【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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6.「闇夜の支配者」

 ―――――――――――――ビシッ

 

 私は初め、それが変化だと気が付くことが出来なかった。

 唐突に響く、固いものに強い亀裂が走ったかのような、何かが勢いよく裂ける音。私はそれが、スカーレット卿が手中に収めただろうお嬢様の『目』を握りしめた事で、『目』に亀裂が入り込んだ音だと思い咄嗟に視線を避けてしまっていた。

 しかし、何秒経っても次の音が―――具体的には、肉体が破壊されたことで生じる破裂音が―――鼓膜へ届かなくて、恐る恐る瞼を開いてみる。

 

 状況は、あれから全く変わっていない。妹様の肉体を乗っ取ったスカーレット卿が、投げ飛ばされ壁に寄りかかっているお嬢様に破壊の右手を向けたままでいる。

 ただ、そこから先が無いのだ。スカーレット卿は微動だに動こうとしていない。指令を絶たれたゴーレムの様に手をかざしたまま突っ立っている。

 何だ? 奴は一体何を躊躇しているんだ?

 謎の静止状態に、思わず咲夜さんが時間を局所的に止めたのかと思ったが、どうやら違うらしい。私たちを縛る幻術は、能力を阻害する魔力因子が組み込まれているのだ。目を向けて見れば、咲夜さんも何が起こっているのか分からないと言った表情だった。

 

 ビシッ。

 

 再び亀裂が入る音がする。それも、さらに大きな音となって。

 それがトリガーだったのか。スカーレット卿はだらりと、水平に保っていた右手を床へむけてゆっくり下したのだ。

 

「……本当に、流石としか言いようがないな。天敵ながらそのゴキブリの如き生命力には、称賛を送らざるを得ないぞ」

 

 ぐるり、とスカーレット卿の首が動く。その視線が射抜く先は、私たちの背後だった。厳密には、ナハトさんの死体が転がっている場所だ。

 そして、スカーレット卿が何を口走っているのかを漸く理解した瞬間。私の心臓はまるで警報でも鳴らしているかの如く、とんでもない早さで脈打ち始めた。

 まさか。

 いくらナハトさんでも、そんな事が有り得るのか?

 普通の吸血鬼なら一撃で冥府に直送されてしまう妹様の恐ろしい破壊の力を、吸血鬼の二大弱点とも言える頭部と心臓へまともに食らって、生きている事なんてあり得るのか?

 それは、最早吸血鬼と呼べるのか?

 

 ビシッ、ビシビシビシビシビシビシビシビシッッ!!

 

 ガラスに亀裂が放射状に広がっていくかのような音が連続で轟いた。音だけではない。細い亀裂が本当に、私の背後からゆっくりと床を走っていくのだ。まるで地震でも起こっているかのような光景だった。

 その直後、背後から雪崩の如く訪れた、全身を握り潰されると錯覚するほどの莫大な瘴気に、私は思わず自分の体を抱き締めてしまっていた。

 幻術が解けているだとか、今ならスカーレット卿を抑えられる好機だとか、そんな考えは頭の中から吹っ飛んだ。両腕でしっかり体を抱いておかないと、自分がどこかへ消えてしまう。そんな理不尽とも言える危機感が私を襲い、思考能力を遥か彼方へ吹き飛ばしたのである。

 ゆっくり、背後へ体を向ける。

 

 絶句した。

 

 そこには確かに、疑いようのないナハトさんが居た。致命傷を受け、確実に絶命したはずのナハトさんが、何事も無かったかのように二本の足で立っていたのだ。

 けれどそれは、私の知るナハトさんではなかった。

 彼は普段、凄まじい威圧を伴う瘴気を常に纏っているが、見た目は非常に美麗な青年の姿をしている。私は彼の姿を見るたびに、禁忌の類に近い禍々しい印象を抱きつつも、同時に兼ね備えられた芸術品が霞むほどの『美』によって、この世のものとは思えない神々しさを強く感じていたのだ。

 今、私の眼に映る彼に、神々しさや美しさは欠片も存在していない。

 

 彼の頭部……黄金比率を体現していた顔貌は、中途半端に再生しているせいなのかどす黒い魔力の黒煙のみで形成され、さながら黒い靄が顔の輪郭を保っているだけの状態となっていた。再生途中の灰色の髪は、まるで水中に潜っているかのように揺らめいている。

 黒い靄の中に浮かんでいるのは、二つの眼とズラリと並んだ歯のみだ。眼の周囲に瞼はなく、歯を隠す唇は見当たらない。ゾッとする様な紫の瞳を持つ眼球と、ピアノの鍵盤の様に乱れず並んだ白い歯だけが、暗黒の中にくっきりと存在していた。

 彼の変化は顔だけではなかった。全身からは可視化された尋常ではない密度の瘴気が、まるで蛇の如くうねりながら彼の周囲に渦を巻き、見るだけで発狂しそうになるようなエネルギーを放っている。余波は彼の足元に現れ、革靴が接した床の部分から、細い亀裂が放射状に広がっていた。これが、あの音と亀裂の発生源だったのだ。

 

 さらにもう一つだけ、無視できない存在がそこにあった。

 彼の背後に形成された、15本もの漆黒の剣。それら全てが、スカーレット卿へ照準を合わせる鏃のように、彼の背後へ配置されていたのである。

 古い言葉で、『怒り』を意味する魔剣グラム。純粋な魔力を結晶化させると言う出鱈目な製法で生成される黒き剣が、かつてない数をもって展開された光景を目撃して、私はあの言葉を思い出さざるを得なかった。

 

【闇夜の支配者を怒らせるな。彼の者の怒りを買うならば、迷わず竜の逆鱗に触れろ】

 

