桜花妖々録   作:秋風とも

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第102話「結界」

 

 茨木華扇が霊夢から頼まれたのは、命蓮寺のキョンシーを無力化する事だった。

 しかも単純に無力化するだけでは駄目だ。重要なのはタイミング。キョンシーが不穏な動きを見せた後に何等かの術を行使し、キョンシーの行動を阻止して欲しいのだと。霊夢にはそう頼まれていた。

 中々どうして、無茶な要求である。相手がどのタイミングで仕掛けてくるのかも判らないのに、気を張りっぱなしで根気よく見張っていろという事である。しかも事前に阻止するのではなく、事後に収束させろ等と。それが霍青娥の鼻を明かすのに最も効果的な方法らしいが。

 頼ってくれるのは良い事だが、些か人使いが荒すぎではないか。

 

(まぁ……。今回くらいは、仕方ないか)

 

 状況が状況だ。いつも通りの『異変』ならばあまり自分が出しゃばるのも良くないのかも知れないが、相手はあの霍青娥。幾ら博麗の巫女である霊夢とは言え、成人にも満たない人間の女の子だけでは流石に荷が重いだろう。それはあの邪仙と直接対峙した事のある華扇が一番良く理解している。

 霍青娥は危険だ。幾ら仙人を名乗っているとは言え、彼女が真の意味で人間の味方をするとも思えない。天道を志す身としても、彼女の暴挙はこれ以上放っておけない。

 

「む、むむむむぅ……! 何をする……!」

「無駄な抵抗よ。大人しくしてなさい」

 

 拘束されたキョンシーが何やら唸っているが、その程度の抵抗じゃこの術は突破出来ない。華扇だって、仙人としての修行をそれなりに積んで来たつもりである。こんな所で後れを取るつもりはない。

 

(さて……)

 

 術の行使を維持しつつも、華扇は視線をキョンシーから逸らす。

 命蓮寺の境内。そこに倒れ伏している何人かの人物。意識を失っているだけで命を奪われてしまった訳ではなさそうだが、もう少し早くキョンシーを拘束出来ていれば彼女らも余計な危害を受けずに済んだかも知れない。

 術の行使までに時間がかかり過ぎた。自分もまだまだ精進が必要、という事か。

 

「星、ムラサ。負傷者の救助を……」

「判ってます……! ムラサ、貴方は一輪を! 雲山は私が助けます!」

「う、うん……!」

「布都。君もお願いできますか?」

「うむ……! 任せてくだされ、太子様!」

 

 意識を失った三人の妖怪は、あの仙人と命蓮寺の僧侶達が介抱してくれるらしい。それなら一先ず安心だ。華扇は少しだけ肩の力を抜き、そして拘束したキョンシーへと改めて向き直る。

 霊力で形成された鎖により身動きを封じられたキョンシーだが、今も尚脱出する為に身動ぎを繰り返している。その度に術の行使者である華扇にも衝撃が伝わってきているが、この程度ならまだ問題なさそうだ。

 

 彼女が纏う淡紅色の霊力は一見すると強力だが、しかしその反面、彼女自身も未だその力を使い熟せていないように見える。あくまで彼女を中心とした一箇所に霊力を集めているだけで、それを攻撃に転換させるような事もしてないようだ。

 それならある程度抑え込む事だって可能である。こうして動きを封じてしまえば、後は勝手に霊力を放出して大人しくなってくれるはず。

 

「あのっ……。貴方は、山の仙人ですよね……?」

 

 術の行使を続けていると、話しかけてきたのは命蓮寺の住職だ。

 拘束されたキョンシーを挟んだ向こう側。紫と金のグラデーションが特徴的な長髪を棚引かせる彼女は、どこか緊張した面持ちを浮かべていて。

 

「念の為にお聞きします。貴方は私達の味方……という認識でよろしいのでしょうか?」

「……そうですね。少なくとも、貴方達と敵対するつもりはありません」

 

 きっぱりと、華扇は答える。

 

「私の目的はあくまで霍青娥を止める事。これ以上、この妙な『異変』を持続させる訳にはいきませんから」

 

 霊夢が『異変』を解決するまで、このキョンシーの動きを止める。命蓮寺の僧侶や神霊廟の仙人達が青娥に加担していないのなら、華扇としても彼女達と敵対するつもりはない。寧ろ、目的が一致しているのなら協力すべきだと思っているくらいだ。それほどまでに相手は得体の知れない存在で、何を仕掛けてくるのかもはっきりとは判っていないのだから。

 

「ふぅ……」

 

 術の行使を持続させながらも、華扇は少しだけ深呼吸して胸中の感情を落ち着かせる。無駄に体力を消耗せぬよう、必要最低限の霊力を常に送り続けて。

 

(霊夢。後は任せたわよ)

 

 一先ず今は、霊夢の事を信じて待つしかない。

 

 

 *

 

 

 博麗霊夢は究極的には確かにただの人間だが、こと弾幕ごっこ(スペルカードルール)においては無類の強さを誇っている。

 スペルカードルールとは、元々霊夢が考案した決闘方式の一つである。幻想郷における人間と妖怪の有り様。そのバランスを保つという点においてこの決闘方式は実に有用であり、事実この幻想郷では最もポピュラーな方式として既に広く浸透している。力の弱い人間でもある程度妖怪に挑み易くなり、そして妖怪側もある程度の無茶が可能となったのだ。

 

 そんな決闘方式の発案者だから──という理由も、多少なりとも含まれているのだろうけれど。そんな事実を差し引いても、霊夢の弾幕ごっこの実力はずば抜けていると言っても過言ではないだろう。

 スペルカードルールが確立してから、幻想郷はこれまで幾つもの『異変』に見舞われた。その度に霊夢はこの決闘方式に則り、弾幕ごっこで首謀者を下してきたのである。故に並みの妖怪が相手ならば退治するのに赤子の手を捻る程度の労力で十分だし、例え異変の首謀者レベルが相手だろうと後れを取るつもりはない。

 

 博麗の巫女として、異変に対して霊夢が取るべき行動はいつだって単純明快だ。

 スペルカードルールに則り、弾幕ごっこで異変の首謀者をぶっ飛ばす。それは今回の異変だって例外ではない。

 

「霊符『夢想封印』!」

 

 スペルカード宣言。霊夢から放出された霊力が色とりどりの弾幕を形成し、それらが一斉に霍青娥へと襲い掛かった。

 眩い発光。炸裂する霊力。スペルカードルールに則っているとはいえ、霊夢の弾幕に容赦などない。確実に相手を下す為、手を抜くような事もせず常に全力。そもそも異変の首謀者を相手に遠慮なんて必要ない。

 

 『夢想封印』によって炸裂した霊力は、そのまま煌びやかな粒子となって周囲に舞い落ちてゆく。直撃を許せば妖怪だろうと致命傷になりかねない程の威力だったが、けれど相手だって一方的に下される程ヤワな奴ではない。

 煌びやかな霊力の粒子が、青娥の霊力によって一気に振り払われる。『夢想封印』の爆発に巻き込まれたようにも見えたが、しかし彼女はかすり傷の一つも出来ていない様子で。

 

「ふぅ……。やっぱり、中々の霊力ですね。流石は博麗の巫女です」

「ふんっ」

 

