【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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37.「溶け落ちる疑惑の氷塊」

「――この騒ぎ、真の首謀者はあの鴉か」

 

 荘厳さを纏う声が反響する。

 

 山の頂。赤い柱と純白の壁で構成され、神々が住まう家城と称されても何ら遜色のない殿があった。

 建物の最奥、妖怪の山を統べる天魔の間にて、白磁の仮面で顔貌を覆い、巨大な御座に腰を据える天狗の王は大仰な錫杖を手に取り、柄で足場をコツンと叩いた。鈴の音が間に染み渡り、集められた大天狗が応じて起立していく。

 

「山の状況はどうだ」

「は。被害規模を現在調査中でありますが、少なくとも山の三分の二近くが怨霊に乗っ取られ、暴動を繰り広げられているみられます。発生地は麓で五ヶ所、中腹で四ヶ所確認されており、健在だった者たちで部隊を緊急編成し、それぞれ非戦闘員の避難誘導や抗戦を担っております」

「幼子らの無事は?」

「今のところ死傷者等は確認されておりません。ですが、時間の問題かと」

「左様か。……ご苦労だった。さがるがいい」

 

 礼をして、報告者の大天狗が沈黙する。すると、タイミングを見計らっていたのか、一人の大天狗が口を開き、

 

「天魔様。先の賢者の発言と光景が真ならば、どの様に選択をされるおつもりですか?」

「無論。八雲紫と連携を取り、鎮火に努めるのみであろう」

 

 天魔の言葉に大天狗衆からどよめきが生まれる。無理もない。妖怪の山は半ば幻想郷から独立した封鎖社会なのだ。一つの国と言っていい。その長である天魔が、幻想郷創立から今に至るまで互いに首を狙い合っている様な間柄だった八雲紫と手を取り、あまつさえ助力を求めると言ったのだ。

 伊吹萃香が仲介を担った祭りの時とはわけが違う。妖怪の中では人間に限りなく近い利益主義の天狗たちは、紫に無償で救援しつつこちらも助けを求めると言う判断が信じられなかった。

 

「お言葉ですが天魔様、八雲に塩を送るのみならず、あまつさえ助けを求めると言うのですか!? どうかお考え直しを、その判断は後に八雲紫からつけ入れられる隙を生みましょう!」

「大局を見極めぬか(たわ)け。この有様を見るがいい、最早我々のみでは被害の拡大は防がれぬ。我らは悪霊に敗北を喫したのだ。それは彼奴(やくも)も、他の妖怪共も同じこと。今ここで沈黙を貫き、内輪で始末を試みてみよ。犠牲者は増えるばかりか、火急の際に馳せ参じなかった薄情な愚か者と、八雲紫のみならず方々の妖怪連中からも的にされよう。ここは双方の利を得つつ恩を売り、越えてはならぬ線を越えぬべく最善を尽くすべきである」

 

 それに、と天魔は付け加え、

 

「あの吸血鬼……ナハトと言う大妖も今、危機にあるとのことだ。彼奴には間接的ながら、この山を鬼から解放してもらった恩義がある。あの男が萃香様の興味を引き、戦を引き受け、そして萃香様を満足させなければ、未だ山は鬼の所有物であっただろう。受けた借りは返すが山の道理。しかしてこの機は吸血鬼への借りを返す好機でもある。被害を抑え、面目も立て、借りが帳消しとなるならば、八雲へ応じる以外に道はあるまいて」

 

 異論はあるか? ――唱える者は、誰一人として居なかった。

 錫杖の鈴が鳴る。二度、三度と響き渡り、天魔は号令を口にした。

 

「八雲へ受諾と連携用の使い魔を飛ばせ。既に報を掴んでいるだろう、清めの祓いも行える守矢の神々にもだ。この場に居座る大天狗衆も早々に救援へ赴くがよい。これより汝らの肩書全てをこの天魔が担い、全指揮を執るものとする。貴様らは山で起きた全ての情報を私へと寄越すよう務めるのだ」

 

 ――――此度の異変は異変に非ず。戦になると心得よ。

 

 

 

 

 

「――――っ!」

 

 一部始終を目にしたアリス・マーガトロイドは、血相を変えて椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。

 頭を締め上げられた様な気分だった。秋に起きた一部始終の怪事件。そこで起こった数々の謎が紐解かれ、溢れ出た真実の波がアリスへ襲い掛かってきたからだ。

 

 思えば、風見幽香の縄張りである花畑で都合よく妖怪が暴れまわり、ミイラ化を迎えた時点で怪しかったのだ。幾ら狂い果てようとも、下級妖怪は本能から大妖怪の領域を侵すことはまず有り得ない。あるとすれば自殺志願者だけだ。なのに例の名も無き妖怪は花畑を荒らし、幽香の怒りと興味を買った。これは、スカーレット卿と名乗る怨霊に操られていたが故の愚行だったのだろう。

 

 怒髪天を衝いた幽香が魔術の痕跡を解き明かす為に人を頼るとすれば、既知の魔法使いたるアリス以外には考えられない。そしてアリスは残された残滓から『吸血鬼』という答えを導き出し、風見幽香に偽の標的をもたらすのだ。

 

 つまり、アリス・マーガトロイドは橋渡しに利用された。

 吸血鬼ナハトへの恨みを晴らす為に、私刑の片棒を担がされたのだ。

 

「…………」

 

 アリスは生真面目で、面倒見のいい性格だ。独りを好んでいても何だかんだ知人は放っておけないし、交友に対する人情もある。魔法使いという広義の妖怪に属する少女ではあるが、事実アリスはどんな妖怪よりも人間染みていると言っていい。

 だからだろうか。裏側の悪意に気付く事の出来なかった憤りが。知らなかったとはいえ、無辜の吸血鬼を貶める幇助をしてしまった事への後悔が。何より友人であるパチュリーや小悪魔、レミリアたちを間接的に悪魔の罠へ嵌めてしまった事への罪悪感が、アリスの胸に爪を立てて搔き毟った。

 

