桜花妖々録   作:秋風とも

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第96話「パラダイム・シフト#4」

 

「……助手?」

 

 ある日。大学から帰って来た姉が、唐突にそんな単語を口にした。

 あまりにも不意だった所為か、進一は思わず首を傾げてオウム返しをしてしまう。けれども当の夢美は、何とも興味なさげな表情を浮かべていて。

 

「そう、助手。何だかよく分かんないけど、私の助手になりたいって子が現れてね」

「分かんないって……」

 

 自分にも関わる事であるはずなのに、分からないとはどういう事なのだろうか。

 けれども、まぁ、彼女らしいと言えば彼女らしいかも知れない。何せこの頃の夢美は、相も変わらず他人に対しては無関心で、至極ドライな姿勢を取り続けていたから。幾ら自分に関りがあろうとも、他人が考える事なんて微塵も興味がないのだろう。

 

「……それで、どうするの? その話、受けるつもりなの?」

「ええ。まぁね」

「……マジか」

「えっ……。な、何よ、その反応」

 

 進一が愕然としていると、困った表情を浮かべた夢美がそう尋ねてくる。そんな表情を浮かべたいのは進一の方である。まさかあの夢美から、そんな言葉が飛び出してくるなんて。

 

「どういう風の吹き回し? 姉さん、ずっと一人で研究してたのに……」

「まぁ、確かにそうなんだけどね……。私も最初は断ったのよ。でも……」

 

 そこで夢美は困惑顔を浮かべる。

 それは、自分でもちょっぴり状況を呑み込み切れてないような。そんな表情で。

 

「その子、しつこいくらいに全然引き下がらなくて。だから、なし崩し的にと言うか……」

「その人の熱意に押し負けたってこと?」

「……そうね。そうとも言えるかも」

 

 苦笑しつつも、夢美はそう言っていた。

 珍しい。本当に、珍しい事もあるものだ。苦笑とは言え、あの夢美が他人に関する事で笑顔を見せるなんて。一体、どんな人物なのだろう。他人に対して極端にドライな態度を取る夢美に対して、そこまでの熱意を持って助手になりたい等と志願するなんて。

 俄然、興味が湧いてきた。

 

「その子……って、言ってたよな? ひょっとして、姉さんよりも歳下だったりするの?」

「そうみたいね。小柄な女の子だったわ。確か、私よりも三つくらい歳下って言ってたかしら……?」

「えっ、という事は高校生? 高校生でも大学教授の助手になれるのか……?」

「いや、高校生じゃないわ。一応、准教授の資格を取得しているらしいわね」

「じゅ、准教授……!?」

 

 愕然のあまりちょっぴり間の抜けた声を上げてしまった。さらりと語られたその助手志望の少女なる人物のとんでもない経歴を前にして、進一は改めて驚愕を隠せなくなってしまう。

 夢美よりも三つ歳下という事は、進一よりも二つ歳上という事になる。たったそれだけの歳しか離れていないというのに、既に准教授とはどういう事だ。一体、どれほどまでの飛び級を重ねたのだろう。

 

「何を驚いているのよ進一。私だって十八歳で大学教授になったのよ? 別に珍しくもないんじゃないの?」

「いや、姉さんの基準はおかしい……。姉さんも大概だけど、その人の経歴も普通に滅茶苦茶だよ……」

「え? そうなの?」

 

 本気でピンと来ていないご様子。相も変わらず無自覚というか、そもそも興味を示していないというか。

 それにしても、まさか姉以外にそんなぶっ飛んだ経歴の持ち主が現れるなんて。しかもそんな人物が、姉の助手になりたいと言ってきている。何と言うか、どうにも現実味のない話である。

 

 そもそも夢美が専攻している研究テーマは、物理学の中でもマイナーというか、言ってしまえばかなりの眉唾物である。学会でもあまり評判が良いとは言えず、寧ろ先進の学者達に対する冒涜だ、等と言った評価も下されてしまっていると聞いた事もあるのだが。

 そんな研究テーマを専攻し、尚且つ人付き合いに関しても問題点が存在する岡崎夢美という大学教授。敬遠されそうな要素ばかりが目立つそんな彼女に対し、助手になりたいと言ってきた少女がいる。

 

 相当な変わり者なのか、それとも──。

 

「ま、とにかくそういう事だから。進一には、ちゃんと報告しておこうと思ってね」

「ああ……。うん、分かった」

「さて、この話はお終い! お腹空いたでしょ? 晩御飯にしましょ」

 

 話を切り上げて、夢美はいそいそとキッチンへと向かう。そんな姉の後ろ姿を眺めながらも、進一は一人思案していた。

 今日の夢美は、何と言うか、いつもと雰囲気がちょっぴり違うような気がした。ここ何年かの夢美は、ずっと自分の研究ばかりに没入し続けていて。それ以外の、取り分け他人に関する事に関しては、殆ど興味も示していなくて。そんな傾向は大学教授の資格を取得した後も変わっていなかったはずなのに。

 

(でも……)

 

 そんな夢美から、進一や研究以外に関する話題が出てきた。助手になりたいと言ってきた女の子がいるのだと、あちらから話題を振って来たのだ。

 いつもとは何かが違う。いつもとは、何かが変化している。

 けれど、この変化に対して不思議と不安は覚えない。寧ろこれは、心地よさ。心の奥が、仄かに温かくなるような。そんな安心感。

 

「姉さん……」

 

 あくまで進一の希望的観測。けれどもやっぱり、もしかしたら。

 

(その人なら……)

 

 凍てついてしまった夢美の心を、溶かす事が出来るのではないだろうか。

 

 

 ***

 

 

 夢美から助手の話を聞いてから、一ヵ月ほど経過した。

 現時刻、夜の八時前。姉はまだ大学から帰ってきてない。父親も最近は海外出張だとかで殆ど家に帰っておらず、進一は一人で留守番する事が多くなっていた。

 まぁ、だからと言って我儘や文句を抱く進一ではない。仕方がない事なのだと、心の中では既に理解しているからだ。父親は前々から多忙に追われる仕事に就いていたし、姉だって大学教授になってからますます忙しそうにしている様子だった。

