桜花妖々録   作:秋風とも

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第103話「術中」

 

 多々良小傘は慄いていた。

 不意に覚えた奇妙な霊力。それがちょっぴり気になって、命蓮寺の境内の様子を確認しに行ったのまでは良かった。ちょっとした好奇心。驚きの感情で空腹を満たす事が出来ないのなら、せめてそんな好奇心だけでも満足させて貰おうと。そんな野次馬精神からほんの少しだけ様子を窺ってみようと。正直、軽い気持ちで足を運んでみただけだったのに。

 

「う、うわぁ……」

 

 物陰に身を潜めたまま、思わずそんな声を漏らしてしまう小傘。こんな反応もしたくなる。

 勝手に墓地を守護していたあのキョンシーがとんでもない事になっていたのもそうだが、命蓮寺の住職が大物そうな人と一緒に現れたり、何やらキョンシーと言葉を交わしていたり。そして突然割り込んで来た薔薇色の髪の少女がキョンシーを拘束したかと思うと、暫くして周囲の霊力に異常な変化が訪れた。

 何が起きているのかは判らない。ただ、何やらとんでもない事が起きている事だけは何となく理解出来る。キョンシーが身に纏っていたはずの淡紅色の霊力。それに似た感覚の“力”。見るからにおかしなそれらが滲み出るように周囲の大地や木々からも放出され始め、一斉にどこかへと移動を開始している。まるで、何かに引き寄せられているかのように。行く先は空の彼方である事は見れば判るが、具体的にどこが終着点なのかは小傘には判断できない。

 

 ともあれ、異常な光景だ。

 更には拘束を突破したキョンシーと、命蓮寺の住職達が交戦を始めている。今度は力づくであのキョンシーを抑え込もうと言うのだろうか。

 

「何だか……。見ちゃいけないものを見ちゃったような気がする……」

 

 ボソリと小傘はそう呟く。

 流石に話の内容までは聞き取れなかったが、重要なやり取りが行われていたという事に関しては雰囲気で何となく察する事が出来る。そしてそれは、高が一唐傘お化けである小傘が関わるべきではない事柄であるという事も。

 いや、関わるべきではないというか。関わったら最後、間違いなく面倒な事になる。生憎小傘は、このレベルの厄介ごとに自ら首を突っ込むような趣味は持ち合わせていない。第一、自分に何が出来ると言うのだ。

 

「え、えっと……。私ってば絶対に場違いだよね、うん……」

 

 下手な好奇心など芽生えさせるべきではなかった。今更ながら軽く後悔している。

 しかし、あくまで小傘はちょっぴり様子を窺っていただけ。話の渦中にまで首を突っ込んでしまった訳ではない。それならば、今からそそくさと退散すれば巻き込まれずに済むのではないだろうか。

 幸いなことに、彼女らは小傘の存在に気づいていない。逃げるなら今だ。

 

「よし……」

 

 そうと決まれば善は急げである。小傘はこそこそを踵を返し、さっさと退散してしまう事にする。この方向では帰り道は遠回りになってしまうだろうが、厄介事に巻き込まれるより遥かにマシだ。

 騒動の様子を窺いつつも、慎重に、かつ可及的速やかに小傘は移動を始める。危険に晒される前に、一刻も早く出来るだけ遠くへ──。

 

「あいたっ!?」

 

 ごんっと、小傘の鼻頭に何かがぶつかった。

 訳も分からず鈍痛に見舞われ、小傘は思わず鼻を押さえて蹲る。どうやら自分は、振り向いた直後に何かと衝突してしまったらしい。しかも顔面にクリーンヒットである。涙が出てきた。

 あの騒動ばかりが気になって、周囲への注意力が散漫になっていて。まさか自分の背後に障害物があるなんて思いも寄らなかった。何なんだ一体。驚きの感情は集められないし、何やら妙な騒動を目撃してしまうし、挙句顔面に何かをぶつけてしまうし。今日は散々な一日である。

 

「うぅ……! 何なのもうっ!」

 

 痛みに堪えながらも、小傘は顔を上げる。

 感触的に、小傘とぶつかったのは棒状の何かである。木の枝か何かだろうか? しかし、だとすればどうしてこんな所に? 霊力の奔流にでも巻き込まれて、いつの間にか倒木してしまったのだろうか。

 まったく、その程度の柔い木を道端に植えないで欲しいものだ。危ないじゃないか。この命蓮寺には、人間だって数多く訪れるというのに──。

 

「あ、れ……?」

 

 ──いや。違う。

 ()()は、木の枝なんかじゃない。確かに一見すると捻じれた木の枝か何かに見えなくもないが、しかし木の枝なんてとんでもない。だって()()が伸びているのは、木の幹などではなかったからだ。

 木の枝なんかじゃない。()()は。

 

「そっちからぶつかっておいて何なのとは、随分なご挨拶じゃあないかぁ」

「……え?」

 

 ()だ。

 小柄な少女の頭から伸びる、二本の捻じれた大きな角。小傘の鼻頭にぶつかったのは、どうやらその片方だったらしく。

 

「うひゃあ!?」

 

 彼女の姿を認識した途端、小傘は思わず飛び上がった。人を驚かす事を生業としている付喪神であるはずなのに、驚きのあまり心臓が止まるかと思った。

 小傘は大きく飛び退く。一体、いつからそこにいたのだろう。小傘に声をかけてきたのは、頭に二歩の角を携えた小柄な童女である。飴色の髪は長く、自らの腰に届く程。服装はノースリーブの上着に紫色のロングスカートといった出で立ちで、ぱっと見では小さな子供のようにも見えるのだが。

 

 しかし彼女は人間の子供などでは決してない。だって頭に正真正銘の角が生えてるじゃないか。このような特徴を持つ妖怪など、思い当たる節は一つしかない。

 鬼だ。この地上ではすっかり見なくなったはずの、最強クラスの怪力と妖力を併せ持つ妖怪の中の妖怪。

 

「ひ、ひぃ!? だ、だだだ誰……?」

 

 重ねて小傘は驚愕する。何だか今日はこちらの方が驚いてばかりである。

 鬼だ。間違いない。しかしどうしてこんな所に? 命蓮寺の修行僧か何かなのか? いや、鬼の修行僧などこれまで見た事もなかったはずだ。だとすれば本当に何だ? まさかの入信希望者?

 小傘は混乱する。鬼なんて、小傘程度じゃ逆立ちしたって到底敵わない相手である。しかも総じて好戦的な性格が主の種族であると聞く。そんな存在とこんな所で遭遇してしまうなんて、運がないどころの騒ぎではない。

 

 怯える小傘。しかし当の鬼の少女は、ケラケラと可笑しそうに笑っているようで。

 

「あははっ! 何ビビってるのさ。そんなに怯える事ないじゃないかぁ」

「へ!? あ、あの……! 私は、その……」

 

 そりゃビビるだろう。何せ相手は鬼。こちとらただの唐傘お化けだ。力の差は歴然じゃないか。

 

「ふぅん……。それにしても、随分と面白そうな事になってるねぇ」

 

 心底ビビりっぱなしの小傘を余所に、鬼の少女が興味を示しているのは命蓮寺の騒動だ。何やら好奇心旺盛そうな面持ちで、本殿前の広場の方を観察している。

 その様子は実に無邪気で純粋無垢。好奇心に忠実な子供のようである。醸し出す雰囲気は容姿相応のようではあるが。

 

「ねぇねぇ、あんた。さっきまであいつらの様子見てたんだろぉ? 詳しく状況を教えてよぉ」

「い、いや、見てたと言ってもそこまで詳しくは……。と言うかお酒くさっ!? え? 酔ってるのっ!?」

「ん~? なに言ってるんだよぉ。鬼なんて酔ってなんぼのもんだろぉ? 常識だぞ~?」

 

 酔ってなんぼのもんなのか──じゃなくて。

 馴れ馴れしくも肩を組みつつもそんな事を聞いてくる鬼の少女。生きた心地のしない小傘だったが、強い酒気に鼻孔を突かれて正気に戻る。

 よく見ると、鬼の少女は片手に酒の入った瓢箪を携えているようだ。どうやら既に相当酔いが回っているらしい。大丈夫なのだろうか。

 

