【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい   作:河蛸

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18.「崩壊」

 山は哭いていた。

 頂の霊峰から降りかかる、山を呑み込まんばかりの重圧が大自然を苛ませ、あらゆる動植物を恐怖のどん底に陥れていた。

 木々や草花はざわざわと絶えず騒ぎ立て、動物は皆逃げる事すらも忘れて地に伏している。彼らは、一刻も早く災害と見紛う力の圧迫感が過ぎ去ってくれる事を、ただただ切に祈り続けることしか出来なかった。

 それは、獣や鳥、蛇に蛙、蟲と草木に限った話ではなく。

 人間に恐れを与える存在、妖怪すらも決して例外では無かった。

 山は、大声を上げて哭いていた。

 

「とうとう来るのね、萃香」

 

 震源地と最も近い場所に居座る幻想の賢者は、穏やかながらも鋭い意思を携えた瞳で、弱小妖怪ならば撒き散らされている圧力だけで存在を消し飛ばされそうなほどの、膨大な妖力と瘴気を放っている二つの発生源を見据えていた。

 これから起こる展開を予測しているのだろう彼女は、人知を超えた頭脳からこの場を無事に収束させる最適解を導き出していく。

 

 扇を一振り。

 

 すると、今の今まで一言も声を発する事の無かった賢者の式神が薄く目を開き、黄金の瞳で周囲に目を配りつつ、簡素に主へ問いを投げた。

 

「どうやら出番の様ですが、如何いたしましょうか」

「闘技場から飛び散る破壊の余波は全て私が防ぎ切るわ。その分、観覧席一帯が手薄になるから、あなたは山を補助する保険用の結界の維持に努めなさい。私の演算領域を貸してあげるから、全力でね」

「御意」

 

 紫は知っている。伊吹萃香と言う災害の脅威を、嫌と言う程知っている。

 伊吹萃香は妖怪の最強種族、鬼である。おまけにただの鬼ではない。かつて山の四天王と呼ばれた強大な四匹の鬼の中で、リーダー格として君臨していた鬼である。彼女はその童女の様な見た目に反して、鬼の頂点と言っても差し支えない存在だった。

 彼女が絶対不変の鬼の王として君臨出来たのには様々な要因がある。それは彼女が、鬼の中でも類稀なる戦闘能力と不思議なカリスマ性を持ち合わせていた事。そして、紫にすらも脅威だと感じさせる強力無比な能力が原因だ。

 密と疎を操る程度の能力。それは対象を疎にすると、例え神話の金属だろうが霧状にまで分解する事が可能で、逆に密へと力を傾ければ、対象を膨大な熱を帯びて溶解させるに至るまで圧縮する事の出来る能力である。

 

 だがしかし、これは物体に限った場合の話でしかないのだ。

 

 萃香の能力の真髄は、そこから更に飛躍した場所に存在する。

 故に、これからもたらされる被害を何の防護も省みずに計算した場合、想像を絶する結論が弾き出される事になるのだ。

 存在が天災そのもの。それが、伊吹萃香と言う怪物なのである。

 

「紫殿、山の妖怪は私に任せよ。この山は我らの山、自衛が出来ずしてどうして山の主と名乗れようか」

 

 事の様子を静かに見守っていた天魔は、手元に大仰な錫杖を呼び寄せると、柄で足場をコツンと突いた。リン、と鈴の音が風を呼び、天魔へ自然の力を与えていく。

 元来、幻想郷では天狗もまた、鬼と並んで強力な種族として名を刻む妖怪である。身体能力に関しては鬼に劣るものの、その知能と技術力は時に鬼を凌ぐ。

 中でも特筆すべきは、やはり法力の高さだろう。

 天狗は八大天狗を筆頭に、神格化された妖怪の代表格とも言える存在である。ある説では不動明王の化身とされ、ある説では鬼神そのものとして名を馳せた。

 それらの前例が示す通り、経験と知恵を重ねた霊格の高い天狗の中には、時に鬼と匹敵する程の神通力を体得する者が現れる。

 まさしく、天魔がその内の一人であった。

 

「さて」

 

 幻想郷の頂に立つ妖怪変化、八雲紫とその式は妖力を漲らせ、結界の強度を、境界の力を、万端なものへ強化、展開していく。山の王たる天魔は、錫杖を通じて神通力を清水の様に霊峰の観客席へと染み渡らせていった。

 賢者と称された妖怪たちの加護が、山を覆い尽くしていく。

 

 あらゆるダメージを無効化させる不可視の城塞と化した霊峰を、静かに見下ろす八雲紫。だが、これほどまでの堅牢性を手に入れて尚、彼女に油断の二文字は浮かばない。

 扇を開き、彼女は月光を煽ぐように差し出した。

 

「気合を入れて引き締めましょう。私達が油断など抱こうものならばこの山は――――いいえ、幻想郷はただの泥団子と化しますわ」

 

 

「四天王奥義」

 

 一歩。地が爆ぜた。

 膨大な熱を帯びた小さな鬼は、たったの一蹴りで打ち出された花火の様に跳躍し、山の頂すらも軽々と飛び越えてしまう。

 ボヒュンと、雲の中へ小さな体躯は呑み込まれて。

 

 二歩。轟雷の如き衝撃と共に雲が爆ぜた。

 空気を踏み砕き、更に更に高く、萃香は己が身を押し出していく。それに伴って体を包む熱が増すと、眩い光を生み出した。

 一筋の赤い軌跡を描きながら宙を舞うその姿は、さながら天へ昇る龍の如く。

 高く、高く、彼方を目指して鬼は舞う。夜空の月を手に入れんと言わんばかりに鬼は飛ぶ。

 そして遂に、伊吹萃香は天蓋にまで辿り着き。

 同じくして、明瞭な変化が訪れた。

 

 莫大なエネルギーの集約が巻き起こった。収束の中心点を漂う鬼は目に見えて輝きを増し、遂には月の存在感すらも奪い去ってしまう。

 力を蓄え続ける鬼の様が、事の異変を如実に物語っていく。

 満月の下を漂う雲が。草木も眠りへ誘う夜の空気が。果てには幻想郷を照らす月の輝きまでもが。

 大空の頂点にまで上り詰めた萃香によって吸い込まれていた。

  

 萃香が己の中へ萃めているもの。

 それは、『速さ』と『重さ』である。

 幻想郷中に存在する速さと重さ。それをほんの少しずつ、消し屑の様に微々たるものを、萃香は自身へと掻き集めているのだ。

 一つ一つは些細な力。しかし幾重にも積み上げれば何時しか塵も山と成り、小は大へと姿を変える。

 それを一気に解き放てば、果たして何が巻き起こるのか。

 

