進一が、まだ十代前半だった時。
あの頃の姉は、自らの研究のみに没入し続ける日々を送っていた。
自分より少し歳の離れた姉。まだまだ子供だったあの頃の進一は、彼女がどんな研究をしているのかいまいち理解出来ていなかったように思う。ただ、そう、たった一つだけ理解出来る事と言えば、姉の中には途轍もない才能が秘められていたという事だ。
俗にいう、天才と呼ばれる存在。学校の先生を主とした周囲の大人達は挙って姉を持て囃し、やれ神童だとか逸材だとかと騒いでいた印象が残っている。彼女は元々他の子供よりも頭の回転が早かったのだが、ある日を境にその頭角を急激に現し始めたのである。
学業の成績は常にぶっちぎりのトップ。それどころか上級生の首席さえも大幅に凌ぐ程の知識量と応用力。普通の学業など彼女にとって最早意味をなさなくなり、後に飛び級を重ねる事となる。
鬼才だ。特に物理学や数学に関しては常人のそれを遥かに凌駕する程の才能を有しており、最早“常識”という枠組みからも逸脱しつつあった。
けれどもそういった特異性を持つ人物は、往々にして欠点を抱えている場合も多い。それはこの岡崎夢美という少女もまた例外ではなかった。
大人顔負けのずば抜けた才能を有する彼女だったが、その反面、人付き合いという観点ではお世辞でも良い印象を受けるとは言い難い。鬼才としての頭角を現し始めたあの頃から、彼女には利己的で独りよがりな側面も強く現れ始める事となったのである。
他人との人付き合いは必要最低限──それも極めて義務的なもののみ。本来ならば青春を謳歌すべき年頃であるはずなのに、恋人は愚かまともな友達さえも作ろうとしない。“天才”であるが故に周囲の同級生も彼女に対して自然と隔たりを作る傾向も強く、その相乗効果もあって彼女が孤独となるまでにそう時間は掛からなかった。
けれどそれでも、岡崎夢美は何も気にしない。自分の事であるはずなのに、まるで興味もなさそうな振舞いを続けている。
天才でありながら、他人は愚か自分自身にさえも関心を向けていない少女。なぜ、彼女はそこまで至極ドライな振舞いを続けているのか。──その原因は、至極単純。彼女は自身が持っている熱を、
「ダメ……。違う、そうじゃない……。だったら、これは……」
ある日。扉が半開きとなっていた姉の部屋から、そんな声が聞こえてきた事を覚えている。
毎日のように部屋に引きこもって、寝る間も惜しんで何かを調べ続けていて。そんな姉の事が心配になって、進一はこっそりと部屋の様子を窺った。
噛り付くようにパソコンと睨めっこを続け、死に物狂いで何らかの作業に没入している姉の姿。部屋は少々埃っぽく、ゴミ屋敷という程ではないが書籍やらよく判らない機械やらが乱雑に放置されている様子も見て取れる。十代の少女の部屋とは思えない程に、そこは酷く無機質で無骨な印象を受けた。
夢美は未だ、進一の存在には気づいていない。極限まで集中力を高め、まるで周囲の世界をシャットアウトしているかのようだ。
「プランクエネルギーの限界? 物質世界と非物質世界の完全なる解明? そんな訳ないじゃない……。だったら、あの子の症状は一体どう説明するのよ……」
姉の呟きが耳に流れ込んでくる。言葉の意味はいまいち判らないが、それでも彼女が必死である事だけは確かに伝わってきた。
その熱量は凄まじい。人付き合いや他人に対する関心は酷くドライであるはずなのに、それと比較すると凄まじいギャップである。──けれど、だからと言ってその熱量が必ずしもポジティブに働いているとは限らない。他人への関心を捨ててまで研究に没頭する彼女の姿は、決して生命力や活力が満ち溢れている訳ではないのだ。
寧ろ、これは。
「……進一?」
じっと様子を窺っていると、流石に気付かれた。
不意にこちらを振り返って、彼女は進一の名前を呼ぶ。反射的に身を引いて隠れようとしてしまうが、すぐに無意味だと気が付いて進一は考えを改める。