 苛立ちを隠さずに霊夢は鼻を鳴らす。

 判っていた事だが、やはりこの程度の弾幕では殆ど有効打と成り得ない。これまでコソコソと暗躍を続けるだけの印象だったが、それでもそれなりの実力を有した相手であるらしい。

 何せ、あの華扇を一度あそこまで追い込んでいるのである。決して脆弱な相手だという訳ではない。

 

「ったく。いい加減、大人しく観念してくれない? さっきも言ったでしょ? あんたの下らない計画もこれでお終い。これ以上の抵抗なんてみっともないと思わない?」

「あらあら……。そんな、つれない事を言わないで下さいよ。異変の首謀者は弾幕ごっこで懲らしめるのが鉄則なのでしょう?」

 

 飄々とした様子で、青娥がそう答える。相も変わらず人を食ったようた態度の女だが、けれども漂わせる雰囲気は先程とは少しだけ変わっている。

 ほんの少しの動揺。飄々とした態度の裏で、彼女は確かに焦りの念を覚えているような様子で。

 

(……やっぱり、あのキョンシーに春を集めさせてたって訳ね)

 

 霊夢の予感は確信に変わっていた。

 まず初めに青娥本人が西行妖のもとへと向かい、そこで春を集めさせたあのキョンシーを召喚する。そして集めた春で西行妖を開花させようという寸法だったのだろう。しかし当のキョンシーに関しては、今頃華扇が拘束してくれているはず。故に彼女が青娥の召喚に応じる事はない。

 霍青娥の計画は既に頓挫している。後はあちらが観念して降伏するのを待つか、いつも通り霊夢が弾幕ごっこで彼女をぶっ飛ばすかのどちらかだ。霊夢としては、ぶっちゃけ前者の方がこちらも楽で助かるのだが。

 

「あくまで降伏するつもりはないって訳?」

「ええ。だって私はまだ負けた訳ではないでしょう?」

 

 減らず口だ。霊夢は心の中で舌打ちした。

 この邪仙、まだ抵抗を続けるつもりなのだろうか。それとも、実はまだ何らかの策を隠しているとでも言うのだろうか。

 ──いずれにせよ、あちらがその気なら仕方がない。霊夢は懐から何枚かの御札を取り出し、改めて青娥へと向き直った。

 

「まったく、仕方ないわね。そんなにぶっ飛ばされたいんなら、お望み通りにしてあげるわ」

「ふふっ……。そう上手くいくかしら?」

 

 青娥はそう言い返すと、おもむろに両腕を軽く広げて何やら意識を集中し始める。一瞬の隙。けれど霊夢がそんな隙を突くよりも先に、青娥の霊力が()()()に増加した。

 黒。それはあまりにもどす黒い、光。酷く歪で、そしてあまりにも邪な霊力。それがゆらゆらと、青娥の身体から溢れ始めている。そしてその霊力は着実に周囲へと充満し、冥界特有の冷たい霊気を少しずつ汚染してゆく。

 

「っ! あんた、それ……」

 

 覚えがある。神霊騒動の際、博麗神社に充満していた霊力と同じものだ。

 霍青娥特有の奇妙な霊力。様々な霊力を乱雑に掻き集め、そして強引に掻き混ぜたかのような。そんな、あまりにも気味が悪すぎる力。

 

「さて、次はこちらの番ですよね?」

 

 ニヤリと笑うと、青娥は放出した霊力から次々と光弾を形成する。辺り一面を覆いつくす程の黒い光が、霊夢の眼前に現れた。

 ──高密度の弾幕だ。霊夢に対してこれまで防戦しか続けていなかった霍青娥による、初めての攻撃。その圧倒的な威圧感を前にして霊夢は一瞬だけ息を呑んでしまうが、けれどもすぐに気を引き締め直す。見た事もないような禍々しい霊力。少しでも気を抜けば危険だ。

 

「お手並み拝見、ですね」

「チッ……」

 

 青娥が掲げた手を振り下ろすと、展開された弾幕が一斉に霊夢へと襲い掛かる。舌打ち混じりに、霊夢は弾幕の回避を始めた。

 霊弾ひとつひとつの弾道はほぼ一直線だが、何分数が膨大だ。それらが様々な角度から射出され、息つく暇も与えずに霊夢のギリギリを掠めていく。ごく基本的かつ単純な弾幕ではあるが、ここまでの密度となると回避するだけでも一苦労である。

 

 まぁ、()()()()の弾幕なら、霊夢にとっても初体験という訳でもないが。

 身を翻してギリギリの所で弾幕を躱す霊夢だが、決して被弾は許さない。身体を捻り、弾幕を回避し。寧ろ少しずつ、青娥へとにじり寄っていくくらいで。

 

「へぇ……」

 

 関心したような声を上げる青娥。それと殆ど同じタイミングで、霊夢は手に持っていた御札を青娥に向けて投げつけた。

 

「食らいなさいッ!」

 

 青娥の弾幕を縫うように飛んでいく御札。籠められた霊力が放出され、一つの弾幕として青娥を迎撃する。そのまま御札は勢いよく青娥へと着弾。何発かの炸裂音が周囲に響き渡るが。

 

「残念。この程度じゃ届きませんよ?」

「……っ」

 

 ギリギリの所で物理的な結界に阻まれる。そして青娥は、懐から一枚のカードを取り出すと。

 

「スペルカード宣言」

 

 青娥が展開していた弾幕の形が変わる。周囲に漂う霊力が、一瞬だけ青娥へと収束されて。

 

「邪符『ヤンシャオグイ』」

 

 青白い光弾が、収束した霊力から放たれた。

 先ほどの高密度弾幕から一変、出現した光弾は数が多い訳ではない。精々、指で数えられる程度。弾速こそそれなりだが、スペルカードを宣言した割に寧ろ難易度は下がっているように思えるのだが。

 

「この程度……!」

 

 迫る光弾を難なく躱し、霊夢は再び反撃の構えに移ろうとする。

 けれども。

 

「この程度……なんて、油断していると……?」

「えっ……?」

 

 回避したはず光弾が、ぐんっと極端に軌道を変えて大きく旋回した。

 青娥に対して攻撃を仕掛けようとしていた霊夢の背後を取るように、光弾は勢いよく飛び掛かってきて。

 

「痛い目を見る事になりますよ?」

「ッ!?」

 

 再び接近してくる光弾。霊夢は反射的に攻撃の手を引っ込め、そして改めて回避の体勢へと移る。

 身を捻り、宙を蹴り、そして霊力を放出させて霊夢は飛翔する。迫る光弾を引き付けてギリギリの所で回避するのだけれども、避けても避けても光弾の動きは止まらない。しつこいくらいに霊夢の事を付け狙い、迫り続ける。

 

「このっ……!」

 

 痺れを切らした霊夢は回避を諦め、瞬時に霊力を籠めて霊弾を射出する。そうして迫る光弾を打ち落とそうとするのだけれども。

 

「なっ……」

 

 まともに直撃。けれども打ち消されたのは霊夢の霊弾だけだ。迫り来る光弾は、変わらず霊夢を捉えようと襲い掛かってきて。

 

「くっ……!」

 

 しかしそれでも、霊夢はギリギリの所で回避に成功した。

 気味の悪い空気が周囲に充満する。青娥が放った光弾から放たれるのは、本能的に気分を害するような不愉快な雰囲気。ともすれば吐き気を催す程に、歪で不快な霊力の塊。

 

(これ……。単なる弾幕じゃない……?)

