【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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28.「悪の発露」

 吸血鬼ナハトの内に巣食う漆黒の渦の正体。それは、この世全ての終末の元となった概念である。

 

 存在を持つ者であれば、例え無窮の時を生きる神であれ悪魔であれ、等しく終わりが存在する。これはどう足掻いても覆せない森羅万象の理である。

 太古の昔から、意志ある者は死や消滅を恐れ、時には忌避し、時には認識をすり替え、時には死に理由を与え怖れを削いだ。そうやって、彼らは終末と向かい合って来た。

 当然だろう。誰だって自分が無くなってしまうのは嫌だ。至純の恐怖でしかない。それは生命が生まれついて持つ性であり、逃れる事の出来ない運命なのだ。無関心でいられる筈がなかった。

 

 しかしそんな強力な感情や意志は、時として強い力を現世に産み落とす。信仰や闇夜への畏れを糧に生まれる八百万の神々と魑魅魍魎が良い例だろう。

 で、あれば。

 死の恐怖、消滅という概念――遥かな過去から万物へ恐怖を植え続けて来た根源が何かの拍子に意志を持ってしまっても、存在の核を手に入れてしまったとしても、別段不思議なことではない。

 まさにナハトがそれだ。彼が生けとし生ける物へ恐怖の雨を降らせ続け、絶対的な恐れの象徴として君臨したそのワケは、彼を形作る枠組みが、我々一般の妖怪とは大いに異なる根源的恐怖の結晶だったからに他ならなびりびりびりびりびりびり――――――っ

 

「ああああああああもぉぉぉぉ――――――ッ!! 納得のいく答えなんて見つけられるワケ無いでしょうがぁぁぁぁぁ―――――ッ!!」

 

 一週間後にでも目を通せば最後、その痛烈な黒歴史オーラに悶え苦しんで息絶えてしまうだろう妄想(げきぶつ)を綴った紙をこれでもかと言わんばかりに切り裂いて、私は既に紙屑で満杯になっているゴミ箱へと放り込んだ。

 間髪入れずにベッドへダイブ。足をバタバタ。バタバタバタ。ただしこれは甘酸っぱいピンク色のハートに苛まされている思春期的症候群などではなく、私のこの上ない苛立ちの表れに他ならない。

 罪の無い枕へ頭突きを放ちつつ、ぎりぎりと歯を噛みしめて、

 

「あ、あんのファッ●ンヴァンパイアめぇぇ……どこまで私を苦しめるつもりなの!? ただ平和で居たいだけのこの私が、一体何をしたって言うのってはいそうですね、私が口から出まかせ吐いたばっかりにこんな目にあってるんですよね自業自得ですねそうですねバーカバーカうわあああああああああああん!!」

 

 傍目から見れば、今の私はどれだけ異常に映る事だろう。しかしそんなものはお構いなしだ。だってここ私の部屋だし。だからどれだけ暴れても何の問題もないし!

 けれど誤解しないで欲しい。私がこんなにも発狂しているのには、ちゃんとした訳があってのことだ。断じて四六時中ヒステリックと言う訳では無いんだぞ。

 

 閑話休題。

 

 事の発端は大体二週間くらい前の事だ。あんまり細かい日付は覚えていない。

 けれど確かにはっきりしているのは、あの日、私は運命の出会いを果たしたって事だ。もちろん喜ばしい出会いじゃない。むしろ最悪の出会いである。

 そのお相手と言うのが、尋常ではない恐怖を纏い、私の心から平和を嵐のように奪い去った吸血鬼ナハトだった。

 

 あの日私は彼と会合し、どうにかこうにか、傍にいるだけで心が地獄の拷問を受けた亡者の如き悲鳴を上げてしまうナハトを生活圏に近づけないシチュエーションへ持っていく事が出来た。

 

 ただ、その代償が大きかったのだ。

 

 心が読めなかったせいで、私は『覚』にあるまじきミスを連発してしまった。すると彼が私の不自然さを感じ取り、心が読めるかどうかを問いかけて来たのだ。

 焦った。とても焦った。とてもとてもとっっても焦った。

 だって、『覚』唯一の武器が使用不能になっているだなんて超エリート妖怪の吸血鬼さんに知れたりすれば、堪ったものじゃ無いでしょう? 礼儀も何もない野蛮な妖怪相手だったら即蹂躙コースだ。いわゆる薄い本的な展開に引きずり込まれたと思われる。

 流石にそんな事にはならないだろうが、アドバンテージを失う事に焦った私は、図星を突かれて真っ白になった脳髄を必死に働かせて、話題を逸らす為にデマを振り絞った。

 結果、私は何故か彼の内部に巣食う瘴気の源っぽいアンノウンの正体を、ナハトが地霊殿を立ち去る日までに特定しなければならなくなったのだ。

 

 いやほんと。どうしてこうなった?

 

「そもそも、私も私よ! ナハトは最後私に心を読ませまいと止めに来てたじゃない! あそこでビビらず『ワタシは第三の目のピントをずらせるからわざと読まないだけなんだぜへっへーん』で通していれば、こんな事にならなかったのに!」

 

 自分の犯した選択ミスの多さに泡を吹きそうになる。キューティクルなんてクソ食らえな勢いで髪を搔き毟った。

 でも言い訳をさせて欲しい。逃げ場のない一対一のあの状況で、滅茶苦茶怖い人が、目にも止まらぬ速さで手を伸ばしてきてごらん? 間違いなく思考スパーク失禁不可避だと、古明地さとりは思うのです。

 

 ………………漏らしてないからね!

