絶大な力を持つが故に疎まれた、ある一人の吸血鬼がいた。
見るもの全てに恐怖を植え付ける性質を抱えながら、誰より深い博愛に溢れた主がいた。
心の渇きを満たすために友を求めながら、拒絶されずには生きられなかった男がいた。
無償の善を施しながら、報われる事すら許されない悲しい性の人がいた。
この世の誰よりも畏怖を受けながら、たった一つの情を求めた、偉大な夜の父がいた。
「……」
夢を見ていたような気がする。
大切な人が、堕ちた線香花火の様に灰へと還ってしまう夢。『もう二度と会えない』なんて気持ちが胸を貫き、溢れる悲哀で心臓を締め付けられた青い夢。
夢であってほしかった。切に、切に。幻の泡であってほしかった。
けれど現実は無情かな。きっと、これは夢なんかじゃなかったのだろう。
瞼を開いて最初に目にした灰を見つめながら、レミリアは自分でも驚くほど冷静に、その事実をしっかりと受け止めた。
「…………」
言葉は無い。
言葉が出ない。
言葉にするべきではないと、レミリアは込み上がるものを呑み込んだ。
手を着き、体を押し上げる。雪の上で寝転がっていたせいか、服はドロドロで仄かに土臭い。これは洗濯が大変そうだと、場違いな感想を浮かべてしまうほどだった。
灰を見る。小さな我が身よりも大きくて、広く積もった粉塵の山を。
この灰は、レミリアにとって正しく力の象徴だった。あらゆる不条理、あらゆる理不尽をものともせず、幻想郷の頂点とも渡り合った絶対強者の証。力を是とする妖怪にとって、彼ほど羨望と恐怖を掻き集めたヒトは居なかっただろう。
そのヒトは今、息を吹けば雪に混ざって消えてしまいそうな、儚い存在へと成り果てた。
金属を引き千切るような高笑いが絶えず聞こえる。強烈な耳鳴りよりも鬱陶しいのに、凱歌のような猛々しさを感じる笑い声が。
見上げれば、狂った絶叫を轟かせる元吸血鬼の姿があった。
悟る。彼はあの男に敗れたのだと。四年前の夜とは真逆に、彼は絶対悪の前に倒れ伏したのだと。
「おじ様」
気付けば、レミリアは灰を掴んでいた。
さらさらと、余った粉が指の間から零れ落ちる。
それでもレミリアは、か細い五指をキュッと握り締めて、精一杯の灰塵を手に収める。
「私に、力を」
祈る。己に
吸血鬼の灰を吸い込んだ人間は絶大な力を手に入れるという伝説がある。かつて妹がスカーレット卿に取り憑かれていた頃、館へ帰ってきたナハトが『ナハトの遺灰を吸い込み力を得た人間』だと吹き込まれていたように。
もし、その戯言が誠ならば。彼の力を得られるならば。
いいや、まやかしでも良い。ただ切に、彼の強さを分けて貰えるのなら。
酷く脆く、しかして強く。信仰深き崇拝者のように、レミリアは祈りを捧げよう。
――おじ様。どうか私にお与えください。
邪悪へ立ち向かう勇気を。妹たちを守り抜く力を。
どうか、この手に。
「…………」
漲りは無い。包まれるような加護の授かりも無い。けれどそれで十分だった。
今のレミリアは最強の吸血鬼に支えられているんだと、心で感じられたから。
毅然と立ち上がり、彼方を見る。鈍った体を呼び覚ますため、レミリアは魔力を血管中へと奔らせた。
ふと。いつもは紅い魔力の流れに、黒い奔流がある事に気付く。
深淵の如く深い闇。痺れるような暗黒の拍動。けれど欠片も不快では無かった。まるで静かな夜の優しさが魔力となって、レミリアの中を流れているようにも感じられた。
