桜花妖々録   作:秋風とも

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第壱部『現代入り篇』
第1話「半人半霊の少女」


 

 それは、宛ら吹雪のようだった。

 ひらりひらりと宙を漂い、風に吹かれて乱れ舞う。浮遊するのは、淡紅色の雪──否、これは桜だ。空を覆うように吹き乱れる、桜の花吹雪だった。

 

 辺り一面に繚乱する、桜の花。しかし風が吹く度にその花弁は花柄から離れ、吹雪の如く宙を舞う。その様は、儚くも美しく、けれどもどこか物寂しい。まるで潔く散りゆく生命(いのち)の様子を、眺めているかのようだ。

 

 そんな中に、彼女はいた。

 いつからそこにいたのか、何の為にここまで来たのか。今となってはそれすらも、分からなくなってきたけれども。ただ彼女は、眼前に広がるものから目を離せずにいた。

 咲き乱れる桜。乱れ舞う花吹雪。そんな中を幽雅に漂う、無数の蝶。そしてその中心で佇む、少女の事を。

 

 彼女は直感する。このままでは駄目だ、と。これ以上続けさせてはいけない、と。

 だから彼女は手を伸ばす。必死になって、声を張り上げる。

 でも。

 

「──、────」

 

 目の前の少女が振り向いて、何かを口にする。それを耳にした途端、彼女は身体が崩れ落ちるような感覚に襲われた。

 どうして。どうして、こんな事になってしまったのだろう。彼女は一体、何をやっていたのだろう。彼女が護るべきであるはずなのに。護らなければならないのに。

 

 しかし。もう、彼女には何もできない。目の前で繰り広げられているものの結末を、ただ見届ける事しかできない。

 

 反魂と、死を。

 

 

 ***

 

 

 突然だが、落下するような感覚を覚えて睡眠から一気に覚醒した経験はないだろうか。

 自律神経の乱れが原因だとか、睡眠中枢と覚醒中枢が不安定な状態だったからだとか云々。原因は何であれ、それによる目覚めの瞬間はあまり良い気分ではない場合が多い事だろう。突然現実に引き戻されるかのようなあの感覚は、誰しも不快に思うものだ。

 

 そして。その少女もまた、例外ではなかった。

 突然ストンと高所から落下するような感覚に襲われて、魂魄(こんぱく)妖夢(ようむ)は目を覚ました。ビクッと身体が飛び上がり、まどろみの中から引き戻される。

 いけない。いつに間にか居眠りをしてしまっていたのか。白玉楼でいつも通りの雑務を熟し、それが一段落した所で縁側に腰掛けてちょっぴり休憩──のはずが、ついうとうとしてしまったらしい。

 何やら妙な夢を見ていた気がする。まるで見覚えがないはずなのに、なぜだか胸中にずっしりとのしかかるような。そんな感覚を引き起こすような夢。あの突然の落下感で、内容は綺麗さっぱり忘れてしまったけれども。

 

 いや、今はそんな事はどうでもいい。問題なのは、妖夢がこれまで居眠りをしていたという事実だ。

 おかしい。規則正しい生活リズムは日々保っていたつもりだ。昨晩もいつも通りの時間に床に就き、今朝もいつも通りの時間に起床した。にも関わらず、居眠り? 自分でも気付かぬ内に、疲れが溜まっていたのだろうか。

 

(早く起きなきゃ……)

 

 何はともあれ、いつまでも居眠りしてはいられない。どのくらい眠っていたかは分からないが、体感的にそろそろ夕食を作るべき時間だろう。であるのならば、尚更急いで起きなければ。主の食事はただでさえ量が多いのだから、作るだけでも一苦労だ。早いところ準備に──。

 

「……へ?」

 

 ──取り掛かろうと立ち上がったその時、妖夢は思わず間の抜けた声を上げてしまった。

 何だ。何なんだ、これは。一体、何が起きた? 妖夢は今の今まで、白玉楼の縁側に腰掛けていたはず。顔を上げると、そこには彼女が日々欠かさず手入れを行っている枯山水が広がっているはずなのだ。そのはずなのに。

 

 どうして、こんなにも大きな池などがあるのだろう。

 

「……えっ?」

 

 頭の中が真っ白になった、などと言った表現はよく耳にするが、今の妖夢がまさにその状態だ。状況がまるで呑み込めず、ポカンと口を開いたまま再び間の抜けた声を漏らす。

 

 水の張った池だ。それ以上でも、それ以下でもない。しかし、それは白玉楼の中庭にはあるはずのない物なのだ。当然、縁側から立ち上がった途端に、そんなものが視界に飛び込んでくる事なんてあり得ない。

 となると、至る考えは一つ。妖夢が立っているこの場所は、白玉楼とは違った別のどこかであるという事。

 

「えっと……」

 

 恐る恐る、妖夢は後ろを振り向いている。そこにあったのは馴染み深い大きなお屋敷──などではなく、やや傾斜のかかった野原だけだった。

 妖夢は思わず息を呑んだ。まさかの予感的中である。しかも白玉楼どころか建物すらもない。一体どこなんだ、ここは。

 

 見下ろすと、そこには木で出来た横長の腰掛けが置かれている。どうやら妖夢は今までこれに座っていたらしい。当然、こんな腰掛けも見覚えはない。

 

「…………」

 

 だんだんと状況が呑み込めてきて、妖夢は冷や汗をかき始めた。

 目が覚めたら、そこは見知らぬ場所だった。なぜこんな事になっているのか。真っ先に考えられる理由は、眠っている間に誰かに誘拐されたという事。

 いや、しかし。誘拐されている事に気付かぬ程にぐっすり眠っていたなど。いくら妖夢が半人前とは言え、そんな間抜けな事はあり得るのだろうか。けれども、可能性はゼロではない訳で。

 

 妖夢は一度、自分の身体を見下ろしてみる。白いシャツの上に緑色のベスト、そして同じく緑色のスカートと言ったいつも通りの服装。服に大きな乱れは確認できない事から、少なくとも乱暴に連れてこられた訳ではなさそうだ。

 そして、その腰元には妖夢愛用の二本の剣が。

 

「楼観剣も、白楼剣もある……」

 

 剣が二本ともなくなっていない事を確認し、妖夢はホッと胸を撫で下ろした。

 楼観剣も白楼剣も、妖夢にとってなくてはならない大切なものだ。それがまだ手元にあるというだけでも、だいぶ混乱が落ち着いてくる。

 

 しかし。剣が二本とも妖夢の手元にあるという事は、誘拐されたという可能性は限りなくゼロであるという事になる。仮に犯人がいるのならば、武器と成り得るものは真っ先に没収するはずだ。にも関わらず、楼観剣も白楼剣もなくなっていない。

 

 やはり誘拐された訳ではないのだろうか。それならば、何か別の原因が?

