桜花妖々録   作:秋風とも

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第91話「断片」

 

「寒っ……」

 

 その日。思わずそんな事を呟きながらも、霊夢は人里の街道を歩いていた。

 妖夢が進一を連れて地霊殿へと出かけた同日。丁度、お昼ご飯を食べ終えて少し経つ頃の時間帯である。少なくとも日中では人里が最も活気立つ時間帯で、通りを往来する人々の数も多い。買い物を楽しんだり、忙しなく働いたり。里の住民の人々が浮かべる表情は少なからず活力を感じさせるものだ。

 

 けれども彼女──博麗霊夢が浮かべる表情は、どこか不貞腐れたような実に不機嫌そうなものだった。

 この『異変』を解決する為、自分の出来得る限りの事をする。そんな宣言を最後に進一達とは別れた訳だが、けれどもやはり上手くいっていないのが現状なのである。相も変わらずあの邪仙は痕跡さえも殆ど残しておらず、それどころか何等かの行動を起こした形跡もない。

 普段通りの『異変』ならば、もうとっくに解決してしまっていてもおかしくはない時期。にも関わらず、実際はこの状況。手本のような膠着状態がひたすらに続き、流石にそろそろ苛立ちがだいぶ募ってくる。まったくもって、やってられない。

 

「まったく……」

 

 その呟きは、半ば八方塞がりなこの状況に対してか。或いは未だ進展を得られていない自分自身に対してか。最早自分でも曖昧である。

 何にせよ、このままではいけない。普段の『異変』は持ち前の勘だけで何とかしてきた霊夢だったが、今回に限って言えばあまりにも勝手が悪すぎる。敵の実力は未知数。その上、タイムトラベル等という不要素が絡んでいる可能性があるときた。幾ら霊夢でも、一人では手が届きそうにない。

 

(はぁ……。まぁ取り合えず一旦、状況を整理してみましょうか)

 

 一先ずこの苛立ちから意識を逸らす為にも、今現在の状況を整理してみる事にする。

 事の発端は数日前に発生した神霊騒動だ。妖夢とギクシャクな感じになりつつも『異変』解決に身を投じていた霊夢だったが、その途中で強烈な()()()を感じ取り、単身で踵を返した。そして持ち前の勘で博麗神社にまで戻って来た霊夢は、その時初めて()()と対面するのである。

 

 霍青娥。あの茨木華扇を圧倒したらしい彼女は、霊夢とはまともに交戦もせずにその場から逃げ果せた。あの時は華扇の身を優先した為に深追いはしなかったのだが、今になって思うと自分は貴重なチャンスを逃してしまったのではないかと思えてくる。少し無理をしてでも追いかけていれば、霍青娥の手掛かりくらいは掴めたのかも知れないが──。

 けれど、そんなのは結果論だ。別に華扇を優先した事が間違っていたとも思っていない。

 まぁ、あれでも華扇には多少なりとも世話になっているとは思っている。流石の霊夢も、恩を仇で返すような事はしないのである。満身創痍な状態で目の前にいるのならば、霊夢は迷わずそちらを優先するだろう。確かに自分はドライな性格なのかも知れないが、流石に非情ではないとは自負している。

 

「おや……? 霊夢?」

 

 と、そこまで考えた所で。聞き覚えのある声が流れ込んできて、霊夢の思考は打ち切られる事になる。

 いや、待て。この声、今まさに霊夢が考えていた少女の声じゃないか。足を止めて振り返ると、そこには案の定、想像通りの少女の姿があって。

 

「不機嫌そうですね。何か嫌な事でもあったのかしら?」

「……何だ。やっぱり華扇じゃない」

 

 肩を落としつつも、霊夢は彼女──茨木華扇へと向けてそう言った。

 彼女とこうして出会うのは、地味に神霊騒動以来である。そう言えば、あの日以来彼女は一度も博麗神社へと顔を見せに来ていない。ここ最近は、しつこいくらいに霊夢にあれこれと世話を焼いていたと思うのだが。

 

「あの日以来ぶりじゃない。その様子だと、変な後遺症とかは残ってないみたいね」

「あの日って……。ひょっとして、心配してくれているの?」

「……何よその顔。何で妙に意外そうなのよ」

「いや、だって貴方……。い、いえ、ごめんなさい。やっぱり何でもないわ。忘れて下さい」

 

 コホンと咳払いを挟みつつも、慌てた様子で華扇は言葉を呑み込む。

 霊夢だって馬鹿じゃない。華扇の考えている事なんて、何となく察する事が出来る。どうせ、心配してくれるなんて意外だとか、そんな事を考えていたに違いないだろう。余計なお世話だ。

 

「ふん……。まぁいいわ。で? 私に何か用なの?」

「用、って程の事じゃなけど……。偶々貴方を見かけたから、声をかけてみただけです」

「ふぅん……」

 

 けれども華扇は、「まぁ、強いて理由を上げるとすれば……」と続ける。

 

「首尾はどうなのか。それが気になって」

「首尾、ねぇ……」

 