 

 博麗霊夢は直感する。

 この感覚は──。

 

(霊そのものを使役している?)

 

 まるで光弾そのものに意思でもあるかのように、青娥の放った弾幕はしつこいくらいに霊夢を追いかけてくる。そして別の霊弾をぶつけても打ち消す事は出来ず、更に接近すればするほどに強くなる気味の悪い威圧感。この感覚から導き出されるのは、邪符『ヤンシャオグイ』というスペルカードは使役した霊に攻撃させるタイプの弾幕であるという事。

 それも単なる霊ではない。恐らくは怨霊──或いはそれに近しい存在。そんなものを制御下に置き、あまつさえ弾幕として利用するなど。

 

「悪趣味なスペルカードね……!」

「ふふっ。誉め言葉として受け取っておきますね」

 

 何が褒め言葉だ。

 しかし、それが判れば攻略法は自ずと見えてくる。どんな遺恨を持つ霊を使役しているのかは知らないが、この様子だと霊力をぶつけて相殺するのも難しそうだ。かと言ってこうして避け続けるのも、やがてこちらがジリ貧となって追い込まれてしまう。

 だとすれば。

 

「スペルカード!」

 

 回避しつつも、霊夢はスペルカード宣言を行う。この体勢では少々厳しいかも知れないが、それでも強引にでも弾幕を展開してしまうしかない。

 恐らくそれこそが、この場においての最適解。

 

「神技『八方龍殺陣』!」

 

 この手の攻撃は、先に術者本人を無力化してしまうのが定石だ。そうすれば自然と攻撃の手も止まる事となる。スペルカードルールにおいて、ある意味最も単純だが効果的な攻略法。

 宣言も早々に、霊夢は一気に弾幕を展開する。青娥の弾幕を回避しつつ攻撃への転換。少々不格好ではあるが、そこはやはり異変解決のスペシャリスト。展開された弾幕はあっという間に青娥の周囲を取り巻き、そして牙を剥く。

 

「ほう……?」

 

 関心したような声を上げる青娥。けれどもそんな余裕もここまでだ。

 大量展開された御札状の弾幕。だた単に青娥本人を狙うのではなく、着実に逃げ道を潰しつつも標的を一気に追い込んでいく。無論、スペルカードルールに則った上で、だが──。それでも。

 

「これで()()よッ!」

 

 爆発。高められた霊力によって形作られた霊夢渾身の弾幕は、確かな手応えと共に霍青娥を捉えていた。

 仄かに軽くなる雰囲気。背後を一瞥すると、しつこいくらいに追いかけてきていたあの光弾の姿が消えている事に気づく。青娥が宣言したスペルカード、邪符『ヤンシャオグイ』が無力化された証拠である。それが意味する事は即ち、霊夢の攻撃があの邪仙に届いたという事で。

 

「ふぅ……。これで、何とか……」

 

 一先ず、スペルカードは攻略できた事になるが。

 

「でも……」

 

 ──それでも。色々と、気になる事がある。

 

(霊力の消耗が、普段よりも激しい……?)

 

 小刻みに震える右手。握っては開いてを繰り返しつつも、霊夢は息を切らす。

 こうして青娥との弾幕ごっこを続ける中で、霊夢は確かに身体の不調を感じ始めている。初めの内はまるっきり無視できるレベルだったのだが、神技『八方龍殺陣』を放った後から軽視出来ぬレベルで進行してしまっているように思える。

 普段の自分と比較して、弾幕一つ放つだけでも明らかに過剰な霊力を消耗してしまっている。霊力の消耗は体力の消耗にも直結する為、妖怪等よりも身体能力の低い人間にとって死活問題だ。徒に疲労感が溜まり続け、そして激しく息が乱れ、どんよりとした気怠さに身体が襲われてしまっている。

 

 重い。

 何だ、この感覚は。

 

「ったく……。やっぱり、あの黒い霊力……」

 

 嘆息しつつも、吐き出すように霊夢は呟く。

 

「人間にとって、だいぶ宜しくない代物みたいね……」

 

 霍青娥が身に纏っていた不気味な霊力。博麗神社にも充満していたどす黒いそれは、やはり普通の人間にとっては毒と成り得る存在だ。いや、おそらく人間だけではない。あの時の華扇があそこまで苦戦していた事からも判る通り、仙人の類にとっても決して相性は良くない霊力なのだろう。

 博麗の巫女である霊夢ならともかくとして、普通の人間が長時間浴びようものなら精神的にも一気に追い込まれてしまう可能性もあり得る。それほどまでに禍々しく、おどろおどろしい霊力なのだ。()()は。

 

 なぜ彼女がそんな霊力を扱えているのかは知らないが、厄介な事この上ない。長期戦になればなるほど、こちらがどんどん不利になっていくという訳である。

 

「……まぁ、それでも負けるつもりはないけど」

 

 息を整え、霊夢は衣服の煤を軽く払う。

 確かに厄介な相手だが、それでも勝てない訳ではない。『空を飛ぶ程度の能力』を持っている以上、霊夢は少しの無理や無茶であるなら強引に貫き通す事が出来るのだ。

 人間にとっては有害な霊力? だから何だと言うのだ。

 その程度の障害に阻まれる博麗霊夢ではない。

 

「こほっ、こほっ……。おやおや、これはこれは……。少し、参りましたねぇ……」

 

 視界が晴れる。

 軽くむせながらも周囲の白煙を振り払う霍青娥は、どうやらそれなりのダメージを受けている様子だった。身体中煤まみれで、身に纏う衣服も乱れ始めている。然しもの邪仙も、あのタイミングでのスペルカードでは完全には捌き切れなかったらしい。それでも未だに飄々とした調子を保てている辺り、流石と言うべきか。

 

「はっ。流石にしぶといわね。でも今のは効いたんじゃない? 油断してたのはあんたの方だったみたいね」

「まぁ、否定はしませんよ。正直、生身の人間がここまで戦えるとは思いませんでしたからね」

 

 軽く嘆息しつつも、霍青娥はそう告げる。そして本気で関心しているかのような口調で。

 

「それにしても凄いわ。本当に、凄い……。ますます貴方に興味が湧いてきました」

「気色悪いこと言わないでよ。私はあんたのことなんてどうでもいいわ」

「あらあら……。本当に、つれませんね」

 

 こいつの口車になんて乗らない。あくまでこちらのペースを乱そうとしているに違いないじゃないか。そうはいかない。

 

「いい加減、諦めなさいよ。いつまで抵抗を続けるつもりなの?」

「うふふ。まぁ、私にだって意地がありますからね。そう簡単に身を引く訳にはいかないのですよ」

「ふんっ……。減らず口は相変わらずって訳ね」

 

 青娥は未だに諦めるつもりはないらしい。全く、ここまでしぶといといっそ感服してしまいそうになるくらいだ。

 流石にうんざりしてきた。幾ら霊夢でも、この気味の悪い霊力に長時間晒されると段々キツくなってくる。徒に霊力を消耗していしまうこの感覚は、酷く不愉快なものだ。あまり勝負を長引かせるのは得策ではない。

 

「さてさて、次のスペルカードです」

 