 

「とにかく、早く帰らないと。幽々子様の夕飯が……」

 

 何が原因でこんな事になったのかは非常に気になるが、そんな事をいつまでも考察している場合ではない。今は白玉楼に帰る事を最優先に考えるべきだろう。あの主を空腹のまま放置しておくのは非常にまずい。色々と。

 

 しかし、帰るにしてもどこへ向かえばいいのだろう。と言うか、そもそもここはどこなのだろうか。

 取り敢えず、飛んで上空から周囲を確認してみよう。ひょっとしたら、意外と自分も知っている所から近場だったという可能性も──。

 

「……あ、あれ?」

 

 しかし。そこで妖夢は、自分の身体の異常に気づく。

 

「う、嘘……!? どうして……!?」

 

 飛べない。そう、空を飛べないのだ。

 普段から、意識せずとも普通に飛び回っていたはずなのに。どう言う訳か、いつものような感覚が全く感じられない。

 飛翔するイメージをしても上手くいかない。ぴょんぴょんとジャンプしてみても、少しの浮遊も出来ずに着地してしまう。

 

「と、飛べない……?」

 

 それどころか、上手く霊力を込める事すらできない。そう言えば、なんだか身体もいつも以上に重いと言うか、怠いような気がする。てっきり目覚めの悪い寝起きである所為だと思っていたのだが、まさか空が飛べなくなったのと何か関係あるのだろうか。

 

「はぁ……どうしてこんな事に……。ん?」

 

 目が覚めたら見知らぬ場所だったり、なぜだか空が飛べなくなっていたり。なんだか泣きたくなってきた所で、妖夢は更にとんでもない事に気づいてしまった。

 服の乱れも確認できず、楼観剣も白楼剣もなくなっていない。ただそれだけで安堵して、気を抜いてしまっていた。ある意味もっと大きなものが、なくなっているのにも関わらず。

 

「…………」

 

 一筋の冷や汗が、妖夢の頬を撫でる。サーっと血の気が一気に引き、色白な彼女の顔が真っ青になった。

 

 きょろきょろと周囲を見渡してみる。ない。

 大きく空を仰いでみる。ない。

 そうだ、あの腰掛け。屈んでその下を覗き込んでみる。でもやっぱりない。

 

「なっ、ななな……!」

 

 あぁ、そうか。成る程、これなら納得できる。

 空が飛べなくなったのも、身体の調子がいつもと違うのも。全部、この所為だったのか。

 

「ない……!? 私の半霊がぁ!?」

 

 半人半霊の特徴、半霊。半身、言わば身体の半分であるそれがなくなったのならば、本来の力を発揮できなくて当然と言えば当然である。

 

 

 ***

 

 

 周囲に夜の帳が落ちてから、少し時間が経過した頃だった。

 

 焼けつくような夏の暑さもすっかり鳴りを潜め、肌寒い日がだいぶ増えてきた今日この頃。街灯がやんわりと照らす中、コンビニ袋を片手に持った一人の青年が、のんびりと帰路に就いていた。

 大学の講義が全て終わり、レポート課題も終わらせた後は特に予定もなかったので真っ直ぐ自宅に帰ろうとする。しかし電車から降りた所で炊いてあるご飯が切れていた事を思い出し、仕方なくコンビニに寄って適当におにぎりを買っておいた。新たにご飯を炊くのも良かったのだが、お昼がやや遅かった所為か正直あまりお腹は減っていない。それならば、まぁ夕食はコンビニのおにぎりでも良いかと、少々投げやりな判断で片付けてしまった。ご飯はどうせ明日の朝には炊く事になるのだろうが。

 

 彼はふと空を見上げてみる。

 夜。周囲はすっかり真っ暗だ。最後の講義が終わった時間はそれ程遅くはなかったのだが、レポートを片付けるのに意外と時間がかかってしまった。途中で集中力が何度か切れかかったが、中途半端な所で投げ出そうものなら後々面倒な事になりかねない。彼は基本、課題を一気に終わらせるタイプの人間なのだ。後からやり直そうとしても、どうにも集中力が乗らなくなってしまう。

 

「……ま、どうせ明日は休みだし」

 

 帰りが多少遅くなっても、然程問題はないだろう。いや、そう考えると課題は明日に回しても良かったような気もするが。今さらそんな事を考えても後の祭りである。

 

「さて、さっさと帰って……。うん?」

 

 いつも通り公園を突っ切って近道をしていた青年だったが、突然視界に妙なものを捉えて足を止める。一瞬何だと思ったが、どうやら人のようだ。

 

 白銀の髪を持つ、一人の少女だった。

 歳は、見た感じ恐らくその青年よりも下だろう。雪のような白い肌に、やや小柄な体型。服装は緑を基調としたベストにスカート。そして頭には黒いリボン。しかし、どことなく古臭いと言うか、最近のファッションとはややズレているような気がする。まるで、一昔前の人間が突然現代に迷い込んでしまったかのような──。

 

(……なんだ? あいつ)

 

 確かに見慣れない服装をしている少女だったが、それだけでは彼の興味は直ぐに別の方向へと行ってしまっただろう。しかし、その少女には明らかに奇妙な点が二つあった。

 

 まず一つ。それは、彼女が腰元にぶら下げているものだ。

 あれは、どう見ても鞘に収まった日本刀にしか見えないのだが。しかも一本だけではない。二本だ。長さが違う二本もの日本刀を、あの少女は身に付けている。

 何なんだあれは? 本物なのだろうか。だとしたら明らかに銃刀法違反じゃないか。

 流石にそこまで日本の法律はガバガバではないと思うので、十中八九模擬刀か何かなのだろうけれども。それでも、一人の少女があんなものを外で持ち歩いている姿は、中々シュールな光景である。無頓着な性格である彼でさえも気になってしまうのだから、きっと相当なのだろう。と言うか、模擬刀でもあんなに堂々と持ち歩くのはまずいのではないか。

 

 さて。もう一つの奇妙な点。それは彼女の様子だ。

 模擬刀を身に付けたその少女は、何やらキョロキョロと周囲を見渡して挙動不審気味なのだ。上を見たり、下を見たり、ガサガサと近くの草むらを探ってみたり。あれは、ひょっとして何かを探しているのだろうか。

 

(これは……。どうすっかなぁ……)

 

