一体、何が起きている? 何が繰り広げられている? あまりにも奇妙な霊力の奔流。周囲に充満する嫌な雰囲気。それが肌を通して直接伝わる。気味が悪くて、本当に悪くて、思わず顔を顰めてしまいそう。
白玉楼が──否。冥界がおかしくなりつつあるのは明確だ。このまま『異変』が進行すれば、幻想郷にも多大な悪影響が及びかねない。それは判っている。
けれども、彼女は。八雲紫の式神である少女──八雲藍は、その『異変』に対して直接的な干渉をする事が出来ない。
せめぎ合う意思。自らの立場に対する責任感と、胸中に膨れ上がる感情。板挟みになった彼女の心は、少しずつ擦り減っていく。一体全体、何が正しいのか。自分の取っているこの行動は、果たして最善なのか否か。それが判らなくなってきて、焦燥ばかりが駆け抜けていて。
けれどそれでも、八雲藍は全うする。
八雲紫。主である彼女の意思を尊重する事こそが、式神である自分に課せられた責務なのだと。そんな思いが心の中に残っているから。
「幽々子様! お待ちください!」
白玉楼の廊下。その先へと足を進めようとする一人の少女──西行寺幽々子へと声をかけた。
藍の必死な呼びかけ。それに心を動かされたのか、幽々子はおもむろに振り返る。けれどもその表情からは、毅然とした強い意思がありありと伝わってきて。
(幽々子様……)
しかし、それでも。藍は臆さず言葉を紡ぐ。
「まだお体が本調子ではないはずでしょう……? あまりご無理はなさらないで下さい……!」
「藍……。ごめんね、でも……。私、行かなくちゃ……」
「行くって……! どうして、そこまで……」
「…………っ」
幽々子は黙り込む。まるで、答えに迷っているかのような様子。
西行寺幽々子が藍の前で突然倒れたのは、つい一時間ほど前の事だ。原因は不明。けれども彼女が倒れる寸前、異常な霊力の奔流が伝わって来た事は確実である。であるのなら、やはりこの『異変』が何らかの影響を及ぼしている事は明白。
幸いにも大事には至らなかった。倒れたといっても、その症状は少し強めの立ち眩みのようなもの。少し休めば、この通り普通に立って歩けるまで回復してくれた。
だが、それでも無理をしても良い理由にはならない。幽々子の身体が何らかの不調に見舞われているのは確実なのだ。本来ならば、大事を取って休ませるのが最善なのであろう。
でも。
「判って、藍……。私は、大丈夫だから……」
「幽々子様……」
懇願するように言葉を並べる幽々子。そんな彼女の想いが伝わってきてしまって、藍は何も言えなくなってしまった。
彼女の意思は、あまりにも固い。彼女はきっと、心の底から案じているのだ。この冥界の事を。そして、一人で勝手に飛び出していってしまった親友──八雲紫の事を。
幽々子は何も聞かされていない。こちらばかりが一方的に事情を押し付けてしまっている。けれども幽々子は、そんな理不尽に腹を立てる事もなく、寧ろ気にかけてくれているのだ。紫達ばかりが頑張っているのに、自分がこんな状態でどうするのだ、と。
──優しい人だ。あまりにも、優しすぎる。
それ故にこそ、八雲藍は苦悩する。
確かに、主である紫の意思は尊重したい。彼女の願いを聞き入れたい。
でも。その選択肢は、果たして正解なのだろうか。それが本当に、最善に繋がるのだろうか。
幽々子の意思を捻じ曲げてまで強制する事に、何の意味がある? 幽々子の決意を踏み弄って、拘束して──それで本当に、為になるのだろうか。幽々子の──そして紫の。
判らない。
判らない、判らない、判らない。
(私は……!)
一体、どうすれば良いのだろうか。
「……ごめんね、藍」
迷い続ける藍に対し、幽々子はもう一度謝罪を述べる。けれどそれでも、彼女は足を止める事はない。
心の意思には逆らえない。引き返す事なんて出来やしない。冥界が大変な事になっている。だから幽々子が何とかしなければならないのだと、そんな決意は最早梃子でも動きやしないのだ。
止まらない。止められない。西行寺幽々子は突き進む。
まるでそれが、運命であるかのように──。
「……幽々子さん?」
──ふと、そんな声が流れ込んで来た。
曲がり角を曲がった先。玄関へと続く長い廊下を通りかかった時の事だ。丁度向かい側から歩いてきた青年に声をかけられて、幽々子は足を止めている。
誰なのか──なんて、そんなのはすぐに判った。こうして幽々子に声をかけてくる青年なんて、一人しかいない。
「良かった。幽々子さんは無事だったんだな」
「進一さん……。えっ……?」
一瞬、幽々子は息を呑んだ。
不意に彼──岡崎進一がそこに現れたからではない。いや、それも多少理由にはなっているのだけれども、最も大きな原因は別にある。
それは、彼の状態。──いや。厳密に言えば、彼に抱きかかえられている少女の姿。
「ゆか、り……?」
進一に抱きかかえられた状態で、ぐったりとしてしまっている少女。彼女の名前を、幽々子は思わず口にする。けれども半ば無意識化での言葉だ。目の前の状況を、事実として瞬時に受け入れる事が出来ない。
だって。だってこんなの、おかしいじゃないか。
何故だ。どうして
「紫様……?」
そしてそんな彼女の存在を、少し遅れて藍も認識する事が出来た。
幽々子の少し後ろ側。そこから進一が抱きかかえる少女へと視線を落とす。一瞬、何が起きているのか藍は認識できなかった。
ただ、底の知れない愕然だけが真っ先に溢れ出て来て。息を呑み込み、動きが止まってしまって。血の気の引いた表情を浮かべていた八雲藍だったが、その直後、彼女は酷い狼狽に感情を支配される事となる。
「紫様ッ!?」
声を張り上げ、藍はその少女──八雲紫の名前を必死な形相で口にする。反射的に飛び出して、藍は彼女の元へと駆け寄った。
進一に抱きかかえられた紫の姿。ぐったりと苦し気な表情を浮かべ、意識も朦朧としている事が見受けられる。倒れた幽々子を見て飛び出して行ったはずの紫が、どうしてこんな事になっているのか。それが意味する事は、即ち──。
「紫様ッ! ど、どうして……!? なぜ紫様が、こんな事に……!?」
「藍? お前も一緒だったのか。それなら丁度良い」
「し、進一……? 進一なのか……!? 説明しろ! 一体、何がどうなってこんな……!」
狼狽のあまり進一に詰め寄るような形となる藍。噛みつかんばかりの勢いで怒号混じりの言葉を投げかけるが、けれども当の進一は比較的冷静だった。
興奮する藍を宥めるように、慎重に言葉を選んだ様子で。
「落ち着け、藍。詳しい説明は後だ。一先ず今は、紫をどこかに寝かしてやりたいんだが」
「……ッ! そ、そう、だな……。すまない……。お前に当たっても、仕方がない……」
進一に諭されて、藍は少しだけ冷静さを取り戻す。しかし、それでも不安や困惑は払拭されておらず、緊迫した想いは心の中から抜けてくれない。
進一に当たっても仕方がない。その通りだ。それは十分に理解している。
でも。仕方がないじゃないか。
どうしようもないくらいに、訳が判らないのだ。何なんだこれは。一体、何がどうなっている。どうして紫が、こんな事に──。
「ら、ん……。ゆゆこ……?」