 そんな中、青娥は改めてスペルカードを取り出す。

 再び溢れ出る霊力。展開されている弾幕。今度はどんな攻撃だ? また霊の類でも使役するのか? それとも今度はキョンシー? 何だって良い。例えどんな弾幕だろうと、黒星をつけるつもりなど毛頭ない。

 

「入魔『ゾウフォルゥモォ』」

 

 しかし青娥が放ったのは、先程とは打って変わって実に単純な弾幕であった。

 密度は薄い。かといって邪符『ヤンシャオグイ』のようなおどろおどろしさは感じられない。スペルカード宣言と共に展開された弾幕を形作るのは、ただ単に霊力の塊のみ。妙な小細工すらも見受けられない様子で。

 

「ふぅん……。次はどんな弾幕なのかしら?」

 

 迫り来る弾幕を、霊夢は特に苦労する事もなく回避する。霊夢を捉える事に失敗した霊弾は、先程のように軌道を変える事もなくそのまま爆発。攻撃としての役割を殆ど果たす事もなく、弾幕は次々と四散してゆく。

 ──何の変哲もない霊力の塊ばかりだ。はっきり言って、これまでと比べてあまりにもチョロすぎる。

 

「なに? あんた、私の事をバカにしてんの?」

「いえいえ、そんな……。これでも精一杯ですよ? 今は芳香もいませんし……」

 

 何だそれは。あのキョンシーが居てこそ完成するスペルカードだとでも言うのだろうか。

 なぜ態々そんなスペルカードを選択する? 何か狙いでもあるのか? 或いは本当にそこまで追い込まれているとでも?

 

「まぁ、この際どっちでもいいわ」

 

 霊夢は再び宙を蹴る。

 爆発させた霊力を逆噴射して一気に加速。弾幕の隙間を難なく縫い抜け、霍青娥へと肉薄した。

 どっち道、弾幕ごっこはそろそろお開きにしようとしていた所だ。これ以上、相手が大したスペルカードも使わないと言うのなら。

 

「こっちはこっちで、全力の弾幕をお見舞いしてやるわッ!」

「っ」

 

 スペルカードを素早く取り出し、そして霊夢は宣言する。

 

「神霊『夢想封印 瞬』ッ!」

 

 霊夢渾身の弾幕が、青娥に向けて瞬時に展開される。

 そしてその直後、再び爆発。色とりどりの眩い光が冥界の石段を照らし、激しい突風が禍々しい霊力を吹き飛ばす。至近距離で放たれた神霊『夢想封印 瞬』は、青娥に回避の隙を与える事すらもしなかった。

 真正面からもろに巻き込まれる。霊夢の弾幕を受けた青娥は、為す術もなくそのまま撃墜。浮遊能力を失い、勢いよく石段に叩きつけられた。どすんっ、と。鈍い音が辺りに響く。

 

「かっ、は……」

 

 青娥は呻き声を上げる。そのまま石段を転がり落ちるかのように思えたが、けれどもすんでの所で四散していた霊力を再び循環させたようだ。ギリギリの所で踏みとどまり、転がり落ちるまでには至らない。

 それでも恐らく致命傷だ。ここまでまともに攻撃を受ければ、流石の青娥もただでは済むまい。スペルカードルールにおいても、霊夢の勝利は最早必然。

 

「くっ……」

 

 ──しかし。

 

「はぁ、はぁ……。手間、かけさせんじゃないわよ……」

 

 やはりと言うべきか、今のスペルカードで霊夢もごっそりと体力を持っていかれてしまっている。暫くすればやがて回復するのだろうけれど、やはりこのレベルの弾幕を連発するのは流石に無茶が過ぎそうだ。

 本当に、厄介な相手だった。これまで起きた『異変』の中でも、最も面倒な相手だった事には間違いない。

 

 しかし、そんな『異変』も終わりだ。

 霊夢は石段へと降り立つ。乱れた呼吸を何とか整えようとしながらも、倒れた青娥へと歩み寄って。

 

「さぁ、これで私の勝ちでしょ……?」

 

 博麗霊夢は言葉を並べる。

 

「大人しく、幻想郷から奪った春を……!」

 

 そして『異変』を解決すべく、首謀者に対して声高に──。

 

「……ふっ」

 

 ──要求を、告げようとしたのだけれども。

 

「うふっ……。うふふっ、あっはははは……!」

「……っ!?」

 

 笑い声が木霊する。それは霊夢の弾幕をまともに食らい、倒れ伏したはずの青娥のもので。

 霊夢は思わず息を呑む。背筋に走るのは悪寒。底の知れない嫌悪感。思わず霊夢は後退り、青娥に対して少しだけ距離を取ってしまう。

 

「はぁ……。やはり駄目ですね。弾幕ごっこじゃ、どうやら貴方の方が一枚上手なようです」

「な、何よ、いきなり……」

 

 霊夢の声が震える。どくんと、心臓が大きく高鳴り始める。

 冷や汗が噴き出す。動悸が少しずつ乱れ始める。青娥の弾幕を攻略し、霊夢は最後のスペルカードを決め切る事が出来たはず。弾幕ごっこは、こちらの勝利で終わったはずなのに。

 それなのに、何だ。()()()()は。

 気持ち悪い。息が、苦しい。

 

「負けを、認めるっての……? だったら話は早いわ……。あんたの野望もここまでよ……」

「…………」

 

 判らない。

 判らないが──。それでも判らないなりに、判る事だって存在する。

 ()()。底の知れない、嫌な予感。

 

「諦めなさい。あんたは、もう……」

「……その前に」

 

 ぴしゃりと、霍青娥は口を挟む。

 霊夢は思わず言葉を呑み込む。青娥が発した言葉が不思議と脳裏に響いてしまったからだ。凄み──があった訳ではない。ただ、感じるのはやっぱり気味の悪さだ。何かがおかしいのだと、そんな根拠もない警鐘が霊夢の中で鳴り響き続けている。

 

 霊夢が言葉を見失っている目の前で、霍青娥はゆらりと立ち上がった。

 所々が乱れた衣服。薄汚れた身体。傍から見れば、青娥の方が霊夢に下されたように思えるのに。

 

「時に霊夢さん。貴方に幾つか確認しておきたい事があるのですが」

 

 どうして、こんなにも()()()()()()()()のだろうか。

 

「何よ……。確認しておきたい事って……」

「いえ、ほら。貴方は先程仰っていたじゃないですか。この私が、幻想郷の春を奪ったのだと」

 

 訊き返すと、青娥は改めて問いかけてくる。

 先ほどまで少しは感じ取れていた動揺は、いつの間にか完全に鳴りを潜めてしまっている様子で。

 

「ですが今の私からは、春を集めた様子など微塵も感じ取る事が出来ないでしょう? だとするのなら、幻想郷から奪った春は一体どこに行ってしまったのかしら?」

 

 またその問答か。いい加減、鬱陶しい事この上ない。

 苛立ちを覚えつつも、霊夢は語調を強くして言い返すのだけれども。

 

「だから、それは……! あのキョンシーを使ったんでしょうがっ! あんたはあのキョンシーに春を集めさせて、そして……!」

「……いつ、私がそんな事を貴方に告げましたか?」

「は……?」

 

 不意に言い放たれたのは、思わず耳を疑うような言葉。

 