同時に、頭の中にレミリアの知らない知識があった。成すべきことを成すために必要な知恵の果実が、レミリアの中にそっと供えられていたのである。
――ああ。これが彼の残した、最期の贈り物なのか。
清水の様な現実が、つむじから爪先まで流れ落ちて。雪解け水のように大地へ吸い込まれていく。
今になって、ぎゅっと胸が締め付けられた。内側から張り裂けそうなほどじくじくとした痛みが、
湧き上がってくる焼けたモノを留めようと、胸に手を当て強く押し込む。それでも煮えるように目頭が熱い。気を抜けばたちまち溢れて吹き零れそうだ。
けれどそれにはまだ早い。レミリア・スカーレットが肩書を捨て、センチメンタルな少女と化すには早すぎる。
まだ、終わらさせなければならない宿題が残っているのだから。
レミリアは精一杯の空気を吸い込み、大きく胸を膨らませた。
「スカァァァァァァァレットォォォォォォォ―――――――ッ!!」
咆哮炸裂。森は揺れ、湖面は震え、土くれは弾け飛んで砕けて消える。
音の衝撃は遥か上のスカーレット卿へ易々到達すると、意識の焦点を瞬く間に引き寄せた。
さもつまらなさそうに、蟻を見る様な眼をスカーレット卿は眼下へ向ける。
「なんだ小娘。今良い所なんだ。余韻の邪魔をするな、無粋であるぞ」
聞く耳はもたない。
持つつもりも、無い。
「スカーレット。最後に私と勝負をしろ」
「……ほう?」
二つの紅が交錯する。巨大な魔力の塊同士は、容易く周囲を異界へ変えた。
レミリアは指を突きつける。正真正銘、最後の決着を着けるために。
小細工なんて何も要らない。ただ力をぶつける機会があればそれでいい。レミリアの想い、紅魔館の想い、そして散った義父への弔いを全て乗せた必殺を、あの邪悪に放たなければ気が済まない。
真剣勝負。レミリア・スカーレットが望んだ最後の戦いは、たった一撃同士の決闘だった。
「四年前、お前は私にこう言ったな。お得意の魔力弾で心臓を破壊してみせろって」
「あー……ああ、うん。確かに言った。それがなんだ?」
「今、それを実現してみせましょう」
溢れる魔力の収束が起こった。凍てつく陽炎が渦を巻き、展開されていた紅の霧がレミリアの躰へ猛スピードで逆流していく。
凝縮された魔力は半物質化し、右掌へ顕現した。鉱石の様な滑らかさと雷の如き荒々しさを併せ持った、黒と紅の結晶体。抜きたての心臓の様に力を拍動させるそれは、ナハトとレミリアの魔力が融合した魔力物質に他ならなかった。
幾度も幾度もその身に味わった、純黒の魔力を目にして卿の表情が一気に歪む。
口元が引き裂かれ、三日月状の笑みが貼り付けられていく。
歓喜とも、憎悪ともつかない感情が、決壊したダムの様に噴出する。
「そうか――そうかそうかそうか! なるほど、あの怪物め! 残された最後の力を貴様に託したんだな!? なんという……ははははっ、そうかそうかぁ! いやぁ、ナハトを滅ぼした今となっては最早貴様らなどどうでもいいと思っていたが、よし! その挑戦受けてたとう! 奴が残した最後の遺産を、残り火の一片までも、我が日輪の焔で焼却してくれようではないか!」
絶叫に呼応し、邪悪な太陽が膨れ上がる。炎熱が迸り、真冬の寒冷は彼方へと消えた。
全ての空気がスカーレット卿へと流れていく。天上へ向けられた人差し指に小さな火球が生じると、それは瞬く間に空を潰しえるほどのエネルギー塊へと変貌した。もし大地へこれが直撃したならば、霧の湖はあっという間に蒸発し、湖底すら軽々と消し飛ばしてしまうだろう。
