桜花妖々録   作:秋風とも

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第98話「目覚め」

 

「……一さん。進一さん! 起きて下さい、進一さん!」

「ぅ、ん……?」

 

 ゆさゆさと、身体を大きく揺さぶられる。微睡みの中を彷徨っていた進一は、覚醒へと一気に導かれた。

 眠け眼を擦る。気だるげな身体を持ち上げる。真っ先に目に入ったのは、一人の少女の姿だ。白銀色の髪に黒いリボン、そして小柄な体格。瑠璃色の綺麗な瞳が、しっかりと進一の姿を捉えている。

 覚えがある。ぼんやりとした思考で何とか彼女を認識した進一は、ポロリとその名前を口にした。

 

「妖夢……?」

「はい。妖夢です」

「…………」

「あ、あの……。どうしました? 大丈夫ですか?」

 

 なぜだかエプロンを身に着けている妖夢が、小首を傾げつつもそんな事を聞いてくる。けれどもそんな状況でも、進一は未だに思考を切り替える事が出来ずにいた。

 

 何だか頭の中がボーっとしている。未だに微睡みの中を彷徨い続けているような感覚と言うか、何と言うか。

 違和感を覚えている。何かがおかしいような、そんな気がしてならない。

 

「えっと……。妖夢、なんだよな?」

「そうですけど……。あ、ひょっとして、寝ぼけてます? 確かに進一さんが寝坊するなんて珍しいですよね」

「寝坊……?」

 

 一体、何の事だろう。あまり働かない思考のままで、進一は思わず周囲の様子を確認する。

 見覚えのある部屋。見覚えのある机。見覚えのあるクローゼット。そして半開きのカーテンから差し込む朝日。視線を下に向けると、そこにあるのはベッドと掛け布団だ。どうやら自分は、このベッドの上で床に就いていたらしく。

 

「あ、れ……?」

 

 ──やっぱり、違和感。

 

「なぁ、妖夢。ここって……?」

「え? 進一さんの部屋、ですけど……」

「俺の、部屋……?」

「ふぅ……。やっぱり寝ぼけてますね。ひょっとして、昨日は夜更かししちゃいました? ちゃんと寝なきゃ駄目ですよ」

 

 ──いや。待て。待ってくれ。

 思考を働かせる。もう一度周囲を観察する。確かにここは、進一の部屋だ。京都の一角。とある閑静な住宅街に建てられた一軒家。その一室。自分の部屋であるのなら、このベッドの上で朝を迎えても何らおかしな事はない。

 

 それなのに。何だろう、この奇妙な感覚は。

 何かを、見落としてしまっているような──。

 

「さて! 早く起きて顔を洗って下さい! 朝ごはんの準備、もう出来てますよ? 夢美さんも待ってます」

「あ、ああ……」

「二度寝、しちゃダメですよ? 私は先に戻ってますので」

 

 そう言い残すと、妖夢はパタパタと進一の部屋から退散する。一人部屋に残された進一は、思わず溜息をついていた。

 一先ずカーテンを開ける。眩しい朝日が部屋の中に入り込んでくる。その次に窓も開けて部屋の中を換気する。冷たい空気が一気に流れ込んできて、進一は思わず身震いした。

 

「寒っ……」

 

 そりゃそうである。何せ今は二月下旬。本格的に春が到来するのは、もう少し先の話で──。

 

(……二月?)

 

 再び違和感。進一は枕元に置いてあるスマートフォンに手を伸ばし、カレンダーを確認してみる。

 指し示しているのは二月後半の某日。自分の認識と寸分違わない。それなのに、なぜこんな違和感を覚えてしまうのだろうか。

 

 ──と、そんな考察を始めようとした進一だったが。

 

「……やっぱ寝ぼけているのか」

 

 早々に思考を打ち切る事にした。寝起き直後のぼんやりとした頭では、何かを深く考え込む事さえも億劫だ。

 それよりも妖夢にも言われた通り、さっさと起きてしまわなければならない。普段の自分と比較して、今日は中々の寝坊である。大学も春休み期間であるとは言え、生活リズムを崩すのは健康的にもよろしくない。

 

 夢美だって待っているはずだ。早いところダイニングに向かわなければ。

 

「ふぅ……」

 

 軽く深呼吸した後に、進一はベッドから降りる。

 自室を後にして、まずは顔を洗うべく洗面台へと向かうのだった。

 

 

 *

 

 

「あ、やっと起きたのね。もうっ。進一抜きで朝ごはん食べちゃう所だったわ」

 

 ダイニングへと足を踏み入れると、第一声で夢美がそんな事を言ってきた。

 進一に待たされた所為で、ちょっぴりムッとした様子の夢美。ここ最近の岡崎家は、妖夢も含めた家族揃って朝ごはんも一緒に食べるのが常となっているのである。

 今回ばかりは、寝坊した進一が全面的に悪い。素直に謝っておく事にした。

 

「悪かったよ。ちょっぴり油断してたんだ」

「油断って……。でも進一が寝坊なんて確かに珍しいわよね。昨日は夜更かしでもしたの?」

 

 妖夢と同じような事を聞いてくる夢美。昨晩の進一は、取り分け夜更かしをした認識などなかったのだが。

 

「多分、寝つきが悪かったのかもな。何か夢を見ていたような気もするし……」

「夢……?」

 

 マグカップに入ったコーヒーをスプーンでくるくる掻き混ぜながらも、夢美は続ける。

 

「少し心配ね。メリーが()()()()に遭ったばかりだし……。進一は大丈夫?」

「……メリー?」

 

 メリー。()()()()。一瞬何の事だが分からなかったが、すぐに心当たりを思い出した。

 

「ああ……。いや、多分大丈夫だ。そもそも夢の内容すらも覚えてないしな」

「そう……。なら良いけど……」

 

 あれは本当に肝が冷える事件だった。もしも蓮子と仲直りも出来ずに、あのままメリーが目を覚まさなかったらと思うと──。想像しただけでも胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 

「おまたせしました。……何の話ですか?」

「いや、別に大した話じゃない。俺が寝坊しちまったのが相当に不思議な事だったらしい」

 

 朝食を運んできた妖夢に問い掛けられるが、肩を窄めつつも進一はそう答える。実際、本当に大した事ではないのだから、心配なんて不要である。

 

「姉さんは過保護というか、心配性だからな」

「む? 何よー、その言い方。私はお姉ちゃんとして、当然の心配をしているだけで……」

「確かに。ちょっぴり度が過ぎてる時もありますよね、夢美さんは」

「まさかの全肯定ッ!? えっ、妖夢までそんな事言っちゃうの!?」

 

 朝っぱらから元気な夢美の事はともかくとして、進一は妖夢が用意してくれた朝食を口に運ぶ事にする。いただきますと口にして、まずは味噌汁から食する事にした。

 味噌の風味と出汁の香りが口一杯に広がっていく。やはり妖夢の作る味噌汁は最高だ。眠っていた感覚も一気に目覚めていく。

 

「うん。旨い。今朝も最高の味噌汁だ」

「ふふっ。ありがとうございます」

 

 進一が感想を述べると、ニコニコとした表情で妖夢がそう答えてくれる。

 朝の何気ないゆったりとした時間。ここ何ヶ月かの間ですっかり日常として浸透しつつある一時。妖夢と一緒にいると、進一の心も自然と落ち着いていく。

 本当に、心地いい。魂魄妖夢という少女は、進一にとってすっかり特別な存在に変わりつつある。家族同然の大切な存在。だからこそ、彼女の力になりたいという感情がますます強くなってくる。

