私が起こした月の使者の通り道を封鎖する異変は、案外呆気ない形で幕を下ろす事となった。
決まり手は、鬼の様に弾幕戦の強い巫女と半人半霊の剣士による抜群のコンビネーションによって、私が弾幕戦で2回目の撃墜を迎えた後の事だ。唐突に背後で彼女たちの活躍を見守り、時たまに援護を行っていた大妖怪―――八雲紫が、私に異変を起こした意図を尋ねて来たのだ。
私は素直に自身の目的を教えた。その状況下では隠したところでさほど意味は無いし、なにより私が生成した偽の月の空間に誘い込んだ時点で勝利は確定していたのだ。時間稼ぎの利点も鑑みると、ひた隠しにする理由など無いも同然だろう。
そして私の計画を聞いた紫さんは、偽の月による幻想郷の密室化は意味の無いものだと、私にとある理論を述べ始めた。
幻想郷を管理しているらしい彼女曰く、博麗大結界は偽の月の密室と同じように幻想郷を隔離する効力を持っているらしく、私が術を行使しても密室を密室で囲うだけとなり、結局のところ異変を起こした意味は無いと言うものだった。彼女は証拠にと小規模の二重結界を不思議な能力で生み出し、偽の月の光を用いて実験したところ、彼女の弁は正しいと証明され、月を奪っておく理由を失った私は素直に投降する事となったのである。
そして少しばかり巫女に怒られて、今に至る。
月が戻り、夜の進行を妨げていたらしい紫さんの術も解除され、元通りとなった夜空を私は誰も居ない永遠亭の庭先で見上げていた。
優曇華や輝夜が月の民に連れ去られる危険が消滅した今、気がかりなのは私が彼に依頼した件の結果のみだ。
彼には残酷な事を強いてしまったという自覚はある。私は、輝夜を真に友人として欲していた彼に自ら縁を切らせるよう仕向けたに等しいのだから。
依頼をする際彼と直に話をして、彼が本当に悪意の無い妖怪だと気づいてしまったからこそ、罪悪感が胸の内で確かに成長した感触があった。恐らく彼もそれを理解した上で承諾してくれたのだから、尚の事罪の意識は強まり、柄にも無く憂鬱な気持ちになる。
私が彼を、輝夜の精神を蘇らせる『起爆剤』として用いたのにはちゃんとした理由がある。それは彼の素性と言うべきか、ルーツがもたらす力……彼にとっての弊害が、蓬莱人に有効だったからだ。
蓬莱人は恐怖を覚えない。恐怖とは全て、根源的に死を前提として育まれる感情だからである。
外敵に襲われると死亡するから、生き物は敵を恐れる。毒を飲むと命尽きるから、生き物は毒を嫌う。逆らえば生きていけないから、社会性を持つ生物は上位の生き物には逆らわない。
それらの習性の根本に伴うのは恐怖だ。そして恐怖があるからこそ、感情を持つ生き物はより効率的に生き延びる事が出来る。しかし蓬莱人はこの世で死と最も関わりの無い存在である。故に恐怖を持たない。いくら人格を保とうとも、他の全ての感情を保有していようとも、恐怖だけは確実に失われてしまうのだ。かくいう私も、恐怖だけは完全に失くしたと思っていた。
しかしそんな蓬莱人に、恐怖を覚えさせた―――否、恐怖を呼び起こさせた彼は、その感情を下火にして、乾ききった心を再発火させるのに最も適していた。それ故に私は、最後の望みを賭けて彼との交渉に出たと言う訳だ。
だが、ここで一つ疑問が浮上してくるだろう。恐怖を失くしたはずの蓬莱人にまで、何故彼の瘴気が有効なのか? と言う点だ。
答えは、彼を構成するもの―――いや、厳密には彼の出自そのものにある。
この世全ての存在には、ありとあらゆる経過に分岐しているとはいえ、遍く終わりが存在する。そしてそれこそが、この世で最初の恐怖の源だと言って良い。
森羅万象を創造した八百万の神々も、神に対抗する暴虐の化身たる悪魔も、等しく皆消滅を恐れた。しかしその恐れは死に対するものではない。魂となって安息を迎えられる死ではなく、存在の消滅を恐れたのだ。
そうして恐怖と言う感情がこの世に生み出され、それが気の遠くなるような永い間、あらゆる知的存在の中で継承されていった。結果、確かな形を獲得し、不安定な輪郭が形成されると、恐怖と言う絶対確実な『概念』が、人の思想から妖怪の種が芽吹く様にして産み落とされてしまったのだ。
