桜花妖々録   作:秋風とも

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第92話「喪失の原因」

 

「幽々子ー。邪魔するわよー」

 

 博麗霊夢はまるで遠慮する事もなく、玄関から白玉楼へと足を踏み入れていた。

 生者が冥界においそれと足を踏み入れるものじゃない──等という映姫の忠告など丸っきり無視して、霊夢はごく普通に冥界と顕界との結界を超えてきた。いちいち閻魔の言いつけを守るほど、霊夢は真面目な性格をしていない。

 

 ガラリと玄関の戸を開けて中に入り、靴を脱いで上がり終えた辺りでパタパタと足音が聞こえてくる。顔を上げると、丁度この屋敷の家主がのんびりとした歩調で歩み寄って来ている所で。

 

「誰かと思ったら霊夢じゃない。どうしたの? 何かあった?」

 

 彼女──西行寺幽々子は、相も変わらずポヤポヤした様子で声をかけてくる。思わずこちらが脱力しそうになってしまうくらいののんびり加減だ。食べ物を前にした時の勢いとのギャップが凄まじい。

 そんな幽々子に対し、肩を窄めつつも霊夢は答える。

 

「何よ。何かなきゃ来ちゃダメなワケ?」

「え? うーん、別にそういう意味じゃないけど……。ほら、今ってこんな状況だし……」

「……ま、そうよねぇ。幾らあんたでも、そういう反応になるわよね」

 

 幾ら能天気な印象が強い幽々子と言えど、流石にこんな状況ではいつまでも飄々とした態度を続けられないのだろう。彼女が浮かべる表情は、少し前までと比較すると少しだけ固い。

 

(ま、それでも無理して普段通りの振舞いを貫こうとしてるんでしょうけど)

 

 あの神霊騒動から続く『異変』の手掛かりを掴む為、霊夢が勤勉にも奔走している事を彼女は知っている。そして今現在、その進捗が芳しくない事に関しても。

 妖夢にも関わる事だ。幽々子が心配にならない訳がない。普段は飄々としているけれど、彼女は誰よりも妖夢の事を想っているのだから。

 

「態々冥界まで足を運んできたんだもの。何かあったんじゃないの? ほら、貴方達が追っている邪仙について、とか……」

「残念だけど、多分あんたが期待している程の成果は上げられてないと思うわよ? ふんっ、結局霍青娥の居場所は未だに掴めてないわ。どう? 何か文句でもある?」

「何でキメ顔なの……?」

 

 霍青娥の居場所を未だ掴めてない事は事実だ。今更何をどうこうと言い訳をするつもりはない。

 

「私が冥界まで来た理由は、ほら、あれよ。ちょっとした息抜き」

「息抜き……?」

「そう、息抜き。やっぱり休憩は必要じゃない? この時期の冥界って、暖かくて過ごしやすい気候って感じなのよねぇ。顕界は最近気温の低い日が続いてんのよ。もう春だってのに」

 

 そう口にしつつも、霊夢は少し大袈裟気味に伸びをする。

 やっぱり冥界は暖かくて心地が良い。冷春気味な顕界とは大違いである。

 

「これもやっぱりチキューオンダンカってヤツの影響なのよ。意味は全然分かんないけど」

「ふぅん……?」

 

 分かったような、分からないような。そんな生返事を返しつつも、幽々子は首を傾げる。

 まぁ、その辺の細かい事情などはこの際どうでも良いだろう。重要なのは、霊夢がこうして冥界まで足を運んだという事実。その一点なのだから。

 

「で? 別に良いんでしょ? 上がっても」

「それは、構わないけれど……」

 

 特に拒絶される事もなかったので、霊夢は少しの遠慮さえも捨て去ってしまう事にする。

 西行寺幽々子は確かにお嬢様に分類される少女だが、けれども底抜けに寛容だ。こうして急に訪れようとも、無下に追い返したりはしない。霊夢の想定通りだった。

 

 踵を返して歩き出した幽々子の後に続く形で、霊夢も白玉楼の奥へと進んでいく。

 

「……息抜き、ねぇ」

 

 途中、不意にそんな声が聞こえてきた。

 幽々子ではない。廊下の途中。いつの間にそんな所にいたのか、話しかけてきたのは霊夢にとっても馴染みのある一人の少女。

 

