桜花妖々録   作:秋風とも

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第90話「心を読む程度の能力」

 

 今から約二年ほど前。八十年後の外の世界から帰還した魂魄妖夢は、一度この地霊殿を訪れた事がある。

 その際の要件は、端的に言えば状況確認だ。妖夢が外の世界に放り出されていた四ヶ月間の内に発生した、とある大きな『異変』。その『異変』に関与していたとされる人物達の名前を聞いた途端、自分の中に強い衝撃が走った事を今でもしっかりと覚えている。

 火車である火焔猫燐。そして覚妖怪である古明地さとりと、その妹である古明地こいし。八十年後の未来の世界でも会った事のある人物の名前が、何人か。そんな事実を突きつけられて、妖夢は居てもたっても居られなくなってしまった。

 

 火焔猫燐。古明地こいし。未来の世界で手を貸してくれたあの赤髪の少女までもが妖怪で、しかもこいしとも接点を持っていたのである。気にならない訳がない。まさかお燐は、自分達を騙していたのか。自分の正体を偽って、何かを企てていたのではないだろうか。──そんな予感を覚えてしまうのも無理はないとは言え、やはり色々と気になってしまっていた。

 そんな不安要素の解消も期待して、妖夢は一度この地霊殿にてさとりとの対面を果たしているのである。その際に()()()()における火焔猫燐や、古明地こいしとも()()()知り合っていた。

 

 まぁ、端的に結論だけを述べてしまうと、その交流で妖夢が感じていた不安要素はある程度解消できたと言えよう。この地霊殿に住まう妖怪達は、多少癖はあるのかも知れないが、それでも根は良い人ばかりだ。八十年後にどうなっているのかは最早想像する事しか出来ないのだけれども、少なくとも妖夢達を騙して何かを企てるような人物達ではないように思える。

 

 ──しかし、だとするのなら。

 やはり気になってしまうのは、これから起こるのであろう“何か”の事。やはり進一の記憶喪失や、霍青娥という邪仙についても何等かの関連性が存在するのだろうか。

 

「さて、ここです」

 

 そんな思考を妖夢が巡らせている内に、先頭を歩いていたさとりが立ち止まってそう告げてくる。

 エントランスにて出迎えてくれた彼女に連れられて辿り着いたのは、来客用と思しき部屋。その扉の前にてさとりは足を止め、妖夢達の様子を確認している。あれこれと思考を働かせていた所為か一瞬だけぼんやりとしてしまっていた妖夢だったが、軽く頭を振るってそんな思考を切り替える事にする。

 

「考え事ですか?」

「え? あ……いえ、その……」

「ふふっ。まぁ、()()()も含めてじっくりとお話しましょう。幸いにも、今日は時間をたっぷりと取れそうですから」

 

 そう口にすると、さとりは部屋の扉を開けて妖夢達を招き入れる。まるで、妖夢が何を感じて何を考えているのか、その全てを理解しているかのように。

 ──いや、比喩などではない。実際、彼女は全てを理解──否、()()()しまっているのだろう。なぜなら彼女は覚妖怪。しかもその中でも、覚妖怪の“特異性”を取り分け強く有する少女なのだから。

 

「……ありがとうございます。失礼します」

 

 そう言って、妖夢は進一と共に部屋の中へと足を踏み入れる。その後にこいしも続いた。

 そして通らされた西洋風の客間。白玉楼のそれとは雰囲気から何まで違うその部屋の真ん中に、ソファと横長のテーブルが置かれている。自然と上座に案内され、妖夢は進一と共に腰かけた。その向かい側にさとりが腰かける。

 

「えへへ、みんな一緒だねー!」

 

 そう口にしつつも妖夢達の隣に座ったのがこいしである。座り位置は進一が真ん中、その左右にそれぞれ妖夢とこいし、向かい側にさとりといった位置になる。どちらかというとこいしはさとりの隣に座るべきなのだろうが──まぁ、この際細かい事は何も言うまい。さとりとて、あまりそういった細かな事を拘るタイプではなかったはずだ。

 

「ええ、大丈夫ですよ。あまり肩に力は入れず、楽にしてください」

 

 そんな妖夢の心を読んでか、さとりは穏やかな口調でそう告げる。口にせずとも考えが伝わる──というのは何ともむず痒いが、ここは彼女の厚意に甘えさせて貰う事にしよう。

 

「それでは、早速ですが本題に入るとしますか」

 