 模擬刀を二本も装備した、挙動不審な少女。いつ通報されてもおかしくない字面である。

 しかし、まぁ。実際には、そこまで怪しい少女には見えない。模擬刀を装備してたりと服装は変だが、顔つきは素直で真面目そうなのだ。挙動不審なのも、何かを無くして必死にそれを探しているようにも見えなくもない。

 

 その青年は迷っていた。このまま行けばあの少女の真横を通り過ぎなければならないが、見て見ぬふりをして素通りをして良いものか、否か。どこをどう見ても悪人には見えない容貌だが、それだけで不信感が拭いされる訳がない。気安く関わると、痛い目に遭う可能性もある。

 だけれども。必死になって何かを探しているあの少女の表情は、本当に救いを求めているかのようなものだったから。

 

(……ったく。仕方ないな)

 

 最終的に、彼が出した結論は一つ。

 

「……なぁ、そこで何してるんだ?」

 

 放っておくのも、後味が悪い。だから声をかけてみる事にした。

 

 

 ***

 

 

 ない。ない。どこを探しても、やっぱりない。

 あれから周囲を隈無く探し回ったが、結局半霊は見つからなかった。月明かりが優しく降り注ぐ中、妖夢はがっくりと項垂れそうになる。

 まさか半霊がなくなる事があるなんて。今までそんな事は一度もなかったし、考えた事すらなかった。そもそも自分の半身がいなくなってしまうなど、どうして想像できよう。

 しかもその影響は、既に如実に現れている。相変わらず空は飛べないし、身体の調子もいつもと違うまま。半霊がいなくなると、ここまで目に見えて弱体化してしまうのか。

 

(うぅ……。幽々子様ぁ……)

 

 主の事を考えると、何だか泣き出しそうになってくる。もういっそ泣いてしまおうか。どうせ誰も見てないだろうし、別に良いのではないか。

 

 度重なる不測の事態と蓄積されてゆく疲労感で、妖夢の心はボロボロだった。遂に限界が到来し、身体が崩れ落ちそうになる。しかし、その時だった。

 

「……なぁ、そこで何してるんだ?」

 

 不意に、声をかけられた。

 誰かが、いる? ワンテンポ程遅れて、妖夢は声の方向へと視線を向けてみる。怪訝そうな表情を浮かべる、見知らぬ一人の青年がそこにいた。

 歳は、成人の域に達するくらいだろうか。身長は小柄な妖夢と比べると高く見えてしまうが、恐らく平均的であろう。髪の長さは長くもなく、短くもないと言った所。何より目を引くのはその服装で、幻想郷ではあまり見ない服を着ている。少なくとも、人里ではこんな格好をしている人間は見た事がない。

 

「あっ……いえ。ちょっと、探し物を……」

「探し物?」

 

 妖夢はコクりと頷く。なぜだか不審に思われてしまったようなので、その誤解は解かなければ。色々と気になる事はあるが、それを考えるのは後にして──。

 

(……いや、ちょっと待って)

 

 そこで、妖夢はとある事に気がつく。気がつくと同時に、再び冷や汗が流れ落ちてきた。

 実はさっきから、妖夢は自分の身体以外にも違和感を覚えていた。周囲の空気の淀みと言い、星が少なすぎる空と言い。妖夢が普段見てきた世界とは、根本的な何かが違う気がする。

 そして、目の前に現れたこの青年。彼の着ている服を見て、妖夢の予感はより確実なものとなってしまった。ドクンと、心臓が飛び上がるのを感じる。

 

 いや、でも。まだ、勘違いと言う可能性もある。昔からよく「思い込みが激しい」などと言われていたから。今回も、とんだ思い過ごしだった──なんていう可能性も。

 

 それも全部、この青年に確認すれば分かる。

 妖夢は恐る恐る、彼に一つの質問を投げかけた。

 

「あの、つかぬ事をお聞きしますが……。ここがどこなのか、教えてくれませんか?」

 

 

 ***

 

 

 妙な事を聞かれた。ここがどこなのか、教えて欲しいとの事だ。

 まさか、この少女は道に迷っていたのだろうか。それならばさっきまで挙動不審だったのも納得できるが。

 それにしても。ここがどこなのか、とは一体どの範囲を示しているのだろうか。県なのか、市なのか。流石に日本なのは分かっていると思うが。

 

 取り敢えず、県辺りを教えてみよう。その方が分かりやすい。

 

「どこって……。ここは京都だが?」

「きょう、と……?」

「ああ。それがどうかしたのか?」

 

 まるで疑問符でも浮かんでいるかのような表情をする少女。その様子は宛ら、『京都』という単語を初めて聞いたかのような。

 

(……いやいや、待てよ)

 

 日本に居ながら、京都を知らぬなどあり得ないだろう。いくら何でも、首都の名前を聞いた事すらないなんて。

 

「あ、あの……。もう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「……なんだ?」

 

 何かに気がついたのか、少女は引きつった表情を浮かべながらも再び口を開く。平静を装っているようだが、実際には不安感に呑み込まれそうになっているのが見え見えだ。

 何か余計な事を言ってしまったのだろうか。ただ、ここが何県なのか教えただけのつもりだったのだが。

 

「その……幻想郷、と言う場所をご存知ですか?」

「げん……、なんだそりゃ?」

 

 いきなり聞き覚えのない単語が飛び出した。

 幻想郷? 場所、と言ったか。この少女は。と言う事は、どこかの地域の名前か何かなのだろうか。初耳なのだが。

 思わず素っ気ない態度で答えてしまった青年だが、悪気があった訳ではない。京都を知らない様子だったり、いきなり見知らぬ土地の名前を口にしたり。そんな少女を前にして、彼も少なからず困惑していたのだ。

 

 しかし今の態度は、ちょっと冷たすぎだっただろうか。それに気づいた青年が、少し罪悪感を覚え始めていた頃。

 

「そ、そうですか……。そうなんですかぁ……。成る程成る程ぉ……」

 

 ポカンと口を開き、目尻に涙を浮かべながらも少女はわなわなと震えていた。何とも言えない表情を浮かべるその少女を見て、彼は思わず言葉が詰まる。

 何だ、この反応。今の彼の態度は、そんなに少女の胸に突き刺さったのか。泣く程なのか。

 

「あぁ……外、外の世界かぁ……。まさか冥界どころか幻想郷ですらないなんて……」

「お、おい。大丈夫か?」

「あ、はい。大丈夫、私は大丈夫ですよ。ふ、ふふふふ……」

 

 成る程、大丈夫ではなさそうだ。

 気が触れてしまったんじゃないかと、思わず心配になりそうな笑い声を上げている。この状態は非常にまずい。とにかく、落ち着かせなければ。

 