「貴方、何だか勝手に結論を固めてしまっているようだけれど」

 

 心臓を、鷲掴みにされたかのような。

 

「一体何を根拠に、貴方はそんな事を言い張っているんですかね?」

「…………っ」

 

 博麗霊夢は、思わず瞠目してしまった。

 何を根拠に? 根拠も何もない。それはあくまで状況的証拠から推測される、ある種の勘のようなものだ。まるで誰にも捕捉される事のない霍青娥。何故か放置され続ける宮古芳香(キョンシー)。少しずつ塗り潰されていた幻想郷の春。そんな要素から導き出された霊夢なりの()

 ああ──。そうだ。これはあくまで推測。確実にそうであるという確たる証拠がある訳でもない。無論、霍青娥本人から直接真意を訊き出す事に成功した訳でもない。

 

 勘。直感。確かにそれは、これまで幾度となく『異変』の革新を突いてきたのかも知れないのけれども。

 

「ふふっ。まぁ、そうですね」

 

 けれど結局、それはあくまで一つの勘に過ぎない。別に未来を予知している訳でも、相手の思考を直接読んでいる訳ではないのだから。

 

 ──それ故に。

 

()()()()は、この辺で充分ですか」

「えっ……?」

 

 必ずしも真相に導いてくれる証拠なんて──ない。

 

「……ッ!?」

 

 ごうっ、と。不意に強風が発生し、霊夢は後方に吹き飛ばされそうになってしまった。

 青娥の放つ霊力ではない。青娥よりも、更に後ろ。石段の階下から、突如として強風が吹き荒れ始めたのだ。あまりにも突然の出来事を前に霊夢は面食らうが、反射的に力んで吹き飛ばされる事だけは何とか回避する。

 

「なっ、に……!?」

 

 あまりにも強い強風。息をするのも一苦労。底の知れない霊力の塊のようなものを真正面から受けて、博麗霊夢は愕然とする。一体、何が起きているのか。瞬時に理解する事は出来なかった。

 何だこれは。霊力? いや、ただの霊力などではない。この感覚には、覚えがある。

 以前の春雪異変の際にも感じる事が出来たものだ。この、どこか暖かい淡紅色の霊力は。

 

「春……?」

 

 それは紛れもなく、幻想郷から奪われ始めていた“春”そのもので。

 

「な、何で……」

 

 そんな“春”が、一斉に。

 

「どうして、冥界に流れ込んでくるのよ……!?」

 

 訳の分からない光景を前にして、霊夢の混乱は最高潮にまで達していた。

 有り得ない。こんな事、有り得る訳がない。どうして“春”が流れ込んでくる? “春”はあのキョンシーが集めていたのではなかったのか? しかし、件のキョンシーは華扇によって身動きを封じられているはず。いや、そもそも、()()()()で“春”を冥界に持ち込む事など可能なのだろうか?

 判らない。こんなの、理解出来る訳がない。一体何が起きている? 一体何がどうなっていると言うのだ。

 

「まさか、華扇が……!」

「あぁ。多分、茨華仙さんがしくじった訳ではないと思いますよ?」

 

 驚きのあまり言葉を失いかけている霊夢に対し、青娥がそう口を挟んでくる。

 彼女は実に、愉快的悦そうな表情を浮かべていて。

 

「いやー、冷や冷やしましたね。思ったより時間がかかってしまいました」

「な、何なのよ……! あんた一体、何をしたのッ!? 一体全体、何が起きて……!?」

「何って……。見て分かりませんか?」

 

 青娥は両腕を大きく広げる。

 まるで、この光景を霊夢に見せびらかすように。

 

「“春”を集める為に()()を利用させて頂きました」

「結、界……?」

「ええ。結界です」

 

 そして青娥は言葉を並べる。

 

「幻想郷全土を覆いつくす大規模術式の発動です」

 

 それは、あまりにも大胆かつ周到な暴挙。

 霍青娥という邪仙による、現実離れした()()()の開幕であった。

 

 

 *

 

 

「ッ!?」

 

 不意に、西行寺幽々子は強烈な違和感を覚えていた。

 何者かが冥界へと足を踏み入れていた事は分かっていた。そしてその直後、白玉楼へと続く石段にて激しい霊力のぶつかり合いが繰り広げられていた事も。けれども藍に頼み込まれ、幽々子は白玉楼の居間にて待機せざるを得なくなってしまっていた。

 幽々子は何も気にしないで欲しい。藍と共に、こうして居間で待機をするべきだ──と。それが恐らく、紫と霊夢の共通認識。この『異変』を解決する為に彼女らが投じた一つの策。それを成就させる為には、幽々子の余計な行動は邪魔になりかねないのだろうと。それは幽々子本人も薄々勘づいていた。

 

 だから一先ず、納得出来た。膨れ上がる不安感を抑え込み、今はぐっと堪えるべきなのだと。そう自分自身を抑制させる事が出来ていたはずなのに。

 だけれども。()()()()()()を覚えてしまったら、ジッとなんて出来る訳がないじゃないか。

 

「こ、これは……!」

 

 幽々子の傍にいた藍もまた、思わずと言った様子で立ち上がる。恐らく彼女も、幽々子と同じ違和感を覚えているのだろう。それもそうだ。()()()()()()()()()()()()()、誰であろうと奇妙に思って当然である。

 一体、何が起きている? つい先ほどまで、あの石段で弾幕ごっこが繰り広げられていたはずなのに。それが急に、こんな変化が訪れたという事は。

 

「藍! 貴方も、感じたのでしょう……!?」

「え、ええ……。ですが……!」

「……駄目よ。これ以上、こんな所でのんびりなんて出来ないわ……!」

 

 未だに渋る藍へと重ねるような形で、幽々子は言葉を紡ぐ。

 ああ、そうだ。こんなの、見過ごせる訳がない。幾ら藍の願いを聞き入れていたとは言え、あの石段で何が行われていたのかなんて察する事くらい簡単だ。

 霊夢と、そしておそらくこの『異変』の首謀者。彼女らが弾幕ごっこでぶつかり合い、その末に──。

 

「霊夢……」

 

 普段通りの『異変』なら万が一にも彼女が敗北するとは思えないが、しかし今は状況が状況だ。敗北とまでは行かずとも、ひょっとしたらそれに近い状況にまで追い込まれてしまっているかも知れない。

 だとすればこれ以上の傍観を続ける訳にはいかない。冥界の管理者として、そんな相手がこちらの世界に足を踏み入れているのだとすれば。

 

「……私が動かない訳にはいかないもの」

「あっ……」

 

 幽々子は今度こそ踵を返す。

 対する藍は幽々子を止めるべく手を伸ばすのだけれども、しかしすんでの所で躊躇いが生まれてしまっている様子。紫の頼みを忠実に貫くのか、或いは幽々子の意思を尊重すべきなのか。そんな迷いが彼女の中で生じてしまっているのだろう。幾ら何でも、これ以上の見て見ぬふりなど続ける訳にはいかないのだと。それは藍も理解しているのだろう。

 それ故に、この反応。けれどもその反応は、幽々子にとって好都合だ。彼女が強く反発してこないと言うのであれば。

 

(ごめんなさいね、藍)

 

 幽々子は幽々子の意思を貫き通すだけだ。

 意を決する。そして件の現場へと向かうべく幽々子は足を踏み出した。そのまま居間を後にしてしまおうと、幽々子は出入口である襖に手をかけて。

 そして。

 

(えっ……?)

