桜花妖々録   作:秋風とも

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第95話「繝代Λ繝?繧、繝?繝サ繧キ繝輔ヨ??」

 

「貴方が……貴方が何かやったというの……!?」

 

 彼女は、今まで見せた事のないようなヒステリックな声調で、そう言葉を投げかけてきた。

 両肩を抑えられ、そのまま壁に押し付けられ。激しく動揺を露わにし、一片の余裕さも完全に欠落させて。あまりにも狂気的。そしてあまりにも、病的に。

 

「何なの……。一体何なのよこれは……!? こんなのおかしいじゃない! 絶対に有り得ない! 有り得る訳がない! こんな事、絶対に……!」

 

 おかしい。何かが、決定的におかしい。

 このパズルはこれまで順調に解き進める事が出来ていたはずだった。後は最後のピースを埋め込み、そして完成させるだけ。目前にあるのは完璧な成功。手を伸ばせば、それは簡単に手に入る。──そう、思い込んでいた。

 

「私の計画は完璧だった。特に大きな横槍が入る事もなく、恙なく遂行されて。そしてその先にあるのは、確実な成功。そう……そのはずだった」

 

 後に彼女はそう言った。

 計画は順調で、何の横槍も入る事もなくて。このまま行けば、彼女の理想は確実に完遂させる事が出来るはずだったのに。

 それなのに。

 

「そう、()()()のよ……! 魂魄妖夢は境地に到り、そして私の呪いに打ち勝った! この時代の本来の住民である未来の自分を認識し、そのタイムパラドックスによりあの子は強制送還させられた! この時点で、過去は変わっているはず……。“原因”を作るのに、十分な要素は備わったはずなのに……!」

 

 失敗した。

 最後の最後に、自分達は失敗した。計算が、甘かったのだ。数年かけて少しずつ練り上げた計画だったのに、想定した結果は得られなかった。この世界を欺き、そして塗り替える為にはこの程度の“原因”じゃ到底届かない。“結果”は何も、変わっていない──。

 

「っ! これは……!」

 

 しかも、それどころか。

 

「次から次へと……」

 

 一度足元からバランスを崩したブロックは、そのまま敢え無く瓦解するしかない。幾ら策を講じようとも、幾ら状況を想定しようとも。“どうしようもない”という事実を突きつけられたが最後、人間だろうと妖怪だろうと所詮は等しく矮小だ。

 

「不測の事態よ。それもとびっきり面倒な、ね……」

 

 ──ああ。そうだ。常識も非常識も。現実も幻想も。いつだって、それは例外なく無慈悲で残酷だ。手を伸ばし、掴み取り、そして必死になって塗り替えようとも。あまりにもちっぽけな自分達程度じゃ、手を届かせる事すらままならないのだ。

 それは自明の理。──そんなの、とっくの昔に理解していたはずだろう?

 

 

 ***

 

 

 何が起きているのかは判らない。けれど少なくとも良くない事であるのだと、北白河ちゆりは理解していた。

 霍青娥の豹変。想定外の異常事態。これまで協力関係を結んでいた彼女の見た事もない焦燥を前にすれば、それは否が応でも突き付けられる。計画の失敗に続き、とびきり面倒な不測の事態の介入。幾ら狸のように夢美達を欺き続けていたちゆりでも、むくむくと膨れ上がる動揺を抑え込む事が出来ない。

 なまじっか事態の想定をしていた所為、だろうか。焦燥は、ちゆりの理性を確かに少しずつ蝕んでゆく。

 

「おい……! どういう事だ……? 説明しろ!」

 

 苛立ち気味な青娥へと向けて、ちゆりはそう言葉を投げかける。

 相も変わらず不安定な様子。何かを探るかのように、青娥は空を仰ぎ続けている。ぎりっと、彼女は歯軋りを一つして。

 

「どうやら、()()がこちらの世界に迷い込んだみたいね。一体、どこから……」

「あれ……?」

 

 一瞬考えるが、青娥が何を示して()()と口にしているのかは何となく察する事が出来た。

 以前に少しだけ、青娥から話を聞いた事がある。それは、岡崎夢美の意識を幻想郷から逸らす目的の一つ。この時代の幻想郷に蔓延する、ある種の“呪い”。

 

「まさか……。『死霊』ってヤツが……?」

 

 ちゆりの呟きに対し、青娥は何も言わずに頷いてそれを肯定する。

 どくんと、痛いくらいに心臓が大きく高鳴る。駆け抜けるのは焦燥。北白河ちゆりの理性は、それによってあっという間に塗り潰されてしまった。

 だって。もしも、青娥の言っていた事が真実であるなのば。

 『死霊』と呼称される、その存在は──。

 

「おいッ!」

 

 青娥に一歩大きく近寄り、そして勢いよく胸倉を掴み上げる。されるがままの青娥に対して、ちゆりは怒号混じりに言葉を浴びせた。

 

「夢美様と進一はどこにいる!? あんたなら判るんだろッ!?」

「ふっ……。随分と乱暴ね……。もっと淑やかに出来ないのかしら……?」

「戯言はいらない! 早く教えてくれ! 『死霊』は人を殺すんだろ!? だったら、一刻も早く……!」

 

 そう。一刻も早く、夢美達を助けなければならない。ちゆり達の計画が失敗した今、彼女らの身は無防備な状態で晒されているはずだ。そんな中での『死霊』の乱入。最悪の事態が、否が応でもちゆりの脳裏に過る。

 

「そうね……。今はお燐さんと一緒に、街中を駆け回ってるみたい……。『死霊』から逃げているのかしら……?」

「『死霊』から……? まさか、もう見つかっちまったのかッ!?」

「そのようね。でも、この感じ……。妖夢さん達が足止めをしているのかしら……?」

「妖夢が……?」

 

 今、この京都は全域に渡って青娥の結界に包まれている。誰がどこにいるのか、それを彼女はこの結界の内部ならある程度探る事が可能だ。

 

「それで、夢美様達は……!? 一体どこに向かっているッ!?」

「そこまでは判らないわ。()()()()の効力は、あくまで大まかな位置を把握するだけ。闇雲に動き回っている対象の意思を読み解くものじゃない」

「くっ……!」

 

 流石に細かな情報までは判別する事は出来ないか。彼女の術者としての力量は底の知れない程ではあるが、それでも限界はある。ましてやここは外の世界──幻想が排斥された現代である。神や妖怪等の超常的な存在がまやかしであるという認識が浸透したこの世界では、百パーセントの力で術を行使する事は出来ない。

 

「でも、妖夢達が足止めをしているのなら、まだ……」

「妙な希望を抱いているようだけど、事態は思ったより深刻よ。……こちらの世界に迷い込んだ『死霊』は、あの一体だけじゃない」

「なに……?」

 

 一瞬、息を呑む。

 こちらに迷い込んだ『死霊』は一体だけじゃない。それが意味する事は、即ち。

 