 

 父親も、そして姉も。家族の為に、必死になって頑張ってくれている。それが判っているのだから、文句なんてずけずけと言える訳がない。二人の負担を少しでも減らす為、進一は進一が出来る事を全うするまでだ。

 ここはポジティブに考えよう。こうして一人で留守番する機会が増えたお陰で、家事や炊事に関してはそこそこ腕が上達してきたように思える。掃除や洗濯に、そして料理。料理の腕に関しては夢美には敵わないが、それ以外の二つに関してはちょっぴり自信がある。

 今後生きていく上で、このスキルは必ず役に立つ時が来るだろう。それを今の時点で習得出来たのであれば、自分は有意義に時間を使えているという事なのではないだろうか。

 

「……なーんてな」

 

 嘆息しつつも、進一はソファに腰かける。

 いつも通り、家の中は静かだ。しんっと静まり返っている所為で、時間がゆっくりと経過しているようにも感じてしまう。テレビを見る気分でもないし、学校の宿題だってついさっき終わってしまった。手持ち無沙汰。暇である。

 

「いや……。やる事がない訳でもないか」

 

 夕食がまだだった。

 夢美の事を待っても良いが、彼女がいつ帰ってくるのかも分からない。ここ最近の事を考えると、日付が変わるまで帰ってこない事だって有り得るのである。流石にそこまでは待てない。

 そろそろお腹も空いてきたし、夕食の時間にしてしまおうか。作るか、それともコンビニかどこかで買ってくるか。いや、今朝に炊いたご飯が残っていたはずだ。食材の備蓄もまだ残っていたはずだし、ここは態々買いに行くよりも適当に作ってしまった方が安上がりかも知れない。洗い物は出てしまうが、まぁ、その辺りは仕方がないだろう。

 

「よし……」

 

 意を決するや否や、進一はソファから立ち上がる。そして夕食を作るべく、キッチンへと向かおうとするのだけれども。

 

「うん……?」

 

 がちゃりと、玄関の方から扉が開くような音が聞こえてきた。

 誰かが帰ってきた。恐らく父親ではない。まだしばらく帰ってこれないのだと、昨日電話でそんな連絡を受けたばかりなのだ。そうなると、答えは残り一つしかない。

 

「ただいまー」

 

 聞こえてきたのは予想通りの声。キッチンへと向かおうとした足を止め、進一は踵を返して玄関へと向かう。真っ先に目に入ったのは赤い髪。ほんの少しだけ驚いたが、進一はすぐに気を取り直す。珍しい事ではあるが、有り得ないという事でもないのだから。

 

「……おかえり、姉さん。今日は早かったね」

「ええ。今日は少し早く切り上げたのよ」

 

 靴を脱ぎつつも、彼女──夢美が進一にそう告げる。

 研究熱心なあの夢美が、早めに仕事を切り上げるなんて珍しい。いや、ここ最近は帰りが遅い日が続いていたし、たまにはこの時間帯に帰ってきてくれた方が進一も安心する。あまり無理をするのは身体に毒だ。

 

 と、その時。夢美が両手にビニール袋を持っていた事に気が付いて。

 

「……それは?」

「え? ああ、これ? ちょっと途中でスーパーに寄って買い物をしてきたのよ。主に食材だけど」

「食材、か……」

 

 ビニール袋を掲げつつも、夢美は説明してくれる。

 進一の記憶では、二人分の晩御飯を作る程度ならば食材の備蓄はまだ残っていたような気がする。いや、それでも明日には買い出しに行かなければならなくなる備蓄量だったか。食材が腐りやすい時期でもないし、それなら今日の時点で買い出しを終えてしまったも問題はないかも知れない。

 

 ともあれ、彼女を迎え入れて──。

 

「よっ。邪魔するぜ」

 

 ──気が付いた。丁度、夢美の陰に隠れていた所為で気付かなかった。もう一人。夢美の跡についてくるように、一人の少女が家の中へと入って来ていたのである。

 小柄な少女だ。金髪のツインテールに、そして金色の瞳。気の強そうな印象を受ける面持ち。背丈は小さいが、進一よりも歳上だろうか。そんな彼女は進一の姿を認めるなり、にっと人の良さそうな笑顔を浮かべて。

 

「お? お前が噂に聞く弟とやらか。ふむふむ、成る程な」

「……え、えっと」

 

 突然の来訪者を前にして、進一は思わずたじたじとしてしまう。状況が上手く呑み込めない。彼女は一体、何者なのだろう。

 

「あ、あの……。あなたは……?」

「ん? あれ……? その反応、教授から何も聞いてないのか?」

「教授……?」

 

 教授とは、夢美の事を示しているのだろうか。来客が来るなどという連絡は特に貰ってなかったと思うのだが。

 

「まぁいいや。うーん、でもなぁ……。簡単に教えるだけじゃあ、それはそれで面白くないよな。ここはひとつ、クイズ形式で行こうか」

「クイズって……」

「さて問題だ。私は何者だと思う?」

 

 両手を広げつつも、少女はそんな事を言ってくる。

 何だ、このノリは。どちらかと言うと人見知り気味である進一にとって、そんな絡まれ方は中々どうして反応に困る。真面目に答えるべきなのか、それとも少しふざけてみるべきなのだろうか。ぶっちゃけその手のセンスには自信がないのだけれども。

 そんな事を生真面目に考察しつつも、進一が言い淀んでいると。

 

「はいはい、そこまで。私の弟、あんまりいじめないであげてね。この子、結構人見知りするから」

「いやいや、いじめるなんて人聞きの悪い事言うなよな。これはほら、あれだ。ちょっとしたスキンシップってヤツだぜ」

 

