桜花妖々録   作:秋風とも

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第93話「パラダイム・シフト#1」

 

 現実の崩壊。幻想の終幕。

 その始まりは、きっと誰にも予想なんて出来やしない。それはいつだって理不尽で。こちらの都合なんて、まるで考慮もしていなくて。何が何だか理解も出来ぬ内に、世界は大きく変革する。常識だと信じ続けていた現実は、気づいた時には既に覆っている。悠久に続くかのように思える幻想も、その終焉はある日突然訪れる。

 けれども仕方のない事だ。幾ら文句を言おうとも、例え泥臭く抗おうとも。結局、結果は何も変わらない。抗う事なんて出来やしない。

 

 だって、もうどうしようもないじゃないか。

 ()()()()は、既に諦める他にないのだから。

 

 

 ***

 

 

「……ッ!?」

 

 それはあまりにも唐突だった。

 何かが起きている。けれども、“何が”起きているのかは分からない。突然空気が重くなり、呼吸さえもままならなくなって。耳鳴りと共に目頭が熱くなり、劈くような鋭い頭痛が響き渡って。心臓が激しく脈動し、身体中の血液が沸騰するかのような感覚に襲われる。

 

(なっ、に……!?)

 

 ぐらりと、進一の視界が揺れる。吐き気にも似た嫌悪感が込み上げ、伸し掛かるような気怠さに突然襲われて。何も成す術がないまま、彼は一方的に崩れ落ちた。

 

「えっ……?」

「進一君っ!?」

「────っ」

 

 異常に気付いた蓮子とメリーが、真っ先に駆け寄って来る。片膝をついた進一は、思わず口元を抑えて蹲ってしまった。

 一体、何が起きている? この感覚、例えば風邪などの体調不良とは違う。もっと異常。もっと非常識的。まるで何かと共鳴するかのように、あまりにも唐突に──。

 

「し、進一! その目……!」

「っ……!」

 

 夢美の声。反射的に顔を上げると、彼は更なる異常性に気が付いた。

 真っ先に目に入るのは、夢美と蓮子とメリーの三人。そしてその奥に妖夢を含む幻想郷の住民。けれどそれだけじゃない。それ以上に、()()が見えている。

 灯火にも似た、ゆらゆらと揺らめく何か。それが夢美達の中に、一人一つずつ。これは。

 

「なんで、『能力』が……」

「……っ。制御できていない……? 暴発しているの……!?」

 

 蹲った進一の肩を、夢美が支えてくれる。そして酷く狼狽した様子で、彼女は必死に声を投げかけてきた。

 

「と、とにかく落ち着くのよ! 目を瞑って、ゆっくりと深呼吸して……!」

「あ、ああ……」

 

 そうは言われても、この状態では深呼吸すらもままならない。息を大きく吸い込もうとすればするほど、余計に息苦しくなってゆくような気がするのである。

 分からない。これは一体何だ? こんな風に突然『能力』が暴発するなんて、今までだって一度もなかったはずだ。勝手に見えてしまう事はあっても、ここまで酷くは──。

 

「きょ、教授! あれ……!」

「えっ?」

 

 蓮子の声。彼女は何やら慌てた様子で、仕切りにどこかを指差している。

 おもむろに視線を向ける。彼女が示す先。そこにいたのは。

 

「なっ……」

 

 黒。

 黒い、影。そうとしか形容できぬ異形の存在が、散乱した瓦礫の上に佇んでいる。

 ぼんやりと、儚さも覚える程に不安定な影。けれどこの遠目からでも、人のような形をしている事だけは分かる。

 黒い人影。得体の知れぬ存在。けれどどこかで、覚えがある。

 

「ど、どうして……」

 

 震える声。その主は妖夢だ。

 有り得ない。信じられない。そう言いたげな面持ちで、妖夢はあの影を見つめている。ゆらゆらと蠢く黒。今にも消えてしまいそうな影。けれども何かがおかしい。儚さを感じ取る事ができるのに、それと同時に底が知れぬ不安感が胸中から溢れ出てくる。

 

「どうして、アレがこっちの世界に……!?」

 

 アレ? アレと言ったか、彼女は。

 不思議と脳裏に投影される。それは東京旅行に行った際、最後の最後に目の当たりにしたとあるレポート。古臭いノートパソコンの中に保存されていた、とあるテキストファイルの内容。

 

―――――

ヒフウレポート4

予定通り、あの異世界にオカルトボールを幾つか放った。私が流した噂話の効果もあり、早速住民達の間でオカルトボール争奪戦が始まっているようである。ここまでは計画通り。

しかし、一つ気になる事がある。私が異世界に侵入した際にいきなり襲いかかってきたあの黒い人影。あれはなんだったのだろうか? 幽霊や妖怪の類だとは思うのだが、その正体は全くの不明である。今回は辛くも逃げ切る事が出来たものの、依然として細心の注意を払う必要がある。

―――――

 

(黒……)

 

―――――

ヒフウレポート7

嬉しい誤算が起きた。一度あちらの世界に送り込んだオカルトボールを回収して調べた所、あちらの世界特有の霊気を浴びた事によりその効力が変化しているようなのだ。これを上手く使えばあちらの世界との自由な往来も可能になるかも知れない。試してみる価値はある。

また、オカルトボールを回収した際にあの黒い人影を再び見かけた。今回は襲われなかった(見つからなかった?)が、あれは本当に何なのだろうか。

―――――

 

(黒い、人影……?)