だがレミリアは臆さない。天敵の力を前にしても屈さない。
瞳には揺るぎない覚悟があった。折れる事の無い決意があった。
それを察して、スカーレット卿は鼻で嗤う。
「ああ、だがレミリアよ悲しいかな。実に、実に、実に悲劇的かな! 貴様と私では端から勝負になっておらん! ナハトをも滅ぼした我が力が、たかだか矮小な吸血鬼の小娘如きに敗れ去るわけ無かろうが! それは貴様も承知のはず! だがそうであっても、なお私に勝負を挑むというのか!?」
「望むところよ……一切合切ぶち抜いてやる!」
「パーフェクト、その意気込みを賞賛しよう! ならばせめてもの手向けだ、渾身の一撃をもって貴様を冥土へ葬ってやろうぞ!」
太陽が一気に収縮していく。おおよそソフトボール程度へと収まったそれは、しかし光を際限なく増加させ、眼にするだけでも吸血鬼を灰にさせそうな莫大な輝きを放ち始めた。パチュリー・ノーレッジの加護が無ければ、この波濤でレミリアは灰塵と化していたかもしれない。
紅魔館現当主もまた応じる。パチュリーから予備にと受け取った対日光マジックアイテムへ魔力を回しながら、左腕を照準装置の如く前へと突き出し、定める。
対の右腕を弦の様に思い切り引いて、鮮紅と純黒の魔力塊を高速循環させる。魔力の回転は圧倒的な瘴気とエネルギーを生み出すと、黒煙纏う赤雷を放ち始めた。
次の一手で全てが終わる。
両者ともに、その認識は覆らない。
「■■■■■■■―――――ッッ!!」
神話に名を刻む怪物すらも超越した雄叫びが、天地を砕き割らんばかりに轟き奔る。
悪魔の放ったバウンドボイスは、二人の撃鉄を引き絞った。
足元がレミリアから放たれるあまりの魔力圧にひび割れ凹んだ。だがレミリアの体は砲台の如く固定され、一ミリたりとも狙いを逸らす事は無い。
スカーレット卿もまた同様だ。空気を、空間を、時空をも歪ませる圧倒的な熱量を纏いながら、たった一人の小さな吸血鬼を滅ぼす為だけに、全神経を集中させている。
僅か一呼吸ばかりの、砂粒のような時間が生まれた。
小さな小さな一幕が、まるで
だがしかし。時とは残酷に、無慈悲に、無情にも刻まれゆくもの。
時の歯車は音を立てて針を動かし、訪れるべき一瞬へと世界を進める。
運命は着実に、足音と共に忍び寄る。
一片の淡雪が、陽炎のように溶け消えた。
――――訣別の
「辞世の句を詠め! 今生の終わりに咽び泣け! 己が宿命を受け入れるがいい、これより先は蹂躙である!!」
「スピア・ザ・――――――――!!」
「我が業の前に、塵芥へと滅び果てよッ!! レミリア・スカーレットォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――ッッ!!」
「――――グンッッグニルッッッ!!」
打ち上げられた魔力塊は容易く音の世界を越え、細く、鋭く、しかして熾烈な力を帯び、極限の破壊を体得する。
解き放たれた日輪の大炎熱は荒れ狂い、のたうち、世界を焼き尽くす大蛇となって真っ逆さまに地上を目指す。
刹那。悪逆を穿ち貫く紅蓮の神槍が喚呼を上げた。
転瞬。楽園を吹き飛ばす劫火の柱が唸りを上げた。
天蓋貫く究極の一撃が、地上を地獄へ変える暴虐の破壊と激突する。
重なる衝撃。力の喰らい合い。世界を断たんばかりの猛光が怒涛の如く弾けて混ざる。
千紫万紅の圧倒的な全景が、冬の星空を
今ここに、神話大戦は蘇った。