 口を挟んで来た夢美に対し、少女は肩を窄めつつもそう答えていた。

 割って入って少女を注意した夢美だったが、その口調は決してきつくない。寧ろ柔らかく、どこか冗談めかしたような口調である。

 表情も、明るい。家族以外の前で、夢美がこんな表情を浮かべるなんて本当に久しぶりに見たような気がする。だってこれまでの姉は、自室か大学の研究室に引き籠ってばかりで。友好関係なんて、全くと言って良いほど広げていなかったはずなのに。

 

 だからこそ、ちょっぴり困惑してしまう。しかしそれ以上に、気になって気になって仕方がない。

 夢美が心を許しつつある、この少女の事を。

 

「ひょっとして、前に姉さんが話してた助手って……」

「ええ、そうよ。それが、この子。進一にもちゃんと紹介したくて、折角だから連れてきたの」

 

 進一が確認すると、夢美は頷きつつもそう答えてくれた。

 やっぱり。突然の出来事に面食らってしまったが、冷静に考えれば判る事だ。夢美がこのタイミングで誰かを家に招くなんて、考えられる可能性はそう多くない。彼女の友好関係は、それほどまでに狭くなってしまっているのである。

 

(そうか……。この人が……)

 

 進一は改めて少女を見据える。

 他人に対しては無関心で、感情を揺さぶられる事なんて殆どなかった岡崎夢美という少女。そんな彼女が見せた、柔らかくも優し気なあの雰囲気。それを引き出す事に成功したのが、紛れもなくこの少女。

 凍てついてしまった夢美の心。それに寄り添って、温めて。そして少しずつ、けれども着実に溶かし始めている。それはまるで、春の温かさに包まれた残雪のように。夢美の心の中には、確かな温もりに包まれつつあるのである。

 

 何なのだろう、この人は。どうして夢美に寄り添ってくれるのだろう。

 いや。どうしてなんて、そんな事を考えるのは後回しだ。──彼女のお陰で、夢美に変化が訪れつつある。それだけで、岡崎進一の心もまた、確かな温もりを感じつつあるのだから。

 

「あ、あの……!」

 

 だから進一は前に出る。

 彼女の事を知る為に、手を差し伸べて。

 

「……初めまして。岡崎進一、です。姉がお世話になっています……」

 

 一瞬、間が開く。握手を求めて手を差し出した進一を見て、金髪の少女はちょっぴり驚いたような様子だった。

 進一の胸中に、微かな困惑が駆け抜ける。予想外の反応。弟は人見知りだと夢美から聞いていたから、こんな風に進一の方から握手を求められるとは思っていなかったのだろうか。それとも何か、別の理由が?

 

 ほんの少しの考察。けれど、そんな思考も早々に打ち切られる事となる。

 次の瞬間には、既に少女の表情は変わっていた。ちょっぴり驚いた様子など、まるで最初から見せていなかったように。

 

「……ああ、そうだな。初めましてだな」

 

 差し出された進一の手を、少女は優しく握って。

 

「私は北白河ちゆり。夢美様の助手だぜ」

 

 にっ、と。先程までと同じように、彼女は人懐っこそうな笑顔を浮かべるのだった。

 

(……夢美様?)

 

 ──その敬称は少しばかり気になったが。

 

「ちょっとちゆり。その夢美様っていうの、いい加減止めてって言ってるでしょ」

「ん? いいじゃないか、減るもんじゃないし。これはあんたに対する私なりの敬愛の証なんだぜ」

「敬愛って……。その割に言葉遣い荒いし……」

 

 どうやら夢美も様付け呼びには困惑の念を抱いているようだが、当のちゆりは止めるつもりなど毛頭ないらしい。男勝りかつ敬語を使わない口調で喋る事もあって、どこかちぐはぐとした印象を受ける呼称である。

 

 けれども、まぁ。

 止めてと言いつつも、夢美は半ば諦めてしまっているかのような様子で。

 

「はぁ……。まぁ、良いけど。それよりも進一。もう晩御飯食べちゃった?」

「え? まだだけど……」

「なら丁度良かったわ。ちゆりも入れて、皆で一緒にご飯食べましょ。親睦会も兼ねてね」

 

 そう言いつつも、夢美は買い物袋を持ってダイニングへと向かっていく。

 その足取りは軽い。どこか楽し気な雰囲気がひしひしと伝わってくる。こんなにも軽やかな様子の姉の姿なんて、本当に久しぶりに見たような気がする。ここ何年かの姉は、いつもどこか苦し気と言うか、無理をしているように感じていたから。

 新鮮、というよりも──この感覚は、懐かしい。

 

「ほら、二人とも。早くダイニングまで来て。ちょっと遅い時間だけど、今日は私が腕によりをかけてご飯作っちゃうから」

 

 そして夢美はダイニングに入る直前に振り返り、進一達へとそう告げる。

 

「進一もちゆりも、きっと仲良くなれると思うから」

 

 彼女が浮かべるのは、虚妄でも仮初でもない心の底からの笑顔だった。

 

 

 ***

 

 

 北白河ちゆりという少女に対して進一が真っ先に抱いた印象は、お転婆だった。

 年齢的には進一の二つ年上。一般的には高校に通うべき歳であるはずなのに、既に一気に飛び級して大学の准教授。そんな夢美に負けず劣らずぶっ飛んだ経歴の持ち主なのだから、一体どんな人物が出てくるのかと思いきや──。何とも歳相応と言うか、相応以上に無邪気な性格の少女だった。

 

 どちらかと言えば大人しい進一とは、まさに正反対。あちらからグイグイと引っ張っていくタイプ。年上かつ上司である夢美に対しても普通に溜口で接している事から、あまり礼儀作法を重んじるタイプでもなさそうだ。出会った当初は、年上であるちゆりに対して進一は敬語で接していたのだが。

 

「態々敬語なんて使う必要ないぜ。溜口で気軽に接してくれた方が、こっちとしても気が楽だからさ」

 

 ちゆりの方からそんな要求をされた事もあり、進一も次第に敬語を使わなくなっていった。

 