 

 ヒフウレポート8。

 

(死……)

 

 死んだ。

 

(人が……)

 

 目の前で、人が死んだ。

 

(アレは、やばい……)

 

 アレは危険。

 

(アレに、捕まったら……)

 

 殺される。

 

 

「爆符『メガフレア』ッ!!」

 

 直後。凄まじい爆発が、辺り一面に轟いた。

 一瞬だけ駆け抜ける青白い閃光。直後に響き渡る爆音。咄嗟に確認できたのは、霊烏路空の姿だ。あの黒い影と進一達との間に割って入るように飛び出した彼女は、強大な火球をあの影に向けて放っていた。

 凄まじい高出力。夢美のルミネセンス等とは次元が違う。あまりの衝撃に思わず顔を背け、そして反射的に耳を覆ってしまう。地鳴りまでもが周囲に響く。

 

「きゃっ……!」

「くっ……!?」

 

 近くにいた夢美と共に、進一は吹き飛ばされそうになる。強く力んで耐えようとするが、先程の不調の所為で上手く力が入らない。そのまま仰向けに倒れそうになるが、既の所で誰かに支えられて事なきを得た。

 

「夢美さん! 進一さんッ!」

「……っ!?」

 

 声が聞こえる。誰かが、夢美と共に進一の事を助けてくれている。

 足元がふらつく。おまけに鋭い頭痛と嫌悪感も未だ拭いされないが、それでも進一は強引に立ち上がって顔を上げる。真っ先に目に入ったのは大人の姿の妖夢だ。鬼気迫る表情を浮かべて、彼女は突然の不調に見舞われた進一の肩を支えてくれていて。

 

「大丈夫ですか? どこか、具合が……?」

「……ッ。ああ、いや……」

「……ごめんなさい。でも、今は一刻の猶予もないんです……! 早くここから離れないと……!」

 

 妖夢の表情から伝わってくるのは激しい狼狽だ。冷静な印象は殆ど欠落し、切羽詰まった様子で必死になって訴えている。明らかに、只事ではない。

 

「お空、今のって……!」

「下がっててくださいこいし様! 多分、これじゃ仕留め切れてない……!」

「どうしてアレが……! ()()にはまだ余裕があったんじゃなかったの!?」

 

 お空とこいし、そしてお燐も揃って狼狽を露わにしている。そんな馬鹿な、有り得ないとでも言いたげな様子で、誰もが冷静さを失い始めている。

 ──何だ。一体全体、何なのだ。何が起きていると言うのだ。

 

「何なの……? あの黒い影の事、妖夢達は何か知ってるの……!?」

「……ええ。でも」

 

 夢美の問いかけに対し、けれど妖夢は多くを答えない。剣を抜き、一歩前に出て。

 

「詳しい説明をしている暇はありません。蓮子さん達と一緒に、貴方達四人は今すぐここから逃げてください」

「私達四人は、って……!」

 

 反応を示したのはメリーだ。彼女もまた、あまりにも突然過ぎる状況の変化について来れてない様子で。

 

「何が起きてるの……!? 妖夢ちゃん達は、一体何をしようとして……!」

「ですから……! 説明している暇はないですッ!!」

「ッ!?」

 

 怒号にも似た声。あまりにも必死な様子の魂魄妖夢によって、メリーの疑問は掻き消されてしまう。

 

「皆さんは今すぐ逃げて下さい! ここから出来るだけ遠くに! さもないと……!」

 

 恐慌。

 妖夢は表情に、そんな感情を滲ませていて。

 

「殺されます……。アレは、そういった存在なんですッ……!」

「……っ」

 

 メリーは息を呑み込んでいる。妖夢の剣幕を前にして、思わず言葉が詰まってしまっているようだ。

 殺される。冗談を言っている訳ではない。妖夢の剣幕は最早異常だ。極限状態まで追い込まれた今の彼女には、自分が狼狽している事に気付けるだけの余裕さえも残されていない。

 只事ではない。それは、火を見るよりも明らかで。

 

「……分かったわ。今は妖夢の指示に従った方がよさそうね……」

「夢美さん……?」

 

 冷静に結論付けたのは夢美だ。慌てふためく妖夢とは対照的に、彼女は幾分か落ち着きを取り戻しているように思える。そんな様子の夢美に対し、メリーはやや納得出来ていない様子だったが──。

 

「私も教授の意見に賛成かな。ここに残っても足手纏いにしかならなそうだし……」

「蓮子……。でも……」

「メリーの気持ちも分かるわ。それじゃまるで、妖夢ちゃん達を囮にして私達だけ助かろうとしているみたい。……だけど」

「それだと却って、俺達という存在が邪魔になる……」

 

 蓮子に続くような形で、進一は言葉を紡ぐ。

 

「俺達の護衛と、あの黒い影への対処。その二つを両立しようとすれば、必ずどちからが疎かになる……。今の俺達じゃ、妖夢達の負担にしかならない……」

「……うん。進一君の言う通りだと思う……」

 

 頷きつつも、蓮子は進一の言葉に賛同した。

 確かに、メリーの気持ちは痛いくらいに分かる。出来る事ならば、進一だって妖夢達の力になりたい。けれども──ダメだ。今の自分達では、妖夢の力になるどころか。

 

「足を引っ張る事しかできない、って事なの……」

 