「馬鹿め! 貴様がこのスカーレットに敵うとでも本気で思ったか!? 私は闇夜の支配者を超越したのだッ!! ならば貴様ら凡百のヴァンパイアに敗北する道理など、一片たりともあるハズがなかろうがァああああああああああああッッ!!」
「――――――ッゥあ、あ、あああああああああああああああああああああああああッッ!!」
太陽の輝きが増していく。紅黒き魔性の槍が崩れ始めていく。
無情だった。非情だった。
スカーレット卿の言う通り、どれほどみっともなく足掻こうが、救いの兆しなんてどこにもない。
死ぬ気で頑張っても、抵抗しても、やっぱり運命の行き付く先は同じなのか。
心の柱に、不安と焦燥の杭が勢いよく撃ち込まれる。
亀裂が、蜘蛛の巣の様に走りぬけていく。
「……いいえ、いいえ!!」
否定の言葉を放ち、歯を食いしばって立ち上がる。息を吸って心臓に活を入れ、踏ん張るように柱の崩壊を食い止めた。
言い聞かせる。そんな程度で諦めてたまるものかと。いままで私は一体何を見てきたのかと。
もっともっと不条理な目に遭い続けた人がいた。心に有刺鉄線を巻かれるような苦痛と理不尽を永劫と共に縛り付けられ、それでも諦めなかった人がいた。
その背中を、ずっとずっと眺め続けてきたじゃないか。
諦めない。例えどれほど絶望的でも、みっともなくとも。最後の最後まで、生き汚く抗って見せつけよう。
そうでなきゃ、ナハトへどんな顔を向けられる。
どんな顔をして、紅魔館を背負っていける!
魔力増幅、重ねて発動。魔力注入量、さらに増加。魔力生成速度、臨界を超越。
限界を捨てろ。命を燃やせ。怒りを、哀しみを、槍先に込めて叩きこめ。
今のレミリアに敗退の二文字は無い。諦念なんて言葉は頭の辞書から破り捨てた。
気圧されそうになる足腰に気合と魔力を叩きこむ。迫りくる灼熱の柱から一切眼を逸らさずに、誇り高きスカーレットデビルは猛々しく牙を剥く。
「負ける、もんか……!」
「いいや違うね、貴様は虚しくもここで負けるのだ! 路上で踏み潰されるチンケな蟻どもの様にッ! 朽ちて消え去る運命なのだ!」
「負けない! あんただけは、あんたにだけはッ!! 絶対に負けるもんかぁッ!!」
槍へ魔力を注ぐ腕から赤い煙が吹き上がった。魔力の霧ではない。無茶な魔力供給が肉体に多大な負荷をかけ、血管を突き破ったのだ。破裂を続ける水道管の様に、浮き上がった黒い血管から際限なく赤が噴出する。鉄臭い噴霧が顔に掛かり、白い肌は瞬く間に染め上げられていく。
その姿は、まさしく二つ名が示すような。
「うぎ、ぎ……!!」
激痛と共に爪が砕け、指先の肉がザクロの様に弾けて裂けた。
右肘から先がガクガクと痙攣を起こし、浮き出る血管は締め上げられたポンプのよう。気を抜けば最後、腕が吹き飛ばんばかりの圧が全方位から襲い掛かる。
支えるように左手で腕を掴み取った。しかし魔力の流れは決して緩めず、迫り来る陽の柱を打ち破らんと全身全霊をかけて迎え撃つ。
「貫け――――貫けえええええええええええええええええッッ!!」
――咆哮が、一つの奇跡を呼び起こしたのかもしれない。
槍の内側から黒が瞬く。新たな心臓が芽生える様に力を脈打ち、鮮紅の牙がぞぶぞぶと、純黒の魔へ染まってゆく。
吸血鬼ナハトのものと同じ、この世にあってこの世ならざる、消滅の魔力の波紋だった。
「!? その、槍は……!?」
驚愕が天空から木霊する。響き渡る驚天動地は一つの答えをもたらした。