 北白河ちゆりという少女が岡崎姉弟に齎した影響は大きい。ちゆりの事を紹介されたあの日から、目に見えるように夢美は変化していった。

 他人に関しては無関心。研究ばかりに没頭していた少女であったはずなのに、明らかに自然な笑顔が増えていったように思える。普段通りの研究に接する時もどこか雰囲気は楽し気で、これまでのような“死に物狂いさ”も少しずつ和らいでいった。

 

 進一の事を最優先に考えるのは、相も変わらずだけれども。

 それでもこれまでのように、異常な責任感から行動に及ぶ事もなくなってきたように思える。ちょっぴり過保護気味だけれども、弟の事を想ってくれる優しい姉。そんなごく自然な姉弟関係にシフトしていくのに、そう時間はかからなかった。

 

 北白河ちゆりという少女と出会ってから、岡崎夢美は変わった。

 そしてそれは、姉だけじゃない。弟である進一もまた、ちゆりの影響を受けて変化していった。

 

 ──時は流れて。

 

「ったく、聞いてくれよ進一。夢美様ってば酷いんだぜ。今日の講義中も突然宗教がどうだかって訳わからん事口走り始めて、受講者の大半がドン引きだ。フォローする私の身にもなって欲しいよな」

「……そうか。でもまぁ、そんな姉さんを御する事が出来るのはちゆりさんだけだ。俺も受験勉強の合間に陰ながら応援してるよ」

「こいつ、他人事みたいに」

 

 そんな風に、ちょっとした軽口を叩けるようにもなってきた。

 人見知り気味な傾向だって次第に解消されてゆき、人付き合いもそれなりに上手く出来るようになったように思える。自由奔放でこちらをグイグイと引っ張っていくタイプのちゆりの人となりは、控え目なタイプだった進一とは相性が良かったのかも知れない。

 

「統一理論では説明できない第五の力。私はこれを『魔力』と定義する事にしたわ。この物質世界には、これまでのお堅い理論だけじゃ説明出来ない事象が必ず存在している。統一理論で世界の全てを紐解いた気になるなんて、そんなのはあまりにも早計よ」

「統一理論への反逆。これまで物理学会で常識だと考えられていた認識や思想に対して革命を起こそうって訳か。夢美様の掲げる理論は、さしずめ非統一魔法世界論ってとこだな」

「そう! その通りよ! 良いセンスしてるじゃないちゆり!」

「そ、そうか? でも私だって夢美様の意見には大賛成だぜ。学会の連中は、どいつもこいつも頭の固い奴ばかりだしな」

 

 ちゆりと共に、夢美はそんな議論を楽し気に交わす事もあった。部屋に引き籠って、たった一人で研究に没入していた頃には、決して見せなかった表情。彼女は確実に変わっている。良い方向へと、変化している。

 

 ──いや。厳密に言えば、変化という表現には語弊がある。()()()()のではない。彼女は()()()のだ。

 元来、夢美はこういう性格だった。明るくて、活力に満ちていて。頭は良いけど、ちょっぴり天然。天真爛漫で周囲に自然と笑顔を振りまく事の出来る少女。それこそが岡崎夢美の本質。これまでの利己的な彼女の方が虚妄の存在だったのである。

 

 進一の所為で変わってしまった彼女。けれどもそれ故に、進一の力では本来の彼女を取り戻す事はできなかった。元の彼女に戻って欲しいと、そんな願いを抱く事しか進一には出来なかった。

 けれど。

 そんな進一の願いを、北白河ちゆりは叶えてくれた。ちゆりという存在が、本来の夢美を取り戻してくれたのだ。

 

「それじゃあ、進一。私達、これから一ヵ月くらい家を留守にする訳だけど……。一人でも大丈夫?」

「それ、何度目の心配だよ。……俺は一人でも大丈夫。俺だってもう大学生だぞ。子供じゃない」

「そう……。だと良いんだけど……」

「と言うか、俺は寧ろ姉さんの事が心配だな。海外の学会だろ? また妙な事を口走らなきゃいいが……」

「なに、その点のフォローに関しちゃ私に任せておけ。夢美様が暴走したら、また私がパイプ椅子でぶん殴って止めるからさ」

「ちょ、ち、ちゆり? あなたパイプ椅子をハリセンか何かと勘違いしてない……?」

「そうか。それなら安心だな」

「進一ー!? 何納得しちゃってるの!? お姉ちゃん普通に暴行宣言受けちゃってるんだけど!?」

 

 本当に、心の中が軽くなったように思える。進一の持つ『能力』に関する事だとか、色々とあって。進一本人も、そして夢美も。長い間、ずっと疲弊し続けていたのだけれども。

 そんな自分達姉弟を救ってくれたのが、ちゆりだった。

 ちゆり本人がどう思っているのかは分からない。けれど少なくとも、進一はそう思い込んでいる。だから感謝しているのだ。ちゆりのお陰で、夢美は元の自分を取り戻せた。ちゆりのお陰で、進一は怯えてばかりの自分と決別する事が出来た。

 

 彼女は間違いなく、自分達姉弟の恩人だ。

 

 北白河ちゆりという存在は、岡崎姉弟にとっての太陽だった。

 暗闇ばかりだった自分達の世界に、一筋の希望を照らしてくれた光。

 

「いやー、参ったぜ。夢美様はいつだって私の想像の上を行くよな。まさに奇想天外って感じだ」

「ねぇ、それ絶対に褒めてないでしょ?」

「いやいや、勿論褒めてるぜ。私としちゃ褒めちぎってるくらいのつもりなんだけどな」

「本当かしら……」

 

 ちゆりはいつだって、進一達を助けてくれた。

 ちゆりはいつだって、自分達に光を届けてくれていた。

 

「幻想郷に関しちゃ、私と夢美様に任せておきな。必ず手掛かりを掴んで見せるぜ」

 

 例え、言葉の中に嘘が混じっていたのだとしても。

 進一達はちゆりによって救われた。それは紛れもない事実なのだから。

 

「蓮子の彼岸参りに便乗して東京旅行に行くんだって? ま、楽しんで来いよ。幻想郷の事も大切だけど、たまには息抜きも必要だぜ」

 

