてたみたいだけど……」

 

 そう口を挟んできたのは、少し遅れてキッチンからやってきた夢美である。

 何か電話に出られないような理由があるのではないかと思っていたが、意外と大した事はなかった。単純に、進一のうっかりとしたミスが原因なようである。

 

「なぁんだ、そうだったんですか」

「で、でも、安心するのは早くないですか? 進一さんがまだ帰ってきてないのは事実ですし……」

「いやー、大丈夫だろ。その内帰ってくるって」

 

 幼い子供ならともかく、進一は大学生である。たかがちょっと迷子になったくらいでは心配に及ばないだろう。まさか誰かに誘拐されたとか、進一に限ってそんな事はないだろうし。少し待っていれば、その内ひょっこり帰ってくるはずだ。

 そんな楽観的な思考のちゆりだったが、対する妖夢は未だに不安気な表情を浮かべている。まぁ、確かに。妖夢の性格上、ここまで心配してしまうのも仕方がないと言えばそうなのだが。この空気、どうにも居た堪れない。

 

「そ、そんなに心配するなって。ほら、こんな所でいつまでも突っ立ってるのもなんだし、さっさとパーティの準備を進めちゃおうぜ。料理とかもしなきゃならないしな!」

「そうねぇ。ちゆりの所為で全然進んでないもんね、料理」

「……そ、そう言うことだ」

 

 たじろぐちゆり。普段はちゆりの方から夢美に茶々を入れる事が多いのだが、今日ばかりは攻守交替である。しかし夢美の言っている事は確かに事実なのだから、おめおめと反論する事も出来ない。「ぐぬぬ……」と唸るのが精一杯だ。

 そんな二人のやり取りを前にして、ようやく妖夢も表情に綻びを見せてくれた。

 

「……そうですね。先に準備だけでも始めちゃいましょうか」

「うんうん! この際だから、進一君やメリーが来る前に出来る限り進めちゃうのも良いかも」

「確かにね。早いに越した事はないし。あ、そうだ。ちゆり、いい機会だし妖夢に料理教わってみたら? 」

「……、え?」

 

 夢美の唐突な提案。ちゆりは思わず苦い表情を浮かべてしまう。

 

「前にも話したと思うけど、妖夢って凄く料理上手なのよ。この子に教われば、きっとちゆりでも出来るようになるんじゃない?」

「料理ですか……。私で良ければ力になりますよ」

「い、いやあ……。私は……ちょっともう、料理は勘弁だぜ……」

 

 きっとこのままちゆりが料理をしたところで、原型すら留めていない黒焦げの何かがメニューに追加されるだけだろう。それならやるだけ無駄だろうし、食材も勿体無い事になる。

 そんな建前を並べてそそくさと逃げ出そうとするちゆりに向けて、夢美から冷ややかな視線が送られる。冷や汗を流しながらも、ちゆりは必死になって目を逸らす。

 

 そんなやり取りを続けながらも、四人は家の中へと足を踏み入れてゆく。

 ――激しく息を切らした一人の少女が駆け込んで来たのは、丁度その次のタイミングだった。

 

「みっ……皆、いる……?」

 

 ガタンと、突然響いたそんな物音が耳に流れ込んできて、ちゆり達は一斉に振り返る。ぎょっとして視線を向けると、そこにいたのは扉にもたれかかるような格好でぜえぜえと息を切らす、マエリベリー・ハーンだった。

 ちゆりの思考が一瞬だけ止まる。ここまで鬼気迫る様子で駆け込んで来たメリーの姿なんて、今まで見た事もなかったからだ。何かがあったのは明白であるが、混乱の所為か瞬時に言葉を発する事が出来ない。

 そんな中、真っ先に口を開いたのは蓮子だった。

 

「め、メリー……? 一体どうしたのよ、そんなに慌てて」

「た、大変なの……! 進一君が……!」

「……進一君?」

 

 息が詰まりそうになる程の、嫌な予感。それを認識した直後、ゾクリと、ちゆりの背筋に悪寒が走った。

 息も絶え絶えなメリーの様子だとか、何が起きているのかも分からぬ状態での理不尽な焦燥感だとか。確かにそれらが起因して愕然とする事しか出来ないのは確かだが、この悪寒の原因は別にある。丁度、ちゆりの背後に立っていた彼女の上司。岡崎夢美に、その原因はあった。

 

「……進一が、どうかしたの?」

 

 今まで感じた事もないような、低いトーンの声色。そんな夢美に促されて、メリーは息を整えながらも状況の説明を始めた。

 

 

 ***

 

 

 何が何だか、訳が分からない。妖夢が真っ先に抱いたのは、そんな印象だった。

 いつになく必死な形相でメリーが口にした内容。要約すると、進一が行方不明になってしまったとの事だった。

 だけれども、事はそんなに単純じゃない。ただ単に進一の行方が分からなくなってしまった訳ではなく、他でもない彼自身が自ら姿を眩ませたという。今の今まで確かに目の前にいたはずなのに、気がついたら忽然と姿を消してしまったと。そうメリーは説明している。