 くしゃり、と前髪を掴んで、忌々しげに舌打ちする。荒ぶる感情は不可視の糸を通じて棚に座る人形たちへ伝播し、カタカタと騒音を打ち鳴らす。

 ハッとしたように顔を上げて、アリスは二度深呼吸を繰り返した。

 頬を叩き、沸騰しかけた血の熱を下げる。ガラス窓に映る自分の顔と目を合わせながら、アリスは語り掛けるように独り言ちた。

 

「落ち着いて……落ち着くのよアリス。取り乱しては駄目。冷静に、自分に出来る事を考えるの」

 

 思考の舵を切り、船頭の向きを変える。私がこの状況で打てる手は無いかと、ニューロンの海から慎重にサルベージを進めていく。

 

 そう言えば嫌に外が騒がしい。人波から外れた魔法の森に住まうアリスは喧騒と離れた生活を送っているのだが、今夜は祭囃子よりも激しい歓声がそこら中から聞こえてくるのだ。

 まさか、と冷や汗を一筋伝わせた。掌がじわりと湿り気を帯びて、思わず力を込めてしまう。

 これが八雲紫の言っていた『幻想郷の危機』なのかと。怨霊がはびこらせた病原体――推測するに術か洗脳の類で魑魅魍魎が決起を起こし、そこら中で暴動が起こっているという言葉の正体ではないだろうかと。

 

 冗談じゃない。アリスはスカーフを手に取ると、無我夢中で駆け出した。糸のシグナルに導かれ、棚から離れた人形たちがアリスの後を追っていく。

 空を飛んだ。鬱蒼とした木々の合間を潜り抜け、見晴らしのいい高度にまで舞い上がった。

 

「これは……!」

 

 自分の眼を疑った。眼前に広がる光景は、謎の魔法使いによって貼りつけられたミラージュではないかとすら妄想せざるを得ない程だった。

 四方八方から光が飛び交い、この世の物とは思えない唸り声や絶叫が紛争地帯の如く炸裂している。木々が圧し折れ倒壊する轟音や、打ち上げ花火の様な弾幕が冬の夜空を彩る叙景が多発し、その度に雄叫びや悲鳴の霰が降り注いでいたのだ。

 

 幻想郷の一部どころじゃない。三百六十度どこからどう見ても、幻想郷全土で異変が巻き起こっている。その魔手は、きっと紅魔館にも及んでいるに違いない。

 いいや。発端が紅魔館にあるならば、そこがある種の中枢となってなければおかしいのではないだろうか。

 少なくともこの異変に関する情報はふんだんにある筈だ。ならば、今から向かうとしたらそこしかない。

 

「……そう言えば、魔理沙は大丈夫なのかしら」

 

 けれど、気がかりな点が一つ。

 それは霧雨魔理沙の息災だ。秋の事件以降一度も表に現れず、様子を見に行ってみれば変にくたびれていた彼女の事が、どうにも心の片隅に引っ掛かったのである。

 アリスは詳しい事情を知らないが、魔理沙は例の事件で相当な精神錯乱に陥ったと聞く。原因はあの恐ろしい吸血鬼の瘴気を浴びたせいだと守矢が突き止めたらしいが、もしその診断が誤りだったとしたらどうだろうか? 何らかの見落としがあって、全く別の原因で精神汚染されていたとしたら?

 

 魔理沙が出不精になった時期と、秋に起こった騒動には何らかの因果関係が見て取れる。少なくとも、八雲紫が見せた事実関係の公表からして、一欠片も関連が無いとは言い切れない。

 

「……」

 

 アリスは紅魔館を訪れる前に、ちょっとだけ魔理沙宅の様子を見る事を選択した。

 移動距離も短いし、無事だと確認できたなら、それに越したことはないのだから。

 

 

 

 

 

「成程、そういう事。道理で紫があの吸血鬼さんの肩を持つと思ったわ」

 

 華奢な細腕からは想像もつかない怪力で首を締めあげられ、名も無き妖怪がまた一匹、泡を吹きながらダランと力を失った。

 首を絞められただけで妖怪は死なない。気を失っただけである。もとより、この大輪の花のような雰囲気を纏う緑髪の少女に殺意は無かったのだろう。

 そうでなければ、山の様に積み上げられた妖怪たちは皆、弾けた血肉の塊へと加工されていただろうから。

 

「弱ったわ。私、誤解してあの吸血鬼さんに酷いことしちゃったみたい。今度謝りに行かなくちゃね……」

「あわ、あわわ、あわわわわわわ」

「うーん、吸血鬼はお花を貰って嬉しいものなのかしら」

 

 ぽいっ、と気絶した妖怪を放り投げ、風見幽香はほとほと困り果てたように頬へ手を当てる。

 間近で無双を繰り広げられ、それを片時も目を離さず目撃したメディスン・メランコリーはと言うと、尻餅をついて震えるだけの機械人形と化していた。

 不意に、幽香は振り返ってしゃがみこんだ。メディスンと視線を合わせ、彼女は困った様な笑顔を浮かべながら、

 

「ねぇねぇ、メディスン。お詫びの品に綺麗な花束って良いと思う?」

「へけっ!? あ、う、うん! いいとおもうよ!」

「本当? じゃあそうしようかしら。えーっと、ハシバミの花がメインになるよう組んで、それからそれから……」

「ッ!? 幽香後ろッ!!」

 

 少女の悲鳴と獣の唸り声が鼓膜を撫でる。雪を踏み抜き、草を掻き分け、ナニカが猛スピードで迫る気配があった。

 獣の如き眼光が火の玉の様に闇夜を走る。鋭い鉤爪は銀月の光を細かに反射し、刀を思わせる影を産んだ。

 

 幽香のすぐ傍の草叢が弾ける。唾液と共に、正気を失くした絶叫が飛び。

 幽香の傘が、喉笛を嚙み千切らんと跳躍する妖怪の顎を情け容赦なくフルスイングした。

 

 球技染みた豪快な快打と共に狼型の妖怪が彼方へ消えていく。遅れて、妖怪がぶつかったのだろう木々が圧し折れ、怒涛の如く倒れる地鳴りが訪れた。

 メディスンは開いた口が塞がらず、瞬きすらも忘れて呆けてしまった。

 