「ナハト、よーく見てろ! これが私の全力だ、これが私の最大奥義だ!! お前さんも男なら、根性見せて凌ぎ切って見せなぁッ!!」

 

 伊吹鬼が空中で姿勢を変えていく。

 小さな足を突き出して、照準を地上の吸血鬼へと狙い定める。

 それこそが、三歩目の着地点に他ならず。

 刹那、伊吹萃香は破壊と化した。

 

 

「三歩壊廃ッッッ!!」

 

 

 鬼の絶叫が空を引き裂き、夜は真っ二つに叩き割られた。

 掻き集めた『速さ』と『重さ』。それらを一気に解き放ち、常識を超えた破壊力を伴って急速落下を開始した事で、莫大なエネルギーが萃香と共に、紅蓮の閃光となって地表へ一気に降り注いだのだ。

 その様、まさに星を砕き割らんと迫る隕石の如く。

 枷などあろうはずもない災厄の一撃は、たった一人の吸血鬼へ――――否、幻想郷目がけて襲い掛かった。

 

 対する吸血鬼もまた、絶大な力を駆使して立ちはだかる。

 大地から伝わる土の魔力から金属を生成。さらに精度を高め、この世のものとは思えない輝きを放つ白銀の刃を夥しく展開した。しかしそれらは武器としての意味を成さず、与えられた役割に沿って落英繽紛に舞い踊る。

 金属片が規則正しく闘技場へと突き刺さる。それは次々と不可思議な陣を形成していった。金属を伝い、黒の魔力が闘技場を蝕み侵す。

 ナハトは物体に自らの魔力を流し込む事で、擬似生命として使役する技能を持つ。例えば、牙を生やし魔物と化した地下図書館の蔵書。例えば、スカーレット卿を拘束した石造りの触手。これらは言うなれば、吸血鬼の使い魔召喚能力の延長である。

 

 夜の鬼はそれらと同じように、闘技場を支配下へと置いた。

 

「迎えよ」

 

 一言、魔性の号令が星の海へと染み渡る。それが起爆の信号となった。

 地鳴りが起こる。瞬きをするよりも早く闘技場が姿を変えていく。あまりに無茶な変異は、八雲紫の防護が無ければ一瞬にして山そのものを崩壊させる程のものであった。

 そして現れたのは、腐敗した血液を掻き集めて作り出された様な、見上げてもその頂を視界に収める事すら叶わない黒染めの巨人(ダイダラボッチ)

 かつて霊峰で行われた幾千幾万の戦いの果てにこの地へ染みつき、濃縮、純化された魔力と闘いの『遺志』をベースとして生み出された、超弩級のゴーレムである。

 

 山を砕き割る力を誇る規格外の鬼と、山を須臾の間に支配下へと置いた規格外の吸血鬼。

 直後、真正の怪物同士は激突した。

 

「うォォおおおおおおおおおおりゃあああああああああああああああああああああああああああああああ―――――――ッ!!」

「ッ!」

 

 莫大な魔力で補助され、砕ける事を知らないゴーレムの拳と、あらゆる存在を踏み抜く唯我独尊の鬼がぶつかり合い、怒涛の疾風と爆音が天界にまで轟き奔る。長年妖の闘技に耐え続けた闘技場の地盤は易々と損壊し、大気が悲鳴を上げて泣き叫ぶ。常識と言う枠組みを遥かに凌駕した破壊は八雲の境界に塞き止められることで、なんとか山は命を繋ぎ止めるに留まった。

 そうであって尚、止まらぬは歴戦の覇者たる小さな百鬼夜行。対する闇夜の支配者もまた、一歩も引き退く素振りを見せず奮闘した。

 萃香は叫ぶ。紅蓮に染まった顔を歪ませ、獅子の如き髪を振り乱しながら。

 

「そんな土塊(つちくれ)如きでぇ、この私を止められると本気で思ってンのかい!?」

「確信があるからこそ実行に移したのだ。さぁ、そんな事よりもっと全力を出して来い、伊吹萃香!」

「ッはははっ!! 上等、上等、上等ォォッ!! 何が何でも踏み潰してやるよッ!!」

 

 萃香は黒のゴーレムと拮抗しながらも、更に力を増し、徐々に徐々に押していく。留まる事を知らないエネルギーの余波は易々と客席にまで及び、天魔と八雲の障壁に阻まれると、凄まじい炸裂音と共に掻き消された。

 止まらぬ猛攻、崩れぬ巨兵。両者、共に一歩も譲らず。決着までの道のりは、終点がまるで見えぬほどに果てしない。

 これではそもそも勝負が着くのだろうか。下手をすれば、飽和した力が山を押し崩し、災害の傷痕だけを色濃く残す結果に終わってしまうのではないか。

 激闘の光景を目に焼き付ける誰しもが、終末の未来を信じて疑わなかった。

 

 

 しかし、止まない雨など存在しない。

 

「!」

 

 岩盤へ鉄杭を思い切り叩きつけて砕き割ったが如き、強烈な破壊音が響き渡り。

 巨兵の拳が、唐竹を割ったかの様に勢いよく二手に裂け、両断される。

 常に力を吸収し爆発し続ける萃香の膂力が、幾重にも闘技場へ積み重なった戦の怨念(ゴーレム)を打ち砕いたのだ。

 

 そして訪れる、圧倒的なインパクトと爆砕現象。

 

 ゴーレムの大柄な体躯が、内側に思い切り空気を吹き込まれたかのように膨張、破裂した次の瞬間には、既に消滅を迎えていて。

 天災に匹敵する萃香のストンプが、操り主へと神速を伴って襲い掛かった。

 

「ずォおおおおおおあああああああああああああッ!! ブッッ潰れろォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――――ッッ!!」

 

 

 

 ―――その時だった。

 鬼の剛脚がナハトの顔面を無慈悲に捉えるまでの、刹那の際。

 萃香は目撃してしまった。今まさに決着をつけんと奥義を振りかざす敵の瞳に、得体の知れない淀みが浮かび上がっている事を。

 

 果ての無い闇だった。

 

 白目も黒目も無く、月明りすら眼窩から吸いこんでしまいそうな、ドス黒いなどと言う表現を超越した闇。そもそもこれを闇と言い表していいのかどうかすら判断に迷う、そんな暗黒が吸血鬼の目の奥へと巣食っていたのだ。

 瞬時に鬼の本能が、百戦錬磨の戦闘狂の魂が。宴の大演奏よりも喧しい警報を、萃香の中で打ち鳴らした。追い詰めたのは紛れも無く自分である筈なのに、今まさに吸血鬼を仕留めんと爆進する萃香は、滝の様な冷や汗を止める事が出来なかった。

 

 ヤバい。なにか分からないが、このまま進めばとにかくヤバい。

 