 ほんの少しの嘘程度で、ちゆりへの信頼が消える事はない。

 確かに、嘘をついていたのかも知れない。進一達の事を騙していたのかも知れない。けれどもやっぱり、全部が全部嘘だったなんて進一にはとても思えないのだ。

 進一はこれまでずっと、夢美とちゆりの関係を傍で見守り続けていた。だからこそ判るのだ。

 この関係は、虚妄や仮初だけで築き上げられるようなものではないのだと。

 

「よう、また会ったな。進一とは、少し久しぶりか。東京旅行の前の日以来だぜ」

 

 進一だって知っている。

 全部が全部、嘘で塗り固められていた訳じゃない。彼女が抱いてくれた想いは、決して偽りなんかじゃない。彼女が向けてくれた優しさは、決して嘘なんかじゃなかったはずだ。

 

「勝手なこと言うなよ……」

 

 きっと、今のちゆりは昔の自分達と同じだ。

 一寸先も見えない暗闇の中。希望を求めて、一人もがき苦しんでいる。

 

「あんたに……。あんたに私の何が判るッ!?」

 

 そんな暗闇の中で、もがき苦しんでいても尚。

 

「あんた達を助ける為なら、私は……!」

 

 彼女は常に、いつだって。

 

「私は……。何でもするって決めたんだ……」

 

 進一達の事を、助けようとしてくれていたじゃないか。

 

「ちゆりさん……」

 

 だからきっと、悪いのはちゆりだけじゃない。彼女の優しさに甘え、彼女の真意に気付けなかった自分達だって同罪なのだ。

 

 もう、手遅れなのかも知れない。あまりにも後手に回り過ぎて、手を伸ばす事さえもままならないのかも知れない。

 だけれども、そんな事は知ったこっちゃないのだ。

 かも知れない。そんなのは所詮、可能性だ。手遅れである可能性があるのなら、その逆だって残っているはずじゃないか。

 

「ちゆりさん……!」

 

 だから、諦めない。こんな所で投げ出すなんて、そんなのは納得できるはずがない。

 故に、止まらない。足を止めない。

 

 ちゆりは自分達を助けてくれた。そんなちゆりが、今度は助けを求めている。

 暗闇の中、声を上げる事も出来ず。たった一人で抗おうと、もがき続けている。けれども確かに、彼女は救済を待ち望んでいるのだ。──縮こまって、震えて、孤独の中で怯え続けているのである。

 

 彼女は確かに、涙を流していた。

 だから。

 だから、進一は。

 

 

「──ちゆりさんッ!!」

 

 

 だから──。

 

 

 **

 

 

(…………)

 

 何が、一体どうなったのだろう。

 突然の不調。『能力』の暴発。そして再び進一達の前に現れる『死霊』。けれどもちゆりは、逃げるどころか寧ろ『死霊』に立ち向かって行った。あんた達は逃げろ、『死霊』は私が何とかする、と。それだけを言い残して、彼女は駆け出してしまった。

 

 すぐに判った。ちゆりは自分が囮になって、進一達を逃がそうとしてくれていたのだと。その為に、自ら『死霊』へと向けて特攻していったのだと。

 

 冗談じゃない。

 

 進一は、ちゆりに対してまだ何もしてあげられてない。彼女を救う事が出来ていない。それなのに、こんな所で『死霊』に彼女を奪われてしまうなんて。

 ──認められない。認められる訳がない。

 

 だから走った。ちゆりの事を追いかける為に、死に物狂いで。走って、走って、走って、走って。

 そしてようやく見つけたちゆりを、進一は。

 

(ああ……。そうだ……)

 

 反射的に、突き飛ばした。

 『死霊』が迫っていた。このままでは、彼女の生命が奪われてしまう。そんな予感が頭の中を過った途端、進一は殆ど反射的に動いていたのだ。

 

 そして、その後。

 その後は──。

 

(俺は……)

 

 ──どうなったんだっけ?

 

「いっ、つぅ──」

 

 声が聞こえる。

 視線を落とすと、目に入ったのはちゆりの姿。肩を地面に強打してしまったのだろう。呻き声を上げて、肩をさすりながらも彼女は起き上がっている。その表情には疲労が色濃く現れてしまっているのだけれど。それでも。

 

(生きている……)

 

 生きている。そう、彼女は生きているのだ。

 一先ずは安心。一抹の安堵感が、進一の胸中に駆け抜ける。自分は『死霊』の魔の手から、ちゆりを助ける事が出来たのだから。ちょっと無理をして飛び出した甲斐があったというものだろう。

 

 ──けれども。

 その安堵感は、長くは続かない。

 

(ちゆりさ……)

 

 声をかけようとして、違和感を覚えた。

 

(あれ……?)

 

 声が、上手く出せない。

 あまりにも奇妙な感覚。喉の奥が苦しいだとか、痛いだとか、そういった異常は感じられない。身体の不調も感じられない。

 ただ、何と言うか──()()()()()()()()

 身体が、軽い。あまりにも、軽い──。

 

「…………」

 

 そして違和感は、もう一つ。

 

「……。えっ?」

 

 進一はちゆりの目の前にいる。突き飛ばされ、転倒してしまった彼女を見下ろすような体勢でその姿を見据えている。

 けれども、妙だ。どうしてちゆりは、視線を下に向けている? どうして彼女は、愕然と困惑が入り混じったような表情を浮かべている?

 

 ()()()()()()()()()()()

 

「あ……」

 

 そして、ちゆりの口から声が漏れ始める。

 

「あ、ああ……」

 

 震えた声。眼前に突き付けられた現実を受け入れる事が出来ていないような、混乱と恐怖が入り混じったような表情。

 自然と、進一も視線を逸らす。ちゆりの視線を追いかけるように、下を向いて。

 

(は……?)