「お、落ち着け。気を確かに持つんだ」

「ふふふ……。私は落ち着いてますよ? 至って冷静ですから」

「いや、どう見ても全然冷静じゃないから。とにかく、だな……。えっと……、そうだ。お前何か探し物をしてたんだっけか。それなら、俺もそれを探すの手伝うからさ。な?」

 

 心を落ち着かせる為に、敢えて何か別の事をするのは意外と効果的だ。この少女が青年の態度の所為でおかしくなっているのか、それとも話の流れから考えてここが京都なのが問題だったのか。正直それは定かではないが、とにかくそのどちらも一度頭から抜いた方が良い。

 

 どうやら探し物をしていたようだし、先にそちらを片付ければ少しでも落ち着けるはずだ。

 

「……本当ですか?」

「ああ、本当だ。それで? 何を探してたんだ?」

「あ、ありがとうございます……! えっと……実は、私の半霊がなくなってしまって」

「…………は?」

 

 半霊? 何だ、それは。

 

「……えっと、その半霊ってヤツの特徴は?」

「特徴ですか? う~ん……。このくらいの大きさの幽霊で……」

 

 あ。この少女、もうヤバいかも知れない。

 

 少女は両手を肩幅くらいに広げながらも、そう説明してくる。つまり、その半霊とやらはあれくらいの大きさの幽霊と言う事なのだろうか。しかも「私の」と言う事は、その幽霊はこの少女の所有物と言う訳で──。

 って。

 

(……いや、んな訳あるか!)

 

 常識的に考えて、そんな物が存在するとは考えられない。とうとうおかしな事まで言い始めてしまったのだろうか、この少女は。

 いや、しかし。万一にという可能性もある、のか? 仮に、本当に幽霊が存在するのならば。或いは──。

 

(待て待て待て。何を考えてんだ、俺は……)

 

 駄目だ。このままでは青年まで変な思想に陥ってしまいそうだ。

 冷静になれ。彼まで心が乱れてしまったら、この少女を落ち着かせるどころではなくなってしまう。だから余計な事は考えるな。いつも通りの、平常心で、

 

「…………えっ?」

 

 何かが視界に飛び込んできた。

 その瞬間に彼が覚えたのは、強烈な“違和感”。まるで石に咲く花か、或いは海の底の白鳥か。そんな烏白馬角な()()

 

(何だ、これ……)

 

 まるで雷にでも打たれたかのように、頭の上から足の爪先までが一瞬だけ動かなくなる。耳元で轟音でも鳴り響いたかのような衝撃を受け、心臓が五月蝿いくらいに大きな音で高鳴り続ける。そのあまりの衝撃に、彼は息をするのも忘れそうになっていた。

 

「……あ! す、すいません……! そ、その、いきなり幽霊とか言われても、信じられない……ですよね。ははは……」

 

 少女が何かを言っていたが、それすらも彼の耳には届かなかった。

 一体、何が起きた? ただ、相も変わらず涙目であるこの少女を見ていただけのはずなのに。何か、常識的な思考では理解できないような、奇妙で異質な何かが視界に飛び込んできたような。そんな気がする。奇妙で、異質で、あまりにも異様な何かが。

 

(まさか、こいつ……)

 

 少女の妙な格好に、どこか違和感がある言動。そしてたった今、視界に飛び込んできたもの。

 それらのピースを組み合わせ、彼は一つの推測をする。

 

「……なぁ、一つ確認して良いか」

「は、はいっ!? な、なんでしょうか……?」

 

 それを確かめる為に、青年は少女に質問を投げかけた。

 

「半霊、って言ったよな? 幽霊だとか、なんとかって……」

「ええ、まぁ……。で、でも! 無理に信じろとは……」

 

 少女はわたわたとしている。どうやら、突拍子もない事を言っているのは自分でも承知しているらしい。

 それもそうだ。半霊だとか、幽霊だとか。いきなりそんな事言われても、「何を馬鹿な事を」と笑い飛ばしてしまうのが常人の反応だろう。

 だけれども、彼は。

 

「……じゃあ、聞くけど」

 

 ()()()()()を見てしまっては、軽率に笑い飛ばす事なんて出来る訳がない。

 

「お前は……普通の人間じゃないのか?」

 

 

 ***

 

 

 正直、今の今まで妖夢は完全にパニックに陥っていた。

 ここは幻想郷の外の世界。常識と非常識が幻想郷とは入れ替わった、言わば全くの別世界。一応地続きであるとは言え、結界によってほぼ完全に隔離された幻想郷からして見れば、外の世界は異世界と言っても強ち間違いではない。そんな所に、妖夢は迷い込んでしまったのだ。

 

 つまり、簡単には帰れない。いや、下手をすればもう二度と帰れない可能性も有り得る。そう考えると、不安感だとか焦燥感だとかがますます強くなってきて──。

 

 今思い返すと、なんだか気恥ずかしくなってくる。初対面の外来人──いや、今は妖夢の方が余所者か。とにかく、そんな見知らぬ青年の前で、あんな醜態を晒してしまうとは。

 穴があったら入りたい。散々パニクってしまったり、うっかり半霊と口にしてしまったり。別に半霊の存在を知られるのは問題ないのだが、ここは妖怪等の存在が殆んど否定された外の世界。証拠も何もないこの状況で、「私は半分幽霊です!」などと言っても信じて貰える訳がない。笑われるか、呆れられるのがオチだろう。

 

 けれども。この青年は、違った。

 

「半人半霊、ね……」

 

 腰掛けに座ったその青年は、やけに落ち着いた様子でそう口にしていた。妖夢もまた、彼の隣りにちょこんと座っている。

 この青年、なぜだか物分りが非常に良い。初めこそ「何言ってんだコイツ?」などと言いたげな視線を妖夢に向けていたのだが、ある瞬間を境に突然真摯に受け止め始めた。妖夢が半分人間じゃない事も、幻想郷の事も。話してみると、彼は静かに最後まで聞き、そして納得してくれた。

 

「……信じてくれるんですか?」

「ん? あぁ……。お前、見るからに人をからかうのとか苦手そうだし。嘘をついてる訳じゃないんだろ?」

 

 適当に答えている──訳ではなさそうだ。この青年は、本当に妖夢の言葉を信じてくれている。しかも、こんなにも簡単に。

 

「……驚かないんですか?」

「……うん? 何が?」

「いや……私は半分幽霊なんですよ? こっちの世界じゃ、異常な体質ですし……」

「あー……その事か。いや、驚いてるよ? もう頭ん中ぐっちゃぐちゃで訳分からん」

「そ、そうですか……」

 