 弱々しい声調のメリー。けれどそれでも、彼女は無理矢理納得してくれたらしい。それ以上、蓮子や夢美の意見に異を唱える事はなかった。

 進一達四人の意見が一致したのを見て、妖夢はほんの少しだけ安堵の表情を浮かべる。しかしそんな表情にも、次の瞬間には再び焦燥が色濃く表れてしまっていた。

 

 剣を右手に携えたまま、妖夢は進一達から視線を外す。見据える先は、お空が放った『メガフレア』による爆炎。──厳密に言えば、その先にいるであろうあの黒い影。

 

「あたいも夢美達についていくよ」

 

 そう声をかけてきたのはお燐だ。

 彼女もまた、妖夢と同じくその表情に動揺が色濃く表れている。けれどそれでも、彼女は何とか平静を保とうとしている様子で。

 

「アレが一体だけとは限らない。だったら少しでも戦える人が一緒にいた方がいいでしょ? 皆の事はあたいが安全な所まで連れて行く」

「良いんですか? こいしさんの事は……」

「……こいし様なら、大丈夫。お空と一緒だし、『無意識を操る程度の能力』ならある程度攪乱する事もできるから……。それに、夢美達の事だって心配なんだ。放っておく事なんて出来ない」

 

 短いやり取り。真剣そのものなお燐の表情。それだけで、妖夢は彼女の気持ちを汲み取ったらしい。

 小さく頷き、そして妖夢は改めて爆炎へと向き直る。

 

「判りました。……進一さん達の事、頼みます」

「……うん」

 

 頷くと、お燐は進一達のもとへと駆け寄ってくる。そして、進一達を先導するように前に出ると。

 

「さぁ、行こう! 追いつかれる前に逃げるんだ!」

 

 お燐の言葉が、やけに脳裏へと響く。そんな言葉に触発されるように、進一達はお燐に続いて駆け出した。

 チラリと後ろを振り返る。目に入るのは妖夢の姿。右手に剣を携えて、爆炎の先を睥睨して。けれどもそんな彼女の呟きが、最後の最後に進一の耳へと届く。

 

「……お願いです、皆さん」

 

 それはまるで、懇願するかのように。縹緲とした希望に、必死になって縋り付くかのように。

 妖夢は消え入るように、言葉を零した。

 

「生きて下さい。こんな理不尽、貴方達に背負わせたくない……」

 

 

 ***

 

 

 それからどうなったのかは、正直あまり覚えていない。

 極まった混乱。納得の出来ない感情。とにかく頭の中はぐちゃぐちゃで、状況を整理する暇もなくて。ただ、妖夢とお燐の指示に従って、蓮子達と共に逃げるしかなった。

 身体の不調は未だに収まらない。視界はボヤけ、そして呼吸が乱れて整わない。けれどそれでも、進一は走った。ふらつきつつも、精一杯のスピードで走り続けた。妖夢が必死になって訴えていた通り、あの場から出来る限り離れる為に──。

 

「はぁ、はぁ……!」

 

 苦しい。この奇妙な不調の所為だ。

 呼吸がままならない。いつも以上に、体力の消費が激しい気がする。やはり『能力』が暴発し続けている所為であろう。肉体的にも、精神的にも、暴発した『能力』に体力の半数が持っていかれてしまっている。こんな感覚初めてだ。自分は一体、どうなってしまったのだろう。

 

(く、そ……!)

 

 遂には足を止めてしまう。身体が勝手に悲鳴を上げて、これ以上は限界だ。激しく乱れた呼吸のままで、進一は両手を膝につく。

 

「進一!?」

 

 真っ先に駆け寄ってきたのは夢美だ。酷く悲痛な面持ちで、彼女は進一の表情を覗き込んでくる。そんな夢美から伝わってくるのは、不安や恐れ。岡崎進一に対する、大きな憂慮。

 

「大丈夫……? まだ苦しいの……?」

「はぁ、はぁ……。あぁ、いや……」

 

 反射的に首を横に振りかけるが、蓮子やメリーの姿も目に入って思わず進一は動きを止める。彼女ら二人も、浮かべるのは夢美と同じくらいに悲痛な表情である。彼女達もまた、進一の事を心配してくれている。苦しむ進一の姿を目の当たりにして、不安感を抱いてしまっている。

 

「そう、だな……。すまない……。ちょっと、ヤバそうだ……」

 

 これ以上下手に意地を張ると、却って夢美達の不安を煽る事になる。そう判断した進一は、自らの不調を正直に告白した。

 流石に体力が限界だ。動悸が荒く、呼吸も激しく乱れている。これ以上全力で走ろうものなら、下手をすればぶっ倒れてしまうのではないだろうか。

 

「この辺りで一先ず休憩しようか。取り合えず、今の所は安全みたいだし……」

 

 先導していたお燐がそう提案してくる。

 否定する理由もない。一先ず危機から回避できたというのなら、これ以上無駄に体力を消耗する必要もないだろう。それに、一端状況の整理も行いたい。このまま訳も分からぬままに逃げ続けるなんて、精神衛生上よろしくない。

 進一も含め、誰もお燐の提案に異を唱える事もない。少しの間だけ、休息を取る事になった。

 

 丁度近くにあったカフェのテラス席へと腰をかける。人払いの結界は未だに効力を持続しているようで、相も変わらず京都には人っ子一人の姿も確認できない。それはこのカフェだって例外ではなく、耳が痛くなるくらいの静けさが辺りを支配していた。

 勝手にテラス席を使ってしまう事に対して若干の後ろめたさは感じるものの、今は非常事態だ。流石に文句を言う者もいないだろう。

 