 

 襖を開くと、ほぼ同時。

 ()()()()()()

 

「……幽々子様?」

 

 藍の声が流れ込んでくる。けれどもそんな呼びかけも、なぜだかやたらと遠くのもののように聞こえてしまって。

 

「あ、れ……?」

 

 強烈な立ち眩みのような感覚。ふらつく足元。反射的に力もうとするが、けれどもバランスを保てない。

 脱力する。かくんと膝が折れる。そのまま意識が遠退いて、幽々子は訳も分からず力なくへたり込んでしまった。意識が混濁していくような感覚が、西行寺幽々子に襲い掛かる。視界がぼやけ、瞼が一気に重たくなり──。

 

「幽々子様!?」

 

 幽々子の異常性に気づいた藍が駆け寄ってくる。バランスが保てない身体を彼女によって支えられているような感覚。何とか意思を引き摺り出して瞼を開くと、憂慮に満ちた藍の表情が真っ先に目に入った。

 

「だ、大丈夫ですか幽々子様ッ!? 急に一体、何が……!」

「ら、ん……?」

 

 ぼんやりとする意識。そんな中でも、幽々子は無理矢理にでも思考を働かせて自分の状態を確認する。

 全身の力が抜け落ちている。その上、霊力も上手く籠められない。まるで自分の身体でないかのように、少しずつ自由が奪われていくような感覚がある。

 何だこれは。何かの病気か? いや、既に亡霊の身である自分にとって病気など無縁の存在であるはず。それならば、何故?

 

(これって……)

 

 判らない。完全に昏倒してしまう程に激しい意識の混濁という程でもないのだが、それでも身体の自由が利かない事に変わりはない。

 言うなれば、強烈な睡魔にでも襲われているかのような──。

 

「ゆ、幽々子……?」

 

 不意に、声が流れ込んで来た。

 藍ではない。彼女とは別の第三者。重たい瞼を精一杯に見開いて、幽々子は顔を上げる。

 一体、いつからそこにいたのだろう。開かれた襖の先。そこにいるのは、幽々子も見知った一人の少女。紫色を基調としたドレス姿の彼女は、不安気な感情をありありと表情に滲ませており。

 

「ゆか、り……?」

 

 幽々子は彼女──八雲紫の名前を呟く。けれども当の彼女は、周囲の音など耳にも入っていないような様子で。

 

「まさか……。そんな……」

 

 震えた声。信じられないものでも目の当たりにしてしまったかのような面持ち。

 明らかな異常性。ひょっとして彼女は、幽々子の不調の原因に対して何か心当たりがある──?

 

「紫様! 幽々子様が、突然……!」

「…………ッ」

「ゆ、紫様……?」

 

 藍の呼びかけにも答えない。代わりに紫は、力強く唇を塞いでしまっていた。

 激しい動揺が彼女から伝わってくる。焦燥感が極限にまで到達し、息をするのも忘れてしまっているかのような表情。幽々子でも見た事がないような狼狽。

 確かに紫は心配性だ。心配性ではあるけれど。

 それにしても、これは流石に度が過ぎているような。

 

「……やってくれたわね」

 

 彼女は呟く。けれどもそれは、信じられないくらい低く、そして冷たい声調で。

 

「藍」

「は、はい……」

「幽々子の事、引き続きお願い」

「えっ……?」

 

 主の豹変に困惑した様子の藍。けれども紫は捲し立てるように言葉だけを並べて、そのまま踵を返してしまう。状況がまるで呑み込めぬ藍が唖然としているが、それでも。

 

「ま、待って、紫……!」

 

 立ち去ってゆく紫の後ろ姿。そんな彼女に手を伸ばし、幽々子は必死に呼び止めようとする。

 

「何だか……嫌な、予感が……!」

 

 息が苦しい。胸の奥が締め付けられる。亡霊であるはずなのに、こんな感覚に見舞われるなんて。

 それでも幽々子は必死になる。踵を返す直前、紫が浮かべていた表情が記憶にこびりついて離れない。

 嫌な予感がする。このまま紫を行かせれば、何か大変な事が起きてしまうような。そんな漠然とした予感に襲われて、けれど幽々子の胸中は憂慮に満ちてゆく。

 

「行っては、駄目……」

 

 しかし紫は止まらない。呼びかけても、呼びかけても。幾ら呼びかけようとも、幽々子の言葉は紫へと届かなかった。

 紫の背中が遠くなっていく。今すぐ立ち上がって追いかけたいのだけれども、身体がそれを許してくれない。ずっしりと重たい気怠さは、幽々子の自由を未だに奪い続けていて。

 

「ゆか、り……」

 

 幽々子はただ、親友の名前を頻りに呟く事しか出来なかった。

 

 

 *

 

 

「なっ……」

 

 その瞬間。茨木華扇は思わず息を呑んでしまった。

 霊夢の頼み事を引き受けて、命蓮寺を油断なく観察して。そして霊夢の予想通り不審な動きを見せた芳香を拘束し、彼女の身動きを封じた。ここまでは計画通り。後は霊夢が霍青娥を打倒し、異変は解決へと収束する。そんな確信を華扇は抱いていた──はずだった。

 

 それなのに、これは何だ?

 春はこのキョンシーが集めていたはず。現に彼女は、言わば『春力』とも称す事の出来る淡紅色の霊力を身に纏っておりはずなのに。

 どうしてそんな『春力』が、()()()()へと移動を開始しているのだろう。

 

「これは……」

 

 改めてキョンシーの様子を観察する。彼女は未だに春をその身に纏ったまま。その点に関して言えば特に変化はない。

 大きな変化はキョンシーではない。もっと広い範囲。命蓮寺の敷地全体──いや、そんな生温い規模ではない。更に大規模。ひょっとしたら、幻想郷の全土を覆いつくすレベルでの異常現象。

 

 幻想郷全土の『春力』が、一斉に移動を開始している。まるで、何かに吸い込まれているかのように。

 

「な、何が起きて……!?」

 

 周囲の霊力が止めどなく上昇していくような感覚を覚える。あのキョンシーに春が集まっていた光景も大概だったが、これはそんなレベルさえも遥かに凌駕してしまっている。

 雪が強く振り始める。上昇していく『春力』は温かいはずなのに、曇天のからは冷たい白い雪の結晶がしんしんと舞い落ち続けている。

 こんなの、最早ある種の災害じゃないか。『異変』と定義できる枠組みからさえも、逸脱してしまう程に──。

 

「──気を抜いたな?」

「えっ……? ッ!? しまっ……」

 

 冷たく響くキョンシーの声。華扇が意識の乱れを認識したその瞬間には、既に何もかもが遅すぎた。

 ぱんっと、炸裂音が木霊する。キョンシーを拘束していた霊力の鎖が一瞬にして弾け飛び、その霊力が周囲に四散してしまった。

 足元の陣が消えてゆく。術の行使者であった華扇本人にも余波が届き、彼女は思わず後退った。ビリビリと肌に伝わる衝撃。心に抱いた動揺は本当に一瞬だったのだが、それをこのキョンシーは見逃さなかったらしい。

 