 本人曰く、装っているだけで実は冷静ではないらしい。一周回って、逆に落ち着いてきたと言う事なのだろうか。

 

 と、まぁ。さっきからこんな感じなのだ。

 流石に幻想郷について話した時は彼も多少驚きを露わにしていたが、半人半霊に関する話ではそれ程大きな反応を見せなかった。「成る程……」だとか、「そう言う事か……」だとか。まるで最初からある程度予想していて、それを確認しているかのような。そんな感じだった。

 と言うか、そもそも彼の方から尋ねてきたのだ。「お前は人間じゃないのか?」と。

 

「あの……」

「なんだ?」

「どうして、私が普通の人間じゃないと思ったんですか? 半人半霊なんて、こっちの世界じゃ耳にする事すらないはずなのに……」

「超能力」

「……えっ?」

「って、言ったらどうする?」

 

 からかっているのだろうか。

 

「まぁ、あれだ。勘みたいなもんだ」

「勘……ですか?」

「ああ」

 

 つまり何となくそう思ったと? いや、しかしそんな事──。

 外の世界の事については、妖怪の賢者からほんの少しだけ聞いた事がある。そんな浅知恵を持っている妖夢だからこそ、気になって仕方ない。

 妖精、妖怪、神などの幻想が否定された外の世界。そんな世界の住民でありながら、目の前の少女を人外だと察する事ができるなんて。

 

「……で? 話をまとめると……。お前は冥界にいたはずなのに、気がつくとこっちの世界に迷い込んでいた。冥界に帰るには幻想郷って所を経由しなくちゃならないけれど、その肝心な幻想郷への行き方が分からない。ついでに身体の半分である半霊が行方不明。その所為で本来の力が発揮できない、と。それで良いのか?」

「……はい。大体、そんな感じです」

 

 青年の確認。妖夢は相槌を打ってそれに答える。

 

 この青年は何者なのか。不審感を全く感じていないと言えば嘘になる。

 でも。混乱する妖夢を落ち着かせようとしてくれたり、半霊探しを手伝おうとしてくれたり。悪い人ではないのだと、それだけは断言できるから。今は取り敢えずそんな不審感は置いておこうと、妖夢は判断したのだった。

 

「でも結局半霊は見つからなかったよなぁ……。大丈夫なのか? なくても」

「どう、なんでしょうね……。半霊がなくなるなんて、生まれて初めての体験ですし」

 

 妖夢は苦笑いを浮かべながらもそう答えた。

 半霊がなくなって、もう結構な時間が経過している。相変わらず空は飛べないし霊力も上手く込められないが、身体の気怠さはだいぶ落ち着いてきた。いや、慣れてきたと言うのが正しいか。体調が悪いと言うよりも、急に身体のバランスが変わってびっくりしていたようなものだ。時間が経てば、自然と身体は順応してくる。

 

「体調は別にそこまで悪くないですし、半霊が無くてもいきなり死ぬような事は無いと思いますよ。あ、私は半分死んでるようなものなんですけど」

「まぁ……その様子じゃ、大丈夫そうだな」

 

 半霊がなくとも命に関わる事はなさそうなので、取り敢えずその点については安心しても良い。しかし、まだ一番の問題が何も解決していない。

 

「取り敢えず半霊の事は置いておく事にして、問題はその幻想郷とやらに行く方法だな。本当に何の当てもないのか?」

「まぁ……。そうですね」

 

 彼の言うとおり、問題はそこなのだ。

 

 幻想郷に帰る手段がない。厳密に言えば妖夢が帰るべき場所は幻想郷ではなく冥界なのだが、どちらにせよ似たようなものである。

 

 例えば、境界を操る事ができるあのスキマ妖怪ならば行き来は容易だろうが、妖夢はただの半人半霊。境界を切り開く力なんて持っていない。

 ならば、どうすれば良いのだろう。

 

「一つ思ったんだが、さっき言ってた……えっと……、博麗神社? その神社は幻想郷とこっちの世界の境目にあるんだろ? なら、そこから帰れるんじゃないか?」

「……いえ。正直、それも現実的ではありません」

「……なぜだ?」

「先程もお話ししましたが、幻想郷は複雑な結界によって隔離されています。仮にこちらの博麗神社に行ったとしても、その……。私には、その結界を超える術がありません」

 

 生憎、妖夢はそちらの方面には詳しくないのだ。上手い具合に結界を超えられる自信はない。

 それなら、結界を無理矢理突破する? いや、駄目だ。今の妖夢の力量では、あの強力な結界は破れそうにない。と言うか、結界を傷つけでもしたらそれこそ大問題だろう。この考えは捨てた方がいい。

 

「そもそも、こちらの博麗神社がどこにあるのかも分かりませんし……」

「いや、諦めるのは早いだろ。地図とかで探せば……」

「……こちらの世界の博麗神社は、そもそも神社として機能しているかどうかも怪しいと聞いています。神主も巫女もおらず、参拝客も訪れない寂れた小さな無人の神社です。おそらく、地図にも載っていないかと……」

「そ、そうか……。詳しいんだな、色々と」

「まぁ……結界の管理者とは、知り合いですので……」

 

 しょんぼりとした様子で、青年とそんなやり取りをする妖夢。

 しかし。冷静になって考えてみると、これは本当に八方塞がりなのではないか。今の妖夢の知識から考えられる手段では、どうやっても幻想郷への道は開けないような気がする。

 いや、だけれども。まだ、何か見落としている事があるのではないか。何か、良い方法が。

 

(何か……)

 

 妖夢は考える。隣に座っているこの青年も何か考えを巡らせてくれているらしく、腕を組んで難しい顔をしている。

 

 あれも駄目、これも駄目と、妖夢の思考がぐるぐると回る。しかし、いつまで経っても全く良い案は浮かんでこない。

 

 それから、二人とも無言になって。しん、と辺りが静まり帰る。

 暫しの静寂が訪れた──のだが、

 

 ──きゅう

 

「…………あ」

「え?」

 

 何やら可愛らしい小さな音が、辺りに響いた。静寂だったからこそ、やけに強く耳に届く音だった。この、何かが小さく萎縮するような音は、間違いなく──。

 妖夢の顔が、みるみる内に赤くなる。

 

「おい、今の」

「な、なんでもないです! 空耳です!」

 

 妖夢の、腹の音だった。

 しまった。すっかり油断していた。そう言えば、今日はまだ夕飯を食べていなかったか。と言うか、昼食の後から何も口にしていなかった。

 普段夕食を取る時間からだいぶ経過してしまっている故に、痺れを切らした身体が空腹のサインを出したと言う事か。でもまさか、このタイミングで腹の音が鳴ってしまうなんて。