それはナハトが残した最後の残滓。それは闇夜の支配者が託した最期の贈り物。
万物を消滅せしうる偽典の消滅魔導が今、スピア・ザ・グングニルとして蘇ったのだ。
「
形成は一気に逆転を迎える。消滅魔導のエネルギーが光線を削り飛ばし、火柱を真っ二つに引き裂く様に突貫した。最早スカーレット卿の核融合操作による熱波だけでは止められない。いまやレミリアの神槍は、五行を呑み込むブラックホールと化したのだから。
だがしかし。絶対不可避であるはずの必殺を、卿は間一髪で食い止めた。
制御棒を指でなぞって前へ突き出す。豪速で迫る槍へ触れた瞬間、濁流の様な白の波が襲い掛かり、まるで肉から皮を引き剥がすように槍から絶対の黒を奪い取ったのである。
反魔力。対ナハト用に造り出した切り札を、スカーレットは胸の本だけでなく制御棒にも仕込んでいたのだ。それも任意で発動できるよう細工まで施して。
悪魔が、吼える。
「無駄だァああああ――――ッ!! いくらナハトの力を取り込んだとて、相性の絶対性が覆ることは決してない! 足掻こうが喚こうが、
槍が弾き飛ばされる。グルグルと旋回し、竹トンボの様に宙を舞う。
光球がスカーレットの手元に顕現した。槍が再び襲い来る前に焼き滅ぼさんと渾身の輝きが明滅し、圧倒的な大炎熱が姿を現す。
――その時だった。とどめの光が撃ち放たれる直前、前触れもなく転機が訪れたのである。
絶望を前にしても砕けなかった不屈の執念が、幻想を守る龍神の元へと届いたのか。
それとも、レミリアの
真相は、彼女自身にも分からない。
ただ一つだけ、確かに言える事があるとすれば。
運命は、レミリア・スカーレットへ微笑んだ。
「きゅっ!!」
◆
幼気ながらも気高い声が、甲高く、割り込むように響き渡ったその瞬間。
右腕の制御棒が、音を立てて弾け飛んだ。
散りゆく火の粉が卿の瞳に反射する。焼け焦げた香りと共にきらきらと、戦場に似つかわしくない絶景を演出する。
霊烏路空の細腕が露わになる。同時に、力の中核がぐらりと揺らぐのを実感した。
「あ……?」
茫然自失。理解不能。
下瞼が痙攣し、瞳孔が限界まで見開かれた。突然開け、中心を槍が据えるのみとなった視界を前に、思考回路が弾け飛ぶ。
「なにが――」
だがすぐに、コンマ一秒も経たぬ間に。卿は未曽有の答えを知る事となる。
遠くない虚空に映る、子供程度の影が二つ。
そのどちらも、スカーレット卿の見知った顔で。
片や、無意識を操る覚だった少女。
片や、万物を破壊せしうる己の次女。
焼き切れていた回路が繋がる。パズルを嵌めていくように、何が起こったのかを理解する。
あの時、レミリアの槍と食い合い、確実に押していたあの瞬間。スカーレット卿には決して認識する事の出来ない無意識の狭間から、防御不能の一手を加えられたのだと。
かつて卿がナハト用の切り札としても採用した、存在するなら神であっても破壊せしめる必殺の一撃で。
――――全身の血液が、マグマの如く沸騰した。
「フラァァンドォォォォォォォォォォルゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!」
「……おじさん。本当に、本当にごめんなさい」
破壊を宿す次女ではなく、瞳を閉ざした少女が言った。
それは己を騙したことに対する責めの言葉ではなく、まるでスカーレット卿を止められなかったことを、そして彼の姦計に容易く絆されてしまった自分自身を責めるかのような、蒼い心情の吐露だった。