 

「先にパーティを始めててくれって、そう言い残して……」

「な、何よそれ……。進一君、どうして……!」

「でも、おかしいのよ……! いつもの進一君じゃない、何か物凄く変な感じがしたと言うか……」

「変な感じ? 一体どういう事だ?」

「それは……私にも、よく分からないんですけど……」

 

 妖夢は息を呑む。

 確実に言える事は、少なくとも妖夢達とはぐれてしまった直後に進一の身に何かがあったと言うことだ。メリーがここまではっきりとした違和感を覚える程に、進一が変貌してしまう何か。その何かが原因となって進一の心境が変化してしまったのか、それとも。

 

(誰かが進一さんの心に介入した、とか?)

 

 無論、それは幻想郷で日々を過ごしてきた妖夢だからこそ抱ける推測である。こちらの世界における常識的に考えて、その推測は少しばかり現実味に欠けている。一応、こちらの世界でも所謂マインドコントロールのようなものが話題になる事もあるようだが――。正直に言って、そのどれもが眉唾物であるらしい。

 それならば、この推測は捨てるべきなのだろうか。

 

(いや、でも……)

 

 今の妖夢では、そう簡単にその推測を捨てる事ができない。現に妖夢は、現実味に欠けた非常識的な出来事を、既にこちらの世界で体験している。

 古明地こいし。もしも、他人の心や感情に干渉できるような能力を、彼女が持っていたとすれば――。

 

「それに……まだ、気になる事があって……」

 

 妖夢が黙り込んで考えていると、メリーの説明が次の話題に移行した。固唾を呑んで、妖夢もその説明をしっかりと頭の中に刻みこもうとする。

 

「進一君のあの眼……。“能力”を使い続けていたみたいなのよ。それも、かなり長時間……」

「……へっ?」

 

 予想外の単語を前にして、妖夢は思わずそんな声を漏らしてしまった。

 能力、だって? 一体なんの事だろう。

 

「能力って……。見間違いじゃないの?」

「見間違えたりなんかしないわ! だって、あれは……!」

「だとすると進一の奴、一体なんのつもりだ? 態々能力を使うなんて……」

 

 話がどんどん進む中、唯一事情を知らない妖夢だけが完全に置いてけぼりにされている。悶々とした気持ちが徐々に高ぶり、ジワジワとやるせなさが強くなってゆく。

 意を決した妖夢が、彼女達に状況の説明を求めようとするが。

 

「メリー。最後に進一を見かけたの、駅前だったのよね?」

 

 それよりもワンテンポ早く、夢美が先に口を開いてしまった。

 今の今まで黙り込んでメリーの説明を聞いていた夢美だったが、一歩前に出た後にようやく言葉を音にする。けれども、いつもの彼女のような調子とは違う。思わず妖夢も身を引いてしまうような凄みさえも感じられる。妖夢は口を開くタイミングを完全に失ってしまった。

 

「は、はい……。駅前で話して、それ以降は……」

「……そう」

 

 そのやり取りが最後だった。

 夢美はそのまま何も言わずに歩き出し、扉に凭れたままのメリーの横を素通りする。無言のまま家の外へと足を踏み出した夢美を見て、ちゆりが真っ先に声を張り上げた。

 

「お、おい待てよ夢美様! どこに行くつもりだよ!?」

「決まってるでしょ。進一を捜しに行くのよ」

 

 当然だと言わんばかりにそう口にする夢美に対し、ちゆりも負けじと食らいつく。

 

「捜しに行くって……。あいつがまだ駅の付近にいるとは限らないだろ? それに、メリーの話を聞いた感じじゃ、今回の件はどうにもきな臭い。だから迂闊に動き回るのは……」

「そんなの、関係ないわよ……!」

 

 けれども夢美は全くと言っていいほど聞く耳を持たなかった。ちゆりの説得も効果はなく、吐き捨てるようにそう言い残すと夢美は形振り構わず走り出す。

 後先何も考えていないような夢美の行動を前にして、ちゆりは思わず頭を掻きむしってしまった。

 

「あぁ、もう……! 本当に世話のかかる教授だぜ……!」

 

 確かに。たった一人の弟が行方不明になってしまったとなれば、取り乱してしまうのも無理はないと言える。けれどもだからと言って、あんな風に一人で勝手に突っ走るのは良い判断とは言えない。がむしゃらに動き回った所で事態は一向に好転しないだろうし、寧ろ悪化するおそれもある。

 苛立ちを抑えるかのように深い溜息を一つつくと、ちゆりも夢美を追いかけて走り出した。

 

「ち、ちゆりさん……!?」

「私は夢美様の跡を追う! お前たちはここで待ってろ! 進一の方から帰ってくる可能性もあるからな!」

「ま、待ってろって……!」

 

 狼狽する妖夢を横目に、それだけを言い残してちゆりも走り去ってしまった。

 未だに息を切らしたままのメリーと、思案顔の蓮子。そして茫然自失とする事しか出来ない妖夢だけが取り残され、辺りに一瞬だけ静けさが訪れる。

 

 なんだ、これは。頭の中がこんがらがりそうだ。一体、進一の身に何が起きていて、彼は今どこにいるのだろうか。それに、進一の持つ“能力”とは――?