消え去り、無になると言う不可避の恐ろしさが生まれてしまったからこそ、消滅と言うこの世全てが確実に迎える終焉が、確かな存在として概念上に生み出されてしまったのである。
消滅の概念は、概念であるからこそ現世にも幽世にも直接的な効果は無い。けれどそれは確かに実在していて、そしてそれは八百万の神々だろうが何だろうが、最終的には全てのものへ平等に降りかかる存在となっている。
ここで結論を言おう。彼は、永劫の時を経て生まれた恐怖そのものの概念から、バグとして生まれてしまった異形である。
何の因果か、運命の悪戯か。おそらくここ数千年ほどのごく最近に、ただ存在していただけの概念が本来有り得ないバグを起こす形で、奇跡的に人格を形成した。人間の思想が集まって妖怪が形を成すように、あらゆる生き物の根源から発生した消滅の恐怖と言う根っこから、『ナハト』と言う人格が生まれてしまったのである。
しかし概念そのものが実体化すれば、近くにあるもの全てに甚大な被害が訪れる。いや、被害なんてものは生温い。それと相対し接触するだけで、問答無用に消滅を迎えてしまうに等しいのだ。
だからこそ生まれてしまったバグは、現世で活動する為に妖怪と言うレベルまで無意識下に格を落とした。そして妖の特性を手に入れた人格は、生命の象徴たる血を啜り、人間の恐怖の源となった夜の闇を生き、魔としての象徴を掲げる絶対的な『禍々しいもの』としてこの世に降り立ったのである。
もっとも、概念の破片から生まれた性質上、象る『素材』は凄まじいものであれ、他の妖怪と同じく記憶も何もない、人格だけの真っ新な状態として生まれた様子だ。彼に自分が何処でどの様にして生まれたのか覚えているかと聞けば、気がついた時にはそこに居たと言っていた点から察する事が出来た。
それが彼のルーツ。彼自身も知り得ない、太古の昔からあらゆるものを目にした私だけが気づく事の出来た、ナハトと言う男の生誕秘話だ。
幸いな事に、彼を初めて見た時に私が懸念した、消滅の特性を用いられ蓬莱人すらも問答無用に終わらせられてしまうのではないかと言う心配は、今では完全に霧散している。吸血鬼の特性を持った、言うなれば亜種とも呼べる枠にまで格を落としたせいなのか、彼を構成する素材が放つ瘴気は、見る者全ての恐怖を呼び覚まさせるだけに留まっているからだ。それが他の感情と混ざり合い、印象として表面化する事で、畏怖などの様々な色を持った感情が芽生えてしまう現象が、彼を目にしただけで精神を揺さぶられる原理だろう。この力に名を着けるとすれば、差し詰め『恐怖を呼び起こす程度の能力』と言ったところだろうか。
これが、彼の力が我々蓬莱人にまで及んだ理由なのだけれど……何の因果で、あのような温和な人格に生まれてしまったのだろうかと、思わず世の不条理さを恨みそうになる。彼が極悪非道の、それこそ悪魔の様な性格であれば、どれだけ気が楽だったことか。
ソレを懸念してしまうせいか、どうしても、この胸の内に生まれたしこりを取り除くことが出来なかった。
何故なら、何故なら彼は――――
「永琳」
不意に背後から投げかけられた声に反応して、私は静かに振り返った。そこには霧状の黒い靄がたちこめていて、徐々に徐々に人の形へ整えられていくと、あの青年の姿と成って現れた。まどろっこしい登場の仕方をしたのは、おそらく限界を超えた恐怖により反射的に放たれた輝夜の一撃に爆砕され、そのままの状態を保っていたからだろう。
「探したよ。どこに行っていたんだ?」
「異変解決の専門家達と、少し別室でお喋りを。時間を取ってしまってごめんなさい」
「いや、別に良いんだ。……君に頼まれた件、どうやら成功したようだよ。輝夜の心は活性を取り戻した。後は手筈通り、妹紅と君がケアをすれば完全に『人間』へと戻るだろう」
「……ありがとう、本当に」
ただ形に現さざるを得なくて、私は頭を下げようとしたが、よしてくれと彼に手で制されてしまう。
それでも彼には、感謝をしてもしきれない。私ではどうする事も出来なかった輝夜の心を、再び蘇らせてくれた彼には、例えどれだけ頭を下げても足りないだろうから。
ただ気になる所が、今更ながら一つだけ。
「一つ聞いて良い?」
「何かな」
