桜花妖々録   作:秋風とも

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第105話「浸食」

 

 かつて幻想郷は、後に『春雪異変』と呼ばれるようになる大異変に見舞われた事がある。

 時期的には春の下旬。けれどそんな時期になっても気温は一向に上昇せず、降り注ぐ雪が止む気配もなく。桜がその花を咲かせる事もなく、幻想郷は白銀色の雪化粧に塗り潰されたままだった。

 その『異変』の首謀者は、妖夢にとっての主である西行寺幽々子。動機は単純な好奇心。冥界で唯一花を咲かせる事のない巨桜──西行妖が、満開の淡紅色に染まる様を見てみたいのだと。そして西行妖の下に眠るとされる“何者か”を復活させてみたいのだと。妖夢は幽々子からそう聞かされていた。

 

 当時の妖夢はあまり深く考えずに幽々子の命令に従っていたように思う。幽々子様がそれを望んでいる。だから自分は、あくまで彼女の意思に従うのが責務なのであると。自分の意思など度外視で、ただ惰性的に幽々子の命令に従って。そして、あんな『異変』を引き起こした。

 結果的に『異変』は霊夢達によって解決される事になるのだが──。異変収束後、妖夢は紫にこっ酷く叱られた記憶が鮮明に残っている。主の指示を惰性的に遂行するだけが従者としての役割ではない。時には主の間違いを正す事も従者としての役割だ、と。そんな内容だったと記憶している。

 

 幻想郷の春を奪い、西行妖を開花させる。

 ちょっと考えれば判る事だ。それは決して、褒められるような行為ではないのだと。春を奪えば、幻想郷にどんな悪影響を及ぼすのか。どれだけの人に迷惑をかけるのか。当時の妖夢は、そんな事さえも考慮する事が出来なかったのだ。

 未熟。あまりにも、未熟すぎる。──いや。今だって、まだまだ未熟な部分は残されているのだけれども。

 

 とにかく、だ。

 霊夢に退治され、そして紫の説教を受けた事もあって。自分も、そして幽々子も自らの取った行動を悔い改めた。幻想郷の春を奪う。そんな発想、抱くべきではないのだと。そう深く反省したのである。

 だから妖夢は、もう二度と『異変』を引き起こすような事はしない。例え幽々子の命令だったとしても、幻想郷の均衡を崩すような暴挙に及ぶ事はない。幽々子が間違いを犯しているのなら、それを指摘して正しき道へと導く。それこそが、従者としての正しき有り様なのだと。そう理解しているから。

 

 でも。

 だけれども。

 

 これは、一体なんだ?

 まるで、かつて妖夢が犯した罪をなぞるかのように。まるで、かつて妖夢が犯した罪を再認識させるかのように。

 しんしん、しんしんと。

 

「そ、そんな……」

 

 雪。

 

「一体、どうして……!」

 

 どうして、再び春が冬に浸食されているのだろう。

 

 地霊殿からの帰り道。こいしとお燐、そしてプリズムリバー三姉妹と共に地上へと帰還した妖夢達だったが、そんな彼女らを待ち受けていたのは目を疑うような光景だった。

 明確な『異変』だ。それも見覚えのある。

 

「うぅ……寒っ……。って、雪……!?」

「ど、どうして……!? 今ってもう春だよね!?」

 

 妖夢の後ろでお燐とこいしがそう驚きを表明している。信じられない物を見るような表情で、曇天の夜空から舞い落ちる雪を見据えて。彼女達もまた、幻想郷の『異変』を認識しつつあるようだ。

 それもそうだろう。だってこんなの、あまりにもあからさまじゃないか。

 

「なぁ、妖夢。こいつは……」

「うん……。色々と、おかしな事が起きてるみたい……」

 

 進一に声をかけられて、妖夢は曖昧気味にそう答える。

 少し混乱している。はっきりとした事は言えない。けれども十中八九、妖夢の想像は的中している事だろう。春に雪が降り、そして周囲の霊力に異常な()()も観測できる。明らかに人為的である。最早隠す素振りも見当たらない。

 

「……ねぇ。この状況、何だか前にも見覚えがある気がするんだけど」

 

 そう話しかけてきたのはルナサである。

 相も変わらずの無表情。「わぁ! 雪だぁ! 何で!?」とテンション高めなメルランや、「ちょ、ちょっとメルラン姉さん落ち着いて……!」等と困惑しつつも姉を宥めるリリカとは、まさに対照的。肝が据わっているのか、こんな異常事態を前にしても彼女はあまり焦っていないように見える。頼もしくも思える程に、彼女は落ち着いた様子で。

 

「前にあなた達が引き起こした『異変』。多少の差異はあるみたいだけど、状況的にはあの時と酷似しているように思う」

「……ええ。私もルナサさんと同じ感覚です」

 

 答えつつも、妖夢は改めて空を仰ぐ。

 肌を刺すような冷たさの気温。降り注ぐ雪。春であるはずなのに、この気候。文字通り、まさに『春雪異変』である。まるで、何者かによって春が奪われてしまったかのような。

 

「どうしてこんな事に……。なんて、考えるまでもないか」

「……っ」

 

 進一の言葉に頷いて答えつつも、妖夢は言葉を繋げる。

 

「多分、青娥さんが何かを仕掛けたんだと思う」

 

 考えられる黒幕は、やはり彼女しかない。それにしてもまさか、このタイミングでここまで大胆な『異変』を引き起こすなんて。

 しかし考えてみれば、ここ最近の幻想郷はどこか様子がおかしかったように思う。春であるにも関わらず気温が低い日々が続き、ちょっと厚着をしなければあっという間に身体が冷えてしまう程で。少なくともここ何日かは、確かに春らしい気候とは言えない印象だった。