 萃香は恐怖した。ここに来て初めて、ナハトに対する明確な恐怖を己の内に認めた。戦で散る事を華とする鬼であるが故に、闇夜の王の圧倒的な瘴気をスパイスだと一蹴出来た彼女の不屈の心が、あまりにも呆気なく黒一色に蝕まれてしまった瞬間だった。

 このまま衝突すればただでは済まない。間違いなくとんでもない事が起こる。それも想像を絶する様なナニカに巻き込まれてしまうだろう。小鬼は確かな自信を持って予測し、不相応な鳥肌を出現させる。

 果ての無い不安が萃香を須臾の内に侵食、蹂躙し、ぐちゃぐちゃに掻き回して混沌へと引き摺りこもうとする。頑強極まる心の大黒柱が、メキメキと悲鳴を上げ始めた。

 

 だがしかし。

 伊吹萃香と言う鬼は。

 例え勝負の果てに、二度と好物の酒を飲む事が叶わなくなる身になろうとも。

 最後の肉片がこの世から消え去るその時まで、死力を尽くして(いくさ)を望む猛者である。

 

 だからこそ、彼女は最高の笑顔を恐怖の権化へと見せつけて、これ以上に無い怒号を上げた。

 

「最後の最後に立つのは果たして私かお前さんかッ!! さぁ今こそ雌雄を決するぞ! 吸血鬼さんよぉッ!!」

 

 

 ゴボゴボと。

 何かが溢れる、音がした。

 

 

 

 ザシュン、と肉を断つような生々しい音が、無音の霊峰へと染み渡って。

 

 

 信じられない出来事が巻き起こった。

 

 

 伊吹萃香の三歩壊廃が間違いなくナハトを仕留め、濃厚過ぎる激闘にとうとう幕が下ろされたと、幻想の賢者さえもが確信を抱いた、まさにその瞬間だった。

 萃香の破壊行進が突如として急停止したかと思えば、吸血鬼の足元から突き出された十五の黒剣によって、無残にも全身を貫かれたのである。

 理解不能な光景だった。本来ならば血溜まりと化していた筈の吸血鬼は仁王立ちしていて、勝利の雄叫びを上げる筈の二角鬼が惨たらしい串刺し死体へと成り果てていたのだ。それは天下無双を誇る伊吹萃香の内情を知る山の妖怪にとって、あまりに信じ難い光景であった。

 無論その混乱は山の妖怪のみに限らず、一部始終を見守っていた八雲紫にも当て嵌まる。

 

 ただ、混乱の渦へ巻きこまれた者達は、共通の印象を一つだけ植え付けられていた。

 鬼と吸血鬼が激突する、まさにその一瞬。正確には、萃香の猛進が急遽停止したほんの僅かな一時。

 その時の光景はまるで、萃香が掻き集めたエネルギーを()()()()()()()()()かの様であったと。

 

「紫」

 

 思考を捥ぎ取る様な、魔の声が霊峰へと吹き込まれた。

 発生源たる吸血鬼は、崖の上にて見下ろす賢者を見据え、萃香を示す。

 

「判定を頼む」

『―――――っ、それまで。勝者、吸血鬼ナハ』

「ふんぬらばッ!!」

 

 紫の審判を掻き消すように、怒号が夜へ炸裂した。

 合わせて、萃香の全身を刺し貫いていた剣が、咆哮と共に金属音を立てながら砕き割られ、ボロボロと小さな肢体から抜け落ちていく。

 未だ体を朱一色に染めたままである伊吹萃香は、決して無事ではない筈の体を軽快に動かしながら、血染めの眼球をナハトへと向けた。

 

「……お前さん、今なにをやったんだ?」

 

 それは純粋な興味の声だった。

 あの一瞬で、自分が一体何をされたのかが分からない。そんな疑問がありありと現れた質問だった。当然だろう。八雲紫ですら、『力』を『無力』に変える境界を常に張り巡らせて、それでも被害は最小限にしか止められない様な必殺の一撃を、まるでパワー全てを暗黒空間へ放り投げてしまったかのように消滅させられたのだ。興味を抱かないと言う方が不自然である。

 しかしナハトは答えない。口を噤んだまま、萃香から視線を動かさない。

 萃香はその沈黙を、答えと受け取った。

 

「そうかそうか、言いたくないか。いや、良いんだ。喋りたくないならそれで良いのさ」

 

 ケラケラと、とても愉快そうに鬼は笑い、

 

「なぁ、今のアレ……もう一回私に見せてくれよ」

 

 バキリ、と滅茶苦茶になった闘技場の地面へ、更に亀裂が刻み込まれた。

 

「この通り私はピンピンしている。まだ勝負はついてないぜ? だからさぁ、もう一度受け止めておくれよ。今の力の正体が知りたくて知りたくて仕方がないんだ。疼いちまってしょうがないんだよ」

 

 再び萃香は、深くその場へ腰を落とし、

 

「必殺技は一回しか打てない、何て甘いことはこの私には通用しないのさ。さぁ行くぞナハト三歩壊は」

「はいそこまでー」

「ぶッ」

 

 いつの間にか崖上から瞬間移動した紫が、必殺技だと意気込んでいた萃香の頭へ扇を一閃した。華奢な細腕から繰り出されたものとは思えない優雅な一撃は、容易く萃香の体で小さなクレーターを作り上げ、埋め込んでしまう。

 突き刺さった角を引っこ抜くのに悪戦苦闘しつつも、萃香は何とか復活して、元気よく怒号を上げた。

 

「何するんだ紫! イイ所なんだから邪魔すんな!」

「邪魔も何もあなた、私との約束はどうしたのよ」

「あー? 約束――――あっ」

 

 しまった、と言う風に萃香は口へと手を当てる。応じて紫は、小さなスキマから一枚の和紙を取り出した。

 広げて、デカデカと萃香に見せつける。序でに指で注釈を加えて。

 

「あなたから貰ったこの誓約書。被害を最小限に抑えるために、三歩壊廃は一回までとすると、ここにあなたが直筆で書いてるんだけど」

「うぐっ」

「まさか、約束を破る気じゃあ無いでしょうね?」

「わ、忘れてたんだ。ごめんよ紫、本当だよ!」

「あなたが言うのだから本当なのでしょうけど。であれば、これで勝負はついたのでしょう? 見たところ、凌ぎ切った彼に軍配が上がりそうだけど……前半の萃香の攻め具合からして実質引き分けかしらね。あなたピンピンしてるし」

「う、うううううう~~~~~~~!」

 

 萃香は親指を噛み締めながら、紫の持つ書状とナハトへ視線を交差し続けた。勝敗の有無が決まる事に対して懸念を抱いているのでは無く、戦いが終わってしまうと言う事実に歯噛みしているのだろう。まだ終わりたくない、もっと楽しみたい――――そんな感情が、これでもかと言わんばかりに溢れ出していた。