 

 彼女を故郷である幻想郷に送り届ける。その為ならば、進一はどんな事だってやってのける覚悟だった。

 

「そう言えば、二人とも。今日は午前中から活動するんでしょ?」

 

 いつの間にか調子を取り戻していた夢美が、朝食の焼き鮭をつつきながらも問いかけてくる。

 思わず進一は首を傾げる。活動とは、一体何を示しているのだろう。

 

「ええ。蓮子さん、またオカルト絡みの情報を仕入れてくれたみたいで。本当に情報収集能力が高いというか……。一体どこで調べてるんでしょう……?」

「ふっふっふ……。あの子も中々の手腕よね。将来が楽しみだわ……!」

 

 二人の会話に聞き耳を立てて、進一も思い出した。

 そうだ。活動といえば、秘封倶楽部の活動に他ならないじゃないか。どうして思いつかなかったのだろう。シャキッと目覚めたつもりでも、まだどこか寝ぼけているのだろうか。

 

「一応、午前の十時に都内のカフェ集合という事になってますが……」

「まぁ、蓮子の事だ。あいつが集合時間を守れるとは思えんな」

 

 「ですよね……」と、妖夢は苦笑する。蓮子の遅刻は、秘封倶楽部にとって最早様式美となりつつあるのだ。流石に慣れてきてしまっている。

 けれど蓮子が幾ら時間にルーズな性格をしてようと、相方のメリーは時間厳守のきっちりとした真面目な少女なのである。彼女の為にも、進一達も遅刻はできまい。

 

「だが、今日に限って言えば俺も少し危なかったよな。妖夢が起こしてくれなかったら、寝坊して蓮子と揃って遅刻してたかも知れん」

「確かに、結構ぐっすりでしたよね。目覚ましつけてなかったんですか?」

「ああ……。いや、つけていたつもりだったんだがな……。無意識の内に切っていたのかも」

「ふふん。そんなおっちょこちょいな事するなんて、進一もまだまだ子供ね。よし! そんな進一の為に、これからはお姉ちゃんが毎朝起こしてあげるわ! どう?」

「断る」

「即答ッ!? え、何で!?」

 

 何で、じゃないが。流石に姉に毎朝起こして貰うなんて、そんなのは進一のプライドが許さない。──と言うか、夢美に任せると何だか色々な意味で嫌な予感がするし。

 元より朝に弱いタイプではないのだ。今日は偶々、寝つきが悪かっただけだろう。

 

「でも今日だってあんまりのんびりとは出来ませんよ。朝の十時なんてあっという間ですし」

「だな。さっさと食っちまおう」

 

 妖夢お手製の朝食を堪能したい所は山々だが、生憎今朝は時間がない。最低限しっかりと味わいつつも、十時集合には間に合うように注意しなければ。

 

「……幻想郷への手掛かり、今日こそは見つかると良いな」

「そう、ですね……」

 

 妖夢がこちらの世界に迷い込んでから、もう三ヵ月以上が経過してしまっている。そろそろ事態の好転を期待したいものだ。彼女にだって、帰りを待っている人達がいる。そんな人達の為にも、今は一刻も早く手掛かりを掴まなければならないのだ。

 そう。

 帰るべき場所に、帰る為に。

 

『だから今は、おやすみなさい』

 

(……え?)

 

 声が、頭の中に響いたような気がした。

 

 

 *

 

 

「いやぁ、参った参った。最近の私って朝はパン派なんだけど、今朝起きたらトースト切らしちゃってたんだよね。でも朝食って一日の元気の源だって良く言うじゃない? だから抜くのも良くないと思って、仕方なくコンビニに買いに行く事にしたの。そしたら美味しそうなパンがズラリと並んでてさ、もう目移りしちゃって。それで、気がついたらこんな時間になってたんだよねー。はっはっは!」

「お? この紅茶旨いな。安牌でダージリンばっかり飲んでだけど、たまにはこういうのもアリだな」

「でしょう? だから言ったじゃない。新天地にチャレンジしてみるのも悪くないのよ?」

「かも知れないな……。あ、ところでメリー。もう身体は大丈夫なのか? 何ともないか?」

「ええ。お陰様で、寧ろいつもより調子が良いくらいよ」

「そうか。なら良かったよ」

「ありがとう。心配してくれて」

「…………っ」

 

 進一とメリーがそんなやり取りを交わす横で、俯いてぷるぷると小刻みに震える少女がいる。口をぐっとつぐみ、半分涙目になって。今にも感情が爆発してしまいそうな様子である。

 しかしそんな彼女を前にしても尚、進一とメリーは談笑を止めるつもりはない。ここは心を鬼にするべきだ。これで彼女の悪癖に改善の兆しが少しでも見られるのなら、進一にとってもメリーにとっても安いものである。

 

 ──と、そんな事を考えつつも無視を決め込んでいた進一達だったが。

 

「ふえーん!? 待って、謝る! 謝るからぁ! だから無視しないでぇ!?」

 

 意外と早く泣きつかれてしまった。

 現時刻、午前十時ニ十分を過ぎたところ。大凡の予想通りナチュラルに遅刻してきた宇佐見蓮子は、無視を決め込んだ二人のサークルメンバーを前にして、泣き顔でその片方──マエリベリー・ハーンに抱きついていた。

 蓮子に抱きつかれたメリーはジト目である。最早この状況に慣れ過ぎて、ある種の悟りの境地にまで達している可能性すらある。そんな彼女らの様子を傍で見ていた妖夢は、困ったように苦笑していた。

 

 蓮子の遅刻癖も相変わらずである。寧ろ安心感すら覚える程だ。

 

「あぁ、もうっ。判ったわよ。だから離れて頂戴っ」

「……ホント? 許してくれるの?」

「はぁ……。まぁ、蓮子の遅刻なんていつもの事だしね。流石に慣れたわよ」

「やったー! 流石はメリーね! 話が分かるわ!」

 

 感情の切り替えが早すぎる。喜怒哀楽が激しいと言うか何と言うか、そのポジティブっぷりが時に羨ましくなるくらいだ。

 進一は思わず嘆息した。

 

「お前なぁ……。病み上がりのメリーでさえもきっちり時間を守ってるというのに、言い出しっぺのお前が遅刻するってどういう事だよ」

「ふぅ……。まったく、進一君は細かいわ。たったニ十分程度の遅刻じゃない。惜しいわね」

「惜しいって何だよ。というかニ十分は普通に大遅刻だろ……」

 

 肩を窄めて澄まし顔でそんな事を言われてもリアクションに困るのだが。

 メリーに許されて調子に乗る、いつも通りの宇佐見蓮子である。

 

「あ、あのっ。ようやく皆さん揃った事ですし、そろそろ今日の本題に移った方が……」

「え? あー、そうだったわ。時間を無駄にしちゃいけないものね」

 

 事態が取っ散らかってきた頃におずおずと口を挟んできた妖夢。そんな彼女に答える形で、蓮子は身を整えてこほんと咳払いをしていた。

 遅刻の常習犯である蓮子が時間を無駄にしちゃいけない等と口にしても説得力の欠片もないが、流石に話の脱線が過ぎるので今は口にしないでおく。今日も今日とて、秘封倶楽部の活動開始なのである。