 

 考えてみれば、幻想郷の春は既にその時から奪われ始めていたのかも知れない。ゆっくりと、しかし着実に。『異変』は既に進行していた、という事か。

 

「仮にこの現象が霍青娥の仕業だったとして、目的は何だ? 確か、以前に妖夢が幽々子さんの頼みで幻想郷から春を集めた時は……」

「あの時は、西行妖に花を咲かせてみたいって、幽々子様に頼まれて……」

 

 『春雪異変』に関しては、以前に進一にも説明した事がある。その際の状況はある程度彼にも伝わっているはずだ。

 情報を整理する。妖夢達が引き起こした『春雪異変』は、西行妖を開花する事が目的だった。そして今回、『春雪異変』と同様に幻想郷から春が奪われているのだとすれば。

 

「まさか、青娥さんの目的って……!」

 

 西行妖を開花させる事、なのだろうか。

 しかし、だとしても解せない。西行妖を開花させて、それで青娥に何のメリットがある? それとも彼女の本命は、西行妖の下に眠るとされる“何者か”の復活なのだろうか。

 

『いい? 妖夢、西行妖は開花させるべきではないの』

 

 妖夢の脳裏に記憶が蘇る。

 それは、『春雪異変』が収束した後の事。紫にこっ酷く叱られた際の記憶。その断片の一つ。

 

『あの子は危険な存在なの。だから復活させてはいけない。封印は強力だから、ちょっとやそっとじゃ解けてしまう事もないけれど……。だけどもし、幽々子がまた今回みたいな発想を抱いてしまった場合、真っ先に止められるのは貴方しかいないわ』

 

 思い返してみれば、あの時の紫はいつ以上にどこか必死だったように思う。

 鬼気迫る様子、と言ってしまっても過言ではないかも知れない。本当に、心の底から。西行妖だけは復活させてはいけないのだと、そう妖夢に訴えかけてきて。

 

『だから妖夢。貴方が幽々子を導くのよ。それが結果として、幽々子を護る事にも繋がるのだから……』

「…………っ」

 

 あの『異変』以降、幽々子は西行妖を開花させようという発想に到る事はなかった。そして今も尚、あの妖怪桜は枯死したように枯れ大木として冥界に鎮座し続けている。

 

 そんな西行妖を、霍青娥は復活させようとしている? 幽々子に代って、あの妖怪桜を開花させようと言うのだろうか。

 西行妖は危険な妖怪。もしも本当に、あの八雲紫でさえも手が出せぬ程に強大な力が眠っているのだとすれば。このままでは──。

 

「……早く、戻らないと」

 

 焦燥が、妖夢の胸中に生じ始める。

 

「このままじゃ、幽々子様が……!」

 

 ──危険だ。

 

「ちょ、こいし様!? どこに行くんですか……!?」

 

 妖夢が焦燥を感じ始めるのと、ほぼ同じタイミングだった。

 不意に耳に届くのはお燐の声。困惑を隠し切れぬ様子で、彼女は誰かを引き留めようとしている。反射的に振り向くと、丁度こいしが駆け出し始めている所だった。洞窟を抜け、雪が降り注ぐ地上の世界へと足を踏み入れて。そこでお燐へと振り返る。

 

「決まってるでしょ!? 命蓮寺だよ!」

「み、命蓮寺? どうして……?」

 

 首を傾げつつも疑問を呈するお燐。そんな彼女に対し、何を当たり前な事をとでも言わんばかりの勢いでこいしは答えた。

 

「幻想郷がこんな事になってるんだよ!? 心配なんだよ、命蓮寺のみんなが……!」

 

 それは、どこまでも真っ直ぐな想い。

 自身の『能力』に振り回されていた頃の彼女とは違う。無意識なんかじゃない。彼女は彼女自身の意思をしっかりと抱いている。彼女の心は、揺らぐことのない決意で満たされている。

 

「私は、命蓮寺に出家した訳じゃないけど……。それでも命蓮寺の皆は、私の事を受け入れてくれた。白蓮さんも、星さんも、『能力』が上手く扱えない私の修行に付き合ってくれて……。ムラサさんや、一輪さん、雲山さんだって、私に優しく接してくれた。自分の『能力』さえも上手く使いこなせなかった、私なんかの為に……」

「こいし様……」

 

 こいしは自らが持つ『能力』に対して、多少なりとも憂いを抱いていた。覚妖怪が持つ心を読む能力も、そしてこいし自らが持つ『無意識を操る程度の能力』についても。心を読むのが嫌い。けれども覚妖怪としての特異性を捨てた末に手に入れた『能力』によって、さとりやお燐達にも迷惑をかけてしまっている。自分が度々トラブルの種になっているのだと、彼女はそう自覚している。

 能天気に見えて、その実こいしはずっと気にしていたのだ。果たして自分は、どう在るべきなのか。このままの自分で本当に良いのか、と。

 

 しかし、そんな彼女に手を差し伸べてくれたのが白蓮だった。

 読心能力を放棄したこいし。しかし白蓮はそんな彼女の想いを真正面から受け止め、こいしだけの価値観を見出す為の手助けをしてくれた。

 いや。きっと、白蓮だけじゃないのだろう。

 星も、水蜜も、一輪も、雲山も。ひょっとしたら、ぬえだって。命蓮寺の皆が、こいしの事を気にかけてくれている。こいしの力になろうとしてくれている。

 

 だから。

 それ故にこそ、古明地こいしは。

 

「お姉ちゃんも、お燐やお空だって、私にとって大切な存在だよ? だけど……! 命蓮寺の皆だって、同じくらい大切で掛け替えのない存在なんだよ! だから放っておく事なんて出来ないんだ……!」