「すっごぉ……」

「取り敢えず、お詫びはコレが一段落してから考えましょうか。じゃあメディスン。私から離れず、巻き込まれない様に着いてきてね」

「は、あ、うん。分かったわ!」

「それと、変なのに憑かれないよう気を付けて。もし乗っ取られちゃったら、貴女も締め落とさなきゃいけなくなるから」

「ひえっ」

 

 どうやら、メディスンの憂鬱はまだまだ続く様だった。

 

 

 

 

 

 

「ははーん、あたい全部理解したぞ。つまり皆が暴れ回ってるのは黒幕が操ってたからなのね! よーし分かった、レティ探してぶっ飛ばそう! そして内藤のおっちゃんを助けるぞーっ!」

「違うよチルノちゃん、内藤さんじゃなくてナハトさんだしレティさん全然関係ないから!? 悪いのは、えーっと、私もよく分かんないけど! 兎に角レティさんじゃないのは確かだよ!」

「おーい妖精コンビ、こんな時に漫才してる場合じゃないぞい。私たち絶賛お尋ね者なんだから」

 

 光が瞬く。炸裂音、破裂音が連続して発生し、追ってぱたぱたと、幼い駆け足が森に響き渡っていく。

 妖精コンビと宵闇の妖怪は、逃走と闘争を繰り返しながら名も無き森林を駆けまわっていた。積もった雪と、一様にそっくりな枯れ木の群れに囲まれた閉塞空間は、あっという間に三人の方向感覚を狂わせてしまい、さながら遭難に似た状況へ陥らせてしまう。

 澱んだ目を向け、歯を剥き出しにして襲い来る妖精たち。氷の剣(の形をした鈍器)を手に、チルノは野獣の如く掴みかかってきた妖精の頭を一閃した。ピチュンと刺激的な音を立て、狂乱妖精に強制休みが与えられる。

 

「ええいっ、次から次へとキリが無いなぁもう! というか弾幕ごっこで勝負しなさいよ弾幕ごっこでー! ゾンビゲームとかあたいそんなの好きじゃないぞ!」

「操られて正気を失ってるから聞こえてないよ! 妖精は死なないから一回休みにしてあげた方が、きゃあっ!?」

「大ちゃん危ない!」

 

 殺意の籠った光弾が三つ、大妖精へと襲い掛かる。ルーミアはどこか気の抜けた声と共に大妖精を引っ張り込み、光弾の射線から救い出した。

 

「あ、ありがとう!」

「ゆあうぇるかむ」

「と言うかルーミアも一緒に戦いなさいよ!? 何一人のらりくらりやり過ごしてんの!? あたいと大ちゃんで頑張っても結構大変なんだからね!?」

「残念ながら私には戦えない理由があるのね。だから最強のチルノが守ってくれると嬉しいな」

 

 そう言って、お腹を一撫でするルーミア。自分の腹部を見つめる目は、何らかの思惑を孕んでいる様で。

 しかしチルノはその仕草に意味を見いだせず、しばらく意図を考えて、

 

「……もしかして、妊婦さんになったのかお前?」

「違うわ馬鹿。それより前、敵二匹接近中!」

 

 振り返り、飛びかかってきた二匹妖精を氷剣をもって薙ぎ払う。しかし先鋒の影に隠れ潜んでいた一匹が、雪の銀幕を突き破るように飛び出してきた。普段の妖精からは考えられない挙動で地を駆け、宙を舞う妖精に、チルノは呆気に取られてしまう。

 光弾が飛ぶ。狂乱妖精のものでは無い、大妖精の援護射撃が。 

 それは正確に的を撃ち抜き、悪魔の魔の手からまた一匹の妖精を救済した。

 大ちゃんサンキュ! ――とサムズアップするのも束の間、第二、第三陣が三人を追い詰めるべく迫ってくる。その数、ざっと見積もっただけで三十余り。

 今までとは規模の違う大群に、流石のチルノも引き攣った。

 

「チルノ、新手が来たぞい」

「いや、いくら冬でスーパー絶好調なあたいでも全部はちょっとキツくない? あれでしょ、たぜーにぶぜーってやつ」

「流石に無理だよ! 二人とも私の手を握って! ちょっとの距離ならテレポート出来るから、それで脱出しよう!」

「んにゃ、イケるイケる。きっと大丈夫」

「ルーミアちゃん、何を根拠にそんなっ」

「チルノ」

 

 ルーミアは暗闇をチルノと同じ剣の形へ象ると、それを手に取り、ぶんぶんスイングするジェスチャーをしながら、

 

「こう、腹の底から力を込めて、どばばばばーって感じに振ってみ。多分イケるから」

「アドバイスがフワフワ過ぎて謎だよルーミアちゃん!?」

「腹の底……腹の底から力を入れる……」

 

 剣の柄を握り締め、チルノは刃を垂直に置いた。俗に八双の構えと呼ばれる型に近いソレを維持したまま、氷精はまるで自分の中からナニカを探り出すように瞼を閉じる。

 その時、微弱な波濤があった。チルノの足元の雪が波を打ち、ふわっ、と粉雪が舞い上がる。

 波濤が段々強くなる。チルノを震源とするように、謎の力が増幅の一途を辿っていた。

 チルノの身に何が起きているのかが理解できず、おろおろとしながら見守る大妖精。相変わらず平然と見据える宵闇少女。

 

「ふぅううううう…………腹の底から力を込める。腹の底から――」

「ち、チルノちゃんもう追いつかれるよ! 早く逃げないと!」

「力を、込める!」

 

 迫る群衆。縮まる距離。近づく一回休みの気配。

 しかし次の瞬間。それら全てを打ち砕かんばかりの眼力が灯る、チルノの瞳が見開かれ、

 

「そいやっさぁぁーっ!!」

 

 剣を、我武者羅にぶん回した。

 爆発的な何かが起こった。空気が巨大な氷柱と化し、それが幾重にも融合を繰り返すと、氷の大剣山と見紛うばかりの圧倒的な凶器に変貌した。剣山は剣の軌跡を砲台とするかのように射出され、一面の木々を、地面を、森単位で何もかもを削り取りながら全ての妖精を巻き込み、果ての果てまで吹っ飛んでいく。

