命蓮寺という寺院は夢殿大祀廟を封じ込める為にこの地に建設されていた訳だが、封印されていた当事者である聖徳王とは意外にも良好な関係を築けている。
そもそも根本的な話、この地に封印されていた“何か”を危険だと判断したのは、ナズーリンが行ったダウジングの結果が大きな理由となっている。彼女が得意とするダウジングはそこまで正確な情報がはっきりと得られる訳ではないとは言え、その精度には白蓮も一定の信頼を置いている。彼女が危険だと判断したのなら、その正体が何であれ“危険な何か”だという事は間違いないのだろう。
それは自分達のみに対しての危険なのか、それとも妖怪全体に対しての危険なのか。その点に関してもはっきりとはしていなかったが、だからと言って白蓮が見逃す事など出来る訳がない。誰かが傷つく可能性があるのなら、それを阻止する事に対して尽力を惜しまない。それが、聖白蓮という女性なのだから。
結果として、これまで命蓮寺は夢殿大祀廟を封じる事になっていたのだが──。
「それにしてもまさか、封印されていたのが貴方のような人物だったとは思いも寄りませんでした」
命蓮寺の一室。客間として扱われているその部屋で、聖白蓮は寅丸星と共に夢殿大祀廟に封印されていた当事者達と対面している。白蓮のそんな言葉を聞いた彼女──豊聡耳神子は、何ともむず痒そうな、小恥ずかしそうな。そんな表情を浮かべていた。
「いやはや……。君達がそんな印象を抱いてしまうのも無理はありませんね。政治の為だけに仏教を利用し、道教を信仰してこうして仙人として復活した今の私は、君達にとって様々な意味で敵対し得る立場に立っているのだから」
豊聡耳神子というこの女性は、元々為政者のような事をしていたと聞く。
幼少の頃より様々な才覚に恵まれた彼女は、何をやっても人より優れた結果を残し続けていたと同時に、周囲からも篤い期待を寄せられていたのだろう。生憎白蓮は“天才”と呼ばれる括りには分類されないのだけれども、それでも彼女の気持ちは何となく想像する事が出来る。
周囲から向けられる過剰な期待への不安。或いは天才であるが故の葛藤。様々な要因が重なった結果、彼女は政治に仏教を利用し、その裏で道教を信仰する事になってしまったのだろう。
別に、白蓮はそんな彼女の生き方を否定するつもりはない。仏教だろうが道教だろうが、何を信仰するのかは人それぞれの自由なのだ。そんな思想までに口出し出来る程、聖白蓮の立場は崇高ではないのだから。
「……既に何度かお伝えしていますが、貴方達に敵対する意思がないのなら、私達は危害を加えるつもりはありません。寧ろ、私達の方こそ申し訳ない事をしてしまいましたね……。少ない情報量で早計して、貴方達の封印を強めてしまうなんて……」
「そ、そんな……白蓮殿が謝る事ではないっ。我らとて、おぬしら仏教徒に危害を加えてしまったのは同じなのだから……」
そう答えたのは神子の側近のような立場に立つ少女、物部布都である。
小柄でまだ年端もいかない少女のような容貌だが、真面目で責任感の強い印象を受ける人物である。そして素直で人の良い性格の持ち主だ。こうして白蓮達を真っ先に気遣おうとする事からも、彼女の人となりの良さが窺える。
「布都さんは優しいんですね。神子さんが全幅の信頼を寄せているのも分かります」
「なっ……。わ、我は別に優しくなどないぞっ? た、ただ、当然の事をしているまででだな……」
星が率直な感想を述べると、布都は気恥ずかしそうにして謙遜な反応を示す。あまり真正面から褒められる事に慣れていないのだろうか。ニコニコとした表情を浮かべる星との対比から、布都の幼さが更に際立ってきているような。
「そ、それより白蓮殿っ! 今日、ここに我らを呼び寄せたのは、相応の用があったからなのであろう? 決してこのような世間話をする為ではなく……!」
「露骨に話を逸らしましたね、布都」
わたわたとした様子の布都の横から、神子がジト目を向けている。それでも布都はこの話は終わりだと言わんばかりに、鼻息を荒くしていた。
確かに布都の言う通り、今日こうしてこの場に神子達を呼び寄せたのは白蓮である。そしてそれ相応の用があるという彼女の認識も、間違ってはいない。
まぁ、あまり世間話ばかりに花を咲かせる訳にもいかない。布都も望んでいる事だし、早速だが本題に入らせてもらおう。
「……態々ご足労頂き、とても感謝しています。今日、貴方達をお呼びした理由は他でもありません。実は、幾つか確認したい事があるのです」
「ほう? 確認したい事、とな? ふっふっふ……。我で答えられる事なら何でも答えようではないか!」
なぜだかドヤ顔を浮かべつつも、やる気満々でそう口にする布都。白蓮達に対しても友好的かつ協力的なのはありがたいが、生憎白蓮がこれから話そうとしているのは少々切り出しにくい話なのである。