 華扇が行使していた拘束系の術式が突破される。身に纏っていた春を、()()()()()()()()()()()()()()()という形で。

 

「春というのは元来、自然の摂理という概念的な法則の一つである」

 

 声が聞こえる。

 反射的に顔を上げると、術から逃れたキョンシーがゆらりと立ち上がっている所で。

 

「単なる霊力や妖力等とは訳が違う。集め、そして一時的に身に纏う事は可能でも、高が人間の死体程度がその身の糧にする事など不可能だ。だが……」

 

 烈風が逆巻く。破壊された結界の残骸たる周囲の霊力さえも、完全に吹き飛ばして。

 

「こういう使い方も出来る」

 

 彼女は華扇を見据えている。

 濁り切った瞳。焦点の合わない視線。不気味な程に無感情。それでも彼女は、ただ淡々と言葉を並べ続ける。

 どこまでも冷淡に。

 

「言うなれば、『森羅結界』」

 

 そしてどこまでも、忠実に。

 

「爪が甘かったな、薔薇色の仙人よ」

 

 まるで、与えられた命令のみを機械的に実行しているような印象だった。

 華扇は息を呑む。万が一拘束が突破されてしまう事を想定していなかった訳ではないが、それでもまさかこんな形になるとは思いも寄らなかった。

 森羅結界。態々集めた春を捨ててまで拘束を突破しようとするとは。

 

「貴方の役割は春を集める事でしょう? そんな事をして良かったの?」

「……そうだな。だが、()()()()()()()からな」

「……必要なくなった?」

 

 何だ、それは。目的が変わったとでも言うのだろうか。

 一体、何が起きている? 青娥はこのキョンシーに春を集めさせていた訳ではなかったのか? だとすれば、一体どうやって?

 

「霊夢……。まさか、何かあったの……?」

 

 嫌な予感がする。まさか弾幕ごっこで彼女が敗北するとは思えない。思えないのだが──。

 

「何を考え込んでいる? 今更幾ら思考を巡らせた所で意味なんてないぞ?」

「…………」

 

 キョンシーの声が耳に届く。一瞬反論しかけた華扇だったが、すぐに言葉を呑み込んだ。

 彼女はキョンシー。霍青娥の操り人形。そんな存在の発する言葉に意味なんてないはずだ。きっと今の彼女は、霍青娥にプログラムされた言葉をつらつらと並べているだけ。言葉巧みにこちらの動揺を誘おうとしているに違いない。

 そんな手にホイホイと乗ってやるつもりはない。今は次の策を講じる事に集中しろ。

 

「むぅ……」

 

 何やら唸り声を上げているキョンシーの前で、華扇は集中力を高める。術を突破された以上、今度は力づくで彼女を捻じ伏せるしかない。

 やれるだけの事はやる。相手はただのキョンシーだ。これ以上の遅れなんて取らない。

 

 ──そうだ。

 ()()()()()()()()。それはある種の傀儡。彼女の行動原理はあくまで霍青娥に帰結する。主である術者にいいように扱われるだけ。人間だった頃の人格なんて、何も残っていないはずだ。

 定着しているのは疑似的な魂魄。死んだ人間が生き返った訳ではない。だから彼女の言葉になんて、人間らしい感情はまるで籠められていないはずなのだ。

 

「……お前は」

 

 そう。

 そのはずなのに。

 

「お前は相変わらず、頭でっかちな奴だな。茨木華扇」

 

「……、えっ……?」

 

 どくん、と。心臓が一際強く高鳴るような感覚を、華扇は感じていた。

 呼吸が止まる。動揺が駆け抜ける。けれどもそんなものは一瞬だ。脳裏にチラリと“何か”が駆け抜けただけ。しかしそんな一瞬が、華扇にとって強烈な印象として頭の中に残ってしまう。

 何だ、この感覚は。“何か”が駆け抜けた事は判るのに、その“何か”の正体が掴めない。

 

「うっ……」

 

 思わず華扇は頭を押さえる。

 違う。これは奴の策略だ。華扇の動揺を誘う為、ある事ない事を言葉巧みにつらつらと並べているに過ぎないはず。そうに違いないはずのに。

 でも。それでも。

 判っていても、華扇の心は何故だが激しく掻き混ぜられてしまう。

 

 相変わらず。なんだ、その表現は。それじゃあ、まるで。

 

「な、何……?」

 

 まるで。

 

「貴方……」

 

 華扇と──。

 

「誰、なの……?」

 

 そんな風に、華扇が思考を巡らせ始めた時だった。

 膨れ上がる霊力──いや、“魔力”が伝わってくたのは。

 

「超人ッ!」

 

 不意に、そんな叫び声が流れ込んでくる。それがスペルカード宣言だと華扇が気づいた頃には、キョンシーに肉薄した()()がまさに拳を振り下ろさんとする瞬間だった。

 爆発する魔力。けれど例えば霧雨魔理沙のように火力特化の弾幕が放たれた訳ではない。いや、火力特化という表現ならば間違っていないかも知れないが、魔理沙が使うような魔法とは全くベクトルが異なるような印象。

 高めた魔力を放出させるのではない。高めた魔力を、更に身体中へと循環させる。言うなれば魔力をその身に纏っているような状態。そうする事で身体能力が飛躍的に上昇し、常人では真似できぬような芸当だって実現が可能になるのだ。

 

 そう。まさに、このように──。

 

「はぁッ!」

「ッ!?」

 

 瞬時に拳が振り下ろされる。その直後、爆発音にも似た轟音が周囲に響き、目の前の地面が大きく抉られた。

 衝撃が空気をも振動させる。それらが強い衝撃波となって波紋状へと広がってゆき、境内中へと土煙を蔓延させてゆく。そんな魔力を間近で受けて、華扇は思わず腕で鼻と口元を覆ってしまった。

 文字通り地面を叩き割る程の一撃。まともに食らえば、例え相手が妖怪だろうと一撃で粉砕されていたかも知れない。それほどまでに、重たい一撃。けれど当のキョンシーはと言うと、どうやらギリギリの所で回避に成功したらしい。いつの間にやら真横に飛び退いており、一撃で粉砕される事に関しては免れていたようだ。

 

「今のは……」

 

 そんなキョンシーの姿を確認した華扇は、改めて視線を前へと戻す。土煙の中。キョンシーに強烈な一撃をお見舞いした、彼女の方へと。

 

「……全く。悪ふざけが過ぎますよ、芳香さん」

 

 温和そうな容貌とは対照的に、腕を捲って武闘派な行動に及んだその彼女は。

 

「どうやら、少しきつめのお仕置きが必要みたいですね」

 

 聖白蓮は、毅然とした面持ちであのキョンシーを睨みつけていた。

 華扇は思わず言葉を見失う。まさかこのタイミングで彼女が飛び掛かってくるとは、流石に予想外だったからだ。しかも行使しているのは、肉体強化系の魔法。大人しそうな印象はそのままではあるが、醸し出す()()は思わず息を呑む程だ。やはり命蓮寺の最高責任者だけあって、有する力も強大であるという事なのだろうか。

 

 そんな彼女は、身に纏う魔力はそのままにチラリとこちらへと視線を向けると。

 

「大丈夫ですか? えっと……」

 

 一瞬、困ったような表情を浮かべる白蓮。そう言えば彼女とは初対面である事を思い出した華扇は、改めて名乗る事にした。

 