 

「それで、蓮子。今日はどんなオカルト話を持ってきたの? それとも別の世界への『入り口』らしき所でも見つけたのかしら?」

「いや、そこまで具体的なものはまだかな。でも当然、別の世界への入り口だろうと何だろうと見つけて見せるつもりよ! その為の手掛かりだって、既に私達の手の中にあるんだからね!」

「……手掛かり?」

 

 メリーに対する蓮子の受け答えに対し、進一は思わず首を傾げる。

 何の事を示しているのだろう。前に古びた社から拝借した御札の事か? あれは未だに夢美が解析中で、これと言った成果は得られていなかったと思うのだが。

 

「蓮子。手掛かりというのは……?」

「それは勿論、これに決まっているわ!」

 

 そして蓮子は、持ってきていたバッグの中から何かを取り出してテーブルの上に置く。

 見覚えのある品々だった。一つは、上品な雰囲気の洋紙に包まれた手のひらサイズ何か。一度は紐を解いて中身を確認した形跡はあるが、今は綺麗に包み直している様子。薄っすらと確認できる紙の形から察するに、中身はクッキーか何かだろうか。

 そして、もう一つ。中々の存在感をひしひしと放ち続けている大きな()()は、植物の芽か茎を彷彿とさせる物体で。

 

「クッキーと天然の筍、ですか? ひょっとしてそれって、メリーさんが……」

「その通りよ妖夢ちゃん! これはメリーが夢の世界から持ってきた品々! 別の世界への手掛かりと成り得る物品よ……!」

 

 そうだ、思い出した。この筍も、そしてクッキーも。メリーが夢の世界から持ち帰った物じゃないか。

 あの事件は想像に新しい。蓮子の些細な一言から二人の関係性に亀裂が生じ、その最中にメリーは原因不明の昏倒に襲われてしまった。最終的にメリーは目覚め、そして蓮子とも仲直り出来たので一応は一件落着という事になっているが、それでも事件の全貌は未だに不明瞭な部分が多いのである。

 

 この筍も、そしてクッキーも。一体どんな力が作用して、夢の世界から持ち出されたのか。そもそもメリーは、どうしてそんな夢を見るようになってしまったのか。その原因は現時点でもはっきりとしていない。

 

「あっ、この筍とクッキー。どこにいったのか思ったら、蓮子が持っていたのね。いつの間に持ち出したのよ」

「そんな事は些細な問題でしょ? 兎にも角にも、これらは明らかに非常識な要素の塊! 幻想郷について何か判るかも知れないわ……!」

「些細なって……。まぁ、いいけど」

 

 若干の呆れ顔を浮かべるメリー。やれやれといった様子で彼女は嘆息していた。

 しかし、蓮子の言う事にも一理ある。このクッキーも筍も、秘封倶楽部の目的に対して重要な手がかりと成り得る要素だ。調べてみるに越した事はない。

 

「だが、大丈夫なのか? あんな事があったばかりだし、また夢の世界に迷い込んじまう危険性だってあるんじゃないか? 二人とも、夢の内容だってまだ思い出せてないんだろ?」

「そうだけど……。でも、だからこそよ。また夢の世界に迷い込んでしまう危険性があるからこそ、その原因をはっきりとさせておきたいじゃない? 不明瞭な状態で放置だなんて、そっちの方が却って危険だと思うし」

「まぁ……。確かに、その通りかも知れんが……」

 

 確かに原因をはっきりとさせておく事に越した事はない。それに、メリーは夢の中で幻想郷に迷い込んでいた可能性が極めて高いのだ。あんな夢を見てしまった原因がはっきりとすれば、妖夢を帰す方法だって判るかも知れない。

 

「勿論、私だってメリーをまたあんな目に遭わせるのなんて真っ平よ。だからあんまり無茶な事はしない。あくまで手掛かりを探す程度。……それでも、メリーに負担をかけちゃう事には変わりないから、無理強いだってするつもりもないわ。だから今日の活動は、メリー次第って事になっちゃうけど……」

 

 そこで蓮子はちらりとメリーを一瞥する。そんな彼女はどこか遠慮しているというか、珍しくどこか躊躇しているというか、そんな印象を受けた。

 やはり()()()()があった手前、蓮子の中にも“怯え”が生じてしまっているのだろうか。──無理もない。秘封倶楽部のリーダー格云々を抜きにして、そもそも大前提として蓮子だって一人の少女に過ぎない。あんな事があった直後で、早々に元通りという訳にもいかないのだろう。幾ら彼女でも、どこかネガティブな心模様を打ち消せなくとも不思議ではない。

 

「……っ」

 

 だけれども。

 話の中心にいる、マエリベリー・ハーンはと言うと。

 

「……まったく」

 

 どこか、呆れたような。けれども不思議と()()()()()()()()()表情を浮かべていて。

 

「なに遠慮してるのよ、蓮子。らしくないんじゃないの?」

「えっ……?」

「ひょっとして、この前の事まだ気にしてるの? だとすればそれは筋違いよ。あの時はお互いに謝って、ちゃんと水に流したでしょう?」

「そ、それは……。そうかも知れないけど……」

「それに、私への負担なんてそれこそ今更じゃない。結界の境界は、私の『眼』じゃないと見つける事が出来ないのだから。秘封倶楽部のサークル活動は、前々から私の『能力』頼りだったでしょう?」

「う、うん……」

 

 しょんぼりと、けれども蓮子は小さく頷くしかない。今回ばかりは完全にメリーのペースである。

 普段とは立場が完全に逆転状態だ。どちらかと言うと蓮子はぐいぐいと周囲を引っ張っていくタイプで、メリーはそのサポートに回って支える形。主導権を握る事は殆どない。

 けれども今日のメリーは違う。

 

「今回の件、私は妖夢ちゃんにも助けられたの。だからきちんと恩返しがしたいのよ。私の『能力』で幻想郷への手掛かりが見つけられるのなら、躊躇う理由なんてないわ」

「メリーさん……」

 

 マエリベリー・ハーンに迷いはない。蓮子の手を引き、そして彼女を立ち上がらせようとしている。彼女の心を奮い立たせ、前を向く為の手助けをしている。そんな彼女に触発されて、蓮子は俯いていた顔を上げて。

 

「……そうね、そうだったわ。メリーの言う通り、こんな遠慮なんて筋違いよね」

 

 そして次の瞬間には、蓮子は普段通りのペースを取り戻していた。

 

「よーし! メリーも賛成してくれるみたいだし、今日のサークル活動は決まりね! 幻想郷への手掛かり、今度こそ見つけるわよ!」

 

 ──ああ。何だろう。とても懐かしい感覚だ。

 秘封倶楽部。妖夢を幻想郷に送り届ける為に、進一が一時的に加入したオカルトサークル。こんな風に皆で集まって、交流して。主に蓮子が仕入れてくれた情報を当てにして、時には京都の街中を駆け回ったりして。勿論、幻想郷への手掛かり探しは手を抜くつもりなどないのだけれども。

 

 それでも、()()()()は悪くない。こうして皆で集まって、苦楽を共にして。こういった何気ない日常にも、進一は幸福感を感じている。

 優しい日常だ。心の奥が、温かくなる──。

 