「でもやっぱりこんなの間違ってた。私も、あなたも、最初から全部間違ってた。ねぇおじさん、もう終わりにしましょう? お願いだからこれ以上皆を傷つけないで! 私と一緒に、ごめんなさいって謝ろうよ! 犯した罪を償っていこう!? 今ならきっと、きっと
「――――」
どこまでも、どこまでも。呆れかえるほどに優しい少女の言葉。
騙され、利用され、傷付けられ、死の狭間にまで追いやられたというのに、それでも差し出されるのは和解の握手。
……偽者の友情であっても、こいしにとってスカーレット卿は親友だった。無我の暗闇に光を与えてくれた恩人だった。
だから見捨てようとしないのだ。真正の邪悪だと理解していても、もしかしたら悔い改めてくれるかもしれないと、一縷の望みに賭けるのだ。
フランドールもまた同じ。今だって、やろうと思えばスカーレット卿の魂のみを破壊できた筈だろう。
けれどそれをしなかった。慢心したわけでも、臆病だったわけでもない。例え埃より小さな可能性だとしても、実の父が改心するかもしれない最後の希望を、
虫酸が走る。邪悪は粘ついた唾と共に一蹴した。
須臾の間に魔力を注がれ、復活した槍が豪速で迫り来る。触れれば最後、スカーレット卿の魂のみを抉り取る終末の化身が。
間髪入れずに卿は能力を発動した。太陽の炎でフランドールとこいしを薙ぎ払い牽制しながら、安定性を失い、日輪の力を帯びただけのバリアを眼前に向けて多重展開する。
それは槍を寸前で食い止め、バチバチと壮絶な火花を撒き散らした。
「何を言うかと思えばァ……とことん綺麗事かこの甘ったれがァーッ!! 陳腐な道徳や善悪なぞ笑止千万! このスカーレットが、そんなミミズの糞よりも粗末な美辞麗句如きで覇道を退くとでも、ほんのちょっぴりでも期待したか!? いい加減現実を見ろよなぁッ!!」
「……おじ、さん……っ!」
ガラスが弾ける音がした。何重にもスカーレット卿を守る太陽の盾が、槍の力に打ち破られつつあったのだ。
卿の魂は吸血鬼である。そんな彼が太陽の力、即ち八咫烏の権能を操るのは並大抵の所業ではない。安心を与える力をフル稼働させ、霊烏路空の精神を常に安定させたうえで、空を介して八咫烏の分霊を誤魔化し、初めて力を抽出できるのだ。
その複雑極まりない操作の負担を少しでも減らすために必要なのが制御棒だった。これを失った今、スカーレット卿はいわば大黒柱を折られた掘立小屋に等しい状況にある。
覆る事の無い絶対的な相性が今、食い破られようとしていた。
「ぐぎっ、ぎぎぎぎぎィいいいァァガアアアアアアアアアアアアア――――ッ!! 舐めるな、舐めるなよ童ども!! この私が……このスカーレットがッ! ナハト以外の吸血鬼に敗れるものか! 敗れてたまるものか!! ましてや貴様らのような木っ端風情にぃ、負ああァけるかァあああ―――――!!」
一つ。二つ。三つ四つ五つ。日輪の防護壁が音を立てて弾け飛ぶ。だがそれ以上の盾を展開し、スカーレット卿は生き汚く応戦を繰り返す。
十の盾を越えたあたりから、スカーレット卿の体に青い火柱が吹き上がった。全身を覆い尽くし、メラメラと揺れるそれは、しかし霊烏路空の肉を焼く猛炎ではない。制御を失い、無謀な力を使った結果、スカーレット卿の魂が反動で燃え尽きようとしているのだ。
限界だ。傍目から見ても明確な事実に他ならなかった。
しかし。それは、レミリアの神槍についても同じこと。
