桜花妖々録   作:秋風とも

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第101話「反撃の狼煙」

 

 何かが狂い始めていると、そんな違和感を確かに覚えているはずだった。

 けれどもそんな違和感は、一時的に認識する事が出来てもそれに意識を傾かせ続ける事は出来ない。何かがおかしいのだと、ほんのりと感じる事が出来ているはずなのに。それでもそんな感覚は、か弱い蝋燭の炎のようにすぐ掻き消えてしまう。きっと気の所為だったのだろうと、何の疑問を抱く事もなく勝手に納得をしてしまう。

 

 これは、()()()()()()だった。

 

 認識阻害の一種。ある種の論理的な結界。目標に近づこうとすればするほど、その意識は自然と真逆の方向に逸らされてしまう。つまるところ今回の場合、見つけようとする意識の反対。見つからないという諦観が、自然と引き出されてしまっていた。

 見つからない。ならば駄目だ。他の場所を捜すしかない。

 特段不自然な感覚という訳ではない。見つからなければ他の場所を捜してみようという判断は、誰もが抱く自然な考え方とも言えよう。そんな感覚を疑う事なく自然と受け入れ、そして最終的には納得してしまうのだ。

 

 無意識下での精神への介入。最も近いのは古明地こいしの『能力』だろうか。流石にあちらほど強力な訳ではなさそうだが、今回の状況下においてはそれでも十二分に効力を発揮していた。

 現に霍青娥は、今日この瞬間までその存在を誰にも捕捉される事はなかった。是非曲直庁も、華扇や魔理沙達も。そして自分──博麗霊夢も。この邪仙の掌の上で、完全に踊らされてしまっていたのだ。

 

 さぞ滑稽であっただろう。自分が組み立てた計画通りに物事は進み、特に何の横槍も入る事なく今日と言う日を迎えられたのだから。もう一歩でも踏み出せば、目標達成に手が届く。そんな領域にまで辿り着く事が出来たのだから。

 

 けれども。そんな彼女の好き勝手もこれで終わりだ。これ以上、順風満帆に事を進めさせて溜まるものか。

 霊夢は博麗の巫女だ。伊達にこれまで『異変』を解決してきた訳ではない。例え相手が、これまでにないくらい狡猾な人物であろうとも。

 

「さっさとこの私に退治されなさい!」

 

 首謀者であるならぶっ飛ばす。

 彼女にとっての単純明快な行動原理は、相手が誰であろうと揺るぎなかった。

 

「ふふっ。退治、ねぇ」

 

 お祓い棒を突き出して霊夢が吐き捨てるように言うと、当の青娥はくすくすと可笑しそうに笑い始める。計画の遂行が霊夢によって妨害されているのにも関わらず、青娥の余裕綽々な様子は相変わらずだ。

 そんな様子に腹が立って、霊夢は思わず舌打ちした。

 

「なに? 何が可笑しいっての?」

「ああ、いえ。ごめんなさい。癇に障ったのなら謝るわ」

 

 まるで謝る気などないような態度。何だかますます気に食わない。

 何なんだ、こいつは。まぁ、これまでの異変の首謀者にだってやたらと態度が尊大な奴もいた訳だし、この邪仙の反応が特段珍しいという訳でもないのだが。

 

 そんな中、当の青娥は軽く肩を窄めると。

 

「それにしても、よく私を捕捉する事が出来ましたね。まさか結界が破られるなんて」

「破られるなんて思わなかった? ふんっ、残念だったわね。カラクリさえ判っちゃえばこっちのもんよ」

 

 飄々とした態度を続ける青娥へと向けて、霊夢は言い返した。

 

「考えてみれば単純な話だったわ。あんたが行使していたのは論理的な結界でしょ? その中でも認識阻害にあたるもの。あんたに近づこうとすればするほどその意識は逸らされて、無意識の内に“見つからなかった”という結論を下す事になる。心理的に介入して意識を誘導し、その行動さえもある程度掌握してたってワケ。ある種の洗脳よね、これ」

 