「……皆さん、親切な方ばかりです」

 

 ぽつりと、妖夢が零す。

 

「私の為に、ここまで協力してくれて……」

「……そうだな」

 

 頷きつつも答えると、妖夢はくすりと微笑みを零す。

 

「進一さんも、ですよ?」

「……え?」

「進一さんだって、私の事を助けてくれているじゃないですか」

 

 ニコリと笑う。

 眩しいくらいの笑顔を、彼女は浮かべていて。

 

「あの日……。こちらの世界に迷い込んでしまった私を、貴方が助けてくれました。その後も、色々あって……。貴方が助けてくれたからこそ、今の私がいるんです。だから感謝しています」

 

 温かい想いを、彼女は向けてくれていて。

 

「ありがとうございます、進一さん」

 

 素直で真っ直ぐな感謝の言葉。あまりにも真っ直ぐ過ぎて一瞬だけ呆気に取られた進一だったが、けれどもすぐに破顔する。

 妖夢らしい、優しい想いだ。胸の奥がポカポカとする。

 

 進一がいてくれるから、今の自分がある。だから感謝している。

 ──そんなの、こちらの台詞だ。進一だって妖夢に救われている。妖夢がいてくれたからこそ、進一だって自分の『能力』とも向き合えるようになってきたのだ。

 

 だから。こちらこそ、感謝の言葉を伝えたい。

 ただ、ありがとうと。胸に抱いた彼女への想いを、言葉に乗せて──。

 

『いつまでだって、待ってるよ……』

 

(……っ)

 

 ──また、声が聞こえたような気がした。

 

 

 *

 

 

 都内のカフェでの情報共有を終えた後、秘封倶楽部は夢の世界からの土産物を手掛かりにして調査を開始していた。

 本当に色々な事を試した。筍とクッキーを手に京都の街中を歩き回ったり、何か変わった噂話はないか聞き込みを行ったり、以前にも調べた蓮台野の墓地をもう一度調べてみたり。博麗神社を探す際に見つけたあの社も調べてみた。

 

 そして時刻は夕暮れ時。この半日で、秘封倶楽部は京都の隅々まで練り歩いたんじゃないかと思う程の移動量を重ねていた。けれどもそんな活動を経ても尚、進一達が得られた情報と言えば。

 

「途中から薄々察していたけれど、これは……」

「皆まで言わないでメリー! それ以上は茨の道よ……!」

 

 夕焼けに染まる都内を歩きつつも、メリーのぼやきを蓮子がすんでの所で止める。茨の道という表現は少々大袈裟が過ぎるかも知れないが、そんな事を口にしてしまう蓮子の気持ちも判らなくもない。

 

「いい? 今日の私達の活動は決して無駄になんてなってないわ。成果だってちゃんと得られたじゃない。そう、“何も分からないという事が分かった”という成果がね……!」

「……そ、そうだな」

 

 物は言いようである。要するに、あの筍やクッキーに関して色々と行動を起こしてみたものの、これと言って何の手掛かりも見つからなかったという事だ。いや、確かに何も分からない事が分かったという表現は強ち間違っていないのかも知れないが──。

 

「だ、大丈夫ですよ! 元々そう上手くいかないって判ってた事ですし、あまりお気になさらず……」

「そう……。妖夢ちゃんは最初から期待してなかったという事なのね……」

「へ!? あ、い、いえ、その……。すいません、そんなつもりじゃ……」

「ふふっ、冗談! 判ってるって、妖夢ちゃんがそんなつもりじゃないって事くらい。私達の事、励まそうとしてくれたのよね?」

「え、えっと……」

「ありがとね、妖夢ちゃん」

 

 妖夢は若干蓮子に翻弄され気味だ。どこか困ったような、照れくさそうな表情を浮かべている。

 

 しかし、やはりどうにも上手くいかないものだ。メリーが目覚めなくなってしまったあの時は、あの筍を手掛かりに蓮子がメリーの夢の世界へと侵入する事が出来たというのに。今日に限って言えば、結界の境界すら見つける事が出来ないなんて。

 

 ──けれど、それでも。

 

「まぁでも、当然この程度で諦めるつもりなんてないわ! 秘封倶楽部の快進撃はまだまだこれからなのよ……!」

「ふふっ。そうね、蓮子の言う通り。諦めるにはまだまだ早いわ」

「……ああ。そうだな」

 

 蓮子も、メリーも、この程度で簡単に諦めるような弱い少女ではない。これで終わりという訳ではないのだ。幻想郷への手掛かりを見つけるまで、進一だって投げ出すつもりなど毛頭ない。

 

「お? 秘封倶楽部の皆じゃないか」

 

 ──と。不意に誰かから声をかけられて、秘封倶楽部のメンバーは揃って足を止める。

 振り向くと、そこにいたのは二人組の女性だ。秘封倶楽部にとって、どちらも深い馴染みのある人物。声をかけてきたのは、その内の小柄な女性の方で。

 

「こんな所で会うなんて奇遇だな。サークル活動の帰りか?」

「あ、ちゆりさんに教授! はい! 丁度結界の境界を探し回ってた所なんですよ」

 

 歩み寄ってきた二人の女性──北白河ちゆりと岡崎夢美に対して、代表して蓮子がそう答えていた。

 確かに。大学の敷地内でもないこの場所で彼女らと遭遇するとは奇遇である。とは言っても、ここは通勤やら通学やらでも利用される事の多い通り。奇遇とは言え可能性がゼロという訳でもない。

 

「お二人は、大学で研究ですか?」

「ええ。まぁ、そんな所ね。ここ最近は色々な事があったから、その辺りの整理も兼ねてって所かしら」

「まぁ、報告できるような進捗は得られてないんだけどな」

「うっ……。ち、ちゆり、そんなストレートに言わないでしょ。それじゃあまるで私達が無能みたいじゃない」

「事実を述べたまでだろー? 誤魔化す必要なんてないはずだぜ」

 

 バツが悪そうな表情を浮かべる夢美と、やれやれといった様子で肩を窄めるちゆり。そんな彼女らの様子から察するに、あちらも状況的には進一達と大差なさそうである。

 

「やっぱり、姉さんやちゆりさんでもまだ駄目か……」

「ん? って事は、お前らも状況は芳しくないって事か?」

「と言うよりも、状況に変化はなしと言った所ですね。幻想郷への入り口も、冥界への入り口もまるで見つかりませんし……」

 

 答えたのはメリーだ。そんな彼女の言葉を聞いて、「ふむ……」とちゆりは腕組みをした。

 

「メリーが夢の中で異世界に迷い込んだって聞いた時は、もしやと思ったんだけどなぁ。私らもそっち方面でアプローチをしてみたが、中々どうして上手くいかないぜ」

「そうねぇ……。もっと相対性精神学寄りの考え方をしてみるべきかしら? いや、それだと先進的過ぎて、非常識の産物たる幻想に繋げるのは難しいのかも……」

 

 腕を組みつつも夢美がそんな呟きを零す。

 相対性精神学の分野では、夢と現は同一のものであるという考え方が強く根付いている。そして世間的にもどちらかと言うと相対性精神学寄りの考え方が一般的で、夢を単に脳が見せる一種の生理現象として現実に組み込んでしまっているのである。

 浪漫もへったくれもない。その考えでは、幻想郷に結び付けるのは確かに難しそうである。

 