 

 そして、()()を見つけてしまった。

 

「しん、いち……」

 

 ちゆりの声が聞こえる。

 その名前を呼ぶ声が、確かに届く。

 

「進一……?」

 

 信じられない。そんな面持ちで、呼び掛けるように彼女は進一の名前を呼ぶ。

 

 そう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(なっ……)

 

 何だ、これは。何が一体、どうなっている。

 強烈な困惑が一気に駆け抜ける。ふわふわとした感覚のまま一歩後ろに後退ると、()()の全貌をはっきりと認識する事が出来た。

 

 身体。自分の身体。そう、あれは間違いなく進一の身体だ。

 倒れ伏している。抜け殻となってしまったかのように、ピクリとも動かない状態でそれは倒れ伏している。そんな様子をなぜか俯瞰的に観察する事が出来ている自分がいる。自分の身体であるはずなのに、なぜだか自分自身で見下ろす事が出来てしまっているのだ。

 

 何よりもまず、困惑。一体何が起きたのか、そう易々と理解なんて出来る訳もない。

 

「お、おい……。進一……?」

 

 そしてちゆりが声をかける。

 俯瞰的に見下ろしている進一じゃない。倒れ伏している、身体の方。恐怖に心を支配され、戦慄して。それでも尚、現実を受け止め切れていない様子で。

 

「な、なぁ……。どうしたんだよ、進一……?」

 

 そして彼女は、身体を揺する。ゆさゆさ、ゆさゆさと。何かを懇願するかのように、動かなくなった進一の身体を揺すり続ける。

 そして、ごろんと。俯せに倒れていた進一の身体を、仰向けに転がした。

 

「ひっ……!」

 

 引き攣ったようなちゆりの声。仰向けとなった進一の姿を認識して、彼女の表情は途端に真っ青になった。

 相も変わらず、ピクリとも動かない身体。血の気すらも感じ取れない表情。そして生気を失った半開きの瞳。幾ら声をかけようとも、幾ら身体を揺さぶろうとも。ほんの少しの反応さえも、示さない。

 

 それ故に、突き付けられる。それは紛れもなく、絶対的な──。

 

「う、嘘だ……。嘘だよな、進一……?」

 

 けれどそれでも、ちゆりは声をかけ続けている。

 

「おい、冗談はよしてくれよ……」

 

 突き付けられた現実を、必死になって否定するかのように。

 

「答えろよ……。答えてくれよ……! なぁ、進一っ!」

 

 名前を呼ぶ。身体を揺さぶり続けている。

 けれどもやっぱり、動かない。反応なんて示さない。死に物狂いなちゆりの懇願にさえも、答える事が出来ない。

 

(…………ッ)

 

 そんな様子を、進一は俯瞰的に認識する事が出来ている。

 物言わぬ自分の身体。そんな身体に必死になって呼びかけ続けるちゆりの姿。けれども進一は、何も答える事が出来ない。彼女に言葉を届ける事が出来ない。目の前にいるはずなのに、触れる事さえも出来ない──。

 

 ああ、そうか。

 ひょっとして、自分は。

 

(死……)

 

 そこまで考えて、思わず払拭する。

 

 この感覚は、一体何だ?

 『死霊』に襲われそうになっているちゆりを見つけて、助けたいと進一は思った。だから飛び出して、少々乱暴だなとは思いつつも彼女を突き飛ばして。そして進一の思惑通り、彼女を『死霊』の攻撃から救う事が出来たのだ。

 ()()()()()()()()()()という形で。

 

(……)

 

 良かった。彼女を助ける事が出来て。

 安心した。彼女が生きていてくれて。

 

 でも。

 それなのに。

 

「進一……!」

 

 震えた声で、必死になって呼びかけ続けるちゆり。そんな彼女の悲痛に満ちた表情を見ていると。

 

「進、一……」

(……っ)

 

 胸の奥が、苦しい。

 何だ。何なんだ、これは。ちゆりを死なせたくない。ちゆりを助けたい。その一心で、進一は飛び出した。そして進一は自分の心が命じるままに、こうしてちゆりを助ける事に成功した。彼女の生命を守る事が出来たはずなのに。

 

(それ、なのに……)

 

 本当に、これで良かったのか?

 確かに命を救う事は出来た。けれどもちゆりは、あんなにも悲痛に満ちた表情を浮かべている。それはまるで、一筋の希望さえも掻き消されてしまったように。彼女が浮かべる表情は、どうしようもないくらいに絶望に満ち溢れてしまっている。

 

「うっ……う、うぁ……!」

 

 嗚咽。

 そして悲痛。感傷。その原因を作ってしまったのは、紛れもなく──。

 

『そう……。貴方の所為よ』

(ッ!?)

 

 不意に、そんな“声”が聞こえてきた。

 反射的に振り向こうとする。けれどもなぜだろう、視界が動かない。金縛りにでも遭ったみたいに、身体が全く動かせなくなる。

 いや。そもそも今の自分に、身体などあるのだろうか。

 身体なら──肉体なら。あそこに、転がり落ちてしまっているというのに。

 

『ねぇ……。よく見て。その子の表情を』

 

 “声”が、変わらず語りかけてくる。

 動けなくなってしまった進一に対して、一方的に。

 

『ほら……ね? 苦痛に満ち満ちているでしょう? 慄き、そして咽び泣いてしまっているでしょう? この子が今何を感じて、そして何を想っているのか。貴方にはそれが判る?』

(それ、は……)

『教えてあげる。この子が感じているのは……そう、罪悪感よ。底の知れない、絶望と罪悪感……』

 

 得体の知れぬ“声”。否が応でも、それは勝手に進一の耳に流れ込んでくる。そしてそれは、進一の心のそのまた奥へと、自然と響き渡ってしまう。

 

『ああ……。そうそう。この子だけじゃ、なかったわね』

(えっ……?)