 およそ妖精の力では成し得られない大魔法染みた氷塊の出現は、当のチルノさえポカンとしちゃう有様で、

 

「す――――すっげぇーっ!! なんか出た! なんか出た! ねぇねぇ今の見た!? よく分かんないけどすっごいの出たわよ!? ねぇねぇねぇ!」

「やっぱりね。思った通り」

 

 興奮するチルノの背後で、冷静に分析しながらルーミアは言った。表情筋は動いていないが、チルノの異変の正体に心当たりがあるのか、顎に手を当てて納得を示している。

 

「る、ルーミアちゃん、これどういう事……? チルノちゃんどうしちゃったの?」

「んー……美味しいもの食べてパワーアップした感じ?」

「え?」

「多分大ちゃんも私も似たようなこと出来ると思うよ。まぁ今の私は何も出来ないというか、しちゃいけないんだけど……っと、それより、また来たみたいだね」

 

 ルビーの瞳が上を見上げる。傍の朽ち木、その細枝から幾つかの影が見下ろしていた。

 片や、碧い髪に二つの触覚。白シャツに、幻想郷では珍しいズボンを履いた妖蟲少女。

 片や、薄紫の頭髪に羽の生えた帽子。禍々しい怪鳥を思わせる翼を携えた夜雀少女。

 どちらも見知った顔だった。時たまに遊ぶ友達だった。

 

「チルノ、上」

「ん? なにルーミ……ミスティア。それにリグルも」

 

 けれど、今は二人とも友達ではない。暗闇でも息遣いではっきりと分かる程に、狂気と怨念に呑み込まれてしまっていた。

 一度だけ、ぐっと唇を噛み締めて。

 チルノは再び、剣を握る。

 

「よーし! ちゃっちゃと掛かって来なさい二人とも! このあたいが、あんたたちを魔の手から救い出してあげるわっ!」

 

 銀鱗躍動。氷の妖精は不安を消し飛ばすように笑みを浮かべ、囚われた友を解放すべく夜の闇を突っ走った。

 

 

 

 

 

 

 蓬莱山輝夜は平静ではいられなかった。

 

 月の差し込む迷いの竹林。その中にひっそりと佇む大屋敷。

 黒幕の映像とスキマ妖怪の告白を目撃した永遠の姫君、蓬莱山輝夜は脱兎の如く駆け出した。剪定していた盆栽を放置し、服が皺くちゃになるのもお構いなしに永琳の私室へ駆けつけると、食ってかかるように全ての経緯を問い詰めたのだ。

 永琳も同じく、紫の演説を目にしていた。事がどこまで進んでしまったのかを瞬時に把握した永琳は、最早はぐらかす意味を見出せず、包み隠さず輝夜へ真相を打ち明けた。

 

 ナハトの真実も、今起こっている事件の全貌も、何もかも把握した輝夜は居ても立っても居られずに、裸足軒先まで飛び出した。

 しかしそこを永琳に阻まれた。当たり前の事だが、輝夜は幻想郷の地理を碌に知らない。そんな彼女が猪突猛進したとして、幻想郷の中でも秘境とされる地底へ、ましてや旧地獄の中心に建つ地霊殿に辿り着ける筈が無い。なにより永琳は輝夜の安全を第一に置いている。無用な危険へ首を突っ込ませるなど言語道断だ。

 

「輝夜」

「分かってる。……分かってるわよ」

 

 頭ではとっくに理解している。焦ったところで、今の自分に出来る事は何もないと、悔しさがこみ上げてくるくらい弁えている。

 でも、立ち止まっていられる筈が無い。例え地底の道筋を知らずとも、何もしない訳には行かなかった。

 だって、あのナハト(バカ)は降りかかっている不幸を満足に相談もせず地底へ姿を消したかと思えば、幻想郷中を巻き込む大事件の中核に立っていて、()()()()輝夜へ一つの話もせず、傷だらけになりながら事を処理しようと邁進していたと知ったのだから。

 あのお人好しの事だ。余計な心配をかけさせまいと気を使ったのだろう。ナハトの人格を永琳以上に把握している輝夜は、容易に心情を想像出来た。

 

 しかし、それが納得に繋がるかどうかは別の話だ。

 

 一言で良かった。ほんの少しで十分だった。ちょっとだけでも良いから、自分の置かれた状況を相談してほしかった。力に成れたかは分からないけれど、でも、直ぐじゃなくても力を貸せる準備は整えられた筈だった。

 これは輝夜のエゴなのかもしれない。それでも納得する事が出来なかったのだ。だって輝夜は、ナハトの友達なのだから。ナハトは自らの犠牲も鑑みず、砂漠だった心に再び緑を戻してくれた友人なのだから。

 

 必ず会おう。会って一発引っ叩かなければ気が済まない。

 そしたら和解して、尽力を注いであげよう。こんな大事件の中で自分に出来る事はちっぽけかもしれないけれど、それでも可能な限りやってあげよう。

 

 振り返り、輝夜は声を振り絞るように言った。

 

「永琳。紫から地底の場所、聞いてるんでしょ? 魔法も使える貴女なら、今からでもそこに行けるわよね?」

「……」

「お願い。私を、あいつの友達でいさせて」

 

 己が姫である事を捨て、輝夜は一人の吸血鬼とある事を選んだ。

 頭を下げて懇願した。唯一無二の師であり、母であり、姉である八意永琳に。

 月の頭脳は一拍の間、沈黙を置いて、

 

「分かりました。地底へ向かう準備をしましょう」

「永琳……!」

「大方の想像は着くと言えど、私も紫に尋ねたいことがある。どのみちそこに行かなければならなかったからね」

 

 永琳は懐から古びた切手の様な束を取り出すと、その一枚を千切って放った。淡い光が札に灯る。札の中心が円状に裂かれると、それは人一人がくぐれるほどの穴へと変貌を遂げた。