 

「って、こんな事してる場合じゃないわ。早く考えないと」

 

 彼が地霊殿を去る日は未定だ。彼や映姫さんの発言から察するに、何かを終えれば地上へ戻る様だが、それは明日かもしれないし、下手をすれば数時間後にでも楔となっている用事が解決して立ち去ってしまう可能性もあるわけで。つまり悠長な事を言ってる暇は無いワケで。

 

 魚の如くベッドから跳ね上がり、再度机へ向かう。

 新しい紙を広げ、羽ペンにインクを着ける。筆先を紙に添えて、いざ正体の上手いでっち上げシナリオを執筆開始――――

 

「……もうやだぁ。むりぃ」

 

 轟沈。なんだか頭から湯気が出そうな心境である。と言うより、最早頭頂部とかハゲてるんじゃないだろうか。念のため頭部を触る。ふさふさだ。やったぁ。

 ああ無理。ホントに無理。流石に二週間も案を絞り出し続けたら、アイデアなんて欠片も沸いて来ないのです。

 

 そう。あのゴミ箱に積まれた紙屑マウンテンは全部、あの男の正体についてそれらしい妄想と空想を書き散らした、言い訳の結晶たちなのだ。

 

 最初は楽勝だと思った。これでも私は、誤魔化しや誘導、嘘を交えた心理戦に限れば自分の右に出る者はいないと自負している。だからアレの正体なんて、簡単にでっち上げられると高を括っていた。

 

 けれど実際に書き上げて、読み上げて、直ぐに考えを改める羽目になった。

 

 よく考えてみて欲しい。あの吸血鬼ですら未だ辿り着けていない未知の領域なのだ。年齢イコールパワーな妖怪の尺度から考えて、下手をすれば八雲紫さん並みの歳月を生きていても不思議じゃない、あのヴァンパイアが。

 私が思い浮かべた、スカスカな泡風呂の水泡程度の安直で陳腐な発想なんて、とうの昔に発掘されているに決まってる。適当な答えを差し出して嘘がバレたりなんかすれば最悪、『お前は嘘をついた挙句自分に都合の良い条件を一方的に私へ呑ませたのか卑怯者めが首を出せ』な展開になりかねないだろう。つまりゲームオーバーだ。無論コンテニューなど無い。

 

 そんな不安が私の胸に芽吹いてしまい、書いては捨て、書いては捨ての無限ループへ沈んでいったのだ。

 もうやだ。まぢむり。

 

「神話級の魔王様だから格が違う説……は無理あり過ぎ。超凄いパワー説も、ひねりが無い上に彼の発言と矛盾しちゃう。過去に食べた人間の怨嗟が蓄積した説は……それじゃあ他の長寿妖怪たちはどうなるのって話になるし、実は恐怖の根源が存在の核なんです説は与太話って次元じゃない。他には、他には……」

 

 つらつらと、二週間分の妄想が口から洩れては泡沫となって消えてゆく。気分はさながら酸欠の金魚ちゃんだ。

 

「もし嘘だったってバレたらどうなるのかしら……。間違いなく怒るわよね。冷静な人がキレると凄く怖いって言うし、きっと私は箱詰めにされて三途の川へ沈められちゃうんだわ。ふふ、うふふふふふふ」

 

 あの川ってどれくらい深かったんだっけ? などと暗黒の未来が脳裏に生まれては弾け、再び浮かび上がってくる。

 それを、幾らか繰り返した時だった。

 

「おねーちゃんっ! 何書いてるの?」

「わひゃあっ!?」

 

 両肩に衝撃。同時に聞き慣れた声が耳元で炸裂。私の心臓は爆発した。

 不意の一撃に心底驚き、ドキドキと鼓動を止めない心臓を手で押さえながら、私は悪戯っ子の元へ振り返った。

 

「こいし! 帰って来たならもう少し普通に話しかけて頂戴!」

「えー? もう二週間前には帰って来てたよ。なのに全然気付かなかったお姉ちゃんが悪いんじゃん」

 

 ぷんぷんと怒る、薄緑に灰が混じったような髪色をした女の子。頭には黄色いリボンが撒かれた真っ黒な帽子が乗っていて、彼女の挙動に合わせて僅かに揺れる。

 逆立ちしたって見間違えない。紛れもなく私の妹、古明地こいしがそこに居た。

 

「帰ったらまず手洗いうがい、そしてちゃんとした挨拶。いつも口を酸っぱくして言ってるでしょう? そうしてくれないと、お姉ちゃんはあなたに美味しいご飯のひとつも作ってあげられないのよ」

「あ、そうだった。ごめんなさい」

 

 ぺこりと頭を下げる妹。珍しく素直に反省している様子だ。

 こいしの胸元へと視線をやる。相変わらず第三の目は閉じたままだ。そのせいで彼女は心を読めなくなった挙句、自信の心も閉ざして人の無意識を彷徨う妖怪になってしまったのだ。

 だから人はこいしを認識することは出来ない。

 姉である私も含めて。

 