「お兄さん、大丈夫?」

 

 お燐がそう尋ねてくる。

 未だ不調は継続中だ。大丈夫か大丈夫じゃないかと聞かれれば、今の進一は後者に当たる。けれどこうして座ってる分には幾分かマシである。心なしか、暴発した『能力』も少し落ち着いてきたようにも思える。

 

「ああ……。少し休めば、多少はマシになりそうだ……」

「本当? あんまり無理はしない方がいいと思うけど……」

「……いや、というかお燐。お前の方こそ、大丈夫なのか……?」

「え?」

 

 ちょっぴり驚いた様子のお燐。まさかそんな返答が返ってくるとは思わなかったのだろうか。

 進一は改めて今のお燐の様子を確認する。あまりにも目まぐるしく状況が変わり過ぎて中々触れる事が出来なかったが、彼女の()()だって中々どうして見るも無残だ。

 

「お前……。怪我、してるんじゃないのか……? 身体のあちこちが、ボロボロじゃないか……」

「あー……」

 

 指摘すると、若干バツが悪そうな様子でお燐がそう反応を示す。

 彼女が普段から身に纏っている黒いゴスロリ服は既にあちこちがボロボロで、露出した肌には焼け爛れたような跡も確認できる。怪我──どころか、普通に大怪我ではないだろうか。進一とメリーが離れている間に、一体何があったのだろう。

 

「そ、そんなにジロジロ見ないでよ……。流石に、恥ずかしいんだけど……」

「あぁ、いや、すまん。だが……」

「そうよ、お燐ちゃん。お燐ちゃんこそ、あんまり無理はしない方がいいんじゃないの……?」

 

 割って入ってきたのはメリーだ。

 心配そうな、けれどもどこか不服そうな眼差しをお燐へと向けている。そんな視線を向けられて、お燐がますますバツの悪そうな雰囲気を醸し出し始める。どうにも何かを遠慮している、とでも表現できようか。

 

「……そんなに心配しなくても大丈夫だよ。確かに、さっきちょっと無茶しちゃって……。それで今は、こんな状態だけど……。でも、動けないって程でもないし」

「でも……」

「……本当に、大丈夫。もう無茶はしない。さっき、夢美にも叱られちゃったし……」

 

 心配性なメリーはかなり気にしているようだけれど、しかし当のお燐はその場凌ぎで適当な事を言っている訳ではなさそうだ。彼女の浮かべる表情は、軽めの口調とは裏腹にどこか深みがあるように思える。

 何があったのかは分からないが──。それでも、一度進一達と別れる前と後とで彼女の心境に変化が訪れた事は確実である。そんな彼女が大丈夫だと言うのなら、その意思を尊重してあげるべきだ。

 

「……それなら、休憩ついでに色々と状況を整理しましょうか」

 

 夢美がそう提案してくる。

 異論はない。寧ろこちらからお願いしたいくらいだ。この短時間で色々な事が起き過ぎて、流石の進一でも軽くパニックである。今は少しでも情報が欲しい。

 

「まずは、お燐。説明してくれる? あの黒い影は、一体なんなの……?」

「うん……。まぁ、やっぱり、それ気になっちゃうよね……」

 

 この場にいる誰もが真っ先に疑問に思った事。それを代弁して夢美がお燐にぶつける。

 お燐の反応は少々躊躇いがちなものだ。何かに迷っているようにも見受けられる。下手に話すとまずい事でもあるのだろうか。

 

「話しにくい事なの?」

「あ、いや、その……。ううん、そうだよね。皆も、もう関わっちゃってるんだよね……」

 

 蓮子が尋ねてもやはり躊躇いがちな様子のお燐だったが、しかしすぐに表情を引き締める。意を決したように頷いて、短く深呼吸をして。

 そして彼女はと向き直る。いつになく真剣な表情。真っ直ぐな眼差して進一達を見据えつつ、彼女は言葉を紡いだ。

 

「あの黒い影……。『死霊』って、あたい達は呼んでる」

「……死霊?」

 

 思わず進一はオウム返しする。丸っきり知らない単語が出てくると思ったら、意外にも聞いた事のある言葉で驚いた。

 死霊。けれども流石に、アレが言葉通りの存在であるという事はないだろう。それなら妖夢があそこまで取り乱した事への説明がつかない。だとすれば。

 

「……一応聞くが、単なる幽霊とか亡霊とは違うんだよな?」

「うん……。多分……」

「……多分? 詳しくは判らないって事……?」

「それは……。うん、そうだね……。アレがどういった存在で、一体何を成そうとしているのか……。多分、あたいなんかじゃ理解なんてできないと思う」

 

 夢美の確認の対して、お燐は曖昧気味にそう答える。

 その表情から読み取れるのは困惑気味な感情だ。彼女本人さえも状況が上手く呑み込めず、現実として受け止め切れていないように思える。

 ただ、どこか苦し気に。

 火焔猫燐は、慎重に言葉を選んでいる様子で。

 

「死を運ぶ霊だから、『死霊』なんだよ。人間だろうが妖怪だろうが関係なく、アレは生命を持つ者に襲い掛かる。……無差別にね」

「生命を、持つ者……。そして、アレに捕まったら……」

「……殺されるよ。慈悲なんてない。ただ一方的に、アレはあたい達の生命を奪う……」

 

 進一の呟きに続くような形で、お燐はそう告げる。

 捕まったら殺される。やはり、ヒフウレポートに書かれていた通りの情報だ。宇佐見菫子なる人物が見かけたという黒い人影というのが、お燐の言う『死霊』と同一の存在であると見て間違いないだろう。