「それで? 結局のところ、何しに来たのよ?」

「……紫じゃない。どうしてあんたがこんな所にいるのよ」

 

 廊下の壁に身体を預けた状態で声をかけてきた少女──八雲紫は、怪訝そうな表情で霊夢の事を見据えていた。

 

「それはこっちの台詞なんだけど……」

 

 そしてそんな表情通り、彼女は怪訝そうな口調でそう問い返してくる。

 

 どうしてこんな所に──等と霊夢は言ってしまったが、紫は幽々子の親友である。今回のような件がなくとも、彼女はそれなりの頻度で白玉楼に足を運んでいたはず。そう考えれば、紫が白玉楼にいてもおかしくはないのかも知れないが。

 けれども最近は、閻魔にビビって冥界へと足を運ぶ頻度も低くなっていたはず。それなのにも関わらずこのタイミングで霊夢の前に現れたのは、果たして偶然なのだろうか。

 

(……それにしても)

 

 彼女が浮かべるこの表情。霊夢の内情やら何やらを詮索しようとする気満々である。彼女との付き合いもだいぶ長い。幽々子には気づかれない事だとしても、紫には察せられてしまっていてもおかしくはないが。

 

「どうせ聞いてたんでしょ? 息抜き」

「…………」

「……なーんて、そんな事あんたに言っても仕方ないか」

 

 まぁ、それならそれで別に構わない。

 嘆息しつつも、霊夢は答える。

 

「ちょっと、気になる事があってね」

「……気になる?」

「ええ。まぁ、そうね。あんたになら……」

 

 そこまで言いかけた所で、先を歩いていた幽々子の声によって霊夢の言葉は遮られる事となる。

 

「ちょっと霊夢ー! 何してるのー!」

「……っと、ここで話し込むのもアレね。後で少し時間貰える? あんたにもちゃんと説明するから」

「……分かったわ」

 

 今の所は、一先ず紫も納得してくれるらしい。彼女とて、親友である幽々子に余計な不安を煽らせたくないのだろう。それなら話が早くて助かる。

 けれども、まぁ、何と言うか。()()()、紫の性格から考えて難色を示す事間違いなしである。妖怪の賢者たる大妖怪らしく、普段の紫は得体の知れぬ胡散臭さを醸し出してはいるものの、その実態はかなりの心配性だ。霊夢がこの話を持ち出して、果たして彼女がどんな反応を見せるのか。想像しただけでも色々と面倒である。

 

 しかし、だからと言って適当に誤魔化そうものなら余計に面倒な事になりかねない。どっちに転んでも面倒なのなら、少しでも軽い方を選ぶのが利口であろう。

 

「はぁ……」

 

 それでも思わず嘆息を零しつつも、霊夢は幽々子のもとへと足を進めるのだった。

 

 

 *

 

 

「あ、貴方……! それ、本気で言ってるのッ!?」

 

 そしてあんまりにも予想通り過ぎる反応を示す紫を前にして、霊夢はやっぱり大きなため息をつくのだった。

 幽々子には適当に理由をつけて、こうして紫と二人っきりになれるような状況を作って。そして霊夢の抱く考えを端的に伝えた途端にこれである。ここまで想像通りな反応を見せられると、いっそ清々しくも思えてきてしまう。ある意味期待を裏切らない。

 

「まったく、あんたなら絶対そんな反応になると思ってたわ。本当、心配性なんだから」

「し、心配とか、そんな話じゃないでしょう!? だって、霊夢、これって……!」

「あー、はいはい。あんたの言いたい事は分かったから」

 

 ひらひらと手を振りつつも、霊夢は紫を宥める。あまり興奮されてしまったら、色々と説明するにも支障をきたす。それはそれで面倒だ。

 

「確証はあるの? 貴方の想定通りに事を運べる確証が……」

「確証というか……。まぁ、いつもの勘みたいなもんだけど」

「勘って……!」

 

 紫は実に不満気な表情を浮かべている。

 まぁ、確証を聞いてその答えが勘である等と返ってきたら、そんな反応になってしまうのも無理はないのかも知れない。幾ら霊夢の勘と言えども、だ。

 けれど、今の段階ではそうとしか答えられなのだから仕方がないじゃないか。

 