 ああ成程、確かにそうだ、その通りだ。これなら喜んで竜の逆鱗を撫でてやる。その方が絶対に、生き残れると確信できる。

 ナハトさんと初めて会った満月の夜。私はナハトさんの怒りを見て、恐怖に震えたと思っていた。彼は絶対に怒らせてはならない存在だと、知った気になっていた。

 でも違ったんだ。あの時の彼は、欠片も怒ってなんていなかった。ただ、道を踏み外しそうになった少年たちを叱っただけだった。たったそれだけの事だったんだ。

 目の前に君臨する、怒りに全身を染め上げ黒い怪物と化したナハトさんを見てしまえば、あんなものは只の戯れだったんだと気づかされてしまう。

 

「……私は、妖怪として生を受けて長くなる」

 

 歯のみの口が僅かに開き、瘴気と共に口から音が発せられる。重低音のノイズが伴うその声は、聴く者の頭蓋を激しく揺さぶった。

 

「今まで様々な物を見て、聞いて、感じて、経験を積んできた。私は、例えどれ程の重罪人だろうが、業の深い者だろうが、礼節を持って受け入れられる様になったと思っていたよ」

 

 だが。と彼は一歩前へと足を踏み出した。ビシビシビシッ! と細い亀裂がさらに床を侵食し、無機質な悲鳴があがる。怒りの矛先が向いていない筈の私ですら思わず二、三歩下がってしまう程の尋常ではない威圧が、暴風の様に襲い掛かった。

 

「まさかこの世にまだ、ここまで不愉快な気分にさせられる者が存在しているとは思わなかった」

 

 彼の怒りに呼応して、紫の瞳が薄暗い輝きを放つ。発せられる声にはいつもの鼓膜から脳に吸い込まれていくような擦り寄る艶やかさは無く、体が直ぐに全ての動作を放棄してしまう程の、激しすぎる憤怒が含まれていた。

 

 恐ろしい。この上なく、彼の存在が恐ろしいと私は感じてしまっていた。彼の眼に射抜かれれば、吸血鬼異変で垣間見た八雲紫の絶対零度の眼差しが可愛く思えてしまう程に身の毛がよだち、彼の声を耳にすれば、地獄の唸り声が子守歌に聞こえてしまう程に体が竦み上がる。

 彼は敵ではない。そんなことは分かっている。彼の敵意は間違いなくスカーレット卿ただ一人のみへと向いている。だが、頭では分かっていても他全てが理解してくれない。視界が揺れる。彼の強すぎる魔力の影響で空間が歪んだのかと思ったが、全くの誤解だった。体が震えすぎて、視界が定まっていないだけだったのだ。彼は危険だと全身のいたる箇所が警鐘を鳴らし、それが震えとなって姿を現しているのだ。

 目を向けられたものは心臓を凍らされ、声は本能から恐怖を呼び、前に立つ存在を許さないと言わんばかりのその絶対的でおどろおどろしい姿は、まさに魔王。闇夜の支配者と称されるに相応しい、他の全てを制圧する恐怖の覇気を帯びた、最古の吸血鬼がそこに居た。

 

「勉強になったよ、スカーレット卿。どうやら私は、まだ他者を不愉快に思えるらしい」

「――――――――――ハッ」

 

 対してスカーレット卿は、その場に居合わせた少女達とは違い、恐怖に精神を歪めることなくナハトさんと向き合った。数多の黒い刃を向けられ、彼の怒りをその身一身に受けていると言うのに。

 理由は分かっている。彼の眼からはまだ、勝利の二文字が揺らいでいない。確信しているのだ。あの黒い怪物に真正面から挑み、そして打ち破れると自らの絶対優位性を信じているのだ。

 

「それで? 今の貴様に何ができる? フランドールの力を食らって尚蘇ったその卑しい生命力は認めよう。だが、だから何だ! 貴様に切れるカードは最早何も残っていないのだぞ、ナハト。お前が手塩にかけて育てた娘の体は、魂は、私の手の中にある。ここに居る無様な小娘共の生殺与奪の権利も我が手にある!! それは貴様に対しても同じことよ。一切躊躇はせん、今度こそ確実に冥府の闇に落としてくれる。死にぞこないの老蝙蝠が」

 

 スカーレット卿の手がナハトさんへと向けられた。だがナハトさんはピクリとも動こうとはしない。闇の中から覗く悍ましい二つの眼球が、その手を静かに見つめているだけだ。

 

「死ね」

 

 ボンッ!! とナハトさんの腹部が、勢いよく弾け飛んだ。

 しかし、内側から爆散されたが如く散った彼の肉体は撒き散らされることなく、黒い瘴気へと変換されて腹部へ吸い込まれ、また元に戻ってしまう。

 全く通用していない。

 妹様の力が、ほんの一ミリも効果を表していない。

 考えてみれば当然か、彼はずっと妹様の破壊の力と向かって来たのだから。

 ゴバァ、とナハトさんの鋭い歯だけが並ぶ口から、黒い瘴気が漏れ出した。それはまるで、湧き出して止まらない怒りを外へ吐き出している動作に見えた。

 

「チッ、化け物が。最早肉体そのものが単一としての意味を成していないのか。ならばその状態を解除しろ。さもなくば、お前のもう一人の娘を殺す」

 

 視線は一切外さないまま、スカーレット卿はお嬢様へと右手を向ける。口の端はぐにゃりと歪み、かつて恐れた相手を屈服させる快感に満ちていた。

 ナハトさんは嵐の前の静けさを表すように、ただ静かに、しかし激流の様な鋭さを添え、言葉を繋ぐ。

 

「……お前は、誰の許可を得てその力を使っている?」

「娘は私の血肉から生まれた。ならば娘の全てを使う権利が私にあるのは必然よ。ましてや、今この体は私のも――――」

「誰の許可を得てその力を使っているのか、と聞いているのだよ。スカーレット卿」

「っ」

 

 初めて、スカーレット卿が怯み後退した。人を殺せるほどの気配を浴び続けては、いくら私たちより頑丈な吸血鬼たる妹様の肉体でも負担が大きいのだろう。私ですら、『気』を全力で巡らせて漸く震える程度で済んでいるのだ。あのまま普通で居られる訳がない。

 

 ――そう言えば、咲夜さんたちはどうしている? 人間の彼女がこの瘴気を浴びて、まともでいられているのか?