 切り出したのはさとりだ。

 相も変わらず眠たそうな表情をしているが、それでも幾らかキリッとしたような雰囲気となる。楽にして下さいとは口にしていたが、やはり彼女も今回の()()()に関してはしっかりと理解してくれているのだろう。ありがたい気遣いだ。

 彼女の持つ『能力』は『心を読む程度の能力』である。幾ら妖夢が必死になって取り繕うとも、こちらの事情は彼女には伝わってしまうのだから。

 

「そうですね、理解しています。やはり、と言いますか……。進一さん、貴方がタイムトラベラーなのですね」

「っ! ……判るのか?」

「ええ。タイムトラベルの件、以前に妖夢さんとお会いした際にある程度訊かせて貰いましたからね。態々心を読まずとも、これくらいなら察する事が出来ますよ」

 

 古明地さとりの持つ『能力』の特性上、彼女の前では幾ら隠し事をしても無意味である。

 故に彼女には、妖夢が経験したタイムトラベルについて既に認知して貰っている。下手に隠し事も出来ぬ以上、こちらから情報を提供して協力関係を仰いだ方が意義があると判断した為だ。

 

「ああ、ご心配なく。タイムトラベルの件については、重要機密事項として秘匿していますから。地霊殿……と言うか、この地底でその件を認知しているのは私だけでした。最近、こいしにもお伝えしたようですが……」

「私も誰にも言ってないよ!」

「──との事です。ですので、どうぞご安心下さい」

「助かります」

 

 古明地さとりが話の判る少女で助かった。下手をすれば混乱を招きかねないこの情報、極力流出は避けたいというのが紫や閻魔様も含めての総意なのだ。それをこうしてすんなりと受け入れ、こうして協力関係を結んでくれたさとりには感謝しかない。

 

「いえいえ、お気になさらず。妖夢さんには、ウチのこいしが大変お世話になっているようで。これはその、ある種の恩返しのようなものだとでも思って下さい。感謝をしているのは、私の方なのですから」

「さとりさん……」

 

 古明地さとりの表情は至極穏やかなものだ。心を読まれるかも知れないという状況に関して最初こそ戸惑いはしたものの、こうして会ってしまえばそんな不安感などいつの間にか払拭されていた。

 確かに彼女は『心を読む程度の能力』をフルに活用しているが、けれどもそれを悪用している訳ではない。覚妖怪と言えば、そんな能力の所為で嫌われがちな妖怪ではあるが──。しかし、そんなイメージだけで印象を決めつけてしまうのも早計だなと常々思う。

 

 彼女は良い人だ。お燐やこいしが慕うのも頷ける。

 

「えっと、お姉ちゃん。それで、この間も話したけど……」

「うん、分かってるわ。……進一さん」

 

 こいしに促される形で、さとりは改めて進一へと視線を向ける。

 一抹の緊張が進一の表情に現れる様子が見て取れる。失われた記憶の手掛かりが、遂に掴めるのかも知れないのだ。流石の彼も、肩に力が入ってしまうのだろう。

 それは妖夢だって同じだ。ドキドキ、ドキドキと。緊張で心臓の鼓動が早くなっている。

 

「亡霊でありながら記憶喪失。それも八十年後の未来の世界から迷い込んだと思われるタイムトラベラー。そんな貴方は、このある種の『異変』の手掛かりを見つけるため、生前の記憶を取り戻さなければならない。そうですよね?」

「……まぁ、そうだな。いや、それ以上に……」

「あぁ、そうですね。妖夢さんの為、ですか。ふふっ、お二人は本当に仲がよろしいんですね」

「……何も言ってないのにマジで心が読めるのか、あんた」

「覚妖怪ですからね。これくらい普通ですよ」

 

 くすくすと微笑むさとり。──考えてみればそうだった。心が読めるという事は、妖夢と進一が互いに抱くこの“想い”だって筒抜けであるという訳で。そう考えると何だか恥ずかしくなってきた。妖夢までも、顔が熱い。

 

「すいません、何も茶化すつもりはなかったんですが」

「いや、気にしなくていい。……それよりも、その様子じゃあんたは現時点で問題なく俺の心を読めているって事だよな? それじゃあ……」

「ええ。少なくとも、()()()の心を読む程度なら問題なさそうです。今の所、私の『能力』に違和感は生じてないと思います」

「……表面上?」

 

 進一が思わずといった様子でオウム返しすると、さとりは律儀に説明してくれる。

 

「今現在、貴方が考えている事、心で思い浮かべている事を示しています。これに関しては覚妖怪が共通して有している能力と同等の効力ですね。第三の眼(サードアイ)を通して視れば、何を思って感じているのかを読み解く事が出来ます」