 

 恥ずかしい。恥ずかし過ぎて、顔が熱い。

 

「……腹減ってんのか?」

「へ、減ってなんか……! ない、訳でもないですけど……」

「なんだその釈然としない反応。そんなに恥ずかしい事なのか?」

「あっ、当たり前ですっ!」

 

 会ったばかりの男の人の前で、盛大に腹の音を鳴らす。字面だけでも恥ずかしいじゃないか。思わずむきになって、妖夢は青年に言い返した。

 

 対する青年はと言うと、何やらばつが悪そうな表情を浮かべている。それもそうだ。いきなり怒鳴られてしまっては、こんな反応をしてしまうのも無理はない。照れ隠しとは言え、今のは流石に妖夢が悪い。

 ちょっと強く当たりすぎたかなと、内心後悔していると、

 

「……ほら」

 

 青年は手に持っていた袋を、妖夢に差し出してきた。

 

「……へ? こ、これは?」

「腹減ってるんだろ? おにぎりでも良ければ、やるよ」

「えっ!? い、いや、でも! これはあなたの食べ物なのでは……?」

「まぁ、そうだけど……。でも実はそこまで腹減ってないんだよ。だから俺の事は気にしなくてもいいって」

 

 遠慮はしたのだが、結局押し切られてしまった。仕方なく、妖夢はそれを受け取る。

 袋の中を覗いてみると、確かにおにぎりが三つ程入っている。見た感じ、これは彼がどこかで買ってきたものなのだろうか。

 

「どうした? 食べないのか?」

「あっ……。え、えっと、それじゃ……。いただきます……」

 

 促されて、妖夢はその中から一つを取り出した。

 どうやら、全体を半透明な膜か何かで覆っているようだ。恐らく汚れをつかなくする為の物なのだろうが、これは一体何でできているのだろうか。外の世界は不思議な物が多い。

 

 まぁ、見るからにこの膜は食べ物ではなさそうなので、それは取り敢えず外しておいた。海苔が巻かれたおにぎりが、遂にその姿を現す。

 

「…………」

 

 ごくりと、妖夢は思わず唾を呑む。

 こうして実際に前にすると、空腹感がより一層募ってくる。いけない、またお腹が鳴りそうだ。そうなる前に、早く食べてしまおう。

 

 まずは一口。海苔の香りと米の甘味が、口いっぱいに広がった。

 美味しい。物凄く味が良い訳ではないのだが、お腹が減っていた所為か妙に美味しく感じる。一口噛み締める度に、自然と頬がほころんでくる程だ。

 梅干しが出てきたおにぎりを、もう一口食べる。おいしい。更にもう一口。やっぱり美味しい。やみつきになりそうだ。今なら、何個でも食べられるような気が、

 

「凄い食いっぷりだな」

「むぐっ!?」

 

 詰まった。慌てて首元をとんとんと叩き、なんとか飲み込もうとする。一瞬、息ができなくなりそうになったが、大事には至らなかった。

 飲み込むと同時に、今度はゴホゴホとむせ返る。

 

「だ、大丈夫か? しまった。飲み水でもあれば良かったんだが……」

「ごほっ……! い、いえ、お構いなく……。あの、私……」

「……ん? なんだ?」

「……や、やっぱり何でもないです……」

 

 どれ程の勢いで食べていたのか? なんて聞けるはずがない。しかし、お腹が空いていたので仕方がないと言えばそうなのだが、まさかそこまで気になる程の勢いだったのだろうか。

 そう考えると、恥ずかしさのあまりまた頬が熱くなってきた。

 

「まぁ……ゆっくり食えよ」

「……はい」

 

 あぁ、もう。本当に、今日は厄日なんじゃないか。自分が一体何をしたって言うんだ。

 胸中で自分の不運を呪いながらも、妖夢は黙々とおにぎりを食べ進めた。

 

「さて、と」

 

 妖夢がおにぎりを食べ終わる頃。腰掛けに座っていた青年が、おもむろに立ち上がった。

 

「時間も遅くなってきたし、俺はそろそろ帰るけど……。お前はどうするんだ? どこか行く当てでもあるのか?」

「私は……」

 

 そう言えば、この後について何も考えていなかった。

 ここは全くの見知らぬ地。行く当てなんて、ある訳がない。しかも今の妖夢は無一文だ。半霊がなくなって弱体化している今、このまま当てもなく歩き回っても、最悪行き倒れする可能性だってある。

 

「……何も考えてなかったのか?」

「あ、え、えっと……その……」

 

 図星を突かれて、妖夢は俯く。

 これは、本当にまずいんじゃないか。見知らぬ地で無一文。しかも今晩過ごす場所の当てすらもない。冗談抜きで、このままでは行き倒れするのではないだろうか。

 

 本当にどうしようかと、妖夢は必死になって頭を捻らせる。その時だった。

 

「……家に来るか? 今晩くらいは、休ませてやるぞ」

「……へっ?」

 

 青年が、そんな提案を持ちかけてきた。

 

「部屋が一つ余ってたと思うし、お前一人を泊めるくらいなら全然問題ないぞ? それに、今は他の家族もしばらく留守にしてるから、帰っても俺一人で……。あぁ、となると俺と二人っきりになっちゃうか。それは嫌か?」

 

 願ってもない提案である。

 どうせなんの当てもなかったのだ。一晩だけでも泊めてくれると言うのなら、是非ともお願いしたい所ではある。

 

「あ、あの……ご迷惑じゃ、ないでしょうか……?」

「いや、全然? 別に遠慮することなんてない。まぁ……俺の事が信用出来ないって言うんなら、それは仕方ないけど」

「そ、そんな事ないですよ……!」

 

 信用できないなんて、そんな。ここまで気にかけてくれるのに、そのような感情を抱くのは失礼じゃないか。下心があっての行動ならともかく、少なくともこの青年は変な事は考えてないだろう。仮に下心があったとしても、話している最中にとっくに気づいている。

 

「え、えっと……」

「……ん?」

「そ、それじゃ……。今晩は、お世話になります……」

「……ああ。了解だ」

 

 妖夢は青年の好意に甘える事にした。

 どこか気怠そうだったり、時々不思議な雰囲気を覗かせる青年だけれど。悪い人じゃない。彼になら少し気を許しても大丈夫だと、妖夢はそう感じていた。

 

「そう言えば。お前の名前、まだ聞いてなかったよな?」

「……あ、そうでしたね。私は魂魄妖夢と申します。以後、お見知り置きを」

「俺は進一だ。岡崎(おかざき)進一(しんいち)。よろしく」

 