 穴から熱気の様な、湿気の様な、地上とは異なる空気が流れ込んでくる。間違いなく、地獄の空間へと続いていた。

 いざ、と飛び込もうとした矢先だった。『おーい!』と見知った声が聞こえてきたかと思うと、

 

「輝夜!」

「妹紅?」

 

 月明かりに白銀の髪を煌めかせ、竹林を縫って走ってくる藤原妹紅の姿が見えた。 

 妹紅は息を切らしながら輝夜の元まで走り抜けると、膝に手を着いてぜぇぜぇと喘ぎながら、

 

「あ、あんたたち、はふ、あの吸血鬼ンとこ行くつもりなんでしょ? ハァ、はひ」

「……麓から全力疾走してきたわね。一旦息整えたらどう? それくらい待ってあげるわよ」

「私も、連れて行きなさい」

 

 間髪入れず、妹紅は指を突きつけながら言い放った。力強く、何か決意めいたものを宿した瞳を向けて。

 予想だにしなかった提案に、輝夜はパチパチと瞬きを繰り返した。だって妹紅はナハトについて余り良い印象を持っていなかった筈だからだ。大昔の地上人という出自故か、はたまたハグレ陰陽師として活動していた時期があったからか。妹紅は妖怪をそこまで好いていないのだ。事実、永夜の夜にナハトが輝夜を助けるためと東奔西走していたと知っても、『危険極まりない妖怪』という評価を覆す事は無かった。

 

 ――いや、()()()()と、輝夜は妹紅の真意の一部を見た。

 

 妹紅は人間としての価値観から妖怪は危険なものだと認識している。それは千年近くたった今でも変わらない。妹紅も譲れないのだろう。妖怪が危険ではないと判断した瞬間、それは完璧に人間を捨てたという意味に繋がってしまうのだから。

 故に妹紅はナハトを警戒し続けた。例え大妖怪に相応しくない柔和で博愛染みた精神性を垣間見ても、人間の敵であると烙印を押さずにはいられなかった。

 密かに揺れていたのかもしれない。万物に恐怖をばら撒き、有象無象の妖怪を束ねる力を持った最悪の怪物として見続けるか。彼の真心を評価し、蓬莱人の枯渇した心を救った輝夜の恩人としての側面を見るか。相反する二つの間で決めあぐねていたのだろう。

 

 その迷いが、きっと先の告白で断ち切れられたのだ。真の悪党の出現と、紫が語った事の顛末に、ナハトの隠された真実が、彼女の意思を決める羅針盤となったのである。

 

「勘違いしないで。別にあの男に謝りたいとか、そう言うんじゃないわ。でも、あいつが四年前に私のライ――っいや、その……えっと、と、とにかく借りを作ったのは事実だから! それを返しに行きたいだけよ。筋を通さない人間じゃないからね、私は」

「ライ、なんだって?」

「うっさい!! いいから連れてけ!!」

 

 ライバルを助けてくれた――揉み消された一文を掬い取り、輝夜は意地の悪い顔を浮かべながらほくそ笑む。妹紅は顔を真っ赤にしながら憤慨し、大股で勝手に穴へと進んでしまった。

 姿が見えなくなったところで、誰にも聞こえない声で、ありがとうと輝夜は呟く。こんな言葉、聞かれた暁には数百年近く煽りのネタにされるだろうから絶対に面と向かって言わないけれど。

 

「姫様、私たちも行きましょう。時間が無いわ」

「ええ。今行く」

「ところでお師匠。お留守の私は何をしとけば良いのかい?」

 

 竹の影から、聞き慣れた声が木霊した。

 掴み所が無くて、悪戯好きな子供を思わせる小悪魔ボイス。そんな声の持ち主はこの竹林に一人しかいない。

 永遠亭に住まう幸運の素兎、因幡てゐである。

 

「てゐ」

「あ、言っとくけど私は行きませんよ。戦いなんて嫌ですもん。それにあの吸血鬼へ恩義がある訳でもなし。というかむしろ酷い目に遭わされましたしね」

「分かってる。あなたは来なくても大丈夫。これは私と永琳でやらなきゃいけない事だから」

「でも姫様とお師匠のお手伝いならしますよ。ええ、私も永遠亭の端くれですから? 働くときは働きますとも」

「……!」

 

 頭の後ろで手を組みながニヤリと笑う。素直な性分では無い兎だが、主人と師匠への信頼は本物だ。彼女たちが困っているならてゐは協力を惜しまない。

 不器用な優しさがじわりと胸に染み渡る。輝夜は胸元に手を当てて、かつて傾国とすら謳われた微笑みを浮かべながら、

 

「本当にありがとう、てゐ」

「はいはい、こんなチビ兎落としてもなんの得も無いですよっと。で、お師匠。私に出来る事があるなら言って下さい。今のてゐちゃんはサービス残業も受け付けますぜ」

「……じゃあ、これを用意していてもらえるかしら」

 

 メモ紙だろうか。永琳は小さな紙片を懐からを取り出し、サラサラと何かを書き記すと、それをてゐに手渡した。

 メモの内容を把握しながら、てゐは眉を顰める。

 

「んー? これ、(ムシ)下しの材料ですかい? 何に使うんですこんなの?」

「多分それが必要になると思うの。だから、用意出来る分ありったけ準備していて頂戴」

「……あいあい、了解しました。んじゃあグースカいびきかいてる鈴仙のケツ引っ叩いて起こしてきますんで、私はこれで」

 

 自分の役割を把握したてゐは踵を返し、飄々と永遠亭へ歩を進めた。

 

「あ、そうだ。姫様、お師匠」

 

 途中、足を止めて。くるりと振り返ったてゐは、いつになく真剣な光を瞳へ灯した。

 

「幸運を。どうか、ご無事で」

「――幸せの兎(あなた)に言われたら、無事以外の未来なんて考えられないわね」

 

 再び交えた笑顔を区切りに、双方はその場を後にした。

 

 

 突然現れた輝夜、永琳、妹紅の蓬莱人組との再開直後。ナハトに待っていたのは強烈な平手打ちだった。

 脈絡も無く放たれた一閃は熾烈な炸裂音を発生させ、吸血鬼の頭蓋を震盪させる。

 部屋が、無音の空気に包まれた。

 