 

 嫌な予感が頭を掠めたが、それも直ぐに解消された。ナハトさんが手を掲げたと認識した瞬間、背後から五本のグラムが舞い踊り、それぞれがスカーレット卿を除く私達の足元へ突き刺さったのだ。剣からは私たちを覆うように魔力が放たれ、ナハトさんの息が詰まりそうになるほどの瘴気を相殺し始めている。

 素人目だが、これは毒を以て毒を制する手法と似ている様に思える。瘴気と魔力をぶつけ合い、効果を打ち消しているのだろう。それでも、剣から放たれる魔力は心臓の脈を上げるのに十分だった。人間の咲夜さんはどうにか、『今にも吐きそうなくらい青くなる程度』までには回復している様だ。

 

「なぁ、スカーレット卿……お前はあの子の体の中にずっと居座りながら、欠片もあの子を見てこなかったのか? いくら覚醒していないとはいえ、魂は周囲の情報を取り込み続ける。特に違う魂が隣接しているのならば尚の事だ。誰よりもあの子の心の傍に居ながら、僅かな消し屑程度の感情も汲み取ってやれなかったのか?」

 

 スカーレット卿が忌々しく歯噛みする。彼の額から脂汗が流れ始めた。

 憤怒の重圧が、凄まじい勢いで上がっていく。

 

「お前が今我が物顔で振るっている力をあの子が克服すると決意したのはな、姉妹が欲しかったからだ。力が制御できなくては、まだ見ぬ姉を壊してしまう。それが嫌で、会った事も無い姉へただ普通の妹の様に甘えたい一心で、いつか姉と外の世界を共に過ごしたい一心で、あの子は5年もの歳月を地下に籠り、己の力に打ち勝つ術を磨き続けてきたのだ。あの子が何度力に負けたか知っているか? あの子がどれだけ優しい涙を流したか知っているか? あの子が何度絶望に打ちのめされたか知っているか? あの子がそれら全てを乗り越えて、姉と共に夜を歩ける日を迎えた時の喜びを……家族として生きていけると報われた時の喜びを、貴様は知っているか」

 

 彼の怒号は、爆発としてその場全てを蹂躙した。激しく巻き上がる黒の瘴気が部屋中を包み込み、生きるもの全てを憎悪し奈落へ落とそうとする怨霊の如く、空間をうねりながら漂い始める。絡みつく黒い瘴気を、スカーレット卿は疎ましそうに払い除けた。

 

「娘の努力を、覚悟を、決意を。ただの一欠片も理解せんお前に、その力を振るう資格は無い。ましてやあの子が心の底から望んだ最愛の姉へ力を向けるなど、言語道断。お前はフランドールの魂と誇りを踏みにじり、その手すらも姉の血で染め上げようとした。それだけではない。姉妹の母を陥れ亡き者にした挙句、野心のためだけに同族を、あろうことか娘を騙し虐殺させたと来た。レミリアを欠陥品だと貶め、道具の様に軽んじもしたな。断じて許さん。私が直々に、報いを与えてやろう」

「ほざくな……ほざくなよ、ナハトォ!! 貴様がどれだけ怒り狂おうが、状況は何も変わらん。小娘一人を傷つけられない甘ったれの老いぼれが、この私に報いを与えるだと? 笑わせるな。私の指示に従わなかった罰だ。レミリアが弾け飛ぶ光景をその眼球に焼き付け」

 

 彼は、その言葉を最後まで言い終えることが出来なかった。

 ズバンッ、と何かが空気を切り裂くような音が、彼の言葉を唐突に遮ったのだ。

 スカーレット卿は、突如異変が起こった自分の体へと眼を向ける。

 

 その肩には、黒く禍々しい瘴気を放つ剣が―――ナハトさんの背後から、妖怪の動体視力すらも凌駕するスピードで放たれた魔剣グラムが、深々と突き刺さっていたのだ。

 

「――――あ?」

 

 何が起こったのか分かっていない様子のスカーレット卿は、一拍呼吸を止めて、自分の置かれた状況に眼を剥いた。

 次の瞬間、二発目のグラムがまた別の肩に突き刺さったところで。

 彼は大きく仰け反りながら、凄まじい悲鳴を部屋中に轟かせた。

 

「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!?」

「おじ様やめて! それは、それはフランの体でもあるのよ!? あの子が死んでしまう!!」

「案ずるなレミリア。私がこの下衆の為に、フランドールの体や魂に傷一つでも付ける訳がないだろう」

 

 ナハトさんはそう言うが、傍目から見ればとてもそうには見えない。どう見ても、黒々とした剣がスカーレット卿の――妹様の肩に突き刺さっている。貫通しているのだ。これで損傷を受けていない訳が…………いや待て、貫通している? 妹様の腕よりも明らかに刃の広い剣が、突き刺さったままでいるのか?