そもそも、コソコソする必要なんてなかったはずだ。彼女の事が心配ならば、遠慮なんてせずに直接聞いてしまえば良い。だって、自分達は姉弟なのだから。
おずおずといった様子で扉を開け、進一は部屋の中へと足を踏み入れる。
「えっと……。姉さん……」
「どうしたの? あ、ひょっとしてお腹空いちゃった? もうそんなに時間経ったの……? 今って何時だったかな……」
優し気な声調。冷たさなんて、微塵も感じられない。
けれども。だからこそ──進一の不安感は、寧ろ余計に煽られる。
「違うよ、お腹なんて空いてない。姉さん、俺は……」
「違うの? あっ……。まさか、どこか具合でも悪いの? それともひょっとして、またその『眼』が……!」
「それも違う……」
全然話を聞いてくれない。口を開けば進一の事ばかりで、彼女は捲し立てるようにネカティブな事を口にする。そんな言葉から伝わってくるのは、底の知れない憂慮と不安。
これじゃあ、駄目だ。こちらから強引に切り出さないと、話は一向に進まない。
「どうしよう……まだ、何も解明出来てないのに……。医療分野もダメ、物質世界の常識も当てはまらない……。だったらもっと、何か……“非常識”的な何かが必要だって、そこまでは判ってるのに……。だけど……」
「──聞いてよ、姉さんっ!」
少しだけ語調を強めて、進一は割って入る。突然声量を上げた進一に対して夢美は少し驚いた様子だったが、ともあれ言葉は飲み込んでくれた。
今の彼女にこちらの言葉を伝える為には、これくらいしなければ始まらない。
「俺はどこも悪くない……! 俺は大丈夫なんだ! だから姉さんが、そんなに心配する必要なんてない……!」
「し、進一……?」
「俺の事は良い……。それよりも、姉さんはもっと自分の事を大事にしてよ……! ずっとこんな事を続けてて、俺……。俺の、方こそ……!」
声が震える。感情が昂る。
それでも何とか言葉を絞り出して、進一は夢美に伝えた。
「姉さんの事が、心配なんだ……」
けれども最後は、少し語調が弱くなってしまっていた。
怖い。今の姉の姿を見ていると、そんな感情が自然と心の中から溢れ出てくる。このままでは、彼女がどこか遠くへ行ってしまうような気がして。取り返しのつかない事になってしまうような気がして。だから──怖い。不安で、不安で、仕方がない──。
「……進一」
ポンッと、進一の頭に何かが乗せられる。
ふわりとした感覚。これは、夢美の手だ。不安気に俯いた進一の頭を、彼女は撫でてくれている。まるで、進一の事を宥めるかのように。
「大丈夫。進一は、お姉ちゃんの事なんて気にしなくて良いのよ」
「えっ……?」
「うん、そう……。あなたは、何も心配しなくて良い……。不安感を抱く必要なんてないの……」
けれども、違う。
「進一の事は、お姉ちゃんが絶対に助けてみせるからね……」
そうじゃない。
「だから安心して、進一……」
それは暗示だ。進一に対してではない。自分自身に対する、ある種の暗示。
進一の事を助ける。是が非でも、何が何でも。例え、自らの身を犠牲にする事になったとしても。その願いを叶える為に、彼女は前に進み続けている。止まる事も、後ろを振り返る事すらもしない。進一を助ける為ならば、それ以外の事なんて知ったこっちゃない。
──そう。自分自身の事さえも、今の彼女にとってはどうでも良い事なのだ。
(ああ……。そうだ……)
元々はこうじゃなかった。
頭は良いけど、どこか抜けていて。ちょっぴり天然気質な所があって。それでも天真爛漫で、誰に対しても笑顔で接する。岡崎夢美は、そんな風に明るい少女であったはずなのに。
今はどうだ。必死になって自分自身を抑え込み、仮初の笑顔を浮かべて自分と周囲を誤魔化し続けている。自分を殺して、世界を閉ざして。死に物狂いで、
(俺の、所為なんだ……)
岡崎進一という存在が、彼女を縛り付けている──。