「このまま行けば……。夢美さん達と接触するのも、時間の問題かも……」

「ッ!?」

 

 サッと、血の気が引く感覚をちゆりは認識した。ぞくりと、背筋に悪寒が走る感覚にちゆりは襲われた。

 夢美達と接触するのも、時間の問題。生命あるものに無差別に襲い掛かり、無慈悲にも“死”を振り撒く“死”という概念そのもの。他でもない、『死霊』と呼ばれる存在が、夢美達に──。

 

 狼狽。焦燥。不安。動揺。

 焦る、焦る、焦る、焦る──。

 

「教えろッ! 今すぐ教えてくれ霍青娥ッ!!」

 

 青娥の胸倉を掴む手に再び力が入る。殆ど怒号と同じ調子で、ちゆりは彼女に要求する。

 

「夢美様達はどこだッ!? こっちの世界に迷い込んだ『死霊』はどこを徘徊している!? 現時点での大まかな位置で構わない! 今すぐ、私に教えるんだッ!!」

 

 最早一刻の猶予もない。こうしている間にも、夢美達と『死霊』が接触してしまうかも知れない。そうなれば、戦う力を持たない彼女達では一巻の終わりだ。お燐も一緒であるとは言え、それでも──。

 

「大まかな位置、ねぇ……。行ってどうするのかしら? 貴方に何か出来るとでも?」

「やってみなきゃ判らないだろ! 私の『能力』で幻惑すれば、『死霊』の注意を逸らせるかも知れない! 何もせずに諦めてたまるかよッ!!」

 

 ああ、そうだ。一体全体、何の為に今日まで生きてきたと思っている。何の為に、夢美達の傍に居続けていたと思っている。何の為に、自分自身を嘘で塗り固め続けていたと思っている。

 ちゆりの願いはたった一つ。その願いを叶える為ならば、どんな無茶だってやって退ける。どんな逆境にだって立ち向かってやる。諦めるなんて言語道断。立ち止まるなんて、そんな選択肢などあり得ない。

 

 失ってなるものか。好き勝手されてなるものか。

 是が非でも、何が何でも。

 

「夢美様達を、助けるんだッ!」

 

 それこそが、彼女の行動原理なのだから──。

 

「ふぅ……。まぁ、いいわ」

 

 そして投げやり気味に、青娥は口を開く。

 

「もう、色々とどうでも良いしね……。教えてあげる。夢美さんと進一さん、そして『死霊』の位置よね……?」

「ッ! ああ……! 頼むッ!」

 

 青娥は既に諦めている。これ以上はどうでも良いと、半ば無気力になってしまっている。

 けれどもちゆりは違う。霍青娥とは何もかもが違う。例え計画が失敗に終わったのだとしても、こんな形で諦めるなんて真っ平御免だ。

 だからちゆりは青娥から聞き出す。夢美達と『死霊』の位置関係。そこから導き出される最悪のシナリオ。それを是が非でも回避する為に。

 

 

 ***

 

 

 青娥から『死霊』と夢美達の位置関係を聞き出すや否や、居ても立っても居られずにちゆりは駆け出した。自分の身にも危険が及ぶかも知れないだとか、そんな事にさえも意識を傾ける事が出来なくなっていた。

 自分自身の事なんてどうでも良い。最優先すべきは、夢美と進一の身の安全の保障である。『死霊』などというよく分からない存在に生命を奪われてしまうなど、そんな事はあってはならない。絶対に、それだけは回避しなければならないのである。

 

「くそっ……。どこだ……? どこにいるんだよ……!」

 

 立ち止まり、ちゆりは慎重に周囲を見渡す。

 夢美達と野放しにされた『死霊』の位置を青娥より聞き出したちゆりは、一先ず後者の足取りを追う事にした。夢美達を誘導するよりも、『死霊』の方を何とかする方が確実であると考えたからだ。ちゆりの持つ『幻惑させる程度の能力』が『死霊』に対しても有効なのかは今のところ判断できないが、それでも試してみる価値がある。

 それに。

 

(仮に効力がなかったとしても、私が囮になれば……)

 

 『死霊』は生命あるものに無差別に襲い掛かる特性があると聞く。であるのなら、こちらから『死霊』に近づけばターゲットをちゆりに移す可能性だって十分にあるように思える。それが可能なら『死霊』をちゆり側に引き付ける事だって可能なはずだ。

 

 いずれにせよ、全力を尽くしてやるしかない。こんな理不尽などに好き勝手されてたまるものか。

 

(確か、青娥の話だとこの辺に……)

 

 ちゆり達の潜伏場所であるあの病院から、そう距離は離れていない通りの一角である。霍青娥の話では、この辺りに『死霊』の存在を感知したという話だが──。

 

「いない……。それどころか、何らかの痕跡すらも……!」

 

 何なんだ。『死霊』は生命あるものに襲い掛かるんじゃないのか。それなのに、こちらから接触したい時に限って遭遇出来ないなんて。

 ちゆりは『死霊』を実際に見た事はないが、黒い人影としか形容出来ぬような見た目をしているらしい。確かにこの薄暗い街中では、闇に紛れてしまってもおかしくはないが──。

 

「うん……?」

 

 と、その時。不意にポケットの中からバイブレーションが伝わってきて、ちゆりは思考を中断した。

 スマートフォンだ。青娥の結界の中では意味をなさなくなっていたはずのそれが、電話の着信を伝えるべくバイブレーションを繰り返している。スマホをポケットから取り出してディスプレイへと視線を落とすと、そこに表示されていたのは見知らぬ番号。当然、電話帳アプリに登録した覚えもない。

 一瞬不審に思ったが、それでも電話に出てみる事にした。このタイミングで電話がかかってくるという事は、十中八九あの女の仕業である可能性が高い。

 

「……もしもし?」

『おやおや……。どうやら苦戦しているみたいね?』

「……やっぱり、あんただったか」

 

 聞き覚えのある女性の声。ちゆりの予想通り、着信相手は霍青娥であった。

 普通に電話でちゆりのスマホに着信を飛ばした訳ではないのだろう。大方、妖術やら呪術の類であるに違いない。この程度、彼女ならば赤子の手を捻る事よりも容易いはずだ。

 まぁ、この際彼女の連絡手段などどうでも良い。このタイミングでちゆりに声をかけてきたという事は、火急の用か何かがあるという事だろう。彼女は無意味な冷やかしや煽りをするタイプではない。

 

「何の用だ? 私はさっさと『死霊』を見つけて……」

『その事なんだけど、どうやら少し面倒な事になってるみたいよ』

「え……?」

 

 一瞬、ちゆりの言葉が止まる。その隙を突くかのように青娥は続けた。

 

『入れ違いになってしまったみたいね。私がさっき感知した『死霊』は、もうその辺りにはいないわ』

「なんだと……? それじゃあ……」

『……夢美さん達は、おそらくこの病院に向かっている』

「……ッ!?」

『あくまで、これまでの移動経路からの推測だけれど。でも、まぁ……ここまで言えば、貴方なら十分理解出来るわよね?』

 