藍達の姿を認識した紫が、それぞれの名を口にする。
その口調はたどたどしい。元より親友である幽々子の前では子供っぽい一面を覗かせる事もあった紫だが、そんな普段の彼女からも考えられぬ程に衰弱してしまっている。
重い風邪か何かにでもかかってしまったかのような様子。見ているだけでも息が詰まりそうになる。
「紫様……! 目を、覚まされたのですか……?」
「…………っ」
「……まだ朦朧としているみたい。進一さんの言う通り、横にしてあげた方がいいかも。一先ず近くの居間に連れて行きましょう」
幽々子の提案。藍も、そして進一も、そんな提案に異を唱える事はなかった。
幸いにも白玉楼には居間が沢山ある。紫を休ませるのなら十分過ぎるくらいだ。外の状況は気になるが──。優先すべきは紫の事である。今この状況で、それ以上に優先して行うべき事なんてあるはずがない。
幽々子は近くの襖を開き、その中へと進一達を誘導している。使用人である幽霊達にも声をかけて、布団を敷いて貰う事も忘れない。
そんな幽々子に誘導されて、藍もまた居間へと足を踏み入れる。
目まぐるしく変わる状況。次々と突き付けられる不測の事態。そんな状態に目を回しそうになりつつも、藍の感情は昂っていた。
感情は困惑が最も大きい。けれどもそんな困惑の中でも、確かに別の感情が存在している。
不安。憂慮。確かに、それもある。
けれど。この、感情は──。
*
幽々子によって誘導された白玉楼の居間にて、進一は紫の事を横にした。
幽々子や藍と遭遇して、また紫が羞恥のあまり暴れ出すのではないかと心配していたのだが──。進一のそんな心配とは裏腹に、紫は存外大人しいままであった。
まぁ、それが幸いなのかどうかは別問題なのだけれども。
逆に言えば、暴れる元気や気力すらもなくなっていたという事である。──紫はそれほどまでに消耗してしまっている。どんな手品を使ったのかは知らないが、彼女がこんな状態になってしまったのは、恐らく霍青娥の手によるものであり。
「そ、そんな……。それじゃあ紫様は、その邪仙に……?」
「ああ……。俺もその瞬間を直接見た訳じゃないが、霍青娥の言葉とあの状況から推察するに間違いないと思う」
信じられないとでも言いたげな表情の藍に向けて、進一はそう説明する。表面上は平静を保てているつもりだが、その実、進一が胸中に抱く感情だって動揺が最も大きい。
八雲紫が妖怪の賢者であるという話は聞いていた。そして彼女の持つ『能力』がいかに特異なものなのかだって、進一は何度も間近で体験している。そんな彼女がこうも簡単に下されてしまうなど、異常事態どころの騒ぎではない。
「その女の目的は何だ……!? なぜこんな事をする……!」
「具体的な目的は俺にも判らない。だが、霍青娥は少なくとも幻想郷の春を集め、そして西行妖を開花させようとしているらしい。現に幻想郷からは春が失われ、今は季節外れの雪が降り始めている……」
「西行妖……」
呟きつつも、幽々子は縁側の方へと視線を向けている。進一もそんな彼女の視線を追いかけた。
丁度、この部屋からも白玉楼の巨桜──西行妖を一望する事が出来る。春になっても花を付けない枯れ大木であるはずのそれは、今やポツポツと開花し始めているのである。
今は精々六、七分咲きくらい。だが、先程見かけた時よりも少しずつだが淡紅色が多くなっている。このままでは、本当に満開になってしまうのではないだろうか。
「何となく、そんな気はしていたわ。冥界の様子が……。春力が、明らかにおかしな事になっていたから……」
「藍はどうなんだ? 紫から、事前に何かを聞いていなかったのか?」
「……私もそれほど多くの情報を聞かされている訳ではない。ただ、幻想郷で何かを企てている人物がいるのだと。そしてその人物が、恐らくこれから白玉楼に現れるのだと。だから幽々子様の事を護って欲しいと、紫様からそんな命を下されていたんだ」
「そう、だったの……」
「ええ……。当初の手はずでは、霊夢がその邪仙とやらを食い止めて解決となるはずでした。ですが……。まさか、紫様まで……」
藍は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべる。「本当は、幽々子様には秘密にして欲しいと頼まれていたのですが……」と、彼女は付け加えていた。
成る程。要するに、全くと言って良いほど何の手掛かりも掴めない霍青娥の尻尾を掴む為、紫達は密かにアプローチを変える事にしたのだろう。こちらから捜し回るのではなく、あちらの方から現れるのを待ち伏せするようなイメージだろうか。恐らく霊夢は早い段階で青娥の狙いが西行妖である事に気づき、それならばと白玉楼で張り込みをする事にした──と。
紫が幽々子にその件を知られたくなかったのは、大方余計な心配や不安を煽りたくなかったからだろう。何せ半ば幽々子を囮にするようなものである。根が生真面目な紫が嫌がりそうな作戦だ。
でも。こうするしかなかった。幻想郷の『異変』を解決する為には、最早こうするしか──。
しかし、艱難辛苦な想いで実行に移した紫達の作戦は、必ずしも功を奏したとは言えない状況で。
「ごめん、なさい……。こんなはずじゃ、なかったのに……」
「紫様……!?」
いつの間にか意識を取り戻していたらしい紫が、もぞもぞと起き上がろうとしている。慌てた様子で藍が駆け寄り、そして彼女の肩を支えた。
「まだ横になっていて下さい! そのようなお体で起き上がっては……!」
「大丈夫……。少し、落ち着いてきたから……」
そう言っているが、当の本人は未だ焦点の合わぬ目ををしている。酷い眩暈に襲われているのだろうか。全身に力を籠める事もままならないようで、上半身を起き上げるだけで精一杯なようだ。
しかし、それでも紫は藍の制止を振り払う。そして何とか進一や幽々子へと視線を送ると。
「早く……。早く、何とかしなくちゃ……。このままじゃ……」
「……無理をするな。そんな状態じゃ、みすみすやられに行くようなものだぞ」
「でも……」
「大丈夫だ。今は霊夢と一緒に、妖夢達が対処してくれている。それに、プリズムリバー楽団の連中も力を貸してくれているんだ」
「プリズムリバー楽団……? 彼女達も一緒だったのか……!」
藍の問いかけに対し、進一は頷いてそれに答える。
しかし大丈夫だとは言ったものの、胸中にはどうしても不安が残ってしまう。五対一なのにも関わらず、必ずしも優勢とは言えなかったあの状況。下手をすれば、形勢が逆転されてしまう可能性もあり得るのではないだろうか。
(妖夢……)
進一は息を呑む。こうして紫を助け出す事は出来たものの、それでも──。
「……っ!?」
不意に、ぞくりと肌を撫でられるような感覚に襲われた。
悪寒──にも似たような感覚。気味の悪い雰囲気。思わず進一は顔を上げ、そしてその雰囲気が漂う先へと視線を向ける。
何となく判ってきた。これは恐らく、霊力の一種だ。それも単なる霊力ではない。あまりにも歪で、あまりにも醜悪で、そしてあまりにも凄惨な印象を否が応でも抱いてしまうモノ。
そして。
(何だ、これ……?)