 あまりにも多くの聞いた事もない情報を提示されて、妖夢の頭はパンク寸前だ。彼女が頭を抱えていると、ようやく息を整えたメリーがよろよろと立ち上がって、

 

「わ、私も……進一君を、捜しに……!」

「駄目よ。ちゆりさんも言ってたでしょ? 私達はここで、進一君が帰ってくるのを待たなくっちゃ」

「そんな……! ただジッと待ってるだけなんて……!」

「落ち着いてよメリー。らしくないんじゃない? いつもはメリーが私の方を宥める役なのに」

「……!」

 

 メリーは俯いて下唇を噛み締める。確かにここまで取り乱すなんて、メリーらしくない。それ程までに、彼女が目の当たりにした進一の状態は異常だったのだろうか。

 だとすると、ますます気になって仕様がない。一体全体、進一は妖夢の知らない何を持っているのだろうか。

 

「あ、あのっ……!」

 

 もう我慢の限界だ。ただ一人だけ蚊帳の外だなんて、いつまでも耐えられる訳がない。

 

「一体、何が起きてるんですか……!? 進一さんの能力って、何の事なんですか!? お願いします……私にも教えて下さい!!」

「妖夢ちゃん……」

 

 声を張り上げた妖夢の訴えを聞いた蓮子が、帽子の鍔を掴んで深く被り直す。束の間の思案の末、彼女が導き出した答えは。

 

「……そうね。妖夢ちゃんには話しておくべきかもね」

「ちょ、ちょっと蓮子、そんな勝手に……」

「妖夢ちゃんだって秘封倶楽部の一員よ。それなのに、いつまでも隠し事をし続けるなんてやっぱり良くない事だと思う。きっと進一君だってそれは分かっているはずだわ」

「そ、それは……」

 

 帽子の鍔を掴んだままで、蓮子は続ける。

 

「妖夢ちゃん。先に注意しておくけど、今から話す事はあくまで私の客観よ。私だって、進一君の気持ちを完全に理解している訳じゃないと思う。それを踏まえた上で聞いてくれる?」

 

 蓮子の確認。妖夢は何も言わずに、首を縦に振った。

 そこでようやく、蓮子は帽子の鍔を持ち上げる。それからポツリポツリと、

 

「それじゃ、話そうか」

 

 彼女は静かに、口を開いた。

 

「進一君と初めて会った時の事。そして、進一君の『眼』の事を」

 

 

 ***

 

 

 あれは、満開の桜が咲き誇る季節の事だった。

 4月。つい先月までの卒業シーズンとは打って変わり、今は入学シーズンの真っ只中だ。それは即ち全く新しい環境のスタート地点であり、心機一転、新たな一歩を踏み出す時期だと言う事である。ついこの前までの自分から一皮剥け、精神的にもより大きくなったかのような心地になる。皆誰もが新たな環境に立たされた自分の姿を夢想し、その未来に希望と期待を抱く。

 そんな風に数多くの人々が胸の高鳴りを覚えている中で。その少女は一人、焦燥感を抱いていた。

 

「さ、流石にマズイかなぁ……!」

 

 宇佐見蓮子である。

 今日は遂に、大学の入学式当日だ。一日十数時間に及ぶ受験勉強漬けの日々の先に勝ち取った、志望校への道。思い返せば辛い事も多々あったが、それら全てが無駄にはなっていなかった事に気がつく。諦めずに努力を続けて良かったと、今になってしみじみと感じていた。

 

 だけれども、今はそんな達成感に浸っている余裕はない。時計を見ると、もう直ぐ入学式が始まる時間帯。しかし蓮子は未だ会場からはだいぶ離れた場所にいる。

 端的に言ってしまえば、遅刻である。

 

(あっれぇ? おかしいなぁ……結構余裕あったと思うんだけどなぁ)

 

 そんなことを考えながらも、足早に会場へと向かう蓮子。彼女の考える『余裕』は一般的に言う『余裕』とはかなりの差異があるのだが、残念ながら蓮子本人にそんな自覚はない。それ故に、こうも時間感覚がおかしな事になってる訳だが――。

 

 そんなこんなでやっとこさ辿り着いた入学式の開催場所。そこは所謂コンベンション・センターのような施設だった。かなりの規模を誇る施設であり、多くの参加者を受け入れても尚余裕が残る程だ。大学の入学式を行うのに、とても適した会場と言えるだろう。

 