 青娥が行使していた論理的な結界は、単純だが実に強力なものだった。

 心理的な介入。意識の誘導。霍青娥を捕捉しようとすればするほど、その結界は強い効力を発揮する事になる。“見つからなかった”という納得を無意識の内に引き出されて、捜索の方針を明後日の方向に逸らされてしまうのだ。

 それ故に、霍青娥まで辿り着く事が出来なかった。

 

「まぁでも、その程度ならもっと話は簡単だったんだけどね。確かに強力ではあるけど、それでも無敵という訳でもない。割とありふれた感じの単純な効力だし。魔術や妖術に精通している奴なら、ある程度の解析だって不可能じゃなかったはず。だけど……」

 

 けれどこれまで、誰一人としてその結界を解析する事は出来なかった。複数人が彼女の事を追いかけ続けていたのにも関わらず、皆一様にこの結界のカラクリに翻弄されてしまっていた。

 なぜここまで彼女の思う壺となってしまっていたのか。その理由は単純。

 

「あんたは複数種類の結界を重ねて併用していたんでしょ? 少なくとも、認識阻害の他にもう一つ。多分その効力は、共感力の増幅といった所かしら? “見つからなかった”という勘違いを共感という形で周囲に伝達させ、そして納得させる。だからますますあんたの行方を掴めなくなっていたのね」

「へぇ……」

 

 霊夢の説明を聞き、青娥は感心したような声を上げている。彼女の反応から察するに、霊夢の推測は殆ど正解だという事だろう。

 共感力の増幅。“見つからなかった”という納得が共感という形で伝わってしまえば、それを得た側の人物もさもそれが真実であるかのような感覚に陥ってしまう。そしてその納得感はまた別に人物に伝染し、そしてその人物に他の誰かが共感する。後は芋づる式に広まってしまうだろう。

 

 皆がそう思っているのだから、きっとそうに違いない。

 そんな感覚を引き出す事で、青娥にとって都合のいい解釈をより確固たるものにしていった──と。細かな部分に差異はあれど、大凡のカラクリは恐らくこんなものだろう。実に慎重かつ用意周到な奴だ。それ故に、ここまで厄介な事になっていた訳だが。

 

「いやー、凄いですね。まだ若いのに、そこまでの考えに到るなんて。流石は博麗の巫女、といった所かしら?」

 

 当の青娥は、霊夢の説明を聞き終えても尚、胡散臭い笑顔を崩さない。作戦の一つを霊夢によって看破されても尚、彼女は余裕を保ったままだ。

 腹が立つ。開き直っているのか、それとも──。

 

「ふんっ。ここは幻想郷よ? 皆が皆、そんな付和雷同的な思考を続けているとは思わない事ね」

「その一人が貴方であったと?」

「まぁ、そういう事。で、そこまで判っちゃえば後は簡単。あんたの事を捜そうとすれば結界の効力に引っかかるのなら、要するにあんたを捜さなければいい。つまりあんたが行きそうな所に待ち伏せていれば、自然と接触する事が可能になるってワケ」

 

 こちらから動くのではなく、あちらが動いて網にかかるのを待てば結界の効力には引っかからない。故に()()()()()なのだ、これは。

 唯一の問題は、どこで待ち伏せていれば青娥を捕まえる事が出来るのかという事だったのだが。

 

「二番煎じなのよ。この感覚、春雪異変の時と酷似し過ぎじゃない」

 

 春にしては寒すぎるこの気候。そんな異常気象を体験したのは霊夢にとって二回目だ。

 春雪異変。あの時はそもそも、五月になっても冬が終わらないという異常現象に幻想郷は見舞われていた。いつまで経っても春が訪れないという明らかな『異変』を目の当たりにして、霊夢は博麗の巫女として動き出したのだった。

 そして今回の場合、一度春が訪れてから、それが()()()()かのように幻想郷は冬によって塗り潰されつつあった。少しずつ、着実に。一度目の春雪異変と比較すると、進行が緩やかであるが故に『異変』として認識できずに見逃してしまう可能性も高かったのだけれども。

 

 しかしやっぱり、()()()()だ。

 春を奪うと言う大胆な暴挙など、二度目ともなれば博麗霊夢が見逃す訳がない。

 