***
お燐と共に『死霊』と呼ばれる存在から逃げ果せ、とあるカフェのテラス席で情報を整理してから数分。進一達は、北白河ちゆりを捜す為に行動を開始していた。
捜す、と言ってもただ闇雲に街中を走り回るのではない。そもそも京都は広い。ある程度目星をつけて行動しなければ、いつまで経っても時間だけを無駄に浪費してしまうだろう。それではあまりにも非建設的だ。
前提として、ちゆりがまだ京都内いると仮定して話を進めるが──。彼女が霍青娥、つまり『先生』と協力関係であるのなら、
「あの場所……。
「ああ……。行ってみる価値はあると思う」
歩きつつも問いかけてくるメリーに対し、進一は頷いてそれに答える。
進むのは普段でも人通りの少ない路地。目指すのは都内某所にある年季の入った古びたビル。その一階部分に設けられた
「でも、さっき教授とお燐ちゃんが向かおうとした時は、どうしても近づけなかったのよね? 幾ら近づこうとしても、逆に遠くなっていくような感じがする……だったっけ。倫理的な結界の典型的な特徴よね」
確かに蓮子の言う通りだ。
夢美とお燐は件の病院へと向かおうとし、そして一度失敗している。倫理的な結界に阻まれ、近づく事も出来なかったのだ。であるのなら、再び普通に近づこうとしてもまた結界の効力に捕まってしまうような気もするが──。
「その辺りは……。何とかなるかも知れない」
口を挟んで来たのはお燐だ。
進一の少し後ろを歩いていた彼女は、ちょっぴり自信なさげな──けれども神妙な面持ちを浮かべていて。
「さっきまで街中を徘徊してたキョンシーの姿が見えなくなってる。多分、青娥が呪術を行使するのを止めたからだと思うんだ。原因は判らないけど、だったら結界の効力が弱くなっている可能性もあるかも……」
「ええ。効力が弱くなっているのなら、どうにかして突破出来るかも知れない」
お燐に続くような形で、夢美はそう言った。
当のお燐は「まぁ、殆ど希望的観測だけど……」と自信なさげな様子だったが、それでも重要な手がかりである事に変わりはない。少しでも可能性があるのなら、今は躊躇わずに手を伸ばすべきだ。
「だけどキョンシーがいなくなったからと言って油断しないで。『死霊』の方が、キョンシーなんかよりも余程危険なんだからね」
「でも……。『死霊』に関しては、妖夢ちゃん達が足止めをしてくれているのよね?」
「そうだね……。でも、こっちの世界に迷い込んだのがあの一体だけとは限らない。別の個体が、どこかに潜伏しているかも知れないから」
警戒心を強めつつも、お燐はメリーにそう答える。『死霊』の事を話す時の彼女は、いつにも増して真剣そのものだ。
「一体だけとは限らない、って……。あんなのが何体もいるってこと……?」
「うん……。今は、とある“結界”のお陰で少し落ち着いてたはずなんだけどね。だけど出てきちゃったという事は、やっぱりもう“結界”が限界なのかな……」
俯きつつも、お燐はそう口にする。
詳しくはよく判らないが、今の言葉から察するに“結界”とやらの効力で『死霊』は一時的に封じられていたという事なのだろうか。けれど今はその“結界”を破り、『死霊』がこちらの世界に侵入してしまっている。
「『死霊』は死を運ぶその特性も厄介だけど、一番厄介なのは物量なんだよ。数が多いし、その全てが生命を奪う為だけに行動しているから質が悪い……」
「いよいよもって、下手なB級ホラー映画染みてきたな……」
しかし、考えてみればみるほど奇妙な話だ。
なぜ今になって、
青娥の目的は、あくまで八十年前の幻想郷に住む魂魄妖夢だったはずだ。けれど当の彼女は、今や元の時代に帰還してしまっている。そんなタイミングで態々こんな大胆な行動に出る必要なんてないように感じるのだが。
霍青娥ではないとすれば、本当の原因は何だ? お燐やこいしと同じように、博麗大結界を超えてきたのだろうか? たまたま偶然、こちらの世界に迷い込んでしまっただけなのだろうか?