 

 強い。あまりにも強い、心の意思だ。

 自らの『能力』が制御できず、トラブルの種になってしまう事も多いのだと、妖夢はこいしの口からそう聞いている。けれども今の古明地こいしは、とても『能力』に振り回されているようには思えない。

 最早彼女は心を閉ざしてなどいない。心が命じるそのままに、彼女は意思を貫こうとしている。大切な人達の力になりたい。彼女の心が命じた意思は、梃子であろうとも動かす事はかなわない。

 

 妖夢でさえも、そんな彼女の心を感じ取る事が出来るのである。

 家族である火焔猫燐なら、きっともっと深くその意思を受け止める事が出来ているはずだ。

 

 それ故に。

 

「こいし様……。あたいは……」

 

 迷ったようなお燐の表情。けれどそんな迷いも一瞬だ。

 お燐は顔を上げる。そして彼女もまた、確固たる意思をその胸中に抱いて。

 

 妖夢達へと、視線を向ける。

 

「妖夢。幻想郷で起きているこの『異変』……。妖夢達は、その原因に心当たりがあるんだよね?」

「……ええ。まだ推測の段階ですけど、十中八九間違いないと思います」

「だったら妖夢達は、その心当たりを当たって欲しい」

 

 頷きつつも答えると、お燐は直ぐに次なる言葉を繋いでくる。

 毅然とした面持ち。こいしの行動に対する困惑は、既に払拭し切っている。そんな彼女の真っ直ぐな視線に、妖夢は射貫かれていて。

 

「元よりそのつもりです。お燐さんは……?」

「あたいはこいし様と一緒に命蓮寺に向かう」

「えっ……?」

 

 少し間の抜けた声を上げてしまったのはこいしである。お燐の姿を見上げた彼女は、虚を衝かれたような表情を浮かべている。

 彼女からしてみれば、お燐はもっと反対の意見を述べるのだと思ったのだろう。それなのに、こうもあっさりこいしの意思を汲むような言葉が彼女の口から出てきたのだ。それ故に、呆けたような表情を浮かべてしまっているのだけれども。

 

「……良いんですか? こいしちゃんを向かわせてしまっても……?」

「うん……。いや、まぁ、命蓮寺に関してはあたいも無関係じゃないっていうか……。だからやっぱり、心配なんだ。こんな光景を前にして、大人しく地底に帰る事なんて出来ない」

「お燐……」

 

 消え入るような小さな声で、こいしがお燐の名前を口にする。お燐は微笑みつつも、そんな彼女を一瞥して。

 

「命蓮寺の皆は、こいし様にとって恩人だから。あたいだって、その恩を少しでも返したい……」

 

 ちょっぴり困ったような、けれど満更でもない表情を浮かべて。

 

「だから、こいし様。もしもさとり様に怒られるような事になっちゃったら、その時はあたいと一緒に怒られましょう?」

 

 頬を人差し指で掻きつつも、お燐はこいしにそう告げた。

 

 そんなお燐に対し、やっぱりほんの少しだけ戸惑った様子のこいし。けれどもそんな戸惑いも、次の瞬間にはあっという間に塗り潰されてしまう。

 それは、ある種の喜び。満面の笑みを浮かべて、彼女は大きく頷いた。

 

「うんッ……!」

 

 ああ。眩しい。どこまでも眩しい、無垢なる想いだ。

 命蓮寺。元々は、地底に封印されていた星蓮船。だから多少なりとも、こいし達とも以前から接点を持っていたのかも知れないが。それでも、ここまでではなかったはずだ。

 何かが変わろうとしている。今のこいしは、妖夢が八十年後の未来で出会った古明地こいしとは何かが違う。目の前にいる古明地こいしは、他人に対して確かに心を開き切り、そして思いやりを抱いている。地霊殿という閉鎖的な環境だけではない。古明地こいしが見据える世界は、確かな広がりを見せつつあるのだ。

 

 そしてそんな彼女に感化されるように、お燐にもまた変化が訪れ始めている。何かが、八十年後の未来の世界から変わりつつある感覚を覚えている。

 ひょっとしたら、本当に掴み取れるかも知れない。

 バッドエンドなんかじゃない。希望に満ちた、輝きの未来を──。

 

「……話は決まった?」

 

 折よく口を挟んできたのはルナサだ。

 お燐とこいしが揃って心を決めた、丁度そのタイミング。口を挟まず彼女達の決意を見届けてくれたルナサは、妹達と揃って空を見据え直している。

 絶え間なく降り注ぐ雪。曇天の夜空。しかし、彼女達が見据えるのはその更に先。この『異変』の原因が存在すると思われる場所。

 

「行くんでしょ? 冥界。私達もついて行くから」

「ルナサ達も来るのか? だが……」

「何? 危険だから帰れとでも言うつもり? 私達、少なくともあなたよりも強いと思うんだけど」

 

 進一が苦言を呈すると、不服そうな面持ちでルナサがそう言い返してくる。

 殆ど無表情が基本の彼女だが、ここ最近は多少なりとも表情の変化を読み取れるようになってきたように思う。よく見るとちょっぴりむくれている。確かに本人の言う通り、彼女達は進一どころか並みの妖怪なら一捻りで下せる程の力を有しているけれど。

 

「ここまで大規模な『異変』なら、今後どんな想定外が発生しても不思議じゃない。だから協力者は多いに越した事はないと思うけど」

「私も行くよ! 幻想郷の一大事だもん! たまにはこういった形で力になりたい……!」

「ね、姉さん達がそう言うのなら、私も……! 前の春雪異変の時は、私達ただ演奏してただけだったけど……。でも、今回ばかりは放っておけないよ!」

 