「あんたは春雪異変に倣って幻想郷から春を奪っていた。そして奪ったその春をどういった用途で活用するのか。そんなの、この幻想郷で考えられるのはたった一つしかないわ」

 

 チラリと石段の階上を一瞥した後に、霊夢は続ける。

 

「あんたの狙いは、初めから西行妖を開花させる事だったんでしょ?」

 

 そして彼女に突き付ける。

 

「だからあんたは春雪異変を倣う必要があった」

 

 動機までは流石に判らない。

 けれど霊夢の勘が告げている。

 

「でも、やっぱり解せないのよねぇ。西行妖に眠る“何か”を復活させて、あんたは一体何をするつもりなの?」

 

 この邪仙は、あまりにも危険な人物なのだと。

 

「このまま退治される前に大人しく答えなさい、霍青娥!」

 

 これまでの『異変』の首謀者とは、根本的な何かが違うのだと。そんな警鐘が、霊夢の中で鳴り響き続けていた。

 判らない。この邪仙は、西行妖を開花させて一体何を期待しているのか。そこに眠る“何か”を復活させる事で、彼女に一体どんなメリットがあると言うのだろうか。

 

 目的がまるで判らない。漠然とした不気味な感覚だけが、胸中で燻り続けていて。

 

「何をするつもりか、ねぇ」

 

 くすりと笑いながらも、青娥は霊夢に答える。

 

「茨華仙さんにもお話したのですが、彼女から聞かなかったんですか? 私の目的は強い“力”を求める事で……」

「ふざけないで。そんな曖昧な表現で誤魔化そうったってそうはいかないわ。もっと具体的に言いなさいよ。“力”ってなに? それを手に入れてどうしようっての?」

 

 曖昧な表現などもううんざりだ。霊夢が求めているは具体的なはっきりとした回答。この期に及んで、下手な誤魔化しは求めていない。

 

「ふぅ……」

 

 すると青娥は嘆息する。

 するとようやく、どこか観念したような表情を浮かべて。

 

「そうですね。では、私の目的をもう少し具体的にお話ししますと……」

 

 彼女は肩を窄めると。

 

「“死”を超越する事、ですかね」

「……死?」

 

 青娥の口から飛び出してきたのは、やはり何とも胡散臭い“目的”だった。

 死の超越。何だそれは? 不老不死の事だろうか。強い“力”を求めるなどという表現よりは幾分か具体的ではあるが、しかしそれでも──。

 

「おや? 別に不思議な事ではないでしょう? 私達仙人は常に死と隣り合わせ。故にそんな“死”を超越したいという考え方は、仙人ならば誰でも少なからず抱いているはずです。違いますか?」

「……知らないわよそんなの。仙人の考え方なんてキョーミないわ」

「あらあら……。それは残念」

 

 嘆息しつつも、青娥は少しだけ肩を落としていた。

 何なんだ、こいつは。仙人と呼ばれる連中は少なからず変人が多いと聞いた事があるが、やはり彼女もその例に漏れないと言う事なのだろうか。霊夢にとって最も身近な仙人と言えば茨木華扇だが、彼女のようなタイプの方がかえって珍しいのかも知れない。

 だとすれば、この邪仙からこれ以上話を聞いたとしても生産性なんて欠片もないという事になる。これ以上は時間の無駄だ。霊夢は面倒くさそうに頭を掻きつつも、大きく嘆息した。

 

「もういい。あんたに話なんて聞こうとした私の方が馬鹿だったわ」

 

 そして霊夢は、改めてお祓い棒を青娥へと突き付けて。

 

「考えてみれば、あんたの目的が何だろうとどうでも良い事だったわ。あんな風に幻想郷の春を奪った時点で、あんたは立派な異変の首謀者。だったら私のやるべき事は一つよ」

「ふふっ。怖い怖い。やっぱり、私を退治するつもりなのですね?」

「トーゼンでしょ」

 

 毅然とした面持ちで、霊夢は言い放つ。

 

「これ以上、あんたの好き勝手にはさせないわ!」

 