「と言うか、あんたねぇ……。どうせ人里での私と華扇のやり取りをどっかで見てたんでしょ? で、気になって冥界に先回りって所かしら。だったら私の考えくらい、多少なりとも想像できたんじゃないの?」

「想像できていたのだとしても、実際に直接説明されるとインパクトが凄いのよ……。まさか、本当に()()()()を考えてたなんて……」

「良い作戦でしょ?」

「どこがよ……!?」

 

 紫は再びムキになる。

 まったく、彼女は本当に心配性だ。慎重が過ぎるというか、何と言うか。

 

「はぁ……。大体、あんただってあの女の足取りを掴めてないじゃない。何が『境界を操る能力』よ。万能感出しといて、いざという時に役に立たないわね」

「……私の『能力』だって万能じゃないわ。いつでもどこでも抜群の効力を発揮できるとは限らない」

「そう言えば、閻魔サマの『能力』ならあんたの『能力』を無力化できるんだっけ。一応、対策は可能って事か……」

 

 実際、あの邪仙がどれほどの力を持っているのかは未だ推測の域を出ないが、ここまで来ると紫の『能力』への対策も十全であると考えるべきであろう。この幻想郷で本気で何かを画策するのなら、『境界を操る程度の能力』への対策はほぼ必須である。無論簡単ではないが、だからと言って不可能ではない事は四季映姫が証明してしまっている。

 

「だったら尚更、次の段階に行動を移すべきでしょ? このままグダグダと同じ事を続けても、事態は一向に好転しないわ。それどころか、下手をすれば色々と手遅れになる可能性もある」

「それは……」

「私達は既に後手に回っちゃってるのよ。選択肢は、もうあまり残されていない。だったらその限られた選択肢の中で最善となるものを選ぶしかない」

「……()()が、最善だと言うの?」

 

 霊夢は頷いて答える。

 ああ、そうだ。少なくとも、霊夢はこれが最善だと思っている。あの邪仙に、これ以上好き勝手させない為にも──。

 

「……いや、違うわね。()()()()()()()()、とでも表現すべきかしら。まぁ、こればかりは完全に私の落ち度だし」

「落ち度……?」

「もっと早く、気づく事だって出来たはずなのに。ちょっとムキになって、熱くなり過ぎていたのかしらね」

 

 博麗霊夢は呆れたように嘆息する。

 それは何より、自分自身へのある種の嫌気だ。もっと早くこの違和感に気付く事が出来ていたのなら、ここまで追い込まれる事はなかったかも知れないのに。

 

「ま、最低限の責任は取るわよ。正義の味方とか、そういうのは柄じゃないけど。でも……」

 

 そして霊夢は顔を上げる。未だ憂慮に満ちた表情を浮かべたままの、紫へと向けて。

 

「幽々子の事なら私に任せなさい」

 

 先ほどまでのような気だるげな様子じゃない。その場凌ぎで適当な事を言っているつもりもない。

 落とし前はつける。自分の落ち度でこのような状況に陥っているのだとすれば、最低限の後始末をするのが筋というものだろう。適当な所で投げ出すなんて、そんなのはあまりにも気持ちが悪いじゃないか。

 

「やるからには、最後まできっちりと尽力するわよ。これ以上、あの女に好き勝手されるのも癪だしね」

 

 それは紛れもなく、霊夢にとっての心の底からの本音だ。

 筋を通さずにこのまま投げ出すのは気持ちが悪い。その上あの邪仙に好き勝手されるのも気に食わない。それだけの要素が揃ってしまえば、霊夢が取るべき行動は一つに限られる。

 あの邪仙を出し抜き、この『異変』を解決する。伊達や酔狂なんかじゃない。霊夢は霊夢なりに、全力を尽くすつもりなのだから。

 

「……はぁ。まったく」

 

 嘆息。そして呆れたような表情を浮かべるのは紫だ。

 

「本当、貴方って基本的には不真面目なのに、たまに変な所で真面目と言うか何と言うか……」

 

 納得をした訳じゃない。けれどもどこか諦めがついたかのような、そんな表情を彼女は浮かべていて。

 