「ところで、こいし」

「なに?」

「最近どう? 何か楽しい事はあった? しばらく日記を見せてくれてないから、あなたの行動が分からなくてお姉ちゃん心配なのよ」

 

 こいしはその特性故、動向を掴むのがとても難しい。はっきり言ってほぼ不可能に近い。

 だから私は、数年前に日記をプレゼントして習慣づけさせていた。日記とは言うが、例えるなら報告書の代わりである。彼女がどこで何をしていたのか、危険な事や危ない目に遭っていないかを把握するために、こいしが館へ戻って来た時、体験した出来事を読ませてもらっているのである。

 

「あはは、ごめんね。日記はもう少し待ってもらえないかな。今はまだ秘密にしておきたい事があるの。時期が来たらちゃんと見せるから」

 

 あっ、悪い事でも危ない事でもないから大丈夫だよ! と指を立てつつ、強調するこいし。まぁこの通り、最近は全然読ませてもらえなくなったのだけれど。

 うーん、やっぱり自分の日記を読まれるのって恥ずかしいかしら? でも堅苦しい報告書を書けって言ってもこの子は放棄するだろうし、むう。何かいい案は無いものか。

 しかし、以前から頑なに私へ見せたがらない秘密ってなんだろう。時期が来れば見せるってずっと言われ続けて、もう数ヶ月にもなる。

 

「……ん? まって、あなたもしかして」

 

 それは唐突な閃きだった。

 キュピン、と私の中の姉センサーに、何か大物が引っ掛かった反応が神経を駆け巡ったのである。

 

 もしやこの子――意中の殿方でも出来たんじゃあるまいな?

 で、時期が来たら『私達結婚します』とか唐突に告白されちゃったりして?

 しかもお相手の横で、照れ臭いながらも幸せそうにお腹を摩るこいしから、甘々な日々を綴った秘密日記を見せつけられちゃったりするのでは?

 

 ……………………………―――――――。

 

 あかん。想像したら血反吐吐きそうになった。

 主に私が妹から先を越されている喪姉の烙印を焼き付けられた可能性と、こんな幼気な子に手を出す男を地霊殿へ迎えねばならない結末を幻視して。

 フッ、フフフ。この古明地さとり、素面でブチギレた鬼やら殺る気百パーセントの紫さんを相手取るならば心の中で号泣しながら耐えられるが、流石にロリコンを祝福出来るほど図太い神経は持ち合わせておらんわ!! 

 

「どうしたのお姉ちゃん。今にも血涙流しながら斧を振り回さんばかりの般若顔して。絵面的に結構アウトだよそれ」

「うふ、うふふふ。こいし、相手はこの第三の目にも適う清廉潔白な人を選んでくるのよ。生半可な人なんて、お姉ちゃん絶対に認めませんからね」

「? 変なお姉ちゃんだなぁ」

 

 こいしは頭上にクエスチョンを浮かべつつ、脳の過労とかこいしの生活とかその他諸々で頭がシェイク状態になっている私をおかしそうにコロコロ笑った。

 その様を見て、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。やっぱりここにいない間にどんな生活を送っているのかは気になるけれど、どうあれ元気でいてくれるのは、姉として嬉しいものである。

 

 こいしもこいしで私と話せて満足したのか、チラリと時計を見やりつつ、

 

「おっと、もうこんな時間。私、お空と約束してるからそろそろ行くね」

「ん、分かった。次に家を出るときは一言言ってから行くのよ?」

「はーい」

 

 パタパタと、こいしは足音を立てつつドアへ向かっていく。

 途中、こちらへ振り替えると、彼女は小さく手を振った。

 

「じゃあね、ばいばい」

 

 その言葉を境に、こいしの姿は私の視界から消え去った。

 ドアは開いているから、出て行ったらしい。元気なのは良いことだけど、もう少しゆっくりしていけば良いのに。

 

「……なんだかあの子、前に会った時より会話がハッキリしてたわね。少しは改善してるって事なのかしら」

 

 ほんの僅かな再会の一時を反芻つつ、ドアを閉める。

 あの子は無意識に従って生きているから、突飛な発言がやや多い。なにせ思考が無いのだ。ところどころ会話が噛み合わない時がある。

 けれどそれが先程の会話に見当たらなかった。喜ばしい兆候なのかもしれない。

 無力な姉で申し訳ないけれど、ゆっくりでも良いから、心が戻ってきてくれる事を祈るばかりだ。

 

「さて、私も続きを頑張るとしましょうか。今ならキングバンパイアを唸らせる、捻りの利いた誤魔化しが思い付きそう」

 

 思いの外リフレッシュ出来たので、伸びをして筋肉をほぐしつつ、いざ執務机へ向き直って。

 ――コンコンコンコン。

 軽快なノックが、私の歩みを縫い留めた。

 

「はい、どちら様」

「ナハトだ。急用ですまないが、一つ相談事があって来た。少し時間を貰えないかい?」

 

 ひょえっ!?