 それは、一体何を示しているのか。

 ──なんて、考えるまでもないだろう。

 

「……何らかの好転が得られたように見える?」

「ですよね……」

 

 不機嫌気味にそう答えると、華扇はがっくりといった様子で肩を落としていた。

 改めて確認するまでもない。だからと言って言い訳を垂れるつもりもない。この場でどう足掻こうとも、異変解決の兆しすら掴めていないこの状況を否定する事は出来ないのだから。

 

「霍青娥とかいうあの女……。どうにも今までの連中とは勝手が違うみたいなのよね。何がしたいのか分かんない……なんて奴はこれまでもいたけど、あの女の場合は根本的に訳が分からないわ。得体が知れなすぎよ」

「あれからもうすぐ二週間……。彼女は未だ、特にこれと言った行動は起こしていないみたいですからね。何らかの痕跡を探すとか、それ以前の問題ね」

 

 霊夢の言葉に同意しつつも、華扇は難しそうな表情を浮かべる。

 このリアクションから察するに、やはり彼女もこれまで霍青娥の事を追い続けていたとみて間違いないだろう。そして霊夢と同様に、これと言った成果も得られてないという事か。

 

「霍青娥の手掛かりを探しているのは、貴方だけではないんですよね? 魔理沙や早苗……。それと、妖夢という半人半霊の子もですか。あの子達も特に手掛かりは……?」

「多分、得られてないわね。色々と駆け回ってはいるみたいだけど」

 

 厳密に言えば妖夢が調べているのは進一の記憶を取り戻す為の方法についてであり、霍青娥の事に関しては霊夢に任せて貰っている。進一の記憶喪失に関しては、ひょっとしたら解決の方向に向かうのかも知れないが──。それで霍青娥の手掛かりが得られるのかと問われると何とも言えない。

 現状、進一と妖夢のタイムトラベルに関しては霍青娥とも何らかの関連性があるように思えるが、しかし確証がある訳ではない。いずれにせよ、あまりにも情報が少なすぎるのだ。

 

「そう言えば、是非曲直庁も霍青娥を追っているみたいですね。小町から聞いたわ」

「ええ。そうね」

「……霊夢は彼女達にも情報を提供しているのよね? 協力関係でも結んでいるんですか?」

「まぁ……。そんな所かしらね」

 

 別に隠す事でもないので、霊夢は素直に頷いて肯定する。

 協力、といっても偶々利害が一致したに過ぎない。別に霊夢は是非曲直庁の事情など興味がないのである。あの組織が仙人の横暴を許そうと許すまいと、はっきり言って知ったこっちゃない。

 

「でもあの連中も、状況的には私達と何も変わらないわ。未だにこれと言った手掛かりも掴めずにいる」

「……そうみたいですね」

 

 しかし、やはり考えれば考えるほどおかしな話である。自分と華扇は勿論の事、魔理沙や早苗、そして是非曲直庁までもが霍青娥の足取りを追っているのである。言わば霍青娥は、既に複数人からマークをされている存在。にも関わらず、誰も何の痕跡も見つけられないなんて。

 

(そんな事、有り得るの……?)

 

 ふと、違和感に気づく。

 そう、そうだ。確かに霍青娥は、用意周到な人物なのかも知れない。どんな痕跡さえも徹底的に排除する程に、極めて慎重な女性なのかも知れない。しかし、だとしても──これはあまりにも()()だ。

 捜しても、捜しても、どんなに追い求めても。まったくもって、何の手掛かりも掴む事が出来ない。微かな足跡さえも、見つける事が出来ない。

 

 既に複数人からマークされているはずなのに。誰もが手を抜いているという訳でもないはずなのに。

 それなのに、誰一人として何の成果も上げる事が出来ないなんて──。

 

「……いや。まさかっ……」

 

 どくんと、霊夢の心臓が大きく高鳴った。

 感じたのは微かな違和感だった。小さな、本当にあまりにも小さな、見逃してしまってもおかしくのな程の違和感。そこから生まれたとある“仮説”から想像を膨らませると、その違和感は少しずつ大きくなっていった。

 幾ら捜しても見つからない。幾ら追い求めても成果が得られない。そんな状況を前にして、霊夢達はあまりにも用意周到なあの邪仙に対して底知れぬ気味の悪さを感じていた。これだけ捜しても見つからない。故に彼女は、これまで以上に厄介な捜し人なのだと。そう感じているからこそ、誰もが草の根を分けても痕跡を見つけようと躍起になっていたのである。

 

 だけれども。

 ()()()()こそが、霍青娥の()()なのだとしたら?

 

「……霊夢?」

 

 怪訝そうな表情を浮かべる華扇の横で、霊夢は乱暴に自らの頭を掻きむしり始めた。

 

「あぁ、もうっ……! まさか、そういう事なの……? だとしたら、どうして今までこの発想に到らなかったのよ……! 馬鹿じゃないの……!?」

「ちょ……れ、霊夢? 急にどうしたんです? いきなり馬鹿だの何のって……」

「何でもない……! ただ、ちょっと、自分に苛立っているだけで……!」

「……自分?」

 

 そう、自分だ。

 これまで()()()()に到らなかった自分に対し、何もよりも腹が立つ。これじゃあ、丸っきり奴の思う壺じゃないか。いつもの勘はどうした? どうして今回に限って何の役にも立たない?