 まさか。そんな。

 病院。ちゆりと青娥の潜伏場所。どうやらそこに向かっているらしい夢美達と、このタイミングで大きく移動を開始した『死霊』。それが意味する事は、即ち──。

 

『ま、私が協力してあげるのはここまで。あとは貴方の好きにしなさい』

「……っ」

『それじゃ』

 

 ぶつんと、そこで通話が途切れる。ビジートーンが、五月蠅いくらいにちゆりの耳へと響き始めた。

 ぎりっと、ちゆりは歯軋りをする。気持ちの悪い冷や汗が、背筋を流れ落ちていく感覚を感じる。心臓の鼓動が、悪い意味で再び大きく高鳴っていく。

 ヤバイ。このままじゃ、冗談抜きに本気でヤバい。

 そんな単純な警鐘が、ちゆりの中で響き渡っていて。

 

「くそっ……!」

 

 スマホを仕舞って踵を返し、ちゆりは全力で走り出す。

 あの青娥が、なぜ素直に協力してくれたのかは分からないが──。けれどもそんな考察などをしている余裕はちゆりにはない。今は彼女の言っていた事を信じて、死に物狂いで来た道を戻るしかないのだ。

 

 走る。全速力で、ちゆりは京都を駆け抜ける。足が縺れて、転びそうになったとしても彼女は止まらない。こんな所で足を止めている場合ではない。今はとにかく、夢美達のもとへと向かう。そしてあわよくば、夢美達よりも先に『死霊』と接触する。手出しなんてさせない──。

 

 ──と、その時。

 

「ッ!?」

 

 不意に、爆音のようなものが周囲に轟く。びりびりと空気が振動し、肌を突くような奇妙な感覚がちゆりへと襲い掛かってくる。

 発生源はそう遠くない。今のは。

 

「妖力による爆撃……? まさか、お燐か……!?」

 

 あくまでちゆりの感覚的な直感。けれども恐らく、それは間違っていない。

 夢美達はお燐と行動を共にしていたはずだ。そんな彼女が、妖力を使った爆撃を行っている。それが何を意味するかなんて、深く考えるまでもない。

 

「くっ……」

 

 ちゆりは改めて走り出す。爆音が響いたその先へと向けて、彼女は必死に足を進める。息せき切って、走り続ける。

 それから、少しの間だけ走って。通りの十字路付近に到着した所で、彼女は遂に()()を目の当たりにした。

 

「なっ……」

 

 ──成る程。確かに()()は、黒い影としか形容出来ぬ容姿をしていた。

 妖力や霊力などに精通していないちゆりにも伝わってくる。黒で塗り潰されたかのような人型のそれは、禍々しいほどの圧倒的な凄みを放ち続けている。ただ遠目に見ているだけでも足が竦みそうになってしまう程で、ちゆりは反射的に立ち止まりそうになってしまった。

 感じる。それは、本能的な恐怖。下手にアレに関われば、きっとただでは済まない事になる。ちゆり程度の存在が立ち向かった所で、足元にも及ばないかも知れない。そんなネカティブな弱気ばかりが、自然と心から溢れてくる。

 

 恐らくあれは、後ろ姿。ちゆりの存在はまだ捕捉されてない。にも関わらず、こんな──。

 

(いや……。何を考えてんだ私は……!)

 

 そこでちゆりは、ぶんぶんと頭を振るって妙な雑念を払拭しようとする。

 

(ビビるな……! 助けるって決めたんだろッ!?)

 

 ああ、そうだ。ビビって立ち止まるなんて、言語道断にも程がある。

 決意は固めたはずだ。覚悟だって決めたはずだ。後は、ちゆりの方から──。

 

「まずい……! 避けろッ!」

「えっ……? きゃっ!」

 

「……ッ!?」

 

 不意に、そんな声が聞こえた。

 反射的に顔を上げる。間違えようがない。今の声は進一と夢美。そしておそらく蓮子とメリーも一緒だろう。慌てて視線を向けると、黒い霧上の何かが周囲に霧散する様子が見て取れた。

 黒い霧の中心部には『死霊』の姿。そして『死霊』を避けるように夢美と進一、蓮子とメリーとお燐の姿が確認できる。あの位置関係から察するに、『死霊』に強襲でも仕掛けられたのだろうか。

 

「夢美様……! みんなッ……!」

 

 ギリギリの所で飛び退く事で何とか事なきを得たようだが、それも一時的なその場凌ぎに過ぎない。すぐにまた、『死霊』は襲い掛かってくるだろう。その前に。

 

「教授! こっちは三人とも無事です! だから今は逃げる事を最優先に……!」

「ええ! 取り合えず今は散開! 全速力で逃げるのよ!」

 

 蓮子と夢美が『死霊』を挟んでそんなやり取りを交わしている。その直後、分断された二組は『死霊』から逃れるようにそれぞれ別の方向へと走り出していた。

 その判断は正しい。あの状態で無理に合流しようとすれば、『死霊』に襲われて殺されるリスクがぐんと高くなってしまうからだ。優先すべきは、今は何よりも逃げる事。余計なリスクを背負うべきではない。

 

 だが、しかし。

 

「あっ……!」

 

 たかが一度の攻撃が失敗した程度で、『死霊』が大人しく身を引く訳もない。分断され、それでも別々の方向へと逃げていた夢美や蓮子達。一瞬だけどちらを追おうか迷ったような素振りを見せた『死霊』だったが、けれどもすぐに行動を起こした。

 『死霊』が動いたのは、向かって右側。つまるところ、夢美と進一の二人が逃げた方向で。

 

「くそっ……! やらせるかッ!」

 

 ちゆりは慌てて走り出す。

 『死霊』が夢美と進一の二人をターゲットに絞ったのは確実である。流石に分裂するような能力は持っていなかったようだが、だからといって状況は好転などしていない。

 ──よりにもよって、あの二人を狙うなんて。

 ちゆりもまた十字路を右折して、死に物狂いで駆け抜けて。そして鋭く、『死霊』の姿を睨みつける。

 

「こっちを向けよ化物ッ!」

 

 そしてちゆりは『能力』を行使する。確実に効力を発揮させるには対象と目を合わせなければならないが、注意を引くくらいなら何とかなるはずだろう。ちゆりの『能力』は蓮子やメリーのそれとは違い、対象に直接影響を及ぼすもの。『死霊』がこちらの『能力』を察知すれば、或いは。

 

「よし……!」

 

 期待通りの結果が得られた。夢美達の後を追い始めた『死霊』が、ちゆりの『能力』を受けてピタリと動きを止めたのだ。そのままおもむろに振り返り、ソレはちゆりの姿をその目に捉える。