 

 予想外の来客に心臓が鯉の如く跳ね上がる。完全に不意を突かれた私は後ずさり、腰元に机の角が当たってようやく止まった。

 視線が無意識にゴミ箱へと移る。

 そこには例の如く、没案の屍が築き上げられており。

 一際強く喉が鳴って、悪夢を見たかの様な脂汗が吹き出た。

 

「約束したはずなのにどうして……!? あっ。ひょっとして、退出の挨拶に来たのかしら……!?」

 

 だとしたら不味い。ひじょーに不味い。この状態でどうやってアレを釈明すればいいと言うのか。

 無理である。詰みである。王手である。私は死ぬ。QED。

 

「……と、取り敢えずコンタクトレンズを」

 

 言い訳のしようもなく、現実逃避だった。

 目の前の悲劇から目を背けるために、私は引き出しを開き、レンズを取り出して目へ着ける。

 よし、これで瘴気のダメージは大丈夫。後はどうにか頑張るだけだ。

 

 うん、どうやって?

 

 脳内で古明地緊急速報が騒がしく鳴り響く。どう対処していいか分からずあわあわしていると、再び彼の声が聞こえて来た。

 

「約束を破ってしまってすまない。だがどうしても訊ねておかなければならない問題が出来てしまったのだ。あの件を教えてくれなくて構わないから、どうか話を聞いてもらえないか」

 

 ーーーーその言葉は、私にとって天使が吹き鳴らす福音となった。

 噂をすれば何とやらパターンで地霊殿を去る相談に来たのかと肝を冷やしたが、まさかの展開である。しかも私にとって、これは地獄に垂らされた蜘蛛の糸並みに千載一遇のビッグチャンスだ。場所が旧地獄だけに割と本気で御釈迦様の加護なんじゃないかと思わされてしまう。

 

「お待たせしました。ささ、お入りください」

 

 ドアを開け、吸血鬼を招き入れる。超怖いけど自然と笑顔が漏れた。嘘を吐いていた事がバレて首を撥ねられるより、怖い方が百倍マシだ。

 会った当初と同じように席へ着き、私は彼と向き合った。

 

「さて。もうご理解頂けていると思いますが、約束の件は無かった事にしても構わないのですね? 一応契約は契約ですから、人情を掛けるつもりはありませんので悪しからず」

「ああ、大丈夫だ」

 

 快諾する吸血鬼。机の下で密かに拳を握り、ガッツする私。

 以前と言い、今と言い、どうやら私は悪運が結構強いらしい。フフフ、今ならある程度の難題でも、受け入れた上で解決出来そうな気さえするぞ。

 嘘ですごめんなさい。無茶ぶりだけは勘弁して。

 

「それで、相談とは?」

「……君の妹についてなのだが」

 

 ――神経が凍った。

 妹。私の、たった一人の妹。

 何故そのワードが彼の口から出て来たのか、その真意を知る事はまだ出来ない。しかし理由はどうあれ、この驚異的なバンパイアの矛先が妹へ向いているという事実に血液は一気に凍結を始め、瞬く間に私の自由を奪い取った。

 唇が渇く。潤そうとカップへ手を伸ばすが、紅茶を淹れ忘れていたので指先は虚空を切り、行き場を失くした。

 

「こいしが、どうかしましたか?」

 

 紫の眼を見据えながら、声が震えないよう必死に言葉を繕った。たった一言だけなのに、尋ねるのがこんなにも恐ろしい。

 一拍の間が空く。秒針が一つ進む程度の間でしかないのに、無窮の時を過ごしているのかの様な錯覚を覚えた。

 

「確か、以前よく外へ出かけていると言っていたね」

「ええ。フラフラとよく放浪していますよ。私としては心配なので、なるべく家に居て欲しいんですけどね」

 

 それが何か? ――もう一度問いを投げると、彼は懐へ手を入れて。

 

「これを見て欲しい」

 

 可愛らしいナイトキャップを、私の眼前へそっと置いた。

 

「それは?」

「地上に居る私の義娘がいつも身に着けている帽子だよ。何故か、私の自室近くの廊下に落ちていた。身に覚えは無いかい?」

「……いいえ、そんな帽子は一度も見た事が無いですね。それと妹に何の関係が」

 

 言いかけて、私は彼が言わんとしている事を理解した。

 妹は、古明地こいしはよく地霊殿の外を歩き回っている。あの子の日記を思い出すに、地上へ出ていた事もあったらしい。無論地上との条約もあるので止めたのだが、こいしの能力と性格の前に説得など通用せず、そのまま野放しになっていた。

 これが、私に答えを与えた鍵だった。

 地上に居る人の帽子が、地上と最も縁の無い地の底に落ちていて。この場所にその不可解な現象を可能とする人物が居たとしたら、彼が眼を向けるのは致し方の無い事だろう。

 

「誤解しないでほしいが、別に君の妹へ何か危害を加えようとしている訳では無い。それだけは信じて欲しい」

 

 真っ直ぐな瞳を向けて、ナハトは静かに言った。瘴気の他にも、真摯な感情が垣間見えた。

 彼は繋げる。語気を乱さず、冷静に、諭す様な穏やかさで。

 

「映姫から耳にしているかもしれないが、私は地上を追放された身だ。しかしそれは、許され難い罪を犯したからではない。むしろ逆なのだ」

「……と、言いますと?」

「端的に言えば、罠に嵌められた。私を敵視する何者かによって、地底へ行かざるを得ない状況へと追い込まれたのだ」

「…………」

「私は――否。私たちは今、その真犯人の行方を追っている。地上と地底を八雲紫と共に手分けして捜査している最中なのだ。そして微かな手掛かりから、この地に黒幕が潜んでいる可能性が高いことも推測が着いていた。故に私は、地上と関係のありそうな人物を洗っていたのだが」