 まぁ、鬼は酒にすこぶる強い種族であるとも聞いた事があるし、酔ってなんぼというのは強ちふざけた表現ではないのかも知れないが。

 

「まぁ、私の事なんて今はどうでもいいだろぉ? それよりあいつらの事だよ。何がどうなってんの?」

「い、いやだから私も詳しくは知らなくて……」

 

 興味津々な様子でそんな事を聞かれる。しかし生憎、小傘だってそこまで詳しく状況を把握している訳ではない。教えてくれ等と言われても困ってしまうのだが。

 その事を鬼の少女に伝えると、彼女はちょっぴり残念そうな表情を浮かべて。

 

「ふぅん……。あんたもよく分かってないのかぁ……」

「え!? え、えっと、その……。ご、ごめんなさい……?」

「はははっ! まぁ、それならそれで良いけどねぇ。最悪、あいつらに直接聞けば良い訳だし」

 

 一瞬だけ残念そうな表情になったと思ったら、今度は面白そうに笑い声を上げる。中々どうして、感情表現が豊富な少女である。酒に酔っている所為でもあるのだろうけれど。

 ともあれ、彼女が小傘よりもあの喧騒の方に興味を引かれているのならそれで良い。鬼なんかに関わったら命が幾つあっても足りやしない。ここは穏便に──。

 

「え、えっと……。それじゃ、私はこの辺で……」

「うん? いやいや、ちょっと待ってくれよぉ。もう帰っちゃうのか?」

「へっ……?」

 

 小傘が改めて踵を返そうとすると、鬼の少女が再びがしっと肩を組んでくる。

 ぎちぎち、ぎちぎち。何だこの絶妙な腕力は。抜け出そうにも抜け出せない。

 

「あんなにも面白そうな事が起きてるんだよ? ここで帰るなんて勿体ないじゃないかぁ」

「い、いや、でも私はそこまで興味がある訳じゃないし……」

 

 小傘のその表現は少し間違っている。厳密に言えば、つい先ほどまで興味は抱いていたのだから。

 今はそんな興味よりも、厄介ごとから逃げたいという気持ちの方が強くなっているだけで。

 

「そんなつれない事言っちゃてぇ、遠慮してんのかぁ?」

「いや、だから……」

 

 否定を試みるも、けれども鬼の少女はまるで聞く耳を持たない。

 小傘の横で、瓢箪の酒を豪快に呷ると。

 

「ぐびっ、ぐびっ、ぷはぁ! よぅし! この際、私らも参戦しちゃおう! 見てるだけなんて勿体ないぞぉ!」

「ちょ、お酒呑まないで!? 私の話を聞いてくれる!?」

 

 何なんだこの酔っ払いは。全然こちらの話を聞いてくれないじゃないか。

 と言うかこの少女、参戦するとか言ったか。しかも()()とか言っていたか。と言う事は、つまり──。

 

「そうと決まれば善は急げ! 行くぞぉ!」

「ちょー!? 引っ張らないで!? 私は行くなんて一言も言ってないよ!」

「あはははっ! 本当、謙遜しがちな奴だねぇ。気に入った! 行こう!」

「何で!? その解釈おかしくない!?」

 

 駄目だ。やっぱり会話が成立しない。

 何なんだこの状況。どうしてこんな酔っ払いに絡まれる事になってしまったんだ。しかも相手は鬼。腕力でも妖力でも到底適う訳がない相手。その上こちらの話が通じないと来た。

 抵抗するのも無意味に終わり、小傘はずるずると引っ張られるしかない。出来れば関わりたくもなかった、あの喧騒の渦中へと──。

 

「いーーやぁぁーーッ!?」

 

 多々良小傘の悲鳴だけが、空しく周囲に木霊していた。

 

 

 *

 

 

 強烈な“春”の奔流をその身に受け、博麗霊夢は狼狽していた。

 霍青娥との弾幕ごっこ。多少なりとも苦戦した部分はあったけれども、結果としてそれは霊夢の優勢だった。弾幕の質も、そして華やかさも。青娥と比べて、霊夢の方が一枚上手だったはずだ。それは青娥本人も認めている。

 そう。スペルカードルールにおいては、霊夢は決して敗北していない。寧ろ逆だ。霊夢は勝った。確実に勝利を収めていたはずなのに。

 

「何でよ……」

 

 それなのに、どうして。

 

「何なのよ……」

 

 この状況は。

 

「あんたは一体、何なのよ……!?」

 

 明らかに、青娥の思う壺じゃないか。

 博麗霊夢は怒号する。けれどもそれは、霍青娥に対する一方的な怒りという訳でもない。彼女の胸中に渦巻くのは、怒りも含めた様々な感情。最早自分が何をどう思っているのかも判らなくなってきた。

 これは悔しさか? それとも悲しさか? ──判らない。頭の中は、既にぐちゃぐちゃだ。

 

「何なの、とは?」

「だっておかしいじゃない! さっきまであんたは明らかに動揺していた! あんたはあのキョンシーに春を集めさせてたんでしょ!? それが失敗して……!」

「ええ。確かに、ちょっぴり焦りましたね。まさか貴方が茨華仙さんを頼るとは思いませんでした」

「だったら……!」

「そんなに熱くならないで下さいよ。貴方の推測だって間違っていません。確かに、私は芳香に春を集めさせていましたからね」

 

 熱くなる霊夢とは対照的に、青娥は至極冷静である。肩を窄めつつも、彼女は続ける。

 

「まぁ、芳香はあくまで保険だったんですけどね。本命は、()()()です」

「本命って……!」

 

 顕界から激しく流れ込んでくる“春”。それを示して、青娥は()()()だと称している。宮古芳香はあくまで保険。予備であって本命ではない。真の目的は別にあったのだと、彼女はそう言いたいのだろう。

 しかし。だとすれば。

 

「有り得ないわ! 幻想郷全土を覆う程の大規模な術式なんて、この短期間でそう簡単に構築できるものじゃない! ましてや春を集めるなんて……!」

「そうでしょうか?」

 

 霍青娥は口を挟む。

 可笑しそうに、くすくすと笑いながら。

 

「そうですね。確かに手間がかかります。術を行使する上での最重要要素は力の循環。ただ単に放出させるだけでは形になりません。循環させ、浸透させて、そして術として変換させる。そのファーストステップである循環の段階で全てが決まると言っても過言ではありませんよね。この規模の術式を完成させるには、力を循環させる為にとても大きな“輪”が必要となる」

「ええ、そうよ……。だからこそ……!」

「だからこそ、幻想郷は実に適した環境なのですよ」

「えっ……?」

 

 霍青娥は言い放つ。

 相も変わらず、仰々し気に。

 

「幻想郷には、既に巨大な『結界』が用意されているじゃないですか」

「まさか……」

 

 どくんと、心臓が高鳴る。霊夢の脳裏に強烈な()()()()が駆け抜ける。

 けれども。まさか、そんな事など本当に可能なのだろうか。そんなにも大胆不敵な事を彼女はやって退けたというのだろうか。

 幻想郷の春を集める。その目的を、完遂させる為に。

 

「術を行使する上での重要要素は力の循環……。つまりあらゆる術の根底には、必ずある種の結界が必要となる……」

 

 霊夢は口にする。

 霍青娥が及んだとされる、非常識にも程がある暴挙を。

 

「あんた……」

 

 にわかには信じられないが、それでも。

 

「博麗大結界を“輪”に見立てたって言うの……?」

 

 その可能性は、霊夢の心にずっしりと伸し掛かる。

 有り得ないのだと言葉で一蹴する事は簡単だ。けれども実際、それは霊夢の眼前で実現してしまっている。幻想郷の“春”が、一斉に冥界へと──。

 

「まさか、そんな事が……!」

「ええ、そのまさかですよ。霊夢さん」

 

 青娥は肯定する。

 今更ながら真実に気がついた霊夢を、嘲笑うかのように。

 

「現実と幻想を隔離し、常識と非常識を隔てる為の博麗大結界。つまり幻想郷全土を覆う“輪”になっている訳です。利用しない手はありませんよね」

 