 イライラする。心の底から、イライラする。

 

「まさか、何か分かったの……!? 霍青娥のこと……!」

「……ええ。でも……」

 

 しかし、今更()()()()()()に気付いた所で遅い。状況を打破するには、()()()()の大胆な動きが不可欠だ。

 ならばどうする? 理解できたのはあくまでこの膠着状態に対する()()()()。霍青娥の内情がまるっきり理解出来た訳じゃない。

 

 彼女は何をしようとしている? 一体どんな行動を取っている?

 ()()()()()を探せ。きっと、何かあるはずだ。どこか、決定的におかしい()()が──。

 

「…………っ」

 

 その時ぴゅうっと吹いたのは、一際強い突風。別に珍しくもなんともない、ごく当たり前なただの風。

 寒い。ひんやりとした冷たい空気が、霊夢の頬を撫でていく。春だと思ってちょっと薄着をしてきたら、身体が冷えて風邪を引いてしまいそうだ。折角桜が花咲く季節なのに、これじゃあそんな桜の元気もなくなってしまうだろう。

 

「おっと……。強い風ですね。しかも冷たい。今年の春は、どうにも中々気温が高くならないような」

「…………」

 

 ああ。そうだ。華扇の言う通り、確かにその通りだ。

 寒い。春なのに、寒い。もうすぐ四月も後半に差し掛かる頃だというのに。それなのにも関わらず、気温が低い。──いや。少し前まで、少なからず春らしい気候の日もあったはずなのに。ここ最近は、ずっと──。

 

「……ねぇ、華扇。一つ聞いてもいい?」

「え?」

 

 そこで霊夢は、改めて華扇に確認する。

 

「あんた、少しはあの邪仙と言葉を交わしたんでしょ? あの女、何か言ってた? 何を目的として行動してるのか、とか」

「目的って……」

 

 首を傾げつつも、華扇は答えてくれる。

 

「……殆ど支離滅裂ですよ。ただ強い力を求めている、だとか何とか……。意味が分からないわ」

「……力、ねぇ」

 

 冷たい風。低い気温。奪われる体温。けれどそんな肌寒さとは裏腹に、霊夢の胸中は熱くなり始めていた。

 横髪が棚引く。それを利き手で掻き流しつつも、霊夢は空を仰ぐ。

 

「……やってくれたわね」

 

 ──ああ。本当に何なのだろう、()()は。

 どうして今まで気付かなかったのだろう。どうしてこれまで違和感を覚えなかったのだろう。ゆっくりと、少しずつ、けれども着実に。『異変』は、進行を続けていたというのに。

 

「ねぇ、ちょっと頼み事しても良い?」

「……頼み事ですか?」

 

 確認すると、物珍しいものでも前にしたかのような様子で華扇が尋ね返してくる。

 

「珍しい。霊夢の方からそんな事を言ってくるなんて」

「何よ。文句あるの?」

「いえ……」

 

 華扇はくすりと微笑する。そんなにも、霊夢が誰かを頼る事はおかしいのだろうか。何だか微妙にイラっとくるが、今は一々突っかかっている場合ではない。

 華扇の気が緩んだのは一瞬だけだ。すぐに表情を引き締めて、彼女は改めて確認する。

 

「それで? どうするつもり?」

「決まってんじゃない」

 

 ──ああ、そうだ。

 これから何をするのかなんて、最早これ以外ありえない。

 

「反撃開始よ」

 

 

 *

 

 

 自分の意思とは無関係に、身体は小刻みに震え続けていた。

 別にそれほど寒い訳じゃない。この地霊殿は尚も活動を続けている灼熱地獄跡の上に建てられているだけあり、どこにいても暖かい。それなのにも関わらず、この震え。息が酷く苦しくなって、胸の奥が痛くなって。そして頭が、否応なしに揺さぶられる。

 ぐわん、ぐわんと。

 これまでのような頭痛とはまた違った感覚が、彼に襲いかかり続ける。

 

(くそ……)

 

 地霊殿の廊下を歩きつつも、岡崎進一は心の中で舌打ちする。この苛立ちは、誰かに対して向けたものじゃない。他でもない、自分自身に対してである。

 ──何だ。

 一体全体、何なんだ。

 

 折角こうして地霊殿にまで足を運び、さとりだって快く協力を承諾してくれたというのに。それなのにも関わらず、この体たらく。情けない。本当に、あまりにも情けないじゃないか。

 

(俺は……)

 

 頭を冷やしてくると告げて、あの部屋を飛び出して。けれども結局、進一は体よく逃げ出しただけだ。突き付けられた現実を前にして、怖気づいてしまっただけなのだ。

 

(他でもない、俺自身が……)

 

 ずっと思い出したいと思っていた。生前に過ごした妖夢との想い出を、何としてでも取り戻したいと。そう心に強く決めていたと思っていたのに。

 それなのに。

 

(想い出から、目を逸らしていたというのか……?)