 そうだ。霊夢の目的は初めから単純。首謀者であるこの邪仙を打倒し、そして『異変』を解決させる。彼女の真意をあれこれと訊きだす事なんて、その後でも遅くはないはずだ。

 無駄な問答は終わりだ。今は『異変』を解決する事だけを考えろ。

 

「ふぅ……。噂には聞いていましたが、本当に血気盛んで容赦のない子ですね」

 

 青娥は肩を窄める。

 ほんのちょっぴり呆れ気味な表情。けれども飄々とした調子は崩さないままで、青娥は続けた。

 

「まぁ、ここで貴方と戯れてみるのも、それはそれで面白そうですけど……。でも残念。一足遅かったようですね」

「あん?」

 

 意味深な青娥の言葉。苛立ちを隠す素振りすら見せずに、霊夢は首を傾げる。

 そんな霊夢の眼前で、青娥は仰々し気に両腕を広げると。

 

「貴方は私が春を奪ったと言いました。ええ、その件については特に否定するつもりもありません。ですがどうでしょう? ()()()()()、奪ったとされるその春を感じ取る事は出来ますか?」

 

 青娥はその場でくるりと回る。

 まるで、自分の状態を霊夢に見せつけるかのように。

 

「春を奪い、そして集めているというのなら、少なくともその本人に何らかの特徴が現れるはずでしょう? ですがどうでしょう? 今の私には、そんな特徴が見て取れますかね?」

「……つまり、何?」

 

 相も変わらず回りくどい表現。言いたい事があるのならはっきり言ったらどうなのだと霊夢が促すと、青娥はにこやかな表情を浮かべていて。

 

「ふふっ。簡単なお話ですよ」

 

 そして彼女は、自分で仕掛けたカラクリを霊夢に見せつけるかのように。

 

「私は……」

 

 やっぱり仰々しく、そして大袈裟に種明かしを始めようとするのだけれども。

 

「──ああ。あのキョンシーを使ってどうこうしようとしても無駄よ?」

「……何ですって?」

 

 けれど霊夢は、彼女の言葉に被せるように口を挟んだ。

 訝し気な表情を浮かべる青娥。飄々とした表情に、ほんの少しの影が差す。動揺──とまではいかないけれど、ほんの少しの困惑が確かに彼女から伝わって来た。それはまるで、予想の範疇にない事象を目の当たりにしたかのような。そんな困惑。

 今度は霊夢がニヤリと笑みを浮かべる番だった。

 

「ふふん。ようやく表情が変わったわね。そろそろ想定外の範疇、って事かしら?」

「…………」

 

 青娥は笑顔を崩さない。けれど彼女が醸し出す雰囲気は、先程までとは確かに何かが違う。

 彼女の真意そのものを読み解く事は出来ない。しかし手応えはある。これまで飄々と自分達を翻弄し続けてきたこの邪仙の鼻を明かせるような、そんな手応えが。

 

「……貴方、何をしたのです?」

 

 青娥が問いかけてくる。そんな彼女の言葉に対して、霊夢は肩を窄めると。

 

「別に。大した事なんてしてないわ。それこそ簡単な話」

 

 そして霊夢は口にする。

 

「まぁ、たまには誰かを頼ってみるのも良いんじゃないかって。そう思っただけ」

 

 

 *

 

 

「っ!」

 

 唐突な霊力の膨張。周囲の空気と共に流れ込んでくる気味の悪い気配。嫌な雰囲気。そんな明らかな“異常性”は、客間で神子達と対面していた白蓮にも確かに伝わって来ていた。

 強く、肌が擦られるような感覚。あまりにも強い霊力の奔流。何だこれは。誰かが霊力を放出させている? いや、それにしては妙だ。これは放出というよりも、我武者羅に渦巻いているといった表現の方が正しい。

 それは言うなれば、あまりにも大雑把。けれどもその出力はあまりにも強大だ。そんな奇妙な霊力が、どこからか流れ込んできている。周囲への影響などまるで度外視しているかのような、ともすれば危険すぎる程の霊力が──。

 

「これは……!」

「白蓮。君も気づきましたか?」

 