 入学式の開始時間を大幅に過ぎた状態で会場に到着した蓮子の心境は、ある種の悟りの境地にまで達していた。なんかもう、別にどうでも良いんじゃないか。この際正面から堂々と入場しちゃっても良いんじゃないかと、そう思えてくる。

 

「ふぅ……。人間、追い詰められると逆に落ち着いてくるのねぇ……」

 

 そんなふわふわとした心境でいけしゃあしゃあと普通に入場した所、案の定、瞬く間に変な注目を集めてしまった。四方八方から向けられるのは、呆れ果てたかのような冷やかな視線ばかり。入学式当日からいきなり遅刻など、普通に笑えない状況である。

 一度開き直った蓮子でも、流石にこの状況は居た堪れなかったらしい。そそくさと逃げるように歩調を早め、さっさと空いている席につく。隣に座っていた青年に、明け透けに失笑された。――蓮子は萎縮した。

 

「あっ……え、えっと、違うのよ。なんて言うか、その……ちょ、ちょっと油断しちゃってね?」

 

 思わず蓮子は青年にそんな弁解をしてしまう。初対面の青年にこうもはっきり笑われてしまうと、流石の蓮子も少し傷つく。

 対する青年は、拳で口元を隠しながらも、

 

「いや、すまん。まさか入学式からこうも大胆に遅刻する奴がいるなんてな」

 

 謝罪を口にしてはいるが、笑いを堪えている為か口調は随分とヨレヨレである。今も尚、くつくつと喉を鳴らして笑い続けている。どうやら真面目に謝る気はないらしい。

 流石に蓮子はムッとして、頬をふくらませた。

 

「ちょっと。そこまで笑う事ないんじゃない?」

「だから、悪かったって」

 

 そう言う青年の目尻には、笑い過ぎて涙が滲んでいる。そんなに面白かったのだろうか。正直不服である。

 確かに、こうも大胆に遅刻した蓮子も悪いのだが、だからと言ってここまで笑うのも如何なものか。初対面の女の子を相手に、何と言うか。――大人気ない。

 まったく。どこのどいつだ、この青年は。

 

「……ねえ」

「……うん?」

「私は蓮子。宇佐見蓮子」

「……なんだよ、急に」

「貴方の名前、教えてよ」

 

 せめて名前だけでも聞いておきたい。しかしそうは言っても一方的に名乗らせるのは後味が悪いので、ぶっきらぼうだが蓮子の方からも名乗っておく事にする。

 対する青年は少し困惑しているような表情を浮かべつつも、

 

「……岡崎進一」

「……岡崎?」

 

 聞き覚えのある苗字が聞こえて、蓮子は思わず食いついてしまった。

 岡崎と言えば、蓮子が個人的に尊敬しているとある教授と同じ苗字である。まぁ然して珍しくもないので、同じ苗字の人物など幾らでもいそうではあるが。

 

「へぇ……。夢美教授と同じ苗字ね」

「ああ。姉弟だからな」

「そうなんだー。……えっ?」

 

 いや、ちょっと待って。今、彼は何と言った?

 

「きょ、姉弟……? 弟さん?」

「ああ」

「……本当に?」

「いや、嘘ついてどうすんだよ」

 

 蓮子にジト目を向ける彼の様子は、本当に嘘をついているようには見えない。確かに言われてみれば、彼の容貌にはどこか夢美の面影があるような。

 それじゃあ、本当に――。

 

 そこまで頭で理解した途端、蓮子は()()()()()()

 

「ええええええっ!?」

 

 ガタリと物音を立てて椅子から立ち上がり、蓮子は思わず声を張り上げてしまった。直後、再び周囲の視線を集めている事に気がつき、慌てて座り込む。しかしそれでも彼女の心境は高揚したままだ。

 まさか、目の前にいるこの青年が、夢美の弟だったなんて。

 

「お、おい。リアクションデカすぎるだろお前……」

「そ、そんな……! 教授の弟さんが、私の目の前に……! ひょっとして、夢でも見てるんじゃ……!?」

「いや聞けよ」

 

 青年――進一が何かを言っていたが、そんな言葉は蓮子の耳に届かない。

 夢なのか否かを確かめる為に、彼女は自らの頬をつねって思い切り引っ張ってみる。

 

「い、痛! 痛い!? 夢じゃない!?」

「だ、大丈夫かお前」

 

 傍から見れば奇妙極まりない蓮子の行動を前にして、進一もドン引きである。自分で自分の頬をつねって痛いと声を上げるなど、冷静に考えて素っ頓狂な行動だが今の彼女にそこまで気を回す余裕はない。胸の高鳴りを抑える事ができず、蓮子は進一に飛びついた。

 

「わ、私、夢美教授の事すっごく尊敬しているのよ!」

「お、おう……。そうか」

「比較物理学を専攻し、極めてオカルティズムに近い観点から物理的現象を紐解いてゆくその研究スタイル……! きっと教授は、歴史に名を残す程の偉大な物理学者になるわ!」