 

 そんなの、あんまりにもあんまりだ。

 一体全体、あの決心は何だったのだろうか──。

 

 古明地さとりが岡崎進一に告げた言葉。それはあまりにも突拍子もないように聞こえて、けれどもその実、進一には底の知れない()()()()があった。

 これまで強く記憶を想起させようとした際に襲われていたあの頭痛。それは無理に想い出を引っ張り出そうとしたが故の弊害だと思っていた。──いや、確かにそれも一つの起因として存在するのだろう。けれどもその原因は、それだけではなかったのだ。

 

 言うなれば反発。記憶を取り戻したいという意思と同時に、進一の中には想起に対する恐怖心がどこかで芽生えていたのだろう。思い出したくない。目を背けていたいのだと。自分でも気づかぬ内にそんな思いを密かに抱き、表面上の意思と激しくぶつかり合っていた。

 

 相反する相容れない想いの衝突。それ故の拒絶反応。

 

 古明地さとりは言っていた。進一本人が、さとりの『能力』を拒絶したのだと。彼女が読もうとした心の領域は、進一本人でさえも目を背けたい記憶なのだと。

 ──一体全体、何なんだ。

 記憶を取り戻したいという強い意志にも匹敵する、想起を拒む原因とは──。

 

(判らない……)

 

 簡単に理解できたら苦労はしない。なぜならこの要素こそが、進一を記憶喪失たらしめている最大の原因なのだから。

 

「……随分と歩いちまったな」

 

 ぼそりと、呟く。

 あの部屋を飛び出してからというものの、進一は殆ど我武者羅に地霊殿の廊下を歩き続けていた。さとりの言葉と自分の内情についてぐるぐると思考を続けながらも、それこそ無意識に歩き続けて。一旦思考を切り上げると、自分が見知らぬ場所にまで迷い込んでいた事に気付く。

 地霊殿は広い。白玉楼とも良い勝負である。そんな場所で考え事をしつつも当てもなく歩き回ると、その結果どうなってしまうのか。そんなの、考えるまでもなく明らかだったはずなのに。

 

「幾ら何でも、ぼんやりとし過ぎたな……」

 

 自分の過ちを後悔し、進一は思わず嘆息する。

 普通に迷子である。それなりに複雑な構造をしている地霊殿だが、もう幾つの角を曲がったのかさえも記憶に残っていない。馴染みのないこの場所で、幾ら何でも迂闊すぎじゃなかろうか。

 

 しかし、だからと言って弱音を吐いても状況は変わらない。今は一先ず、覚えている限りで来た道を戻ってみるしかないだろう。勝手に部屋を飛び出した挙句、屋敷の中で迷子だなんて。笑い話にもならない。

 取り合えず、踵を返して。

 

「にゃーん」

「……ん?」

 

 と、その時。不意に猫の鳴き声が聞こえて、進一は思わず視線を落とす。

 いつからいたのか、そこには一匹の黒猫の姿があった。

 

「猫……?」

 

 なぜ猫がこんな所に──と思ったが、よく見ると尻尾が二又に分かれている事に気付く。恐らくただの黒猫という訳ではなく、何らかの妖怪なのだろう。

 確か、猫又と呼ばれる猫の妖怪も存在するという話も聞いた事がある。この黒猫がその猫又という種類の妖怪なのかどうかは分からないが、少なくとも単なる黒猫でない事は確実であろう。何せここは地底。元々は地獄として機能していた区画なのだから。

 

「にゃー」

 

 そんな黒猫は進一の姿を確認するなり、踵を返して歩き出す。ふりふりと二又の尻尾を振って、時折りこちらの様子をチラチラと確認しつつも。

 その姿は、まるで。

 

「……ついて来いって事なのか?」

「にゃっ」

 

 再び鳴き声。それは、肯定と捉えても良いのだろうか。

 

(……まぁ、どっちみち迷子である事には変わりないか)

 

 どうせ来た道を引き返そうと思っていたのだ。あの黒猫の後について行ってしまっても問題はないだろう。どうやら進一をどこかに案内してくれているみたいだし、そんな厚意をばっさりと無下にしてしまうのも忍びない。

 この猫に進一の言葉が通じているのかは微妙な所だが──。

 

(流石に取って食われるような事はない、はず……)

 

 そんな事を考えつつも、進一は黒猫の後をついて行く。どうやら進一の歩幅に合わせてくれているらしく、四本の足を忙しなく動かして小走りで進んでいるようだ。妖怪とは言え猫に気を遣われるのも妙な気分である。まぁ、幻想郷ではこの程度の非常識など今更なのかも知れないが。

 

「……なぁ、どこに連れて行こうとしてるんだ?」

「にゃー」

「……ついて来れば分かるって?」

「にゃん」

「……そうか」

 