 おかしい。あんな剣が貫通しているのであれば、普通肩から先は切断され、千切り飛ばされてしまうのは明白だ。それなのに、まるで剣越しに腕を体へと繋げているかのようにそのまま存在している。しかも、溢れる筈の血液が一滴も零れ出していない。

 スカーレット卿は顔中から汗を拭きだして、乱れる焦点を必死に合わせながらナハトさんを睨み付けた。

 

「き、貴様一体何を……! 気でも狂ったか!? これは、お前があれ程守り通そうとしていたフランドールの体だぞ!? それを、こんなにいとも容易く……ッ!」

「……グラムは、肉を抉り骨を断つ鋼の剣ではない。これは私の混じり気の無い魔力で生み出した剣なのだ。いわば武器であり、私の一部でもある。見た目は貫通してはいるが、剣を構成する魔力の方向性を調節すれば、フランドールを傷つけることなくお前の精神部分のみを斬り裂く事など造作もないのだよ。あまり私を舐めるな、若造」

「ぐ、ううう!」

「どうした? 顔が青いぞ。私に娘の惨殺現場を見せつけるのではなかったのかね」

 

 一歩、また一歩と近寄るナハトさんに怯み、スカーレット卿は足を縺れさせて後ろへ倒れ込みそうになる。

 しかし倒れることは無かった。彼の前では倒れる事すらも許されなかった。

 

「その体は借り物だろう。粗末に扱わない程度の気配りは見せよ」

 

 スカーレット卿の足元の床から、突然触手のようなものが生え伸びたかと思った瞬間、それが卿の体を雁字搦めに縛り上げてしまったのだ。

 その触手は生物的な動きをしてはいるが、生きるものの気配がしなかった。床そのものが意思を持ち、卿へ腕を伸ばしているかのような光景だった。

 これは、ナハトさんの魔力が物体に影響して起こる現象の一つだ。確か昔にも同じように、ふとした拍子に本を魔本へ変えた事があった気がする。それと同じく、彼の魔力が床に擬似的な命を吹き込んだのだろう。魔力は超自然エネルギーの具現体だ。魂は宿らせずとも、無尽蔵の魔力を供給すればゴーレムの様に『生き物らしい行動』をとらせることが可能となるらしい。

 石の触手は、スカーレット卿の体に絡まり固定すると、元からその形があるべき姿だったと言わんばかりに硬直し、ただのモニュメントと化してしまった。

 身動きを完全に封殺されたスカーレット卿が、唾液を撒き散らしながら叫ぶ。その眼からは先ほどの余裕などとうに失せ、焦燥一色に塗りたくられていた。

 

「お、前は、どこまで化け物だ!! 床を―――無機物を『使い魔』に変えただと!? こんな、こんな出鱈目な真似が」

 

 再度、彼の発言は強制的に封じられた。ナハトさんの背後から射出されたグラムが次々と、石の触手ごとスカーレット卿を縫い付けるかのように突き刺したのだ。

 おそらく意識を保てるギリギリのラインで斬っているのだろうが、精神を直接切り裂かれるのは想像を絶する苦痛なのだろう。スカーレット卿は悲鳴を上げる事すら許されず、般若の様な苦悶の表情を浮かべることしか出来なかった。

 

「今ならフランドールの気持ちがよく分かる……親愛を向ける者が下賤な輩に乗っ取られている光景を見せつけられるのが、これほど不快だとは。あの子が憤るのも無理はないか」

「ナ……ハ……トォ」

 

 スカーレット卿は荒い息を吐き出しながら、それでも不敵な笑みを浮かべる。絶体絶命である筈なのに、まだ隠し玉を持っていると言わんばかりの表情だった。なんて往生際の悪い奴だ。

 

「勝ったと思っているな? 盤をひっくり返したと思い込んでいるのだろう? フフフフフフ、忘れてはいないか。フランドールの魂はまだ私の手元にある!! 何時でも侵食し、食らってやる準備は出来ているんだよォ! 貴様がどれだけ私を封じようが、こいつだけは冥府へ道連れにしてくれよう! それを拒むのならば、然るべき処置をとるがいい。愛しの娘を、輪廻の輪から外したくなければなァ。ハハハハハハハッ!!」

「…………それで?」

「は――――――」

「それで?」

 

 ナハトさんはまるで意に介さない。狙いを定めるかのように、ただ眼球をスカーレット卿へと向け続けている。顔が無いから尚の事だが、全く彼は動揺していない事が解った。

 スカーレット卿は、それが挑発されていると思ったのだろう。激しい歯軋りを立てて、唸るように言葉を発する。

 

「どこまでもコケにする気か……私が娘の魂を食らう事を躊躇する様な者だと、まだ思っているのか? 舐めるなァッ!! その肉の無い顔を後悔に歪めさせてや……あ……!?」

 

 ビクンッ、とスカーレット卿の体が突如痙攣を起こした。がくがくと縫い止められた体を揺らし、瞳を絶えず泳がせ続けている。

 一体何が起こったのか。今ナハトさんは何もしていない。グラムを使ったわけでも、魔法を使ったわけでも無い。何もしていないのだ。それなのに、スカーレット卿は明らかな狼狽を露わにしている。

 スカーレット卿は、必死に絞り出すように声を出した。

 

「何故だ……? 何故魂が侵食出来ん? フランドールの魂は私の手の中に―――まさか、さっきのアレか!」

 

 スカーレット卿は妹様の魂を食い潰すことが出来ていない様だった。青い顔をさらに青くし、妹様の顔とは思えない凄惨な表情を作り出している。

 さっきのアレという言葉で思い浮かぶのは、妹様を眠らせた睡眠魔法だろうか。あの時既に、ナハトさんは妹様の魂へプロテクトを同時に仕掛けていたのだろう。だから、スカーレット卿は妹様を食らい我がものとすることが出来ずにいる。