「つまり、俺が()()()()()()事。意識を傾けていない事までは、流石に読めないって事か。……普通の覚妖怪ならば」

「ええ。その認識で結構です」

 

 確かにそれは覚妖怪において一般的な能力だ。普通の覚妖怪が読める心の範囲は、基本的には相手が現時点で思い浮かべている事に限られる。進一の言う通り、相手が思っていない事に関しては流石に読む事が出来ないのである。覚妖怪とて万能ではない。

 しかし、古明地さとりは自らの『能力』を『心を読む程度の能力』だと申告する程に強い能力を有する覚妖怪だ。そんじょそこらの覚妖怪とは格が違う。

 

「でも、さとりさんなら、進一さんの心の奥深くに眠る記憶を読み解く事だって……」

「……その件についてですが」

 

 妖夢の言葉に被せるような形で、さとりが口を挟んでくる。

 けれども、少しばかり控え目な様子。若干の遠慮を漂わせつつも、彼女は言葉を繋ぐ。

 

「予め、了承しておいて欲しいんです。確かに私は、他の覚妖怪と比較しても取り分け深く心を読む事が出来ると自負していますが……。しかし、それでも万能という訳でもない。私とて、ありとあらゆる心を隅々まで読める訳ではないんです」

 

 或いはどこか、寂しさとも捉えられる感情を滲ませて。

 

「私にだって、()()()()()はあるんです……。読みたくても、読めない。そんな心が……」

「さとりさん……?」

 

 思わず妖夢はさとりの名前を口にする。

 読みたくても、読めない。その言葉に、彼女はどんな意味を籠めているのだろうか。何を思って、口にしているのだろうか。

 妖夢はさとりが抱える事情を知らない。仮に知りたいと思ったとしても、そんな所まで踏み込んで詮索なんて出来る訳がない。それがデリケートな事情であるのだと、察する事が出来るから。

 

 故にこそ、今はまだ踏み込まない。

 言葉を選び、会話の流れに沿って、妖夢は続ける。

 

「……それは、進一さんの記憶の奥底までは読めない可能性があると。そういう意味なのですか?」

「ええ。……すいません、始める前から予防線を張るような事をしてしまって」

 

 申し訳なさそうに、さとりはそう答える。

 彼女の事だ。幾ら妖夢が体裁を整えようとも、妖夢の心は文字通り筒抜けになってしまっているのだろう。気を遣って言葉を選んでしまった事も、バレバレであるに違いない。

 それ故の、この表情。やはりどうしても申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。あまりにも気を遣い過ぎてしまうのも、自分の悪い癖だ。

 

 だから、という訳でもないが。

 誤魔化すように、妖夢は話を進める事にする。

 

「……そんな、さとりさんが変に気に病む必要はありませんよ。あ、いえ、別に、だからと言って何もさとりさんに期待してないとか、そういう意味でもなくて……」

「判ってますよ、妖夢さん。大丈夫です。折角頼ってくれたんですから、私だって全力を尽くすつもりです」

 

 そしてさとりは、進一へと視線を戻す。

 

「それでは、始めましょう。暗闇に沈んでしまった進一さんの記憶を、取り戻す為に」

 

 

 *

 

 

 岡崎進一は重苦しい様子で固唾を呑み込んでいた。

 目の前にいるのは、こいしの姉でもある覚妖怪──古明地さとり。その眠たそうな目も、そして管で繋がれた第三の眼(サードアイ)も。じっと、進一の事を静かに見据えている。

 体格は妖夢と同じくらいに小柄。その容貌だって、特段凄みがある訳でもない。けれども、何だろう、この感じ。この少女を前にすると、漠然とした不安感のようなものが心の中を駆け抜けていく。これから彼女の『能力』を使って、心を読んで貰って。そうして上手くいけば、進一も生前の記憶を取り戻す事が出来るかも知れないというのに。

 

 ──それなのに。

 

「始めましょうか。進一さん」

 

 言われて、はっと我に返る。

 進一の心境など、さとりには既に隅々まで読まれてしまっているはずだ。けれどそれでも、先程までとは何ら変わらぬ様子でさとりは進一の前にいる。変な気遣いをする事もなく、自然体でそう声をかけてきてくれている。

 

 今は余計な気遣いよりも、話を先に進めてくれた方がありがたい。

 そんな進一の心持ちを、汲み取ってくれたのだろうか。

 