 簡単に言い放ってくれる。

 何せ博麗大結界は、そんじょそこらの結界とは訳が違う。博麗の巫女である自分と、そして妖怪の賢者である紫が直々に管理している結界である。それも論理的な結界の典型例。物理的な結界と異なり、明確な()がある訳でもない。

 そんな結界を利用して大規模術式を発動させた? 馬鹿な。

 

「あんた、適当な事を言ってるんじゃないの……? 博麗大結界を利用した? そんな事が出来る訳がない! そもそも結界に細工なんてすれば、私や紫が気づかない訳ないじゃない! だけど、実際は……!」

「ふぅ……。貴方、さっきご自分で仰っていた事をもう忘れちゃったんですか?」

「は……?」

 

 肩を窄める青娥

 霊夢の言葉に被せるように、彼女は口を挟む。

 

「認識阻害の結界ですよ。私はそれを重ね掛けしていたんです」

「なっ……」

 

 やれやれと、熱くなる子供を宥めるような声調で。

 

「まぁ、()()どころじゃないんですけどね。……複数種類の術を、何重にも重ね掛けして行使する。私、そういうのちょっぴり得意なんです」

「得意って……!」

「ええ。()()と、研究に研究を重ねてきたので」

 

 何だ、それは。

 認識阻害の結界? 複数種類の術を行使? そんなふざけた事が有り得るのだろうか。複数種類の術を何重にも重ねて行使すれば、確かに理論上は相乗効果を得る事が出来るかも知れない。けれども現実問題、術者のキャパシティだって限界がある。あまりにも多くの術を同時に行使するなんて不可能だ。

 そう。そのはずなのだが──。

 

「だけど博麗大結界に直接何か細工をした訳ではありませんよ。重要なのは、“輪”が形作られているという定義そのものですからね。私はそれに沿って霊力を循環させていたに過ぎません。貴方達に気づかれぬよう、慎重に……ね」

「…………ッ」

「ですので、博麗大結界に何らかの悪影響が及ぶ事はないと思います。そこはご安心ください」

 

 あくまで飄々とした態度を続けるこの女ならば、ひょっとしたら可能なのではないかと。そんな感覚が霊夢の中に確かに存在してしまっている。

 この邪仙はこれまで、霊夢に自らの力を見せびらかすような仕草を多く見せていた。そしてその力は基本的にトリックありきの紛い物という訳ではない。霍青娥というこの女性は、自らの実力を誇示する事にある種の愉悦を感じているのである。

 つまり彼女は隠し事はすれど、これまで嘘は一度も吐いていない。青娥が口にする言葉は紛れもなく真実のみで、決して彼女の虚妄という訳ではなかった。霊夢が華扇を頼るとは思わなかったと言っていたが、あの言葉だって出任せという訳ではなかったのだろう。

 

 霍青娥の価値観は酷く歪んでいる。

 そして歪んでいるのは、おそらく価値観だけじゃない。

 

(この女……!)

 

 恐らく彼女は、人間にとって決定的な“何か”が既に()()()しまっているのだ。だからこんな暴挙に及ぶ事が出来る。

 複数種類の術式を()()()()行使する。それで自らの神経回路が焼き切れる事になろうとも、彼女はきっと構いやしない。

 

 決定的に破綻しているのだ、彼女は。

 故にその本質なんて、霊夢の勘でも察する事なんて出来やしない。

 

「スペルカードルールよ! 敗者は勝者に大人しく従う! そして弾幕ごっこは私の勝ちでしょ!?」

 

 霊夢は青娥の胸ぐらを掴み、そして吐き捨てるように口にする。

 彼女は狼狽していた。それは、得体の知れぬものを目の当たりにした時に感じる、ある種の恐怖心に似た感覚。霊夢にとっては馴染みの薄い。これまでの『異変』なら、臆する事なく首謀者と対峙する事が出来ていたはずなのに。けれど今回ばかりは勝手が違う。

 あまりにも不気味。霍青娥という邪仙の価値観が、どうしようもないくらいに理解の範疇を超えてしまっていて。それ故に霊夢は狼狽し、そして怒号という形で感情が吐き出される。

 

「私の要求に従いなさい! 今すぐ術の行使を止めるのよ!」

「ああ……。それは無理ですね」

「どうしてよッ!?」

「うふふ。だって、止める手段なんてありませんからね。元々そういう風に構築していましたから」

「なっ……!」

 

 霊夢は青娥に術の停止を要求するが、けれどもそれは叶わない。初めから、止める手段など用意していなかったのだと。そんな事を説明する青娥は、ニヤニヤとした笑みを崩さなかった。

 まさに愉悦に満ちた表情。これまで通りの霊夢なら真っ先に神経を逆撫でされるのだろうけれど、今回ばかりはそうはいかない。

 霊夢は冷静さを事欠いてしまっている。まさか、異変の首謀者を相手にここまで追い込まれてしまうなんて。

 

「ふざけないで! 止める手段がないなんて、そんな事……!」

「別にふざけてなんていませんよ。ここまで術が進行してしまえば、最早私でも収束させる事は出来ません。嘘だと思うなら貴方が止めてみたらどうです? まぁ、出来ればの話ですが……」

「……ッ!」

 

 この邪仙、果たしてどこまで読んでいたのだろうか。初めからこうなる事を予測していたのだろうか。

 ──いや。厳密に言えば、予測していたのではない。このような結果に陥るよう巧妙に仕組んでいたに他ならないのだろう。彼女がこのタイミングで行動を起こしたのも、霊夢が霍青娥本人や宮古芳香へと強く注意を引き付けられてしまったのも。そしてこの瞬間まで、青娥が仕掛けた大規模術式の存在に気が付かなかったのも。全部全部、青娥が描いた筋書き通りに事を運ばれてしまっているのだ。

 掌の上で踊らされていた。誰も彼もが、霍青娥という邪仙によって──。

 

「くっ……!」

 

 霊夢は慌てて踵を返す。青娥に要求を続けた所で無意味だと判断したからだ。これ以上の問答はあまりにも時間の無駄である。

 春は白玉楼──もっと具体的に言えば、おそらく西行妖に集められているはず。発動してしまった術式を止める事は無理でも、流れこんでくる春を掻き出す事なら可能かも知れない。今はとにかく、西行妖に春が集まる事だけは避けなくては。

 

 冷静さを事欠いた状態でそんな判断を下した霊夢。しかしそんな状況下では、幾ら彼女でも最適な選択肢を選ぶ事は難しい。

 ──案の定、裏目に出た。

 

「ふふっ……。良いんですか?」

「えっ……?」

 

 青娥の囁きが耳に入る。何の事だと意識を傾けたその瞬間には、既に遅かった。

 

「そんな風に、無防備に背を向けてしまうと……?」

「ッ!?」

 

 ごうっと、霊夢の背中に何らかの衝撃がぶつかる。何が起きたのか訳も分からず、気が付くと霊夢は押し倒されていた。

 

「うっ……!?」

 

 うつぶせに倒れ込む。石段に身体を強打して、鈍い痛みが霊夢に襲いかかる。けれどもそんな痛みも塗り潰されてしまう程に異常な感覚が、彼女の思考を混乱させた。

 ずっしりと、何かが背中の上にのしかかっているのだ。けれど少なくとも人ではない。重量を感じるというよりも、霊夢の身体そのものが鉛のように重くなっているような感覚。身体の自由が、突然効かなくなってしまう。

 

「おも、い……!?」

 

 何だ、これは。

 何かが覆いかぶさっている。それも実体のない何かが。霊夢は酷く重たい身体を何とか動かしつつも、背中の上にいる()()の正体を確認する。

 

「こ、こいつ……!」

 

 霊力の塊。恐らくは霊魂の類。漂わせるのは不愉快な気配。本能的に気分を害する気味の悪い雰囲気。

 そこで察した。青娥が先程スペルカードの一つとして使役していた霊。霊夢の上にのしかかっているのは、恐らくそれだ。

 

 意識を逸らしてしまった一瞬の隙を、青娥は見逃さなかったのだろう。再びあの霊を召喚し、そして霊夢に仕向けてきた。流石の霊夢も、このタイミングで不意打ちにも対処できるような術は持ち合わせていない。敢え無く青娥の勝手を許してしまったという訳だ。