お燐は言っていた。“結界”が限界なのだと。つまり遅かれ早かれ、『死霊』の封印は解かれていたという事だろう。けれど、だとしても違和感を拭い去る事が出来ない。完全に得心する事が出来ない。
何かが引っかかる。
何かを、見落としてしまっているような──。
「この先の大通りを渡れば、目的地はすぐそこね」
考え込んでいた進一だったが、夢美のそんな言葉が流れ込んできて我に返る。
ジメジメとしたこの路地を抜けた先は、比較的人通りの多い大通りに出る。更にその先の小道へと入り、そのまま道なりに進めば件の病院には辿り着けるはず。
そんな中、キョロキョロと周囲の様子を窺いつつも、蓮子が夢美へと歩み寄ってきて。
「今のところ、特に結界に捕まったような感覚はありませんでしたね」
「ええ。さっき車で向かおうとした時も、この先の大通りまでは普通に辿り着く事が出来たんだけど……。でもそこまでが限界。そこから先は、もうグルグルグルグルと」
「ぐ、グルグル……」
お燐が若干引きつった表情を浮かべている。夢美の爆走運転の記憶でも蘇ったのだろうか。確かにあれは軽くトラウマになるレベルである。ぶっちゃけ進一もあまり思い出したくない。
「とにかく、行ってみるしかない。あれこれと考え込むのは、その後でも良い」
自分自身にも言い聞かせるように、進一はそう口にする。
そうだ。今考えるべき事は、いなくなってしまった北白河ちゆりの事。確かに『死霊』についても色々と気になる事、解せない事はあるが、優先すべきはそこじゃない。
仮にお燐の言う通り、こちらの世界に迷い込んだ『死霊』があの一体だけではなかったとしたら、ちゆりの身も危険に晒されているのかも知れないのだ。だったら一刻も早く彼女と合流すべきである。
「ええ、そうよね。……進一君の、言う通り」
「ああ。……行こう」
メリーの言葉に対して、進一はそう答える。頷いた蓮子達と共に路地を抜け、一際広い大通りへと出た。
普段ならば、それなりの人で溢れているはずの大通り。けれど想像していた通り、そこも他の例に漏れず不気味な程の静けさに包まれている。相も変わらず京都全域はゴーストタウンのままであり、生き物の気配すら感じられない。
「静かだな……」
「ええ……。どうやら、人払いの結界に関してはまだ効力を発揮しているようね」
進一の呟きに対し、答えたのは夢美だ。慎重に周囲の様子を窺いながらも、彼女は口を開く。
「まぁでも、京都が
「うん……。『死霊』の事を考えると、確かに夢美の言う通りだと思う」
頷きつつも、お燐が答える。
生命あるものを容赦なく殺す『死霊』と呼ばれる存在。そんなものが徘徊している今の京都に普段通りの人が押し寄せれば、どんな被害が出るか判らない。そういう意味では、夢美の言う通り確かにこの状況は都合がいいのかも知れない。
「でも青娥だって万能じゃない。幻想が排斥されたこの世界で、ここまで大規模な結界を長時間保ち続けるのは難しいと思う。キョンシーもいなくなっちゃったし、人払いの結界の効力だって弱くなってる可能性が……」
「いずれ限界は来る、って事ね……。その前に、あの『死霊』を何とか出来ればいいんだけど……」
難しそうな表情を浮かべる蓮子。けれどもはっきり言って、打開策が丸っきり見えないのが現状である。『死霊』がどれほどこちらの世界に迷い込んだのかさえも定かではないし、先ほどの様子から察するに一体だけでも対処は相当に難しいように思える。
完全に希望的観測で、ちゆりと合流出来れば何らかの手掛かりを見つける事が出来るのではないかと考えているが──。あまり過度な期待はしない方が良いのかも知れない。
(『死霊』……)
立ち止まり、進一は来た道を振り返る。
漂うのは静寂。先ほどまでの喧騒が嘘であるかのように、京都の街中は静まり返っている。それが却って不安を掻き立て、心臓がきゅっと締まるような感覚に襲われる。不安や恐怖、そして焦燥。それらをごちゃごちゃに掻き混ぜたかのような感情が、進一の胸中に溢れてくる。
と、その時。