「誇張し過ぎじゃないか? 姉さんはそこまで凄い奴じゃないと思うんだが」

 

 目を逸らしながらも、冷めた口調でそう口にする進一。弟であるが故に謙遜している――と言うよりも、蓮子のハイテンションに気圧されている様子。

 そんな進一の心境など全く気にしない様子で、蓮子は続ける。

 

「ねえ、やっぱり貴方もオカルト好きだったりするの?」

「……は?」

「だって教授はオカルトに精通しているでしょ? それなら、貴方も興味があるんじゃないかなーって」

「いや。俺は姉さんと違って、オカルトには興味がない」

「えっ……興味ないのっ!? 意外ね……」

 

 進一がローテンションと言うか、受け答えがクールな所為で蓮子のテンションがよりハイに感じる。蓮子はついさっきまで進一に悪い印象を抱いていた事などすっかり忘れているようで、瞳をキラキラとさせながらも楽しげに話し続けている。

 ――ところで、今は入学式の真っ最中なのだが、その事を蓮子は覚えているのだろうか。

 

「よし、分かったわ。それじゃあ、今から私がオカルトの魅力を貴方に教えてあげる!」

「へっ? いや、俺は別に」

「大丈夫よ。直ぐに貴方もオカルト好きになると思うから!」

「だから、そう言う事じゃなくてだな……」

「いい? そもそもオカルトというものは……」

「お前はあれか。人の話を聞かんのか」

 

 入学式の真っ最中でこの状況は流石に流石にマズイと。そう判断したらしい進一が蓮子を宥めようとしたのだが、当の彼女はまるで聞く耳持たない。蓮子は一度スイッチが入ると、周りが見えなくなってしまうのである。周囲の事など気にも留めず、蓮子は一心不乱にオカルトの魅力を語り始める。

 

 それからは。周囲の視線を気にしながらも諭そうとする進一を自然にスルーしながらも、蓮子はマシンガントークを続けるのだった。

 

 

 ***

 

 

「いやー、さっきは随分と話し込んじゃったわねぇ……」

 

 入学式及びその後のガイダンスも終わり、蓮子は一人、大学構内を歩いていた。

 あれからほぼ一方的に喋り続けていた蓮子だったが、横を通りかかった職員と思しき人物があからさまに咳払いをした所で、彼女のマシンガントークにピリオドが打たれる事となった。

 今になって思い返してみると、流石にちょっぴり恥ずかしい。昔から蓮子は一度テンションがハイになると周りが見えなくなってしまう節があるのだが、今回はそれが露骨に悪い結果を導いてしまったらしい。今度からもう少し気を配ろうと、蓮子は密かに決心した。

 

(うーん、でも教授の弟さんともっとお話ししてみたかったな……)

 

 入学式場から大学キャンパスへと移動する途中で、教授の弟さんこと岡崎進一とは完全にはぐれてしまった。叶う事なら色々と話を聞いてみたかったのだが、こればかりは仕方ない。どうせ同じ大学なのだし、いずれまた会える機会だってあるかも知れない。

 

 それはさておき。蓮子が向かっているのは、大学のとある研究棟。その5階部分に位置する研究室である。何を隠そう、そこはあの岡崎夢美教授の研究室なのだ。事前にアポを取る事に成功した蓮子は、入学式とガイダンスが終るや否や、いの一番でその研究室へと向かっていた。

 憧れの教授とのご対面だ。胸の高鳴りを抑えろと言う方が、無理な話である。

 浮き足立った足取りで目的の研究所前まで辿り着くと、そこには既に先客がいた。

 

「……ん?」

 

 艶のある金色の、セミロングヘアの少女である。決して低くない身長に、起伏のある体つき。若干の幼さを残しながらもスっと整った顔立ちは非常に端正で、思わず目を向けてしまうような魅力を持っている。どことなく不思議な雰囲気を装う少女だった。

 

(……誰だろ?)

 

 フォーマルな女性物のスーツ姿である事から、おそらく蓮子と同じようについさっきまで入学式に出席していたのだろう。となると、蓮子と同い歳の学生なのだろうか。

 そんなブロンドヘアの少女は、何やら困ったような表情を浮かべて研究室を見つめている。一体、彼女は何をしているのだろうか。教授に用があるのなら、あんな所で立っていないで中に入れば良いと思うのだが。

 

「こんにちは。貴方も教授に用があるの?」

「……へ?」

 

 取り敢えず声をかけてみる事にした。ブロンドヘアのその少女は、きょとんとした様子で振り向いて、

 

「え、ええ。確かに、そうなのだけど……」

「……? なら入れば良いんじゃない?」

「え? い、いや、それは……」

 

 どうにも歯切れの悪い受け答えをする少女。なぜそんなにも躊躇するのだろう。何か理由があるのだろうか。――ひょっとして、一人で入るのが小恥ずかしいとか?