 プリズムリバー三姉妹は、揃って妖夢達への協力を買って出てくれている。

 もしも本当にこの『異変』の原因が冥界にあると言うのなら、これは妖夢達の問題だ。無関係な彼女達を巻き込んでしまうのは確かに忍びない。

 だが──。

 

「……前にメルランも言ってたでしょ? 私達プリズムリバー楽団は、人間も妖怪も問わず音楽で沢山の人達に笑顔を届けたいと思ってる。だからこんな『異変』を前にして知らんぷりなんて出来ない。このまま春が奪われれば、きっと皆の笑顔だって失われてしまう」

「……っ。ルナサ、お前……」

「だから戦う。それだけの話。別に、あなた達の力になろうとしている訳じゃない」

 

 ぷいっと、妖夢達から視線を逸らしつつもルナサはそう口にする。

 照れ隠し、だろうか。けれど今の彼女の言葉は、そんな照れ隠しの為だけの出任せという訳ではないように感じる。何せ彼女達は、地底と地上の確執を音楽で少しでも緩和させる為、今回のように危険な旧地獄まで足を運ぶ程の行動力の持ち主だ。彼女達の抱く信念は、決して軽薄な理想という訳ではないのである。

 彼女達は、心の底から本気だ。

 音楽で笑顔を届けたい。だからこんな『異変』は見逃せない。

 その想いは、きっと鋼のように固い。

 

「……妖夢」

「うん。判ってる。私だって、ルナサさん達の想いを無下にはしたくない」

 

 頷きつつも、妖夢は進一にそう告げる。

 お燐がこいしに対してそうであったように、妖夢達だって彼女ら三姉妹の意思を拒むような事はしたくない。彼女らの心が命じた意思を、捻じ曲げる事なんて出来る訳がない。

 だから、尊重する。

 余計な遠慮も気遣いも、今は綺麗さっぱり払拭して。

 

「……判りました。一緒に行きましょう」

 

 魂魄妖夢は、言葉を紡ぐ。

 

「お願いします。私達に力を貸して下さい」

 

 

 *

 

 

 一先ずお燐やこいしとはあの場で別れ、妖夢達は冥界へと向かう事になった。

 日が沈んだ幻想郷。絶え間なく雪が降り注ぐ曇り夜空へと向かって、妖夢達は揃って飛翔する。冥界へと入り口──即ち、魔法の森上空にある結界の()()が目的地だ。

 幻想郷の春もそこに向かって移動しているように見える。やはり妖夢の予想通り、黒幕の目的は冥界に春を集める事と見て間違いない。

 

「これ……本当に春が冥界へと集まっているのか? しかも冥界に引き寄せられるように、一斉に……」

「うん……。にわかには信じられないけど、でも現実として突き付けられている以上、受け入れるしかないみたい……」

 

 進一の言葉に対し、困惑を隠し切れぬ様子で妖夢が続ける。

 

「私がやった時とは違う……。多分、何等かの術式を使って幻想郷から春を集めているんだ。でも、こんなにも大規模な結界なんて……」

 

 あまりにも高度な術式だ。しかも霊夢や紫にも防がれる事なく、こうして発動まで漕ぎつける事が出来るなんて。

 考えてみれば、八十年後の未来でも霍青娥は京都全土を覆い尽くす程の大規模な結界を展開していた。その結界の効力により、一時的にでも日本の首都である京都をゴーストタウンへと変貌させていたのだ。

 

 並大抵の術者では到底成し遂げられない暴挙。霍青娥と呼ばれる邪仙は、ひょっとしたら妖夢の想像以上にとんでもない人物なのかも知れない。

 

「ね、ねぇ。妖夢さん達は、この『異変』の黒幕について何か知ってるの? 何だかさっきからやけに理解力が冴えてるような気がするんだけど……」

「あっ、それ私もそう思ってた! どうなの、彼氏さん達……!」

 

 リリカとメルランからそんな疑問が妖夢達に飛んでくる。妖夢と進一の後ろにぴったりとついてきた彼女達は、納得のいく答えが得られるまで引き下がらないとでも言わんばかりの面持ちだ。

 確かに、彼女達の疑問も最もである。妖夢と進一はこの『異変』の黒幕についてある程度の当たりはつけているが、リリカ達からしてみれば何が何だか判らないといった状況だろう。

 

 これまでは意図的にあまり触れずにいたが、今更隠すのも非生産的のように思える。彼女達は既にタイムトラベルや八十年後の未来に関して認識してしまっているのだ。その上でこうして協力してくれているのだから、情報の共有は中途半端にすべきではない。

 

「えっと……。先程も少しお話しましたよね? 二年前……私を未来の世界へと放り込んだ人物です。恐らく彼女が、今回の『異変』の首謀者かと思われます」

「あー……。えっと、霍青娥さん、だったっけ?」

「ああ。だが、霍青娥は霍青娥でも、恐らく()()()()の霍青娥だ。妖夢を八十年後の未来へと放り込んだ奴じゃない。タイムトラベルにまで関わっているかどうかは、少し微妙かも知れないな……」

「う、うん? な、何それ、何だかすっごくややこしい事になっているような……?」

 

 進一の説明は正しい。が、メルランはいまいち理解が追いついていないような様子を見せている。

 彼女の混乱も判る。混乱しているのは妖夢も、そしておそらく進一も同じだ。この時代の幻想郷と、八十年後の未来の世界。そのどちらにも密接に関わっている人物、霍青娥。この繋がりは一体何だ? 何がどうなっている?