「うっ……」
ぐらりと、眩暈。
吐き気と、頭痛。先ほど少し休憩して、だいぶ良くなったと思っていたのに。足元がふらつき、進一は思わずこめかみを抑えて蹲りそうになってしまう。胸の奥がザワザワとして、底の知れない気持ち悪さが進一に襲い掛かる。
「進一君……?」
異変に気付いたのは、進一の少し前を歩いていたメリーだ。踵を返し、心配そうな面持ちで彼女は駆け寄ってきて。
「ど、どうしたの……!? まさか、また具合が……!」
「あ、ああ……。い、いや……」
反射的に心配ないと否定しそうになるが、あまりにも不安そうなメリーの様子が目に入って思わず言い淀む。こんな状態で否定した所で説得力は皆無だ。却ってメリーの不安感を余計に煽る結果にしかならない。そう考えると、上手い言葉が出てこなくなってしまって。
「進一……!? だ、大丈夫……?」
「お、お兄さん……? 具合、悪いの……?」
「まさか『能力』が……! 進一君、私達の事、ちゃんと見えてる……?」
夢美やお燐、そして蓮子も心配そうに駆け寄ってくる。
ふるふると軽く頭を振るって顔をあげると、ああ、
「くそっ……。またか……」
「し、進一……!」
「いや、大丈夫だ姉さん……。俺は……」
さっきと比べたらだいぶマシ。そう口にしようとした進一だったが、直後にそんな彼の言葉は飲み込まれる事となる。
悪寒。殺気。不意にそんな感覚が進一の中を駆け抜けて、彼は思わず視線を逸らす。見据える先は大通りの奥。静寂に包まれた京都。人が全くいない以外は、普段通りの街並み。見慣れた風景であるはずなのに、静寂の所為か強烈な違和感を強く感じてしまう。何かが違う。何かが変だ。決定的な、何かがおかしい。
これは。
判らない。何も判らないはずなのに。
「来る……」
それなのに、自然と感じ取れてしまう。理解できないはずなのに、無意識の内に納得が出来てしまう。
「奴が、来る……」
「えっ……?」
直後。
街の奥。ゆらり、ゆらりと。こちらに歩み寄って来るような人影の姿を、進一は認識した。
黒。黒で塗り潰された影。日が沈み、街灯だって機能していないはずなのに。それでもはっきり視覚出来る、奇妙な様子の黒い影。音も立てず、ただ強い殺気だけを周囲に振りまいて。
その“影”は──。
「ッ!? まさか、あれって……!」
「っ!」
次に気が付いたのがメリー。息を呑み、鬼気迫る様子で彼女は声を上げる。
けれども、その次の瞬間。殆ど反射的といった様子で一歩前に出たお燐が、懐から一枚のカードを取り出していて。
「スペルカード……!」
そして彼女は宣言する。
「妖怪『火焔の車輪』ッ!」
展開される妖力による弾幕。けれどもそれは瞬時に軌道を大きく変え、一斉に黒い影へと向かって集中していく。
爆発。収束した弾幕はそれぞれ激しくぶつかり合い、誘爆を繰り返して周囲に炸裂音を轟かせる。静寂に支配された京都のど真ん中で、激しい閃光と共に白煙が周囲に立ち込めた。
激しい火力。お空の『メガフレア』程ではないが、それでも十分過ぎる程に──。
「今の……!」
「逃げて、みんなッ!」
蓮子が確認するよりも先に、被せるようにお燐が声を張り上げる。
「『死霊』……! やっぱり、一体だけじゃなかったんだ! このままじゃ……、ッ!?」
けれどもお燐の言葉は続かない。
立ち込める白煙。そこから放たれる鋭い殺気。ゆらり、ゆらりと。中から
『死霊』。弾幕の直撃をまともに許したはずなのに、丸っきり何のダメージも受けていないかの様子でソレは歩み寄って来る。
「このっ……!」
お燐は再び妖力を込め、その塊を『死霊』へとぶつける。外見は黒い影のようにしか見えないが、どうやらこれでも妖弾に関しては多少なりとも有効打と成り得るらしい。
一瞬だけ動きが止まる──が、そこまでだ。幾らお燐の妖弾を受けようとも、ソレはまるで歩みを止めず。
「やっぱり、この程度じゃ……。うぐっ!?」
お燐は一回り強い妖弾を放つ。それは『死霊』の頭部と思しき部分に直撃し、大きく体勢を崩す事に成功した。