 そんな霊夢の脇に、ふわりと着地する影が一つ。彼女──霊を仕向けた張本人である霍青娥は、やっぱりくすくすと笑みを零していた。

 

「うふふ。残念。惜しかったですね?」

「ッ! こ、のっ……!」

 

 頭にきた霊夢はこの奇妙な霊からの脱出を試みるが、やはりどうしても身体の自由が利かない。身体中が、あまりにも重すぎる。こうして青娥を睨みつけるだけでも精一杯の状況だ。

 これは一体──。

 

「流石の貴方でもそう簡単には抜け出せませんよね? まぁ、かなり執着心の強い存在ですからね、()()()

「ふざけ、ないでよ……。こんな、事して……!」

「こんな事してどうするつもりか、ですか? 別に貴方をどうこうするつもりはありませんよ。ただ、少しの間だけここで大人しくしてて欲しいんです」

 

 肩を窄めつつも、青娥はそう口にする。

 形勢逆転。弾幕ごっこに関して言えば、確かに圧倒的優勢だった。優勢だったのだが──。

 

「あんた……! スペルカードルールを、無視するつもり……!? あんたは弾幕ごっこに負けたのよ……!? それなのに……!」

「いいえ。そんなつもりはありませんよ? でも、()()()()()()()()のだからどうしようもないじゃないですか」

「な、何言ってんのよ……」

「ふぅ……。と言うかそもそも、貴方は少し早とちり過ぎじゃないですか? 弾幕ごっこに私が負けた? 確かに私は貴方の実力に甚く関心しましたが、それでも白旗を上げたつもりはありませんよ?」

「は……?」

 

 何をふざけた事を言っている。

 そんな言葉が飛び出しかけるが、けれどそれよりも先に青娥の言葉が霊夢へと浴びせられる。

 

「貴方が宣言したスペルカードは三枚。対する私は二枚です。つまり私は、貴方に全てのスペルカードを攻略された訳ではありませんよね?」

「ッ! それ、は……!」

「スペルカードルールは()()()事に特化した決闘方式だったはずです。殺し合いではありません。博麗の巫女──と言うか、発案者の一人である貴方なら、それは重々理解しているはず」

「……ッ」

「全てのスペルカードが攻略されるか、先に心の折れた方の負け。けれど私はそのどちらの条件も満たしていません。勝負はまだ決していなかったのですよ。まぁ、紛らわしい言葉回しをしてしまった事に関しては謝りますが」

 

 失礼しましたと、青娥はぺこりと頭を下げる。けれどもそんな謝罪など、霊夢の神経を逆撫でする結果にしかならなかった。

 青娥を睥睨したままで、霊夢は拳を握り絞める。自らの掌の皮を傷つけてしまう程に。けれどそんな痛みに気を回す余裕さえも彼女には残されていない。

 

 勝負はまだ決していない? そんなの屁理屈だ。ふざけるのも大概にしろと、そう言葉を吐き出すのは簡単である。けれども霊夢は口に出来ない。何故なら自分が霍青娥の術中に嵌ってしまったという事実もまた、最早否定のしようがなかったのだから。

 青娥の思い通りに行動し、青娥の思い通りに彼女と対峙して。そして青娥の思い通りの()()()()に付き合わされ、そして青娥の思い通りに彼女の計画は最終局面にまで達してしまっている。

 

 確かに、弾幕ごっこの勝利は目前だったのかも知れない。勝っていたのかも知れない。

 けれども、霊夢は。

 

「私、は……!」

 

 どうしようもないくらいに、紛れもなく──。

 

「ふふっ。まぁ、これ以上貴方を甚振る趣味はありませんし……。それでは、私はもう行きますね? 私からして見れば、寧ろここからが本番なので」

「ま、待ちなさいよ……。この……!」

「それでは、ごきげんよう。そしてさようなら、博麗霊夢さん」

 

 重い身体を無理矢理に動かして霊夢は手を伸ばすが、けれども青娥は足を止めない。倒れた霊夢の脇を通り抜け、そして石段を登っていく。

 遠くなってゆく青娥の背中。それを霊夢は、ただ睨みつける事しか出来ない。

 ぎりっと、霊夢は歯を噛み締める。握った拳に力が入り、擦れた皮膚から血が滲み始めた。けれどそれでも、霊夢は昂る激情を抑える事が出来ない。

 

 こんな。

 こんな事があって堪るか。ここまで良いように翻弄されて、ここまで良いように事を運ばれて。最後の最後まであの女に好き勝手されてしまうなど。

 

「退きなさいよ、いい加減ッ……!」

 

 霊夢は変わらず伸し掛かる霊魂へと抵抗を試みる。だが、やはり結果は同じ。抵抗を試みればみるほど、寧ろ身体はますます重くなっていくような気さえして。

 

「霍、青娥……!」

 

 霊夢はただ、忌々し気にその名を口にする事しか出来なかった。

 

 

 *

 

 

 拘束から逃れたキョンシーと直接対峙してからというものの、茨木華扇は強烈な()()を胸中に覚え続けていた。

 はっきりとした正体を掴んでいる訳ではない。ただ、胸の奥にしこりでも出来ているかのような。そんな奇妙な違和感を華扇は確かに覚えている。軽視なんて出来ない。キョンシーの戯言に付き合う必要なんてないのだと、それは判っているはずなのに。

 

『お前は相変わらず、頭でっかちな奴だな。茨木華扇』

 

 彼女が口にしたその言葉が、何故だか気になって仕方がない。意味のない言葉の羅列だと割り切る事が出来ないのだ。

 何なのだろう、この感覚は。一体自分は、何を気にしているのだろう。

 判らない。判らないからこそ、気になってしまう。一体何が、()()()()を引き出しているのだろうか。

 

『気晴れては、風新柳の髪を削る──』

(…………っ)

 

 なぜだ。どうして()()()が、胸の奥から溢れ出てくる?

 ()()は──。

 

「華扇さんッ!!」

「……っ!?」

 

 不意に耳を突く白蓮の声。鬼気迫る様子で名前を呼ばれて、華扇の意識は現実へと引き戻された。

 感じるのは肌を擦るような霊力の奔流。目の前に繰り広げられるのは高密度の弾幕。反射的に自らの霊力を爆発させ、華扇はその場から大きく飛び退く。

 直後、霊力の炸裂。それによる強風に華扇は身を晒されるが、それでも難を逃れる事には成功した。回避には成功。けれどもギリギリだ。もう少し反応が遅かった敢え無く被弾していたかも知れない。

 

 肝が冷える。顔を上げると、弾幕を放った張本人と視線がぶつかる事となる。

 

「むう……。チャンスだと思ったんだが」

 

 気味の悪い霊力を放出するキョンシー。

 華扇へと攻撃を仕掛けた彼女は、次なる弾幕を形成すべく改めて霊力を循環させているようで。

 

「まぁいい。次で決めれば……」

「そうはいかない!」

 

 しかし、キョンシーの弾幕は遮られる事となる。

 飛び出したのは豊聡耳神子。掲げるのはスペルカード。キョンシーが次なる攻撃へと転じるよりも先に、彼女は高々と宣言した。

 

「秘宝『斑鳩寺の天球儀』!」

 

 神子の形成する弾幕がキョンシーへと襲い掛かる。

 激しく発光する青白い光弾。つい先日まで千年以上もの眠りについていたとは思えぬ程の霊力とプレッシャーである。やはり太古の聖人は伊達じゃない。そんな人物が仙人として復活を遂げたのだから、有する力は判りやすい程に絶大だ。

 

「余所見とは余裕ですね芳香! こちらには私も一緒だという事を忘れないで貰おうか!」

「くっ……! 邪魔をするな豊聡耳!」

 

 負けじとキョンシーも応戦する。神子のスペルカードを前にして、けれども決して後れを取ってはいない。

 弾幕と弾幕がぶつかり合い、激しい炸裂が連続し続ける。圧巻の光景だ。神子もそうだが、やはりあのキョンシーのポテンシャルも凄まじい。一体、どれほどの力を隠し持っているというのだろうか。

 

「あの、華扇さん? 大丈夫ですか……?」

「えっ……?」

 