そんな禍々しい霊力に混じって、何か別の奇妙な力も伝わってくる。
良く判らないが、少なくとも穏便な雰囲気ではない。強いて説明しようとすれば、心の中に焦燥が生まれてしまうような感覚──だろうか。兎にも角にも、状況に何らかの変化が訪れた事は確実である。
霊力の扱いが不慣れな進一でさえも、こんな感覚を覚えてしまうのだ。紫達に関しては、更に明確なレベルで感知しているはずであり。
「こ、これは……」
紫の呟き。それを皮切りに、少女達は各々の反応を見せる事となる。
幽々子は鬼気迫る表情で、進一へと声をかけてきて。
「進一さん……。今は妖夢達が、白玉楼の前で件の邪仙と交戦している。それで良いのよね?」
「あ、ああ……。その通りだ。相手は一人で、こちらは五人……」
「一対五……。でも、この感じは……」
「くっ……」
考え込む幽々子の横で、藍は一人唸っている。漂うこの霊力を肌で感じて、霍青娥の危険性を改めて認識したという事だろうか。
そしてそれは、進一だって同じ事だ。この感覚、どう考えても普通じゃない。この幻想郷に迷い混んでから数々の“非常識”を直接体験してきた進一だったが、
妖夢達は、本当に大丈夫なのだろうか。
彼女達の事は信じたい。その想いは、進一の中に確かに存在するのだけど。それでも、流石にこんな霊力が伝わってきてしまうと──。
「……やっぱり、私が行かなきゃね」
「えっ……?」
思考を巡らせている最中、不意に幽々子が立ち上がった。
決意を固めた表情。伝わってくるのは確固たる意思。親友のそんな行動を前にして紫は一瞬だけきょとんとするが、すぐに状況を呑み込んで表情を変える。
焦燥。それを滲ませた紫は、おずおずといった様子で。
「ま、待って、幽々子……。行くって……貴方、まさか……!」
「決まっているでしょう? 妖夢達の所よ。こんな事になってしまった以上、おちおち留守番なんて続けられないわ」
「なっ……!」
紫の表情が狼狽に支配される。
身を乗り出す程の勢い。けれども身体に上手く力が入らないのか、動作はだいぶフラフラだ。そんな状態でも尚、紫は鬼気迫る形相を崩さない。何かを渇望するかのように、彼女は必死になって手を伸ばした。
「だ、駄目ッ……! 駄目よ、幽々子! 貴方はここにいて……! じゃないと……」
「……ごめんなさい、紫。悪いけど、その頼みは聞けないわ」
必死になって訴えかける紫だったが、けれども幽々子はそんな彼女の言葉を遮ってしまう。
紫が二の句を継ぐ前に、毅然とした面持ちで幽々子は言い放った。
「貴方が幻想郷の管理者として奔走しているのと同じように、私にだって冥界の管理者としての責務があるの。──この『異変』は明らかに冥界を浸食している。それなのに、管理者である私が何もせずに静観なんて……。そんなの、許されるはずがないじゃない」
「そ、それは……」
そう。
八雲紫が必死になるのと同じように、西行寺幽々子にもまた確固たる想いがある。彼女だって冥界の管理者。責任を持ってその役割を日々熟す必要がある。それ故に、幾ら親友である紫の頼みでも時には受け入れられなくなるのだ。
その一つが今回、という事なのだろう。
きっと幽々子は幽々子なりに感じている。このままこの『異変』を放っておいたら、きっと取り返しのつかない事になるのだと。だから自分が行かねばと、そんな衝動に強く駆られてしまったのだ。
そんな彼女の想いが、進一にもひしひしと伝わってくる。
それ故に、彼は何も言えない。口を挟む事が、出来ない──。
「ら、藍……! 貴方からも、何か言ってあげて……!」
「紫様……」
紫は懇願する。最早自分の言葉だけでは、幽々子の心を動かす事は出来ないのだと悟ってしまったから。故に彼女は、藁にも縋る想いで自らの式神に助け船を求めるのだけれども。
しかし。
「申し訳ございません、紫様。それには承服しかねます」
「なっ……」
紫にとって、それは予想外の展開だったのだろう。思わずといった様子で、彼女は息を呑み込んでしまっている。
藍は首を横に振っている。紫の願いを、彼女が聞き入れる事はなく。
「幽々子様の意思は、既に確たるものとなっています。──幽々子様は本気です。私はこれ以上、そんな幽々子様の決意を踏み躙る事は出来ません」
「そ、そんな……」
「ええ。それに……。
「えっ……?」
何やら含みのある藍の言葉。呆然とする紫を余所に、藍はおもむろに立ち上がる。
そして幽々子へと、視線を向けると。
「幽々子様。『異変』の黒幕は明確です。件の邪仙を成敗すれば、それが解決に繋がるはず」
「……そうね。その通りよ、藍」
「これ以上、私は幽々子様を止めません。私だって、
藍の雰囲気は様変わりしていた。それはどこか、苛烈さも感じさせられる雰囲気。
漂ってくる。膨れ上がる藍の感情。それは正しく、
ふつふつと煮えたぎる想い。とめどなく溢れ出てくる激情。それは、これまで忠実に従ってきた紫の願いさえも、聞き入れられなくなってしまう程に。強く、そしてあまりにも大きくなってしまっている。
怒りの矛先は言うまでもない。それは、親愛なる主をここまで貶めた張本人──。
「……ええ。行きましょう、藍」
そして幽々子は藍の想いを受け止める。二人揃って、踵を返した。