 合点がいった。何故ナハトさんが笑顔の欠片も見せず、品定めをするかのように交渉を持ち出したのかが。彼はスカーレット卿の心情を把握した上で、正真正銘最後のチャンスを与えていたのだ。その手を跳ね除けられた場合、一番救出の難しい妹様の魂が悪用されないよう保険を掛け、自身が破壊される事も全て計算の内に入れて。

 しかし、なんて魔法の精密さだ。ほぼ隣接した形で精神内に居座っていただろうスカーレット卿に気付かれることなく、プロテクトを妹様の魂に一瞬で施すなんて。

 

「手札は切り終えたか? 作戦は終いか? 駒は手元に残っていないか? ならばもう、お前に終幕を告げてやっても良いのだな?」

 

 ナハトさんは、身動ぎ一つとれないスカーレット卿の眼前にまで歩み寄る。体から放たれる瘴気が、スカーレット卿の頬を撫でるほどの距離までに。

 あまりに、圧倒的だった。

 妹様の魂と力を奪い取られ、攻撃の手段を潰され、生殺与奪の権利を握られ、どう足掻いても逆転は不可能だった状況が。

 妹様の魂は守られ、力は封じられ、一方的な攻撃を受け入れさせ、生殺与奪の権利を奪い返している。

 私たちの絶体絶命が、いつの間にかスカーレット卿の物へと置き換わってしまっていた。

 それを悟っているのか、ギリギリと歯を噛み締めながらスカーレット卿はナハトさんを睨み付ける。頭の中では如何にしてこの状況を切り抜けるか、惨め垂らしく策を講じているのだろう。

 

 ふと。

 ずっと憎悪の視線を向けていたスカーレット卿は、急に憑き物が落ちたかのような清々しい笑みを浮かべ始めた。

 

「完敗だ」

「……、」

「やはり私では、どう足掻いても貴方を超えることは出来なかったか。悪かったな、こんな薄汚い真似をして……だが私は、どうしても全力の貴方と戦ってみたかったのだ。許してくれとは言わない。敗者は敗者らしく、甘んじて死を受け入れよう。さぁ、そのグラムで私の魂を冥府へ送ってくれ。貴方に殺されるのならば悔いはない」

 

 ―――何を、言っているのだ? この男は。

 今までの悪逆非道な態度が嘘のように、スカーレット卿は紳士的な対応を取り始めた。命乞いをしている訳では無い。むしろ逆だ。この男はさっさと殺せと言っている。こんな奇妙なことがあるのか? 妹様に魂を植え付けて、肉体を自ら滅ぼしてまで野望を掴もうとしたこの男が、こうもあっさり身を引くなど、考えられる事ではない。

 何か裏があるのか。しかし裏があったとしても、ここから逆転を狙えるような要素がどこにあると言うのだろう。私の頭では、どうにも答えを探し出すことが出来なかった。

 

「さぁ、グラムを引き抜いて私の魂を肉体から解放してくれ。この状態では、グラムが抜けたところで抵抗は出来ん。大人しくあの世へ旅立つとするよ」

 

 頭を垂れ、無抵抗の意思を示すスカーレット卿へ、ナハトさんは重々しく口を開く。

 

「死は生きる者への平等たる最後の救いとは、よく言ったものだ」

「……突然どうなされましたかな?」

「貴様はこう考えている。この状況ではどう足掻いても勝ち目はない。魂を直接切り捨てることが可能なグラムがある以上、更に抵抗すれば魂そのものを消されかねない。命乞いも無意味。ならばいっそ死を受け入れ、地獄で責め苦を受けてから輪廻の輪に加わり新しい生を受ける方が遥かにマシだ、と」

 

 スカーレット卿の表情が、 死刑宣告を食らった重罪人の様に青ざめた。唇は震え、歯が微かに鳴っている。

 

「ところで」

 

 闇夜の支配者の指が動く。それは徐々に上を向き、やがて彼自身の顔を指差した。

 肉は無く、眼球と白い歯のみが存在している、靄の塊と化した頭部へと。

 

「私が何故、この顔の傷を未だ治さないでいると思うかね?」

 

 沈黙が、刹那の間室内を支配する。

 初め、私はナハトさんが何を言っているのか分からなかった。だけど、彼の言葉を噛み砕いているうちに分かってしまった。

 輪廻の輪。来世への望み。

 それを許さないと断ち切るように、自身の傷は『わざと』治していないのだと言い放った訳は。

 

「―――――あ、ああああああああああああああああああッッ!! 待て待て待て待て待て待て待て!! 考え直せナハトォ!!」

 

 スカーレット卿の薄い化けの皮が、一気に引き剥がされた。自身へ襲い掛かるだろう最悪の未来を想像して、絶望の叫びを喉がはち切れんばかりに炸裂させる。そこに声と言う概念は無く、あるのは獣の咆哮に似た、感情の爆発表現だった。

 彼が悲鳴を上げるのも無理はない。ナハトさんは、奴の魂を食らう気なのだ。魂そのものを治癒する為に必要なエネルギーに変えて、あの顔の傷を癒すつもりでいる。その先にスカーレット卿を待ち受けているのは無だ。地獄も来世も存在しない、『次』が来る事の無い永劫の終わりなのだ。

 スカーレット卿は引き攣る頬を無理やり抑え、目を白黒させながら懸命にナハトさんへと訴える。

 