少し前に発生した神霊騒動。あれは神子の封印が希薄になった結果、発生した『異変』だと聞いている。あの騒動に関しては既に落ち着いてはいるのだが、それでも未だ解せない点が残されている。
それは、あの神霊騒動の裏で密かに動いていたとされる人物の存在。今も尚、この命蓮寺で身柄を預かったままのあの
(そう、私達はまだ……)
霍青娥。その人物の足取りは、霊夢達も捉えるに至っていない。
霍青娥という人物は、非常に危険な力を持った仙人だと聞いている。実際に彼女と交戦した霊夢の話では、博麗神社を覆いつくす程のドス黒い霊力をその身に纏っていたらしい。その力は未知数。少なくとも、妖怪の山に住む茨木華扇という仙人を凌ぐ程らしいが──。
そんな人物が、あの神霊騒動を陽動にして何らかの悪事を企てていた。それが意味する事は、即ち。
(神子さん達も、それに関して一枚噛んでいる可能性があるという事……)
正直、あまり神子達を疑うような事はしたくない。
これでも人を見る目はある方だと自負している。彼女達は良い人だ。それはここ何回かの対談を経て、白蓮の中でもはっきりとしているから。彼女達が、妙な悪事に加担するとは到底思えない。
でも。
それでも。
この状況では──。
「聖……?」
心配そうに、星が白蓮の表情を覗き込んでくる。そんな彼女に「大丈夫ですよ」と薄く笑みを浮かべ、白蓮は気持ちを切り替えて余計な迷いを払拭する。
ウジウジとしてはいられない。罪悪感を感じてばかりではいられないのだ。
──と。白蓮が、次なる言葉を紡ごうとしたその瞬間。
「……君は、何か遠慮しているのですか?」
「えっ……?」
神子が不意にそう口にして、白蓮は思わず間の抜けた声を上げてしまう。
反射的に視線を向けると、彼女が浮かべるのは非常に落ち着いた表情である。それはまるで、既に迷いなど捨て去ってしまったかのような面持ち。あれこれと迷い悩んでいた白蓮とは大違い。そんな表情のままで、神子は半ば呆けた状態の白蓮へと続けた。
「聞きたい事と言うのは、青娥の事ですよね?」
「ッ! ……いや、そうでしたね。貴方は確か、他人の欲を聞き取る事で読心のような事が出来るのでしたか……」
「読心なんて、そんな大それた物じゃありませんよ。私は覚妖怪ではないのですから。──と、それに関して今は置いておいても良いでしょう。君の抱く気持ちは分かります。確かに
霍青娥の暗躍。それに関して、自分達は疑いをかけられている。そこまで理解していても尚、神子は落ち着いたままである。
いや、既に受け入れているとでも表現した方が正しいか。疑いの念を抱かれているというこの状況を受け入れた上で、彼女は白蓮の意思を尊重しようとしてくれている。頭ごなしに否定なんて、そんな事もしない。
「君が気に病む必要なんてないはずです。私達が青娥との繋がりを持っている事は、紛れもない事実なのですから。今の青娥の立ち位置が
「…………っ」
──この人は、とても聡明な人物だ。例え自分に不利益がある状況に陥ってしまったのだとしても、それが論理的に納得できる結果なのだとしたらウジウジと抵抗などしない。そんな抵抗をするくらいなら、受け入れて、これからどうすべきなのかを冷静に考える。
流石は為政者のような事をしていただけの事はある。その器も、技量も、人を引っ張っていくに足り得る程だ。
と、そんな中。白蓮と神子のやり取りを見てポカンとしていた様子の布都だったが、不意にがばっと立ち上がってやたらと食い気味に、
「え、ええッ!? 太子様! 我らは疑いをかけられていたのですかッ!?」
「……声が大きいですよ、布都。この厳粛な寺院で、そんな態度は失礼にあたります」
物部布都は豊聡耳神子のとうに相手の欲を聞き取る事など出来ない。故にこちらがそんな思想を抱いているなど、思ってもみなかったのだろう。
人を疑わない素直な性格の彼女の事だ。こんな反応を示してしまっても、それは仕方のない事と言える。
「すいません。この子は少し、感情表現が豊かというか、喜怒哀楽が激しい一面がありまして……」
「いえ、大丈夫ですよ。お気になさらずに……。ウチの星も似たようなものですので」
「……えっ!? ちょ、聖! 何でそこで私の名前が出てくるんですかッ!?」
──ともあれ、だ。
気にしなくても良い。他でもない、神子本人がそう口にしているのなら、これ以上の遠慮はこちらとしても不誠実だ。今は折角、神子がこちらの意思を汲み取ってくれているのである。ならばその厚意をありがたく受け取るのが筋というものだろう。
一呼吸おいて、気を取り直して。
白蓮は、切り出した。
「では、単調直入にお聞きします。貴方は今、青娥さんがどこで何をしているのか把握しているのですか?」
「……ふむ、その質問から来ますか。そうですね……」
一瞬だけ何かを考えるような素振りを見せる神子。けれどもすぐにその視線を白蓮へと戻し、彼女の質問に答えた。