「私の『能力』を行使し、貴方の心の奥底に沈んだ記憶を読み解きます」

「あ、ああ……。俺は、どうすれば良い?」

 

 妙な不安感を払拭し、進一はそう問いかける。するとさとりは、緩く破顔しつつもそれに答えてくれた。

 

「そうですね。私の第三の眼(サードアイ)に意識を集中して貰えますか? 今回は単に表面上の心を読むのではなく、心の内面のそのまた奥を読み解く必要があります。当然ながら、私の方でも強く集中して『能力』を行使しなければなりません。その場合、対象者が私の第三の眼(サードアイ)を意識してる場合としていない場合とでは、効力の質にも少なからず影響を及ぼしますから」

「……ああ。判った」

 

 それくらいならお安い御用だ。進一は改めて第三の眼(サードアイ)へと視線を戻し、意識を集中し始める。

 ぎょろりとした第三の眼(サードアイ)は、こいしのそれと違ってしっかりと進一の姿を見据えている。──いや、姿だけじゃない。進一が今現在考えている事、そして思っている事。そういった心の表面までもが、この“眼”には情報として映っているのだ。

 

 そう。これこそが、覚妖怪の最大の特徴。そして古明地さとりは、そんな特徴に対する取り分け強い力を持っている──。

 

「さて、と」

 

 さとりの両目が閉じられる。けれどそれでも、第三の眼(サードアイ)だけはしっかりと進一の事を見据え続けている。本来の“目”から流れ込む情報を完全にシャットアウトし、さとりは集中する体勢に入ったのだろう。

 心の内面のそのまた奥。並みの覚妖怪でも殆ど読み解けないような情報を、古明地さとりは掴もうとしている。神経を研ぎ澄まし、妖力を集中して。そしてその『能力』を、精一杯に行使する。

 

(うん……?)

 

 と、その時だ。

 進一の胸中に、不意に()()が駆け抜け始めた。

 

(なんだ……?)

 

 さとりの第三の眼(サードアイ)がより一層ぎょろりと進一を睨みつけ始めた直後の事である。今の今までさとりに“心を読まれている”という感覚はいまいちパッとしていなかったのだが、それがある種の刺激として徐々に強くなってきているように思えてくる。

 まるでこれは──そう。何重もの鍵で固く閉ざされた扉を、外部から無理矢理こじ開けようとするかのような。そんな感覚。

 

「うん……。成る程、ここまでなら……」

 

 ボソリとさとりがそう呟く。集中力を高め過ぎた故、思わず零れてしまったのだろうか。

 けれど今の進一には、そんなさとりの呟きは届かない。さとりの『能力』を意識すればするほど強くなるこの()()。そればかりに、注意力を奪われてしまって。

 

「────ッ!?」

 

 判らない。

 何だ、この()()()は。

 

 胸中にむくむくと膨れ上がる。息が勝手に詰まってくる。はっきりとしない感覚であるはずなのに、それでも衝撃ばかりが強くなる。何故だか呼吸が苦しくなる。何故だか胸が痛くなる。そして何故だか──嫌悪感が滲み出てくる。

 

「……進一さん?」

 

 当然ながら、隣にいた妖夢はすぐさま進一の異変に気付く。心配そうな面持ちで声をかけてきてくれたのだけれど、しかし進一はそんな彼女にさえ何も受け答えする事が出来なくなっていた。

 吐き気にも似た感覚。そして奇妙な気怠さ。反射的に口元を抑え、ふらつく身体に力を籠める。

 

(な、に……!?)

 

 鈍器か何かで頭を殴られたかのような衝撃。ぐわん、ぐわんと。脳が直接揺さぶられるかのような感覚。

 頭が痛い。気持ちが悪い。目が回る。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い──。

 

「進一さんッ!?」

 

 慌てた様子の声。直後、不意に支えられる進一の身体。

 ワンテンポほど遅れて認識した。眩暈を覚え、そして転倒しかけた進一の身体を、妖夢が支えてくれたのだ。薄れかけた意識が、一瞬だけ覚醒する。けれどもそこまでだ。再び進一を支配するのは、酷く気持ちの悪いこの()()

 

(やめ、ろ……)

 

 嫌悪感。底の知れない拒絶。

 それらが自然と、心のどこからか湧き上がってきて。

 

(やめろ……)

 

 自分のものとは思えない、胸中を渦巻くの感情。

 これは──ある種の、恐怖心か何かだろうか。

 

「えっ……? これって……!」

 

 さとりが驚いたような声を上げる。

 それとほぼ同時。一際大きな()()()が、進一の中を駆け抜けた。

 

(やめろ……ッ!)