 ちょっぴり遅い自己紹介の後。進一と名乗った青年に連れられて、妖夢はその場を後にするのだった。

 

「ところで、さっきから気になってたんだが……。なんで模擬刀なんか持ち歩いてるんだ?」

「模擬刀……? いえ、これは真剣なのですが」

「……えっ?」

「えっ?」

 

 

 ***

 

 

 進一の自宅は、とある閑静な住宅街にある。家自体はごくごく普通の戸建で、特に変わった所はない。因みに二階建てだ。

 ここも京都である事に変わりないのだが、都心から離れている為か土地代はそれ程高くないらしい。進一の家は、そんな中でも最下値の土地に建てられている。何でも、下水もガスも通っていない事から、土地の価値がかなり引き下げられているとの事。お陰で取分け裕福でなくとも、こうして戸建を建てる事ができる訳だ。尤も、浄化槽等の設備が必要となるので、多少手間はかかるのだが。

 

 二本の刀(真剣)を所持した少女──妖夢を連れて、進一は自宅の前まで辿り着いていた。

 よく平穏無事に辿り着けたな、と心底思う。まさかあの刀が模擬刀でもなんでもなく、本物の刃物だったとは。警察なんかに目をつけられたら、一発でアウトだっただろう。

 幻想郷は、常に刀を持ち歩かないと危険な場所なのだろうか。だとしたら怖い。

 

「ほら、着いたぞ」

「お、お邪魔します……」

 

 取り敢えず刀を持った少女をいつまでも外に置いておくのはまずいので、さっさと招き入れる事にする。

 上下二つの鍵を外し、扉を開けて中に入る。暗闇の中、手探りで探し当てたスイッチを押して、玄関のライトを点灯させた。暗闇に慣れてしまっていた所為か、急な明かりで思わず目を細めてしまう。

 

「そう言えば、幻想郷って電気とかあるのか? こっちの世界とは、文化とかだいぶ違うんだろ?」

「電気……ですか? えっと……。基本的にはありませんね。でもほんの一部にのみ、通っているみたいですが……」

「へぇ……。ほんの一部、ね」

 

 限定的ではあるが、電気が通っている所もあるらしい。妖夢の話から受けた印象では、かなり古い時代の様式を保っているイメージがあったのだが。幻想郷とは、ますますよく分からない世界である。

 

 幻想郷へのイメージは改めておく事にして。玄関で靴を脱ぎ、まずはリビングに向かった。

 玄関から真っ直ぐ進み、すぐ左にある扉を開ける。この部屋がリビングだ。ダイニングキッチンと一つになっている為、広さはそこそこある。しかし家具類は無難な物が殆んどで、特に凝ったインテリアデザインはしていない。どうにもそう言った方面は疎かったりする。

 

「適当にくつろいどいてくれ。俺は風呂の準備でもしてくるから。……入るよな?」

「あ、はい。よろしければ、使わせていただけると助かります」

「分かった。ちょっと待っててくれ」

 

 妖夢をリビングのソファに座らせ、進一は一度部屋の外に出た。

 玄関とは逆方向へと廊下を進み、突き当たりにある扉を開く。小さな脱衣所を挟んで、その先が浴室だ。取り敢えずぱぱっと掃除をし、早く沸かしてしまおう。そう思い、浴室の扉に手をかけたのだが。

 

「……幻想郷、か」

 

 ふと妖夢の言っていた事を思い出し、手が止まった。

 

 幻想郷。今の今まで平穏を保ち続けてはいたが、流石にもう限界だ。妖精とか、妖怪とか、神とか。想像の産物に過ぎないと思われていたものが本当に実在していて、しかも暮らしている世界があるなんて。何かの冗談だろと、進一は胸中で何度も思っていた。

 けれども。妖夢は冗談なんか言っていない。そんな確証が、進一にはある。

 だって。他でもない、彼女自身が──。

 

「これじゃ、笑い飛ばせないよな……」

 

 それに、考えてみれば。あの少女も、随分と災難な事に巻き込まれているじゃないか。見知らぬ地に一人投げ出されて、しかも帰る方法が分からない。そんな状況下に立たされて、彼女はどんな気持ちだったのだろうか。不安で不安で、仕方なかったのではないだろうか。

 

「あいつ……明日からどうするつもりなんだ……?」

 

 勿論、幻想郷に帰る手段を探すだろう。しかし、どうやって? 当てが全くない状態で、彷徨い続けるつもりなのだろうか。

 

「いや……いくらなんでも……」

 

 無茶苦茶過ぎる。それではいつまで経っても事態は好転しないだろう。手がかりなんて、見つかる訳がない。

 

 進一は思案する。

 このままで良いのか。今日一晩休ませて、明日になったらさよならか。それで本当に良いのだろうか。

 

「……良い訳ないだろ」

 

 乗りかかった船だ。このまま見過ごすなんて、できる筈がない。それならば。

 進一は一度棚の上に避難させておいたスマートフォンを手に取り、素早くロックを解除する。電話帳アプリを開いた。

 

 

 ***

 

 

 よく考えれば、男の人の家でお風呂に入るのは少々軽率な行動だったかも知れない。そう思った途端、湯槽の湯で火照った妖夢の身体が、更に熱くなったような気がした。主に頬辺りが。

 

 あれから、招かれた部屋で待つ事数十分。戻って来た進一の勧めで、妖夢は先にお風呂を使わせて貰う事にした。

 『しゃわー』等の慣れないお風呂用具に苦戦しながらも何とか身体を洗い終え、湯槽に浸かって一息。そこで自分の行動の軽率さに気づき、頬を赤らめている所だ。

 

 いや、別に進一を疑っている訳ではない。お風呂の使い方を妖夢に説明した後、彼が脱衣所から出て行った事は確認している。その後も、誰かが入って来た気配はない。

 と言うか、そもそも進一は覗き行為などを目論むような人ではないだろう。あくまでこれまでの印象から考えて、だが。

 しかし、それでも。やはりどうしても、気になってしまう訳で。

 

「はぁ……。なんだかなぁ……」

 

 湯槽の背凭れに身を委ねながらも、妖夢はぼそりと呟いた。

 さっきからどうにも気になって、まるでゆっくりできない。大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせても、全く落ち着けなかった。変に意識し過ぎだろうか。

 

 あぁ、もう。これでは駄目だ。この際、何か別の事を考えるのはどうだろうか。そうすれば、少しは気が紛れるかも知れない。

 

「幽々子様……今頃どうしてるかな……」

 