 などと相槌を打ってみたものの、実際何を言っているのかはまるで判らない。幽霊との会話ならする事が出来る進一だが、どうやら猫との会話は流石に不可能なようだ。

 しかし、この猫に関しては進一の言葉を理解しているような素振りを見せている。やはり人間の言葉が通じる猫なのだろうか。

 

「……あっ」

 

 そして程なくして、進一は見覚えのある場所まで辿り着く。

 一際開けた空間。存在を主張するステンドグラス。二階部分まで吹き抜けになったエントランスである。正面にある大きな扉を潜り抜ければ地霊殿の外、その反対側へと進めばさとりと対面したあの客間まで辿り着く。

 進一は記憶を探る。成る程、確かにここまで来れば道順は大丈夫だ。後は一人でも妖夢達と合流する事が出来る。

 

「エントランスまで案内してくれたのか」

 

 「助かった」と、礼を言おうとして気付く。

 先ほどまで進一を先導していたはずのあの黒猫の姿が、どこにも見当たらない。ついさっきまで、進一の傍にいたはずなのに。いつの間にか、どこかに立ち去ってしまったのだろうか。

 思わず進一は周囲を見渡す。彼をここまで案内してくれたあの黒猫を、探そうとして。

 

「まったく、世話が焼けるなぁ」

 

 代わりに、見知らぬ少女の姿を見つけた。

 服装は、所謂ゴシックロリータファッションに分類されるだろう。全体的に黒を基調とした呪術的な印象を受ける出で立ちで、あまり華やかな印象は受けない。赤い髪は三つ編みのおさげ。釣り目気味の瞳と、そして何より気になるのは()()()()()()()。そして背後で揺れる二又の尻尾。まるで、先程の黒猫が人間の姿に化けたかのような──。

 

「ん? あー……。そりゃそうだよね。いきなりこっちの姿で出てきちゃ、びっくりするよね」

「……いや」

 

 ()()()()姿()。その言葉で確信した。

 やはりこの少女は、さっきの猫が人間に化けた姿なのだろう。いきなり出てきちゃびっくりすると彼女は言っていたが、今更その程度の事で驚く進一ではない。寧ろ状況から考えて、あの猫が化けたと説明される方が余程しっくりくるくらいだ。

 そう考えると、この少女はどことなくあの猫の面影があるような気がしなくもない。漂う雰囲気に覚えがあるというか、どこか馴染みがあるというか。

 

(……馴染み?)

 

 いや。待て。何だ、その表現は。

 この感覚。少なくとも、この幻想郷で彼女と出会ったのはこれが初めてだ。それに関しては間違いない。けれども、何だろう。例えば先ほど霊烏路空という地獄鴉の少女を前にした時の感覚。あの時感じたその感覚に、これはどこか酷似しているような気がする。何か覚えがあるような、ないような。

 

(いや、違う……)

 

 進一は息を呑む。

 静かに揺さぶられる心。霊烏路空の時の感覚とは、何かが違う。それよりももっと鋭くて、それよりももっと明確だ。

 自然と湧き上がり、そして溢れる。心の奥底から勝手に浮かび上がって来た()()が、自然と進一の口から零れ落ちた。

 

「お燐……?」

「え?」

 

 目の前にいる猫耳ゴスロリ少女が、怪訝そうな様子で首を傾げた。

 

「あれ? お兄さん、あたいのこと知ってるの?」

「え? あっ、いや……」

 

 若干の狼狽。反射的に、進一は顔を横に振る。

 

「すまん、違うんだ。今のは……」

「あー、ひょっとしてさとり様からあたいのこと聞いてたのかな?」

「いや、まぁ……。そうとも言えるが……」

「……?」

 

 いまいち良く分かっていない様子で、猫耳少女は首を傾げている。それもそうだ。進一本人だって、この感覚の正体はいまいち掴めていない。

 “お燐”という名前の少女については事前に妖夢から聞いていた。その少女が、生前の自分と関りを持っていたという事に関しても──。

 けれど名前と姿が一致していた訳ではない。進一が聞いていたのは、あくまで口頭での断片的な情報だけだ。それなのにも関わらず、進一はこの少女の姿を認識した途端、自然にその名前を口にしていた。

 

 なぜだ。なぜ、この少女の事をその名前で呼ぼうとしたのだろうか。しかもこの少女のリアクションから察するに、“お燐”というのは本当に彼女の名前で間違いないようだけれども。

 

(まさか、生前の俺はこいつとも何らかの密接な関りを持っていたのか……?)

 

 その可能性は大いにあり得る。妖夢と再会した時も、こいしと邂逅した時も。こんな風に、進一の記憶は確かに揺さぶられたのだ。今回はあの時ほど強い衝撃を受けた訳ではないが、しかし至って自然にこの少女の名前が口から零れたという事は。

 

(記憶が、戻りかけている……?)