 そんな攻防が繰り広げられる中、歩み寄って来た白蓮にそう声をかけられた。

 神子の異変を瞬時に見抜き、そして危機を伝えてくれた彼女。そんな白蓮は、憂慮に満ちた表情を華扇へと向けている。

 いけない。あまりにも考え事に意識を傾け過ぎた。この状況で気を抜くなんて命取りである。もっと、気を引き締めなければ。

 

「……すいません。大丈夫です。ほんの少し考え事をしていただけですから」

「考え事、ですか」

 

 曖昧に誤魔化してみると、白蓮はそれ以上踏み込んだ質問を続ける事はなかった。納得はしていないようだが、今はあれこれと訊き出すべきではないと察してくれたのだろう。

 彼女の気遣いは助かる。今はまだ、華扇だってこの心模様をきちんと説明できる自信はない。

 少し、混乱している。喉に詰まった魚の骨みたいに、胸の中のモヤモヤが気になって気になって仕方がない。

 

 だが──。

 

「はぁっ!」

 

 凛々し気な声を上げて一際強大な霊弾を放ちつつも、神子は大きく飛び退く。並みの妖怪程度ならすぐさま白旗を上げる程に強力な攻撃だったが、しかしあのキョンシーは依然としてケロッとしていた。

 キョンシーであるが故に、恐怖心を感じていないのだろうか。

 攻撃を放ち、飛び退いた神子は華扇達の前に着地する。そしてちらりと、華扇の様子を一瞥すると。

 

「仙人様。今は彼女を止める事だけを考えましょう。雑念を抱くのは危険です」

「え、ええ。そう、ですよね……」

 

 神子の言葉に対し、華扇は頷いてそれに答えた。

 判っている。彼女の言う通り、今は余計な雑念など払拭するべきだ。幾ら胸中に強烈な違和感を覚えていようとも、それで注意力が散漫になってしまっては出来る事も出来なくなってしまう。この状況下では、あのキョンシーを止める事だけを考えるのが最善手。それは重々理解しているつもりだ。

 けれども。

 だけどやっぱり、どうしても気になってしまう。

 ()()()()。何か、重要な事から目を逸らしてしまっているかのような。

 

「神子さん。芳香さんは……?」

「……流石にあの程度ではケロッとしてますね。手を抜いたつもりはありませんでしたが、やはりそう簡単に下す事は出来ないか」

 

 白蓮と神子がそんなやり取りを交わしている。

 舞い落ちる霊力の粒子。その中からこちらを睨みつける、あのキョンシーを見据えて。

 

「単に攻撃を仕掛けるだけでは有効打とは成り得ない、ですか……。神子さん、あの子について知っている事を教えてくれませんか? 攻略法の糸口が見つかるかも知れません」

「……芳香について、ですか」

 

 白蓮の質問。けれど神子から返ってきたのは、少し困ったような反応だった。

 

「すいません。彼女について、実は私も多くを認知している訳ではないんです。千四百年ほど前……。少なくとも私が眠りにつく時点では、青娥はキョンシーなど使役していませんでした。私も彼女──芳香と出会ったのは、眠りから目覚めた後が初めてで……」

 

 神子は難しそうな表情を浮かべている。

 青娥と深い関りを持つ彼女でさえも、有する情報は少ない。そんな少ない情報を繋ぎ合わせ、漠然とした推測をする事しか出来ない。

 

「判っている事と言えば、私達が眠りについた後に青娥が使役を始めたキョンシーであるという事。そして彼女の名が宮古芳香であるという事。それと……青娥が彼女に甚く()()しているという事」

「依存……?」

 

 神子の言葉を聞いた白蓮が、どうにも不服そうな面持ちで首を傾げる。

 納得が出来ない。そう言いたげな雰囲気で、彼女は神子に訊き返す。

 

「それは、どういう意味です?」

「言葉通りの意味です。恐らく彼女は、青娥にとって大きな意味を持つ存在なのだと。私はそう感じています」

「……私達は、言ってしまえば芳香さんをこの命蓮寺で捕らえ続けていました。それなのに青娥さんは、あの子を助けようとする素振りすらこれまで一度も見せなかったのですよ? ……お二人の関係は、正直かなり淡白なもののように思えます。寧ろ青娥さんは、あの子を良いように利用しているだけではないかと……」

「そうでしょうか? ……いえ、そう見えてしまうのも仕方がないのかもしれないな」

 

 神子は続ける。自らが感じた()()を、自らでも改めて噛み締めるように。

 

「私の持つ『能力』では相手の“欲”を感じ取る事で、その本質をある程度把握する事が出来ます。術者の傀儡であるキョンシーが相手では、その効果を発揮する事は出来ませんが……。しかし、その主である青娥が相手であれば話は別です。あの時……。私が目覚めた直後、久方ぶりに再会した青娥は……」

 

 ほんの少しだけ、神子は俯いて。

 

「深い……。あまりにも深い、ある種の“恐怖心”のようなものを抱いていたのです」

 

 どこか苦しそうに、顔を顰めて。

 

「追求する事は出来ませんでした。何せ私は目覚めたばかりで、意識だってそれほどはっきりしていた訳ではなくて。そして青娥は、すぐに私の前から立ち去ってしまいましたからね……。ただ、それでも私は青娥が抱く本質の一端に触れる事は出来ました。あの時の、彼女は……」

 

 それでも神子は言葉を繋ぐ。

 

「何か……。決定的な“何か”が、変わってしまっていた……」

 

 物悲し気に、言葉を吐露する。

 

「触れたのは一端だけです。詳しい事は把握出来ていません。()()()()の本質を、私は本当の意味で理解は出来ていないのかも知れない。それでも私の中には、青娥から感じた深い“恐怖心”が確かに残っているのです。そしてその“恐怖心”は、恐らく彼女──宮古芳香に起因している」

「どういう意味です? 青娥さんが芳香さんの事を恐れているとでも?」

「いえ、そういう意味ではありません。言ったでしょう? 青娥は芳香に依存していると。青娥が恐れているのは、宮古芳香という人物ではなく──」

 

 白蓮の言葉に対し、神子はそれを否定して答えた。

 

()()()です」

「喪失、感……?」

「ええ。彼女は恐れているのですよ。……()()を、失ってしまう事を」

 

 霍青娥は恐れている。底の知れない恐怖心を抱えている。その心こそが、あのキョンシーと密接に関わっているのだと。神子はそう言うのだ。

 改めてあのキョンシーを視界に捉える。血色の悪い肌。焦点の合わぬ瞳。紛れもなく、人間の死体。本来ならば墓の下で眠っているはずのそれに、霍青娥の手によって疑似的な魂魄が宿らされている。傀儡として、良いように利用されている──。

 

「私はまだ、今の青娥の本質を理解し切れていません。判ったつもりになっているだけの部分だってあるかもしれない。だけど……だとしても」

 

 それなのに。青娥はそんな死体に依存しているのだと神子は言うのだ。

 都合の良い単なる傀儡などでは決してないのだと、彼女はそう主張しているのである。

 

「これだけは断言できます。……宮古芳香という存在は、今の青娥にとって心の拠り所と成り得ている。宮古芳香という存在のお陰で、今の青娥があるのです」

「拠り所、ですか」

「そうです。それ故に……」

 

 そこで神子は一呼吸置く。そして歩み寄ってくるキョンシーを、しっかりと見据え直して。

 

「宮古芳香は、青娥にとってとても大切な存在なのです」

 

 神子は、そう断言した。

 あのキョンシーは青娥にとってとても大切な存在。それは、相手の“欲”を感じ取る事が出来る神子だからこそ、共感出来た青娥の想い。直接聞いた訳ではないのだろう。けれども神子には、それが何となく判ってしまう。

 詳しい事までは知らないと、神子はそう言っていた。今の青娥の本質を本当の意味で理解出来ている訳ではないのだと、彼女はそう言っていた。ただ、それでも彼女が話してくれたこの感覚は、紛れもなく青娥本人から伝わってきたものだから。

 

(あのキョンシーは、霍青娥にとってとても大きな意味を持つ存在……)

 