 

 ふっと、一瞬身体が軽くなる。そして何かに導かれるかのように、彼は後ろを振り向いた。

 そこにいたのは、一人の女性。ちゆりを追って、形振り構わず走り出していた進一を、更に後から追いかけてきていた()()

 

(あっ……)

 

 彼女が浮かべるのは愕然とした表情。目を見開き、呼吸をする事さえも忘れて。目の前の光景を、ただ何も言えずに見据えている。信じられない。一体、何が起きているのだと。そんな心境が、彼女の表情からはありありと伝わってくる。

 

「あ……、えっ……?」

 

 そして彼女は、やっとの思いで声を絞り出す。

 震える身体。覚束ない足取り。ふらふら、ふらふらと。今にも転んでしまいそうな調子で、彼女は歩み寄って来る。

 倒れ伏した進一。そしてその傍らで嗚咽を漏らすちゆりの元へと。

 

「ちゆ、り……? これ、は……」

「……ッ」

 

 ピクリと、ちゆりが大きく反応する。おずおずと、彼女は俯いていた顔を上げる。

 充血した瞳。赤く腫れた瞼。そんな彼女は夢美の姿を認識すると、その表情にある種の恐怖の色を現し始める。声にならない声を上げ、ぱくぱくと口を開閉させて。

 

「ゆ、ゆめみ、さま……。わ、わた、わたし、は……」

 

 呂律が上手く回らない様子で何とか言葉を絞り出す。

 震えた身体で後退る。立ち上がろうとするのだけれど、足が縺れて上手くいかない。腰が抜けたような様子のまま、ずるずる、ずるずると。

 そしてちゆりがその場から退いた事により、夢美の眼前に()()が突きつけられる。

 倒れ伏した身体。ぴくりとも動かない、彼の姿を。

 

「う、ぇ……?」

 

 よく分からない声が、夢美の口から漏れる。

 

「進一……?」

 

 真っ青に染まった表情。けれど次の瞬間、それは狼狽に支配された。

 

「進一ッッ!?」

 

 駆け寄り、そして倒れ伏した彼の肩を抱く。

 身体を揺する。ゆさゆさ、ゆさゆさと。けれども反応はない。されるがまま。がくがく、がくがくと。脱力し切った頭部が慣性で揺れ動くだけで。

 

「進一ッ! ねぇ、進一!! な、なに、どうしたの……? どうしちゃったのッ!?」

 

 それでも夢美は声をかける。

 ──否、懇願する。

 

「だ、ダメよ、ほら……。こんな所で眠ったら、風邪を引いちゃうわ……。だからほら、起きて? 寝るならちゃんと、お家のベッドの上で寝ないと……」

 

 そうであって欲しいと。

 

「ちょっと、進一……。何か反応くらいしてよ……。お姉ちゃん、何か悪い事しちゃった……? だったら謝る、謝るからぁ……」

 

 冗談であって欲しいのだと。

 

「ねぇ、進一……。起きて、起きてよ……!」

 

 でも。

 だけど。

 

「起きてよおおおお──ッ!!」

 

 覆らない。

 それは、絶対的な。

 

 ──死。

 

『あらあら……。このままじゃ、本当に壊れちゃいそうね?』

(…………ッ)

 

 再び聞こえる“声”。そして背後から、何者かに両肩を支えられるような感覚。

 そして進一の耳元に囁くように。“声”は、響き続ける。

 

『だけど仕方ないわ。これがこの物語の結末。貴方が選択した終着点。でしょ?』

(ち、違う……。俺は……)

『何も違わないわ』

 

 追い込まれる。

 進一の言い分など、容易く呑み込まれてしまう。

 

『北白河ちゆりの力になりたい。北白河ちゆりを助けたい。そんな大義名分を掲げて、貴方は私利私欲を満たそうとしたのでしょう? 誰かの為に必死になる自分自身に陶酔して、悦に入ろうとしていたのでしょう?』

(な、何を言っている……!? 俺は、そんな事……!)

『表面上は思ってなくても、心のどこかでは微かに感じていたはずよ。自分なら、この子を助ける事が出来る。手を差し伸べる事が出来る。自分にしか出来ない。だから自分が行動を起こさなければならない。……そう。それはある種の、青臭い正義感』

 

 進一の心が、少しずつ締め付けられていく。

 進一の想いが、少しずつ浸食されていく。

 

『でもそんな青臭い正義感を振りかざした結果がこれよ。彼女の生命を助ける事は出来ても、心を助ける事は出来なかったみたいね?』

(あっ……)

 

 進一は自然と視線を下ろす。

 進一の身体を抱きかかえ、今も尚必死になって呼びかけ続ける夢美。そんな彼女を怯えた様子で見つめているちゆり。その表情は、あまりに惨い。生気を失った瞳。小刻みに震える身体。そんな彼女は、ぱくぱくと小さく口を開閉し、呻き声にも似た声を時折り上げるだけ。

 

『あらら。この子はもうダメね。可哀そうに……』

(そ、そんな……。俺は、こんな……)

『こんなつもりじゃなかった? うふふ。言い訳の常套句ね。貴方はもっと、自分が周囲に与える影響を考慮すべきだったのよ。こうして簡単に生命を擲って、身近な人達がどう思うのか。想像すら出来なかったのかしら?』

 

 痛い。

 心が、痛い。

 

『本当、酷い話。今回も、そして()()()も。渦中にいたのは、いつだって貴方。一度ならず、二度までも。貴方が原因となってしまったの』

(な……。なに、を……)

『心当たりがあるのでしょう? そう、それが真実。貴方が背負うべき業。罰を受けるべき罪』

 

 囁きかける。突き付けられる。

 

『全部全部、貴方の所為なの。北白河ちゆりも、そして岡崎夢美も。貴方の所為で、()()()しまったのよ』

(……ッッ!)

 

 ぱきんっ、と。何かが壊れるような音が聞こえた気がした。

 脱力する。膝の下から崩れ落ちるような感覚に襲われる。そして胸中に駆け抜けるのは、底知れぬ悔恨。自分の取った行動は、やはり間違いだったのではないかと。もっと良い方法があったのではないかと。そんな思いばかりがとめどなく溢れ出てきてしまっている。

 

 本当に、これで良かったのか?

 自分が選択した行動は、本当に正しかったのだろうか?

 

(お、俺は……)

 

 夢美も、そしてちゆりも。

 こんなにも、苦痛に満ちた表情を浮かべているのに。

 

(俺の、所為なのか……?)