『夢を見る原因は諸説あるけど、確かに相対性精神学等の分野では度々現実と同一視される事があるわ。夢と現実の間には明確な線引きはできなくて、完全な隔壁が存在する訳ではない、という考え方ね』

 

 以前、夢美がメリーに対して口にしていた言葉を思い出す。

 

『まぁそう言う意味では、あなたが見ているこの世界が夢なのか現実なのか……、今すぐそれを証明するのは難しいかも知れないわね』

 

 自身が“夢”を夢だと思い込めばそれは紛れもなく夢となり、“現実”を夢だと思い込んだ場合もそれはある種の“夢”だという事になる。何とも分かりにくい謎かけのような考え方だ。確かにそれを深く追求しようとしてしまうと、哲学的な話になってしまうかも知れない。

 

「何にせよ、私もまだまだ世界の構造を解き明かせていないという事ね。ふふっ……寧ろ奮い立ってきたわ! 是が非でも解明してみせるわよ幻想郷!」

「おお! 流石教授です! そうですよね? 解明できないからこそモチベーションが上がりますよね!」

「おいおい……。ウチのポジティブ要因二人が何だか同調しちまってるぞ」

「まぁ、似た者同士ですからね……」

 

 やたらとやる気満々な様子の夢美と蓮子に対し、若干呆れ気味な雰囲気を漂わせつつもメリーとちゆりが二人を見守っている。

 けれども、夢美や蓮子のような存在が時に頼もしく感じる事も事実だ。特に今回のように事態の進展が芳しくないような場合、彼女らのような明るさを前にすると幾分か心が軽くなる。

 

 メリーやちゆりに続くような形で、進一も思わず微笑する。

 呆れ気味な気持ちもある。けれどもそれ以上に、何だかとても()()()()感覚に襲われている。それはどこか優しくて、温かくて。胸の奥が自然と軽くなるような、そんな柔らかな感覚。

 悪くない。いつまでも、浸っていたくなる──。

 

「あの……。すいません、私の為にご迷惑をおかけして……」

「何言ってるのよ妖夢ちゃん! 私達は迷惑だなんて全然思ってないわ」

 

 申し訳なさそうにする妖夢へと向けて、蓮子が答えた。

 

「私達、秘封倶楽部でしょ? 同じサークルの仲間じゃない。困った時はお互い様、助け合って当然! でしょ?」

「蓮子さん……」

 

 眩しいくらいの笑顔を浮かべて、蓮子はきっぱりとそう告げる。そんな彼女の言葉が響いたのか、妖夢はジーンとした様子で蓮子の名前を口にしている。

 

「ええ、蓮子の言う通りね。今さら遠慮なんてしなくても良いのよ、妖夢ちゃん」

「勿論、私と夢美様も同じ気持ちだぜ。秘封倶楽部のメンバーって訳じゃないけど、こんな所で降りる理由もないしな」

「当然! 妖夢、私達の事も存分に頼って良いからね?」

「…………っ」

 

 妖夢はどこか、照れくさそうな表情を浮かべている。基本的に恥ずかしがり屋な彼女は、このようなストレートな物言いに弱いのである。瞬時に言葉が浮かばず、モジモジとしてしまっている様子。

 けれどそれでも、彼女は顔を上げる。小恥ずかしそうな表情を浮かべながらも、それでも妖夢は笑顔を浮かべて何とか言葉を紡いだ。

 

「あ、ありがとう、ございます……」

 

 ああ──。本当に、温かい人達ばかりだ。

 蓮子も、メリーも、夢美も。ちゆりだってそうだ。皆、手を伸ばす事を躊躇わない。力を貸す事に理由なんて求めない。幻想郷への手掛かりを見つける。その目標を果たす為に、皆が動いてくれている。力を合わせて、ただ直向きにゴールを目指して突き進む。

 

「何か……。良いな、こういうの」

 

 ボソリと、進一は思わず呟く。

 傍にいた妖夢が小首を傾げていた。

 

「進一さん……?」

「ああ、いや……。何て言うか、凄く懐かしく思ったんだ。こうして皆で集まって、協力して……。たまにはバカ騒ぎなんかしたりして」

 

 進一は顔を上げる。

 見据えるのは、夕日に染まった京都の街並み。そしてその少し先を歩いている蓮子達の姿。

 

「さてと! 次はどんなアプローチを仕掛けようかなぁ……。今日は不発だったけど、やっぱりこのクッキーと筍は重要な手がかりと成り得るはず!」

「やる気満々なのは良いけれど、あんまり変な事しちゃダメよ? いや、まぁ、今日ばかりは私も背中を押した訳だけれど……」

「そうよ蓮子。それにそのクッキー、少し食べちゃったんだって? 知的好奇心が旺盛なのは良いけどね、あんまり得体の知れない物を口にするのは……」

「うっわ……夢美様がそれ言うのかよ。説得力の欠片もないな」

「ちょ、ちゆり!? その言い方だと私が普段から拾い食いしているように聞こえるんだけど!? 流石にそこまでの奇行には走ってないけど!?」

 

 賑やかな会話が聞こえる。

 そんな彼女らの様子を眺めているだけでも、進一の心は温かくなる。

 

「蓮子や姉さん達を見ていると、自然と心が軽くなるんだ。例え頭でっかちな悩みや心配事を抱えていたとしても、不思議と気持ちが楽になるんだよな」

 

 多分、自分は安心しているのだろう。こんな風に皆の傍にいる事自体が、たまらなく心地よくて。何気ない日常に幸福感を覚えていて。特別な事なんていらない。刺激なんて求めていない。ただ、蓮子と、メリーと、夢美と、ちゆりと。そして妖夢の傍にいるだけで、進一は満足なのだ。

 

「こうして皆と一緒にいると、胸の奥がポカポカとしてくる」

 

 そして進一は、胸に抱いたこの想いをしっかりと噛み締めて。

 

「俺はこの瞬間を大切にしたい。俺はやっぱり、皆と過ごすこの日常が大好きなんだ」

 

 それは紛れもなく、岡崎進一が心の底から抱く本心だ。

 この日常が心地良い。こうして皆と過ごす日々が、進一にとっての安息の一つになっている。昔の自分は、この『能力』の所為でどこか斜に構えていたというか、素直になり切れない一面もあったのだけれども。

 

 でも、皆と一緒にいる内に、進一は変わる事が出来た。

 皆のお陰で、進一は救われたのだ。

 

「それなら……。ずっと、皆さんと一緒に居ればいいんです。進一さんがそれを望むなら、誰も貴方を責めたりなんてしませんよ」

「ああ……。確かに、それも良いかもな」

 

 そうだ。

 この日常が心地良いのなら。大好きであるのなら。いつまでだって、浸っていたい。ずっと皆と一緒にいたい。いつまでだって傍にいたい。蓮子達とサークル活動して、たまに夢美達の研究を手伝ったりして。そして妖夢と共に、幻想郷への帰り道を見つけ出す為に奮闘する。そんな日常が楽しかった。終わりなんて来なければ良いと、心のどこかでそう思っていた。

 

 確かにそれは、紛れもなく進一が抱いていた望みだ。

 進一が心の中に描いていた、理想のひと時に違いないのだ。

 

「……でも」

 

 ──けれども。

 だとしても。

 

「……やっぱり、駄目だ」

 