 しかし、解せない。過去の幻想郷から迷い込んだ子供の妖夢は、ヒフウレポートに記載されていた黒い人影についてそれほど強い反応を示していなかった。あの様子から察するに、少なくとも八十年前の幻想郷では『死霊』は存在していないという事なのだろうか。

 

「殺されるって……。どういう事なの? どうして、そんな……」

「言葉通りの意味だよ。『死霊』の行動原理は、生命あるものを殺す事。アレは、“死”という概念そのものなんだ。……そこに理由なんて求めたって、無駄なんだよ」

 

 震えた口調のメリーに対し、お燐は答える。

 苦虫を嚙み潰したような表情。無論、それはメリーに向けられたものではない。彼女から感じ取れるのは、そう、一種の不甲斐なさだ。もっと上手くやれたはず。もっと良い方法があったはず。それなのに、結局はそんな可能性を掴み取る事が出来なかった。力及ばず、最悪な結末に辿り着かざるを得なかった。

 そんな、あまりにも情けない自分自身に対する、一種の苛立ち──。

 

「お燐……」

 

 何があったのか、なんて態々尋ねるのは野暮なような気がした。

 大凡の想像はつく。きっとこの時代の幻想郷は、あの『死霊』なる存在によって大変な事になっている。この八十年の間に起きた何らかの“原因”により、今の幻想郷は大きな変貌を遂げてしまっているのだろう。

 そして火焔猫燐という少女もまた、『死霊』という存在の被害を受けている。『死霊』の持つ危険性を、間近で認識してしまっている。それ故にこそ、こんな表情を浮かべているのだろう。

 

 鬼気迫るような表情。不甲斐なさげな雰囲気──。

 

(『死霊』、か……)

 

 『死霊』。死を運ぶ霊。“死”という概念そのもの。

 アレは生命を奪う。それは相手が人間だろうが、妖怪だろうが関係ない。そこに“生命”がある限り、アレはユスリカのように集まってくる。

 そういう存在だ。頭であれこれ考えたって、その本質を理解する事なんて出来やしない。分かり合う事なんて出来る訳がない。

 

 だって──。

 

(うん……?)

 

 そこまで考え、進一は気付く。

 

 ()()()()()()()

 お燐から、今まさに初めて聞いた『死霊』という異形の存在。それはあまりにも唐突で、そしてあまりにも突拍子もない情報であったはずなのに。

 でも、何故だろう。今現在の進一の胸中は、自分でも驚くほどに冷静だ。普通、こんな話をいきなり聞かされたとしても、瞬時に納得なんて出来る訳がないはずなのに。

 

 けれども自分は、何故だか()()()()()()()()()()

 そういうものなのだと、簡単に受け入れてしまっている──。

 

「『死霊』……。ひょっとして、進一君の具合が悪くなったのと何か関係しているの……?」

 

 不意に、蓮子がそんな事を口にする。

 人差し指の背を顎に添え、彼女が何かを考え込むかのような表情を浮かべる。自信はない。はっきりとした確証がある訳でもない。けれどもどこか、納得は出来ている様子で。

 

「進一君が蹲ったのと、あの黒い人影が現れたのって、ほぼ同じタイミングだったと思う。まるで、『死霊』の出現に呼応するみたいに、進一君の『能力』は暴発した……。まったくの無関係とは思えないけど……」

 

 確かにそうだ。蓮子の言っている事は的を射ているように思える。

 進一の『能力』が暴発したタイミングと、突如として『死霊』が現れたタイミング。それは殆ど一致しているのである。だったら何らかの関係があるのではないかと、そう結論付けるのは必ずしも早計ではないように感じる。

 

 関係が、あるのだろうか。

 少なくとも、進一の方には心当たりなどないが──。

 

「お燐。あなたは何か判る……?」

「え、えっと……。ごめん……。その点については、あたいもよく判らなくて……。『死霊』の出現に呼応して、『能力』が暴発するなんて……」

 

 夢美がお燐に確認を取るが、返ってくるのは不安気な様子。前例のない事態を前にして、動揺が隠し切れないようだ。

 『死霊』という存在と、岡崎進一の持つ『能力』。その二つの間には、何らかの関連性が存在しているのだろうか。

 

「進一の『眼』は“生命”を視る事が出来るから、そこに何か関係があるのかしら……? いや、でも……。“死”と“生命”じゃ、あまりにも対極に位置しているし……」

 

 ボソボソと何かを呟きつつも、夢美は考え込んでいる。

 その表情は、いつも以上に真剣そのものだ。時折り見せるどこか抜けたような様子なんて、今は微塵も感じられない。

 例えるならば──そう。まるで、“昔”に戻ってしまったかのような──。

 

「ひょっとして、ちゆりなら何か……」

「…………ッ」

 

 ちゆり。夢美のそんな呟きが耳に入ってきて、進一は思わず身を乗り出しそうになる。

 聞き逃す訳がない。『死霊』の所為で完全に訊くタイミングを失っていたが、それでも心の隅ではずっと気になり続けていた事だ。

 子供の姿の妖夢と別れて、皆と合流して。しかしそんなタイミングで明かされた、あまりにも信じがたい事実。

 

「姉さん、教えてくれ。何か知ってるんだろ……?」

「えっ……?」

 

 不意に声をかけられて、若干困惑気味の夢美。それでも構わず、進一は続ける。

 