「きゃっ!?」

 

 悲鳴。何かに()()()()ように大きくバランスを崩したのは、進一の心を読んでいたはずの古明地さとりだった。

 ぐらりと仰け反り、そして彼女は堪らずといった様子でソファへと両手をつく。唐突な反応。妹である古明地こいしが、思わずといった様子で身を乗り出した。

 

「お、お姉ちゃん!? ど、どうしちゃったの……!? 大丈夫……?」

「え、ええ……。うん、大丈夫……」

 

 ふるふると頭を振るい、さとりは自らの身体を持ち上げる。自分は大丈夫だとこいしに微笑みかけた後に、彼女は改めて進一へと向き直った。

 

「────っ」

 

 進一は息を呑む。

 なぜ? どうして自分は、こんなにも感情を高ぶらせている? どうして自分は、こんなにも警戒心を剥き出しにしている?

 この感情は何だ? なぜ止めどなく溢れてくる?

 判らない。どうして──。

 

「……進一さん」

 

 さとりの声が届く。渦巻く感情に気を取られていた進一だったが、そこでようやく我に返った。

 この奇妙な気味の悪さを、必死になって払拭しつつも。進一は、おずおずといった様子で顔を上げる。

 

「……まずは、ごめんなさい。決して害を加えるつもりはなかったんですが、それでも貴方に苦痛を与えてしまったようですね」

「いや……。別に、これくらい……」

 

 そして、「でも……」とさとりは続ける。

 

「何となく、判りましたよ。……貴方の記憶喪失の、原因が」

「えっ……!?」

 

 驚いた声を上げたのは妖夢だ。

 慌てたような、けれどもどこか高揚したような様子で、妖夢はさとりに確認する。

 

「あ、あの……! さとりさん、それって……進一さんの心を読む事に成功したと、そういう意味ですか……!?」

「あぁ、いえ……。厳密に言えば、解読には至ってません。これ以上無理に『能力』を行使しようものなら、進一さんの心にも少なからず悪影響を及ぼす可能性がありましたから」

「それって……」

 

 思わず小首を傾げる妖夢に対し、さとりは説明を続けた。

 

「確かに私の『能力』ならば、理論上なら心の奥のそのまた奥……。本人が意識してないであろう心の内面まで読む事が可能です。しかし、そこまで深い心理にまで介入するとなると、どうしても本人の意思には逆らえなくなってしまうんです」

「本人の、意思……?」

「この場合、進一さんの意思ですね。進一さんが私の介入を強く拒むのならば、それだけ心の反発力は強くなります。それでも強引に読み解こうとすれば、出来なくはないかも知れませんが……。それは私にとっても、そして心を読まれる側にとっても、精神的な負荷が強くなってしまうんです」

「ちょ、ちょっと待って下さい! それって……!」

 

 何かを察したらしい妖夢が、さとりの言葉を遮るような形で声を上げる。

 

「進一さんが、さとりさんの『能力』を拒んだと……。そういう事なんですか……?」

「ええ。……そして今回、その点が重要なんです」

 

 進一の拒絶。それをさとりは、すんなりと肯定した。

 何なんだ、それは。心を読んで貰い、折角記憶を取り戻す事の出来るチャンスかも知れないのに。それなのに、自分はさとりを拒んでいる? そんな、馬鹿な事が。

 

「……私の『能力』を拒絶した。つまり、私に心を読まれる事を強く拒んだ。それが意味する事は即ち、私が読もうとした心の領域は、進一さん本人でさえも()()()()()()記憶だという事なんです。それを無理矢理こじ開けられそうになって、だから貴方は拒絶した……」

「な、なに……?」

 

 いや、待て。

 それは、つまり。

 

「進一さんの様子から察するに、やはり意図してそうした訳ではなさそうですね。貴方は何等かの記憶の断片を、自分自身からさえもひた隠しにしようとしている。でも意識してそうしている訳じゃない。言うなれば自己防衛本能。つまり……」

 

 そこでさとりは、一呼吸ほど置く。

 何かを考え込むような素振り。けれどそれも一瞬だけ。言葉を選び、彼女は自らの推測を進一達へと提示する。

 

「……ある種の無意識、でしょうね。貴方は記憶を取り戻す事を、無意識の内に恐れている」

「…………ッ!」

 

 ある程度、予想出来てしまっていた答え。進一は思わず、ぎゅっと下唇を噛み締めていた。

 