 華扇は改めて思案する。

 目の前にいるキョンシー。霍青娥の傀儡。良いように扱われるだけの操り人形であると、華扇はそう思っていた。

 けれども、違う。そうじゃない。霍青娥にとって、あのキョンシーは単なる操り人形などでは決してないのだと。神子はそう主張している。あのキョンシーは、青娥にとってとても大切な存在なのだと。青娥にとって、彼女は心の拠り所に成り得ているのだと。

 

 他でもない。相手の“欲”を感じ取る事が出来る神子が──。

 

(人間の死体に依存している……? いや、違う。多分、あの子が死体となってしまう前。つまり、生前の……)

 

 華扇の思考がぐるぐる回る。ただひたすらに、回り続ける。

 あくまで華扇の個人的な推測。けれどもそれは、神子から聞いた情報を繋ぎ合わせただけの仮説という訳ではない。神子の話を聞き、あのキョンシーを改めて見据えて。茨木華扇の心は、確かに掻きむしられていた。

 少しずつ、はっきりとしてゆく。これは()()だ。もう何年、何十年、何百年。いや、千年以上も前の記憶。これまで生きてきた年数と比較すれば、ほんの一瞬にしかならない小さな出来事。けれども今思い返せば、茨木華扇にとってその出来事はとても大きな意味を持っていた。

 

 いや。華扇にとっても、とでも言うべきか。

 なぜならば。

 

『気晴れては、風新柳の髪を削る──』

(……ッ)

 

 再び脳裏を過る“詩”。不意な感覚に、華扇は思わず右手で頭を押さえた。

 けれどもこれは、先程までの微かな想起とは訳が違う。そんな曖昧な感覚なんかじゃない。

 

 華扇は目を背けない。過ったこの“詩”を、追いかけて。

 

「──水消えて、波は旧苔の髪を洗う」

「えっ……?」

 

 ぼそりと呟いた華扇の言葉に反応したのは白蓮だった。

 怪訝そうに小首を傾げる白蓮。けれども華扇は、想起を止められない。胸の中から溢れ出てくる“記憶”が、目の前にある“現実”と結びついてゆく。

 確かな感覚。頭の中に広がっていくのは、あの日の光景──。

 

「……ああ。そう、でしたね」

 

 そして華扇は、改めて呟く。

 

「確かに、()()()の名前も芳香だった……」

 

 華扇は思う。未だ微かに頭痛を感じる頭の中を回転させて、彼女は思いを巡らせる。

 そう。そうだ。そうだった。どうして、もっと早く気付かなかったのだろう。宮古芳香という名前を聞いた段階で、ひょっとしたらという感覚くらいなら抱けたはずだ。それなのに、この瞬間まで結びつける事が出来なかったなんて。

 

 いや。違う。出来なかったのではなく、単に華扇がそうしなかっただけだ。

 無意識のうちに否定していた。彼女が()()()であるはずがないと。だって、丸っきり印象が変わっていたから。面影だって、殆ど残っていなかったのだから。

 気づかない。気づくはずもない。だって、まさか彼女がこんな事になっているなんて──。

 

「仙人様……? まさか貴方は、芳香の事を知っているのですか?」

「…………っ」

 

 神子にそう尋ねられ、華扇は頷いて肯定する。神子が相手なら、ただそれだけでも華扇の内情は伝わっている事だろう。

 溢れ出てくる。一度現実と結びつける事が出来たのならば、後は堰を切ったかのようだ。

 霍青娥の真意を読み取れた訳ではない。なぜ彼女がこんな『異変』を引き起こしているのか、それが理解出来た訳ではない。

 

 ただ、華扇は。

 

『わたし、約束したんです』

 

 ()()()()を、想起する事が出来たからこそ。

 

『仙人さまと──』

 

 やるべき事が、胸の内で固まった。

 

「……まさか、こんな巡りあわせが有り得るなんて、ね」

 

 華扇は顔を上げ、そして足を踏み出す。

 改めてあのキョンシー──宮古芳香の事を見据え、そして対峙する。これ以上は目を逸らさない。顔を背けたりなんかしない。彼女が宮古芳香であると言うのなら、華扇は。

 

「どうやら私は、もう一度青娥さんと会う必要があるみたい」

 

 一人、決意を新たにする。

 

「もう一度会って、ちゃんと話を聞かないと」

 

 色々と気になる事が出来た。聞かなければならぬ事が溢れ出て来た。

 霍青娥。危険な力を持つ邪仙だと思っていた。こうして幻想郷に害を及ぼすのなら、看過する事は出来ないのだと。何らかの形で彼女の暴挙を止める必要があるのだと、華扇はそう認識していた。

 けれども、それだけではなかった。

 もしも本当にあの死体が宮古芳香であったのだとして、それを霍青娥がキョンシーとして使役しているのだとすれば。

 そしてもしも本当に、宮古芳香が霍青娥にとっての心の拠り所に成り得ているのだとするのなら。

 

(きっと……。私にとっても、無関係ではないと思うから……)

 

 だからこそ。

 

「……心、ようやく落ち着きましたか?」

 

 声をかけて来たのは白蓮だ。

 少し、ホッとした表情。華扇の隣に立つ命蓮寺の住職は、ほんの少し心の荷が降りたような表情を浮かべている。華扇の乱れた内情が、彼女の不安を煽ってしまったのだろうか。

 ──初対面の自分さえも、気にかけてくれるなんて。

 誠意をもって、華扇は彼女に答えた。

 

「ええ。もう大丈夫です。これ以上の雑念は抱きません」

「ふふっ。それなら良かったです」

 

 ほんのりと、白蓮は笑みを浮かべて。

 

「貴方と芳香さんがどういった関係なのか、今は詳しく聞きません。きっと何か、複雑な事情があるのでしょう?」

「……そうですね。貴方の言う通りです」

 

 そう。それは、とても複雑な事情だ。誰かに気軽に話せるような内容じゃない。

 茨木華扇の個人的かつ勝手な事情。けれどそれでも、白蓮は何となく察してくれている。話せないのなら無理に話さなくても良いと、言葉にはせずともそんな思いを雰囲気で伝えてくれる。

 

 いや、白蓮だけじゃない。豊聡耳神子だって、同じ気持ちを抱いてくれていて。

 

「さて。仙人様も吹っ切れた事ですし、一気に片を付けますか」

 

 彼女も何も聞いて来ない。ひょっとしたら友人である青娥にも関わる事であるはずなのに、それでも神子は気にならないフリをしてくれる。

 何だかちょっぴり申し訳ない。けれども彼女らの気遣いを無碍には出来ないのだと、そんな思いも強く存在しているから。

 

 だから今は、彼女達の厚意に甘えさせてしまおう。

 彼女達への謝罪と感謝を、心の中で抱いて。

 

「行きましょう。あの子を……芳香を、止めるために」

 

 華扇達は、三人揃って宮古芳香へと対峙する──。

 

「……相談は終わりか? 待ちくたびれたぞ」

 

 いつの間にか立ち止まっていた芳香が、不意にそんな事を言ってくる。

 まさか律儀に待っていてくれたのだろうか。攻撃を仕掛けるタイミングだって、幾らでも存在していたはずなのに。

 

「随分と余裕ね。不意打ちなんて必要ない、という事?」

「ん? いや、違う。私はお前達が大人しくしてくれさえすればそれで良かった。だから今の状況、こちらから攻撃を仕掛けるリスクを負う必要はないと判断した」

「賢明な判断ですね。少しでも妙な動きを見せれば飛び掛かろうと思ってましたから」

 

 言葉を被せてきたのは白蓮だ。彼女は身に纏う魔力の純度をますます高めている。

 華扇の事を気遣いつつも、確かに白蓮は鋭い警戒心を張り巡らせ続けていた。口にした言葉の通り、芳香が妙な動きを見せたその瞬間にその魔力を爆発させようと考えていたのだろう。

 今の芳香の行動理由は、主である青娥の目的を達成する事。その障害と成り得ないのならば無理に排除はしないという事なのだろうか。

 

 けれど生憎、華扇達もこれ以上大人しくし続けるつもりはない。

 