 遂に『死霊』と対峙するちゆり。後ろ姿と同様に、やはり正面も黒で塗り潰されている。人の形をしている事は判別できるものの、表情までは伺えない。何を考え、そして何を感じて行動を起こしているのか。そんな感情、米粒たりとも読み解く事が出来なかった。

 

 そして『死霊』は動き出す。標的を、夢美達からちゆりへと切り替えて。ゆっくりと、着実に。

 

「そうだ……。それで良い……」

 

 そんな異形に対し、ちゆりはタイミングを見計らって。

 

「これでも食らいやがれッ!」

 

 頭部と思しき場所を睨みつけ、ちゆりは再び『能力』を行使した。

 『幻惑させる程度の能力』は、夢美に使ったように催眠術のような効果を発揮させる事も出来るが、相手の意識を惑わして攪乱させる事も可能である。流石に『死霊』が相手では昏倒させるような事は不可能だろうが、それでも感覚を惑わす事くらいなら何とかなるかも知れない。現に『死霊』はちゆりの『能力』を受け、再び動きを止めている。きょろきょろと周囲を見渡すような仕草を見せ、何かに戸惑っているような様子すら見せているのだ。

 

 ──行ける。こうして『能力』を行使すれば、ある程度渡り合える。

 

 そう確信したちゆりは、踵を返して『死霊』から距離を取る。すぐにまた捕捉されてしまうだろうが、その時は改めて『能力』を使えばいい。これを繰り返せば、『死霊』を夢美達から引き離す事が出来る──。

 

(よし、行けるぞ……!)

 

 僅かに掴んだ希望を胸に、ちゆりは『能力』を行使する。

 

(これで、助けられる……)

 

 全ては、あの姉弟を助ける為。

 死に物狂いで、ちゆりは『死霊』と渡り合うのだった。

 

 

 ***

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 激しく息が切れる。フラフラと足元がふらつく。それでもちゆりは、京都の街中を自分の足で歩いていた。

 あれからしばらく『死霊』との鬼ごっこが始まった。『能力』を使えば一瞬動きを止める事が出来るものの、それでもほんの少しの時間稼ぎにしかならない。追いつかれそうになったら『能力』を使って、逃げ出して、そしてまた追いつかれそうになったら『能力』を使う。その繰り返し。

 そしてしばらく逃げ回っていると、いつの間にか『死霊』はちゆりを追いかけなくなっていた。ふと気が付くと、ちゆりを追いかけていたはずの『死霊』の姿がどこにもなくなっていたのだ

 

 ──逃げ切れた?

 

 いや、そんな楽観的な結論を早々に下す事は出来ない。仮に逃げ切れたのだとしても、『死霊』が京都を徘徊しているという事実は変わらないのだから。再び『死霊』が夢美達と接触する前に、彼女らを保護しなければ。

 

「夢美様と、進一は……?」

 

 二人を追いかけるように、逃げた先へとちゆりは向かう。あの二人の運動神経は精々並み程度だったはず。まだあまり遠くに行っていない可能性が高い。であるのなら、今からでも十分に追いつく事だって──。

 

「蓮子達と合流しよう。この場所だって安全だとは限らない。立ち止まる方が却って危険だ」

「そうね……」

 

「っ!」

 

 フラフラとした足取りでぼんやりと進んでいると、不意にそんな声が聞こえてきた。思わずちゆりは近くにあった自動販売機の陰に反射的に身を隠してしまう。

 おずおずといった様子で陰から道の先を窺うと、二人の人影を確認する事が出来た。一人は赤髪の女性。そしてもう一人は、その女性と似た雰囲気の青年。

 

 ──間違いない。夢美と進一だ。二人は無事だったのだ。

 

(良かった……。でも……)

 

 聞こえてきた会話の内容から察するに。

 

「問題は、蓮子達の正確な位置が掴めないって事だけど……」

「ああ……。集合場所、決めておくべきだったな……」

 

 どうやら彼女達、分断されてしまった蓮子達との合流を考えているようである。

 物陰に隠れたまま、ちゆりは思案する。どうする? このまま彼女らを行かせてしまったも良いのだろうか。確かに『死霊』からは逃げ切れた。そうなれば蓮子達と合流すべきだと、そんな考えに到るのは特段不自然という訳ではない。寧ろあの二人なら、真っ先に蓮子達の身を案じる事だろう。

 だけれども。

 

(下手に動けば、また『死霊』に……)

 

 彼女らに動き回れると、ちゆり一人じゃフォローし切れない。ダメだ。やっぱりリスクが高すぎる。

 でも。

 

「そうだ、病院……。俺達の本来の目的地……! 蓮子達も、そこに向かってるんじゃないか?」

「……っ。確かに、そうかも……」

 

「……ッ」

 

 なぜだ。どうして自分は、動けない?

 危険だと感じるのなら、今すぐ夢美達の前に出て止めるべきだ。こんな所でこそこそ様子を窺うのではなく、はっきりと彼女らに言葉を伝えればいいじゃないか。

 ──そんなの、理屈では分かっている。けれどそれでも、底の知れない躊躇いがちゆりの中に生まれてしまっているのである。

 

 今更、どの面下げて彼女らの前に現れればいい?

 

 この期に及んで、そんな想いが溢れ出てしまって。

 

「そうと決まれば、尚更急ごう」

「ええ。どっちみち、あの病院に向かう為なら来た道を戻らなきゃならないし……」

 

 夢美達の声が聞こえる。けれどもやっぱり、動けない。

 

(くそっ……! 何なんだよ、私はッ!?)

 

 自分自身への憤りが抑えきれない。情けなくて、情けなくて。それでも結局、何も出来なくて。勇気が、後一歩足りなくて。怯え切った子猫のように、こんな所で蹲る事しか出来なくて。

 

「進一、歩ける?」

「ああ……。そんなに心配しなくても大丈夫だ」

「そう……。それじゃあ、行きましょう」

 

 夢美達は踵を返す。来た道を戻り、蓮子達と合流する為に歩き出している。

 このまま行けば、彼女らはちゆりが隠れた自動販売機の横を素通りするだろう。今のちゆりは『能力』を酷使した影響で、その効力の影響が多少なりとも残っている。夢美達の意識は幻惑され、北白河ちゆりという存在に気付かないまま通り過ぎてしまう可能性が高い。

 

 足音が聞こえてくる。夢美と進一が、少しずつこちらに近づいてくる。

 ──どうすれば良い? 自分は一体、どうすれば良い?

 いや。違う。果たして自分は、一体()()()()()のだろうか。一度は夢美達の前から姿を消したのに、今はまたこうして彼女達を追いかけて。でもギリギリになって怖くなって、また逃げ出しそうになっている。

 

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。

 逃げてばかりだ。結局自分は、また何も出来ないのだろうか。結局自分は、また諦めてしまうのだろうか。()()()と同じように、自分の無力さだけを痛感して。また、渇望する事しか出来ないのだろうか。

 

(違う……)

 

 ぎりっと、ちゆりは歯軋りをする。ぎゅっと、思わず拳を握りしめる。

 

(ふざけんな……。私は、もう……!)