 

「……そうだ! 三歩壊廃は一回だけど他の四天王奥義は一回だけなんて決めてないし、勇儀の技を借りちゃおう! そうと決まれば続けるぞナハト! 食らえ四天王奥義三歩必さ」

「粛清ゆかりんチョップ!!」

「うわらばっ!!?」

 

 再び埋没。瞬時に復活。

 

「なぁなぁ頼むよ後生だ紫! こんな機会本当に無いんだって! 三歩壊廃はしないからさ、三歩必殺だけ許して! これなら約束は破ってないだろう!? お願い!」

「あれは被害を抑えるための誓約書だって言ったでしょこの馬鹿鬼! 屁理屈こねない! それに見なさい周りが怯えてるでしょうが!」

 

 紫があれを見ろと指し示す観客席では、ぐったりと項垂れる河童や終末に怯えて身を寄せ合う白狼天狗、手をこすり合わせつつ何かの念仏でも唱えている鼻高天狗、そして白目を剥いて気絶している鴉天狗がちらほらと見受けられた。更に言えば、天魔もけほけほと咳込みながら、仕えの天狗に背中を摩られている始末である。

 百歩譲っても大惨事であった。

 

「と言うかね、あなたの奥義からここを守るのにどれだけの負荷が掛かるか分かっているの? 闘技場全体の物理的補助、山そのものへの影響遮断、藍への援助、その他諸々の余波を処理するための境界演算いっぱい! 幾ら私がパーフェクト賢者だとしてもキツイものがあるのよ! 見なさい力を使い過ぎて鼻血出ちゃったじゃない!」

「わ、分かったごめんって諦めるってだから近づくなばっちいぞ!」

「誰のせいでこうなってるって言うのよー!」

 

 もう怒った! と八雲紫は憤慨し、白い手袋に包まれた指で何かを空に描く。

 すると萃香の周囲に隙間が現れ、目にも止まらぬ速さで萃香を呑み込み、そして吐き出した。

 放り出された萃香は驚天動地と言わんばかりに目を見開き、絶叫する。

 

「ちょっ、紫ィ!?」

「罰として九割、あなたの力を剥奪します。暫く反省なさい!」

「うぐっ!?」

「あなたが鬼の中で破天荒である事は分かっているけれど、けじめをつけるのは当然の事です」

「うぐぐぐッ……さ、参考までに、いつまで?」

「五年」

「五年ン!? 五年も一割で過ごせってのかい!?」

「なんなら百年でも良いのよ? 私は気にしないわ」

「むぅ……しょうがない。まぁ、悪いのは私だし、うん。甘んじて罰は受けるよ。たまにはこう言うのも良いかもな!」

 

 豪快に笑い飛ばしながら、萃香は瓢箪を取り出して酒を煽った。そこにはもう、戦意の覇気は見当たらない。前向きに、余韻を楽しもうと言う姿勢が見て取れた。

 そんな中、萃香は勢いよく指をナハトへ突き付けて、指差の爪と同じ鋭さをもって告げる。

 

「勝負はお預けだよ。こんな形で終わりじゃあ納得できない」

「ふむ」

「次は是が非でも決着を着けよう。どっちもピンピンしているこんな状態じゃなくて、どっちかが地を舐める事になる様な、有無を言わせない勝敗をね。今度こそぐうの音も出ないほど捻じ伏せて見せるよ」

「受けて立とう。次こそは君を友としてみせようではないか」

 

 ナハトの言葉を受けて、萃香は豪快に笑い飛ばした。未だ自らを手下にすると諦めない意気込みには、敬意を表した様である。

 さて、と萃香は二人の元から離れて、

 

「野郎ども! 待たせたな!!」

 

 豪快な声量に、意気消沈していた山の妖怪たちが上体を起こした。視線の全てが、闘技場の萃香へと萃まっていく。

 

「天魔との約束通り、この山はお前らにやるよ! これからは好き放題やってくれて構わない! だが最後の思い出によう、ここらで一丁盛大な宴を開いても構わないか!?」

 

 おおっ、とどよめきが波紋状に広がる。次の言葉を今か今かと待ちわびる。

 応える様に、萃香はにっと笑った。

 

「勿論今夜は無礼講だ! サービスに私のとっておきの酒をたらふく用意してやる! さぁ、まだまだくたばっちゃあいないよな!? ――――祭りはこれからだぜ、野郎ども!!」

「おおおおおおおおおおおおおお――――――――!」

 

 宴好きな妖怪たちの歓声が、目に見えて爆発した。幻想郷暗黙の了解とも言える、波乱の後は宴で全てを水に流す。それも元四天王の大盤振る舞い宣言かつ無礼講を望んでいるとあれば、彼らが湧き立つと言うのも無理は無かった。

 

 かくして、狂瀾怒濤の大演武は一先ず幕を下ろす事となり、山は再び平和な喧騒を取り戻す事となった。

 余談ではあるが、四天王最強の鬼と全く引けを取らなかった怪物として認知されたナハトは、その闘いを見ていた妖怪たちから現代の悪鬼羅刹として水面下にて恐れられる様になったのだが、それはまた別の話である。

 

 

 萃香の我儘が収束を迎えてすぐ、私は宴に参加することはせず、とある場所へスキマを繋ぎ移動行っていた。

 目的地は迷いの竹林、その奥にひっそりと佇む永遠亭。

 そして訪ねるは月の賢者、八意永琳である。

 

「こんばんは」

 

 机に向かって何かを書き走っている八意永琳の背後に私は立ち、挨拶を投げる。

 突然の来訪に永琳は驚く素振りも無く、ゆっくりと椅子を回転させ、その場から振り返った。

 

「お久しぶりね、紫さん」

「親し気に紫で結構よ、私よりあなたの方が――――と、そんな事はさておき。今、お時間を頂いてもよろしくて?」

「ええ、構わないわ」

 

 ありがとう、と私はスキマに腰かける。永琳は筆を机へと置いて、両手を膝に乗せた。

 真剣な雰囲気が、小さな研究室を漂い始める。

 

「あなたに聞きたい事があるの」

「して、内容は?」

「まずは、ナハトについてどこまで知っているのか答えて頂戴」

 

 永琳はほんの少し目を開き、しばし驚いた素振りを見せた。しかし直ぐに平静さを取り戻し、優秀な頭脳を駆使して最適解を導き出す。

 目を静かに閉じた彼女の答えは、こんなものだった。

 

「経歴は知らない。周りの交友関係も深くは知らないわ。でも彼の性格と生い立ちは知っている」

 

 それは前に話したでしょう? と彼女は言った。それとは生い立ちについてだ。ナハトの抱える、消滅の概念と言う与太話とさえ疑われる様な誕生秘話。ほんの少し前まで私も疑念を抱いていたが、今では霧散してしまっている。