「ちゆりさんはどうなったんだ……? 一体、今はどこにいるんだ……?」

「それは……」

「……蓮子。お前も言ってただろ? こいしを誘拐したのは、ちゆりさんだって。何が起きてるんだ?」

「…………っ」

 

 言葉を呑み込む夢美。息を詰まらせる蓮子。

 この反応。蓮子の事情に関しては先ほど話を聞いたものの、夢美に関してはまだ詳しく聞けていない。彼女はこれまで話題をちゆり関連のものから露骨に逸らし続け、そして蓮子の話を聞いた際も他の皆とは違う反応を示していたのだ。ここまで分かりやすい様子を見せられては、何かあると思わない方が不自然である。

 

 きっと、夢美は何かを知っている。北白河ちゆりという女性の事を。

 

「そうだ……そうだよ! どうしてちゆりがそんな事を……!? こいし様を誘拐するなんて、そんなの……!」

 

 興奮気味に身を乗り出したのはお燐だ。『死霊』を前にした時とはまた別のベクトルで、激しく動揺を露わにしているように思える。

 

「もしも……。もしもそれが事実なのだとしたら、ちゆりは……!」

 

 必死。予想だにしないお燐の反応を前にして、夢美は若干面食らっている様子だった。

 あまりにも意外だ。ちゆりともそれなりに深い関りを持つメリーが動揺を露わにするのなら判るけれど、しかしお燐はそこまで深い関りは持っていなかったように思える。にも関わらず、この反応は一体──。

 

「……ッ」

 

 夢美は押し黙っている。何かを躊躇っているかのように、その表情を曇らせている。

 進一には判る。夢美の表情を見ただけで、彼女の悲痛は十二分に伝わってくる。姉弟だからこそ、だろうか。きっと夢美は苦しんでいる。どんなに平静を保とうとしても、その心は今も尚ギリギリのバランスで揺れ動いている。少しでも揺さぶられれば、簡単に瓦解してしまう。それが判ってしまうから。

 

「姉さん……」

「……ええ。うん、大丈夫。大丈夫、だから……」

 

 一時の静寂。けれどそれでも、岡崎夢美は意を決する。

 そして彼女は、言葉を紡いだ。

 

「多分……。あの子は今、霍青娥と一緒にいると思う。随分前から、協力関係にあったみたいだし……」

 

 霍青娥。協力関係。その言葉は、静寂が支配していた進一達の間に嫌でも強く響いた。

 「やっぱり……」と、そう小さく呟いたのは蓮子だ。彼女は既に、ちゆりがこいしを連れ去った現場を目撃している。既に随分前から、この可能性は察していたという事なのだろう。

 そしてメリーとお燐に関しては、驚きのあまり言葉を発する事も出来なくなってしまっている。その事実を、瞬時に受け入れる事が出来ていないのだ。──無理もない反応である。

 

「そんな……。どうして……」

 

 そう小さく漏らしたのはメリーだ。

 信じられない。嘘であって欲しい。そんな切望を表情に滲ませて、彼女は一歩前に出る。

 

「だ、だって……。妖夢ちゃんを過去から連れ去ってきたのって、その霍青娥って人なんですよね……? でも、ちゆりさんは、妖夢ちゃんを幻想郷に帰す為に手助けをしてくれて……」

「……手助けなんてしてないわ。寧ろ、ずっと妨害していたのよ。……私が、幻想郷に関する手掛かりを見つけられないようにね」

「そ、そんな……」

 

 項垂れるメリー。そんな彼女が浮かべるのは、混乱だとか、悲しみだとか、様々な感情が入り混じった表情である。

 北白河ちゆりは霍青娥と随分前から繋がっていた。にも関わらず、そんな事実などおくびにも出さずにこれまでずっと進一達と共にいた。それが意味する事は、即ち。

 

「ちゆりさんは……。ずっと、俺達を騙していたのか……?」

 

 進一の口から思わずそんな言葉が漏れる。その呟きを最後に、皆は押し黙ってしまった。

 嫌な静寂が辺りを支配する。きゅっと、胸の奥が締め付けられるようなこの感覚。心の底から溢れ出てくる感情は、怒りや悲しみ等よりも疑問の方がずっと強い。

 どうして。何故なんだ。何故ちゆりはずっと黙っていた? どうして進一達を騙すような真似をした? これまで進一達に見せていた表情も、想いも、全部まやかしだったとでも言うのだろうか。

 

「ちゆり……」

 

 呟き。それを零したのは火焔猫燐だ。

 震える瞳。俯いた彼女から伝わってくるのは、激しい動揺。この短時間で様々な事がいっぺんに起き過ぎて、お燐も状況の整理が間に合っていないのだろう。冷静さなんて、保てる訳がない。

 

「なぁ、お燐。どうして、お前はそこまでちゆりさんに肩入れするんだ?」

 

 気になった事を尋ねてみる。

 彼女はピクリと反応を見せる。あまり聞かれたくはなかったのだと、そんな想いがお燐から伝わってくる。けれども、進一は訊かなければならない。蔑ろになんて出来る訳がない。

 だって進一にとって、ちゆりもお燐も今や大切な存在なのだ。そんな彼女らが重荷を抱えているのだと言うのなら、知らんぷりなんて出来る訳がなかった。

 

「……教えてくれないか、お燐」

 