 

「まぁいいわ。それなら、私がお先に失礼するわね」

「あっ……。ちょっと、今は止めた方が……」

「こんにちはー! 来ましたよ教授ー!」

 

 少女が何かを言ってたような気がするが、それが耳に届くよりも先に蓮子は研究室の扉をガラリと開けてしまった。

 ――直後、蓮子は思わず息を呑む事になる。

 

「…………、え?」

 

 無造作に倒れた椅子と机に、部屋中に散らばったプリントや本などの紙類。それに混じって研究室にはあまりにも似つかわしくない不気味で奇妙な人形やら御札やらが確認出来るが、あれは一体何を意図しているのだろうか。しかしそんなものよりも、一際目を引くものが――。

 床にブッ倒れて完全に伸びている真っ赤な髪の女性と、パイプ椅子を肩で担いだ金髪のツインテールの女性だった。

 

「……え?」

 

 あまりにもカオスな状況を前にして、流石の蓮子も頭の処理が追いつかない。えっ? なんでこんなに散らかってるの? と言うか倒れているあの人って夢美教授? ちょっと待って、ツインテールのあの人は何でパイプ椅子なんて担いでいるの?

 そんな思考を繰り返し、彼女が導き出した結論は一つ。

 

 どうやら、見てはいけないものを見てしまったようだ。

 

「…………」

 

 何も言わずに、そっと。蓮子は扉を閉める。引き吊った表情を浮かべて横を見ると、ブロンドヘアのあの少女と目があった。

 

「だから言ったのに」

 

 

 ***

 

 

 ブロンドヘアのその少女は、名をマエリベリー・ハーンというらしい。その容貌に違わず外国人のような名前であるが、彼女曰く海外よりも日本にいる期間の方が長いとの事。お陰で喋る日本語はとても流暢で、意思の疎通も問題なく出来る。それどころか、普通に日本人と話しているのと変わらない感覚である。性格はどちらかと言えば淑やかで落ち着いており、活発的な蓮子とはまるで正反対とも言えるだろう。

 

「えっと……、なんて呼べばいいかしら? マエリ、ベリー……さん?」

「噛み噛みね。そんなに発音しにくいかしら?」

「それは、まぁ……。そうね……、それじゃあ……メリー。うん、そうよ、貴方は今日からメリーね!」

「め、メリー……? ま、まぁ、好きに呼んでくれて構わないけれど……」

 

 と言う訳で。メリーことマエリベリー・ハーンと蓮子は、意外にもすぐに意気投合する事ができた。表面的な性格こそほぼ正反対であるものの――いや、正反対であるが故に、上手く噛み合ったといった所か。共通の趣味などもあったりして、会話が弾んだのも大きい。

 出会って間もないのにも関わらず気軽に会話が続けられるようになった所で、蓮子は思い切ってメリーに尋ねてみた。

 

「ところで、さっきから気になってたんだけど……」

「……夢美さんの事?」

 

 コクりと蓮子が頷くと、メリーは苦笑いを浮かべていた。やはりそこを聞いてくるのか、と。

 

「えっと……、実は色々と訳があって……」

「訳?」

「ええ……。その……」

 

 再びメリーの歯切れが悪くなる。話したくないと言うよりも、話して良いのかどうかに戸惑っているかのような。そんな印象を受ける。

 

「……笑わない?」

「……? よく分からないけど、多分大丈夫よ。私はある程度の事なら受け入れられるから」

「そう……」

 

 意を決したように、メリーが顔を上げる。そして、ポツリポツリと、

 

「信じてもらえないかも知れないけれど……。実は私、不思議な能力を持っているのよ」

「……能力?」

 

 意外な単語が飛び出してきて、蓮子は思わずオウム返しをしてしまった。

 能力。しかし例えば身体能力とか、そう言った類の物とは違うのだろう。おそらくニュアンス的に、誰もが持っているような力とは違う。例えば、所謂“超能力”、とか。

 

「それで、夢美さんがオカルトにも精通してるって聞いて……。話を聞いてもらおうと……」

 

 メリーがそこまで言いかけた所で。ガラリと大きな音を立てて、突然研究室の扉が開け放たれた。何事だと反射的に目を向けると、そこにいたのはパイプ椅子を担いでいたあの女性。

 

「よーし、もう入って来ても大丈夫だぜ。……ん? 一人増えてるな」

 

 ツインテールのその女性が、蓮子に視線を向けながらもそう口にする。対する蓮子は、ぺこりとお辞儀をしながらも、

 

「初めまして、宇佐見蓮子です。事前にアポを取っていたと思うんですけど……」

「あぁ、そうか。話は聞いてるぜ。私は北白河ちゆり。まぁ一応、夢美様の助手だな」

「……助手?」

 

 成る程、助手かぁ、などととすんなり納得できる程、蓮子も単純じゃない。それ以前に、そもそも研究室内のあのカオスな空間は、一体なんだったのか。そこの所を説明して貰わなければ、納得できる物もできなくなる。