 真っ先に思い浮かんだのは、主である西行寺(さいぎょうじ)幽々子(ゆゆこ)の事。

 本当に、今頃どうしているのだろうか。妖夢がいなくなって、心配をかけてしまっているのではないだろうか。であるのならば、尚更帰らなければならない。主に無用な心配をかけ続けるなど、従者として失格だ。

 

「でも……」

 

 どうやって帰る? 先ほどから考え続けてはいるが、皆目見当がつかない。実は帰る方法なんてないんじゃないかと、思わずそう考えてしまう。

 それに。今晩は進一が泊めてくれる事になったから良かったものの、明日からはどうすれば良いのだろう。見知らぬ世界に、ただ一人。このままでは、冗談抜きで今度こそ行き倒れだ。半霊がなくなって大幅に弱体化している以上、その可能性は否定できない。

 

 このままでは、本当に──。

 

「……出よう」

 

 最悪のシチュエーションが脳裏にチラついた所で、妖夢はお風呂から上がる事にした。

 これ以上ここで思案し続けても、良い策は何も思い浮かばない気がする。どうしても、最悪な結末に収束してしまうのだ。ネガティブな思考から抜け出せない。

 

 妖夢は一度思考を止め、浴室から脱衣所に出る。バスタオルでよく身体を拭いた後、進一が用意してくれた着替えを手に取った。

 この寝巻き一式は、進一の姉が昔着ていたものらしい。赤の他人である妖夢が勝手に着ても良いのかと心配になったのだが、進一曰く「姉さんはそんな事全く気にしない」との事。どんな人なのだろう。非常に気になる。

 

 ともあれ、着替えはこれしかないのだ。進一の言葉を信じ、妖夢はこの真っ赤な寝巻きに着替える事にした。

 

「ふう……」

 

 何事もなく着替え終わった。覗かれるかも、なんて心配はやはり杞憂だったか。散々一人でドキドキして、何だか馬鹿みたいだ。

 取り敢えず風呂場から出て、さっきのリビングに戻る事にした。

 

「……あっ」

「ん?」

 

 その途中。丁度リビングへの扉の前で、進一と鉢合わせになった。

 

「出たのか」

「は、はいっ。ただいま上がりました」

 

 ついさっきまで覗かれるかもと変に意識していた所為か、妖夢は少し吃ってしまう。

 

「そうか。……やっぱりその寝巻き、サイズ大きかったか? ある中で一番小さいのを選んだんだが……」

 

 進一の言う通り、確かにこの寝巻きは妖夢には少しばかりサイズが大きい。袖のブカブカ具合を見れば、それは一目瞭然である。

 

「い、いえ……お構いなく。何も着ないよりマシですから……」

「悪いな。今晩だけは、それで我慢してくれ。お前が元々着ていた服は、後で洗濯しておくから」

「すいません……。お手数をお掛けして……」

「気にすんな」

 

 ふっと、進一は笑みを浮かべる。その優しげな笑顔を向けられていると、妖夢は何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 本当に、この短時間で彼には多大な迷惑をかけてしまった。何か、お礼が出来ると良いのだが──。

 

「……あぁ、そうだ。お前の寝室を教えておこう。ついて来てくれ」

 

 そう言うと、進一は踵を返して二階へと向かった。妖夢もそれに続き、階段を登る。

 進一に案内されたのは、二階廊下の一番奥にある部屋だった。その中は備え付けのクローゼット、そして部屋の隅にあるベッド以外の家具は全く置かれておらず、がらんどうとしている。彼の言っていた通り、本当に空き部屋だったようだ。

 しかし空き部屋と言っても、特に埃等のゴミが溜まっているような様子はない。どうやら、普段から家の掃除は徹底しているようである。

 

「ま、何もない部屋だけど、寝泊まりくらいはできると思うぞ」

「いえいえ、十分ですよ……! 本当に、何から何までありがとうございます……」

「おう。……それじゃ、俺も風呂に入ってくるわ」

 

 背を向けてヒラヒラと手を振りながらも、進一は風呂場へと向かって行った。

 さて、これからどうするか。流石にこのまま寝てしまうのは、進一に悪い気がする。男の人はあまり長風呂にならないイメージがあるので、ここは待っておくべきだろう。

 それならば、一度リビングに戻って──。

 

「妖夢」

 

 と、その時。風呂場へと向かったはずの進一に、再び声をかけられた。振り向くと、階段を下りかけた所で足を止めた進一の姿が目に入る。

 なんだろうと思っていると、彼はおもむろに口を開いた。

 

「その……なんだ。いきなり見知らぬ世界に放り出されて、色々と不安だとは思う。だけど……」

 

 そこで、少しだけ間が開く。短く息を吸い込んだ進一が、更に進めた。

 

「まだ帰れないって決まった訳じゃないんだ。だからあんまり思い悩むなよ」

 

 それは、妖夢の心に強く響き渡る言葉だった。

 不安感だとか、焦燥感だとか。全部、進一には筒抜けだったのだ。まだ出会ってから、数時間程度しか経っていないと言うのに。彼は妖夢を気遣って、少しでも気を楽にさせようとしてくれて。

 

 お人好しだなぁと、妖夢は思う。無論、良い意味でだ。会ったばかりの相手に向かって、ここまで優しく出来る人なんてそういない。

 そんな進一の気遣いに触れると、何だか嬉しくなって。胸の奥が、ジーンとした。

 

「じゃ、今度こそ行くから。……あ、別に俺が風呂入っている間に寝ちゃっても構わないぞ。変な気なんか遣わなくて良いからな。それと……」

「……進一さん」

「ん?」

 

 一晩泊めてくれるだけではない。進一の言葉のお陰で、不安感も焦燥感もだいぶ和らいでいた。

 だから。これだけはもう一度言っておかねばならないと、そう思った。

 

「……ありがとうございます」

 

 呼び止められてまでいきなりお礼を言われるとは思ってなかったらしく、進一は少し面食らったような表情を浮かべていた。

 だけれども。妖夢の表情を見て、その言葉の真意をしっかりと理解してくれたらしく。やんわりと、表情を綻ばせて。

 

「ああ」

 

 短く、しかしはっきりとした返事で、彼は答えてくれた。

 

 幻想郷へと帰る為の道のりは、きっと楽なものではないだろう。これから、更なる困難が妖夢の前に立ち塞がる事になるかも知れない。

 でも。こんな風に、妖夢を気にかけてくれる人もいるのだ。幻想郷にだって、彼女を待っている主がいる。

 だから。簡単に諦める訳にはいかないなと、妖夢は改めて認識するのだった。




ども。東方の小説は初投稿となります。
ユーザー登録したばかりの新参者で至らぬ点も多々あると思いますが、温かい目で見ていただけると幸いです。

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