『異変』の渦中へ、足を踏み入れるつもりだ。抱く想いに差異はあれど、彼女達の目的は同じ。互いが互いの感情に触発されて、心の意思は相乗的に強くなってゆく。
最早、彼女達を止める術はない。
例え、どんなに懇願しようとも。
「う、嘘……。待って、待ってよ……、二人とも……!」
紫のそんな言葉でさえも、彼女達には届かない──。
「進一さん。貴方にひとつ、お願いがあるの」
不意に、幽々子が進一に声をかけてくる。
かける言葉を見失っていた進一は、それでも何とか口を開いた。
「ああ……。何だ?」
「紫の事を、お願い」
矢継ぎ早に、幽々子は言葉を紡いだ。
「貴方になら、任せる事が出来るから……」
「それは……」
その願いを断る理由はない。元より進一はそのつもりだったからだ。
けれども、それだけではない。本来ならば、ここで幽々子達の事も止めるべきなのだろう。紫がここまで必死になっているという事は、何か意味があるはずだ。彼女の不安を、丸っ切り無視しても良いはずがない。
──でも。
「そうだな……。進一、私からも頼む。紫様の事を……」
「ああ……」
やはり、何も言えない。言葉を見つける事が出来ない。
彼女達の意思は強い。あまりにも強すぎる。圧倒的な凄み。伝わってくるのは、糸を張ったような緊張感。どこまでも強固な決意と覚悟。
それを犯す事なんて、進一にはとてもできそうにない。彼女達の心を否定する真似なんて、そんな事は出来る訳がない──。
(幽々子さん……。藍……)
迷いと惑い。
そんな複雑な心境を抱えた状態で、進一は去っていく二人の背中を見送る事しか出来なかった。
*
状況は絶望的だった。
第二ラウンドと称して発動された霍青娥の術式。召喚される十数体の
多勢に無勢。その立場の逆転。
青娥によって召喚された大量の養小鬼。その全てが、一斉に妖夢達へと襲い掛かってくる事となり。
「ッ! とりゃあ!」
声を上げたのはメルランだ。
自らが有する膨大な魔力を用いた、お得意の火力特化攻撃。それが襲い掛かる養小鬼へと放たれ、直撃する。多少動きを鈍らせる事には成功したのだが、それでも霊達が止まる事はなく。
「うわ、わわわっ……!」
強引に突っ込んでくる。流石のメルランでも今のような攻撃を連発する事は出来ず、迎撃が間に合わない。身を翻して相手の攻撃を回避しようとするものの、放たれる霊弾は的確にメルランの逃げ道を塞いでゆき。
「う……!」
「メルラン姉さん!」
流石に躱しきれない。リリカが名を呼ぶその前で、メルランは霊弾の直撃を許してしまう。
メルランの魔力が霧散する。致命傷を負ってしまった訳ではなさそうだが、それでもダメージは少なくない。こんな攻撃が今後も続けば、あっという間に押し負けてしまうだろう。
「いい加減に……!」
次なる攻撃を放ったのはリリカだ。
ありったけの魔力。それを養小鬼にぶつけるのだけれども。
「……! 足りない……!?」
「下がって、リリカ」
戦闘不能に追い込めない。一瞬怯んだ様子のリリカだったが、直後にルナサが割って入る。
リリカの攻撃によってダメージを受けた養小鬼。それに対し、ルナサの更なる追撃が放たれる事になり。
「────ッ!!」
霊力が霧散。個としての実体を保てなくなる。
これで、一体。
「あ、ありがとう、ルナサ姉さん……」
「礼なら後にして。それにしても……」
敵を退け、安心したのも束の間だ。
青娥が召喚した養小鬼は、まだまだ残っている。例え一体を仕留める事が出来たとしても、すぐにまた別の個体が襲ってくる事となり。
「くっ……」
「また……!?」
攻撃を回避しつつも、ルナサは呟いている。
「数が多い上に、どいつもこいつもタフ過ぎる……。こんなの、幾ら相手にしてもキリがない……」
そう。彼女の言う通りだ。
妖夢達を苦戦足らしめている最も大きな原因は、養小鬼の圧倒的な
弾幕を数発ぶつけただけではビクともしない。スペルカードレベルの大技を放ったとしても、倒せるかどうかは五分と五分。霊を強制成仏させる白楼剣でさえも、十分な効力を発揮出来ていないのである。
十中八九、奴らはただの霊などではない。青娥によって何らかの
「ったく、やっぱりあの女本体を叩かないと埒が明かないわ……!」
「うん……。そう、だよね……」
吐き捨てるようにそう口にする霊夢に対し、妖夢は頷いてそれに同意した。
攻撃を躱しつつも、改めて青娥の様子を確認する。攻撃の大半は養小鬼。青娥と、そして召喚された芳香は、あれから積極的に攻撃には参加してきていない。
その代わり、彼女達は不穏な動きを始めているようで。
「うふふっ……。さぁ、私の可愛い可愛い芳香。貴方に預けた霊力を、私に分けてくれる?」
「ああ……。私の全ては、青娥の為に……」
青娥の霊力が少しずつ膨れ上がっている。
いや。正しく表現すれば、芳香から青娥へと霊力が
「ふん……。そういう事だったのね」
そんな彼女らの様子を見ていた霊夢が、得心したように頷いている。
「おかしいと思ってたのよ。あんなにも禍々しい霊力……。仙人とは言え、一人の人間がそんな霊力をその身に宿すなんて自殺行為じゃない。絶対に精神が持たない。だけど……」
そこでチラリと芳香の事を一瞥する。
霍青娥の命令に従う忠実な死体からは、人間にとって害と成り得る霊力が溢れ出て来ており。