「……すいません。お恥ずかしながら、私達も彼女の動向を把握している訳ではないのですよ」
「把握していない……? それはつまり、青娥さんは貴方達の仲間ではないという事ですか?」
「いや、そこまで言ってしまうと少々乱暴ですね……。彼女は私の友人です。布都や屠自古のように、部下や側近という訳でもありません」
「それって……」
不思議そうな表情を浮かべつつも、星が首を傾げる。そんな彼女へと向けて、神子は微笑しながら言った。
「何もそんなに複雑な話ではありませんよ。至極単純な話です。私にとって、青娥は大切な友人なのです。……ただ、それだけです」
そう口にする神子の表情は、今まで見せたどの表情よりも穏やかなものだった。
まるで、慈しむかのように。まるで、想い出を懐かしむかのように。迷いも憂いも戸惑いもなく、彼女はきっぱりと断言したのだ。
霍青娥は、大切な友人なのだと。彼女にとって霍青娥は、それほどまでに掛け替えのない存在なのだと。
「妖夢達からも多少は話を聞いているのでしょう? 悩み、惑い、そして苦悩し切っていた私に新たな道を示してくれたのが青娥で、私がこうして尸解仙となるきっかけをくれたのも青娥なのです。……確かに青娥は、腹の底が知れない一面もあるのかも知れない。私は未だに、彼女の本質を理解し切るには至っていないのかもしれない。けれど、それでも……」
だとしても、と。神子は言葉を紡ぐ。
「私は、彼女の事を信じたい」
大切な友人だから。掛け替えのない恩人だから。故に彼女を信じたいのだと、豊聡耳神子は言う。
しかし。しかし、だ。
それでも、霍青娥という邪仙は現に“何か”を画策している。神霊騒動を隠れ蓑にして、彼女は暗躍を続けている。それは神子だって、重々に承知しているから。
故にこそ、彼女は「しかし……」と更に続ける。
「彼女が君達に危害を加えようとしたのも、また事実です。もしも……もしも本当に、彼女が人道から足を踏み外しているのだとするのなら……」
そして神子は、力強く口にした。
「友人として、私は彼女を止める覚悟です」
豊聡耳神子はどこまでも真っ直ぐだった。どこまでも誠実に、どこまでも揺るぎなく。
友人として青娥を止める。そう口にする彼女からは、梃子でも動かぬ強い決意がひしひしと伝わって来た。その言葉は出任せなどでは決してない。青娥の事を友人として信じているからこそ、彼女の意思は鋼よりも固い。
「太子様……」
神子の心情を察してか、布都もまた心配そうな声を上げる。神子の側近として、布都もまた青娥とは浅からぬ接点を持っているのだろう。彼女だって、彼女なりに思うものがあるはずだ。
そして布都は意を決した様子で立ち上がる。深々と頭を下げ、懇願するように彼女は言った。
「頼む白蓮殿、星殿! どうか……どうか青娥殿を、頭ごなしに悪者にはしないでくれぬか……?」
「ふ、布都さんっ……?」
布都の見せたいきなりの態度を前にして、慌てた様子で星もまた立ち上がる。
一瞬の緊張。そんな中でも、布都は更に続けた。
「確かに今、青娥殿は我らの知らぬ所で何かを画策しているようである……。しかし、青娥殿とて心の底から悪気がある訳ではないはずなのだ! きっと……きっと青娥殿には、青娥殿なりの考えがあるはず……!」
「ちょ、布都さん……! そんな、顔をお上げ下さい……!」
「無茶苦茶な要求である事は重々承知している! だが、しかし……、それでも……! もしも青娥殿がこれ以上悪事を働くようなら、その責任は我が必ず取る! だから……!」
「あわわわわ……。ど、どうしましょう聖……! そんなつもりはなかったのに、何だか私達が責め立てたみたいに……!?」
あわあわと大慌てな様子の星。彼女の反応も無理はないだろう。
白蓮達は神子達の詳しい事情を知らない。白蓮達にとって霍青娥という邪仙は得体の知れぬ不気味な人物であるという印象で、密かに何かを企てている要注意人物であるというイメージしかなった。
けれど、少なくとも神子や布都にとってはそのイメージは違う。
なぜ、神子や布都がそこまでして青娥を庇い立てするのか。なぜ彼女達は、そこまで真摯に青娥の事を信じようとするのか。
一体、何が彼女達をそこまで突き動かすのか──。
(……いや、そうですね)
きっと、白蓮にとっての命蓮寺の僧と同じだ。
大切な存在だから。家族同然の関係であると思っているから。だから信じられる。だから頑張れる。だからそこまで必死になれる。
同じだ。
彼女達だって、白蓮達と何も変わらない。例え妖怪にとって脅威と成り得るような力を持っているのだとしても、豊聡耳神子という女性の本質は至極穏やかだ。
誰かと手を取り合う事を、第一に考えている。青娥を信じようとするその姿勢は、彼女のそんな本質を如実に表しているのだろう。
だったら、白蓮のすべき事は一つだ。