 談笑する蓮子達。夕暮れ時の京都の街を進んでいく皆の姿。それに追随していた進一だったが、けれども彼は足を止める。

 蓮子達は足を止めない。少しずつ、少しずつ遠ざかっていく。すぐに追いかけなければ、やがて皆とはぐれてしまうかもしれない。

 けれどそれでも、進一は動かない。立ち止まり、去っていく皆の姿をただ見据え続けて。

 

「……どうしてです?」

 

 不意に、問われる。

 

「ここには蓮子さんが居る。メリーさんだって居る。夢美さんも、ちゆりさんだって貴方の傍に居てくれるんです。それなのに、何が駄目なんです? 一体何が不満なんですか?」

「ああ……。いや、駄目なんかじゃない。不満な事なんてないさ。こうして皆の傍に居れて、皆と一緒のひと時を過ごせて。……楽しかった。出来る事ならこのひと時がずっと続けば良いって、確かにそう思ってたんだ」

 

 けれど進一は、そこでやっぱり「でも……」と首を横に振る。

 

()()()()()

 

 自分自身に、言い聞かせるように。

 

「この幸福感も、充足感も」

 

 彼は直向きに、言葉を紡ぐ。

 

「全部、過去の記憶を追体験しているだけに過ぎないんだ」

 

 睡眠中の記憶整理が夢として現れる事がある。過去に経験した出来事を、夢の中であたかも追体験しているような感覚。先進的な考え方ではないが、以前に夢美からもそんな説明を聞いた事があった。

 だから、と言う訳でもないけれど。確かに進一は、これまでずっと違和感を覚え続けていた。

 

 胸の奥が温かくなる、幸福感に満ち溢れた感覚。けれどもそれは、あまりにも幸福感に満ち過ぎている。まるで理想をそのまま過剰に反映したかのよう。何かが違うと、そんな警鐘が進一の中で響き続けていた。

 

 確かに楽しかった。幸せだった。

 ──でも。

 

「……夢でも、良いじゃないですか」

 

 囁きが、耳に届く。

 

「夢だろうと現だろうと、貴方が貴方である事に変わりはない。例え夢でも、貴方が強く思い込めば、それはある種の“現実”と成り得るのですから」

「……夢と現は区別するけど同じもの、とでも言いたいのか?」

 

 夢の自分と現の自分。それぞれがそれぞれに存在し、そしてそれらは両方とも紛れもなく自分自身。

 だったら夢だろうが現だろうが、それは大した問題じゃない。どちらも同じであるのなら、優しい夢を選んでしまえば良い。苦しい現からなんて、逃げ出してしまえばいいじゃないか。

 確かに甘美な誘惑だ。魅力的な選択肢だ。

 

 けれど。

 

「悪いな。俺は相対性精神学は専攻してないんだ」

 

 夢は夢。現実は現実。生憎、進一はそう割り切る事しか出来ないらしい。

 夢美や蓮子の影響を強く受けすぎたのかも知れない。今の進一は、どちからと言えば前時代的な考え方だ。例え夢が甘美なのだとしても、幾ら夢が魅力的なのだとしても。それでも進一は、現実を捨てる事なんて出来ない。完全に割り切って、逃げ出す事なんて出来る訳がないのだ。

 

 だって。

 

「……今の俺には、帰りを待ってくれている人がいる」

 

 進一の事を、信じてくれている人がいる。

 

「俺はそんなあいつの事を裏切れない」

 

 こんな所で立ち止まってはいられない。

 

「だから俺は、夢から覚めなきゃならないんだ」

 

 彼女との約束だって、まだ果たせていないのだから──。 

 

「……そう」

 

 再び、声。

 

「やっぱり、貴方は()()()を選んでくれるのね」

 

 その次の瞬間だった。

 夕暮れ時の京都の街並み。馴染み深い喧騒に包まれた街道。そして立ち去っていく蓮子達の後ろ姿。そんな光景が、ゆっくりと崩壊を始めた。

 茜色の夕暮れとは、また違った色の煌びやかな光。進一の目の前に広がっていた光景はそんな光の粒子へと分解されて、やがて他の光と共に溶けてゆく。進一がある種の“現実”として受け入れつつあった世界は、けれども彼自身の手で“夢”だときっぱり割り切られた。

 

 夢は、いつか覚めるものだ。吉夢だろうが悪夢だろうが、いつかは目を覚まさなければならない。

 

 一度そう強く思い込む事が出来れば、後は簡単だ。泡沫のような微睡みの中から、ゆっくりと浮上していくだけ──。

 

「…………っ」

 

 粒子となって崩壊していく夢の世界を眺めながら、進一は息を呑む。

 ほんの少しの物悲しさ。けれどもすぐに払拭する。この想いを否定する訳ではないけれど、それこそ未練のようにズルズル引き摺り続ける訳にも行かない。彼が見据えるべきは未来だ。過去に縋り続けるのは、これでもうお終い。

 

 肩の力を抜き、進一は軽く息を吐きだす。そしておもむろに振り返ると、そこには一人の少女の姿があった。

 魂魄妖夢──ではない。先ほどまで妖夢がいたはずのその場所には、妖夢とは別の少女が入れ替わるように佇んでいて。

 

「貴方の想い、確かに伝わったわ」

「お前は……」

 

 まるで散りゆく桜のように、儚げな雰囲気を漂わせる少女。その正体を問いただそうとして、けれども進一は言葉を呑み込んだ。

 何となく、察する。不思議と納得する事が出来る。

 

「……成る程。あの違和感は、そういう事か」

「……ええ。あの子の真似事をしてみたんだけど、やっぱりそう上手くいかないものね」

 

 粒子となって崩壊する夢の世界。そんな空間の真ん中で、少女は苦笑する。

 どこか、ちょっぴり残念そうに。

 

「そんな事ないぞ。結構いい線行ってたと思う」

「……そう? 貴方にそう言われると、ちょっぴり自信が出てくるかも」

 

 少女は困ったように苦笑を続ける。世辞だと捉えられているのだろうか。

 

「お前は、妖夢に詳しいのか?」

「……まぁ、ね」

 

 訊いてみると、彼女はますます哀愁を漂わせて。

 

「あの子の事は、長い間傍で見てきたから……」

「…………っ」

 

 何だろう。この、感覚は。

 先ほどまでの違和感とは違う。何かが、胸の奥底で燻っているかのような。

 

「お前は、一体……」

「私は“呪い”よ」

 

 思わず進一が尋ねると、言い終わる前に少女が言葉を重ねてくる。

 それは、どこか自虐的に。

 

「こんな運命を貴方に背負わせてしまった、根本的な“呪い”の一種……」

「呪い……?」

 

 それは一体、どういう意味なのだろう。何を意図して、彼女は自らをそう称しているのだろうか。

 判らない。今の進一では、到底理解出来ないが──。

 

「呪いだなんて、そんな」

「いいえ。“呪い”なの」

 

 首を振り、少女は直ぐに進一の言葉を否定する。

 

「だって……。全部、私の所為なんだから……」

「…………」

 

 判らない。全くもって、判らない。

 どうしてそんな事を言う? どうしてそんなに自虐的になる? 彼女は何を思っている? 彼女は何を背負っている? どうして彼女は、このような形で進一の前に現れたのだろう。

 

 判らない事だらけだ。理解の範疇を超えている。

 ──でも。それでもなぜか、()()出来てしまう。

 