「あのキョンシーをそんな霊力の“貯蔵庫”にしていた、という訳ね。で、呪術か何かであのキョンシーとパスを繋いで、必要な時にその霊力を引き出していた。霊力を身に宿している訳じゃなくて単に操っているだけだから、人体に及ぼす影響も最小限に抑えられる。必要な時に必要な分だけ引き出す事で、“貯蔵庫”の中身が許す限り霊力を無尽蔵に操る事も出来る」
これまでの青娥は連戦を重ねていたのにも関わらず、操る霊力の質量が減少した様子を見せる事もなかった。まるで、次から次へと霊力が
「成る程……。そんな事が実現できるなんて、にわかには信じられないけど……。でも……」
事実、そう考えれば色々な疑問点がしっくりと解決できるのだ。
現実として、青娥はこれまで霊力の消耗を殆ど感じさせていなかった訳であり。
「あの人は、そんな手段を確立させているって事……?」
「多分ね。まぁ、流石に“貯蔵庫”であるキョンシーと離れすぎていると、十分に霊力のやり取りが出来ないっぽいけど」
「……だけど、そんなキョンシーをこの場に召喚したという事は」
「いよいよ本気で私達の事を潰しにきた、って事でしょうね。第二ラウンドって言ってたけど……。つまりはそういう事よ」
青娥の霊力は尚も増加を続けている。これまで以上に、あのキョンシーから霊力を引き出している証拠だ。
「それじゃあ……。青娥さんは、これまで手を抜いていたって事……?」
「……いや、そういう訳でもなさそうよ。ほら、あれ」
一抹の不安が妖夢の中を駆け抜けるが、しかし霊夢によってそれは否定される事となる。
霊夢が示す先。宮古芳香から霊力を受け取り、その身の力を更に増大させる霍青娥の様子は。
「…………ッ!」
一瞬、彼女は顔を顰めると。
「うぐ……!? ごほっ、ごほっ……!」
「青娥……?」
苦し気に蹲ると、青娥は激しく咳き込み始めた。
心配そうな声を上げる芳香。急激な身体の不調。血反吐を吐いて、咽返る。けれども青娥は、そんな自らの身体などお構いなしといった様子で破顔して。
「ふ、ふふふ……。大丈夫、大丈夫よ芳香。何の滞りもなく、順調そのものだから……」
「……っ」
彼女はただ、霊力をその身に纏わせる事だけを最優先としているかのようだった。
妖夢は思わず息を呑む。あんなの、あまりにも無茶苦茶じゃないか。ここまで大量の養小鬼を操っておきながら、更にはあんな霊力まで受け止めようとするなんて。身体が拒絶反応を起こして当然だ。
けれども青娥は、自らの身体などまるで気にも留めていない。自分の事であるはずなのに、まるで興味もないかのような──。
「あ、あれは……」
「……流石のあいつも、この手段は諸刃の剣って事でしょうね。ここまで来ると、身体が先に平静を保てない」
そう。
幾ら心が折れずとも、身体が動かなくなってしまっては元も子もない。流石の青娥も、この手段では肉体的に無理が大きいという事なのだろう。例え膨大な霊力が操れるようになったとしても、それはあくまで一時的。時限式の超強化。
それでも青娥は、無理でも無茶でも通そうとする。目的達成の為ならば、どんな手段でも選択する。例えそれで、自らの身を滅ぼす事になろうとも──。
「止めて下さい青娥さん! それ以上は、あなたの身体が……!」
堪らず妖夢は声をかける。例え敵でも、こんな形で身を滅ぼす姿なんて妖夢は見たくない。
だけれども。
「うふふっ……。止める? 何故? 貴方の指図を私が受け入れるとでも?」
「そ、そんなの……! そんな事を、言ってる場合じゃ……!」
「もうすぐ私の悲願が達成される……。その障害と成り得るものは、私は徹底的に排除します。……貴方もそのくらいの心意気で臨むべきでは? 止めて欲しければ、力づくで止めさせればいい……」
「くっ……!」
分からず屋。こちらの言葉など、彼女はまるで聞く耳も持たない。
やはりこれ以上の問答は無意味、という事なのだろうか。幾ら妖夢が言葉を並べた所で、青娥は最早止まらない。それこそ彼女の言う通り、力づくでもない限り。
戦う事以外の選択肢など残されていない。だったらもう、やるしかないじゃないか。
「このっ……!」
次々と襲い掛かる養小鬼を潜り抜け、妖夢は何とか接近を試みる。
幾ら妖夢の霊弾をぶつけたところで、養小鬼は退けられない。だからと言って、一体一体この剣で斬り割こうにも時間がかかり過ぎてしまう。
青娥や芳香から放たれる気味の悪い霊力。その影響による体力の低下も無視できない。長期戦はあまりにも不利だ。それなら一瞬でも強引に隙を突き、こちらの間合いへと無理矢理ねじ込むしかないじゃないか。
──だが。
「望み通り、力づくで……!」
「ふっ……。芳香」
「……了解」
何とか隙を見て踏み込むものの、その攻撃は宮古芳香によって防がれる。
鈍い音が響く。妖夢によって振り下ろされた楼観剣は、しかし青娥には届かない。キョンシーとは言え素手である、宮古芳香の腕によって受け止められる事となり。
「ッ!?」
嫌な予感を覚えた妖夢は、そのまま追撃は行わずに後退。芳香や青娥と距離を取る事になる。
この感覚。
八十年後の未来の世界。ほんの僅かだが、宮古芳香と交戦する事になったあの時。その際に覚えた感覚を、嫌でも想起してしまって。
(この人……!)