 殆ど白蓮と同じタイミングで立ち上がっていた神子が、そう問いかけてくる。困惑を隠し切れぬ様子ながらも、白蓮は頷いてそれに答えた。

 

「ええ。何か、とても嫌な印象の霊力が……」

「ひ、聖! な、何か変な感じです!? 肌がすっごくビリビリすると言うか何と言うか……!?」

 

 慌てすぎて語彙力を失った星がわたわたとしている。彼女だって命蓮寺の僧侶。それも毘沙門天の代理人である。やはり彼女もまた、この霊力の急激な変化を敏感に感じ取っているのだろう。

 そんな星の事を宥めつつも、白蓮は改めて神子達へと向き直った。

 

「この感覚……。恐らく本殿前の境内でしょうか? そこで何かが……」

「そうですね……。念の為に聞きますが、命蓮寺の修行僧の中にこのような霊力を放てる者は?」

「……心当たりはありません。そもそも人里に隣接しているこの寺院で、ここまで大胆に霊力を放出してしまうなんて……」

 

 人里から通う人間達にも悪影響を及ぼす可能性がある。()()()()がそれすらも考慮しないなんて有り得ない。

 そもそもこの霊力は、白蓮だって初めて感じ取るものだ。少なくとも、彼女達の持つ霊力ではないように思える。

 

「た、太子様……!」

「ええ、判っています。どうやら少し厄介な事が起きているようですね……」

 

 布都もまた慌てた様子で神子へと声をかけていた。

 この場にいる全員が異常性を感じ取っている。事態は明らかに深刻だ。一体全体、何が起きているというのだろうか。

 

(境内の方には、確か一輪達が……)

 

 途端に心配になってきた。この様子だと、何か事件にでも巻き込まれてしまっている可能性が高い。彼女とて入道使いとして、決して矮小な妖怪という訳ではないのだけれど──それでも。

 

「あの、神子さん。お話の途中で申し訳ありませんが……」

「外の境内が気になるのですよね? 私も同じ気持ちですし、気遣いは無用ですよ。あの場所には屠自古もいたはずですし……」

 

 霊力が流れ込んでくる先──外の境内の方へと視線を流しながらも、神子がそう答える。

 彼女がそう言ってくれるのなら妙な遠慮は無用だ。それに、命蓮寺の敷地内で何が問題が起きているのだと言うのなら、住職である白蓮が何もしない訳にもいかないだろう。せめて状況だけでも把握しなくては。

 

「え、えっと、聖っ。様子を見に行くのなら私もご一緒します。残って待つのもかえって不安になりますし……」

「太子様! 我もお供しますぞ!」

 

 白蓮と神子のやり取りを見ていた残りの二人も、揃ってそう名乗り出て来た。

 拒む理由もない。神子の言っていた通り、本当に厄介な事が起きているのなら、人手が必要となる場面も出てくる可能性だってあるだろう。協力者は多い事に越した事はない。

 神子と共に頷いて、白蓮達は四人全員で客間を後にする。そのまま本殿前の境内へと向けて廊下の先へと進んでゆくと、丁度本尊が祀られた広間に通りかかった辺りで、前方から一人の少女がパタパタと走って来る姿が見て取れた。

 

「あっ、聖! それに、神霊廟の皆さんも!」

 

 白いセーラ服を身に纏った彼女は、白蓮達の姿を認めるなり慌てた様子で駆け寄って来た。この命蓮寺の修行僧の一人である舟幽霊──村紗水蜜である。彼女もまた白蓮達と同様、不安と困惑が混じりあったような感情をその表情に滲ませていて。

 

「あの、ひょっとして皆さんもこの霊力を追って……?」

「ええ。やっぱり、ムラサも気づいていましたか」

「ま、まぁ、これだけ大胆な事されちゃ流石に……」

 

 状況が呑み込めていない様子の水蜜は、困り果てた様子で苦笑いを零す。それでも抱いた不安感を隠し切る事は出来ておらず、それが却って白蓮の焦燥を密かに加速させる。

 何が起きている? どうしても、悪い予感ばかりが際限なく溢れ出てしまう。未だに不穏の種が払拭されていないこの状況で、こんな事が──。

 