「待ってください」

 

 思わず、声が荒んだ。それでも静止せざるを得なかったのだ。

 だって、こんなの、止めない訳にはいかないだろう。これじゃあまるで、

 

「まるで、私の妹がその犯人だとでも言うかのような口振りですが?」

「そうは言っていない。ただ、重要な手掛かりを持つ人物だと踏んでいる」

「……」

「何度でも言おう。私は君の妹に危害を加えるつもりなど毛頭無い。ただ少し調べさせてほしい。彼女から、とても重要な手掛かりが掴めるかもしれないんだ。頼む」

 

 そう言って、ナハトは私に向かって頭を下げた。上級妖怪の持つ独特の誇りから考えて、信じ難い光景である。

 ……彼の事は、はっきり言って信用している訳じゃない。むしろ不安要素の塊とすら思っている。だって、彼に関する情報はどれが正しいのか分からないし、内側に変な物を抱えているし、おまけに心は欠片も読めない。これで無条件に信用してしまうのは、流石に判断力不足と言われる他ないだろう。

 

 けれど、その事実に反して納得のいく部分が少し出来たのも事実だ。何故彼がここへ来たのか。何故四季映姫・ヤマザナドゥが一妖怪でしかない彼のサポートを買って出たのか。この疑問が、ようやく氷解の兆しを見せたからだ。

 特に、映姫さんがどうして吸血鬼へ肩入れしているのかがずっと引っかかっていた。彼女は私の知る限り誰よりも平等で、誰よりも公正な人物である。故に映姫さんは、一個人へ強く寄りかかる様な真似は決してしない。それは平等性を欠く行為に他ならないからだ。

 だが例外はある。四季映姫・ヤマザナドゥが唯一親身になって手を差し伸べるケースが、実は一つだけ存在する。

 

 それは、いわれの無い罪を被せられた者達だ。

 

 白は白、黒は黒と裁く彼女は、無実の罪を決して認める事は無い。理不尽と不条理に巻き込まれ、白が黒へと歪められる事を許さない。

 だから彼女は冤罪を被った者に対してだけ、死者も生者も善人も悪人も老若男女も関係なく、自ら救おうと動くのだ。

 

 そうなると、ナハトの発言には納得がいく。むしろそうでなければ、映姫さんが一個人でしかない妖怪にここまで干渉する訳が無いのだ。

 私は彼女の曇りなき黄金の精神をよく知っている。だから、この事実はナハトと言う人物を推し量るうえで、重要な鍵と成った。

 今まで私が抱いていた彼の印象に、亀裂を入れる程度には。

 

「頭を上げてください」

 

 静かに、息を吐く。

 それを合図に、彼はゆっくりと頭を上げて私を見た。

 私は、彼へ答えを告げる。

 

「私はあの子の姉です。あの子にとって、たった一人の肉親です。だから私は、何が何でも彼女だけは守ると誓っています。はっきり言って、私はあなたをあの子と会わせたくない。精神へ異常を与えるあなたを無意識に生きるあの子へ会わせれば、どんな現象が起こるか予測不可能ですから。ようやく改善の兆しを見せつつあるこいしを再び狂気の渦へ落としてしまいかねないと来れば、到底選べる選択肢ではありません」

「……」

「けれど、もしあの子が悪さをしているのであれば、姉として戒める事も役割だと思っています」

「!」

 

 息を継ぐ。

 視線は外さず、言葉を紡ぐ。

 

「あなたはここに来てから二週間、ただの一度も問題を起こさず、私との約束を守り続けました。加えて、あなたはあの映姫さんから直接的な助けを貰っている。これは揺るぎようのない事実であり、あなたを計る重要な物差しでもあります。ですから、ええ。私は今、あなたを一度信じる事に決めました」

「……さとり」

「言ったように、あなたをあの子と会わせる訳にはいきません。ですが会う以外なら、私を同伴した上であの子を調べる事を許可します。それで真実を見極めて下さい。これが絶対条件です」

「いや、十分さ。もしかしたら信じてもらえないとすら思っていたんだ。協力してくれるだけでありがたい」

「私も早く妹の疑惑を晴らしたいのです。その為に協力は惜しみません。しかしあなたも私からの信用を裏切らぬようお願いします」

「誓って」

 

 決まりですね。では早速確認に行くとしましょう――私はそう言って席を立った。

 こいしに会わずにあの子の無罪を証明できそうな場所はただ一つ。こいしの部屋だ。

 彼女が日頃の行動を記した日記も、あるとすればそこにある。

 勝手に乙女の日記を覗くなんて、しかも殿方に見せるなんて姉として最低の行為だが、これもあなたの無実を証明する為だと心の内で謝って、同時に心を鬼にして、ナハトを率いて外へと踏み出した。

 

 何もありませんように。ただ一つの願いが、胸の内に滲んでいく。

 

 

 こいしの部屋は目と鼻の先と言う程ではないが、別段私のところからそう離れていない。なのでナハトの発言に煽られた不安感を御する暇もないまま、私たちはあっさりと辿り着いてしまった。

 ポケットからマスターキーを取り出しつつ、念のためノックする。

 返事が無かったので、そっとドアを開けた。

 