やはり、そうだった。
神霊騒動。あの時、命蓮寺の墓地で芳香と交戦した時は、些か彼女が弱すぎるような感覚を覚えていたが──。どうやらこの少女、真の実力を隠し持っていたらしい。
妖夢は思わず剣を握り直す。嫌な汗が、背筋を滴り落ちていく感覚を鮮明に感じる。未来の世界での出来事を思い出して、無意識のうちに尻込みでもしてしまったのだろうか。
(そんなの……)
──ふざけるな。
怯えている? そんな感情を覚えている場合か。あの頃の自分とは違う。もっともっと強くなっている。だから臆する必要なんてない。躊躇いなんて生じさせるな。
ここで妖夢が躊躇したら、誰があの邪仙達を止めるのだ。誰が幽々子の事を護るのだ。
「そうだ、私は……!」
諦めない。
もう迷わないって、そう決めたじゃないか。
「断迷剣……!」
スペルカード宣言。楼観剣と白楼剣を振り上げて、妖夢は霊力を集中させる。
周囲を漂う養小鬼。この霊達を退けなければ、接近出来るチャンスさえも殆ど作る事が出来ない。生半可では届かない。出来る限りの全力を出し尽くし、文字通り一気に断ち斬る。幾ら相手がただの霊ではないのだとしても、この一撃が振り下ろされれば一溜りもないはず。
「『迷津慈航斬』ッ!」
霊力により形成された瑠璃色の光。刀身を覆い、巨大な光の剣を形成する。
そして放たれる妖夢渾身のスペルカード。振り下ろされた光の剣は更なる閃光を放ち、養小鬼を呑み込んでゆく。完全に消滅させる事は出来ずとも、その一撃で目の前の大半が退く事となり。
「そこだっ!」
その隙を妖夢は見逃さない。刀身に霊力を纏わせたままで、妖夢は一気に突進する。養小鬼が次なる動きを見せる前に、術者本人を叩く。
「──道符」
しかし、そう簡単に攻撃を受ける青娥ではない。
“貯蔵庫”たる芳香から霊力を受け取った青娥。血反吐を吐きながらも強引に身体に馴染ませ、純度を磨き上げ。そうして放たれるのは、宮古芳香との合同型スペルカード。
「『タオ胎動』!」
霊力が爆発する。青娥と芳香からそれぞれ強大な弾幕が放たれ、妖夢へと容赦なく襲い掛かって来た。
辺り一面を埋め尽くす青白い閃光。元より感じていた霊力の嫌な雰囲気はより濃密なものとなり、近づくだけでも更に気分が悪くなる。まともに直撃したら最後、精神を一気に浸食されてしまうのではないだろうか。
「ッ! 小癪な……!」
妖夢は剣を振るい、そして弾幕を打ち落とす。
密度は凄まじいが、幸いにも養小鬼と違って斬っても斬れないという訳ではない。しかし剣を振るえば幾分か処理する事が出来ると言っても、次々と放たれる弾幕が相手では先にこちらの体力が尽きる。それよりももっと早いタイミングで、反撃に転じなければならないが──。
「ふふっ。小癪、ですか?」
「っ!?」
耳に届く青娥の声。けれどもそれは、弾幕が放たれるその先から聞こえてきたものではない。
妖夢の背後。反射的に振り向くと、そこには確かに青娥の姿が存在し。
「褒め言葉として、受け取っておきますね──!」
「うっ……!」
至近距離で放たれる霊弾。咄嗟に剣を盾にして、妖夢は迫る脅威から免れようとする。
金属音にも似た衝突音。柄を通して腕に伝わる激しい衝撃。しかし、直撃は避けられた。それならば、このタイミングで反撃へと転じるべき。
「まだ、まだぁ!」
剣を振るう。──が、やはり結界に阻まれて、青娥には届かない。
しかし、ここまでは想定通りだ。一度や二度の剣撃で青娥の結界が破れるとは思っていない。何度も連撃を繰り返し、結界を解れされるしかないだろう。
そう。それは判っているのだが──。
「芳香!」
「ああ」
「っ!? また……!?」
相手は二人。そのコンビネーションは、プリズムリバー三姉妹にも負けずとも劣らない。
弾幕の中から飛び出してきたのは芳香だ。彼女はその鋭い爪を武器として用い、更には霊力を纏わせて妖夢を斬り割こうとしてきた。
回避をするしかない。いや、それ自体は不可能ではないのだが、攻撃のチャンスを一度不意にするという事であり。
(くっ……!)
その後も何度が防御と攻撃を繰り返してみたものの、中々どうして有効打を与える事が出来ない。
青娥の弾幕と結界、そして芳香の近接攻撃。彼女達の攻防には隙がなく、攻撃に転じるチャンスさえも殆ど見つける事が出来ないのだ。それ故に持久戦。そうなると、彼女らの霊力の影響を受けるこちらが不利という事になり。
(届かない……。届かない、届かない……!)
焦る。頭に血が昇る。
そして──。
「おやおや……。動きが鈍くなってきましたね……!」
「ッ! しまっ──」
リズムが崩れる。
その隙を見逃す青娥ではない。彼女の強烈な弾幕が、一気に放たれて──。
「くぅ……!?」
妖夢は咄嗟に剣を振るう。
再び響く衝突音。そして強い衝撃。堪らず一気に後方へと吹き飛ばされ、妖夢は宙を舞う。そしてその次の瞬間には、妖夢の身体は地面に叩きつけられていた。
「かはっ……!」
肺の中の空気が一気に吐き出される。一瞬だけ呼吸が止まり、その直後に妖夢は咽返った。
痛い。苦しい。瞬間的だが、身体が麻痺する。けれども致命傷ではない。咄嗟に振るったあの剣が盾となり、難を逃れる事に成功したのだ。
間一髪。あと少しでもタイミングがズレていたら、今頃どうなっていたか判らない。
──でも。
「妖夢!」
地に叩きつけられた妖夢へと、声をかけてくる少女がいる。
駆け寄ってきたのは霊夢だ。これまで養小鬼を相手にしていた彼女だったが、青娥に迎撃された妖夢を見て心配をしてくれたらしい。養小鬼を強引に突破し、こうして駆けつけてくれて。
「ちょっと、大丈夫なの……!? 随分と派手に吹き飛ばされたみたいだけど……」
「うぅ……」
霊夢のそんな言葉を受けつつも、妖夢は慎重に立ち上がる。
身体は動く。骨が折れてしまった訳でもなさそうだ。霊力だって、尽きてない。
「あんたね……。幾ら何でも突っ走り過ぎよっ! もう少し冷静に立ち回りなさいよね!」
「…………っ!」
「ちょっと、ねぇ、聞いてるの……!?」
霊夢が声を荒げている。けれどもそんな彼女の言葉は、半分も妖夢に届かない。軽い酸欠で血の周りが悪くなり、感覚が鈍る。妖夢は周囲の状況にまで気を回す事が出来なくなりつつあった。
代わりに思考を支配する、強い焦燥感。そして拒絶感にも似た感情。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
呼吸が乱れる。動悸が激しい。
脳裏に過る。胸中に溢れる。それは、感情の濁流。
(どうして、私は……)
どうして、届かないのだろう。
肝心な所で、あと一歩を踏み出す事が出来ないのだろう。
(あの頃よりも……! ずっとずっと、強くなったはずなのに……!)