「そこまで言われちゃ、もう引き下がるしかないじゃない……」

「そう言うあんたは、変な所でお人好しよね」

「五月蠅いわよ……」

 

 軽口を叩くと、何やら疲れた様子で返事が返ってくる。自らの意思をまるで変える気のない霊夢を見て、一周回って呆れかえっているのだろう。紫が相手ではよくあるパターンである。

 何だかんだで、彼女は霊夢を信用してくれる。最初は苦言を漏らしていたとしても、最終的には彼女は霊夢に委ねてくれる。そんな紫が相手だからこそ、霊夢は伸び伸びとしていられる。紫が信じてくれるからこそ、霊夢は自らの意思を全うできるのだ。

 

 そんな、ある種の保護者のような八雲紫に対して、霊夢は霊夢なりに多少は恩を感じているから。

 やれるだけの事はやってやる。

 

「……貴方の案に、任せても良いのよね?」

「ええ。大船に乗ったつもりでいなさい」

 

 納得は出来ないが、それでも信じてくれている。そんな彼女の信頼が、霊夢にとっては心地いい。

 

 さぁ、ここからが正念場だ。

 これから先、果たして一体何が待ち受けているのか。それは霊夢でさえも計り知れないのだけれども。それでも臆する事はない。博麗の巫女として、こんな『異変』などいつも通りにちゃちゃっと解決してやる。

 

(やってやろうじゃない……)

 

 博麗霊夢は、内心密かに気合を入れ直すのだった。

 

 

 *

 

 

 進一が部屋を飛び出してから、小一時間ほど経過した。

 あれからさとり達との間に会話は殆どない。ソファに腰かけたまま、妖夢はただ黙って俯くばかりだ。差し出されたお茶に口をつける事もせず、妖夢はただ悶々と進一の事を考えていた。

 

 ──まさか、彼があんな反応を見せるなんて。

 さとりは言っていた。進一本人の中に眠る思い出は、進一にとって目を背けたい記憶なのだと。そんな記憶から自らの心を守る為に、彼は自分で自分の思い出に蓋を閉めているのだと。進一の記憶がいつまで経っても戻らない原因は、他でもない進一自身の中にあるのだと。そう、古明地さとりは言い放っていた。

 そんな彼女の言葉を聞いて、進一が浮かべるのは狼狽に満ちた表情だった。衝撃的な事実を突きつけられて、そんな情報を受け入れる事ができない──ような表情とは、少し違っていたように思える。寧ろ逆だ。さとりの言葉に、どこか心当たりがあるかのような。どちらかと言えば、そんな表情だったように思う。

 

(進一さん……)

 

 妖夢は息を呑む。

 思考を続ければ続けるほど、不安感は際限なく大きくなってしまう。一人にさせて欲しいという進一の思いを汲んで、こうしてこの部屋に残ったのだけれども。しかし、もっと他に最善の選択肢があったのではないか。自分が取った行動は、本当に正しかったのだろうか。──そんなネガティブな問答ばかりが、胸の奥から溢れて止まらない。

 

「やっぱり、不安ですか?」

 

 不意に声をかけてきたのはさとりだ。妖夢は反射的に顔を上げて、そして彼女の方へと視線を向けた。

 第三の眼(サードアイ)との視線がぶつかる。例えどんな苦悩だろうとも、やはり彼女の前では赤裸々に筒抜けなのだろう。下手な誤魔化しや愛想など、さとりが相手では意味を成さない。

 頷きつつも、妖夢は素直に答えた。

 

「そう、ですね。すいません、進一さんの事を考えると、つい……」

「仕方ないですよ。彼、大切な人なんでしょう?」

 

 妖夢は頷いて答える。

 気の利いた言葉を返す事も出来ない。頭の中では進一の事ばかりを気にしていて、それ以外の事に気を回す事も出来なくて。折角さとりが声をかけてくれたのに、妖夢は再び俯く事しか出来なくなってしまう。

 

「え、えっと……。お兄ちゃんなら、きっと大丈夫だよ! これまでだって、記憶を取り戻す為に頑張ってきたんでしょ?」

「うん……。そうだよね。ありがとう、こいしちゃん」

 