 『死霊』。進一の生命を奪ったとされる異形の存在。やはり『死霊』に関しても、霍青娥が密接に関わっているのだろうか。この『異変』を追う事で、未だ不明瞭な謎を解明する事が出来るのだろうか。

 

 ──いや。その件について、一先ず今は置いておく事にしよう。

 西行妖の復活。それが成し遂げられてしまったら幽々子が危ない。故に今は、青娥の暴挙を止める事が最優先事項である。

 

「青娥さんは、神霊騒動の時も裏で暗躍してたみたいだし……」

 

 恐らく霍青娥は、あの時からずっと画策していたのだ。そしてようやく準備が整い、こうして実行に移した。

 このタイミングまで誰も彼女を捕捉する事が出来なかったのも、恐らく何らかの術の効力だろう。何せ八十年後の世界では、時間に介入して妖夢をタイムスリップさせる事さえも実現した人物だ。この程度なら、ひょっとしたら朝飯前なのかも知れない。

 

「……見えてきた」

 

 そんなやり取りを続けている内に、妖夢達は冥界への結界の解れ──門となっているその前まで到着していた。

 ルナサの呼び声に続き、揃って前方を見据える一同。予想通り、幻想郷の春は結界の解れへと吸い込まれるように移動を続けている。あまりの強風に、油断するとこちらまで流されてしまいそうだ。

 異常な光景。心なしか、眼下に見える幻想郷の大地も色を失いつつあるようにも感じてしまう。このまま春が奪われ続ければ、以前の『春雪異変』の時以上の大惨事に繋がりかねない。

 

「急いだ方が良さそうだな」

「うん……。行こう」

 

 迷っている暇なんてない。妖夢達は揃って冥界へと足を踏み入れた。

 門をくぐると、すぐさま壮観な石段の前に辿り着く事となる。後はこの果てしなく長い石段を登り切れば、目的の白玉楼はすぐそこである。

 妖夢でも慣れ親しんだ道順。けれども今は大量の春が流れ込み、その光景はだいぶ様変わりしてしまっている。

 淡紅色の奔流が形成されているのだ。その行き先はこれまた予想通り、石段を登り切った更にその先。

 

「こ、これは……」

 

 石段を登り始めた途端、ぞくりとした嫌な感覚が妖夢の肌を撫でてゆく。幻想郷から奪われた春ではない。もっと何か、()()()が白玉楼から伝わってくる。筆舌に尽くしがたい程に気味の悪い感覚。思わず身震いしてしまう。

 その感覚はプリズムリバー三姉妹にも伝わっていたらしく、姉妹揃って表情を顰めていた。

 

「うっ……。な、何これ、どうなってるの……?」

「れ、霊力? 魔力? よく分かんないけど、気持ち悪い……!」

「これが、噂に聞く邪仙の霊力なの……?」

 

 ちょっと白玉楼に向かっただけでこれだ。霍青娥は、一体どれほどまでの力を有しているのだろう。

 やはり、これまでの『異変』の首謀者とは根本的な何かが違う。それを改めて突き付けられて、妖夢は息を呑み込んだ。

 けれども、だからこそ気を引き締め直さなければならない。幾ら相手が得体の知れぬ存在でも、こんな所で尻込みなんてしていられない。意を決し、妖夢達へ石段の上へと昇っていく事にする。

 

 それから、しばらく飛翔を続けていると。

 石段の途中で、人影のようなものを確認する事が出来た。

 

「えっ……?」

 

 予想外の光景を前にして、妖夢は少し間の抜けた声を上げてしまう。

 人だ。死者などではない。しかも石段の真ん中で倒れ込んでしまっているようにも見える。ここからではまだ少し距離があるが、目を凝らすとその姿をはっきりと捉える事が出来た。

 人間。少女。その上に青白い何かが伸し掛かっている。霊力の塊。幽霊の類か? それにしては、あまりにも禍々しい。閻魔より無罪を判決された霊魂が送られるこの冥界に、こんなにもおどろおどろしい霊力を纏う霊が迷い込んでいるなんて。

 

 いや。あの霊魂に関する考察は後回しだ。重要なのは、倒れている少女の方。

 見覚えがある。妖夢はあの少女と、深い交友関係がある──。

 

「……ッ!?」

「妖夢さん……?」

 

 認識した途端、妖夢は弾かれるように飛び出していた。困惑気味なリリカに名前を呼ばれたが、それに答える余裕すらも残されていなかった。

 だって。だって、()()()()があまりにも信じられなかったから。

 石段の真ん中で倒れ伏しているのは、紛れもなく。

 

(まさか、そんな……!)

 

 博麗霊夢。

 異変解決のスペシャリストであるはずの彼女が、まるで身動きも取れないような状態に陥っている。倒れ込み、苦しそうに顔を顰めて荒い呼吸を繰り返しているのだ。居ても立っても居られずに妖夢は彼女のもとへと駆け寄り、そして名前を口にする。

 

「霊夢ッ!」

「……っ! 妖、夢……?」

 

 受け答えが返ってくる。どうやら意識は残っているようだ。

 けれども霊夢へと駆け寄った妖夢は、思わず言葉を見失う事となる。俯せに倒れ込んだ彼女。そんな彼女の背中にのしかかる青白い霊力の塊。遠目から見て幽霊か何かの類だとは思っていたが、こうして近づくとその()()()を肌で感じる事となる。

 霊力の質が、明らかに他の幽霊とは違う。最も近いのは地底の怨霊だろうか。けれど禍々しさに関しては、目の前のそれの方が余程強く──。

 

「何だ、こいつは……!?」

 

 少し遅れて駆け寄ってきた進一もまた、愕然とした表情を浮かべている。

 それほどまでに、霊夢に伸し掛かるそれはあまりにも異形で。

 