「なぁ、ナハト、貴方は吸血鬼だろう? ならばその誇りを持って、敗者に鞭を打つような真似はよそうと思わないのか? 名誉ある死を迎えさせようとは思わないのか?」

「何が名誉ある死だ、笑わせるな。そもそもお前が用いた分霊の術は、輪廻の輪に加わる事を拒否した魔法使いが、醜い執念によって生み出した邪法だろう。それに縋ったお前が輪廻の輪に加わりたいなどと、虫の良すぎる話だとは思わないか?」

「だ、がそんな事が許されると思っているのか!? 魂を消滅させるなど、貴様、それでも吸血鬼の頂点に立つ者か!? 弱者をいたぶる事がお前の本性なのか!? 違うだろう!?」

「そうだな。私は弱者を虐める趣味など無い。だからこそだよ、スカーレット卿。子を想い、そしてお前の手によって無残にも殺されたあの子たちの母は今、あちらで安息を迎えているだろう。そこにお前を送り込んで、折角の平穏を乱す訳にはいかんだろうに。例え、天国と地獄で分かれていようともだ」

「―――――――レ、レミリアアアアアアアアッ!!」

 

 死よりも恐ろしい現実から目を背けるかのように、スカーレット卿はお嬢様の名を叫んだ。眼は充血し、口からは泡が噴き出ている。恐怖のあまり、最早彼は悪党としての体裁を保つことすら不可能となっていた。

 

「私を殺せええええ!! 貴様の魔力弾で首を撥ねろ! 心配するな、フランドールはその程度で死ぬことは無い! 私の魂をグラムと肉の器から放つ手伝いをしてくれるだけで良い! 私が憎いのだろう? 積年の恨みを晴らす絶好の機会だぞ! さぁ殺れ、殺れ! 私への恨みを今こそ存分に晴らせ!!」

「……折角の申し出ですが」

 

 お嬢様はスカートを両手で摘み、腰を曲げて深く頭を下げた。令嬢特有のお辞儀をスカーレット卿へ送ったその動作は実に優雅で、吸血鬼としての気品を感じさせるものだった。

 上げられた彼女の顔には、およそ10歳程度の姿をした少女が見せるものとは思えない、妖艶な微笑みが浮かんでいる。

 

「私は妹に親愛の情を抱いたために、妹を傷つけることが出来なくなった出来損ないにございます。それ故、妹へ手を上げることなど到底不可能なのです。どうかお許しください」

「レ、レミリア、私はお前の父親だぞ!? 最期くらい情けを掛けようとは思わんのか!? 誰のおかげでこの世に生を受けられたと思っている!」

「生憎ですが、私の父はナハトおじ様ただ一人。情け、と言われましても、私には何を意味しているのかが分かりません」

 

 スカーレット卿は絶句し、金魚の様に口をパクパクさせるだけとなってしまう。直後、ビシッ、とナハトさんの足が動いた音を聞いて、すぐさま正面へ振り向いた。余裕など消し飛んだスカーレット卿の表情は、恐怖の二文字で完全に塗り固められていた。

 あの表情は、私にも見覚えがある。かつて私を手籠めにしようとした少年たちが、ナハトさんに見つかった時の様な、あまりに情けなくて、惨めな表情のそれだった。

 

「い、嫌だ……!」

「終わりで良いだろう。引き際を弁えよ、下郎」

「待て、待て!! そうだ、取引をしよう。私はお前の永遠の奴隷になる。私はこれでも有能だぞ、最強の吸血鬼の名は伊達ではないと言う事を証明しよう! 私が隠した館の財宝の在処も教える! だから頼む、どうか考え直してくれ!」

「駄目だ」

「なら後生だ、殺せ! 殺してくれ!! それでいいじゃないか、鬱憤を晴らせて終わりで良いだろう!?」

「貴様に後生は、無い」

 

 白い歯が、ゆっくりと上下に開いていく。そこから覗くのは何もない暗黒の空間だった。それこそが、スカーレット卿の未来を表しているとでも言うかのように。

 ナハトさんは両手をスカーレット卿の頭へ添える。そのまま齧りつくような勢いで口が開き、スカーレット卿の目と鼻の先には暗黒の空間が展開された。

 

「滅びを受け入れよ、スカーレット卿」

 

 バチバチッ!! とナハトさんの両手から、紫色の電気の様なエネルギーが駆け抜け、妹様の肉体が淡い紫色の光の膜に包まれる。スカーレット卿の魂を引き剥がそうとしているのが瞭然だ。

 これで、終わりなのだ。最早彼に未来は無く、魂は養分へと変えられる。

 スカーレット卿は悍ましい口の先を凝視したまま、これまでにない断末魔の叫びを館中へ轟かせた。

 

「嫌だ、やめろ、やめ、やァァめろォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 スカーレット卿の魂が、紫色の光の膜と共に引き剥がされていき、少しずつナハトさんの体へと吸い込まれていく。僅かながら抵抗を見せたスカーレット卿だったが、部屋中に漂っていた瘴気や突き刺さっていたグラムも纏めて取り込み始めたナハトさんから逃れる術はなく、呆気なく体内へと収められてしまった。

 更に、部屋全体を覆っていた黒い魔力が、渦を巻きながらナハトさんへと吸収されていく。刹那の際に黒い竜巻と化し、そしてその暴風が晴れると、あの恐ろしい眼球と歯のみだった顔は元の美麗な青年のものへと戻っていた。

 

 彼は指を軽快に打ち鳴らす。すると、妹様の肉体を縛り、縫い止めていたグラムと石の触手がボロボロに崩れ落ち、無傷な妹様が露わとなった。

 私たちはすぐさま妹様の傍へ駆け寄った。私は彼女に『気』を流し込み、どこか悪いところが無いか懸命にサーチする。

 ……反応は無かった。ナハトさんの言う通り、あれだけ痛ましい姿だったにも関わらず、彼女の体には傷がどこにも見当たらなかった。むしろ健康そのものだ。

 