「聖……?」

「あっ……。いえ……」

 

 星に不安気な様子で表情を覗き込まれて、白蓮は反射的に首を横に振る。

 

「何にせよ、まずは状況をこの目で確認しに行きましょう。ここであれこれと考えこんでいても埒が明きません」

「そうですね。私も白蓮の意見に賛同します。今は状況を把握する事が先決かと」

 

 真っ先に同調してくれたのは神子だ。話を深掘り出来ないタイミングで口を挟んで来た辺り、彼女には白蓮の心境は伝わってしまっているのかも知れない。

 神子に気を遣わせてしまったのは心苦しいが、それ故に白蓮は気を引き締め直さなければならない。命蓮寺の住職として、これ以上水蜜や星達に余計な不安感を煽る訳にはいかないのだから。

 

「……それでは、行きましょう」

 

 そう声をかけた後、白蓮達は水蜜と共に本殿の外へと出る事にする。

 霊力が渦巻く中心は、本殿前の境内。ちょうど正面の参道付近だ。その為にはまず玄関口の引き戸を開けて、外へと──。

 

「……っ!」

 

 ──足を踏み出した、その瞬間。()()は、否が応でも白蓮達の眼前に突き付けられる事となる。

 濃い、淡紅色。まず目に入ったのはそれだ。強大な霊力の奔流が集中し、そして渦を巻いているように見える。周囲の空気を押しのけて、激しい突風さえも発生させている霊力。しかしそれは単なる霊力という訳ではなく、もっと何か特殊な感覚がひしひしと伝わってくる。

 

 底の知れない違和感。何だ、これは。

 ここ最近は、気温が低く空気も冷たい日々が続いていたというのに。それなのに、なぜ()()()()()()()()空気がやけに暖かいのだろう。

 

「な、なに、これ……?」

 

 思わずといった様子でそう零したのは水蜜である。彼女の困惑には激しく同意だ。

 こんなの、明らかにおかしい。明らかに何かが変だ。突発的な異常気象。それも間違いなく作為的。だって、あの霊力の真ん中に佇んでいるのは、見覚えのある人影で──。

 

「っ! 屠自古っ!?」

 

 白蓮がその人影をしっかりと認識するよりも先に、布都の鬼気迫る叫び声が彼女の耳を突く。反射的に布都の視線を目で追うと、そこには地に倒れ伏している少女達の姿が。

 

「そんな……。どうして……!」

「一輪……? それに、雲山も……!」

 

 水蜜に続き、震えた声で星がその名前を口にする。

 倒れ伏していたのは蘇我屠自古だけではない。雲居一輪と、そして彼女が使役する見越入道の雲山。彼女らもまた、一様に意識を手放してしまっている様子で。

 そして。彼女らに手を下したであろう人物こそが、淡紅色の霊力の中心に佇む少女。

 

「むぅ……。やっぱり、お前達も来てしまったのか」

 

 少女はぼやきを口にする。どこか面倒くさそうな声調で言葉を零し、けれども表情は殆ど変えずに首だけを小さく傾げている。

 額に張り付けられた御札がひらひらと揺れている。そこから覗く二つの瞳は、酷く濁り切っていて焦点すらも合っていないように見える。底の知れない気味の悪さ。その発生源とも言えるキョンシーの少女。彼女は──。

 

「芳香、さん……?」

 

 彼女の名前を、白蓮は口にする。

 

「まさか、貴方が……?」

 

 一瞬、白蓮の脳裏に逃避の念が過る。何かの間違いだろうと、そんな願望がほんの少しだけ彼女の心を突いてしまう。

 少しの間とは言え彼女と時間を共にして、けれども特に大きな問題も起きていなくて。自然と気を許してしまっていた。彼女は大丈夫なのだと、心のどこで勝手に納得してしまっていたのかも知れない。だからだろうか。白蓮の胸中を、微かな迷いが駆け抜ける。

 

「宮古芳香……。君は……」

 