度重なる太陽との拮抗が致命的なダメージをグングニルに与えていた。元々ナハトの叡智や魔力、パチュリーの加護を織り交ぜなければ一瞬で爆砕されていた力量差なのだ。槍にはとっくに亀裂が走り、盾を貫通する度に、削られていく鉛筆の様にサイズが縮小を始めていた。
このままいけば槍が先に終わりを迎える。レミリアも、炎を払いのけているフランドールやこいしも、誰もがそれを危惧し、届かないのかと歯噛みした。
反比例するように、卿の笑顔は大きく引き裂かれていく。
「くはっ、はははっ! ああ、ああ、やはりそうなのだ! 私はいつだって最後の最後で悪運が勝る! 運命が味方をしてくれる! 五百年前も、四年前も、そして今も変わらずに!! この槍さえ凌げば私の勝利だ、貴様ら有象無象の小娘なぞ須臾の間に燃やし尽くしてやるからな! ひぎゃはっ、見ているかナハトよ!? 貴様は完膚なきまでに敗北したのだ! 私の、我が怨念の、勝ち」
「幻世『ザ・ワールド』!」
――無拍子で訪れたナニカがあった。
愉悦と勝利に酔っていた悪魔の言葉が、断線された通話の様にブツリと途切れて。
空の体が、巨大な鈍器で殴られたかの如く大きく揺れ動き。
刹那。まるで肉を切り分ける様な――違う。魂を穿ち貫かれる独特の
下を見る。
胸元から、見覚えの無い突起物が突き出していた。
血と闇を混ぜたような、紅黒い槍だ。
目の前で消えかけていたはずの神槍が、
「……あ、え?」
眼振が起こる。魂と脳が現実を処理できず、真っ新な白紙と化していく。
壊れた機械人形の様に、ギチギチと、スカーレット卿は首を後ろへと振り向かせ。
紅魔館で寝転がっているはずの、人間の従者と目が合った。
時を操る瀟洒なメイド。レミリアの誇る自慢の右腕。
その彼女が、肩で息をしながらこちらを見据えて構えていた。
「ば、馬鹿な、きき、き、貴様、とき、と、時を……ッ!?」
しなやかな白い手には金属で出来た筒が握られ、口がこちらを向いている。
それはかつて、紅美鈴がナハトから貰った、二つの筒同士で物体を移動させる河童の発明品だ。
太陽の盾の直前から、墜落していく一条の影があった。
語るまでもなく、それは時を止めた咲夜が、壊れかけの槍を吸い込ませた筒の片割れで。
理解が、稲妻の如く魂魄を駆け巡った。
「ぎゅがっ」
激痛が、屈辱と共にやってくる。
悟る。どんなに嫌でも悟ってしまう。
パチュリー・ノーレッジが皆を日輪から守り抜き。
フランドール・スカーレットが突破口を切り開いて。
霧散寸前の槍を、十六夜咲夜が紅美鈴から託された筒で救い出し。
レミリア・スカーレットの槍が、遂に真性悪魔の霊核を射貫くに至ったのだ。
そして、霊烏路空を一切傷付ける事無くスカーレット卿を破壊するのは。
魂魄の底から憎悪を向けた、忌々しい男の力で。
全てを認めてしまった瞬間。スカーレット卿の
かつて蹂躙の限りを尽くした
「あがッ、ごが、ごっ、おァ、おお、おおおおお……!!」
槍から光が溢れ出す。千紫万紅の輝きは留まる事を知らず、肉の体に掠り傷一つ刻むことなく貫通した。
黒とも灰とも紅ともつかない、極彩色をした人型のナニカが霊烏路空から吐き出される。それは槍に貫かれたまま大空へと縫い止められ、汚濁のような咆哮を轟かせた。
「あ、ゥお、のれェ、おのれェええええええええ!! げぶ、やってくれたな、小娘どもがァッッ!! ごっ、うぐご、おおおおああああ、さ、裂ける、私が、