「こいし、お邪魔するわよ」

 

 ナハトにハンドシグナルで待機を促し、まず私が中へ入って確認する。

 ざっと見た限り、こいしの尊厳を踏みにじってしまいそうな物は見当たらない。私は彼の入室を、心の中でこいしに謝りながら許可した。

 

「捜査だとは分かっていますが、あまり邪な気持ちで荒らさないようお願いします。私には直ぐ分かりますので、肝に銘じてください」

「心配無用さ。礼節は心得ているとも」

 

 幸い、まだ私が心を読めない事はバレていない。今はその立場を利用して、釘を刺させて貰った。

 彼がどんな行動に出るかいまいち分からないので、取り敢えず私は彼の挙動を見張りつつ、日記を探す。あの子の日記さえ見つかれば、別に他を物色する必要は無いだろうから。

 ――ああ、そうだ。なら日記を探すよう彼に促しておこう。その方が視点も絞れるし、丁度いい。

 

「あの子には、日頃の活動を日記として留めるよう言いつけています。無意識にフラフラ漂っているあの子が、危険な事をしていないか知るためにですね。まぁ、言ってしまえば日記とは名ばかりの生存報告書の様なものです。それさえ見つかれば、恐らくあなたの知りたい情報は手に入る事でしょう」

 

 目標の特徴を彼に伝える。ナハトは素直にそれを聞き入れ、何やら指で虚空をなぞりながら日記探しに取り掛かった。

 

「……これは」

 

 呟きが耳に入り、其方へ視線をやる。

 部屋の一角に屈むナハトの手には、フリルのあしらわれた可憐で瀟洒な服が握られていて。

 

「間違いない、咲夜の衣装だ。それにこの皿も、本も、紅魔館の物じゃないか」

 

 彼が視線を向ける先には、数多の物体が無造作に積まれた山があった。服、食器、本、帽子など一貫性の無いそれは、どれも私が地霊殿で見かけた事の無い物の集合体である。

 それは彼の発言から、ナハトが元居た場所の物である事が分かった。

 

 冷たい汗が滲む。

 あの帽子だけこいしが偶然持って帰ってしまったのかと思っていたけれど、こんなに沢山見つかったんじゃあ、偶然と呼ぶにはあまりに苦しい言い訳だ。

 同時に、不安も膨らんでいく。

 一歩一歩、真実へ近づいている感触があったからだ。それも、私の考える中で一番あって欲しくない方向へ。

 

 けれど、私が信じなくて一体誰があの子を信じてあげられるというのだろう。

 

 そう思い直し、私は脳裏の暗雲を振り払った。これはあの子が無意識に持って帰ってしまっただけで、ナハトの事件とは何も関係無いんだと言い聞かせる。

 だから、後で精一杯謝って、物を返して、私がちょっと怒られるか痛い目に遭いさえすれば、それでこの件は終わりになる。きっと、その筈だ。

 

 己の胸へまるで自己暗示のように語りかけながら、私はこいしの机へと手を付けた。

 一つしかない引き出しの取っ手を掴み、中身を引っ張り出す。

 予想通り、目的の物が鎮座していた。

 

「ありました。これです」

 

 大きく『こいし』と名が綴られて、端っこに薔薇の模様がワンポイント彩られているだけの質疎なノート。紛れもなく、あの子の日記だ。

 私はそれを手にとって、すぐさま吸血鬼へと手渡した。

 本当は、私が中身を確認してから彼に渡すべきなのだろう。けれど、中身を見るのが無性に怖くて、思わず一番に渡してしまった。もし決定的な事実が書かれていたら――そう考えると、この吸血鬼の隣に立つよりも妹の日記を覗く方が、今の私にとって何十倍も恐ろしかったのだ。

 

 彼はありがとうと受け取ると、促されるまま紙を捲った。

 淡々と、淡々と。ページを捲られる音が、一定の間隔で静寂を揺らす。

 

 しかしノートの半ばまで辿り着いたところで、彼の指は動きを止めた。

 

 いや、止めたと言うよりも、止まったの方が正しいかもしれない。

 視線も、筋肉も、骨格も、何一つが動作していない。完全な活動停止に陥っていて、傍から眺めていた私はその異様さに眉をひそめた。

 

「どうしました? 何か気になる事でも?」

 

 沈黙に耐え切れなくなって、恐る恐る声を掛ける。

 その一声が、彼を呼び起こすスイッチとなった。

 次の瞬間、ナハトはまるで数千年の眠りから覚めた機械のように、突如凄まじい速さでページを弾き出したのだ。

 傍観してる立場からすれば、とても文章を読み取れるスピードではない。しかし彼の眼球は捲られる紙の速さに対応し、ぎょろぎょろと紙面を読み取っていた。

 

「何てことだ……!」

 

 歯ぎしりが聞こえてきそうなほど顎に力を入れる彼の視界に、もはや私は一片も写っていない。いや、もしかしたら思考の片隅からも消されているのかもしれない。

 そう確信させられるまでに、ナハトの表情は窺い知れない一点の感情に引き絞られ、まさに鬼気迫るものへと変貌を遂げていたのだ。

 震える声で、彼は声帯から言葉を絞り出す。

 