「何か言う事は?」

「……すまなかった。随分と心配をかけてしまった」

 

 もう一閃。今度は反対側の頬を打ち抜かれる。

 甘んじて、ナハトはその苦痛を受け入れた。

 

「永琳からあなたの事も、あなたの周りに起こっている事も全部聞いた。あなたの素性はあなた自身も知らなかったみたいだから、良い。私が怒ってるのはそこじゃない」

「――」

「勝手にいなくなったと思ったら死にかけてて、凄く心配した。余計な気遣いをさせたくなかったあなたの気持ちは分かるけど、もう二度としないで」

「ああ。誓って」

「許す。じゃあこの話は終わり」

 

 その場の誰もが、『あのナハトが往復ビンタされている』という異様な光景に目を釘付けにされ、完全に言葉を失っていた。

 お構いなく、輝夜は気を取り直して上を見上げる。同じく絶句していたスカーレット卿の分身と目を合わせ、力強く指を突き出した。

 

「あんたがこの事件の黒幕ね」

『――そうだ。初めまして竹林の姫君。お会いできて光栄だよ』

「そう。んじゃあ早速で悪いんだけど降参しなさい。それがあなたのタメってモンよ」

『ほう』

 

 数多の妖怪が団結し、一個の首謀者を討ち取らんという意思が結集している今、輝夜の提案は妥当だった。確かに、現状を見ればスカーレット卿が種を植え付け、下僕化させた魑魅魍魎が戦況を圧している様に思える。だがそれは時間の問題だ。ナハトが旧灼熱地獄で指摘した様に、幻想郷の妖怪たちは一様に強力極まりない力を持っている。例え八雲紫や伊吹萃香を筆頭とした一部の強者を抑えられても、一蓮托生した別の大妖怪がスカーレット卿を追い詰めていくだろう。

 

 しかし。

 それを分かっていて。なお悪魔はクスクスと嘲った。

 何故なら、この悪霊はもとより己の消滅すら計画の範疇に押し込んでいる完全な狂人だからだ。スカーレット卿が唯一にして最も恐れているものは、計画の破綻でも、ましてや完全な消滅でもない。『ナハトに敗北する』という、ただそれだけの狂い果てた終局のみ。

 

『無論断る。私は止まらんよ。ああ何があろうと止まらんとも。例え我が分身を悉く滅ぼされようがな。この魂、この怨讐は臥薪嘗胆の化身であるが故に、諦める道はとうに消えている』

 

 その言葉を皮切りに、怨霊がブスブスと黒い煙を上げ始めた。

 筆舌に尽くしがたい、魂の焼ける匂いと共に体積がみるみる減っていく。肉体と言う器を持たない魂魄が吸血鬼の激しい憎悪と意思を植え付けられている状態だからか、かつてのミイラの様に活動の限界が迫ってきているのだ。

 

『阻止したくば励むがいい。私は逃げも隠れもしない。もっとも、ナハト以外が私を滅ぼそうとした暁には、どうなるかは保証できんがな? はははっ』

「……心底気に食わないけど、私から一つお礼を言っておくわ」

『――なに?』

「あんたがマヌケ晒してくれたおかげで、私たちは真実を知ることが出来た。もし()()が無かったら今夜も盆栽弄ってるだけで終わってたでしょうし、そこは感謝してあげる。けど、これでハッキリした事がある。あんたがどうしてナハトに執着するのかはよく分かんないけれど、そんなんだから勝てないのよ」

『……!』

 

 声を発する時間は既に消費されていた。輝夜の舌剣で斬り捨てられたと同時に怨霊は消し炭と化し、黒い煤すらも虚空の中へ溶けていく。

 暫くの沈黙が辺りを包み、どこか重苦しい雰囲気が到来した。

 

「……で、これからどうするの?」

 

 沈黙を破ったのは、きまりが悪そうに頭を掻く妹紅だった。

 

「決まってるわ。皆であいつぶっ飛ばしに行くのよ」

「いや、それは悪手だ。奴の()()とは私ひとりで決着を着ける」

 

 輝夜の意見を差し止めたのはナハトだった。

 どうして? と輝夜は問う。それに対し、彼はただ自己の分析結果を淡々と述べる。

 

「奴は非常に狡猾な男だ。それこそ、想像の裏をかくという点においては天才と言っていい。そんな男が、私以外の者を仕向けて自分を始末させたら何をするか分からないと、直々に言い放ったのだ。これまでの用意周到ぶりから考えて、万が一私が赴かなかった場合の保険をかけているとみて間違いない」

「例えば、怨霊を体内で暴走させて感染者を大量虐殺したり……と言った感じかしらね」

 

 少なくとも、限りなく最悪に近い未来になるわ――補足するように永琳は言う。生きながらミイラと化した惨たらしい屍を見たことがある者たちは、それが現在暴れまわっている魑魅魍魎全てに起こった場合を想像し、背筋を凍りつかせた。

 

「卿は八咫烏の力を手中に収めているわ。あなたとの相性はそれこそ最低最悪よ。それでも行くの?」

「ああ。……奴は私と戦い、滅ぼすことだけを望んでいる。テロリストが何をしでかすか読めない以上、私が戦う他に被害を抑える道はあるまい。それに、何の対策もせず向かう訳ではないさ。数刻前に奴と一戦交えたが、これが太陽の力を大きく削ぎ落してくれた」

 

 そう言ってナハトが首元から外して見せたのは、鈍く輝く質素なネックレスだった。パチュリー・ノーレッジが丹精込めて開発した対日光用のマジックアイテムである。その効果は先の戦いで実証済みだ。もしこれが無かったら、血の池地獄を干からびさせても足りないほどのダメージを負っていたかもしれないほどに。

 

「障壁を貼って守り抜いたからまだ壊れていない。だが本気の奴と戦うには心もとない。そこで君たちの力を少し貸して欲しいのだが、」

「もちろん。任せて」

「貸しなさい、私も協力するわ」

 