 

 ──ああ、そうだ。()()()とは、違う。

 決めたんだ。夢美達を助けると。覚悟だって固めたんだ。夢美達を助ける為ならば、どんな事だってやって退けるのだと。

 だから。だから、ちゆりは。

 

「どこに行くつもりだ?」

 

 自動販売機の横を通り抜け、ちゆりという存在に気が付かずに素通りした彼女達へと向かって。

 意を決して、声をかけた。

 

「えっ……?」

 

 振り返る夢美と進一。そして状況が瞬時に飲み込めず、困惑が現れる彼女らの表情。けれどもすぐに、その表情には驚愕が現れ始める。

 

 ──踏み込んだ。踏み込んで、しまった。

 怖い、という感覚はある。けれども後悔なんてしていない。ここでまた逃げ出せば、おそらくもっと後悔する事になる。これ以上、迷い続けるなんて真っ平御免だから。

 故にちゆりは、前に出る。戸惑いも躊躇いも、必死になって払拭して。

 

「あんた達は、ここから動くな」

 

 告げる。感情を押し殺し、はっきりとそう告げる。

 鬼気迫る表情。それは夢美達も同じだ。北白河ちゆりという女性を前にして、彼女らは蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまっている。あまりにも唐突な出来事に直面して、状況を呑み込むのに時間がかかってしまっている。言葉を絞り出す事させも、中々出来てない様子で。

 

「あ、あなたは……」

「ちゆり、さん……?」

 

 そして二人は、続けてそう口にした。

 愕然とした表情。信じられないと言った様子で、夢美達はちゆりの事を見据えている。無理もない。ちゆりは自分から夢美達の前から離れたというのに、今更こうしてのこのこと現れたのだから。仮に見限られていたのだとしても、それは仕方のない事だ。

 

「よう、また会ったな。進一とは、少し久しぶりか。東京旅行の前の日以来だぜ」

 

 表面上は出来る限り平静を保った状態で、ちゆりはそんな言葉を並べる。

 ちゆりの言葉を聞いて、夢美達の表情に若干変化が訪れる。ようやく状況を噛み砕き、そして呑み込めたかのような表情。幻覚でも何でもない。目の前に存在する北白河ちゆりという女性を認識して、当然ながら色々と言いたい事が浮かび上がってきたのだろう。

 

 さぁ、何を言われる? どんな罵詈雑言が飛んでくる?

 ちゆりは許されない事をした。本格的に恨みを買われても仕方がない。だからどんな言葉だろうと、ちゆりはそれを否定しない。それを受け入れる心持ちくらい、とっくの昔に準備していたつもりだったから。

 

 ──けれど。

 

「ち、ちゆり……。あなた……」

 

 岡崎夢美が、ちゆりに対して口にした想いは。

 

「今まで一体、どこに行ってたの!? 京都がこんな状態で、連絡も全然取れなくて……! ああ、でも、良かった……。無事だったのね……!」

「……ッ」

 

 真っ先に、心配だった。

 

 ああ、そうだ。彼女は、元来()()()()()()だった。

 自分よりも、他人の事ばかりを気にかけている女性。誰よりも仲間想いで、お人好しだと称せるほどに心優しい。そんな彼女なら、突然いなくなってしまったちゆりに対してどんな感情を抱くか。ほんの少し考えるだけで、想像は容易だった。

 

 けれども。それ故に。

 

「あなたには、色々と訊きたい事があるの……。でも今は時間がないわ。私達と一緒に逃げましょう。一先ず蓮子達と合流して、それから……」

「……あんたは、自分が何を言っているのか判っているのか?」

「えっ……」

 

 そんな優しさが、ちゆりにとって今は何よりも苦痛である。

 色々と訊きたい事がある。けれど今は時間がないから、自分達と一緒に逃げようと提案する。まるで、これまでちゆりがしてきた事など殆ど気にしていないかのように。いつも通りの助手に接するような心持ちで、彼女はそんな言葉を口にしている。心の底から、そんな行動を取っている──。

 

「何なんだよ、あんたは……。私はあんた達を騙してたんだぞ。それなのに、また騙されるかも知れないとは思わないのか? どうして、そんな風に接しようとする……?」

「ちゆり……」

「あんたはあまりにも人が良過ぎる。ああ、本当に、騙されやすいにも程があるぜ。絶対に損ばかりするぞ、その性格……」

 

 苛立ちを覚える。それはお人好し過ぎる夢美に対する苛立ちか、それともあまりにも中途半端な心持ちの自分自身に対する苛立ちか。或いは、その両方か。

 何なんだ。一体全体、何なんだ。理解が出来ない。夢美の事も、そして自分自身の事さえも。

 

「……ちゆりさん」

 

 次にそう口にしたのは進一だ。

 一歩前に踏み出して、彼は凛とした表情でちゆりの事を見据えている。向けられるのは、真っ直ぐで曇りのない瞳。ちゆりのような“迷い”なんて、微塵も感じられない芯の通った意思。

 

「俺達は、ちゆりさんを助ける為にここに来た。ちゆりさんともう一度話をする為にここまで来たんだ。仮に騙されていたのだとしても、それならそれで構わない」

「は……?」

「俺はちゆりさんを信じている。……いや、俺だけじゃない。姉さんも、蓮子も、メリーも。お燐だってそうだ。ちゆりさんが、悪意を持って俺達を騙していたとは思えない。何か、事情があるんだろ……?」

「……ッ!」

「だからもう一度、ちゃんとちゆりさんと話がしたいんだ。ちゆりさんが悩んでいたり、苦しんでいると言うのなら、俺は……。俺達は……!」

 

 ──ああ。本当に、何なのだろう。

 どいつも、こいつも。皆、みんな。

 

「勝手なこと言うなよ……」

 

 そこまで言って、言葉を呑み込む。そんな不満を漏らす権利すら、今の自分にはない。勝手な事を考えているのはこっちの方だ。進一達は悪くない。悪いのは、そう。

 

(全部、私だ……)

 

 ちゆりは頭を振るう。再び積もる雑念を強引に払拭し、夢美達へと向き直る。

 感情を捨てろ。夢美達を助ける為に、そんなものは不要だ。

 

「話を戻すぞ。私はあんた達と楽しくお喋りする為に出てきた訳じゃないんだ」

「お喋りって……」

 

 夢美が何かを言いかけるが、それでも構わずちゆりは続ける。

 

「もう一度言う。あんた達はここから動くな。『死霊』が徘徊している以上、下手に動き回れば捕捉される危険性がある。今は身を潜める方が利口ってもんだぜ」

「……やっぱり、あなたも知ってたのね。『死霊』のこと」

 