 気を利かせて励ましてくれるこいしへと向かって、妖夢は微笑みつつもそう答える。微笑み、と言っても渇いた笑みになっているに違いない。現にこいしの表情は曇ったままであるし、漂わせる雰囲気も少し遠慮しがちだ。

 彼女がそんな態度になってしまう程に、妖夢の心境は表に出てしまっていたという事なのだろう。こんな調子ではいけないのだと、それは理解しているつもりなのだが──。

 

「さっき、進一さんの心を読んでいる最中にも思ったんですが……」

 

 そんな中、不意に声をかけてきたのはさとりだ。

 不安ばかりを感じている妖夢とは対照的に、彼女は至極落ち着いている様子で。

 

「進一さんは、本当に心の底から妖夢さんの事を想っているんですね。自分の為ではなく、貴方の為に失われた記憶を取り戻そうとしている。彼があそこまで必死になるのは、ひとえに妖夢さんの笑顔を守る為なんです。一途ですよね。ちょっぴり羨ましくなっちゃうくらいに」

「えっ、あ、あの……。いきなり、何を……?」

「いえ、単なる感想というか、私が感じた事をお伝えしてみているだけです。ほら、私って心を読む事が出来る分、他人が感じている感情にも結構敏感なんですよ。その点、お二人は凄いですね。何と言うか、もう、甘々です。甘すぎて胸やけしそう……」

「あ、甘々って……」

 

 何と言うか、急にそんな事を言われると何ともむず痒くなってしまう。

 甘すぎて胸やけしそう。それはつまり、妖夢が進一に対して抱く想いについても含まれている訳で。そんな想いが、さとりの前では文字通り筒抜けである訳で。

 そう思うと今更ながら恥ずかしくなってきた。まさか、変な事は間違っても考えてないと思うが──。

 

「おや、顔が赤くなりましたね。妖夢さんってお肌白いですし、分かりやすいですよね」

「か、からかわないでくださいっ! な、何なんですか急に……!?」

「……そうですね。まぁ、何と言うか」

 

 そこでさとりは一呼吸置く。

 頬を赤らめ、慌てふためく妖夢。そんな彼女へと向けて、微笑みを一つ零すと。

 

「とどのつまり、お二人はお互いに同じくらいお互いの事を想っているという事ですよ」

「えっ……?」

「妖夢さんも進一さんも、大切な貴方達の為に必死になって何かを成し遂げようとしている。大切な貴方達の力になる為に、こうして大いに悩んでいる。その本質は、根っこの部分で繋がっているんです」

 

 さとりは少し、どこか遠くを見つめるような瞳になる。

 それはまるで、何かを諦観するかのように。それと同時に、何かを羨望するかのように。彼女は静かに言葉を繋げる。

 

「私は、覚妖怪……嫌われ者ですから。だから恋人は愚か、親しい友人さえもまともに作れた事がありません。そんな私ですから、恋愛だとか、そういった類の相談には上手く乗れないと思いますが……」

 

 「それでも」と、さとりは続ける。

 

「妖夢さんの背中を押す事くらいならできます。……遠慮なんて、いらないと思いますよ。貴方ならきっと、進一さんを支える事が出来る。だって、進一さんが最も篤い信頼を置いているのは、他でもない貴方なんですから」

「…………っ」

 

 ああ、そうだ。さとりの言う通りだ。

 妖夢は進一の力になりたいと思っている。それと同時に、妖夢は進一に対して篤い信頼を寄せている。妖夢が抱く進一への想いは、既に妖夢の中でも非常に大きくなっているのである。

 けれどそれは、進一だって同じだ。妖夢が抱くこの想いは、決して一方通行なんかじゃない。

 進一だって、妖夢の事を想ってくれている。進一だって、妖夢の事を信じてくれている。だったら迷う必要なんてないじゃないか。進一が、今も尚苦しんでいると言うのなら。

 

「私は、進一さんの力になりたい……」

 

 彼の隣で、彼の苦しみを少しでも和らげたい。

 

「挫けそうになっている進一さんを、支えたい」

 

 それは、そう。いつかの約束のように──。

 

 妖夢は顔を上げる。不安感は未だに少し残っているのだけれども、それでも憂いはだいぶ和らいできた。

 心配で不安ならば、座して待つ必要なんてない。今更遠慮なんていらないはずだ。進一を助ける。その為ならば、妖夢は手を伸ばす事を躊躇わない。

 