 永遠の姫君が。月の頭脳が。境界の賢者が。パチュリーの防護魔法を基盤に対日光魔法を加工、改良し、この世に二つとない遮光装置が作り出された。

 礼を述べ、ナハトはネックレスを首に戻す。フックを繋げた一瞬、薄い光が卵膜の様に体を包み、やがて点滅しながら馴染むように消えた。

 正常に動作していると見届けて、次は紫が口を開く。

 

「私は今、生けるもの全てを死に誘う西行妖という化け桜を抑え込むのに力の大半を割いていて、この場を動くことが出来ないの。永琳、悪いけど力を貸して貰えないかしら?」

「察するに、不死である私がその西行妖を封じ込めに行けばいいの?」

「そういう事。厄介事押し付けちゃってごめんなさい。でも、あなた以外に頼れなくて」

 

 西行妖の力は絶対的だ。吸血鬼にとって太陽が天敵ならば、生者の天敵はまさしく西行妖だろう。強靭な精神力や、力量など関係ない。現世に(かなめ)を置く存在である限り、死への誘いに逆らえる者は存在しないのだ。

 故に蓬莱人は適役だった。不滅化した魂を核として持ち、死の境界へ引きずり込まれようとも確実に復活できる永遠の住人は、西行妖に対抗できる唯一の刃と言える。

 永琳は納得を示し、二つ返事に承諾した。しかしそれに異論を唱える者がいた。

 

「ちょっと待った! その仕事、私に任せてくれない?」

 

 勢いよく挙手をして名乗りを上げたのは妹紅である。彼女は指先に火を灯し、それを変幻自在に操りながら、

 

「私も蓬莱人だから、えーっと、西行妖? にだって相手取れるわ。腕っぷしにも自信あるし、ついでに借りも返せる」

 

 ちらりと吸血鬼に目をやった。ナハトは何の事だか分かっていないようで、きょとんとした表情を浮かべている。

 妹紅は自分の心情をナハトに言うか言うまいか、歯切れ悪く迷った様子を見せる。しかし、ガシガシと頭を掻き毟って決意を固め、ずんずんとナハトへ詰め寄ったかと思えば、

 

「……もう機会は無いだろうし、今のうちに言いたいこと言っておくわよ」

「?」

「一つ目。長いこと勘違いしてて悪かった。あんた見かけによらず本当に良い妖怪だったのね。八雲の言葉のお陰で、昔のあんたの行動に合点がいったわ」

「あ、ああ。誤解が解けてよかったよ」

「二つ目。今回だけ力を貸すから、その、輝夜を戻してくれた借りはこれでチャラよ。いい?」

「! ……ありがとう妹紅。恩に着る」

 

 輝夜を気にかけていた事を口にするのが余程気恥ずかしかったのだろう。『お礼は良いわ』とだけ口にして、輝夜の方向を見ようともせず、ぷいっとそっぽを向いてしまった。

 やれやれと言ったように、輝夜は肩をすくめながら永琳へ向き直って、

 

「妹紅だけじゃ頼りないし、私も一緒に着いていくわ。代わりに永琳はお留守番。良いわよね?」

「はぁ!? なんでアンタも来んの輝夜!? てか私じゃ頼りないってどう言う意味だコラァーッ!」

「……気持ちは分かるけど、あなたを行かせるわけには……」

「別に、気分に流されただけでこんな事言ってるんじゃないわ。適材適所ってやつよ。ほら、さっき永琳が言ってたでしょ? 今妖怪が暴れまわってるの、ウィルスみたいな怨霊に感染しちゃってるのが原因だって。私には医学や薬学の知識なんて無いけど、永琳ならその妖怪たちも治せるはずでしょ」

「成程。君たち蓬莱人二人が西行妖の満開を阻止しつつ、永琳が感染者の治療にあたるわけか。可能であれば実に理に叶っている」

 

 便宜上、八意永琳は薬師の肩書で通っているが、彼女の知識量は八雲紫のそれより上を行く。医療技術にも精通しており、永夜異変以降の永遠亭では、難病を患った患者を人間妖怪問わず治療している程だ。絡みついた怨霊を切除するのも、吐き出させる薬を作るのも、彼女なら朝飯前だろう。現に、てゐには既に手を回させていた。

 輝夜の能力もまた、満開寸前の西行妖には効果覿面だ。永遠と須臾をつかさどる彼女の力は、言い換えればあらゆる道のりの長さを操作する権能である。満開になるまでの残り時間を永遠にしてしまえば、西行妖が完全覚醒を辿る事は決してない。

 

 それを踏まえてなお、永琳は額を抑えながら困惑した。心情的には危険地帯に輝夜を放り込みたくないのだろう。初めは自分が西行妖へ赴いて、永遠亭の指揮を輝夜と鈴仙、てゐに任せる予定だったのかもしれない。

 しかし永琳は知っている。蓬莱山輝夜の頑固さを嫌と言うほど知っている。何せ月の退屈さから逃れるために蓬莱の薬を服用した程なのだ。とことんやってやると決めた姫君を止める術だけは、万象に通じる叡智を持つ永琳ですら知りえない。

 最後には、渋々納得する他に道は無く。

 

「決まりね」

 

 紫の言葉に、皆一様に首肯する。

 ナハトはスカーレット卿との対決を。蓬莱山輝夜と藤原妹紅は西行妖の鎮静化を。八意永琳を筆頭とする永遠亭は暴走妖怪の治療を。

 そして、八雲紫自身は、

 

「代表として、これより私が幻想郷全方面の総指揮と仲介役を担います。永琳、あなただけじゃ物量的に厳しいだろうから、アシスタントになれそうな者たちにも繋いでおくわ。必要な物資があったら迷わず言って頂戴。橙を通じて直ぐ手配するから。輝夜も妹紅も、緊急時に備えて全力でサポートします。ナハト、あなたは――」

「不要だ。君も相当無茶をしているのだろう、私に回す分の力は他に当ててくれ。奴の居る場所に送ってくれるだけで良い」

 