「……貴方達のお気持ちは、確かに受け取りました」
神妙な様子の布都達に向けて、白蓮は告げる。
「私の方こそ、言葉足らずですいません。何も、私達は青娥さんの全てを否定している訳ではないのですよ。確かに客観的に見て、些か不審に思う所はありますが……。けれど、私達だって青娥さんの真意を掴めていません。そんな状態で真っ向からばっさり否定するなんて、そんな横暴をするつもりはありませんから」
「そ、そうですよね! 私達は、青娥さんの事をまだ殆ど知りませんし……。いきなり悪者だって判断しちゃうのも、早計ですよね……!」
「白蓮殿、星殿……」
白蓮達がそう告げると、布都がジーンと感激したような表情を浮かべる。
うるうると瞳を潤わせて、今にも泣き出しそうな面持ちで。けれども、パッと眩しいくらいの笑顔を浮かべると。
「お二人の心遣い、心より感謝するぞ……! そう言って貰えると、我らも救われる……」
感極まった様子の布都。ともすれば大袈裟だと捉えられるかも知れないが、彼女にとって白蓮達の言葉はそれだけ価値のあるものだったという事なのだろう。
優しい少女だ。けれども、それ故の危うさを持っているようにも感じられる。人を疑わないその純潔さは、時に自らの首を絞める事になるだろう。それは、聖白蓮もよく知っているから。
それ故にこそ、放っておけない。
彼女達の意思を、精一杯尊重したい。そんな彼女達が信じる霍青娥という人物だって、何も理解しないまま敵対するも悲しい事だと思うから。
だから、知りたい。
霍青娥。邪な道へと堕ちてしまったその仙人は、果たしてどんな思想を抱いているのか。
「神子さん。青娥さんの事は……」
「ええ、分かっています。私も流石に、これ以上傍観者に徹する訳にはいかない。出来得る限り、君達に協力しましょう」
白蓮が全てを説明するよりも先に、神子は頷いてそれに答える。
彼女の瞳に迷いはない。例え大切な友人が、悪事に手を染めている可能性があるのだとしても。それでも彼女は、彼女が出来る事を全うする。彼女なりのやり方で、大切な友人を
そんな想いが、豊聡耳神子から痛いほど伝わって来た。
「神子さんや布都さんの為にも、何とか青娥さんの足取りを掴まなければなりませんね、聖」
「……ええ。必ず」
それ故に。
「……神子さん、教えて下さい。貴方が知っている限りの、青娥さんの事を」
神子達が信じる霍青娥という邪仙の人物像。それを、はっきりとさせる為に。
「知りたいんです。青娥さんを、一方的に悪者だと決めつけない為にも……」
「……ええ。勿論、良いでしょう」
白蓮達は神子の話へと耳を傾ける。
敵対するばかりじゃない。霍青娥という人物とも、手を取り合う為に──。
*
蘇我屠自古はそもそも本質的に人付き合いがあまり得意ではない。
それは生まれつきの悪い癖というか、何と言うか。人と言葉を交わす度にどうしても高圧的な態度になってしまい、結果として相手を拒絶するかのような話口調となってしまう。別に、誰彼構わず怒鳴り散らそう等としている訳ではない。屠自古だって好き好んで相手を威嚇している訳でもない。
まぁ、要するに。人見知り、という事なのだろう。
威圧的な態度になってしまうのも、相手と接する際にどういった態度を取るべきなのかが判らないといった原因が大きい。何を話すべきなのか、どういった言葉を交わすべきなのか。蘇我屠自古は、そういった判断力が致命的に弱いのである。
その結果、出てくるのは威圧的な態度と暴走しがちな言動の数々。屠自古だって自覚している。中々どうして、自分は面倒くさい奴なのだと。
故に今日行われている命蓮寺の住職との会談は、屠自古の方から辞退させて貰った。──自分の余計な態度が、
(……私もそれで、満足だ)
命蓮寺の外。本殿前の石段でボーっと空を眺めながらも、屠自古は一人感傷に浸る。けれどもそこまで考えた所で、そんな事を考えている自分が何だか小恥ずかしくなって、早々に思考を切り替える事にした。
果たして自分は、こんなにもセンチメンタルな性格だっただろうか。あの人が復活してからというものの、屠自古はどうにも漠然とした不安感に襲われる事がある。また、あの宗教戦争のような事態が起きるのではないか。あの人を快く思わない仏教徒達が、自分達を迫害しようと画策を始めるのではないか。そんな根拠もない想像が、勝手に溢れてきてしまう。
「あー! くそっ、止めだ止めだ!」
ぶんぶんと頭を振るい、屠自古は余計な雑面を払拭する。
思考を切り替えるつもりだったのに、一体何をしているのだろう、自分は。自分の事ながら、呆れそうになってしまう。本当に、色々と面倒くさい思考である。
「なにを騒いでいるんだ?」
「……あ?」
──と。屠自古が一人唸っていると、不意に声をかけられた。