 私が掘り起こしたい部分はそこではない。彼の性格こそが、今知るべき真実なのだ。

 もっと言えば、彼の行動原理についてだが。

 

「彼の裏側を掴んだ様ね」

 

 私が口に出すよりも早く永琳は言った。それは言外に、彼の行動原理を把握したのだろうと告げていた。

 私は頷き、答え合わせを行う。

 

「あの吸血鬼は友達が欲しいだけ。幻想郷へ訪れたのも、様々な人物へ関わりを持とうとしたのも、たったそれだけが行動理由だった。どうかしら?」

 

 認めたくない答ではある。しかし私には、どれほど認知したくなくても、認めざるを得ない真実に見えて仕方がないのだ。

 決め手は、今までの不可解なナハトの行動と、萃香の放った言葉にある。

 

 萃香は言った。彼は自らを恐れない友人が欲しいだけなのだと。鬼の血によって増強された百薬桝の効力がナハトに吐き出させた答えが、そうであったのだと。

 鬼は嘘を吐かない。鬼にとって嘘とは裏切りと禁忌(タブー)の代名詞だからだ。鬼の中でも特に虚言を忌避する萃香の血と百薬桝の酒を取り込み、急速な鬼化を迎えたナハトは無意識的に嘘の吐けない体質となった。加えて嘘に敏感な萃香が真実と認めたのである。これは、下手をすればどんな物的証拠よりも確固たる真実の証明となるのだ。

 ここで仮説を一つ立てる。あの威圧感は実は自らの意思に反したものであって、それ故にコミュニケーションが破綻し続けていた。そして彼はただ友達を欲して行動していただけであり、誰にも危害を加えようなどとは全く考えていなかった、と言う可能性を。

 この仮説をベースに、今までの奴の行動を洗っていく。すると不思議な事に、バラバラになっていたピースが別の形で繋がっていくのだ。

 

 奴を確認してから暫くの間、どうして幻想郷へ出歩こうとはせず、妖精や紅魔館の住人と親睦を深める様な真似をしていたのか。

 初めて会合したその時、魔性の威圧を駆使すればもっと効率よく私を利用できたはずなのに、何故奴は悠長に紅茶を淹れて歓迎しようとしていたのか。

 何故奴は私と幽々子に攻撃をされ続けて尚、一切の反撃をしないどころか、あれ程懇切丁寧に私達の警戒心を解こうとしていたのか。

 何故、消滅の概念などと言う危険極まりない存在に対して、八意永琳が全く敵対心や警戒心を抱いていないのか。

 

 諸々のピースが、今まで私の抱いていたものとは全く異なる真実を形作っていく。

 ナハトは己の瘴気に交友を悩ませられているだけの、人畜無害な吸血鬼であるのだと。

 

「……そうね。知ってしまったのね。時間の問題だとは思っていたけれど、まさかこんなにも早く答えを見つけてしまうだなんて」

 

 永琳は深く息を吐く。それは暗に、私が知ることを望んでいる答えの輪郭を浮き彫りにしていて。

 

「――――良いでしょう、お話します。あなたの知りたがる、彼の真実について」

 

 

 山の宴が終わりを迎え、酔い潰れた妖達の寝息が祭囃子となった後の事。私と美鈴は日の出を迎える前に、紅魔館へと帰宅する事にした。

 因みに、祭りは盛況の一言に尽きた。流石に彼らの中へ溶け込むのは魔性によって不可能ではあったが、それでも遠巻きながら楽しめたので満足である。健闘賞として萃香が酌をしてくれたので気分が良い。今の内に帰還しておかねば、日光に焼き焦がされて折角の余韻が台無しとなってしまう。それだけは避けたいところだ。

 華扇と共に飲み比べを行い、半ば潰れかけている美鈴へ回復魔法を施しつつ、声を掛ける。

 

「そろそろお暇するとしよう。門前がフランに荒らされていないか様子見もせねばなるまい」

「承知しました」

「帰るのかい?」

 

 死屍累々となっている霊峰の中から、萃香が上体を起こして訊ねる。膝元では文と椛、そして名の知らぬ茶色い髪をしたツインテールの天狗が潰れている。大方、飲み比べでもしていたのだろう。三人もの天狗を相手に楽勝を捥ぎ取るとは、流石と言ったところだろうか。

 

「ああ。今宵は実に楽しかった。改めて感謝を」

「いいさ。私も楽しかった。次は完膚無き決着を着けよう。約束だ」

 

 そう言って、萃香は私へと手を伸ばす。私はそれを受け取り、いつか再戦を行う事を約束する。

 しかし、先ほどのあれは一体全体何だったのだろうか。

 萃香の必殺技を食らう直前、あれをどうにかしなければと強く念じていたら、私の中から目に見えない何かが飛び出して来て、それが萃香に纏わりついていたパワーを全て消滅させてしまった。お蔭で形勢を逆転できたと言って良いが、私はあの時グラムの射出以外、魔力や術の類を行使していなかったのだ。何がどうなってあの隙が生まれたのか、私にはさっぱり理解出来ずにいた。

 文字通り正体不明の何かが、戦況を一瞬にして変えてしまった。その事実が、胸の中で未だに消火不良な火種となって燻り続けている。

 ……だがまぁ、起因となったであろう私が考えて分からないのであれば、また今度調べれば良い話か。どうやら萃香もあの現象に心当りは無い様だし、もしかしたら今は姿の見えない紫が何か知っているかもしれない。機会があれば尋ねてみるのも悪くないだろう。

 

 ところで、これはひょっとしてアレなのだろうか。萃香は俗に言う悪友、もしくは喧嘩友達と言う奴なのだろうか。交わした握手を見ながら、そんな発想がぼんやりとながら浮かび上がって来た。

 萃香は私の性格そのものは気に入らない様子だが、実力を認めてはくれている様である。ならば友達かと聞かれれば実に奇妙な感覚ではあるのだが、この際勝手にそう思わせて貰うとしようか。その方が、後味が良くて祭りの余韻には丁度いい。彼女は私の喧嘩友達だ。いがみ合う仲が居ても良いだろう。

 

「……? ナハトさん、その手、どうなされたのですか?」

 

 ふと、物思いに耽っていた私に向かって、美鈴が何かを訝しんでいる風に私へ問いかけて来た。

 手がどうかしたのだろうか。萃香との握手に対して変化はない。と言う事はもう片方になるが――――

 

「ナハト、お前さん……」

 

 萃香の言葉が、嫌によく頭の中へ響き渡る。 

 私も彼女の声と同じ程に、驚きに満ちて目を開く。同時に盛大な疑問符を浮かべざるを得なかった。

 視界の中心には、私の手であったものが映っていたのだ。

 