 ある程度、予測していたかのような夢美のリアクション。『死霊』について、お燐かこの時代の妖夢辺りから聞いたのだろうか。まぁ、この際どっちでもいいが。

 

「あんたが把握しているのなら話は早い。それなら私の意見にも賛同できるだろ。無作為に動き回るなんて、そんな馬鹿な真似は……」

「悪いけど、それは却下ね」

「なに……?」

 

 真っ向からの否定。ちゆりの言葉を聞き終わる前に、夢美は首を横に振る。 

 

「『死霊』は生命を狙うんでしょ? だったら今更こそこそと隠れたって無駄よ。『死霊』がこの街中を徘徊している以上、いつかは捕捉されてしまうわ。それなら立ち止まって隠れるよりも、寧ろ動き回って連中を攪乱すべきなんじゃないかしら? こうして捕捉されてない今なら尚更。でしょ?」

「それは……」

「……蓮子達の事が心配なのよ。放っておく事なんて出来ないわ」

 

 そう。確かに、夢美の言う事にも一理ある。

 『死霊』と呼ばれる存在が、どれほどの危険性を有しているのか。ちゆりだって、話に聞いた程度の知識しか持っていない。けれど青娥の見せた反応から察するに、それが底の知れない程に危険な存在であるという事は分かる。そんな存在が迷い込んでしまった今、京都のどこにいようとも生命が危機に晒されている事に変わりはないのだ。

 ジッと身を潜めるよりは、動き回って攪乱した方が良い。その意見だって間違ってはないのかも知れない。蓮子達が心配だから、今すぐにでも合流したい。その気持ちは、痛いくらいに理解出来るのだけれども。

 

「…………ッ」

 

 でも。

 

「……やっぱり、ちゆりは私達の事を助けようとしてくれていたのね」

「えっ……?」

 

 不意に、夢美がそんな事を口にする。

 思わず惚けたような反応を見せてしまうちゆりに対し、夢美はどこか嬉しそうな、安心し切った表情を浮かべていて。

 

「あなたは、私達を『死霊』の脅威から護ろうとしてくれたんでしょ? 私達の事が心配だから、そんなにも必死になってくれているんでしょ?」

「な、何を……」

「私、知ってるもの。例え嘘をついていたのだとしても、例え隠し事をしていたのだとしても。私達が一緒に過ごしたあの日々は、決して偽りなんかじゃなかったって……」

「……っ」

 

 言葉を見失ったちゆり。そんな彼女に、夢美は続ける。

 優しく、言葉を紡ぎ続ける。

 

「あなたはいつだって、私の事を助けようとしてくれた。私の力になろうとしてくれた。……今回だって、そう。私達の日常を取り戻す為に、あなたは必死になってくれている。過程はどうあれ、結果としてあなたが私達の事を想ってくれている事に変わりはない」

「なんだよ、それ……」

 

 判らない。やっぱり何も、判らない。

 北白河ちゆりは、こんなにも嘘で塗り固められているというのに。

 

「あんたに……。あんたに私の何が判るッ!?」

「判るわよ」

「な……!」

 

 けれど夢美は、やはりきっぱりと言い放つ。

 

「私にとって、あなたはちょっぴり手のかかる助手で」

 

 手を差し伸べるように。

 

「そして私の、大切な恩人だから」

 

 優しく、微笑みかける。

 

「だから……うん。判るわ」

「…………っ」

 

 ──何なんだ。本当に、何なんだ彼女達は。

 岡崎進一という青年も、岡崎夢美という女性も。どうしてこんなにも優しく出来る? どうしてこんなにも簡単に手を差し伸べる事が出来る? ちゆりは夢美達の事を騙し続けていたと言うのに。それなのに、どうして。

 いや。そんなのは愚問だ。どうして、だなんて。それはちゆり自身だって十分に理解できているはずだろう。

 

 彼女達は、こういう人物だ。姉弟揃って、どうしようもないくらいにお人好しなのだ。

 だから助けたいと、そう思った。だから力になりたいのだと、そう思った。それこそが、北白河ちゆりの行動原理。彼女らという存在こそが、ちゆりにとっての生きる意味。

 

「俺達と一緒に行こう、ちゆりさん」

 

 そして進一もまた、優しく声をかけてくれる。手を差し伸べてくれる。

 

「もう一度、姉さんの力になって欲しいんだ」

 

 けれども。

 だとしても。

 

「ダメだ……」

「えっ……?」

 

 ちゆりは首を横に振る。差し伸べられた彼の手を振り払うかのように、ちゆりは一歩後ずさる。

 

 ダメだ。こんなの、本当にダメだ。

 このままじゃ、ダメになる──。

 

(だって、私には……)

 

 これ以上、夢美達の傍にいる資格なんて──ない。

 

「言っただろ……。あんた達は、ここから動いちゃいけない」

 

 膨れ上がる激情を抑え込み、甘美な雑念を払拭して。

 感情を殺す。意識を逸らす。

 

「『死霊』は生命に群がってくる。だから一箇所に固まれば、余計に奴らが捕捉しちまう可能性が高くなる」

 

 良心も、躊躇いも。

 

「蓮子達と合流する? 冗談じゃない」

 

 結んだ繋がりさえも、捨て去って。

 

「分散してた方が、あんた達が狙われる可能性も低くなるだろ……?」

 

 冷たく、そう告げた。

 刹那、進一の表情が驚愕に塗りつぶされる。何を言っているんだこの人は、と。そんな彼の心の声が、自然と伝わってくるかのようだ。困惑した表情のまま、進一はふらふらと後ずさる。

 ああ、そうだ。それで良い。

 

「ちゆり……。あなた、まさか……」

 

 そして岡崎夢美もまた、愕然とした表情を浮かべていて。

 

「蓮子達を、囮にしろとでも言うつもりなの……?」

「…………っ」

 

 流石、岡崎夢美。そしてその弟だ。

 理解が早くて、大変に助かる。

 

「冗談にしちゃ、あまりにも質が悪い……」

「冗談なんかじゃないッ!」

 

 懇願するかのような進一の言葉を、ちゆりはすぐさま否定する。

 胸の奥が痛い。息が詰まるかのような感覚に襲われて、呼吸が上手く出来なくなる。これは何だ? 罪悪感か何かか? だとすれば笑いものだ。

 何を、今更。

 

「蓮子達を餌にして、あんた達を『死霊』から逃れさせる! あんた達を助ける為なら、私は……!」

 

 そうだ。

 ちゆりは。

 

「私は……。何でもするって決めたんだ……」

 

 悪いのは全部、ちゆりの方だ。だから彼女らの温もりに甘えてはいけないのだ。

 ちゆりの事など諦めろ。北白河ちゆりは悪人なのだと、夢美達はそう認識してくれればいい。

 夢美達を助ける。ちゆりはただ、それだけを考えていればいいのだ。それ以上を望んではいけない。繋がりを求めてはいけない。欲張れば、きっとまた酷い事になる。

 そう。幼少の頃の、()()()と同じように──。

 