──が、異変が生じたのはお燐の方だ。苦し気に顔を顰めて、蹲って。
「ごほっ、ごほっ! あ、ぐぅ……」
苦しそうに激しく咽返る。息を切らし、乱れた呼吸を繰り返す火車の少女は、どう見ても平常ではない様子で。
「はぁ、はぁ……! これ、ヤバイ……。まだ、妖力、が……」
「お燐ちゃん!」
駆け寄ったのは蓮子だ。過呼吸気味なお燐を介抱すべく、蓮子は彼女の肩を抱いて。
「……さっきのダメージが残ってるんでしょ? 無理しちゃダメよ」
「で、でも……」
「お燐ちゃんが囮になる必要なんてない。皆が無事じゃなきゃ、意味がないんだから……。教授っ!」
「ええ、判ってるわ!」
蓮子に呼ばれ、夢美も動く。
再び不調に見舞われる進一へと向き直り、夢美は彼の手を引いた。
「進一、走れる?」
「ああ……。別に、動けない程でもない……」
「そう……。なら、もうちょっとだけ頑張ってね……!」
進一は頷いて夢美に答える。
頭痛や眩暈は収まらないが、それでもこの程度なら何とかなりそうだ。逃げなければ、殺される。だったらこの程度の不調など、強引にでも捻じ伏せてしまえば良い。
根性論はあまり柄ではないが、それでもやっぱり今は根性だ。耐えて、身体に鞭を打って、少し無理をしてでも動くしかない。
「メリーも、準備は良い?」
「は、はい……。私は、いつでも……」
そして最後に、メリーへとそう確認した後に。
「よし……。走ってッ!」
夢美が口にした掛け声を合図に、進一達は一斉に走り出した。
不調の進一と怪我をしたお燐は、それぞれ夢美と蓮子に手を引かれるように。そして先頭を走る夢美と進一達の少し後ろを走るのがメリーだ。進一達のペースに合わせ、彼女は動いてくれている。
一先ずは、『死霊』が現れた道とは逆方向。見通しの良い大通りを、五人は固まって駆け抜けていく。
けれども、相手は『死霊』。生命ある者を殺す事だけを行動原理とする異形の存在。一目散に逃げ出した進一達を前にして、ヤツが黙っている訳がない。
そう。それは丁度、通りの十字路に差し掛かった時の事だ。
「っ!」
一際強い、肌を貫くような殺気。反射的に振り向くと、その正体ははっきりとした。
『死霊』。つい先ほどまでゆったりとした移動速度で迫ってきていたはずのソレが、急激に加速を始めたのである。ぐんぐんと上がっていくスピード。それに比例して強くなる殺気。このままではいけない。自分達の足の速さ程度では、あっという間に追いつかれる。
「まずい……! 避けろッ!」
「えっ……? きゃっ!」
思わず声を張り上げる。そして殆ど反射的に、迫る殺気を回避すべく進一達は飛び込むように真横へと倒れ込んだ。
進一と夢美は、進行方向から向かって右へ。そして残りの三人は左へ。飛び退いた彼らの間を駆け抜けるように、“呪い”を纏ったソレは一直線に突進してきた。
黒い。あまりにもどす黒い、妖力とも霊力とも違う超常的なナニカ。それが進一達の目の前で炸裂し、黒い霧状の何かが辺りに霧散する。
匂いはない。けれども強烈な“気味の悪さ”を感じ、進一は思わず腕で口元を覆う。そんな黒い霧の中には、変わらず『死霊』の姿が確認できる。標的を取り逃した黒い影は、ゆらりと立ち上がっていて。
「蓮子! みんなッ!」
進一は叫ぶ。『死霊』の強襲を回避した際、丁度彼女らとは分断されてしまったのだ。堪らず進一は身を乗り出しかけるが、けれども夢美に腕を引かれて制せられる。
「待ちなさい進一!」
「姉さん……! でも、蓮子達が……」
「今無理に飛び出すのは危険よ! 襲われたら、殺されるんでしょ……!?」
「…………ッ!」
霧を大きく迂回すれば、蓮子達と合流出来る。けれど下手に回り込もうとするのはリスクが高い。無理をすれば、『死霊』に狙われて終わりだ。それは判っているのだけれども。
「教授! こっちは三人とも無事です! だから今は逃げる事を最優先に……!」
「ええ! 取り合えず今は散開! 全速力で逃げるのよ!」
蓮子と夢美のやり取り。あちらも今の所は無事であるようだが、しかし──。