「……ちょっと退いて」

 

 愕然として動きを止めてしまった妖夢達を押し退けるように、真っ先に前に出たのはルナサだった。

 ルナサは霊夢に伸し掛かる青白い霊魂を確認する。ピクリと眉を動かしたが、そんな動揺は一瞬である。彼女はすぐさま魔力を籠めて、光弾を発射。その狙いは青白い霊魂。霊夢を救出するべく、弾幕であの霊魂を退けようとしたみたいだが。

 

「……効いてない?」

 

 着弾。だが、あの霊魂はまるで物ともしない様子である。直撃を許したはずなのに、霊魂はあの場から動く気配すら見せていない。

 ルナサの弾幕がまるで効いていないのだ。霊夢を巻き込まないよう調整をしていたとは言え、決してヤワな攻撃ではなかったはずなのに。

 

「姉さんの攻撃が効かないの!? それなら私が……!」

「待ってメルラン。あなたの魔力の扱い方だと、博麗の巫女も巻き込む危険性がある」

 

 ルナサに続いて今度はメルランが魔力を高めようとするが、しかしすんでの所で阻まれる事になる。確かにメルランの魔力は強力だが、それ故に彼女本人も細かな調整は苦手としている節がある。ルナサの言う通り、下手をすれば霊夢の事も巻き込みかねない。

 それならば、この状況を打開するにはどうすれば良いのか。

 答えなんて一つしかない。

 

「……お二人とも、少し下がってください」

 

 妖夢は一歩前に出る。

 腰に携えた短刀──白楼剣の柄を握りながら。

 

「私が斬ります」

 

 相手が霊の類なら、白楼剣で強制的に成仏させる事が可能なはず。あまり使いたくない手段だが致し方あるまい。

 瞬間的に霊力を籠める。一撃で成仏させる為にも、中途半端な集中力ではいけない。抜刀し、勢いを乗せて一気に斬る。そのイメージを思い浮かべ、霊力と共に呼吸を整えて。

 

 そして、一閃。

 

「────ッ!」

 

 斬りつける。──が、奇妙な抵抗に襲われて妖夢は思わず目を見張る。

 刃が入りきらない。普通の幽霊や並みの怨霊が相手なら、一撃で斬り割く事も可能であるはずなのに。今は強い抵抗力で押し返されそうになってしまっている。

 こんな感覚は初めてだ。ただの怨霊ではないのか? まさか、白楼剣でも断ち斬れない程に強い怨念を宿しているのだろうか。

 

(でもっ……!)

 

 だが、そうだとしてもここで諦める妖夢ではない。

 刃が入りきらないと言っても、全く歯が立たないという程ではないのだ。押し返されそうになるのなら、強引にでも刃を入れるしかない。

 妖夢は改めて霊力を高める。そして今度は自身の霊力のみならず、狂気の瞳の魔力も更に上乗せして。

 

「はぁッ!」

 

 剣を振るう。ぷつりと、何かが途切れるような感覚。そしてその次の瞬間には、白楼剣は目の前の怨霊を斬り割いていた。

 腕が震える。未だ衝撃が伝わってくるような、そんな錯覚を覚えてしまう程に奇妙な手応えだった。

 妖夢はチラリと一瞥する。消滅していく霊魂。霊力の塊と化しているはずなのに、そんな霊魂と目が合ってしまったような感覚を覚えて。

 

「……っ。ごめんなさい……」

 

 謝罪の言葉を口にする。今の妖夢は、こんな形でしか誠意を示す事が出来ない。

 結局相手がどんな怨霊だったのか判らず終いだった。なぜ霊夢に襲い掛かっていたのか。一体どんな未練を現世に残しているのか。謎は多く残されているのだけれども。

 だが、あの怨霊が霊夢に危害を加えていたのは事実なのだ。どんな理由があるにせよ、あのまま悠長に除霊をする余裕なんて残されていなかった。

 

 だからせめて、妖夢は慈悲の念を忘れない。

 あの霊魂だって、きっと好きで怨霊になってしまった訳ではないはずだから。

 

「霊夢、大丈夫……?」

「うっ……」

 

 気持ちを切り替える。今は何より、霊夢の事が心配だ。

 声をかけると、霊夢はヨロヨロとした足取りでおもむろに立ち上がる。若干覚束ない様子だが、それでも大事には至っていない様子。押し倒されている際に痛めてしまったのか、彼女は左肩を抑えつつも。

 

「痛ッ……。はぁ、ったく、何なのよ一体……」

「おい、霊夢。大丈夫なのか?」

「え? あぁ……。進一さんもいたのね。別に、平気よ。ちょっと身動きを封じられていただけだし……」

 

 進一が尋ねると、心なしかいつもより元気のない様子で霊夢はそう答える。

 ザッと見た感じ、本当に大きな怪我を負ってる訳ではなさそうだ。呼吸は少し乱れているが、少し休めばそれも回復するだろう。

 ただ、何と言うか。肉体的には問題なくとも、精神的な疲労感が蓄積してしまっているかのような。そんな印象を今の霊夢から受けてしまって。

 

「……まさか、あの博麗の巫女がこんな風に後れを取るなんてね」

 

 声をかけたのはルナサだ。

 抑揚のない声調。いつも通り感情表現に乏しい印象だが、それでも彼女なりに霊夢の事を気にかけているらしい。チラリと霊夢の様子を確認すると、彼女はぶっきら棒気味に。

 

「今回の黒幕は、相当な手練れって事なの?」

「あんた達、確か騒霊の……。どうして妖夢達と一緒にいるのよ」

「……別に。ただの偶然。そしたらあなたが倒れていたから、ちょっと手を貸してみただけ」

 