 お燐は視線をこちらへは向けてくれない。視線を逸らしたままの彼女から伝わってくるのは、大きな躊躇い。一瞬何かを言い掛けるのだけれど、しかしすぐに口をつぐんでしまう。誤魔化し通したいという想いと、伝えなければならないという責務。そんな二つの感情が、彼女の中でせめぎ合っているようで。

 

「……あたいは」

 

 だけれども、最終的には決意を固める。

 顔を上げ、そして恐る恐るといった様子で。

 

「あたいは……さ。ちゆりのこと、あれこれと言える立場じゃないんだよ」

 

 どこか、自嘲気味な様子で。

 

「あたいも皆の事を騙してた。本当は火車っていう妖怪で、紛れもなく幻想郷の住民で。そんな正体を隠して、あたいはお兄さんや夢美達に近づいてた……」

 

 表情に滲ませるのは憂い。そして大きな、罪悪感。

 

「妖夢の事が心配だったんだ。でも、今の幻想郷の状態を皆に知られる訳にはいかなくて……。だから、こうするしかなかった。幻想郷の事を知られずに、尚且つ皆と一緒にいた妖夢の力になる為には、こうするのが一番手っ取り早かったんだよ」

 

 苦し気な様子で、お燐はそう語る。

 彼女の気持ちは、何となく判る気がする。『死霊』について進一達に説明しようとしてくれた時も、彼女はどこか躊躇っているような様子を見せていた。彼女のこれまでの言動から察するに、その理由は外の世界の住民である進一達を幻想郷の問題に巻き込みたくなかったからに他ならない。

 でも、彼女は妖夢の事も心配で。大切な友人を、放っておく事が出来なくて。だからこのような形で、進一達に近づく事にした。

 

 罪悪感を、感じ続けていたのだろう。

 彼女は見るからに生真面目で、且つ嘘や誤魔化しが苦手なタイプの少女だ。それでも、こうするしかなかった。最善の形で妖夢の手助けをする為には、こうするしか──。

 

「だけど、隠し通せなかった。あたいのちょっとしたミスで、ちゆりに正体がバレちゃって……。あの時は、もう終わったーって思ったよ」

 

 物悲し気な様子のままで、お燐は続ける。

 

「でもね。そんなあたいを、ちゆりは匿ってくれたんだ。何も聞かずに、あたいの意思を尊重してくれた……」

 

 渇いた笑みを浮かべて、彼女は語る。

 

「あたいの事を信じてくれて、あたいの事を助けてくれて……。あたいの為に、あたいの嘘に付き合ってくれた。……それが、嬉しかったんだ」

 

 けれども彼女は、「あぁ……。でも……」と、

 

「青娥と繋がっていたのなら、()()()()()だったのかな……。あの時の言葉も、想いも、全部……」

 

 ──成る程。そういう事だったのかと、進一は納得した。

 お燐がちゆりに肩入れする理由。それは至って単純な話。進一達の知らない所で、彼女達は深い関りを持っていたというだけの事だ。

 たった一人で進一達を欺き続けていた火焔猫燐は、北白河ちゆりによって助けられた。ちゆりがくれた優しさのお陰で、確かに彼女は救われていたのだ。

 

 けれども。

 そんな優しささえも、ちゆりにとっては体のいい手段の一つに過ぎなかったのかも知れない。お燐が信じた彼女の姿は、全部、何もかもが嘘だったのかも知れない。

 そんな事実を突きつけられて、平静を保てる訳がない。心が乱れない訳がない──。

 

「お燐……。お前……」

 

 ある意味、今回の件で最も大きなダメージを負っているのは、他でもないお燐かも知れない。肉体的にも、精神的にも、彼女は既に満身創痍だ。

 少し、彼女は頑張り過ぎたのかも知れない。重荷を背負う事になって、でも立場上進一達に相談する訳にもいかなくて。それでも彼女は、苦手な嘘をつき続けた。妖夢の事が心配で、妖夢の力になりたかったから。そんな想いが、彼女をここまで追い込んでしまった。

 

 自分もちゆりの事をあれこれと言える立場じゃない。だって、自分だって皆に嘘をつき続けていたのだから、と。お燐はそう口にしていた。まるで自分こそが悪者であるかのように、彼女は自らを軽蔑していたのだ。

 でも。

 

(……だとしても)

 

 進一は立ち上がる。

 具合は未だに少し悪い。けれど先ほどまでと比べるとだいぶマシになってきた。これなら十分、立ち上がれる。だったら彼がやるべき事は一つだ。

 

「ちゆりさんを捜そう」

「え……?」

 

 きょとんとした様子のお燐。不意に立ち上がった進一を前にして、彼女は思わずといった様子で小首を傾げている。

 そんな彼女へと向けて、進一は続けた。

 

「ちゆりさんの想いが全て嘘だったなんて、俺にはそうは思えない。確かに、俺達の事を騙していたのかも知れない。嘘だってついていたのかも知れない。……でも、だからこそ、きっと何か事情があるはずなんだ。だからもう一度ちゃんと話し合えば、俺達は分かり合える」

「どうして、そんな……」

「どうしてそんな自信満々に言い切れるか、だって? ……そんなの、決まっている」

 

 ──ああ、そうだ。

 進一の心は、既に決まっているのだ。

 

「俺はちゆりさんを信じてる。()()()()()()()()()()ちゆりさんを、心の底から信頼している。……この想いは、ちょっとの嘘程度じゃ揺らぎやしない」

 

 嘘だろうが、偽りだろうが、だから何だというのだ。進一はまだ、ちゆりとちゃんと話せていない。どうしてこんな事をしたんだと、彼女の想いを聞き出せていない。だったら結論を下すのはあまりにも早計じゃないか。