 この感覚は、例えるならば。

 そう。まるで、初めから進一の中に存在していたかのような──。

 

「だけど私は、そんな貴方に更なる過酷な運命を背負わせようとしている……」

 

 彼女の言葉を聞いていると、自然と心が熱くなる。

 彼女の想いが、自然と心に響き渡ってくる。

 

「ごめんなさい。でも……貴方にしか、頼めない事なの……」

「俺にしか……?」

「うん……。甘美な夢なんかではなく、確かな現を選んでくれた貴方になら、任せる事が出来るから……」

 

 少女は願う。

 それは儚くも、同時に強固な意志が籠められた確かな願い。

 

「だから、お願い……」

 

 少女は懇願する。

 

「あの子の、傍に居てあげて欲しいの……」

 

 ただ、直向きに。

 

「あの子の力になってあげて欲しいの……」

 

 ただ、揺るぎなく。

 

「あの子には、貴方が必要だから……」

 

 少女の願いは、進一の中に確かに届いていた。

 

 進一は彼女の想いを受け取る。彼女の願いを、自らの心でしっかりと受け止める。

 あの子の傍に居て欲しい、あの子の力になってあげて欲しい。あの子には、岡崎進一という存在が必要だから。()()()が誰を示しているのかなんて、そんな野暮な事は聞かない。どうして彼女がそれを望んでいるのかなんて、そんな事を深く追求するつもりもない。

 進一の答えは決まっている。改めて懇願されるまでもないのだ。

 

「……ああ」

 

 頷き、そして答える。

 

「任せてくれ。俺は元よりそのつもりだ」

 

 迷いも惑いも、彼は既に捨て去っている。

 

「妖夢と結んだ約束を、なかった事になんてさせやしない」

 

 煌びやかな光が、走った。

 進一は改めて周囲の空間へと視線を泳がす。崩壊していく夢の世界。振り向くと、そこにあるのは一際眩い一筋の光。何となく、判る。あの光の中に飛び込めば、自分は現へと戻る事が出来る。彼女が待っているあの世界へと、帰還する事が出来るのだ。

 

「あの光は……」

 

 呼ばれている気がする。手を引かれているような気がする。もう、行かなければならない。進まなければならない。夢の果て。その先にある、確かな現の世界へと。

 

「……ありがとう」

 

 少女の声が木霊する。

 光の中へと吸い込まれる身体。それをふわりと翻して、進一はもう一度彼女へと振り向く。

 

 笑顔を、浮かべているような気がした。

 

「忘れないで。貴方は決して一人じゃない。“呪い”である私も、貴方の中に残ってしまうけれど……。でも、貴方とあの子の二人なら、きっと乗り越える事が出来る」

「──っ。待ってくれ、お前は……」

 

 手を伸ばし、彼女に声をかけようとする。けれどもそれは、叶わない。

 光がどんどん強くなる。岡崎進一という存在を、意識ごと飲み込んでゆく。

 

「そんな貴方達だからこそ、私は未来を託したい……」

 

 少しずつ、遠退いてゆく。

 

「だからお願い。お願いします」

 

 塗り潰される意識の中、進一は微かに耳にした。

 儚き少女の確かな願い。彼女が望む、一つの結末。その断片を。

 

「どうか、()()──」

 

 

 *

 

 

 温もりを感じる。

 温かくて、心地いい。ふわふわとした感覚。波風の立たない湖の上を、ボートか何かで浮かんでいるかのような心地である。ゆらゆら、ゆらゆらと。静寂に包まれた穏やかな空間を、彼は漂っている。

 覚えがある。これは微睡みだ。睡眠と覚醒の間の、ちょうど中間地点。浮かんでは沈み、そして浮かんでは沈みを繰り返し、それでも彼は眠りの世界に留まり続けている。

 

 けれども、これ以上はダメだ。これ以上、この眠りに甘え続けていてはいけない。

 自分は目を覚まさなければならない。いい加減、現実に戻らなければならない。立ち止まってばかりではいられない。後ろを振り返ってばかりではいられない。

 彼を信じてくれている人がいる。彼の帰りを待っている人がいる。だから彼はそんな人達の想いに答えなければならない。そんな人達の想いを無駄にしてはいけないのである。

 

 一寸先も見えぬ暗闇の中、彼はようやく掴み取る事が出来た。後はそれを、力一杯引き上げるだけ。何てことない単純作業。ここまで来れば、もう一息。

 失った記憶を取り戻す。彼女に対するこの想いは色褪せていなかったのだと、それを証明する為に。

 けれども今は、彼女だけの為ではない。彼に力を貸してくれた、皆の想いに答える為に。

 

 岡崎進一は、目を覚ます──。

 

「…………」

 

 微睡みから目を覚ます。真っ先に目に入ったのはテーブル。どうやら自分は横になっているらしい。いつの間にか眠りに落ちてしまっていたのだろうか。

 そしてその次に感じるのは、ふわりと柔らかい何かの感覚。それが丁度、頭の半分。横になっている耳の方。ほんのりと温かい、心地の良い何か。一瞬枕か何かであると思ったのだが、そうではない。

 ──いや、枕という表現は強ち間違っていないのかも知れない。進一が頭を預けていたそれは、確かに枕とも呼称出来る。けれども当然、単なる枕などでは決してない。

 有り体に言えば、そう。所謂、膝枕というヤツ。

 

「ん……」

 

 寝起きの所為か、頭が上手く働かない。膝枕をされているという事実を認識する事が出来たものの、状況に対する頭の理解が追い付いていないのだ。それ故に、あまり気の利いたリアクションを取る事が出来ない。

 なぜだ。一体誰が、自分に膝枕を?

 ──いや。そんなのは愚問。誰が、なんて、考えるまでもないじゃないか。

 

「あっ……。起きた?」

 

 声が聞こえる。進一は寝ころんでいた体勢を変えて、横向きの状態から仰向けになる。

 当然ながら、視線は真上の方へと向く。目に入るのは部屋の天井──よりも先に、一人の少女の顔だった。

 白銀色のセミロングヘア。黒いリボン。そしてルビーのように紅い瞳。まだどこか幼さを残す、大人と子供の中間くらいの可愛らしい顔立ち。

 そんな彼女が浮かべるのは、優し気な柔らかい笑み。眠りに落ちていた進一を包み込んでくれるかのような、優しくて温かい表情。

 

 彼は思わず、口を開く。そして目の前にいる彼女の名前が、自然と口から零れ落ちる。

 

「妖夢……?」

「……うん」

 

 頷き、肯定される。そこでようやく、進一は現実世界に覚醒した。

 ああ、そうだ。そうだった。確か自分は、妖夢に相談事を持ち掛けて。自分の中に抱え込み、そして自分自身で封をしていた()()()を吐露して。そして最終的に激しい倦怠感に襲われ、意識を手放した。

 それからは、長い夢を見ていたような気がする。こうして目を覚ましてしまってから、夢の内容はぼんやりとしていて、殆ど忘れてしまったのだけれども。それでも“夢を見ていた”という感覚だけは、確かに進一の中に残っている。

 

「あぁ……。すまない、寝ちまったみたいだな……」

「ううん。疲れてるみたいだったし、仕方ないよ」

 

 頭を振るいつつも、進一はおもむろに起き上がる。そして未だに少しぼんやりとしたままの頭で考えた。

 