 神子が零した言葉に対し、芳香は敏感に反応を示した。瞳だけを動かし、そして神子の姿を捉えると。

 

「豊聡耳神子……」

 

 ゆらりゆらりと、歩き出す。

 

「お前には、特に危害を加えるなと言われている。だからできれば大人しくしてて欲しかったんだが……」

 

 ふらふらと覚束ない足取り。元々死体であるが故に、硬直した関節部分を上手く動かす事が出来ないのだ。しかしそれでも、彼女は一歩ずつこちらへと歩み寄ってくる。淡紅色の異常な霊力をその身に宿らせたままで。

 そんな芳香を前にした神子が、ポツリと疑問の言葉を零す。

 

「一体、何を言っている……?」

「何? 別に何て事はない。私は青娥が所有するキョンシー。だから青娥の命令を忠実に実行しようとしているだけだ」

「青、娥……?」

 

 一瞬、神子の顔が強張る。

 若干の動揺。けれど彼女は生唾を呑み込み、それを強引に抑え込んだようだ。毅然とした面持ちで、改めて芳香へと向き直ると。

 

「教えて欲しい。青娥は一体、何を……」

「その問いに答える権限は今の私には付与されていない」

 

 即答だった。

 これまでの芳香の様子から考えられないくらいに、彼女はやたらと饒舌な口調で言葉を紡ぐ。

 

「邪魔をしないで貰おうか。私は青娥に与えられた命令を実行しなければならない。私は春を集めなければならないのだから」

「春を集める? それが青娥の目的ですか? そんな事をして何を……」

「む? だから言っただろう。その問いには答えられないと」

 

 しかし芳香の言葉は無茶苦茶だ。神子と会話をしているようで、しかし会話の体を成していない。まるで、予め()()された言葉のみをつらつらと並べているだけのような。

 

「豊聡耳よ。お前は余計な事を考える事も、余計な行動を取る事もするべきではない。それが結果としてお前の利益にも繋がるのだから。そして青娥もまた、それを望んでいる」

「……思考を放棄しろとでも? 残念ながら、それは出来ない相談だ」

 

 迷う事なく、神子は芳香に言い返す。

 

「これ以上傍観者に徹する訳にはいかないと、私はそう決めたのです。今一度、私は直接青娥の真意を訊き出したい。彼女が道を踏み外しているのなら、それを正してやるのが友人としての務めなのです。その為ならば、私は……!」

 

 神子の意思は固い。梃子でも動かぬ確固たる決意を、彼女は既に抱いている。

 彼女の想いは、白蓮だって理解しているつもりである。神子がどれほど青娥の事を友人として大切に想っているのか。それは先ほど神子の口から直接聞いている。虚妄でも何でもない。どこまでも真摯な無垢なる想いを、白蓮は神子から受け取っている。だからこそ判るのだ。

 

『何もそんなに複雑な話ではありませんよ。至極単純な話です。私にとって、青娥は大切な友人なのです。……ただ、それだけです』

 

 彼女は言っていた。自分にとって、青娥は大切な友人であるのだと。

 

『もしも……もしも本当に、彼女が人道から足を踏み外しているのだとするのなら……』

 

 そして彼女は決意していた。

 青娥の為になるのなら、例え彼女と衝突する事になろうと構わないのだと。

 

『友人として、私は彼女を止める覚悟です』

 

 それは紛れもなく彼女の真意だ。

 神子は青娥を助けようとしている。幾ら青娥に仕える者の言葉とは言え、思考を放棄しろと言われて簡単に受け入れてしまうほど彼女の意思は脆くない。

 

 余計な事を考える事も、余計な行動を取る事もするべきではない? 冗談じゃない。

 神子の想いは、その程度で屈指はしない。

 

「はぁ……。成る程、結局そうなるのか」

 

 しかし芳香は肩を落とす。

 望むように事を運べず、都合の良いように意識を掌握できず。それはある種の諦観。多少の期待はしていたけれど、叶わないのならそれでいい。

 受動的に、彼女はこの状況を受けれてしまっている様子で。

 

「まぁでも、仕方がないか……」

 

 彼女は立ち止まる。そしてぎこちなく、伸ばしたその手を掲げると。

 