「芳香。こんな事はもう止めましょう? 春を集めて、一体貴方にどんなメリットがあると言うの?」

「そんなの私の知る事ではない。私に齎されるメリットなんてどうでもいい事だ。そもそも私は青娥のキョンシー。どうしてお前の言葉などに従う必要がある?」

 

 ダメ元で説得を試みてみたが、やはり聞く耳は持たぬようだ。

 彼女に言葉を並べた所で無意味である。今の芳香は、霍青娥の忠実なキョンシーとして活動しているのだから。

 

「……そう。なら、仕方ないわね」

 

 やはり戦うしかない。

 これ以上『異変』を続けると言うのなら、力づくでも。

 

「神子さん、白蓮さん。ここは波状攻撃を仕掛けましょう。今の芳香が相手では、バラバラに攻撃しても効果は薄いはずです」

「でしょうね。ですが良いんですか仙人様? あまりスマートな戦い方とは言えなくなりそうですが……」

「先程も言った通り、下手に搦手を仕掛けるのは却って危険です。単純ではありますが、今は連続攻撃で一気に押し切ってしまうのが効果的かと」

「ふっ……。やはり仙人様もそう思いますか? でしたら決まりですね。こういう戦法、私は嫌いじゃないですよ?」

 

 戦法と呼べるほど大それたものでもないが、異存がないようなら神子の言う通り決まりである。

 隙を見て波状攻撃を仕掛け、一気に決める。これ以上、戦闘を長引かせる訳にもいかない。

 

「では、私と神子さんが先に仕掛けましょう。華扇さんは殿(しんがり)をお願いします」

「……判りました。神子さんもそれでよろしいですか?」

「ええ。お任せ下さい、仙人様」

 

 最低限の意思疎通を終え、華扇達は改めて芳香に向き直る。

 つい先ほどまでは大人しくこちらを観察するだけだった芳香。けれども華扇達が抵抗の意思を見せ始めた今、彼女の振舞いも変わってきていた。

 

 ──禍々しい、雰囲気。彼女を取り巻いていた霊力が目に見えて色濃くなり、周囲に漂い始めたのである。烈風さえも逆巻き始め、境内に舞い散る粉雪も吹き飛ばしてゆく。

 明らかな敵意。膠着状態の瓦解。禍々しい霊力を高めつつも、芳香は腕を掲げると。

 

「まったく、残念だ。大人しく成り行きに身を任せていれば、悪いようにはしなかったものを」

 

 そして芳香は自らの霊力を炸裂させる。

 華扇達三人を相手にしても尚、臆する事もなく。

 

「毒爪『ポイズンマーダー』」

 

 振り下ろされる芳香の腕。鋭い爪で空間が引き裂かれたかのように、鮮やかの弾幕が華扇達に向けて放たれた。

 青と赤を基調とした煌びやかな弾幕。一見すると目を奪われる程に綺麗な印象ではあるが、しかし攻撃という観点から見ると実に殺意たっぷりである。非常に広範囲、かつ高密度の弾幕。籠められた霊力も強大で、直撃を許せばひとたまりもないだろう。芳香も芳香で、華扇達を一気に仕留めようとしているのだろうか。

 

 だが、そう簡単には決めさせない。

 

「よしっ……。今だッ!」

 

 神子のそんな掛け声を合図に、華扇達はそれぞれ散開した。

 華扇は後方。そして神子と白蓮は前方に向かって左右。それぞれの方向に飛び退いて、まずは芳香のスペルカードを攻略する。

 非常に攻撃範囲の広いスペルカード。その上こちらの動きをある程度追尾して放たれる攻撃だが、それ故に固まって動くと却って危険である。ここは少しでも注意を分散し、密度を薄くする事に徹した方が良い。

 

 一先ず華扇は回避に専念する。仕掛けるべきは波状攻撃。今は神子と白蓮に任せるべき時。

 

「神子さん!」

 

 木霊するのは白蓮の声。向かって右側に飛び退いて弾幕の回避を続けていた彼女が、丁度芳香の側面に回り込む事に成功した辺りで神子の名前を呼んでいる。

 当の神子が飛び退いた先は、白蓮とは真逆の方向。向かって左側。やはり芳香の側面。白蓮と合わせて、芳香を挟み込むような立ち位置を飛翔していて。

 

「白蓮! 君は好きなように攻撃を! 私がそれに合わせる!」

「っ! 了解です!」

 

 神子と白蓮が揃ってスペルカードを取り出す。芳香の放つ弾幕を掻い潜りつつも、彼女らは高々に宣言した。

 

「光魔『スターメイルシュトロム』!」

「仙符『日出ずる処の道士』!」

 

 白蓮と神子。神子の方がほんの少し遅れる形で魔力と霊力が放出され、展開された二人の弾幕が一斉に芳香へと襲い掛かった。

 雰囲気こそほんのりと似ているものの、それぞれ全く別種の弾幕。あの二人だって、出逢ってからまだまだ日が浅い段階のはず。そんな状態での急ごしらえのコンビネーションなど、単に噛み合わせるだけでも困難なはずだ。

 

 しかし、実際はどうだろう。

 それほど深い関係を築ける程の時間なんて無かったはずなのに、二人の弾幕は驚く程に融和しているのである。ぎこちなさだって殆ど感じられない。芳香の放った弾幕を包み込むかのように、彼女達の弾幕は空間を着実に支配してゆく。

 

「むっ……!?」

 

 芳香の様子が少しだけ変わる。白蓮達の弾幕に、確実に押され始めているようだ。

 急ごしらえとは思えぬ程に抜群のコンビネーション。白蓮の実力も相当なものだが、今回の場合は恐らく神子の手腕が大きいだろう。

 彼女は相手の欲を理解するで、その本質を把握する事が出来ると聞く。彼女はそんな『能力』を最大限に活用し、白蓮の弾幕をある程度読んでから自らも弾幕を展開しているのだろう。自分が白蓮に合わせると神子はそう言っていたが、それはつまりこういう事だったのである。

 

 光魔と仙符。二種類のスペルカードを相手に芳香も迎撃を続けるが、やがて捌き切る事も難しくなり。

 

「ぐっ!?」

 

 攻撃が、届く。

 芳香が展開していた弾幕が乱れ、大きな隙が華扇の前に晒されて。

 

「今です! 華扇さんッ!」

 

 白蓮の声。彼女が名前を呼ぶのとほぼ同じタイミングで、華扇は動いていた。

 頷いて白蓮の言葉に応じた後、華扇は指笛を吹く。するとそんな華扇の呼び声に答えたのは、一羽の大きな鳥である。甲高い鳴き声と共に華扇の傍らに降り立つのは、彼女のペットでもある大鷲。

 竿打。渾身の一撃を決めるには、やはり彼の力が必要だ。

 先の青娥との交戦の際も、竿打には随分と負担をかけてしまった。今回も相手が相手であるだけに、あまり無茶はさせたくなかったが──それでも。

 

「行くわよ、竿打!」

 

 彼は華扇を信じてくれてる。そんな竿打の信頼を、どうして裏切る事ができよう。

 だから華扇も竿打を信じる。竿打の力を信じ切って、彼女は力強く宣言した。

 

「鷹符『ホークビーコン』ッ!」

 

 華扇が放った弾幕と共に、竿打が鋭く突進を始める。芳香が見せた大きな隙を、華扇も竿打も見逃さない。

 華扇の補助により、強い霊力をその身に纏った竿打。そして広がってゆく弾幕。乱れた芳香の弾幕を縫って、奥へ奥へと進んで行って。そして隙を見せた宮古芳香を、竿打は瞳に捉えて離さない。

 

 直後、衝撃。

 竿打の鋭い突進と華扇の弾幕がぶつかり合い、強大な霊力が周囲に四散する。煌びやかな光と共に四散した霊力が炸裂し、激しい爆発が芳香を包んだ。

 

 白煙が周囲に漂い始める。華扇の放った竿打とのコンビネーションは、確かに強烈な一撃を芳香へと浴びせられたはずだ。神子と白蓮のスペルカードに挟み込まれて、その対処に手一杯だった芳香に華扇の弾幕を迎撃する程の余裕は残されていなかったはず。流石の彼女もただでは済まないと思うのだが。

 

「……っ。どう、なったの……?」

 