 

 ──至極楽観的に捉えれば、そういう考え方も出来る。けれども当然、今の進一の状態はそこまで簡単な話ではない。

 確かにさとりの『能力』の影響を受け、進一の記憶がこれまでとは別の形で刺激されている事は確実であろう。しかしあの時の進一は、無意識の内に想起を拒んだのである。生前に得た何らかの記憶、或いは感情を、自分自身からさえも隠してしまう為に。

 

 自己防衛本能。

 誰かの為じゃない。結局進一は、自分自身の為に──。

 

「……お兄さん?」

 

 再び怪訝そうな少女の声。いきなり黙り込んでしまった進一を前にして、今度は流石に心配になってきたようだ。我に返った進一は、ふるふると頭を振るって一先ず思考を中断する。そして改めて、目の前にいる猫耳ゴスロリ少女に向き直ると。

 

「すまん、少しボーっとしていた。気を悪くしたのなら謝る」

「え? う、ううん、大丈夫。あたいもちょっとびっくりしただけだから」

「そうか……。なら良いんだが……」

 

 しかし、いきなり初対面の男に名前を呼ばれて普通なら不信感を抱く所だろう。ここは念のため、こちらの素性も明かしておくべき場面である。

 

「お前とはこれが初対面だよな? 俺は岡崎進一だ。妖夢と一緒に、さとりに会いに来て……」

「うん、知ってるよ。さとり様から話は聞いてる」

「……何だ、知ってたのか」

 

 それならば話は早い。

 ──と言うか考えてみれば、彼女は進一をここまで案内してくれたのではないか。もしも相手が本当に見知らぬ存在ならば、不審者として即刻館から追い出そうとしてもおかしくはない状況である。そうしなかったという事は、やはり彼女は進一の事を既に認知していたという事になるだろう。

 ひょっとしたら自分は、かなり迂闊な行動を取ってしまったのではないだろうか。今更ながら、そんな考えが過ってしまう。

 

「えっと、お兄さんもあたいの事は知ってるみたいだけど、念のため自己紹介するね。あたいの名前は火焔猫燐だよ。気軽にお燐って呼んでくれたら嬉しいな。よろしくね」

「ああ……。よろしく」

 

 握手を求められたので、進一は素直に応じておく。どうやら人当たりの良いさっぱりとした性格の少女であるようだ。先程まではちょっぴり怪訝そうな表情だったが、握手をしている今の表情は人懐っこそうな笑顔である。取り合えず、不信感を抱かれている訳ではなさそうで安心した。

 

「……それにしても、どうして俺があそこにいるって分かったんだ? 偶々通りかかったのか?」

「まさか。あの猫の姿で、お兄さんの後にこっそりついて来てたんだよ。さとり様の頼みでね。もしも迷子になった場合は、道案内をしてあげて欲しいって」

「……成る程な」

 

 進一が迷子になる可能性さえもさとりは見据えていたのか。気を利かせてお燐に後を追わせていたから良かったものの、もしも本当に一人だったら今頃進一はどうなっていたのだろう。館の中で合流出来ない等という、間の抜けた状況に陥りかねなかった。

 

「助かったよ。考え事をしていたとは言え、まさか本当に迷っちまうとはな……」

「まぁ、その為のあたいだし。地霊殿も結構広くて複雑だからね」

 

 微笑しつつも、お燐はそう口にする。

 人の良さそうな表情を浮かべるお燐。社交性が高く、誰とでも仲良くなれそうな雰囲気の少女である。そんな彼女の様子を見てると、やはりどこか心の奥がムズムズとする──ような気がする。

 やはり、さとりの『能力』の影響を多少なりとも受けているのだろうか。例え心の奥では思い出したくないと思っているのだとしても、やはり記憶を取り戻したいという想いだって確かに存在するから。それ故に、()()()()()のだ。固く閉ざされていたはずの、記憶の断片が──。

 

「お兄さん、大丈夫? さっきから顔色あんまり良くないみたいだけど……」

「ああ……。いや、大丈夫だ……」

「本当かな……」

 

 心配そうに、お燐は進一の顔色を覗き込んでいる。

 初対面の進一を相手にここまで心配してくれるなんて、優しい少女なのだろう。これ以上彼女に気を遣わせない為にも、進一はやや強引に笑ってみせる。けれどもあまり効果はなかったらしく、お燐の表情は変わらず心配そうなままだ。

 

 ──前々から思っていたが、どうやら自分の()()は周囲にはすぐにバレてしまうらしい。この手の事に関しては、あまり器用じゃない進一である。

 

「えっと……。悩み事があるのなら、あたいで良かったら相談に乗るよ? あー、でも一人になりたかったんだっけ……。だったらあんまりつき纏わない方が良いのかな……」

「……いや」

 

 進一は首を横に振る。

 どんなに無理をしたって、結局状況は変わらないのだ。だとすれば、下手に厚意を無下にしてしまう方が余程失礼じゃないか。進一は肩の力を抜き、そして改めてお燐へと向き直る。

 

「少しだけ、話を聞いてくれるか? まぁ、殆ど愚痴みたいになっちまいそうだが……」

「……うん。良いよ」

 

 進一が尋ねると、お燐はすぐに頷いて快諾する。

 

「話を聞くくらいなら、幾らでもドーンと来いって感じだよ」

「……ああ。ありがとう、お燐」

 