「さぁ、進一! こっち……!」
「くそっ……」
不安。嫌な予感。最悪の結末の想像。ネカティブな感情で、頭の中が支配されそうになる。
けれどそれでも、進一だって理解している。今は、どう行動すべきなのか。何を選択するのが最適なのか。故に彼は、断腸の想いで身を引く事しか出来ない。夢美に手を引かれ、この場から逃げ出す事しか出来ない──。
「みんな……」
苦し気に、そして悔し気に。進一は、そう口にして。
「無事でいてくれよ……」
『死霊』から逃れるべく、夢美と共に走り出した。
***
走った。死に物狂いで、出来る限りの全速力で進一達は走り続けた。
夢美も進一も、取り分け運動が得意という訳ではない。加えて進一に関しては、原因不明の体調不良。走る速度は必然的に遅くなり、体力だって無駄に多く消耗する。全速力は着実に減速が進み、このままでは『死霊』に追いつかれてしまうのも時間の問題だ。
「はぁ、はぁ……!」
呼吸が乱れる。動悸が激しくなる。それは夢美だって同様で、進一の手を引く彼女は既にだいぶ苦しそうな表情を浮かべている。それでも無理をして走り続けるのだけれども、はっきり言って限界が近い。
これではやがてジリ貧である。先ほどの『死霊』の移動速度を考えると、そろそろ追いつかれてもおかしくはない頃だろう。そして追いつかれたら最後、容赦なく殺される。そこに慈悲なんてものはない。ただただ機械的に、アレは人の生命を奪う。貧弱なこちらの世界の人間など、アレを相手にただ逃げる事しか道は残されていないのだ。
だから、走る。走って、走って、走り抜ける。
──と、その時。
「……っ。待ってくれ、姉さんっ」
手を引く姉へと声をかける。当の夢美は、やはりと言うか抗議の念を上げるのだけれども。
「な、なに……!? 今はお喋りよりも、逃げる事を優先しないと……!」
「違うんだ! 後ろをよく見てくれ……!」
「えっ……?」
語調を強めてそう主張すると、反射的に夢美は足を止めてくれる。彼女と揃って振り向くと、そこにあるのは静寂に包まれた京都の街並み。そう、
進一達をしつこく追い回していると思い込んでいたはずの『死霊』の姿が、どこにも見当たらない──。
「い、いない……? ひょっとして、逃げ切れたの……?」
逃げ切れた、なんて楽観的な結論を早々に下す事は出来ない。この場に『死霊』の姿がないという事は、即ち。
「蓮子達の方に行ったのかも知れない……」
「……ッ」
息を呑み込む夢美。彼女の事だ。そんな可能性なんて、とっくの昔に想像していてもおかしくはないだろう。それでもこんなリアクションを示したという事は、やはり夢美もいっぱいいっぱいだったという事だ。最悪の可能性から目を背けて、必死になって逃げだす事しか出来ぬ程に──。
『死霊』の強襲をギリギリの所で回避し、蓮子達と分断されてしまったのはあの通りの十字路。それぞれが逃げる事を最優先とし、我武者羅に街中を駆け抜けた結果、今や彼女達とは完全に迷子になってしまった。
少し考えれば判る事だ。何も考えず無闇に走り回れば、遅かれ早かれこういう状況に陥ってしまう。それでもあの時は、どうしようもなかった。冷静に最善策を考える余裕すらも、残されていなかったのだ。
「くっ……。せめて、あいつらに連絡を……」
スマートフォンを取り出し、蓮子にコールを飛ばしてみる。けれども受話口から聞こえてくるのは、無機質で冷たい電子音。電波が繋がっていない旨を伝えるメッセージのみ。
「繋がらない……?」
スマホへと視線を落とすと、画面左上には“圏外”の表示。こんな京都のど真ん中で、電波が通っていないなんて事など──。
「結界の影響が、まだ……? くそっ……!」
十中八九、霍青娥の仕業だろう。これじゃあ連絡を取り合う事すらも出来ない。
「やっぱり、繋がらないの……?」
「ああ……。圏外になっちまってる……」
「そう……」
流石の夢美も不安気な表情を浮かべている。