 灰色に染まり、ひび割れ、亀裂から黒い靄のようなものが噴き出している私の手。どう考えても尋常ではない様子がありありと映し出されており、視覚的なものだけではなく、明らかに感覚が喪失してしまっている。

 これは、なんだ? 今は別に術の類も肉体変化も行使していない。なのに明らかな異変が私の手に起こっている。魔力を使い過ぎたか? いや、それならば強い疲労感を覚えるのみだろう。幸い今のところまだ魔力にゆとりはある。魔力欠乏による症状とは考え難い。

 では、一体全体何が起こって――――

 

「!? ナハトさん!?」

「おいナハト、どうした!?」

 

 美鈴と萃香の声が聞こえる。だが声に反して二人の容貌がまったく見えなくなった。暗いのだ。まるで突如暗黒の中に放り投げられてしまったかのように何も見えない。

 目へと手をやる。すると、本来ならば肌に触れる筈の手が顔の奥へと吸い込まれてしまった。

 顔が、無い。

 更に頬や首周りを確認する。バラバラと、皮膚と思わしき破片が崩れ落ちる感触が伝わった。

 崩れている。古びた石膏が壁から剥がれたように、ボロボロと肉体の表面が謎の崩壊を始めている。

 その時、不意に背中へ衝撃が走った。足が砕けて転倒したらしい。遂には片足の感覚までもが無くなってしまった。

 

「萃香さ、ど、どうしましょう、これ、気が滅茶苦茶です! 一体何が――――」

 

 美鈴の声を皮切りに、とうとう音さえもが、一欠けらも拾えなくなってしまう。

 肉体の再生を魔力で促す。効果は見られない。まるで私の全てが体の外へ漏れ出しているかのような、表現しがたい感覚が私へと襲い掛かっていた。

 音も、光も、感覚も無い。さながらそれは無の空間。しかし奇妙な事に、私の思考は酷く冷静なままで。

 

 一体、私の身に、

 何が――――――――――――――――

 

 

「……私の話は終わりよ。これが真実。覆す事の出来ない彼の裏側なのよ」

「…………………、」

 

 なんという、ことだろうか。

 八意永琳に告げられた真実を前に、力が抜けて項垂れてしまう。反面、金槌で殴られたような衝撃があった。脱力と鈍痛に似た衝撃が私を苛み、あらゆる力を奪い取ってしまう。

 正しかった。私の考えは、正しかった。

 しかしそれと同じく、私の誤解は大きかった。下手をすれば取り返しのつかない程に、異常な勘違いを抱いてしまっていた。

 

 彼は幻想郷の有力者を狙って、内側に潜む消滅の力を復活させようと目論む魔王の様な男では無かったのだ。自らの力に悩まされながらも、ただ友人と共に和やかな日々を過ごす事を望んだだけの吸血鬼。消滅の概念を腹の底に抱え、恐怖を無作為に捥ぎ取るが故に能動的な恐怖の収穫を必要としなくなった結果、妖怪と言う常識からは考えられない程のお人好しと化した異端のヴァンパイア。

 私の求めた奴の正体は、あまりにシンプルで平和的なもので。加えて私の罪悪感を破裂させるような、認知しがたい真実であった。

 

「本当なら、あなたにはこの真実に気がついて欲しくなかった」

 

 永琳は言う。憂いの様な色を帯びた黒曜石の瞳で、私を優しく射抜きながら。

 

「彼は消滅の概念から生じたバグ。もっと言えば、恐怖そのものが具現化した存在。故に彼は物理的な影響を受け難く、逆に精神的な要素には他の妖怪よりも左右されやすい。……つまり、」

「彼に対しての敵対心や恐怖がそのまま栄養となり、対となる親愛や好感は猛毒となる」

 

 私の回答に対して永琳は清楚に頷き、残酷すぎる真実を示した。

 これは暗に、私が誤解を解いた事で恐怖を抱く度合いが下がってしまった事が、かえって彼の命綱に刃を入れ込む結果に繋がったと言う事実を表していた。逆に皆が蛇蝎の如く嫌悪すれば、彼は命を繋ぐ事が出来る代わりに、心から望む結末を絶対に迎える事が出来ない。

 理不尽な存在だとは思っていたが、まさかここまで理不尽な境遇にあったとは。私が今までナハトに対して行って来た非道と相まって、強く強く歯噛みしてしまう。

 

「……今、その問題を解決する方法を模索しているの」

 

 永琳は、机の上にあった紙束を私へ受け渡した。紙面には、膨大な数式や魔術記号が延々と綴られている。一種の魔導書と言っても差し支えない代物だ。

 内容は、噛み砕けばナハトの人格と性質を分離するために必要な術の方程式の証明である。答えとなる術式は、まだ完成していない様子だが。

 ふと、途方もない式を眺めていたところで、ある案が脳裏に思い浮かぶ。

 

「これって、私の境界操作を導入してみればどうなのかしら。理論的には可能だと思うのだけれど」

「確かにね。でも危険過ぎる。彼は分離した概念の末端とは言え、中身は消滅の概念そのものなの。言うなれば『無の暗黒』が肉の壁に包まれている様なもの。境界操作であなたが内側に入り込めば、恐らくただでは済まない」

 

 永琳の返答に、私は永夜の晩を思い返す。

 あの時私は、彼から溢れ出す瘴気を無効化しようと力を振るった。しかし結果は惨敗。無効化するどころか、その性質の端を掴む事すら叶わなかった始末。

 であれば、更に深淵を覗けば必然的に私も呑み込まれてしまう危険がある訳で。それも、ほぼ確実に失敗に終わってしまう形で……だ。

 つまるところ、私の能力の応用による分離は無力に等しい。

 

「現状はなるべく彼との接触を断ちつつ、この式の完成を急ぐ事が最善手よ。あまり時間が無いかもしれないの」

「時間が無い、とは?」

「……信仰がどの様にして神霊や土着神に働くのか、その影響範囲は知っている?」

「ええ、勿論ですわ」

「それを踏まえて考えて頂戴。何故、彼が今の今まで幻と実体の境界による影響を受けずに、外の世界で生活できていたのかを」

 

 ――――目の前が真っ暗になった。

 彼女が何を言おうとしているのかを、察知してしまったから……幻と実体の境界を、この場に引きずり出して来たその意図を理解してしまったからだ。

 幻と実体の境界とは、私が幻想郷へ施した外との境界線である。幻想郷はこの結界と博麗大結界を軸に空間閉鎖を行っているのだが、それぞれにちゃんとした役割が存在するのだ。