 

 進一の取った軽率な行動が、このような事態を引き起こした。

 

(また、俺が……)

 

 そう。

 幼少の頃、夢美があんなにも死に物狂いになってしまったのだって、その根本的な原因となったのは進一だった。そして今回だって同じ。進一の所為で、夢美とちゆりはこんなにも追い込まれてしまっている。進一の所為で、二人の心が深く傷ついてしまっている。

 

 大義名分。言い得て妙だ。だって進一は、実際のところ自分の心しか見えていなかったのだから。ちゆりが何を感じ、そして何を思っていたのか。本当の意味で、理解出来ていなかったのだから。

 きっと彼女はこう思っている。こうであるに違いない。そんな感情の押し付け。岡崎進一の、自己中心的かつ一方的な思い込み。彼女の真意を汲み取れず、一人で勝手に突っ走って。その結果が、()()

 

(う、ぁ……)

 

 頭を抱える。胸の奥が苦しくなる。

 自分はどうすれば良かった? 何を選択すれば正解だった? 一体どこで間違えた? どうしてこんな事になってしまった?

 最悪の結末(バッドエンド)を引き寄せてしまったのは、間違いなく自分。守りたいと思っていた日常を壊してしまったのは、他でもない自分自身の軽率な行動。

 後悔。けれどあまりにも今更遅すぎる。このタイミングで、幾ら悔い改めようとした所で。

 

(もう、俺は……)

 

 後戻りなんて、出来やしない──。

 

『──後悔、しているのね』

(えっ……?)

 

 しかし、その次の瞬間。ふわりと、何者かに背後から抱きしめられるような感覚に襲われた。

 聞こえてくるのは“声”。先程までと同じ“声”。そんな“声”の主が、進一の事を優しく抱きしめている。まるで、底の知れない後悔と罪の意識に震えていた進一を、慰めるかのように。

 

『重たいんでしょう? 自分の犯してしまった罪が。苦しいんでしょう? この結末を受け入れるのが』

 

 突き放すように進一の罪を並べていた“声”が一転、今度はそんな進一に寄り添うように言葉を並べ始める。それは、不気味なくらい優し気に。

 

『貴方の気持ち、私には判るわ。……悲しみや苦しみ。心の痛み。息が詰まるくらいの激しい悔恨。どうしてこんな目に遭わなきゃならないのか。どうしてこんな理不尽を受け入れなきゃならないのか。そんなある種の憎悪さえも、胸の奥から溢れ出てくる』

(そんな、事……)

『誤魔化す必要なんてないでしょう? 今更否定した所で、この結末が覆る訳でもない。だから向き合うしかないのよ』

(…………っ)

 

 進一の心が、静かに燻り始める。

 この“声”が言っている事は、必ずしも的外れという訳ではない。確かに進一の心を支配するのは、苦しみや痛み、そして激しい悔恨だ。理不尽で不条理な結末を突きつけられて、けれどもそれを受け入れる事が出来なくて。

 ──怖い。嫌だ。ふざけるな。どうしてこんな事になる? なぜこんな結末に辿り着く? 助けたかっただけなのに。力になりたかっただけなのに。それなのに、結局自分は何も出来やしなかった。一時の自己満足にしかならなかった。

 

 助ける事ができなかった。

 だから──。ああ、そうだ。確かにこれは、憎しみだ。あまりにも身勝手で、あまりにも情けない。そんな自分自身に対する、ある種の憎悪──。

 

『だけど……』

 

 そして再び“声”が流れ込んでくる。

 壊れかけた進一の心を、優しく包み込むかのように。

 

『大丈夫。安心して。貴方が感じた苦しみも、貴方が抱いた憎しみも。全部全部、私が受け止めてあげる』

(え……?)

 

 それは、甘美な誘惑。

 

『否定なんてしなくても良い。抑え込む必要なんてない。その悲しみも、痛みも、苦しみも、そして憎悪も。全部、貴方だけの感情なの。貴方が貴方である為に、必要な心模様なのよ』

(あ……)

 

 意識が、朦朧としていく。

 

『苦しいんでしょう? 痛いんでしょう? だからこそ、憎悪が心の中から溢れ出てくるのでしょう? だったら我慢なんてしなくても良い。流されてしまっても構わない。このまま自分の本当の心に正直になって、受け入れてしまっても良いのよ』

(ぅ……)

『そう……。そっちの方が、気持ち良いでしょう? 心が満たされるでしょう? だから貴方は、この快楽に身を委ねていれば良い。貴方が抱く欲望は、全部私が叶えてあげるから』

 

 ──何だ。何なんだ、この感覚は。

 心が塗り潰されていく。意識が奪われていく。身体が軽い。今までと比較しても、ずっと軽い。耳元に響き続ける“声”が、進一の心に届き続ける。荒んだ心が、誰かに優しく抱き留められるような感覚に襲われている。

 

 けれども、ああ、ダメだ。

 ()()()()()()

 

 飲み込まれれば、今度こそ後戻りできなくなる。受け入れれば、取り返しのつかない事になる。そんな漠然とした感覚が、進一の心をすんでの所で留まらせる。

 判らない。何が起きている? 何かがおかしい。何かが変だ。

 ()()は、一体──。

 

(あ、あんたは……)

 

 朦朧とする意識の中、それでも進一は必死になって絞り出す。

 

(あんたは、一体……)

 

 疑問を、呈する。

 

(誰なんだ……?)

 

 進一に語り掛ける“声”。進一の心を傷つけるだけ傷つけて、けれども最後に優しく寄り添おうとする“声”。甘美な誘惑。掌握されていく意識。それらの糸を引いているのは、得体の知れぬ不可思議な存在。

 

『ふふっ』

 

 意識が遠のく。気味の悪い快楽に、心が支配されていく。

 そんな中、最後の最後に。耳元で、囁きが聞こえたような気がした。

 

『私は──』

 

 

 *

 

 

「……」

 

 そして青年は、気がつくと幻想の世界に迷い込んでいた。


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