聞き覚えのある声。相も変わらず不機嫌な様子で、屠自古は反射的に振り返る。そこにいたのは、やたらと血色が悪そうな様子の額に御札を張り付けた少女。
「いきなり大声を上げるから何事かと思ったぞ!」
「お前……」
一体、いつからそこにいたのだろう。
彼女の事は知っている。霍青娥が使役しているキョンシー、宮古芳香である。なぜ彼女がこんな所に──と一瞬思った屠自古だったが、よくよく考えると先の神霊騒動で彼女はこの命蓮寺で保護されていたのであった。
保護、と表現すると聞こえは良いが、要するに捕虜である。あの人の意向もあり、屠自古達は命蓮寺の連中とそれなりに良好な関係を築いているけれど、しかし霍青娥に関しては話は別だ。あの人にとって霍青娥も大切な存在の一人なのだが、それでも彼女は屠自古達の味方と言う訳でもない。
──あの女の考えている事は、屠自古にだって判らない。命蓮寺の連中とも、そして自分達とも。今後敵対する可能性だって十分に有り得る。
だから彼女の配下である宮古芳香だって、簡単に自由を許す訳にはいかない。保護などという名目を立てているが、命蓮寺の連中だってそう考えているに違いないだろう。
けれども当の芳香は、そんな状況などお構いなしと言った具合に呑気な様子だった。
「どうした? お腹でもいたいのかー?」
「はぁ……。ったく。呑気な奴だな、お前は。自分の状況分かってんのか?」
「なにぃ! お前、私をバカにしてるのかー!? 私をバカにすると、痛い目を見ることになるぞー!」
「あー……。はいはい」
支離滅裂だ。まるで子供か何かを相手にしているかのような心地。霍青娥とは別のベクトルで、この少女の考えている事は理解できない。
「にしても、お前の主は一体何やってんのかね。自分の部下が捕まってんのに、未だに放置かよ」
「んー? 主ぃー?」
首を傾げる芳香。その様子はまるで、屠自古が何を示して主と呼称しているのか理解してない様子で。
「あのいけ好かねぇ邪仙の事だよ。お前の主なんだろうが」
「……それ、食えるのか? 美味しいのかー?」
「お前、文字通り脳みそ腐ってんのか……?」
まさか自分の主の事を忘れたのだろうか、彼女は。
キョンシーは元々人間の死体だ。防腐の術がかかっているとは言え、そもそも術の効力が発揮する以前に臓器が腐っていたら意味がない。宮古芳香の言動が支離滅裂なのは今に始まった事じゃないし、記憶を司る脳の重要な箇所が腐敗してしまっていても不思議には思わないが──。
「……いや、まさかお前」
──と。そこまで思考を巡らせた時だった。
「ちょっと芳香ー! いきなり走り出さないでよ!」
まるで急に駆け出した芳香の事を追いかけてきたかのように、一人の少女がこちらに駆け寄ってくる様子が見て取れる。
空色の髪に紺色の頭巾。そして白い長袖の上着に白いスカート。尼僧の恰好をした少女である。何やら桃色の奇妙なモヤモヤを連れた彼女は、屠自古の姿を認識するなり反射的に足を止めていた。きょとんとした様子で、彼女は屠自古を見据えている。
「……あれ? 貴方は確か、あの聖徳王の部下の亡霊……?」
「……そういうお前は、命蓮寺の入道使いか」
彼女の事は知っている。あの人が復活した後、挨拶と称して訪れた命蓮寺でも対面した事のある少女。
名前は確か、雲居一輪。彼女が連れるもやもやも立派な妖怪の一人で、見越入道と呼ばれる種族だったはずだ。入道使いのその名の通り、入道を使役する『能力』を持った彼女は、芳香の世話係を任されている様子だった。
そんな彼女は、屠自古に対して不思議そうな視線を向けると。
「どうして貴方がこんな所に? 今は姐さん達と会談中のはずじゃ……」
「んだよ。私がここにいちゃまずいのか?」
「え? い、いや……。別に、そういう訳じゃ……」
「……別に何てことはねーよ。
素っ気ない様子で、屠自古はそう答える。
別に嘘は言っていない。自分の性格上、ああいった場に同席すれば余計な事を口走って面倒事を引き起こしてしまう可能性がある。そういう意味では、苦手だと称する事に間違いはないだろう。
──あの人に迷惑をかけたくないから、なんて小恥ずかしい事は決して人前で口走りたくない。
「むー。お前、暗いぞー! どうしていつも怒ってるんだ?」
「別に怒ってねーし」
「嘘だ! 絶対怒ってるだろー! お腹空いてるのか? ご飯ちゃんと食べてないのか?」
「腹なんて減ってねぇよ。つーか私亡霊だし、最悪メシなんて食わなくてもどうとでもなる」
「私はお腹空いたぞー! なぁ、お前の霊力食べて良いか? 意外と美味しそう……。じゅるり」
「うわっ!? ちょ、マジで止めろ! 洒落になってねー!」
舌なめずりを始めた芳香を前にして、屠自古は慌てて遠のいた。『何でも喰う程度の能力』を持つ芳香に霊力を喰われたら、亡霊である屠自古は下手をすれば色々と危ない事になる。冗談抜きで、割と洒落にならない。