「まさか、こんな事が……いや、馬鹿な、有り得る筈がない……!」

「あの、一体何が書かれて――――」

「全て罠だったのだ」

「は?」

 

 まるで状況が掴めない私が問いかけても、返ってくるのは、更に謎を深める言葉だけで。

 

「私は、思い込んでいたのだ。()()()()()()()()()()()() それすら罠だったのだ。ああなんてことだ、なんという悪運か! 侮っていたのは、真に間抜けなのは、私の方ではないか……!!」

 

 バサッ、と音を立てて、日記が床へ無慈悲に落ちる。日記を掴んでいた彼の両手は震えており、二つの瞳は焦点の在処を探していた。

 どんな事があっても崩れなかった異常なまでの冷静さが、蝋燭の火のように吹き消されている。心を読まずとも一目瞭然だった。まるでかつての死人が目の前で蘇ったかのような、驚天動地の反応に他ならなかった。

 

 ナハトは右手で顔を覆いながら、大きく後ろへよろめいた。指の間から覗く紫眼は、眼前に立つ私を写してはいない。

 

「全てが奴に味方していた……! 小悪魔だけじゃない。魔理沙も、風見幽香も、東風谷早苗も何もかも、あの場に居た者達は、全て掌の上だった訳か!」

「ちょっと待ってください、まるで話が読めません! 吸血鬼ナハト、あなたは一体何を見たのですか!?」

「ああ、まんまと騙された。四年前の()()が始まりだった。無意識に選択肢から除外していた。その時点で、貴様の保険は順風満帆の軌道へ乗っていたのだな!」

「ナハトっ!!」

「さとり、君の妹が()()()()灼熱地獄はどうすれば行けるんだ!?」

 

 ナハトは突然私の肩を掴み、血走った眼で私を問い詰めた。

 何故こいしの行先を知っているのか――私の疑問を彼へぶつける隙などあるはずもなく。

 

「お願いだ、教えてくれ! 急がなければ、取り返しのつかない事になる!」

「それは、どういう」

「説明している暇はない! 時間がないんだ、答えてくれ、頼む!」

 

 ――有無を言わせぬ迫力が私の唇をこじ開け、ゆっくりと言の葉を導き出す。

 私のペットが、いつも頑張って番をしている、地霊殿真下の空間を。

 

「灼熱地獄は、地霊殿エントランスのちょうど真下にある空間です。あそこは一見床のようでいて、実は灼熱地獄へ通じる通り道でも――」

「ッ!!」

 

 最後まで、彼が耳を傾ける事は無かった。

 暗黒の空間が彼の背後に現れたかと思えば、ナハトは躊躇なくその穴へ身を投じ、姿を消したのである。

 空間転移の術だと直ぐに分かったが、しかし、穴が完全に閉じるまで微動だにすることが出来なくて、ただ穴の収束を眺めるのみで。

 空間の穴が姿を消して、漸く私は自我を取り戻した。

 

「吸血鬼ナハト……あなたは、一体何を見たの?」

 

 取り残された私は、ちらりと放られた日記へ目を向けて、恐る恐る手に取った。

 彼が読んだ場所と思わしきページを思い出しつつ、私は書物へと目を通し、

 

 

 

 言葉を、失った。

 

 

 

 ナハトはこれまでになく狼狽していた。未だかつてない焦燥感が全身を焼き焦がし、是が非でもさとりの妹、古明地こいしを見つけ出さねばならないと、奥歯を砕かんばかりに噛み締めていた。

 

 原因は言うまでもない。さとりから渡された、古明地こいしの日記帳である。

 あの簡素な日記には、ナハトの探し求めた事件の黒幕が――真の邪悪の正体が、はっきりと記されていた。

 ただしそれは、考えうる限り最悪の形で現れたと言っていい。かつての記憶を掘り返し、フラッシュバックとしてナハトへ叩きつける程の、強烈な事実として。

 

 全てを理解したナハトは、一刻も早くこいしを見つけ出さなければと駆け出した。急がなければ()()()()()()()()()()と、百%の保障を持って確信したからだ。

 

 空間転移の先は地霊殿のエントランス。正門を潜り、豪奢な扉を開けた先に広がる地霊殿の顔である。絢爛なシャンデリアが照らす床は、よく見ると幽かに透き通って見える不思議な材質で出来ていた。

 と言うのも、この下には地霊殿とはまた別の空間が広がっているからだ。

 そう。この床は地霊殿の出入り口であるとともに、遥か彼方のマントルに存在する灼熱地獄へと通じる唯一の窓口なのである。

 

「ここか」

 

 ナハトは瞬時に床とその先にある空間までの座標を計算。再び魔法で空間へ穴を穿つと、その中へ我が身を放り投げた。

 果ての無い円柱状の空洞がナハトの前に姿を現す。端を視界で捉える事の出来ない地の底には仄かな紅蓮が燻っていて、膨大な灼熱地獄の熱量は、相当な距離に居る筈のナハトにまでしっかりと届いていた。

 周囲を見渡す。影は無い。

 

「となれば、下か!」

 

 大腿へ魔力を集中、強化。吸血鬼は爆芯と化した剛脚を放ち、まるで足場として扱うように空気を蹴り飛ばした。

 凄まじい炸裂音が発生し、瞬く間にナハトは閃光となる。天狗に匹敵すると言われる吸血鬼のスピードは伊達ではなく、物理法則を完全に無視した躍進を見せ、あっという間に地の底へと辿り着いた。