「華扇です。茨木華扇」

「……華扇さん、ですね。私は聖白蓮です。あの、お怪我は……?」

「ご心配なく。単に術を破られてしまっただけですから」

 

 華扇がそう答えると、「それは良かった」と口にして白蓮は軽く微笑む。つい先ほどまで、この状況に対してどこか困惑した様子だった彼女。けれども今は状況を受け入れ、そして気持ちを入れ替えているようだ。彼女の表情に迷いはない。

 そして白蓮は改めてキョンシーの様子を確認する。白蓮の攻撃を察知し、ギリギリの所で飛び退いた彼女はやはりダメージを受けていない様子。ケロッとした様子でゆらりと立ち上がっている。

 

「まさかあの子が、あそこまで機敏な動きを取る事が出来るなんて……」

「ただのキョンシー……なんて、油断しない方が良さそうですね」

 

 華扇は改めて思い知る。

 霍青娥だけではない。彼女が使役するあのキョンシーでさえも、決して一筋縄ではいかない存在なのだと。

 高がキョンシーなのだと、華扇は心のどこかで高を括っていたのかも知れない。その結果こんな状況に陥ってしまったのだとすれば。

 

「すいません。術の行使までにあれだけ時間をかけておいて、この体たらく……。気を取られてしまったばかりに……」

「謝らないで下さい。華扇さんが負い目を感じる必要なんてありませんよ」

 

 白蓮はきっぱりと言い放つ。

 身に纏う魔力の質を、更に磨き上げつつも。

 

「ここは命蓮寺の境内です。ならばこの場で起きた騒動は、住職である私が収束させるのが筋というものでしょう。……それに、一時的とは言え芳香さんは私達が預かっていたのです。そんなあの子が不祥事を引き起こしたというのなら、やはり私が責任を持って止めなければ」

 

 口にしたのは、どこまでも真っ直ぐな言葉だった。

 強い女性なのだろうなと、華扇は思う。命蓮寺の修行僧までもがあんな事になって、彼女だって心が乱れていない訳がないだろうに。それでも白蓮は気持ちを切り替え、こうしてキョンシーの前に立っている。短い間であったとは言え、一時だけでも時間を共有していたあのキョンシーの前へと──。

 

「それならば、白蓮。君だって一人で責任を背負いこむ必要はないんじゃないですか?」

 

 そんな中、口を挟んで来たのは神霊廟の尸解仙だ。

 聖徳王、豊聡耳神子。先の異変の中、千年以上もの眠りから目覚めた太古の聖人。白蓮に歩み寄った彼女もまた、キョンシーをチラリと一瞥して。

 

「あの子は私の友人……青娥が使役するキョンシーです。だったら私にとっても無関係という訳ではない。言ったでしょう? これ以上、傍観者に徹する訳にはいかないのだと」

「神子さん……」

「という訳で、僭越ながら私も参戦させて頂きます。よろしいですよね、山の仙人様?」

「えっ……? あ、はい……。ありがとう、ございます……?」

 

 仙人様。不意に神子からそう呼称されて、華扇は一瞬たじろいでしまう。

 何と言うか。この女性に仙人様と呼ばれてしまうと、華扇にとっては少々むず痒いような感覚に陥ってしまう。居心地が悪いと言うか、何と言うか。彼女は真の意味で、仙人としての行動理由をしっかりと理解した上で抱いているからだろうか。

 ──それ故にこそ、茨木華扇は若干の引け目を感じてしまう訳で。

 

「私の名前は豊聡耳神子。尸解仙です。しかし仙人としてこの地に目覚めてから、まだまだ日は浅い新参者。貴方のような仙人様からしてみれば、ひよっ子も良い所でしょうが……」

 

 豊聡耳神子は謙る。心の底からの敬意を、華扇に向けていて。

 それが何だか、ちょっぴり眩しい。

 

「機会があれば、いずれ貴方ともしっかりとお話をしてみたい所ですね。……恐縮ではありますけれど」

「そ、そうですね。機会があれば、こちらからも是非。ですが……」

「ええ。今は目の前の問題を解決する事が先決です」

 

 周囲へと視線を巡らせつつも、神子はそう言葉を繋ぐ。そして改めて、あのキョンシーへと視線を戻すと。

 

「周囲の奇妙な霊力の動きも気になる所です。しかし今は、改めて彼女を大人しくさせるべきでしょう。このまま放置は出来ない」

「ええ。私も神子さんの意見には賛成です。華扇さんは……?」

「……そうですね」

 

 周囲の『春力』の様子を窺いながらも、華扇は思考する。

 やはり気になる。春の異常な動きについてもそうだが、特に気になるのは霊夢の事だ。万が一にでも彼女の身に何かがあったのではないかと思うと、どうしても言葉を見失いがちになってしまうのだが。

 

「……この『異変』の根本的な解決については、今頃霊夢が頑張ってくれているはずです。その件に関しては、あの子を信じて待つしかないでしょう」

「霊夢さん……。そうでしたか、やはり貴方は……」

「……ええ。元々私は、霊夢の頼みであのキョンシーを無力化しに来たので」

 

 華扇は不安感を払拭する。

 霊夢の件については、ここで華扇があれこれと心配をしても仕方がない。神子も言っていた通り、一先ず今はあのキョンシーを大人しくさせる事を優先するべきであろう。

 彼女の行動パターンは未知数だ。青娥に従っているらしいとは言え、放置をすれば次にどんな行動に及ぶのかも判らない。

 

「では、仙人様。先程彼女を拘束した術をもう一度行使する事は可能ですか? あれならば再び無力化する事も可能なのでは?」

「それは……難しいでしょうね。術の発動までに少々時間が必要ですし、そもそも同じ手が二度通用するような相手とは思いません。この状況では、下手に搦手を用いるのは却って危険かと」

「……という事は、つまり?」

「力づくで押さえつけるのが手っ取り早くて確実、という事ですか」

 

 神子と白蓮の言葉に対し、華扇は頷いてそれに答える。

 出来れば穏便に済ませたかったのだが、そうも言っていられない状況だ。相手がキョンシーである以上、実力行使に移るしかない。話し合いなど時間の無駄である。

 

 ──そう。相手はキョンシー。ただの操り人形だ。遠慮なんて持ち込む必要はない。

 けれど。そのはずなのに。

 白蓮や神子とやり取りを経ても尚、それでも華扇の中に燻り続けるものが存在する。それは、先程あのキョンシーが華扇に対して口にした言葉。

 

『お前は相変わらず、頭でっかちな奴だな。茨木華扇』

(相変わらず……)

 

 何て事はない。あのキョンシーの口から飛び出した出任せだと切り捨てればそれまでなのだが──。

 華扇は改めてキョンシーの姿をその視界に捉える。血色の悪い肌。藤色の髪。紺色のハンチング帽。赤を基調とした上着。黒いスカート。そして、額に張り付けられた御札。どこからどう見ても人間の死体。術者によって良いように使役されているようにしか見えないのだけれども。

 何だろう。この、感覚は。

 

(私は……)

 

 茨木華扇は、密かに困惑を続ける。

 正体の判らぬ奇妙な違和感を、その胸に抱きながら──。

 

『気晴れては、風新柳の髪を削る──』

(…………っ)


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