 一時の静寂。思わず華扇は呟く。

 周囲の霊力が乱れすぎて、芳香がどうなったのかを判断する事が出来ない。視界も悪く、目で様子を窺う事も難しい。

 確かに、手応えはあった、手応えはあったのだけども、相手はあの芳香である。

 油断なんて、出来る訳が──。

 

「っ! 仙人様! 前ですッ!」

 

 ──予感的中。

 烈風。神子の叫び声とほぼ同時に瞬間的に白煙が吹き飛ばされ、“何か”がこちらに飛び込んでくる。“何か”が何なのかなんて、そんなの推測するまでもない。

 芳香だ。あの攻撃を受けても尚、彼女は活動を停止していない。

 

「龍符……!」

 

 しかし華扇だってこの展開を予測していなかった訳ではない。もしかしたら芳香ならば、この攻撃さえも凌ぎ切れるのではないかと。そんな予感が微かに存在していたから。

 故に華扇は素早く反応する。鷹符の次に、もう一枚。スペルカードを宣言すべく、瞬時に霊力を高めるけれど──。

 

「……ッ!?」

 

 ──何かが、おかしい。

 

(この霊力……)

 

 飛び込んでくる芳香。彼女が纏う禍々しい霊力。

 烈風と共に伝わってくる。鋭利な何かで肌を突き指されるかのような感覚。流れ込んでくる、彼女の霊力は。

 

(さっきよりも、強くなっている……?)

 

 華扇は思わず息を呑んだ。

 どうなっている? 華扇達のスペルカードは確かに届いていたはずだ。凌ぎ切る事が出来たとしても、流石にダメージがゼロという訳でもないはず。ならば操れる霊力だって少なくなるのが普通であるはずなのに。

 その逆。まさか芳香の『能力』か? それが何等かの作用を齎して──?

 

「くっ……!」

 

 考えていても仕方がない。幾ら霊力が強くなかろうが、最早迎撃する他に道はないだろう。

 予定通りのスペルカード。けれどまだ少し弱い。芳香の霊力が想像以上に強く、このままでは本当にギリギリだ。いや、ひょっとしたら、ギリギリ間に合わない可能性も──。

 

「……終わりだな」

 

 芳香の、声。

 

「まずはお前だ、仙人モドキよ」

 

 激しい霊力を身に纏った芳香が迫る。それでも華扇は宣言したスペルカードを放つ為、ギリギリの所まで何とか芳香を引き付けようとするのだけれども。

 

 その直後。

 強烈な“力”の衝突が、周囲に轟音を響かせた。

 

 

 *

 

 

 霍青娥は昇る。白玉楼に続く石段を、一歩一歩昇っていく。

 迷いはない。博麗霊夢との弾幕ごっこを繰り広げ、彼女に痛手を負わされたように見えた青娥だったが、そんな消耗さえも感じられぬ程にその足取りは軽やかだ。

 先ほどのダメージが嘘のよう。彼女はまるで疲労していない。

 

 いや。厳密に言えば、彼女は疲労していない訳ではない。そんな疲労など吹き飛んでしまう程に、心が躍っているのである。

 

 もうすぐだ。

 もうすぐ、彼女の悲願を達成する事が出来る。

 

 博麗大結果を利用した大規模術式の発動。幻想郷から次々と集められる“春”。流れ込む先はここ冥界。集まる地点は、白玉楼。──厳密に言えば、西行妖。

 西行妖に眠る()()。その正体が何なのか、青娥はある程度の当たりをつけている。彼女の予想が正しければ、それは。

 

 それは、限りない程に絶対的な──。

 

「ふふっ……」

 

 白玉楼。その正門前まで、青娥は辿り着く。

 広がるのは予想通りの光景。幻想郷から奪った“春”が楼の周囲を取り巻き、まるで淡紅色のカーテンのようだ。そしてより一層淡紅色が集まっているのは、白玉楼の本館から少しだけ離れた場所。

 西行妖。ここからでも、その壮観な姿を確認する事が出来る。

 予定通り。少しずつだが、花を咲かせ始めている。春になっても花の一つすら咲かせなかった妖怪桜が、他の桜と同じように淡紅色へと染まってゆく。

 

「あと一歩、ですね」

 

 ──けれども。

 そんな壮大な光景の中に、()()が一つ。

 

「……よくもまぁ、そんな風にのこのこと現れられたものね」

 

 流れこんでくるのは少女の声。西行妖から視線を外し、青娥は改めて白玉楼の正門へと向き直る。

 そこにいたのは声の主。乱れる春の真ん中で、絹のように美しい金色の髪を棚引かせる少女。容姿は可憐。けれど菖蒲色のその瞳に怒りにも似た感情を籠め、鋭く青娥を睥睨している。

 

「あらあら」

 

 にこりと青娥は笑みを浮かべる。

 彼女が登場するか否かは正直五分と五分だった。幻想郷に成り立つ絶妙な()()()()を保つ為、基本的に干渉は最低限。けれどもこうなってしまっては、流石の彼女も動かざるを得ないという事か。

 

 ならばそれでも良い。

 歓迎しよう。真なる目的を果たす為、多少の困難は良いスパイスだ。

 

「これはこれは、ようやくご登場ですか。お初にお目にかかります」

 

 青娥はぺこりとお辞儀をする。

 そして青娥なりの誠意を払い、少女の名前を口にした。

 

「八雲紫さん」

 

 

 *

 

 

 宮古芳佳の纏う霊力は実に絶大なものだった。

 華扇達の連続攻撃を凌ぎ切り、不意に白煙の中から飛び出してきた芳香。どんなカラクリがあるのか、先程よりも高い霊力を有していた彼女は、真っ先に華扇を狙って突進してきたのである。

 

 そんな彼女に対し、華扇は次なるスペルカードを宣言して迎撃しようとした。が、それでも芳香の纏う霊力は予想以上に強大だ。ギリギリまで引き付けてこちらの霊力を出来る限り高めたとして、上手く迎撃できるかどうかは微妙な所だった。

 

 けれどそれでも、やるしかないと思った。

 こんな所で諦める訳にはいかない。芳香を止めて、もう一度青娥に会いに行く。華扇はそう心に決めたのだ。だから、何としてでもこの窮地を切り抜けなければならない。

 多少の傷なら許容する。今は自分の身体よりも、芳香を止める事だけを優先するしかない。

 そう、ある種の覚悟を決めて。華扇は次なるスペルカード、龍符『ドラゴンズグロウル』を放とうとした。

 

 放とうとしたのだが──。

 

「……っ!」

 

 強烈な“力”の衝突。周囲に響く激しい轟音。しかし華扇と芳香が正面衝突してしまった訳ではない。

 華扇は霊力を高めている。けれどもまだ、()()()()()()()()()()()()()()。にも関わらず、芳香の攻撃は華扇に届いていないのだ。

 

 確かに芳香は突進してきた。華扇を確実に仕留めるべく、強烈な霊力をその身に纏って。

 だけれども。

 彼女の攻撃は届かない。華扇の目の前。直前の所で、()()()に阻まれてしまったからだ。

 

 力の衝突。けれどもそれは華扇との衝突ではなく、目の前にいる()()との衝突で。

 

「なっ……」

 

 この、少女は──。

 

「なぁんだよ。随分と面白そうな事してるじゃないかぁ」

 

 華扇に向けて突き出された芳香の拳は、突然乱入してきたその少女の手によって受け止められている。あの強烈な一撃を、軽々しく。それもどこか楽しんでいるかのような様子で。

 

「私も混ぜてくれよぉ?」

 

 くるりと少女は振り返る。

 小柄な体格。飴色の長い髪。そして頭から生えた二本の──角。

 鬼。鬼の少女。華扇は彼女を、知っている──。

 

「あ、貴方は……」

 

 まさかこんな所で出会うなんて。こんなタイミングで現れるなんて。

 彼女は。鬼が地底に移り住むよりも以前。かつて『山の四天王』の一人として恐れられていた、不羈奔放の鬼の少女は。

 

「萃香……!?」

 

 伊吹(いぶき)萃香(すいか)

 相も変わらず酔っ払った様子の彼女は、華扇に向けてケラケラと笑みを浮かべていた。


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