「ったく。お前、よくこいつの相手できるよな……。話もまともに聞かねーだろ、こいつ……」
「相手をしていると言うか……。まぁ、殆ど振り回されているだけですけどね……」
ははは、と一輪は渇いた笑い声を上げている。どうやら彼女も、このキョンシーには散々翻弄されているらしい。──主が近くにいないキョンシーなど、どんな行動を取るか予測も出来やしない。一輪達が芳香に振り回されている様子を想像すると、別に主でもないのに屠自古の方が申し訳なく思えてきてしまった。
「お前達も意外と大変だな……」
「……まぁでも、小さな子供を相手にしているようなものですよ。慣れちゃえば意外と平気かな」
「小さな子供の相手、ねぇ……」
屠自古が一番苦手なジャンルである。意外と平気だと言い切る一輪は、素直に凄いと思う。屠自古じゃ真似するのも難しい。
「はぁ……。まったく、あの女はいつまでコソコソとしてるつもりだよ……。さっさと芳香の奴を回収しちまえばいいのに」
「あの女……って、今ちょっとした問題になっている邪仙の事? 芳香の主なんですよね?」
屠自古の小言に対して、一輪がそう尋ねてくる。別に隠す事でもないので、素直に頷いて答えてしまう事にした。
「ああ。マジで何考えてんのか分かんねーんだよな、あいつ。考えれば考えるほど、薄気味悪いっつーか何つーか」
「……え、えっと、一応貴方達の知り合いなんですよね? そんなストレートに薄気味悪いとか言っちゃって良いの……?」
「構うもんかよ。ぶっちゃけ、あいつの事は前々から気に食わねーと思ってたんだ」
「えぇ……?」
何やら一輪が微妙な表情を浮かべている。
自分達における霍青娥のポジションは、少しばかり特殊だ。布都や屠自古のように、彼女は神子と志を共にした同志ではない。神子に道教を齎し、ああして尸解仙となるきっかけを与えてくれた
いや。まったくの無関心と言う訳でもなかったはずだ。けれど豊聡耳神子への関心以上に、彼女は何か
『大変ですよ、屠自古さん。これは一大事です』
蘇我屠自古は思い出す。
それは、あの人が──豊聡耳神子が目覚めるよりも、少し前。霍青娥が、屠自古へと向けて唐突に告げた言葉。
『もうすぐ、太子様に危害を加えようとする何者が現れます。このままでは、彼女は復活後すぐに再封印される事になってしまうかも知れません』
忘れられない。それはともすれば鬱陶しいくらいに、屠自古の記憶に焼き付いてしまった光景。
『ですので、しっかりと対応策を練っておく事をオススメします』
そう口にする霍青娥の表情からは。
『私だって、太子様の復活をお祝いしたいのですから』
確かに、これまで霍青娥の言っていた事は少なからず屠自古達にも恩恵を齎してくれていた。あの宗教戦争の時も、そして今回だってそうだ。結果論として命蓮寺の連中や博麗の巫女達と完全に敵対関係となる事はなかったが、それでもあの神霊騒動の所為で一触即発な状態だった事は確かだ。神子に危害を加えようとする何者かが現れるという彼女の言葉も、強ち間違っていた訳ではない。
けれども。だとしても。
それでもやっぱり、
あの女は、どこかがおかしい。何か、屠自古達とは根本的に違う“何か”を抱いているように感じる事がある。太子様の復活をお祝いしたいと口にする傍らで、全くの別の強大な思想を抱いているかのような。そんな感覚。
根拠もない漠然とした感覚。けれどそれでも、蘇我屠自古の心はざわつき続ける。
あの邪仙は、どこか危険で不安定なのだと。そんな警鐘が、自然と屠自古の中で鳴り響き続ける。
(うん……?)
ふと、気づいた。
先程まで鬱陶しいくらいに屠自古に付きまとっていたキョンシー、宮古芳香。そんな彼女が、いつの間にかピタリと大人しくなっているのである。
気になって視線を巡らせると、彼女は屠自古達とは少し離れた所で佇んでいる。ぼんやりと、空を眺めながら。
「あー、芳香ったらまた急にぼんやりとしちゃってる」
そんな芳香の様子を見て、慣れた様子で一輪がそう告げる。
「たまにあるんですよね。普段は元気いっぱいなのに、急に糸が切れたみたいに大人しくなっちゃって。最初は少し驚いたけど、でもこれも近くに主がいない事の弊害なのかな」
「……弊害、ね」
キョンシーは基本的に主である術者の操り人形だ。故に主の指示がなければ、キョンシーは自らが活動している事への意義を見失ってしまう。確かにそんな状態に陥れば、自然と機能を停止してしまうような事になっても不思議ではないのかも知れない。
しかし、だ。
「……春が、集まる」
「……は?」
「…………」
芳香のか細い呟き。屠自古は改めて聞き耳を立てるが、けれどもそこまでだ。それ以降、芳香は何の言葉も発せず空を見上げるのみとなってしまう。
それはまるで、何かを待っているかのように。虎視眈々と、何等かのタイミングを見計らっているかのように。鋭く──。
(春……?)