認められない。こんなの、納得なんて出来る訳がない。
そうだ。こんなものではないはずなのだ。自分はまだ戦える。自分はまだ折れてない。二年前、八十年後の未来の世界に放り出されたあの日。最後の最後に、自分は逆境を乗り越える事が出来たじゃないか。
あの時と同じ。──いや、あの時よりも、自分はずっと成長している。
だから。だから、だから──。
「私は、まだ──!」
楼観剣と白楼剣。二本の剣を握り直す。
そして妖夢は、軋む身体に鞭を打って。
「負けていないッ!」
「っ! 待ちなさい、妖夢!」
霊夢の呼び声。けれどもそれは、妖夢の耳には届かなかった。
感情が昂る。前へ、どこまでも前へ突き進まなければならないのだと。そんな思いが際限なく溢れ出てくる。身体が熱い。既に体力の消耗だって無視できないはずなのに、それでも勝手に前に進む。
立ち止まるな。剣を振るえ。目の前の敵を排除しろ。
まるで、自分の中にいるもう一人の自分が、そう語りかけているかのような感覚を覚えていて。
「剣伎!」
妖夢はそんな感覚に従う。反射的に、剣を振り上げる。
霊力の高まりを感じる。いや、これは魔力だろうか。──狂気。狂気の瞳。月の魔力。感情の昂りに呼応した狂気の魔力が妖夢に更なる
激情の連鎖反応。無我夢中で、妖夢はそんな狂気の魔力をその身に纏い。
「『桜花閃々』ッ!!」
剣を振るう。
これまでのどの弾幕や剣術よりも鋭く、そして苛烈な一撃。
行ける。届く。
邪仙だろうがキョンシーだろうが関係ない。この一撃で仕留められる。物理的な結界だってぶち破ってやる。これまでのようにはいかない。例え隠し玉を持っていたとしても、何度だって弾き返してやる。
だから止まらない。だから止まるな。
進め、進め、進め、進め。どこまでも、どこまでも、どこまでもどこまでもどこまでも。
これで。
終わ──。
「──単調ですね」
──激情が溢れた妖夢の脳裏に、冷たい言葉が不意に届く。
「感情任せの我武者羅な攻撃……。そんなの、私達には到底届きませんよ?」
「……えっ──?」
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
熱に支配された妖夢の身体。昂る激情に身を任せて、剣を振るって。狂気の魔力と純粋な霊力。それらを掛け合わせた妖夢のスペルカードは、間違いなく青娥達を纏めて捉えているはずだった。
そう。そんな確信を、
あまりにも単調。文字通りの猪突猛進。そんなの、冷静に考えればすぐに理解出来るはずなのに。
「あっ……」
自分が自分じゃなくなっていくような──。そんな感覚を覚えた頃には、時は既に遅かった。
青娥によって、妖夢の攻撃が弾かれている。深い事は何も考えずに繰り出された妖夢のスペルカードは、単調であるが故に重心だって簡単に逸らされてしまう。猛進する方向とは全く別の角度から弾幕を撃ち込まれ、力の
それにより重心が崩れ、体勢が保てなくなる。籠めた力を上手く逃がす事も出来ず、まるで強風にでも煽られたかのように大きくバランスを崩して。
──墜落する。咄嗟の事で、浮力を保つ事が出来ない。
「芳香。とどめを」
「……了解した。仕留める」
弾き飛ばされた妖夢へと向けて、青娥の指示を受けた芳香が突っ込んでくる。霊力を纏った鋭い爪で、再び妖夢を斬り割こうとするつもりだ。
まずい。力が入らない。この体勢じゃ、どう足掻いても。
(嘘……。間に合わな──)
身体を、引き裂かれて──。
「妖夢ッ!!」
──紅白の何かが、妖夢達の間に割って入ってきたのが見えた。
落ちる妖夢。迫る芳香。丁度その真ん中。何も出来ない妖夢の目の前に、彼女は唐突に現れた。出来る限り霊力を爆発させて、ただ妖夢の元へと駆けつける事だけを考えて。
けれども当然、間に合わない。割り込む事が出来たとしても、それ以上はどう足掻いても。
だから。だから、必然的に──。
「えっ……?」
鮮血が迸る。紅白の衣を身に纏った少女。彼女の柔肌から、深く、濃く、そしてどこまでも鮮やかな赤が。
染める。染め上げる。肌も、そして紅白の巫女服も。滲む。赤。迸る鮮血と共に、彼女は大きく仰け反って。
「は……? え……?」
妖夢は同じような反応ばかりを見せてしまう。現実味のない光景。悪い夢でも見ているかのような心地。
けれどもこれは夢じゃない。迸る鮮血。それが妖夢の元へと降り注ぎ、どろりとした生暖かい感覚を肌で直接感じてしまう。これが何よりも証拠。こんな感覚を覚えてまっては、夢だと切り捨てる事なんて出来ない。
けれどもなぜだ。どうして。
「れい、む……?」
どうして、彼女が。
「霊夢!?」
どうして霊夢が、
「っ! 芳香、下がって!」
なぜだか青娥が慌てた様子で芳香を下がらせている。そんな青娥の命令に、芳香は素直に従っていたようだが──。そんな事を気にする余裕など今の妖夢にはない。
落ちてくる霊夢。けれども妖夢だって体勢を立て直す事が出来ず、そのまま二人揃って地面に叩きつけられてしまう。
再び響く鈍い痛み。思わず妖夢は顔を顰めるが、そんな痛みに悶えている場合ではない。無理矢理にでも立ち上がって、すぐに周囲の状況を確認する。共に墜落した霊夢の姿は、幸いにもすぐ近くで発見する事が出来た。
蹲る霊夢。今もなお巫女服に滲み続ける鮮血。そんな姿を認識した途端、妖夢は弾かれるように彼女へと駆け寄った。
「霊夢ッ! 霊夢……!!」
「あ、ぐぅ……!」
彼女は苦しそうに呻き声を上げている。苦し紛れに身を捩らせる度に、地面が鮮血で赤く染まってゆき。
「痛い、わね……! もう、ホント、死ぬほど、痛い……」
「霊、夢……」
斬り割かれたのは背中部分。芳香に背を向けるような形で、彼女は横から割り込んできていた。
つまり。彼女は最初から、自分の身を盾にするつもりで──。
「な、なに……。なんで、どうして……!?」
「どう、して……? さぁ、どうして、かしらね……」
額に脂汗を滲ませ、苦し気ながらも霊夢は答える。
「身体が……。勝手に、動いちゃったのよ……。仕方ないでしょ、ったく……」
「し、仕方ないって……。で、でも、血が……。霊夢、斬られて……!」
「まぁ、そう、ね……。でも……あのままじゃ、あんたの方が危なかった……」
──何だ。何なんだ、それは。
あのままじゃ妖夢の方が危なかった? だから身体が勝手に動いた?