 霊夢の疑問に対するルナサの答えは、だいぶ大雑把な印象だ。これではこちらの事情は殆ど伝わらない。

 けれどそれでも、霊夢は特に訝し気な反応を見せる事もなかった。あっさりと状況を受け入れて、どこか諦観したかのような面持ちで。俯きつつも、霊夢は消え入るような言葉を発する。

 

「……そう。それは、手間を取らせちゃったわね」

 

 そして霊夢は妖夢達を見据え直す。

 ふと、どこか弱々しい笑みを浮かべて。

 

「ありがとう。お陰で助かったわ」

「え? う、うん……」

 

 思いも寄らぬ霊夢の反応を前にして、妖夢は思わずしどろもどろ気味になってしまう。

 何だか霊夢らしくない。憔悴してしまっていると言うか、何と言うか。こんな様子の彼女は初めて見た。堪らず妖夢は霊夢の事を案じてしまう。

 

「霊夢、本当に大丈夫? 何だか顔色が悪いみたいだけど……」

「だから、別に平気だって言ったでしょ。どこか怪我をした訳でもないんだし」

「いや、そういう意味じゃなくて……。どちらかと言うと、精神的? 明らかに様子がおかしいよ」

「……いや、まぁ、それは」

 

 バツが悪そうに視線を逸らす霊夢。

 一体、何があったのだろう。それともそこを追求するのは野暮だろうか。──などと思っていた妖夢だったが、意外にも霊夢の方から素直に状況を説明される事となる。

 

「霍青娥が来たのよ、ここに」

「ッ! それって……!」

 

 息を呑む妖夢。頷きつつも、霊夢は説明を続ける。

 

「あんた達が地底に言っている間ね。まぁ、細かい説明は省くけど……。兎にも角にも、私はようやくあの女の尻尾を掴むチャンスを得たのよ。そして大凡の予想通り、あの女は春を集めてこの冥界に現れた。──待ち伏せしてた私は、上手く接触する事に成功したんだけど……」

 

 そこで霊夢は、ギリッと歯軋りをする。

 悔しさと憤り。そんな感情が入り混じった表情を浮かべて。

 

「でも、突破された……! 弾幕ごっこは明らかに私の方が優勢だったのに……! それなのに私は、まんまとあの女の口車に乗せられて……!」

「霊夢……」

 

 成る程。何となく、状況は理解した。

 先ほどまで霊夢の動きを封じていたあの怨霊。恐らくあれも霍青娥の差し金なのだろう。弾幕ごっこに関して言えば霊夢の優勢だったものの、何らかの手段で集中力を乱されてその隙に襲われてしまったといった具合だろうか。

 しかし、仮に不意を突かれたのだとしても、霊夢がこうも後れを取る事になろうとは。相手は相当な実力者なのか、それとも──。

 

「まさか……。進一、さっき霊夢に伸し掛かっていた怨霊って……!」

「いや、あれは『死霊』とは別物だ。仮に『死霊』だったとしたら、今頃霊夢の命はない」

「……っ。そ、そう、だよね……」

 

 嫌な予感を覚えて進一に確認してみるが、どうやら一応『死霊』とは無関係らしい。妖夢の早とちりだったようだ。

 やはり『死霊』は青娥が使役している訳ではないのか。いや、()()()()使役していないというだけで、今後制御下に置く可能性も──。

 

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。何? 死霊……? と言うか進一さん、あなたまさか記憶が……!」

「ああ……。だが、詳しい説明は後だ。霍青娥は白玉楼に向かったんだろう? だったら猶予はあまり残されていない」

「……そうね。あの邪仙、本当に何をしでかすか分かったもんじゃないわ」

 

 進一の記憶やら『死霊』やらについても霊夢と情報を共有する必要があるが、どうやら今は悠長に会話をする時間も残されていなさそうだ。

 時間が惜しい。取り返しのつかない事になる前に、何としてでも霍青娥を止めなければ。

 

 ──と、そんな方針を霊夢と共に固めるのだが。

 

「確かに、今はその邪仙とやらを止める事が先決。でもあなたはそれで大丈夫なの?」

「……何? 何か言いたい事でもあるワケ?」

 

 訝し気に口を挟んで来たのはルナサだ。

 彼女は霊夢に対し、どうにも怪訝そうな感情を抱いているようで。

 

「博麗の巫女であるあなたの実力に関しては、私も身をもって味わった事があるわ。だけど今のあなたは、あの時と比べてもだいぶ憔悴してしまっているように見える。そんな状態で本当に戦えるの?」

「ちょ、ルナサ姉さん……! そんな言い方……!」

 

 慌てた様子でリリカが止めに入るが、それでもルナサは口を続ける。

 リリカを制し、それでも尚毅然とした面持ちを霊夢へと向けるルナサ。漂うのはピリピリとした雰囲気。露骨に霊夢を煽っている。焚きつけようとしているのだろうか。

 当の霊夢は一瞬だけ息を呑み込んだ後、睨みつけるようにルナサの姿を見据える。糸を張ったような沈黙。一触即発。爆弾の導火線にでも火が点いたかのような緊張感。

 

 けれどもそんな沈黙は、霊夢自らの手によってすぐさま破られる事となる。

 プイッと視線を逸らして、「ふんっ」と鼻を鳴らして。

 

「問題ないわ。寧ろ、こんな所で引き返す方が却って気に食わないじゃない。あの女はスペルカードルールを踏みにじった。そんな相手にやられっ放しなんて我慢ならない」

「…………」

「あんたに心配される謂れなんてない。判ったのならさっさと行くわよ。もうあまり時間は残されてないんだから」

 