苦悶の雄叫びを上げる、かつて父だったもの。息を切らしながらそれを見据えるレミリアは、不意に、脳裏を掠める記憶を発見した。
かつてレミリアが永夜の前触れに垣間見た、とある予知のフラグメント。水泡の様に浮き上がった小さな小さな記憶の残滓が、眼前の光景へパズルの様にぴったりと重なったのだ。
『満月の中に訪れる、津波の如き凄まじい光と二つの大きな力。一面を覆い尽くす業火に、それを呑みこむ暗黒の闇』
初めは、あの時藤原妹紅の炎を掻き消したナハトの暗示かと思っていた。でもそれは勘違いだと気づかされた。この予知はきっと、ナハトとスカーレット卿が再び出会い、矛を交える前兆だったのだ。陽を食らう闇と夜を殺す日輪の輝きがもたらした、二度と目にする事の無い絶景だったのだ。
けれど最後に視えたのは、ナハトの誇る禍々しい十五の魔剣でも、卿の操る絢爛たる八咫烏の怒りでもない。
天翔ける一条の矢。それが予言の結び目だった。
しかし、どうやら真相は些か異なっているらしい。レミリアが視たものは矢ではなかったのだ。あの流れ星のような閃光は、亡き王より受け継いだ黒を纏う、レミリアの神槍そのものだったのだ。
悟る。悪魔の命運尽きる時が、ようやく巡ってきたのだと。
少女の視たかつての啓示は過去からの因果、全ての呪いへの終局を指し示した。
ならばレミリア・スカーレットは己が天命をここに果たそう。今こそ極点へ至る一投をここに成し遂げよう。
「……いい加減、お前の絶叫は聞き飽きた」
ズタズタの腕をスカーレット卿に掲げたまま、幼き月は魔弾の槍を装填する。
たった一つに絞られた照準は、今度こそ絶対に外しはしない。
「奈落へ行け。行って
最後の一撃は全力で。渾身の力を腕に込め、華奢な細腕を大砲に変える。
母を殺し、義父を殺し、五百年もの長きに渡り醜悪な音を奏で続けた悪逆の
夜が直線に切り裂かれる。破魔の矛は空間の枠組みを越え、次元を食い破り、稲妻よりも速く天空を駆ける、駆ける。
刻まれた神槍の銘に狂いはなく、絶大な衝突音と共に真っ直ぐ卿の霊核を貫いて、臓物を引き摺り出すように穿ち抜けた。
くの字に折れ曲がった邪悪の背から、五百年間孕み続けたどす黒いエネルギーの濁流が、噴水の如く飛び散っていく。
「――ナ、ハ」
邪悪の権化に、断末魔を上げる事は許されない。
刹那。一切合切を蹂躙する大爆発が巻き起こった。
超新星爆発の如きフレアが一帯へ放たれ、幻想郷の夜は白夜の如く光の津波に塗り潰される。
何度も、何度も。小規模に、大規模に。魂魄を焼き滅ぼす数多の波動が怒涛の如く爆裂し、闇と光が拮抗した。
光の嵐は、やがてか細く消えていく。頭蓋を揺らす音も止み、やっとの思いで瞼を開けば、紅魔館へ染みついていた邪悪の姿はどこにも無く。
今までの戦いは全て夢幻であったかのような、静謐な世界が訪れていた。
「……終わったのね」
掲げていた腕を下げる。瞳を閉じて、雪を受け止めるように空を仰ぐ。
満天の星空の下、絢爛な月の光を浴びながら。
闇夜の遺児は、冷たい空気を吸って瞼を開けた。
静かで、暗くて、幻想郷の眠りを守る、輝かしき偉大な夜があった。
節々を突き刺す痛みを持って行ってくれそうな、優しさに溢れたいつもの夜。紅に染まる事も、誰かの号哭を耳にする事も無い平和な夜だ。
そっと胸に手をやって、少女は祈りを捧げるように言葉を零す。
「おじ様。やっと終わったわ。――全部、終わったのよ」
だから、安心しておやすみなさい。
言葉は一筋の雫と共に、夜風に攫われ溶けていった。