「ちゆり……。あなた……」

 

 そんなちゆりへと向けて、夢美の声が響く。

 

「泣いているの……?」

「は……?」

 

 言われて思わず、自らの頬を指先で触る。

 湿っている。気が付くと、視界が歪んでいる。何かが瞳から零れ落ちている。

 慌てて拭う。けれどもそれは、そう簡単には止まらない。ちゆりの意思とは無関係に、それは止めど無く溢れ出てくる。

 

「くそっ……。何だよ……」

 

 苛立ちのあまり零した言葉も、どこか詰まり詰まりで。

 

「何なんだよ……!」

 

 ああ、本当に。あまりにも、情けない。

 

「どうして、涙なんかがッ……!」

 

 幾ら顔を背けようとも、幾ら払拭しようとも。

 結局、ちゆりは何も変われない。何も手放す事が出来ていない。未練も、罪悪感も、そして結んだ繋がりも。

 やっぱり彼女は、非情になんてなり切れない──。

 

「うっ……」

 

 ──その時だった。

 耳に入るのは呻き声。それは岡崎進一のものだ。涙を拭って顔を上げると、足元をふらつかせて頭を押さえる彼の様子が見て取れる。傍から見れば、立ち眩みのような症状。けれども、違う。何かが違う。

 

「進一……? まさか、また……!」

 

 焦ったような夢美の反応。彼女はあの症状を知っている?

 ──いや。違う。知っているのは、()()()()()()()。覚えがある。見た事がある。進一のあの症状。あれは、そう。幼少の頃の()()()と、酷似していて。

 

「まただ……」

 

 そしてボソリと、彼は呟く。

 

「ヤツが、また来る……」

「……ッ!?」

 

 悪寒。血の気が引いて、背筋が冷えて。冷たい何かで、心臓を鷲掴みにされたかのような感覚。

 殺気。それを感じた北白河ちゆりは、反射的に慌てて振り返る。京都の街中。静まり返った通りの一角。その先に見えるのは──黒。黒い、影。

 

「なっ……」

 

 一瞬、息が詰まる。そして警鐘でも打ち鳴らすかのように、ちゆりの心臓が大きく高鳴り始めた。

 不穏。恐慌。そして理性の乱れ。殆ど崩壊寸前だった冷静な心持ちなんて、あっという間に瓦解してしまって。

 

「何でだよ……。くそっ! 早すぎる……!」

 

 血が滲むほどに、思わず拳を握りしめて。

 

「『死霊』……! 撒けたんじゃなかったのかよ……!?」

 

 突き付けられるのは、どうしようもない現実。微かに残った希望さえも、簡単に潰してしまう程の理不尽な絶望。

 『能力』を使って攪乱して、やっとこさ夢美達から引き離す事が出来たと思っていたのに。

 いや、判っていたはずだ。あんなのは一時的なその場凌ぎに過ぎない。生命をしつこく狙うという『死霊』の特性上、例え一時的に幻惑出来たとしても『能力』の効力が切れれば時間切れ。再び生命を捕捉して、アレは容赦なく群がってくる。

 

 時間をかけすぎた。もっと早く、何とか出来ていれば。

 

「畜生……!」

 

 走り出すちゆり。けれども『死霊』から逃れる為じゃない。寧ろ特攻するかのように、『死霊』へと向けて走り出す。

 当然ながら、困惑の籠った叫び声が夢美から届くのだけれども。

 

「ちゆりッ!? 何を……!」

「あんた達は逃げろ!」

 

 それでもちゆりは、止まらない。

 

「『死霊』は私が何とかする……!」

 

 夢美と進一が、揃ってちゆりの名前を呼ぶ声が背中越しに聞こえてくる。それ以上行ってはいけないのだと、悲痛な叫びが流れ込んでくる。

 けれども、それでもちゆりの意思は変わらない。これ以上、迷いや躊躇いなど生じさせてたまるか。

 どこまでも優柔不断で、どこまでも中途半端で。そんな情けない自分なんてもう御免だ。

 

「助ける……。夢美様と進一を、私は……!」

 

 そして北白河ちゆりは、自らの『能力』を行使する。

 例え、生命を擲つ結果になろうとも。

 

 せめて、最後くらいは──。

 

 

 ***

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 呼吸が乱れる。息が出来ない。

 

「あ、あぅ……ぅぅ……」

 

 頭が痛い。身体が痛い。無理に動き回った所為で、肉離れでも起きているのだろうか。断続的な激痛に両脚が襲われてる。壁か何かに体重を任されば歩けなくもなさそうだが、だとしても最早動く気力すら彼女にはない。建物の壁面に凭れ掛り、座り込んで。ただぐったりと、俯く事しか出来なくなってしまった。

 

「はぁ、はぁ……。ああ、くそっ……。思ったより、キツイなこれ……」

 

 疲労困憊な様子で、北白河ちゆりはそう呟く。

 あれから、どのくらい経ったのだろう。どのくらい走り続けたのだろう。『死霊』から夢美達を護る為に、『能力』を行使して。自分自身が囮になって、引き付けて。走って、走って、走りまくった。

 そうして気付いた事が一つある。『能力』を長時間酷使すると、精神的疲労がどっと蓄積されてしまうという事だ。それも想定よりもずっと早いスピードで。非常識的な現象に慣れていないこちらの世界の住民は、無闇矢鱈に『能力』を使わない方が無難という事だろう。日常的にはそもそも行使を避けた方が良い。

 

 まぁ、そもそも『能力』を使える人間なんて極一部に限られるのだろうけれど。

 

「は、はは……。何、無駄な考察なんてしてんだろ、私……」

 

 自嘲気味に、ちゆりは笑う。

 

「夢美様達……。ちゃんと、無事に逃げ切れたかな……?」

 

 そうでなくては困る。ちゆりがここまで身体を張って、『死霊』の注意を引き付けてあげたのだ。夢美達の運動神経を考慮しても、逃げる時間は十分に稼げただろう。今は、彼女達を信じるしかない。

 

「さて、と……」

 

 ある程度呼吸を整えた後、ちゆりは顔を上げる。

 立ち上がる事はしない。最早身体中が悲鳴を上げているのだ。立ち上がる気力さえも、今のちゆりには湧いてこない。

 代わりに彼女は視線を向ける。向かって左側。大通りの先。()()を感じる方向へと。

 

「ったく。やっぱ、そうなるよなぁ……」

 

 認識できるのは黒い影。今まで散々受け続けてきた強烈な殺気。

 『死霊』。ちゆりとの壮大な追いかけっこを続けていたあの異形は、今度ばかりはちゆりの存在を見失う事はなかった。逃げても、逃げても。ちゆりがどんなに死に物狂いになっても、あの『死霊』はしつこく追いかけ回し続けてきたのだ。