 そう言ったナハトに、紫は単なる気遣いだけでなく、紅蓮に燃ゆる烈火を見た。

 明確な怒りの炎だった。初めてナハトを観測した時と同じ、いやそれ以上に激しく、静寂さを秘めた憤怒が腹の底に燻っているのである。

 無理もない。むしろこの状況で怒らずにいられる理由が無い。彼にとっても理想郷である幻想郷が蹂躙された挙句、紫や幽々子までもが災厄に見舞われた。紅魔館も巻き込まれていない筈が無く、ナハトの中の臨界点は容易く飛び越えてしまっただろう。

 十分な加護を貰った今、一人で雌雄を決するのに十分アドバンテージは整った。この中でスカーレット卿と時を超えた因縁を持つ人物はナハト以外に居ないが故に、個人的にも決着をつけたいのかもしれない。

 

 けれど。何故だかそれだけではない様な気が、紫の中で違和感となって芽生えていた。

 

 当然な怒りはある。決着を着けるべき因果への心構えもある。だがそれとは異なる、全く別のナニカが垣間見えたのである。

 それを考察した時、不意に脳裏を貫く電撃があった。解けなかった難問に答えへの道筋を見出した様な感覚が、紫の体を走り抜けたのだ。

 それを、その違和感の正体を、突き止めてしまったが故だろうか。

 これは言葉にするべきではないと、紫は得られた答えを咀嚼し、飲み込むように瞼を閉じながら、

 

「――分かりました。ご武運を」

 

 ただ簡素に、卿の元へと通じる道を開いた。

 

「ナハト」

 

 ナハトがスキマに足をかけたところで、輝夜が言った。

 

「絶対無事で帰って来なさいよ。あなたの最後の手紙、まだ返事書いて無いんだから。私から手紙を書く楽しみを奪わないでよね」

 

 輝夜の激励に、吸血鬼は困ったような笑顔を浮かべた。友人たる輝夜の応援ならば喜ぶ筈だが、今の表情は憂いの色を帯びている。

 隠された胸の内を晒すか否か、迷いがあったのだろう。ナハトは目を伏せて熟思を示すのみで。

 しかし、つい数分前に相談を避けた事について怒られたばかりである。事態が事態である以上、秘密を隠す選択は悪手だとナハトは判断した。

 意を決して、吸血鬼は口を開き、

 

「輝夜、」

「分かってる」

 

 言葉を、細々しい人差し指に抑えられた。

 皆まで言うなと、意思を強く感じる瞳があった。それはナハトの心中を理解しているが故の牽制だったのだろう。

 輝夜は察知能力に長けている。少なくともナハトの瘴気を度外視して本性を見抜く程度には鋭い少女だ。だから、輝夜はもう理解している。ナハトが帰還の約束に返事を濁らせたワケを、十二分に察している。もしかしたら輝夜は、永琳からナハトについて聞き及んだ時には既に解っていたのかもしれない。

 

「けど、それでも約束して欲しいの」

 

 蓬莱山輝夜は、ただまっすぐと。ナハトから一切眼を逸らさずに。

 

「と言うか、こんな時くらい虚勢でも胸張って頷きなさいよ。男でしょ?」

 

 ぽすん、と。ナハトの胸へ拳を当てた。

 ……ズルい友人を持ったものだと、ナハトは笑う。

 こんなの、頷く以外に答えなんてありはしないだろうに。

 

「ああ、必ず戻ってくる。約束だ」

「ん、よし。待ってるから」

「……輝夜」

「なに?」

「ありがとう」

 

 心からの感謝を皮切りに、戦場へ身を投じる吸血鬼。

 親友はそれを、悲哀に暮れた面持ちではなく、精一杯の笑顔で見送った。

 

 

 吸血鬼の消えた部屋に、狙いすましたかの様なノックが聞こえた。

 

「お取込み中、失礼します」

 

 ドアが開き、一人の少女が入室する。地霊殿の主、古明地さとりである。

 彼女はいつの間にか人数の増えていた部屋の有様に驚いた様子を見せたが、すぐに持ち直して、第三の眼で全員を一望すると、

 

「えっと、初めまして。ここの主をしています、古明地さとりです」

「――」

「ええ、はい。全て外から聞いておりました。いや、盗み聞きするつもりは無くて単純に入るタイミングを見失ってただけなのです……まぁそれはさておき、皆さんに折り入って相談がありまして」

 

 種族としての習性ゆえか、言葉と先を読み、相手に発言する隙を与えること無くさとりは言う。無論悪気は無い。

 

「私にも、何か手伝わせてほしいのです。今回の事件には、不肖の妹が根深く関わっています。罪滅ぼしになるとは思っていません。ですが、ですが。それでもあの子の為に、何かしなければ姉として気持ちが休まらないのです」

 

 だからどうか、お願いします――深々と、頭を下げてさとりは言った。

 厄介事を嫌う性分で、他者との関りすら持ちたがらないさとりだが、妹の為に己が身を投げうつことに何の躊躇もありはしない。その真心を、この場の誰しもがしっかりと受け止めた。元よりさとりは()()ナハトが信を置いた妖怪でもあるのだ。悪名高い『覚』であっても信じるに値するのは明白だろう。 

 

「……ねぇ紫。さっきの演説は人間の里の方にも流したのかしら?」

「いいえ。ナハトの存在と秋の事件を知る一部の者にだけですわ。そうしないと、彼への恐怖が薄まり過ぎて致命傷を負いかねなかったから」

「それなら……ふむ、優曇華の力を応用したらいけるかも……」

 

 何か考えがあるのか、月の頭脳は顎に手を当て、ほんの数秒だけ思考を巡らし。

 ぽんっ、とアイデアが纏まったと言うように手を叩いた。

 

「さとりさん」

「は、はい! ……え? あ、はい。私も『覚』の端くれなので一応出来ますけど……って、ええ!? それを私がやるんですか!?」

「ええ、あなた以外に適役が居ないの。是非とも協力して頂きたいのだけれど……」

 

 そう言って薄く微笑む永琳。さとりは『お姉ちゃんも頑張るから、絶対無事でいてね、こいし』と死んだ目を浮かべるのだった。

 


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