 往々にして、夢には大きく二つの種類が存在する。甘美な吉夢か、重苦しい悪夢か。けれどもいずれにしろ、夢は夢である事に変わりはない。吉夢だろうと悪夢だろうと、必ず目覚めの時は来る。

 夢に縋り付いてばかりではいられない。現実から目を背けてばかりではいられない。例えどんなに理不尽で不条理な事実が待ち受けていようとも、いずれはその現実に向き合わなければならないのだ。

 

 だから彼は、これ以上の逃避はしない。甘美な夢に甘えたりなどしない。

 一人では無理だったのかも知れない。挫けてしまっていたのかも知れない。けれども今の彼は、一人ではない。

 だって、彼女が──。妖夢が、傍にいてくれるから。彼女が支えてくれるから。それ故にこそ、彼は立ち上がる事が出来る。それ故にこそ、彼は勇気を振り絞る事が出来るのだ。

 

「あ、あれ……? 何だか、反応薄い……?」

「……何の事だ?」

「だ、だって、その……。膝枕、してたし……」

 

 ごにょごにょとそんな事を口にする妖夢。白い頬はいつの間にか真っ赤に上気してしまっている。

 自分からしてくれたのに、結局は恥ずかしくなってしまったのだろうか。

 

 そんな妖夢が可笑しくて、進一は思わずくすりと笑う。

 ああ──。何だろう。この感覚は、やっぱり()()()()

 

「うぅ……。わ、笑わないでよぅ……」

「ふっ……。いや、すまん。でも、まぁ……」

 

 そこで進一は、ちょっぴり小恥ずかしそうに。

 

「俺だって、何とも思わなかった訳でもないぞ」

「そ、そうなの……?」

「ああ。当たり前だろ。好きな子に膝枕をしてもらって、何とも思わない男なんていない」

 

 表面上は平静を保ってそんな事を口にしているものの、実際に進一はこれでもかなり意識をしている方である。亡霊であるが故に、心臓の鼓動だとか、そういった変化が表れていないだけで。

 

「……恋愛事に鈍感だった進一とは思えない台詞だね」

「……かもな」

 

 二人揃って、微笑する。

 穏やかな時間。心の中が、温かくなる。

 

「……やっぱり、俺はお前じゃなきゃ駄目だな」

 

 噛み締めるように、そう呟く。胸の奥から溢れ出てくる彼女への想いを、しっかりと受け止めて。

 一瞬、妖夢の目が見開く。今の進一の態度から、何かを感じ取ってくれたのだろう。彼女はちょっぴりの躊躇いを見せて、けれども改めて進一の事を見据え直して。意を決し、勇気を振り絞り、そして口にする。

 

「進一……。記憶が……」

「……ああ」

 

 頷く。そして簡素に進一は答えた。

 

「……全部、思い出したよ」

 

 しみじみと彼は言葉を繋ぐ。

 

「外の世界での事も。蓮子やメリーの事も。姉さんやちゆりさんの事も」

 

 自らの想いを、改めて噛み締めるかのように。

 

「そして、妖夢」

 

 彼は、改めて吐露した。

 

「お前を、好きになった事も……。全部」

 

 そう口にする自分は、果たしてどんな表情を浮かべていたのだろう。淡々としたその口振りの通り、無表情か。それとも自分でも意識しない内に笑っていただろうか。或いは泣いていたのだろうか。自分の事であるはずなのに、いまいち認識する事が出来ない。

 だって、仕方のない事だ。

 失われていた生前の記憶。黒く塗りつぶされていた心の中。そんな内面に大きな変化が訪れて、多少なりとも混乱してしまっていたから。様々な想いが、止めどなく溢れ出てしまっていたから。

 

 そして、何より。

 目の前にいる最愛の彼女が、強い激情に支配された表情を浮かべていたから。

 

「しん、いち……」

 

 魂魄妖夢は泣いている。ぽろぽろ、ぽろぽろと。涙を流し続けている。

 けれどもそれは、悲しみだとか、怒りだとか、そういった負の感情から成る涙ではない。それはもっと単純で、けれども同時に複雑で。どこまでも一直線。しかし様々な想いと感情が、複雑に絡み合って。そして涙という形で、妖夢の表情に表れている。

 それが判るからこそ、進一は一瞬息を呑む。彼女の激情に感化され、岡崎進一もまた──。

 

「妖夢……」

 

 震える声。手を伸ばそうとする。

 けれども彼が妖夢を捕まえるよりも先に。

 

「…………っ」

 

 ふわりと、柔らかい感覚に襲われた。

 思考が止まる。反射的に視線を落とす。自分の身体にすっぽりと収まるように、小柄な少女の姿がそこにある。温かい。自然と心が軽くなる。自然と感情が溢れ出てくる。

 ぎゅっと、彼女に抱きしめられている。彼女の想いに包まれている。その想いに感化されて、進一の想いも膨れ上がっていく。

 

「良かった……」

 

 嗚咽混じりに、彼女は言う。

 

「良かったよぅ……!」

 

 彼女の言葉が。想いが。全部、全部、進一のもとへと優しく届く。進一の心の奥底へと、強く響き渡っていく。

 そして進一もまた、自然と彼女の事を抱きしめていた。小柄な彼女の背中へと、そっと手を回して。彼女の想いに答える為に、優しく彼女を包み込んで。

 

「すまない……。心配をかけた」

 

 相も変わらず不器用ながらも、「でも……」と進一は言葉を並べ始める。

 

「お前のお陰だ。お前が傍にいてくれたから、俺は勇気を振り絞る事が出来た。お前のお陰で、俺は覚悟を決める事が出来たんだ」

 

 進一の想いは変わらず一つだ。

 

「俺の中の暗闇を、お前が照らしてくれた。お前が光になってくれたから、俺は帰ってくる事が出来たんだ」

 

 そう。

 彼女がいてくれたからこそ、今の進一がある。

 

「だから……」

 

 それ故に。

 

「ありがとう、妖夢」

 

 涙を流す妖夢へと向けて、進一はその言葉を告げる。

 “ありがとう”。ごちゃごちゃとした言葉なんて不要だ。結局の所、進一の想いはその一言に集約される。たったその一言だけで、進一の想いは妖夢へと届く。

 

 ああ──。実感する。心の奥のそのまた奥。心の全てで、強く感じ取る事が出来る。

 

「やっぱり、この想いは色褪せてなんてなかったんだ」

「うん……」

 

 そこで妖夢は、小さく顔を上げる。

 少しだけ身体を放し、そして彼女は涙を拭って。進一の事を見上げた彼女は、煌びやかな笑顔を浮かべた。

 

「おかえりなさい、進一」

 

 そんな彼女の笑顔につられて、進一もまた微笑みを零す。

 受け止めた彼女の想いを、しっかりと噛み締めて。

 

 そして彼も想いを言葉に乗せる事にする。色々と思う事、言いたい事は沢山あるけれど、やっぱり今は()()だ。

 一言。短い言葉に想いを籠める。おかえりなさいと、そう笑顔で迎えてくれたのならば。

 進一が口にすべき言葉は、たった一つだ。

 

「ああ。ただいま、妖夢」

 

 記憶を失い、亡霊として幻想郷に迷い込んでいた岡崎進一という青年は。

 今この瞬間、本当の意味で自分を取り戻したのだった。


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