──ああ、そう言えば。
今年の春は、やたらと寒い──。
*
旧都に到着後、プリズムリバー三姉妹と別れてから十数分。進一と妖夢は、こいしに連れられるような形で旧都の中心部にまで足を運んでいた。
灼熱地獄跡。文字通り、地獄に堕ちた死者の罪人を責め苛む為のアレである。“跡”というその名の通り現在はそんな用途で使われる事はないようだが、それでも機能を停止している訳でもないらしい。灼熱地獄の名に恥じない活性化した溶岩と、おまけに地獄に堕とされた怨霊達が未だそこに存在しており、誰かがしっかりと管理しなければ周囲はあっという間に火の海だ。
そんな危険地帯を管理する役割として機能しているのが、ここ地霊殿なのである。
灼熱地獄跡に蓋をするかのように建てられたその洋館は、旧都の他の建物と比べても一際重厚な造りである。冥界でいう所の白玉等のように、この旧地獄において重要な役割を担っているからだろうか。西洋風のその館は外観だけでも大豪邸で、見上げるだけでも圧巻されてしまいそうだ。幻想郷は和風な建築物が多かった事もあり、このように洋風な屋敷を前にすると何だかちょっぴり新鮮な気分になってくる。
「とーちゃくっ!」
元気いっぱいな様子でそう言いながらも、こいしは地霊殿の正門をくぐる。進一達もその後に続いた。
周囲を白い外壁で囲まれたその敷地内に建てられているのが、大聖堂か何かを彷彿とさせる本館である。見れば見るほど、その豪勢さには圧巻だ。
「……凄い大豪邸だな」
「え? そうかなー?」
「ああ。想像以上だ」
白玉楼で多少は慣れていたと思っていたのだが、こういった趣の建物は馴染みが薄かった為か、余計に強い衝撃を受けているような気がする。こんな豪邸に住んでいるなんて、ひょっとしてこいしは幽々子にも負けず劣らずなお嬢様だったのだろうか。
「まぁ、旧地獄における地霊殿の皆さん立ち位置は、冥界における私達と似ていますからね。実際、さとりさんの地位はかなり高い方だという認識で間違いはないですよ」
「確か、怨霊の管理もしているんだっけか。幽々子さんは幽霊の管理を任されてるし、確かにそういう意味では似た役割に就いているみたいだな」
旧地獄版白玉楼、という認識でも間違いはないのだろうか。旧都を牛耳っているのは主に鬼であると聞いていたので、この辺りを治めているという訳でもなさそうだが。
「さぁさぁ、早く行こうよ! お姉ちゃんが待ってるよ」
「……ああ。そうだったな」
こいしに急かされるような形で、進一達は玄関の前まで移動する。これまた豪勢で重厚な扉を開けると、そこには吹き抜けのエントランスが広がっていた。
まず真っ先に目に入るのが、二階部分へと続く階段の踊り場にある大きなステンドグラスである。外観だけでも大聖堂っぽい印象を受けていたが、どうやら内装も例外ではないようだ。よく見ると床にもステンドグラスが張られているようで、それがほんのりと光を放っている為に何とも幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「あっ! こいし様だ!」
──と。進一達が地霊殿の本館へと足を踏み入れるや否や、声をかけてきた少女がいる。
エントランスの奥からトコトコと駆け寄って来たのは、何やら特徴的なシルエットの少女。少女にしては長身の方で、何よりも目を引くのは背中にある一対の黒い翼。中々に威圧感のあるシルエットとは裏腹に浮かべる表情は人懐っこそうなもので、こいしとも負けず劣らず無邪気な印象を受ける少女だった。
間違いなく妖怪の類なのだろうか、彼女は一体どういった立ち位置なのだろう。こいしの事を様付けで呼んでいたようだが──。
「こいし様みーつけた! おかえりさなさい! 今日は無意識じゃないんですね!」
「ただいまお空! ふっふっふ……。私だって、これでも結構『能力』を制御できるようになってきたんだよ?」
お空と呼ばれた少女に対して、得意気な様子でドヤ顔を浮かべるこいし。お空もお空で、「おー!」と心底関心したようなリアクションを見せていた。
実に楽し気な様子である。身長の高さもあって容姿に関しては霊夢や早苗達と同じか少し上くらいの少女に見えるのだが、内面に関してはだいぶ幼そうだ。純粋無垢で穢れを知らぬようなキラキラとした印象を受ける。
「……こいし。そいつは?」
「あ、うん。この子の名前は霊烏路空! お姉ちゃんのペットの地獄鴉なんだ!」
「ぺ、ペット……?」
──予想外の言葉が飛び出した。何だ、ペットとは。それは言葉通りの意味だと捉えてしまっても良いのだろうか。
「あ、お客さん? 初めまして! 私は霊烏路空だよ!」
「あ、ああ。俺は岡崎進一だ。よろしく頼む」
元気いっぱいなお空に若干気圧されながらも、進一は軽く自己紹介をしておく。
メルランのように声量が大きい訳ではないが、それでもよく通る声をしている。こんな短いやり取りだけでも、だいぶ印象に残りそうだ。
「そっちの小さくて白い人も! 初めまして!」
「え、えっと……。私、前にもここに来た事があるんですが……。その時も会ってますよね?」
「うにゅ……? そうだっけ?」