 

 ナハトを出迎えたのは、金属で出来た足場だった。

 態勢を整えながら、そのまま勢いを押しとどめつつ着地する。

 灼熱地獄を管理する上で必要な連絡橋か、その類なのだろう。頑強な足場はミサイルの如きナハトの落下衝撃を見事に支えきり、轟音を地底空間へと伝えていった。

 すぐさま顔を上げて、吸血鬼は周囲の状況を確認していく。

 

「古明地こいし!」

 

 名を叫ぶ。

 しかし、答えを返す声は無く。

 

「どこだ、どこに……」

 

 ぐるぐると、視点を切り替えていく中で。

 ピタリと、ある一点に目を止めた。

 視線の先には二つの影。

 片や大きな両翼を持つ、胸に紅蓮の眼玉を持った、奇妙な風貌をした少女。

 片や黄色いリボンの巻かれたハットを被る、どこかふわふわとした雰囲気の少女。

 

 翼の少女は、何故か尻餅をついていて。

 ハットの少女は、光球を携えた手のひらを翼の少女へ向けていた。

 

 ハットの少女の胸元に、見覚えのある物体が一つ。

 それは色こそ違えど、さとりと同じ第三の目に他ならず。

 認識した瞬間、ナハトはハットの少女目がけて全速で飛びかかった。

 

「こいし……!」

 

 光弾から翼の少女を庇う様に挟まりながら、逃がさぬよう華奢な肩へ掴みかかる。逃がしてはならぬと力を籠める。

 だがこれで決着ではない。まだもう一つ、踏むべき段階が残っている。

 日記から得た、受け入れがたき真実。それを元に行うべき、古明地こいしの救助法。

 即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「私の眼を、見るんだ」

 

 ハットの下。癖のある前髪に潜む深緑の双眼。

 魂を見透かす吸血鬼の魔眼が爛々と輝き、二つの宝石と重なって。

 

 

 

 だが。

 

 

「!?」

 

 ナハトの瞳が写したものは、空虚ながらも僅かに色を湛えた、さながら果てなき青空の様な心象風景だった。

 しかし、そこに在るはずのどす黒い姿はどこにも無く。

 と同時に。ナハトは自分の脳髄が開けていくような、爽快感にも似た錯覚を覚えた。

 思考がうねる。何もかもを巻き込む激流の様なスピードで。

 

 この二週間、一度も見かけなかった紅魔館の失くし物を、今になって発見できたのは何故か?

 黒幕(ヤツ)にとって正体を明かされる切り札となる日記帳が、ああも見つかりやすく保管されていたのは何故か? 

 ナハトが読んだ日記の最後に、灼熱地獄へ私は居ると言わんばかりの文が綴られていたのは何故なのか?

 

 パズルが完成し、深淵の理解を得たヴァンパイア。

 だが、もう遅い。

 

「――――」

 

 それは絶叫だったのか、はたまた、けたたましい笑い声だったのか。最早どうでも良い事だった。

 ただ、ナハトの背後から熾烈な声が炸裂したかと思えば。

 ぞぶり――と、生理的嫌悪感を催す音がして。

 吸血鬼の胸元から、華奢な腕が生々しくそびえ立ったのだ。

 粘質な赤でてらてらと光るその腕は、まるで心臓を穿つ杭のよう。

 

 

「やはり貴様は変わらんな。私と言う悪意の理解がまるで足りていない。だからこうして、先手を愚かにも許すのだ」

 

 

 腕の持ち主の声が聞こえた。

 甘く、冷酷で、どこか威厳を匂わせる、覇気と瘴気に満ちた邪悪の声。

 それは忘れる事の叶わぬ声で。忌まわしいまでに脳髄の奥底へ染みついた、純黒の記憶の再臨で。

 四年前。確かに自らの手で葬った、紅き悪魔の囁きで。

 

 ごぼりと、口から赤が溢れ出た。

 

「貴様、()()()()()()()()()()ッ――!」

「ああ、推測通りだよ。だがそれは私にとっても同じ事さ。こいしに襲われている体を装えば、貴様は必ず()を庇うと思っていた」

 

 胸を貫いた手の持ち主、霊烏路空が、ナハトの背後で語り掛ける。

 ――いや。いいや。それは最早、霊烏路空などではない。

 彼女ではない声で。彼女ではない引き裂かれた笑みを浮かべて。彼女ではない怨念をその眼に燃やして。

 怨讐の化身は、叛逆の狼煙を焚き上げた。

 

()()()()。しかしこの時を待っていたぞ。それは首を長くして待ちわびた! この一瞬を、気が狂うほどにな!」

 

 どす黒い絶叫と共に、それは起こった。

 胸を貫く少女の腕が赤熱していく。血肉は輝き、なお輝き。膨大な熱が蓄えられ、忌まわしき光となって顕現した。

 それは、吸血鬼を滅ぼす聖なる焔。

 霊烏路空に宿る太陽の化身、八咫烏が放つ神の炎。

 

「だが悲しいかな、これでさよならだ。我が宿敵!!」

 

 瞬間。一個の太陽と化した悪魔の腕は、吸血鬼を無慈悲にも内側から焼き滅ぼした。


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