「ん……んぅ?」

「フラン!」

「妹様!」

 

 ゆっくりと瞼を開いた妹様が、囲むようにして覗き込む私たちを見渡した。その眼にあの邪悪な色は残っていない。昔の様に、朗らかな少女の温かさで満ちていた。

 妹様は飛び跳ねるようにして上体を起こし、私たちを眺めるように立っているナハトさんへと視線を向けた。

 

「おじさま……その」

「……『彼』は旅立ったよ」

「そっか……騙されちゃってたけど、最後に一言、400年間ありがとうって言いたかったな」

 

 ……そうか、妹様は眠らされていたから、今の今まで何が起こっていたのか分かっていないのだ。自分の心に、結局何が巣食っていたのかさえも。

 純粋すぎる彼女の姿勢に、私は思わず歯噛みする。どうして、ここまで優しくなれる彼女をスカーレット卿は利用しようなどと思えたのだろうか。本物の悪魔とは、ああまで汚くなれてしまうものなのか。

 寂しそうな表情を浮かべる妹様の頭に、ナハトさんは手を乗せた。髪を梳かすように頭を撫でる。

 

「その気持ちがあれば十分さ。君はもう一人ではない。姉が居て、家族がいる。もう寂しがる必要は無いのだ。今までを無かったことにしろとは言わない。しかし、何時までも縛られていると駄目なのは、君が一番理解できている筈だろう?」

「うん」

「なら次に君がすることは、誰に縛られるでも、縛るわけでも無く、彼女たちと共に多くの笑顔を作っていく事だと私は思う。過去に囚われる意味が無くなった今、君は未来に目を向けるべきなのだ」

 

 彼はいつもの様に、優しく艶やかな微笑みを浮かべて、フランの頭から手を離した。踵を返し、地下室の出口へと足を運んでいく。

 そんな彼を、妹様は不安気に引き留めた。もしかしたら、また居なくなってしまうと思ってしまったのかもしれない。

 

「どこへ行くの?」

「少し外の空気を吸いたい。君たちも互いに積もる話があるだろうから、私は席を外すよ。安心しなさい、今度は居なくなったりしない。約束だ」

 

 その言葉を口火に、彼は部屋を静かに後にした。

 

 ――――こうして、400年間もの長きに渡り館を縛り続けてきた呪いはこの夜を境に霧散し、私たちはあるべき形へと収まっていくこととなった。

 お嬢様と妹様が今までの溝を埋めるかのように、一緒になって過ごしている様子を眺める日が増えた事は、言うまでもない。

 

 

 紅茶がカップへ注がれる細やかな音色が部屋を満たす。白い陶器製のティーカップに紅色の液体が張られると、香ばしい葉の香りが湯気と共に立ち上り、思わず頬が緩んでいくのが分かった。今日はいつもより上手く出来たらしい。葉の調合は少々面倒だが、やはり手を加えた分、質が上がっている様に感じるのは気のせいではないだろう。

 火炎魔法を消し、私は自室で淹れた紅茶を口に含みながら、分厚い一冊の本を開く。栞が何故か抜け落ちてしまっていたので、まずは以前に読んだページを探す工程から始まった。

 

 ――――――あの夜から、大体一週間ほど経過した。どうやら私はあの子たちに紅魔館の一員として無事迎え入れて貰えたらしく、こうして自室も設けて貰い、実に優雅な日々を送っている。何せ家に人がいるのだ。これだけでも十分嬉しい事なのだが、それに加えて会話も出来るサービスまでついている。私の中で彼女たちは友達と言うより家族なのだが、それでも何気ない話が時折出来るのは、非常に心安らぐのだ。

 まぁ、美鈴は相変わらず畏まっているし、パチュリーはどこか品定めする様な目線を投げてくるし、咲夜はメイド然としていて鉄仮面を崩さない。さらに、小悪魔には尻尾と耳を立てて緊張されるのは日常茶飯事となっている。まだあまり面識のない妖精メイドたちには悲鳴を上げられるのだが、それでも十分と言えるだろう。今までのじめじめした私の過去に比べれば、その爽快感は樹海と草原の差だ。今なら太陽に向かって走る少年たちの気持ちが分かるような気がした。私がやれば即刻灰になるので、取り敢えず満月で我慢しよう。

 

 しかし実は今、私には密かな悩みが出来てしまっている。友達関連ではなく、レミリアとフランの事だ。

 あの夜を境に、私はあの子たちから避けられるようになってしまっていた。理由は分からないが、どうにも余所余所しいのだ。レミリアに話しかければ何時も絶妙なタイミングで咲夜が現れ、レミリアはどこかへ連れていかれてしまう。フランは何故か酷く慌てだし、『また今度ね!』と走り去っていくのだ。

 最初は接し方が分からず慣れていないのかとも思ったのだが、流石に1週間も続けば怪しまざるを得ない。何が原因なのかを考えてふと、私はあの夜の事を思い出した。

 

 結論から言おう。私は多分、やりすぎた。

 

 別に後悔もしていないし、罪悪感などまるで無いのだが、流石に魂を取り込んだのはやりすぎだったかもしれない。しかもあの時の私の顔は恐らく、再生していない肉体を魔力で補っていた為に魔王か何かにでも見えてしまっていた事だろう。致し方なかったとはいえ、平常より恐怖感が倍増された私を見て怖い父親だと思い込まれた可能性がある。具体的には、怒らせると比喩表現抜きに魂を喰われる義父だとでも。なんて事だ。400年越しに私はドメスティックバイオレンスパパにデビューしてしまったとでも言うのか。