 だからもう一度、ちゆりに会いに行く。会ってちゃんと話を聞く。あれこれと考えるのは、その後でも遅くはないはずだから。

 

「……ええ、そうよね。進一の言う通りだわ」

 

 真っ先に進一の意見に賛同したのは夢美だった。

 憂いや不安を完全に拭いされた訳ではない。けれど彼女もまた、決意に満ちた表情を浮かべている。進一と同じ想いを、夢美もその胸に抱いてくれている。

 

「ちゆりに会いに行きましょう。『死霊』の事だとか、私達に嘘をついてた事だとか……。兎にも角にも、あの子には色々と訊かなきゃならない事があるの。……もう一度、ちゃんとあの子と話さないと」

 

 そう。

 ちゆりの口から、ちゆりの言葉で事情を聞かない限り、納得なんて到底出来る訳がない。

 

「私も……」

 

 そして、その次に立ち上がったのは宇佐見蓮子。

 

「私も、もう一度ちゆりさんに会いたい……! やっぱり納得なんて出来ないわ! あのちゆりさんが、意味もなくこんな事をするとは思えない……!」

 

 彼女だって、ちゆりの事を信じてくれている。故にこれまで迷い続けていたのだ。ちゆりがこいしを誘拐する現場を目撃してしまったから。ちゆりに対して、心のどこかで疑念を抱いてしまっていたから──。

 けれどもやはり、蓮子は蓮子だ。彼女は秘封倶楽部のリーダーなのだ。仮説や想像だけで早々に結論を下すなんてらしくない。自らの手で直接立証しなければ、納得なんて出来る訳がない。

 

「行こう、みんな! ちゆりさんの所に……!」

 

 これこそが、宇佐見蓮子の本質。

 何だかちょっぴり安心した。あれこれと悪い事ばかり想像して一人で抱え込むなんて、メリーも言っていた通り蓮子らしくないと思っていたから。

 

「うん……。そうよね。迷う暇があるのならまず行動。それこそが、秘封倶楽部の基本だったわよね。……私だって、ちゆりさんの事を信じたい」

 

 宇佐見蓮子が復活すれば、後は芋ずる式だ。

 マエリベリー・ハーンも立ち上がる。蓮子の意思に触発されて、沈み込みがちだった彼女の心にも活力が蘇る。

 ああ、やっぱり蓮子は凄い。彼女には、自然と周囲に影響を与えられる才能がある。蓮子が前向きでいてくれると、こちらも自然と心が軽くなってくる。きっと上手く行くはずだと、そんな想いが溢れてくる。

 

「どう、して……」

 

 そんな中、一人疑問を零すのは火焔猫燐だ。

 どうして。その言葉は、ちゆりの事を前向きに捉えられる進一達の心意気に対するものか。それとも──。

 ──いや。だとしても、関係ない。

 

「お前も来るよな、お燐?」

「えっ……?」

 

 戸惑い続けるお燐に対し、進一はそう声をかける。

 

「で、でも、あたい……」

「俺達に嘘をついていた事を気に病んでいるのなら、そんなものは無用だ。俺達は誰もお前の事を咎めたりはしない」

 

 そう。

 確かに、今更何をどうこうした所で、彼女が嘘をついていた事実は覆らない。ちゆりに対してあれこれと言える立場じゃないという彼女の意見も、一理あると言えば一理ある。

 だけど。

 

「お前は、妖夢を助けたかっただけなんだろう? だったらそれだけで十分だ」

 

 進一達は、ちゆりの事を信じている。

 

「俺達と一緒に行こう、お燐」

 

 お燐の事だって、進一達は信じているのだから。

 進一を見上げたお燐の瞳が揺れている。ぽかんと、呆気に取られたような表情を浮かべている。いとも簡単にお燐の嘘を受け入れた進一に対し、困惑の感情を抱いているのだろうか。

 けれども、進一だけじゃない。蓮子もメリーも、夢美だってそうだ。皆、お燐の事を信じている。この程度で簡単に崩れ落ちてしまうほど、彼女らが抱く信頼は脆くないのである。──気に病んでいるのは、お燐だけ。だったらそんな罪悪感など、捨て去ってしまえば良い。

 

「皆、本当……」

 

 お燐は言葉を零す。振るえた口調で、そう紡ぐ。

 

「本当に、人が良過ぎるよ……」

 

 ちょっぴり呆れたような口調で。

 

「でも……」

 

 だけど。

 

「うん、そうだね……。あたいも、おんなじだ……」

 

 小恥ずかしそうに、立ち上がって。

 

「あたいも、一緒に行きたい……」

 

 けれども堂々と、彼女は言った。

 

「ちゆりの事を、諦めたくない……!」

 

 皆の意思は、固まった。

 状況は決してよろしくない。タイムトラベルだとか、キョンシーによる襲撃だとか、そして『死霊』だとか。様々な出来事が立て続けに起き過ぎて、事態は混乱の渦に巻き込まれているのだけれども。

 それでも、進一達は止まらない。彼らには成すべき事がある。やらなければならない事が残されている。

 

 理不尽で、不条理で、あまりにも納得が出来ないこの状況。

 解決の鍵を握っている可能性があるのは、霍青娥と──。

 

(ちゆりさん……)

 

 それならば、やるべき事は一つだ。

 彼女を──。北白河ちゆりを、取り戻す。


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