そんなの。そんな、事など。
「まったく……。だから、言ったじゃない……。少し、冷静になりなさいって……」
「そ、それ……。それ、は……」
「まぁ、でも……。あんたが無事なら、飛び出した甲斐があったってものね……。は、ははっ……」
霊夢は笑う。渇いた笑い声を上げている。
そんな彼女が納得できなくて、妖夢は思わず声を荒げてしまった。
「どうして……!? 霊夢らしくないよ! こんな……こんな風に、自分を犠牲にしてまで……! 私、なんかを……」
「らしく、ない……? まぁ、そうかもね……。でも……」
狼狽のあまり感情的になる妖夢。
そんな彼女とは対照的に、息も絶え絶えな様子の霊夢は。
「私達、友達だって……。あんたが、そう言ってくれたんでしょ……?」
「えっ……?」
比較的、穏やかな様子で。
「何なの、かしらね……。そういうのも、悪くないかもって……。最近は、そう、思えてきて……。だから……」
博麗霊夢は、口にする。
「放って、おけなかった……かも、知れないわね……」
「そん、な……」
妖夢は崩れ落ちる。半ば放心状態に陥ってしまっていた。
判らない。納得が出来ない。どうしてこんな事になる? どうして彼女はこんな事をした? どうしてこんな状況に陥ってしまったんだ。
考えろ。考えるんだ。因果関係は、必ず存在するはずだから。
「わ、わた……。わたし……。頭に、血が昇って……。それで……」
身体が震える。声が震える。
怖い。恐怖。そして──悔恨。
「ムキに、なっちゃって……。だか、ら……」
そうだ。妖夢はあの時、激情に身を任せていた。──あまりにも、身を任せ過ぎてしまっていた。
強い想いが、膨れ上がって。相手を下す事ばかりを考えてしまっていて。冷静な判断力が欠落し、そして。
「だから、霊夢が……」
ああ。そうだ。深く考えるまでもない。原因なんて、誰がどう考えたって明らかなじゃないか。
否定なんて出来ない。目を背ける事なんて出来ない。逃げ出す事なんて出来ない。
こんな状況に陥ってしまったのは。
全部。全部、全部全部全部──。
「──信じられないわ」
絶望に打ちひしがれる妖夢。芳香の攻撃によって倒れた霊夢。そんな彼女達を見据えていた青娥が、仄かな動揺を表情に滲ませていて。
「まさか、身を挺してその子を庇うなんて」
どうやら彼女にとっても、霊夢の行動は予想外だったらしく。
「死ぬのが、怖くないとでも……?」
(死……)
死。
死ぬ? このままじゃ、霊夢が死んでしまう?
判らない。でも。
このまま血が流れ続けてしまったら、もしかして──。
「ルナサ姉さん!」
思考の渦に飲み込まれる妖夢。そんな彼女の耳に、今度は別の誰かの声が届く事となる。
反射的に視線を向ける。そこにいたのは、プリズムリバー三姉妹。今もなお養小鬼との交戦を続けていた彼女達だったが、遂には押し負けてしまったらしく。
「っ。まず、い……」
「くっ……! このっ、姉さんをよくも……! って、わわっ!」
「め、メルラン姉さんも……。きゃっ!?」
三人揃って、地に伏せられてしまっている。複数の養小鬼に群がられ、動きを拘束されてしまっているのだ。
持久戦では、やはり相手が悪すぎた。幾ら絶大な魔力を有する彼女達でも、あの数の養小鬼が相手では──。
「皆、さん……」
堕ちてゆく。
みんな。みんな、みんな。次々と倒れ伏していく。最初の時点では、圧倒的に優位な状況であるように見えていたのに。結局は、こんな形で、青娥の術中に嵌ってしまって。
まただ。結局、またこうなってしまうのだ。
どんなに必死になっても。どんなに死に物狂いになったとしても。
届かない。掴み取る事が出来ない。そればかりか、今回に至っては。
「みんな……。やられて……」
傷ついてゆく。
自分一人だけじゃない。大切な仲間が、友達が、傷ついてゆく。
その原因は、最早明確。
「私が、弱いから……」
あんなにも、必死になって鍛錬を続けてきたのに。
「私が、弱いままだから……」
だから。
妖夢は誰も、守れない──。
「そんな……。そんなの……」
──嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
誰にも傷ついて欲しくない。誰かが死ぬなんて以ての外だ。
だから妖夢が守らなければならない。降りかかる脅威から、皆の事をこの剣で守らなければならないのに。その力が、妖夢にはない。あまりにも足りない。狂気の瞳を手に入れて、以前よりもずっと強くなったと思っていたのに。
それなのに。これじゃあ、意味がないじゃないか。
自分の所為で、他の誰かが傷つく。そんな最悪な状況に、陥ってしまうなんて。
「うっ……う、ぁ……。ぁ、ああ……」
身体の震えが止まらない。濁流のような感情が更に妖夢を呑み込んでいく。
駄目だ。こんなの絶対、認められる訳がない。こんなの絶対に間違っている。
許せない。
許せない、許せない、許せない。
誰も救えない。何も護れない。折角手に入れた力だって、使い熟す事が出来ない。幾ら鍛錬を続けた所で、何度も何度も壁にぶつかる。
躓く。その度に立ち止まってしまう。
何度も。何度も、何度も、何度も何度も何度も。
そんな自分が。
いつまで経っても半人前の、あまりにも弱すぎる自分が。
何もよりも。
何よりも、何よりも何よりも。
(許せない……)
──直後。
妖夢の中の何かが、
「ああああああああああッ!!」
それは爆発だった。
感情の爆発。思考も、心も、理性さえも。感情の爆発に巻き込まれ、そして呑み込まれていく。身体の奥底が沸騰するかのような感覚。何かが吹きあがってくる。暴れ回る激情と共に、底の知れない
逆巻く烈風。そして爆発的に高まっていく妖夢の霊力。
いや。最早これは、霊力などではない。不甲斐ない自らに対する底知れない怒り。そんな激情に呼応してタガが外れた──『狂気』。
判らない。何もかもが、判らない。
判らないが。それでも、これは──。
「妖、夢……?」
倒れた霊夢の不安気な声。しかしそんな彼女の声は、最早妖夢には届かない。
制御なんて出来やしない。絶大な激情に飲み込まれた今の妖夢には、理性すらも欠落してしまっている。
『狂気』。それはあまりにも絶大で、そしてあまりにも歪み切った──無垢なる想い。
「それは……」
そんな妖夢を前にして、青娥は興味深そうな表情を浮かべる。
「成る程……。それが貴方の中に眠る力、という事ですか」
青娥に向けて、妖夢は剣を突き出す。
無垢にして苛烈。激情に心を支配された妖夢は青娥を睥睨しているものの、その瞳は狂気によって血走らせてしまっている。
浸食。
それは紛れもなく、『狂気の瞳』の暴走だった。