 吐き捨てるようにそう口にすると、霊夢は踵を返して石段を登り始めてしまう。妖夢が引き留めるタイミングすら見当たらなかった。

 表面上は普段通りの霊夢に戻っているようにも思える。けれども、やはりどうしても不安な想いを抱いてしまう自分は、些か心配性が過ぎるのだろうか。無理をしているのではないかと、そんな想いばかりが際限なく募ってしまって。

 

「うぅ……。霊夢さん、あれ絶対に怒ってるよ……」

「うわぁ……! 姉さんがコミュ障なばっかりに……!?」

「……うるさい。私は別に間違った事は言ってないでしょ」

 

 わたわたとしている妹達の前で、ルナサは鬱陶しそうにそんな事を口にしている。

 確かに高圧的な態度だったとは思うが、あれでもルナサなりに霊夢の事を心配していたのだろう。あんな言葉遣いになってしまう辺り、ルナサも不器用と言うか何というか。霊夢も霊夢で素直じゃない一面があるし、表面上はギスギスとした雰囲気で話は切り上げられる事になってしまった。

 

(霊夢……)

 

 やっぱり霊夢を引き留めるべきかギリギリまで迷ったが、ここは彼女の意思に従う事にした。

 霊夢の性格上、こちらが変に心配をし過ぎると却って逆効果になりそうである。それに、ルナサに焚きつけられて多少なりとも調子が戻ったのも事実なのである。今は様子を見る方が最適な選択肢なのかも知れない。

 

「霊夢の事が心配か?」

 

 俯いていると、進一にそう声をかけられる。

 頷きつつも、妖夢は答えた。

 

「うん……。どんな経緯があったのかは分からないけど、青娥さんにやられた事を気にしてるみたいだったから……」

「ああ……。確かに、そうだな……」

「だけど……。それでも、私は霊夢を信じたい。たった一度裏をかかれた程度で折れてしまう程、霊夢は弱くなんてないはずだから……」

 

 確かに不安で心配だ。けれどそれでも、だからといって霊夢の事を信じていない訳ではない。

 霊夢は強い。この程度の逆境なんて、簡単に跳ね返してしまう程に。だから余計な不安なんて文字通り杞憂だ。それは判っている。

 ──どうにも自分の感情も不安定だ。立て続けに色々な事が起き過ぎて、心の中が混乱しているのだろうか。

 

 だが、こんな所でいつまでも迷い続ける暇なんてない。

 

「そうだな。俺だって霊夢がそう簡単に折れちまうとは思えない。──今は様子を見るべきなんだろうな」

「うん……」

 

 状況は色々な意味で芳しくないが、それでも今は突き進むしかないのだ。

 先に行ってしまった霊夢を追いかけ、妖夢達も飛翔を再開する。会話も殆ど交わす事なく、白玉楼へと一直線に向かって行った。

 

 

 *

 

 

 気持ちが悪い。

 白玉楼に辿り着いて真っ先に覚えたのは、そんな感覚だったと思う。

 

 冥界に足を踏み入れてから感じていた嫌な感覚。それは石段を昇れば昇るほど徐々に強くなってゆき、昇り切る事には思わず後退りしてしまう程になっていた。

 肌にねっとりと纏わりつくような嫌な霊力。気味が悪い程に冷たく、そして奇妙な程に重い。これは、神霊騒動の直後に訪れた博麗神社でも感じたあの感覚だ。

 

 間違いない。あの時と同じ感覚だ。この先に、霍青娥がいる。

 

 だが、そんな奇妙な感覚以上に思わず気を引かれてしまう要素が一つ。

 

「こ、これは……」

 

 白玉楼を取り巻くように周囲に渦巻く淡紅色。そして降り注ぐ霊力の粒子。白玉楼の正門広場は激しい白煙が立ち込め、まるで誰かが激しく争った後のような有様である。

 瞬時に状況を呑み込む事が出来ない。一体、何が起きて──。

 

「……ッ! 妖夢、あれは……!」

 

 動揺を隠し切れぬ様子で、進一が前方を指差す。

 煙の中。確認できるのは二人の人影。息が苦しくなる程の濃い霊力が充満しているその中で、片方の人影がぐったりと倒れ伏している様子が確認できる。喧騒の後のような余波が広がる真ん中。倒れた少女はぐったりとしたまま殆ど動かない。

 

 目を凝らす。徐々に白煙が晴れてゆく。そして確認出来たその状態は。

 

「えっ……?」

 

 目を見張る、光景。

 倒れているあの少女は、紛れもなく──。

 

「──おや、意外と早い到着ですね」

 

 声が届く。

 それは、倒れ伏した少女の事を見下ろしていた、群青色の女性の声で。

 

「これはこれは、大所帯でご苦労様です」

 

 女性が何かを言っている。が、目の前に突き付けられた衝撃があまりにも強すぎて、状況を噛み砕いて理解する事が出来ない。

 だって。だってこんなの、おかしいじゃないか。

 有り得ない。有り得る訳がない。夢か幻でも見ているのか? そうでなければ、こんな状況──。

 

「う、嘘、でしょ……?」

 

 霊夢が震える声を上げる。信じられないとでも言いたげな面持ちで、目の前のそれを見据えている。

 無理もない。妖夢も、進一も、そしてプリズムリバー三姉妹も。誰一人として、この光景を受け入れる事が出来ていないのだから。

 

 なぜなら、群青色の女性の前で倒れ伏しているのは。

 

「ゆか、り……?」

 

 妖夢達もよく知っている、妖怪の中の大妖怪。

 

「紫ッ……!?」

 

 八雲紫。

 幻想郷の管理者たる妖怪の賢者である彼女は、妖夢達の目の前で深い眠りに落ちてしまっていた。


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