「少しくらいなら、青娥も許してくれるはず……」

「少し……?」

 

 ぞくりと、悪寒が走った。そして底の知れない嫌な予感が、白蓮の胸中を駆け抜けた。

 警鐘。何かが、起きようとしている。そしてそれは、下手をすればこの状況を一気に崩しかねないものだ。僅かな空気の流れの変化。そして芳香の中で、密かに膨張を続ける霊力。白蓮の予感は確認に変わる。このままでは、いけない。

 反射的に、白蓮は動いた。

 

「まさか……!」

「っ! 皆さん、一端離れて……!」

 

 神子と共に警告を口にする。()()()()()()。このタイミングでは駄目だ。

 芳香は何かを仕掛けようとしている。青娥に与えられた命令を、是が非でも完遂させる為に。彼女は次なる()()へと駒を進めようとしている。

 阻止しなればならない。魔力を高めて備えるが、やはりどうしても時間が足りない。それは文字通り焼石に水。

 

(駄目……。足りない……!)

 

 万事休す──。

 ──と、そんな結末が白蓮の脳裏に一瞬だけ過るが。

 

 その次の瞬間。

 

「……ッ!?」

 

 眩い発光。そして見知らぬ霊力の流れ。けれどもそれは、宮古芳香のものではない。

 突如として芳香の足元に陣のような物が現れる。バチバチと軽い稲妻を走らせたそれは、しかしその次の瞬間には更なる霊力を放出させていた。

 陣から放たれた霊力が、無数の鎖のようなものを形成する。それは迷いなく芳香へと襲い掛かり、そして瞬く間に彼女の身体を拘束した。

 

「なっ……」

 

 思わず白蓮は瞠目する。内側から膨れ上がる霊力の流れから、てっきり芳香が何かを仕掛けてくると思っていた。──いや、その認識が間違っていた訳ではない。芳香は確かに霊力を高め、そして白蓮達に何等かの危害を加えようとしていたはずだ。

 そう。()()()()()()()()

 白蓮や神子達が、何等かの抵抗を試みるよりも先に。

 

「お、おおう……!? 何だ、これは……?」

 

 状況が呑み込めぬと言った様子で、芳香が自分の身体を見下ろしている。霊力で形成せれた鎖によって拘束され、両腕ごと身体をがっちりとホールドされた状態。そして足元には何らかの陣。

 ──拘束系の術式だ。それもかなり高度な術であるように見える。白蓮が主に行使する魔法の類ではないようだが、それでも反射的に展開できるような単純な構造ではない事くらいなら判る。まるで、この展開を予期していたかのような。そんなタイミングでの術式の発動。

 

「あっ……! 聖、あれを……!」

 

 何かに気づいた星が指を差して示している。

 拘束された芳香の背後。視線を向けると、そこには一人の少女の姿が。

 

「ふぅ……。思ったより時間がかかってしまったわ……。間に合った、とは言い切れない状況だけれど……」

 

 片腕を掲げ、霊力を送り込んで術の発動を持続させている少女。軽く呼吸を整えながらも、彼女はボソリと呟いていた。

 

「でも、やっぱり霊夢の言った通りだったわね」

 

 薔薇色のセミロングヘア。その頭には白いシニヨンキャップ。茨の模様が描かれた衣服を身に纏っており、指の先まで白い包帯でぐるぐる巻きにされた右腕。

 

「貴方は……!」

 

 話に聞いた事がある。妖怪の山に屋敷を構える薔薇色の仙人の事を。直接会った事はなかったが、ここ最近は博麗神社を中心として人里付近にまで足を運ぶ事も多くなっていたと聞く。

 俗界から離れて暮らし、天道を志して修行を続ける人物。豊聡耳神子や物部布都とはある意味同質で、けれどもどこか異質さも漂わせている一人の少女。

 

「さて、貴方達の好き勝手もここまでです」

 

 そして、彼女は。

 

「ここから反撃開始、らしいですよ?」

 

 茨木華扇は、身動きの取れない宮古芳香(キョンシー)へと向けてそう宣言していた。


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