(うん。そうだよね)

 

 妖夢は自分の胸に手を当てる。

 よし、この調子ならば大丈夫だ。胸の奥のつっかえも、余計な憂慮も和らいできている。後は自分を信じるだけだ。他でもない、進一が信じてくれた自分自身を──。

 

「……どうやら、落ち着いたみたいですね」

 

 にこりと笑顔を浮かべて、さとりがそう声をかけてくる。頷きつつも、妖夢はそれに答えた。

 

「ええ。さとりさんのお陰です」

「私は大した事なんてしてませんよ。ただ、ちょっと妖夢さんをからかってみただけで」

 

 おどけるような口調で、さとりはそう言う。

 からかってみただけ、などとさとりは口にしているが、彼女の言葉は確かに妖夢の心へと届いている。心を読む事が出来る古明地さとりだからこそ、妖夢と進一の心の本質を見抜き、こうして言葉を投げかけてくれたのだろう。

 

 不思議な感覚だ。

 これもまた、古明地さとりの持つ力の一つなのだろうか。

 

「妖夢、笑ってる。元気になった?」

「うん。私はもう大丈夫だよ」

 

 無邪気に声をかけてくるこいしに対し、今度はきちんと微笑みを零す。先程までのようなぎこちなさはない。自然と、それこそ無意識の内に妖夢は表情を綻ばせていた。

 

 ああ。自分はつくづく、色々な人に助けられているなと改めて実感する。さとりにも、こいしにも、感謝してもしきれない。本来ならば冥界の住民である自分達にさえも、ここまで真摯に向き合ってくれるなんて。

 でも。だからこそ、疑問だ。

 彼女は──古明地さとりは、こんなにも優しい心の持ち主なのに。どうして、嫌われ者として地底に追いやられる事になってしまったのだろう。

 

「……買い被り過ぎですよ」

 

 思っていると、さとりが声をかけてくる。

 彼女はどこか、困ったような表情を浮かべていて。

 

「自分で言うのも何ですけど、昔の私は結構捻くれてたんですよ? 事あるごとに斜に構えていたというか、何と言うか……」

「そうなんですか?」

「ええ、まぁ……。ですから、自業自得な部分もあるんです。今のこの状況は」

 

 肩を窄めつつも、さとりはそんな事を言う。

 正直、あまり想像は出来ない。今のさとりから感じるのは、とても人当たりの良い少女であるという印象しかない。昔はだいぶ荒れていたとでも、言いたげな様子だったが──。

 

「お姉ちゃん……」

 

 しょんぼりと、こいしがそんな声を上げる。

 彼女は言っていた。第三の眼(サードアイ)で心を読む事が出来たって、良い事なんて何一つとしてなかったのだと。誰かの心を読んだって、最終的には嫌われる。必ずしも読みたくて読んでいる訳ではないのに、読みたくもない“想い”だって勝手に読めてしまう。だから自分は、心を読む事を放棄したのだと。

 

 彼女達姉妹の身に何があったのか、詳しくは妖夢も知らない。だからと言って深く追求しようとも思わない。それは、妖夢が軽率に足を踏み入れても良いような事情ではないと思うから。

 だから。

 

「ふふっ。優しいんですね、妖夢さんは」

 

 微笑みつつも、さとりが声をかけてくる。

 

「その優しさ、是非進一さんに向けてあげて下さい。……今の彼には、貴方という存在が必要不可欠ですから」

 

 ありふれた言葉。けれどもどこか、重みが違う。

 何も言わずに妖夢は頷く。折角彼女が、ここまで背中を押してくれたのだ。彼女の優しさに報いる為にも、妖夢は果たさなければならない。彼女が成すべき、最善を──。

 

「さとり様ー!」

 

 こんこんと、不意に部屋の扉がノックされた。

 聞き覚えのある声が流れ込んでくる。これは、お燐の声だろうか。──などと考えている内に部屋の扉が開けられ、誰かが部屋の中へと入ってくる。

 赤髪の三つ編み。黒を基調としたゴスロリ服。そして二又に分かれた尻尾。妖夢の想像通り、お燐こと火焔猫燐である。突然の登場だったが、けれどもさとりは特に驚いた様子も見せず。