 ──馬鹿な。そんな、馬鹿な事があってたまるか。

 拒んでいる? 目を背けている? 記憶を取り戻す事を、無意識の内に恐れている? ふざけるな。

 覚悟は決めていただろう。例え藪蛇だとしても、例え思い出さない方が良い記憶なのだとしても。それでも進一は、是が非でも思い出すのだと。自分を信じてくれた幻想郷の皆の為。そして自分を支えてくれた妖夢の為に。何が何でも、失われた記憶を取り戻すのだと。そう、強く決心していたはずなのに。

 

「貴方が記憶を失った原因。それはきっと、貴方自身にあります」

 

 古明地さとりの言葉。その一言一句が、強く進一の心に伸し掛かる。

 

「壊れてしまいそうな自身の心。貴方はそれを守る為に、自分の記憶に封印を施した……」

 

 底の知れないやるせなさ。自分自身へと向けた苛立ち。

 荒ぶる想いと荒んだ心。進一の中で、様々な感情が渦巻いてゆく。

 

「貴方は記憶を失ってしまった訳じゃない」

 

 吐き気を催す程の激情。進一はただ、身を任せ、そしてさとりの言葉を受け入れる事しか出来ない。

 

「自分自身で、自らの記憶を放棄しようとしたんです」

 

 ぎゅっと、心臓が締め付けられるような。そんな感覚を覚えたような気がした。

 馬鹿馬鹿しい。心臓なんて、既に動いていないはずなのに。どう足掻いたって、自分は既に死んでしまっているはずなのに、

 ──ああ、そうだ。本当に、馬鹿馬鹿しい。

 一体全体、自分は何の為にここまで来たんだ。皆が信じてくれたのに。沢山の人が力を貸してくれたのに。それなのに、他でもない自分自身が、こんな状況に陥ってしまっていたなんて。

 

「そんな、ことなど……」

 

 声を発して、自分でも驚いた。

 震えている。酷く、怯えている。思わず視線を落とすと、自らの身体さえも小刻みに震えている事に気が付いてしまった。

 それはまるで、恐怖に慄く小さな子供のように。或いは激しい後悔に苛まれ、どうしようもない絶望を突きつけられてしまったかのように。

 

 寒い。決して気温が低い訳ではないはずなのに、それでも寒い。

 悪寒。何なんだ、これは。亡霊に体温の変化など、ある訳もないのに。

 

「お兄ちゃん……?」

 

 憂慮に満ちた声はこいしのものだ。

 様子のおかしい進一を見て、彼女にも心配をかけてしまったのだろう。けれども先程のさとりのように、大丈夫だと微笑みかける余裕は今の進一には残されていなかった。

 

 ただ、そう、恐怖。

 恐怖に震え、慄いたままで。

 

「お、俺、は……」

 

 判らない。

 自分自身の事であるはずなのに、自分の事が判らない──。

 

「……すまない」

 

 堪らずと言った様子で、進一は立ち上がる。

 

「ちょっと、頭を冷やしてくる……」

 

 ぐちゃぐちゃだった。これ以上この場で思考を続けようものなら、ますますドツボにハマってしまうような気がして。ある事ない事、余計な事まで考え込んでしまうような気がしてしまって。

 だから進一は踵を返す。

 

「あっ……! し、進一さん……!」

 

 妖夢に声をかけられる。予想通りの展開だ。

 けれども今回ばかりは、進一も足を止める事など出来ない。こんな不安定な精神状態では、徒に妖夢の不安を煽ってしまうだけだ。

 故に、()()()()()()でも一度この場から離れるべきだ

 そんなもっともらしい()()()が、進一の脳裏に自然と過る。

 

「……すまん、妖夢。少しの間だけ、一人にさせてくれないか……?」

「あ……」

 

 それだけを口にして、進一は足を踏み出す。けれど妖夢は、それ以上進一の事を無理に引き留めはしなかった。

 進一の気持ちを、汲み取ってくれたという事なのだろう。ありがたいと思う反面、申し訳ないという気持ちも多少ながら抱いてしまう。

 

 こんな気持ちを抱いてしまうなんて、気を遣ってくれた妖夢に対してあまりにも悪いじゃないか。

 それ故に、余計な気持ちを必死になって払拭しつつも、進一は部屋から退出する。

 

 灼熱地獄跡の上に建てられた地霊殿。館全体の温度は高めとなっているはずなのに。

 それでも、進一の身体は酷く冷え切っていた。


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