小首を傾げるお空。腕を組み、「うーん……」と唸りつつも記憶を探っているようだが。
「ごめん、忘れた!」
「そ、そうですか……」
「もうっ、お空! 半分幽霊のお姉ちゃんは妖夢だよ! 相変わらず忘れっぽいんだから!」
「むむむ……。だって私、覚えたりするの苦手なんですもん……」
こいしに指摘されてもあまりピンと来ていない様子。どうやら彼女、おつむの方も少々弱い部類らしい。人の名前を覚えないという点では霊夢も似たような部分があるのだが、お空の場合は覚えないのではなく純粋に覚えられないようだ。鴉だと言っていたし、やはり鳥だからだろうか。
「そ、そんな事より……! えっと、二人はどうして地霊殿に来たの? 何の用事?」
「俺達はここの主に会いにきたんだ。こいしから既に話は通っていると聞いていたが……」
「あー……。確かに、そんな話を聞いたような、聞かなかったような……?」
曖昧な様子である。事前にこいしが確認してくれているはずなので、大丈夫だとは思うが──。
「うにゅ、分かった! それじゃあ、さとり様を呼んで来てみるね! ここで待ってて!」
「そうか。なら、お願いできるか?」
「うん! すぐに呼んでくるから!」
そう言うとお空は、ぴゅーっと風のように駆け出してエントランスの階段を駆け上がっていった。どうやらさとりの部屋は、この洋館の二階部分にあるらしい。
それにしても、何とも賑やかな少女だった。見た目にそぐわず、実に純粋無垢で活力に溢れた印象である。覚える事が苦手な印象だったけれど、ああいった元気なタイプの少女がいると自然と周囲は明るくなるものだ。
灼熱地獄跡の上に建てられているから、地霊殿はもっと殺伐としているのではないかとも思っていたのだが──。どうやら、その考えは改める必要がありそうだ。
(……それにしても)
そこで、ふと進一の脳裏に“何か”が過る。
(霊烏路空……。お空、か……)
それはあまりにも、ともすれば見逃してしまう程に縹緲とした感覚。古明地こいしと再会した時とは程遠い、例えるならば小さな虫にチクりと刺された程度の衝撃。
気にはなる。けれどもそこまで意識を傾けるべきでもないような。それくらいの曖昧さ。
それでも一応、確認してみる事にする。
「……なぁ、妖夢。ひょっとして生前の俺は、あの空って子と会った事があるのか?」
「え? お空さん、ですか?」
妖夢の確認に対し、進一は頷いてそれに答える。
「うーん……。私の記憶の限りでは、会った事はなかったと思いますが……。ひょっとして、何か思い出したんですか?」
「……いや」
しかし進一は、やはり首を横に振った。
「色々と無理に思い出そうとした所為で、少し混濁としているのかも知れない。多分、気の所為だ」
「混濁、ですか……」
「ああ。悪いな、紛らわしい事言っちまって」
実際、この感覚はあまりにも曖昧だ。霊烏路空という名前に対して若干の心当たりを覚えたような気がしたが、けれどもそれは記憶の想起と呼ぶにはあまりにも弱すぎる。
妖夢の記憶の限りでは、進一はお空と会った事はないはずらしい。だったら気の所為だと思ってしまう方が余程しっくりくる。
いずれにせよ、古明地さとりに会えば何かが判るかも知れないのだ。
だったら今は、この曖昧な感覚のままあれこれと考察をしても仕方がない。
──そして、それから。
少しの間だけ、時間が流れて。
「──お待たせしてしまったようですね」
コツコツと、二階部分から足音が聞こえてくる。
ステンドグラスが設けられた、エントランス中央の階段。その先から、一人の少女が階下へと降りてくる様子が見て取れた。
身長は小柄だ。妖夢とほぼ同じか、彼女よりも小さいくらいだろうか。紅藤色の髪はボブヘアで、何とも眠たそうな表情を浮かべている少女だった。フリルが多い衣服を身に着けており、眠たそうなその表情と合わさってゆったりとした印象を受ける。
そして何よりも気になるのが、管のようなもので繋がれた赤色の“眼”。古明地こいしも持っている、群青色のそれと同じ形。
こいしと一つ決定的に違う点は、その“眼”がしっかりと開かれている事だろう。まるで全てを拒絶しているかのように固く閉ざされたこいしの“眼”とは違い、彼女の“眼”は全てを見透かすかのようにはっきりと開かれている。心の奥の、そのまた奥。まるで、そんな部分まで赤裸々に見透かさんとするかのように──。
「お久しぶりですね、妖夢さん。それと……」
階上からエントランスに降り立った彼女は、そう口にしつつもこちらに歩み寄ってくる。
チラリと妖夢に会釈をした後、今度は進一へと視線を向ける。体格差故に彼女の方が見上げるような形となるが、それでも眠たそうなその瞳はしっかりと進一の目を捉えていた。
「妹から話は聞いています。成る程、貴方が岡崎進一さんですか」
そう口にすると、彼女はペコリとお辞儀をする。無邪気な妹とは対照的に、とても落ち着いた様子で。
「あんたが……」
「ええ。私が古明地こいしの姉、古明地さとりです。以後、お見知りおきを」
顔を上げ、彼女──古明地さとりは、薄く笑顔を見せる。
胸元の
通算話数100話似内に完結する。
そう思ってた時期が私にもありました。