蓮子達だって、彼女にとっては大切な存在だ。そんな蓮子達が危険に身を晒されているのだとすれば、不安に思うなと言う方が無理な話である。進一だって夢美と同じ気持ちだ。
だとすれば。
「蓮子達と合流しよう。この場所だって安全だとは限らない。立ち止まる方が却って危険だ」
「そうね……」
頷き、夢美も同意してくれる。
蓮子達はおそらく、進一達とは真逆の方向に駆け出したはず。それなら今来た道を戻るしかない。幸いにも『死霊』の気配は感じられないが、だとすれば好都合だ。この隙に合流してしまえば良い。
「問題は、蓮子達の正確な位置が掴めないって事だけど……」
「ああ……。集合場所、決めておくべきだったな……」
来た道を戻れば合流出来るかも知れない。けれど逆に言えば、それ以上の情報がないという事である。スマホでの連絡手段も断たれた今、この広い京都の街中で彼女らと合流するのは些か難しい課題である。
「いや……。待てよ……」
そこで、気づく。
「そうだ、病院……。俺達の本来の目的地……! 蓮子達も、そこに向かってるんじゃないか?」
「……っ。確かに、そうかも……」
そう、その通りだ。
手掛かりが皆無という訳ではない。こうして迷子になってしまった場合、我らが秘封倶楽部のリーダーである宇佐見蓮子はどういった行動を取るか。彼女は大人しく救助を待つタイプの人物ではない。必ず、行動を起こす。
だとすれば、本来の目的地である病院に向かおうとしている可能性は高い。自分達もそこを目指せば、蓮子達と合流出来るかも知れない。
「そうと決まれば、尚更急ごう」
「ええ。どっちみち、あの病院に向かう為なら来た道を戻らなきゃならないし……」
身体が怠い。体調不良の所為か、それとも全力で走った所為か。或いはその両方かも知れない。
だが、休んでいる暇などない。戦う力を持っている妖夢達ならともかく、蓮子達は『死霊』に抵抗する手段を持っていない。お燐だって、あの状態ではまともに戦えないだろう。それは進一と夢美だって同じ事だけれども──それでも。
こんな所で、立ち止まる事なんて出来ない。放っておく事なんて出来ない。こんな自分達でも、何か出来る事があるかも知れない。だったら行動を起こすべきだ。
「進一、歩ける?」
「ああ……。そんなに心配しなくても大丈夫だ」
「そう……。それじゃあ、行きましょう」
夢美に先導されるような形で、進一は歩き出す。来た道を逆走して、本来の目的地であったあの病院へと。
──だけれども。その時だった。
「どこに行くつもりだ?」
「えっ……?」
不意に、進一達は声をかけられた。
人払いの結界の効力。ゴーストタウンと化した京都。人の気配なんて、まるっきり感じられなかったはずなのに。踵を返し、歩き出そうとした進一達の耳には、その場にいないはずの第三者の声が流れ込んで来た。
その場にいないはず。──いや、その表現は少しだけ間違っている。男勝りの口調。けれども声質は男性のそれではない。女性の──それも、聞き馴染みのある
進一と夢美は足を止め、そして揃って振り返る。一体、いつからそこにいたのだろう。どこから進一達の事を見ていたのだろう。進一達の視線の先には、小柄な体格の一人の女性。金色の瞳。そして金色の髪。どことなく、セーラー服を彷彿とさせるような服装。
「あんた達は、ここから動くな」
彼女はそう口にする。普段進一達に見せていた軽い印象の雰囲気ではない。重く、威圧さえも感じられる程に、鬼気迫る表情で。
蛇に睨まれた蛙のように、進一達は動けなくなる。あまりにも突然な出来事を前にして、一瞬だけ思考を停止してしまったのだ。愕然とするあまり、言葉を絞り出す事さえにも時間がかかってしまう。
「あ、あなたは……」
けれど。それでも、だとしても。
混乱してばかりではいられない。状況を瞬時に噛み砕き、すぐにでも受け入れなければならない。だって──だって、彼女が、彼女こそが。
「ちゆり、さん……?」
震える夢美に続くような形で、進一はその名を口にする。
突如として進一達の前に現れた彼女──北白河ちゆり、その人に向かって。