 

「取り敢えず、二人共入ってくれ。もう安全だと思うからさ」

「へ? 安全って……」

 

 蓮子が確認するよりも先に、ちゆりは研究室の奥へと消えてしまう。流石の蓮子も頭の整理が追いつかない状況だ。一体どういう事なのか、誰か説明して欲しい。視線でメリーにそう訴えかけると、彼女は肩を窄めた。

 

「私が説明するよりも、夢美さんやちゆりさんに聞いた方が早いと思うわ」

「そ、そうなの?」

 

 と言う訳で、蓮子はメリーと共に研究室へと足を踏み入れる。一応片付けはしたようでさっきのように散らかってはいなかったが、研究室には似つかわしくない禍々しい物品の存在感は健在である。

 そんな奇妙な空間の中、椅子に座ってしょんぼりと項垂れている女性の姿が一つ。

 

「ほら、夢美様。マエリベリーに謝ったらどうだ?」

 

 岡崎夢美その人だった。

 ついさっきまで完全に伸びていた夢美だったが、今は意識を取り戻してこうして椅子に座っている。ちゆりがそう促すと、彼女は慌てて立ち上がって、

 

「わ、分かってるわよ……! ご、ごめんなさいね。好奇心が刺激されちゃって、つい……」

「へ? あ、いや、まぁ……。もう過ぎた事ですし……」

 

 そんなやり取りを目の当たりにして、蓮子は思わず首を傾げた。会話の内容から察するに、蓮子が来る以前にメリーと夢美の間に何かがあったのだろうか。――ちゆりが間に割って入って、夢美をパイプ椅子でぶん殴らなければならない程の何かが。

 

「あのー……」

 

 いつまでも蚊帳の外というのは居心地が悪いので、控え目に蓮子の方から声をかけてみた。

 

「おう、そうだった。夢美様、事前にアポ取ってたっていう……」

「……あー! 成る程、あなたが蓮子ね?」

「はいっ! よろしくお願いします!」

 

 憧れの教授と話ができて蓮子は思わず嬉々として受け答えするが、取り敢えず今は状況を知る事の方が先決だ。何がどうなって、ああなったのか、非常に気になる。

 

「あの、何があったんですか? 何か、凄い混沌としたものが見えたような気がしたんですけど」

「あぁ……。やっぱり、それ聞いちゃう?」

「聞いてくれよ。夢美様がさぁ……」

「えっ、ちょっ……話すの!?」

 

 曰く。マエリベリー・ハーンの能力は、『結界の境界が見える程度の能力』というものらしい。本来見えるはずのないものを視覚し、その存在を認識する事ができる能力。世界の法則の数々が次々と紐解かれてゆくこの時代で、彼女自身も未だにその本質を上手く掴めずにいる『眼』。オカルトに精通している夢美なら、何か分かるんじゃないかと。そんな期待を抱いてメリーはこの研究室を訪れたであるとの事。

 曰く。メリーのその話を聞いて、何と言うか。夢美が()()してしまったらしい。彼女はあまりにも好奇心に忠実で、時には自制も効かなくなる事があるから。メリーの『眼』を、もっと詳しく調べてみたくて。つい、飛び出してしまったとの事。

 曰く。暴走する夢美を目の当たりにしたちゆりが、彼女を制止させる為に間に割って入ったらしい。そしてあの状況に至る、という訳だ。

 

「結局こいつの能力に関しては、私達も大した情報も持ってなかったからな。夢美様が一人で勝手に暴走して、それで終わりだぜ」

「うぅ……だってぇ……」

「だってもヘチマもあるかよ。本当に反省してんのか?」

 

 ところで、ついさっきちゆりは自らを夢美の助手だと名乗ったはずだが。どこからどう見ても、夢美の方が上司だとは思えないのだが。

 

「……能力に関しては、本当に何も分からないのよ。科学的、そして物理学的に世界の法則が解明され尽くされたはずのこの現代でも、たまにそんな常識とはかけ離れた力を有する人間が出てくる事がある。そんな事実を目の当たりにしても、殆んどの学者達は眉唾だって思っているみたいだけど」

 

 片手で頬杖をつきながらも、夢美がそう語る。

 確かに。この現代にだって、未だに不思議は存在する。その最もたる例が、今まさに夢美も言っていた『能力』である。

 論理的に、そして極めて法則的に回ってゆくこの世界で。その因果から外れてしまったかのような、非常識的な存在。それは確かにこの現実世界に実在する。――あまりにも実感が薄すぎて、殆んどの人々には受け入れられてはいないのだけれども。

 

「きっと世界の隅々までを知りすぎて、逆に頭が固くなっているのかも知れませんね。だからみんな受け入れられずにいる」

「へぇ……。面白い考え方ね。それじゃあ、蓮子は信じるの? 能力の事」

「ええ、そりゃもう。だって他でもない、私だって変わった能力を持ってますし」

「…………えっ?」

 