 そう言ってくれると、こちらとしても気分が楽になる。

 ここまで気を回してくれたのだ。下手なプライドや意地など捨てて、言葉を繋ごう。

 

「……俺には、思い出さなきゃならない記憶があるはずなんだ」

 

 そしてポツリポツリと、進一は語り出す。

 

「でも実際は、心のどこかでそんな思い出を取り戻す事を恐れている。必ず記憶を取り戻すって、そう強く決心したはずだったのに」

 

 喋りながらも、進一は自嘲する。

 

「しかもどうやら、俺は自分で自分の記憶に封をしてしまっているらしい。……本当、笑っちまうよな。あの決心は何だったんだって、我ながらそう思う」

 

 本当に、情けない限りの話だ。絶対に生前の記憶を取り戻すのだと、妖夢とも約束をしたはずなのに。それなのに自分は、そんな約束さえも反故にするつもりか? 妖夢が寄せてくれた想いさえも、否定するつもりなのだろうか。

 

「俺は、そんなの……」

 

 そう考えると、焦燥がますます進一の中を駆け抜ける。

 判らない。自分が何を考えているのか、自分でも判らなくなってくる。なぜだ。なぜ自分は、こんなにも恐れている? ここまで来て、どうしてこんなにも身体が震えてしまうんだ。

 

 ──ふざけるな。

 冗談じゃない。

 

「俺は記憶を取り戻さなきゃならない。大切な思い出を、是が非でも取り戻さなきゃならないのに……」

 

 そんな事、考えるまでもなく明らかであるはずなのに。

 

「それなのに、俺は……!」

 

 先の見えぬ暗闇の中。どんなに手を伸ばしても、大切な思い出を取り戻す事が出来ない。どんなに必死に抗おうとも、伸ばしたその手は空を掴む。

 ──それもそうだ。なぜなら自分は、最初から取り戻すつもりなどなかったのだから。これまでずっと、知らず知らずの内に目を背け続けていたのだから。

 

(どうして、こんな……!)

 

 ああ──。本当に、嫌になる──。

 

「……あたいは、さ」

 

 ぐちゃぐちゃになりつつある思考。それに割って入るかのように、声が流れ込んでくる。

 火焔猫燐が、寄り添うように声をかけてきた。

 

「お兄さんについて、こいし様から二つ聞いてるんだ」

「二つ……? こいし、から……?」

 

 こくりと、お燐は頷く。

 そしてまず、人差し指を一つ立てて。

 

「一つは、お兄さんが亡霊なのに記憶喪失だってこと」

 

 そして次に、人差し指と中指を立てて。

 

「もう一つは、お兄さんが妖夢にとって大切な恋人だってことだね」

「…………っ」

 

 不意に、そう告げられる。

 聞いた瞬間はお燐の意図がいまいち掴めなかった。彼女が何を思って進一にそんな言葉を投げかけてくれているのか、理解出来なかった。自問自答に追い込まれた今の進一には、お燐の言葉をじっくりと噛み砕く余裕さえも残されていなかったのである。故に言葉を紡ぐ事も出来ず、進一は首を傾げる事しかできない。

 しかしそんな彼へと向けて、お燐は言葉を続けてくれた。

 

「お兄さんが記憶を取り戻すのに必死になる理由って、妖夢の為なんでしょ? ……妖夢との思い出を、取り戻したい。妖夢と過ごした時間を無駄にしたくない。だからお兄さんは、必死になって足掻き続けているんだね」

「……、それは……」

 

 確かに、それはそうだ。お燐の言っている事は間違いじゃない。

 幻想郷の『異変』云々以前に、進一の中で強く根付いているのは妖夢との約束だ。必ず記憶を取り戻し、そしてこの想いだけは決して色褪せていなかったのだと証明する。進一が記憶の想起を求める最も大きな理由がそれである。

 けれども。それ故にこそ、許せない。

 このタイミングで怖気づいてしまっている、自分自身が。

 

「だが、俺はそんな決意さえも蔑ろにしようとしちまってるんだ。怖気づいて、逃げ出して……。結局は、自分自身の為に……!」

「違うよ。多分、お兄さんは勘違いをしている」

「えっ……?」

 

 きっぱりと、お燐によって進一の言葉は否定される。

 あまりにも直球なお燐の言葉。思わず進一は言葉を呑み込んで、何も言えなくなってしまう。

 

 勘違い。

 心当たりはない。自分なりに、出来る限り客観的に自分の心を分析して、進一はそう結論付けたのだ。結局は、自分の事を優先してしまったのだと。約束を反故にする事を、自分は選択してしまったのだと。それは最早、目を背ける事すら出来ない事実だと言うのに。

 それなのに、お燐は。

 

「勘違いだと? そんな訳がない。だって俺は、妖夢との約束を……」

「してるよ、勘違い。お兄さんは全然分かってないんだ」

「分かってないって……」

 

 一体何を言っている?