 ちゆりだって、無策に逃げ回っていた訳じゃない。先程と同じように『能力』を行使し、『死霊』の意識を幻惑させながらここまで逃げてきたつもりである。

 

 しかし、やはり相手は一筋縄で渡り合えるような存在ではない。ちゆりが『能力』を使えば使う程、その効力は明らかに落ちていったように思える。幾ら幻惑しようともすぐにまた捕捉され、襲い掛かってくる。

 単純に、精神的疲労の蓄積により『能力』の質が落ちてしまったのか。それとも『死霊』に『能力』の耐性が出来てしまったのか。まぁ、どっちにしても同じだ。今やちゆりの『幻惑させる程度の能力』は、『死霊』に対して殆ど意味をなさなくなっている。これではもう、『死霊』と渡り合う事ができない──。

 

「くそ……。ダメだな、こりゃ……」

 

 身体が重い。動かない。『能力』だって、使えない。

 それでも『死霊』はにじり寄ってくる。逃亡する手段を失ったちゆりに向かって、ゆっくりと、着実に。

 

「あー……。私の負け、かぁ……」

 

 ちゆりは『死霊』か視線を逸らし、そして空を仰ぐ。

 晴天の夜空。月明りがやたらと眩しい。街灯が全く機能していない所為か、星明りだっていつも以上に眩しく感じ取る事が出来る。こんな都会のど真ん中で、こんなにも満天の星空を眺める事が出来るなんて。現代日本も、案外捨てたもんじゃないのかも知れない。

 

「ふっ……」

 

 失笑。アンニュイな自分がなんだか馬鹿らしい。

 

「私……。死ぬのかな……」

 

 再び、呟く。

 

「まぁ、それも仕方ないか……」

 

 もうすぐ『死霊』に殺されるのかも知れないというのに、ちゆりの心は気味の悪いほどに冷静だ。先程まで感じていた狼狽も、恐慌も、今は全く感じられない。あまりにも穏やかな心持ちである。

 もう、どうでもよくなってしまった。

 そもそもこれは、勝てるはずのないゲームだったのだ。ちゆりと青娥の計画が失敗し、『死霊』がこの世界に迷い混んでしまった時点でこちらの負け。幾らちゆりが足掻こうとも、どうしようもなかった。

 

 そもそも、こうして一人で飛び出して、自分はどうするつもりだった? どうやって『死霊』を止めるつもりだった? 夢美達にそこから動くなと告げたものの、その後は『死霊』をどうするつもりだったのだ?

 ──無策だ。結局、何も考えていない。何とかなると自分自身に言い聞かせ、何も考えずに飛び出した。その結果がこれだ。

 

 自業自得。それ故に、仕方がない。

 

「でも……。うん、そうだな……」

 

 それでも。

 

「夢美様達が逃げる時間を稼げただけでも、良しとするか……」

 

 こんな事をした所で、彼女が犯した罪が消える訳ではない。夢美達を騙し続けていた事実が変わる訳でもない。

 けれども、だとしても。自分という存在が、少しでも夢美達の力になれたというのなら。

 もう、思い残す事などない。それならそれで、ちゆりはもう満足だ。

 

「まったく……」

 

 『死霊』が放つ殺気が近づいてくる。“死”という概念そのものが、ゆっくりとにじり寄ってくる。

 

「本当、最後の最後まで……」

 

 これ以上、逃げるつもりはない。無駄な抵抗を続けるつもりもない。

 ちゆりは終わりを否定しない。この結末を、受け入れる。

 

 まるで眠りにつくかのように、ゆっくりと瞼を閉じて。

 

「嫌な女だったな、私……」

 

 一際殺気が強くなる。空気が揺らめくような感覚を覚える。

 ちゆりという獲物を前にした『死霊』が、その生命を刈り取る為に飛び掛かった。その先にあるのは絶対的な死。抗いようのない“呪い”の一種。一つの運命の終着。立ち向かう事さえも、逃げる事さえも放棄した北白河ちゆりへと向けて。

 

 “死の呪い”は。

 生命を──。

 

 

「──ちゆりさんッ!!」

 

 

 ──え?

 

「うぐっ!?」

 

 聞き覚えのある声が、聞こえた気がした。その直後、強い衝撃がちゆりの身体を駆け抜けていた。

 軽い呻き声を上げて、ちゆりは倒れ込む。ワンテンポ程遅れて、自分が何かに突き飛ばされた事に気が付いた。

 地面に強打した肩が痛い。反射的に受け身を取ろうとした所為で、地面で掌を擦り剥いてこちらにもひりひりとした痛みが走る。

 

「いっ、つぅ──」

 

 痛い。痛い。痛い。身体が、痛い。先程までと変わらず、特に両脚に鈍い痛みが走り続けている。

 でも、どうして? 死んでしまったのだとすれば、そんな感覚を感じる事もなくなるはずなのに。こんな風に、どくん、どくんと、自らの鼓動を感じる事も出来なくなるはずなのに。

 何だ、これは。生きている? 自分は、生きているのか? 『死霊』に襲われたはずなのに、どうして。

 

 疑問がとめどなく溢れ出る。思考があっという間に支配される。それでもちゆりはゆっくりと身体を起こし、そして閉じていた瞼を開けた。

 目に入るのは京都の街並み。先程までと変わらない、真っ暗なゴーストタウン。

 

 けれど。

 先ほどまでと違う箇所が、一つだけ。

 

「…………」

 

 ちゆりの脇に、何かがある。

 大きい。ちゆりの背丈よりも大きいのではないだろうか。何だろう、これは。倒れている? ああ、そうか、これは人だ。誰かがちゆりの脇で倒れている。ちゆりよりも大きな体格。男の人。それも若い。多分、ちゆりよりも歳下で──。

 

「……。えっ?」

 

 見覚えが、ある。

 恐る恐る視線を受ける。脇に倒れているその人物を確認する。

 男の子。青年。誰? そんなのは愚問。一目見れば判る。けれど、だとすればどうしてこんな所で倒れている? どうしてピクリとも動かない? そんなのおかしいじゃないか。だって彼は、さっきまで夢美と一緒にいて。だからこんな所で倒れているはずがなくて。

 

 でも。

 だけど。

 

 ──だけど。

 

「あ……」

 

 意味のない声が、ちゆりの口から漏れる。よく分からない感情に、彼女の心が支配される。

 悲しみ。怒り。苦しみ。いや、今は困惑の方が強い。状況がまるで呑み込めなくて、頭の中が真っ白になって。何が起きて、一体どうなったのか。

 判らない。理解する事が、出来ない。

 

「あ、ああ……」

 

 けれども、それは。()()()()は。

 じわじわと、否が応でもちゆりの前に突き付けられる。

 

「しん、いち……」

 

 思わず零す。

 その名前を。ちゆりの脇で倒れている、彼の名前を。

 

「進一……?」

 

 北白河ちゆりが、必死になって助けようとした一人の青年は。

 物言わぬ状態で──。


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