 

「そろそろ来る頃だと思ってたわ、お燐」

「ええ。さとり様の予想通りでしたよ」

 

 至極自然なやり取り。いつの間にか、さとりはお燐に何か頼み事をしていたのだろうか。しかし妖夢がきょとんと小首を傾げた辺りで、お燐に続くような形で誰かが部屋に入ってきた。

 ──やはり、と言うべきか。お燐と共に、部屋の中へと足を踏み入れたのは。

 

「ありがとな、お燐。ここまで連れてきてくれて」

「うん、どういたしまして。まぁ、これがあたいの仕事だった訳だし」

 

 妖夢が、今まさに会いたいと思っていた人物。さとりの言葉にショックを受け、一人になりたいと部屋から飛び出して行ってしまった彼。

 進一が、そこにいる──。

 

「進一さん……?」

 

 思わずその名を零すと、彼の視線が妖夢へと向けられる。

 少し、驚いた。部屋を飛び出す前の彼は、かなりの狼狽を表面に出していたはずなのに。けれども今の彼は、既に幾分か落ち着いているように見える。まるで、何かを悟り、そして何かを心に決めたかのような。彼が浮かべるのは、そんな表情。

 

「すまない妖夢。心配をかけた」

「い、いえ。でも……うん。進一さんが戻ってきてくれて、良かったです……」

「ああ……」

 

 ふっと、進一は微笑みを零す。その笑顔は、まだ少しぎこちない。けれど、ぎこちないが、何と言うか──。先程までの苦し気な様子とは、何もかもがまるで違う。明らかな心境の変化。それが、表情にもしっかりと現れているみたいで。

 

「心配ついで、なんて言うのも変な話だが……」

 

 少し、小恥ずかしそうな様子。けれどそれでも、進一はしっかりと妖夢を見据えて言う。

 

「妖夢。もう少し、お前に頼ってもいいか……?」

「……っ。それって……」

「お前に話を聞いて欲しいんだ。いや……話というか、殆ど弱音になっちまうかも知れないが……。でも、こんな事、妖夢にしか頼れないんだ」

「進一さん……」

「だから……頼む」

 

 真っ直ぐな進一の視線が、妖夢へと向けられる。真っ直ぐな進一の思いが、確かに妖夢へと響いてくる。

 初めてかも知れない。進一が、ここまで自分を頼ってくれたのは。進一が、ここまで自分の“弱さ”を曝け出そうとしてくれたのは。今までだって、彼は間違いなく妖夢の事を信頼してくれていたけれど、でも──。

 

「さて、私達は邪魔ね。退散しましょうか」

「ですね。もうあたい達が出る幕はないんじゃないですか?」

「半分幽霊のお姉ちゃん! 頑張ってね!」

 

 気を利かせてくれたのか、ソファから立ち上がったさとりとこいしが、お燐と共に部屋から退出してゆく。最後に一度、さとりが妖夢達へと振り返って。

 

「ごゆっくりどうぞ。適当なタイミングでまた来ますので」

 

 それだけを言い残し、さとり達は部屋から出て行っていった。

 残されたのは妖夢と進一。二人っきりで、互いに向き合う。一瞬の静寂が、二人の間に訪れる。

 

「……気を遣わせちまったみたいだな」

「そ、そうですね……」

 

 けれど進一の一言を区切りに、静寂は破られる。ポツリポツリと、互いに言葉が零れていく。

 

「顔色、少し良くなったみたいですね」

「そうか? あ、いや、そうかもな……。お燐に背中を押されて、ようやくシャキッとした」

「あぁ……。お燐さん、結構世話焼きですからね」

「そうだな。俺はつくづく、色んな奴に世話になっている。……本当に、世話になりっぱなしだ」

「……それは、私も同じですよ。私も色々な人にお世話になりっぱしです」

「そうか……」

 

 進一の言葉の一つ一つが、妖夢の心に確かに響く。進一の表情の一つ一つが、妖夢の脳裏から離れない。

 

「でも、気づいたんだ。皆が世話を焼いてくれて、誰かが背中を押してくれて。俺はようやく、ここまで辿り着く事が出来た」

 

 迷いもない。どこかすっきりとした、けれども真剣な表情を進一は浮かべて。

 