 

 美鈴やパチュリーに相談しても大丈夫だの一点張りで、何が大丈夫なのか教えてくれない。咲夜に関しては失礼しますと目の前からいなくなる始末である。あの子は瞬間移動能力か何かを持っているのだろうか。能力を使ってまで逃げられる内容とは、やはり私へ知られるのがマズい類なのだろう。そこがまた、私の不安を(くすぐ)るわけで。

 

 上手く出来た紅茶だが、どこか味がしなくなったように感じて、私はテーブルへとカップを置き、息を吐く。

 すると部屋のドアから4回、ノックの音が軽快に鳴り響いた。と言う事は咲夜か。別に私の世話をする必要は無いと言ったのだが、彼女はどうにも我慢がならないらしく、『私にはこの様な形でしか恩を返せないのです』と半ば強引に何かしらの世話を焼かれることが多くなった。と言っても、私は宣言通り自分のことは殆どやってしまっているので、ベッドをメイクする程度で終わってしまうのだが。

 

「咲夜か。入っても構わないよ」

「失礼します」

 

 君も大変だろうから別に構わないのに、と言おうとしたところで、ふと、咲夜の手に銀に輝く半球状の物体が乗せられている事に気が付いた。具体的には、運ぶ料理に被せるクロシュと言う蓋である。

 食事の時間にしては、いささか早過ぎはしないだろうか。食事をとったのはつい先ほどの事なのに、どうしたと言うのだろう。

 

「それは?」

「お嬢様と妹様からの差し入れにございます」

「差し入れとは……一体何を?」

「申し訳ありません。お嬢様の命によりお答えできないのです」

 

 咲夜の手から、テーブルへ差し入れが置かれた。何とも仰々しい差し入れだ。一体何が入っているのか。妙な好奇心と開けてもいいのかという不安感が靄のように浮かんでくる。

 

「開けても?」

「はい。勿論です」

 

 取っ手を摘み、クロシュをゆっくりと引き上げて、私は中身と対面した。

 ケーキだった。

 ベリーソースが全体にコーティングされた、タルト生地の紅いホールケーキ。上には苺やらブラックベリーやらオレンジやら、果物が盛り沢山に置かれていて、パッと見ただけでも贅沢で豪華な見栄えとなっている。

 全体的に赤色をしたこのケーキは、如何にもあの二人らしいチョイスだ。見ると、フルーツの切断面がどことなく粗く、大きさもバラバラである。ソースの塗も少し、乱れがあるように思えた。

 しかし私には、このケーキがどの名パティシエの作ったものよりも甘美に思えた。思わず見惚れてしまう程に、私はケーキを眺める事に夢中になってしまった。

 そんな私の意識を引き戻すかのように、咲夜はふわりとした調子で告げる。

 

「お嬢様と妹様は、ずっとずっと練習なさっていたのですよ。仲直りをさせてくれたお礼がしたいと、それはもう必死に。思わず口を滑らせないよう、ナハト様を避ける行動をとってしまった事は申し訳なく思いますが、どうかお気持ちを汲んで頂ければ……」

「別に気にしてはいないさ。しかし、成程。いやはや全く意表を突かれたよ。普段家事なんてやらないだろうあの子たちの事だ、相当練習したのではないか?」

「ええ。教えている身が大変になるほどに」

 

 そう言って、咲夜は珍しく鉄仮面を綻ばせて微笑んだ。そうか、彼女が作り方を教えていたのか。紅魔館の家事を一手に引き受けている彼女なら、適任と言えるだろう。付き合ってあげてありがとうと言いたいところだが、今は別の言葉を言うのが先だ。彼女自身も、そちらの方を望んでいる。

 

「伝言を頼まれてくれないか。この上なく素晴らしい、ありがとうと」

「承知いたしました」

 

 こちら、食器になりますと咲夜から食器一式を渡され、直後に彼女は礼を言って姿を消した。相変わらず一切無駄が無い少女だ。一口でも食べて行けばよかったのに。

 ふと、クロシュの裏側に何かが張り付いている事に気が付いて、私は蓋の裏側を覗き込んだ。

 そこには、一枚の黄色い紙が張り付けられていたのだ。『ありがとう』。記されているのはその一言のみで、端に小さくRとFの文字が書かれていた。

 無論、それは小さな送り主二人の頭文字をとったもので。

 

「……、」

 

 思えば私はこの長すぎる生の中で、一度たりとも他人から贈り物を貰った事が無かった。交友関係が殆どないのだから当然と言えば当然なのだが、いざ貰ってみれば、これがどれ程美しく尊いものなのかがよく実感できる。食べるのが勿体ないと言う言葉は、本当に存在していたのだ。ナイフを入刀するのが(はばか)られてしまうのも無理は無かった。

 意を決して、ピースを一つ小皿に取る。フォークで切り分け、その欠片を口へと送った。

 舌がケーキを迎え入れた瞬間、深い感嘆が、吐息となって漏れ出した。

 

「…………良いものだな」

 

 私は紅茶を淹れなおして、次々とケーキを口に運んだ。一人で食べきれる量ではないと思っていたのだが、これが不思議と胃袋に収まっていく。味気なかったはずの紅茶が進む。なんとも胸焼けが心地いい。気が付いたころには、プレートの上には何も残されていなかった。我ながら、あの量をよく食べきれたものだと思う。

 

 その後、図書館を訪れた際にパチュリーから『小悪魔が怯えるからにやにやするのをやめて頂戴』と一喝されたのは、また別の話だ。

 


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