 前者は、外の世界で幻となった存在を引き込む誘いの結界である。これによって外の幻が幻想郷の実体となって供給され、妖怪や物質のバランスが取り持たれているのだ。

 つまり、だ。これに影響されなかったと言う事は、彼は未だ外の世界で幻となっていなかった、と言う意味に繋がる。

 しかしそれは正確ではない。『ナハト』と言う存在は外の世界で殆ど認知されていなかった。認知されていたのは、消滅に対する恐怖――――即ち、飽和した『死への恐怖』なのだ。

 

 外の世界は技術革新が進み続けているとはいえ、精神までもが進化している訳では無い。よほどの修練を積んだ者でもない限り、大衆の精神は大昔から大して進歩していないのだ。精々価値観に変動があっただけに過ぎない。故に皆等しく死を恐れる。それが、外の世界の『消滅の概念』へ婉曲的な糧と成り、ナハトと言う吸血鬼に存在の力を与えていた。だから境界の効力から逃れる事が出来たのだ。

 だが、彼はここに自らの意思で立ち入ってしまった。強力な二つの結界を超えて、こちら側の住人になってしまったのだ。

 

 結果、何が起こってしまったのか。

 答えは、至極単純。

 

「彼は、外の信仰(・・)を全てリセットした状態で、持ち前の容積のみの状態で幻想入りを果たした……と?」

「その通り。つまり彼の中身は、最早()()()()()()しか無くなってしまっているのよ」

「……つまり、このままだと」

「ええ。大幅に削減された恐怖の供給と、外の世界では得られなかった紅魔館を筆頭とした親愛の影響で、加速的に彼は『毒』に蝕まれてしまっている」

「そう遠くない未来に、彼自身が消滅を迎えるかもしれないって訳」

「可能性は大いにあるわ」

 

 ――ああ、やはり、なんと言う事だ。

 全てが、裏目に出てしまった。私の誤解も、そして誤解を解いてしまった事も。幻と実体の境界も、常識と非常識を分け隔てる博麗大結界も。何もかもが裏目に出てしまっていた。

 博麗大結界の効果で、外の世界の非常識がこの幻想郷に溢れている。故に彼は受け入れられた。常識では無い彼は外の世界で排他される代わりに存在を繋ぎ止め、その逆である幻想郷では、外の世界と比較して紅魔館の住人や妖精などに、徐々に徐々にではあるが受け入れられてしまった。それが事の進行に拍車を掛けているのだ。

 今の状態を例えるならば、彼は呼吸が出来ない海の中に鎮座し、更に延々と毒を注入され続けているような壮絶極まりない状態である。そんな無茶な環境で存在を保てていられるわけが無い。如何に規格外な妖怪と言えども、限界と言うものは必ず存在するのだ。

 それが、概念系の妖怪であれば尚の事だろう。

 

「進行を食い止めるには、一人でも多く彼を恐怖し、嫌悪しなければならないわ」

 

 永琳は視線だけで岩をも両断できそうな、真剣な眼差しを携えはっきりと私に告げた。

 

「以前あなたに伝えたように、情報操作を徹底した方が良いでしょう。それも、彼のイメージを出来る限り最悪なものへ落とし込めるように」

「……心苦しいわね。今までの狼藉に加えて、今度は意図的に彼を蔑ろにしなければならないなんて」

「意外と傷心気味なのね。てっきりあまり気にしていないのかと思っていたのだけれど」

「これでも心豊かな妖怪ですもの。センチメンタルなラブストーリーに涙だって流しますわ」

「センチメンタルなのはお互い様の様ね。あなたは妖怪だけど好感が持てそう」

 

 そうね、その書は紫にあげるわ、と彼女は言った。

 

「私も彼に借りがある。あなたも彼には負い目がある。利害の一致よ。ここは協力するとしましょう? おそらく、私一人で事を進めるよりも早く答えが見つけられるだろうから」

「喜んで。八雲の汚名を返上する為にも助力は惜しみませんわ」

 

 書類をスキマへと送還し、差し出された八意永琳の手を取る。決意が確固たるものとして固まっていく。

 ふと。

 私の頭脳とリンクしている、藍の式に反応が見られた。同時に、彼女の言葉が直接私へと流れ込んで来る。

 

『紫様、ご報告いたします』

「手短に」

 

 一拍の間が空いて。

 藍は、衝撃の一言を私に放った。

 

『件の吸血鬼が倒れました。原因不明の崩壊が始まっています』

 

 ――――条件反射に等しかった。私はすぐさまスキマを藍の元へと繋ぎ、八意永琳と共に座標移動を開始した。彼女が居た方が事態の収束がより安全なものになると判断したからだ。

 スキマの先に辿り着く。強烈な酒気と、得体の知れない悪寒が私を同時に襲った。

 しかしそんなものは直ぐに消し飛んだ。目の前で、今まさに話していた事態が巻き起こっていたからだ。

 

 変わり果てた吸血鬼の姿が、霊峰の地に転がっていた。

 

 全身は風化した石像の様な灰褐色に染め上げられ、左腕と右足は、手足を捥がれた昆虫の様に根元から欠損している。顔に当たる部分は暗黒の空洞と化していて、五感の内頭部で司っているほとんどの器官がどこにも見当たらない。

 加えて、露出している肌の至る所へ生じた亀裂や穴から、彼の『内容物』が黒煙となって漏れ出していた。

 溢れ出る黒い瘴気の悍ましい感覚に背筋を凍りつかせられながらも、私は瞬時に理解する事が出来た。これは、先ほど萃香の三歩壊廃を受け止めたあの現象(・・・・)が起因していると言う事に。

 

 偶然か必然か、意識的にか無意識的にか、そこまで真実を手繰り寄せることは出来ないが、彼は『消滅の概念』としての力を行使したのだ。いや、力と言うよりは()()()()()()()()と言った方が正しいか。

 彼の中身は、永琳の言う通り『消滅の概念』のエネルギーが敷き詰められている。例えるならば満タンの水が入った水筒の様なものなのだ。

 つまりナハトは萃香の攻撃を受ける直前、萃香が集めた莫大なパワーを、中身を吹き掛ける事で消し飛ばしたのである。結果、エネルギーを消滅させる事に成功したのは良いものの、今まで供給を断たれていた分消費が進んでいた水筒が、更に中身を吐き出してしまったために中身の不足――即ちバランスの崩壊に陥ったのである。人間で例えるならば大量出血と同じだ。彼は今、大きなエネルギーを失った事で自らのバランスを取れなくなってしまっているのだ。

 そうであれば、今私に出来る事は一つしかない。永琳にアイコンタクトを送り、私は前へと進んでいく。

 

「萃香さ、ど、どうしましょう、これ、気が滅茶苦茶です! 一体何が!?」

「分からん! さっきまでピンピンしてたのにどうしたんだ!? この漏れ出してる奴がやばいんだろうけど、集めても集めても出てくるしっ……! っああ紫、いい所に来た! なんだかよう、ナハトの様子が変なんだ――――」