「俺はもう、片意地なんて張らない。立ち止まって、一人で抱え込んで……。そして一人で勝手に潰れるなんて、そんな馬鹿な真似はしない」

「……はい」

「だから……。だから妖夢、力を貸してほしいんだ。お前の想いに、頼らせてほしい……」

 

 進一は、覚悟を決めたのだろう。決意を固めたのだろう。

 それは、自分の生前と向き合う決意。けれども独りよがりじゃない。一人で勝手に決めてしまった訳ではない。彼はこうして、妖夢の事を頼ってくれている。こうして妖夢と共に歩を進める事を選択してくれている。

 ──それが、嬉しい。何よりも嬉しい。これまで以上に、進一との心の距離が近くなったような気がするから。

 

「私も、気づいたんです。思い悩む必要なんてない。躊躇う必要なんてない。自分の気持ちに、正直になって良いんだって……」

 

 だからこそ。

 

「ですから、進一さん。……ううん」

 

 一歩踏み込み、優しく進一の手を取って。

 

「幾らでも、支えるよ。私も、()()の力になりたいから……」

 

 妖夢は進一を信じている。そして進一が信じてくれた、自分自身を信じている。

 だから自信を持つ。半人前だとか、そんな言い訳を掲げて自分を卑下したりなんてしない。自分の心が命じるままに、しっかりと前を見据え続けて。

 進一と、共に並んで進み続ける。

 

「……だから教えて、進一」

 

 そして妖夢は問い掛ける。

 

「あなたが抱える苦悩を……」

 

 最愛の彼を、救い出す為に。

 

「私も、一緒に背負うから……」

 

 手を握ったまま、妖夢は真っ直ぐに進一を見つめる。彼女が抱くのは無垢なる想い。進一の力になりたいという、どこまでも純粋な願い。

 そして進一もまた、妖夢の事を見つめ返してくれる。妖夢の想いを受け止めて、妖夢の想いを噛み締めて。その上で、こうして妖夢に全幅の信頼を向けてくれている。

 

「俺は……」

 

 そして彼は、話し出す。

 ポツリポツリと、少しずつ。

 

「俺、は……」

 

 進一の表情が変わる。少しずつ、苦痛に塗り潰されていく。

 俯き、呼吸が少しずつ荒くなる。身体が少しずつ震えてくる。こうして彼の手を取っている妖夢には、それがダイレクトに伝わってくるのだ。

 不安や苦悩、そして恐怖。それらが混じりあったような感情が、進一の心から溢れ出てくる。

 

「…………ッ」

 

 進一は下唇を噛み締める。何かを耐えるかのように。何かを堪えるかのように。そんな彼の様子を見て、妖夢は思わず身を乗り出しそうになるのだけれども。

 

「……いや、大丈夫。大丈夫だ……」

 

 ふるふると、俯いたまま進一は頭を振るう。そして妖夢を制するように、そう口を挟んでくる。

 ──彼は本気だ。心の底から、本気の本気で覚悟を決めている。記憶を失ってしまった原因。自分の心を守る為、彼自身が自分で封じた記憶の欠片。ある種のトラウマとも言える、そんな心の一面と向き合う事を。

 だったら妖夢は無理に彼を止める事はしない。彼はこうして妖夢を信じて、向き合う事を選択してくれたのだ。今の妖夢がすべき事は、彼のそんな想いを受け止める事。彼の苦悩を、最後まで共に背負う事──。

 

「ああ──。そうだ……」

 

 ゆっくりと、進一は顔を上げる。

 息が詰まったかのような表情。震える声。けれどそれでも、彼は言葉を紡ぎ続ける。

 

「俺の、所為なんだ……」

「所為……?」

 

 頷きつつも、進一は答えた。

 それは、彼が記憶を失う事になってしまった原因。無意識の内に彼が自ら封じ込めていた記憶。心の奥底で抱え込み、けれども一人では支えきれなくなって。決壊する心を守る為、彼自らが無意識の内に封じ込めてしまった想い出。

 

 それは──罪。

 底の知れない、罪悪感。

 

「俺は……」

 

 進一の口から、そのひとかけらが零れ落ちた。

 

「姉さんと、ちゆりさんが……」


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