 途端に。シーンと、場が静まり返った。

 

「……あれ? 私、なんか変な事言いました?」

「い、言ったわよ! え? 何? 能力がある? そんなにサラリと言う事じゃないでしょ!?」

「ほ、本当? 本当に蓮子にも能力があるの?」

「うん。私の能力は、言うなれば『星を見ただけで今の時間が分かり、月を見ただけで今居る場所が分かる程度の能力』」

「随分と長い名前だな、おい……」

 

 名前の長さなんて関係ない。取り敢えず一目見ただけでどんな能力か分かればそれで良いと、蓮子はそう思っている。

 

「……聞いた感じ、この子と同じく『眼』に関する能力なのかしら?」

「うーん、そうかも知れませんね。でもメリーの『眼』の方が気持ち悪いと思いますよ?」

「は、はっきり言うのね貴方……。私に言わせれば、蓮子の『眼』の方が余程気持ち悪いと思うのだけど?」

「あー、いや、別に貶している訳じゃないのよ。寧ろ羨ましいくらいだわ。気持ち悪ければ悪い程、それだけ非常識的だっていう事でしょ?」

 

 宇佐見蓮子は良くも悪くも、物理学者気質の人間である。物理学の終焉を迎えたこのご時世、それでも尚溢れ出る探究心の捌け口を、彼女は求めている。けれども物理的現象の構造は、その殆んどが紐解かれてしまっているから。それ故に、彼女は残された不思議の可能性であるオカルトに期待を抱く。

 宇佐見蓮子は、非常識に憧れを抱いているのだ。

 

「な、なんて言うか……。蓮子の話を聞いていると、自分の能力にちょっとでも不安を抱いてたのが馬鹿みたいに思えてくるわ……」

「大丈夫よ、不安になんかならなくたって。折角素敵な眼を持ってるんだから、もっとポジティブに考えなきゃ」

「ふふっ……。貴方が言うと、説得力があるわね」

 

 楽しげに蓮子が答えると、それにつられてメリーも破顔する。

 メリーは少なからず自分の『眼』に不安を抱いていたようだが、蓮子のそんな話を聞いてだいぶ前向きに考えられるようになってきたらしい。同じように『眼』に関する能力を持っている蓮子だからこそ、そして良い意味で楽観的で前向きな彼女だからこそ。メリーの心にその言葉は響く。

 

「あなた達、仲良いのね」

 

 そんな様子を眺めていた夢美が、微笑ましげにそう口にする。

 メリーとはついさっき会ったばかりだが、きっと良い友達になれると蓮子は思う。こんなにも簡単に意気投合できたのだ。彼女となら、蓮子が密かに抱いていたとある()()も実現できるかもしれない。

 世界の不思議を探求する、オカルトサークルの結成を。

 

「ところで、メリーって何の事?」

「あっ、いえ……。私のニックネームみたいなもの、らしいですよ。蓮子曰く」

「あぁ……。成る程ね」

 

 

 ***

 

 

「あ、そう言えば教授。入学式の会場で、教授の弟さんに会いましたよ!」

 

 夢美達に様々な話を伺っていた途中。ふと入学式での出来事を思い出した蓮子が、夢美にそう切り出した。

 

「進一に?」

「はいっ! もうびっくりしましたよ。まさか同じ大学だったなんて」

「へぇ……。夢美さんって、姉弟がいたんですか」

 

 そう言えば、進一には初対面なのにいきなり明け透けに失笑された事を思い出す。まぁ、あれは大胆に遅刻した蓮子が悪いと言えばそうなのだが、だからと言ってもう少し隠してくれても良かったのではないか。流石にちょっぴり傷つく。――そんな事も、夢美の弟だったと判明した時の驚きと興奮ですっかり忘れていたのだが。

 

「どう思った? 進一の事」

「うーん……。ちょっぴりクールな所がありますけど、でも良い人でしたよ! もっとお話ししてみたかったなぁ……」

「……そう」

 

 何だかんだ言っても蓮子の話をしっかりと聞いてくれたし、彼が人の良い性格をしている事は間違いない。できる事ならば、彼も蓮子の考えているオカルトサークルに勧誘してみたい。

 そんな事を、蓮子が考えていると、

 

「……そうね。『眼』に関する能力を持っている、あなた達なら……」

「……へっ?」

 

 今、夢美はなんと言ったのだろう。あまりにも呟きが小さすぎて、蓮子達には届かなかったのだけれども。

 

「今、なんて?」

「……いや。進一とも仲良くしてくれるのなら、私も嬉しいわ。蓮子の言う通りちょっとクールな所もあるけど、でも良い子だから」

 

 夢美に言われるまでもない。もっと彼の事を知りたいと、蓮子も思っていた所だ。

 だから、何も心配はいらない。

 

「大丈夫です! きっと仲良くなれると思いますから!」

 

 意気揚々と。蓮子はそう宣言するのだった。


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