「どきなさい」

 

 中身の漏れを防ぐべく、即席の結界を施してナハトそのものを封じ込める。間髪入れずに永琳が処置にとりかかった。

 

「紫、どこでも良いわ。私と彼を閉鎖した空間へ」

「言われずとも」

 

 誰の感情(どく)にも触れない、独立した空間へスキマを通じて二人を放り込む。後は永琳に任せれば大丈夫な筈だ。月の賢人と謳われた彼女ならば、この危機を乗り越える事が出来るだろう。

 私の仕事は、事態の鎮静化か。

 

「紫、あいつの身に何が起こったんだ? 知ってるんだろう?」

「話せば長くなるわ。それに今は知る時ではありません。彼女に任せなさい」

「そんな……! あの方は無事なのですか!?」

「言ったでしょう、彼女に任せるしかないのよ。我々は今、彼に対して限りなく無力に等しい。でも出来る事はあるでしょう」

 

 取り乱している門番の妖怪を嗜め、私は紅魔館へと続くスキマを展開する。

 

「ここから紅魔館へと戻れるわ。今すぐに彼が使用していた棺を用意なさい。あなたの主人には私からもフォローを入れておきます。だから早く」

「……っ」

 

 彼女も、私に言いたい事は山程あったに違いない。歪んだ表情からは容易に察することが出来る。しかし紅美鈴はそれらを全て喉の奥に流し込んで、スキマの中へと飛び込んでいった。

 仕上げにと、私は周囲を見渡しながら。

 

「萃香、あなたはナハトに対してそれほど良い感情は抱いていないのでしょう?」

「……ん、まぁね。実力は認めているけど、あの度を越した紳士振りはどうも好きになれそうにないが……でも何で急にそんな事を?」

 

 ならば良し。萃香に書き加えは必要ないらしい。

 であれば、ここで寝そべっている妖怪たちの改変を今のうちに行っておくべきだろう。

 強い力と絶大な瘴気を目の当たりにした山の妖の中には、彼に対して強い畏敬の念を抱いた者もいる。そんな彼らの心の境界を、私は逆転させる事を決意した。

 

 敬意は不敬へ。好感は嫌悪へ。

 境界を、逆さまに書き換える。

 

 作業時間にしてほんの数秒。境界を指揮していた指を止め、私は新しくスキマを開いた。

 目的地は紅魔館。全貌とまでは行かないが、事の粗筋を彼女たちに説明せねばなるまい。

 

「萃香、後は任せるわ。藍と一緒に頼むわよ」

「……何が何だかよく分からないけど、任されたよ」

 

 あとさ、と彼女は繋げて。

 

「私がこんな台詞を吐くのは間違いなんだろうが……言わせてくれ。どうにかアイツを頼むよ。こんな形で終わりだなんて、絶対に納得できない」

「……勘違いしないで、萃香。確かにトリガーとなったのはあなたかもしれない。でも責任を負う必要はないの。むしろ私の方こそ責は重い。だからと言って今の我々では、どうする事も出来ないわ」

「……、」

「だからこそ、今は出来る限りの最善を尽くすしかない。萃香、あなたはあなたの役目を果たして」

「ああ、分かった」

 

 陽気では無い萃香の返事を背に、私は霊峰を後にした。

 

 

 

 

 

 

「…………む」

 

 暗い。

 ここは、どこだろうか。

 濃厚な樹木の匂いがする。どこか懐かしい香りだ。

 場所を探るために、暗闇の中で手を動かす。手足の感覚があった。朧げな記憶では、私は確か左腕を失っていた筈なのだが……酒に酔った夢だったのだろうか。指を動かしても、正常に機能している様だ。指先の感触も確かにある。

 夢だったのだろうと思いながら、周囲へと手を触れる。ふくよかで高貴な布の感触。ふむ。どうやらここは私が昔使っていた棺の中の様だ。大方、酔い潰れた私を美鈴が運んでくれたのだろう。起きたら何か礼をせねばならないな。

 

 蓋に手を掛け、ゆっくりと押す。ギィッと、古びた金具が動く音が鼓膜を触った。

 天井につり下げられた、紅魔館特有の魔力稼働型シャンデリアの光が私の網膜を突いた。明暗の差による影響か、僅かな光が嫌に眩しく感じてしまう。

 

 上体を起こし、周囲を見る。本棚に簡素なテーブルセット、そしてミニキッチン。疑いようも無く私の自室だ。テーブルには、山の様に見慣れない紙の束が積み重ねられてはいるが。

 棺から抜け出して、私はテーブルの紙を一枚手に取った。便箋だ。しかも輝夜からのものである。

 

「……?」

 

 妙だな。輝夜から手紙があるのは納得出来るが、何故こんなにも大量に積み重なっているのだろうか。

 一週間二週間と言う量では無い。これではまるで――――

 

「目が覚めたのね」

「……パチュリーか」

 

 今の今まで気づかなかったが、本棚の影に椅子と共に隠れていたパチュリーが、ハードカバーを閉じる重厚な音と共に私へ声をかけて来た。

 何故ここに、とパチュリーへ問う前に、私は彼女から得体の知れない違和感を感じ取った。私を見据える彼女の目がどうにも不思議な、場の空気に似つかわしくない奇妙な色を湛えている事に気がついたのだ。

 例えるならば、古い知人と久方ぶりに顔を合わせた者の表情と言ったところだろうか。

 

「おはようならぬ、おそようになるのかしら。妖怪は人間と比べて時間に無頓着な存在だけれど、随分長く眠っていたものね」

「……、」

 

 彼女の言葉と態度、そしてこの異様な量の便箋たち。

 目と耳で掬いとれる怪しげな要素が、とある仮説を私にもたらした。それは私の中で水泡の様にフワフワと浮上しつつも、確かなものとなって表出を始めてくる。

 思わず、声が低くなった。

 

「パチュリー。私は、どのくらい眠っていたのかい?」

「そうねぇ」

 

 指を丁寧に折りつつ、彼女は数字を数えていく。

 

「あなたが唐突に眠りへ就いたのが、第119季の秋だったわ」

 

 嫌な汗が、背中へじわりと滲んでいった。

 

「そして今が、第123季の晩夏になるから」

 

 彼女のアメジストの様な瞳が、てらてらとシャンデリアの光を反射し、妖しく光る。私はそれに魅せられる様に、パチュリーから視線を外す事も、耳を塞ぐことも出来なくて。

 私は、彼女の口から決定的な言葉を耳にしてしまう。

 

「約4年間、その棺の中で眠り続けていた計算になるわね」

 

 

 

 

 

 …………………………………………………………………………。

 

 なん……だと?

 

 


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