 そんな言葉を進一が続けるよりも先に、お燐が次の言葉を紡ぐ。

 

「分かってないよ。……お兄さんは、妖夢の気持ちを全然分かってない」

「……っ。妖夢の、気持ち……?」

 

 瞬間、進一は息を呑んだ。

 ()()()()()()。不意に告げられたその言葉を前にして、進一はまたもや何も言葉を繋げなくなる。だって進一は、これまでずっと()()()()()()を客観的に分析し続けていたのだから。自分が一体何を思い、そして自分はどうなりたいのか。そんな自問を繰り返し、答えも見つからぬまま悶々とし続けていたのだから。

 

 ──しかし、故にお燐の言葉は的確だ。

 

「お兄さんが妖夢の事を大切に想っている事は分かるよ。でもさ、それは妖夢だって同じなんじゃないのかな? 妖夢の為にってお兄さんが想っているのと同じように、きっと妖夢もお兄さんの力になりたいって想っている」

「それ、は……」

「……うん。妖夢なら、絶対にそう想ってるよ。それはあたいが保証する。……なんて、そこまで言っちゃうのは少し生意気が過ぎるかも知れないけれど」

 

 苦笑しつつも、お燐は続ける。

 

「でも、あたいにとっても妖夢は大切な友達だから。少しくらいなら、あの子の気持ちも理解しているつもりだよ」

「……ああ、そうだな。多分、お燐の言っている事は間違ってない」

 

 そう。その通りだ。

 妖夢はどこまでも誠実で、そして心優しい少女だ。抱く想いは真っ直ぐで、誰かの為に必死になる事が出来て。そんな彼女の優しさに、進一だって救われている。彼女が傍にいてくれたから、進一はこれまで前に進み続ける事が出来た。彼女が支えてくれたから、進一はここまで辿り着く事が出来たのだ。

 

 ──ああ。そういう事か。

 

「お兄さんは、一人で頑張って解決しようとしているみたいだけど、多分それは最適な選択とは言えないと思う。妖夢の事を大切に想っているのなら……。ううん、大切に想っているからこそ、お兄さんは妖夢に頼るべきなんだよ」

「ああ……」

「カッコつける必要なんてないと思うよ。お兄さんはもっと、妖夢の事を頼っても良いんだ」

 

 ──馬鹿だ。自分は、何て愚かだったのだろう。

 確かにこれは自分の問題だ。未だに取り戻せぬ記憶。その原因が、他でもなく自分自身にあるのだから。故に進一自らが動かなければ、事態は決して進展しない。

 けれど、だとしても()()()()で解決を目指す必要なんてなかったはずだ。たった一人で、全てを背負い込む必要なんてなかったはずなのだ。

 

 そして進一は思い浮かべる。

 それは、雑音まみれの記憶の断片。

 

『人は一人じゃ強くなれない。何かあったら頼れ。辛い事があったら吐き出せ。立ち止まって一人で抱え込もうだなんて、そんな馬鹿な真似はするな』

 

 ()()()。進一は、妖夢にそう言葉を投げかけたじゃないか。

 それなのに、今の自分がこんな様子じゃ、説得力は最早皆無だ。だったら下手で半端なプライドなんて、それこそゴミと一緒に捨ててしまえばいい。子供みたいな意地なんて、そんなものは必要ないじゃないか。

 

(ああ……。そうだな。その通りだ)

 

 ──ようやく、気づいた。

 今の進一が選択すべき、最善を。

 

「……ありがとな、お燐。お陰ですっきりした」

「……迷いはなくなった?」

「ああ」

 

 素直に頷く。

 心の中の焦燥は、いつの間にか収まっていた。

 

「え、えっと……。ごめんね。考えてみたらあたい、初対面のお兄さんに随分と偉そうな事を……」

「いや、気にしなくていい。お陰で俺も勘違いに気付けたんだからな」

 

 今更ながら小恥ずかしくなったのか、お燐は少し慌てた様子で謝罪する。そんな彼女が少し可笑しくて、進一は微笑しつつもお燐の事を宥めた。

 

 進一の心が落ち着いていく。先程までの荒んだ心境は、幾分か回復に向かっている。それでも不安や、まだ不安定な部分は多く残されているけれど。

 だけどもう大丈夫だ。進一は一人じゃない。進一の傍には、いつだって彼女がいてくれるからのだから。

 それが何よりも、心強い。

 

『例え挫けそうなったとしても心配はいりません。その時は、私が支えますから』

 

 ()()()、彼女はそう言ってくれた。進一ばかりに一方的に支えさせるのは、不公平だからと。故に進一の力になりたいと。そう言ってくれたのだ。

 進一だけじゃない。彼女だって、進一の事を支えようとしてくれている。彼女だって、進一の力になろうとしてくれている。そんな真っ直ぐな妖夢の想いに、進一は心惹かれたのだ。

 

 彼女の想いを、決して無駄にはしたくない。

 だから、進一は。

 

(もう、片意地を張るのは止めよう)

 

 そう、心の中で決意を改めるのだった。

 

 

 ──それにしても。

 ()()()とは、一体いつの事だっけ?


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