「どうしてこの頼みを承諾してくれたの? 私が言うのはお門違いだけれど、貴方にメリットなんて欠片も無いと分かっていた筈なのに。むしろデメリットしかなかったと言うのに」
恐怖を利用して、凍結した心を起爆し解凍する方法。一歩間違えれば深いトラウマを心に刻みかねない諸刃の剣であり、そしてそれを実行に移すナハトへの信頼性が極端に失墜する、まさに荒療治と言う奴だ。
それを理解した上で、彼は依頼を承諾した。その理由が、私の頭の中にずっと引っかかっていたのである。
ふむ、と彼は頷いて、夜に溶け込むような穏やかな口調で、言の葉を導き出した。
「輝夜には、夢を見させてもらったからね」
「夢?」
想像していなかった返答に、思わず私は鸚鵡返しをしてしまう。てっきり、借りを作らされるだろうと考えていたのだけれど。
彼はどこか満足している様子を見せながら、話を続ける。
「そうだ。知っての通り私は昔から、この不条理な魔性のせいで孤独でね。家族以外と和やかな団欒を過ごした事なんて無かったのだ。例え心が壊れていたとしても、彼女は私と対等に接してくれて、夢を見せてくれた。その恩返しさ。私が嫌われるだけで彼女がもう一度、本当の心で世界を見る事が出来るのならば、天秤にかけるまでもない。元より怯えられるのには慣れている」
―――一周回って、正気かとさえ疑った。ハッと我に帰る様に言葉の意味を呑みこんで、私は思わず歯噛みする。
本当に、本当に人の良い妖怪だ。普通ならば、赤の他人からあの様な面倒極まりない頼みを託されたところで、わざわざ聞いてくれる訳が無いのに。ましてや彼の目的が友人を作る事それ一筋ならば、人から嫌われる様な行動は絶対に避けるべきなのだから。
それなのに彼は実行して見せた。一時の夢を見せて貰ったと言う、あまりに儚いちっぽけな理由だけで。
ギリッ、と無意識の内に拳へ力が籠った。凄惨な真似を強いてしまった私自身への嫌悪感と、彼の今後に纏わりつく、残酷すぎる運命を前に。
「……それじゃあ、私は帰るとするよ。世話になったね」
「こちらの方こそ……よ。本当に、ありがとう」
彼は踵を返して、竹林の出口を目指して歩を進めた。私はその背中を、ただ見つめることしか出来ない。引き留める事は許されない。それだけはしてはいけない。
しかある程度進んだところで彼は立ち止まると、徐にこちらへ振り返った。
「永琳」
「何?」
「もし、もし良ければだが、またここに来ても良いだろうか? 例え嫌われているとしてももう一度輝夜と話をしてみたいし、出来れば君とも――――」
「駄目よ」
私は、彼の細やかな願いを無慈悲なまでに両断した。
…………両断せざるを、得ないのだ。彼の特性を、彼の今後を考えるならば、人との接触を推進するような真似をするべきではない。
それが、例え彼を踏みにじるような残酷な判断であるとしても。
私は、心を鬼にしなければならないのだ。
「絶対に駄目。今後貴方がここの敷地へ足を踏み入れる事は許さないわ。姫とも、優曇華とも、てゐとも―――私とも関わる事は許さない」
「…………それは、一体何故? せめて理由を教えてくれ――――」
私は術を用いて手元に弓矢を呼び出すと、彼の眉間へ向けて寸分違わず矢を射った。威嚇のつもりなど毛頭なく、完全な軌道を描いた矢は豪速で空気を切り裂きながらナハトへと襲い掛かる。
彼もまた、魔力で形成された剣を生み出し矢を弾いた。その表情は困惑の一色に染まり切っていて、彼の口から語られずとも、私の行動に対する疑問で一杯だと容易に把握できた。
「……永琳」
「帰りなさい。今なら見逃してあげる。次は無いわ」
辛辣な言葉の刃はブーメランとなって、私の心に突き刺さる。それを、この様な仕打ちを恩人へ執行してしまっている自分への罰だと甘んじて受け入れ、奥歯を砕かんばかりに噛み締めた。
彼は私の只ならぬ雰囲気を感じ取り、交渉は無駄だと判断したのか、暗い表情を浮かべて背を向けた。ザクザクと、段々足音が遠ざかっていく。
彼の姿が竹林の奥に消えたのを見届けて、私は弓矢を乱雑に投げ捨てた。
「……ごめんなさい」
誰の耳にも聞こえない謝罪の言葉を、吐き出さずにはいられなかった。致し方の無い事とは言え、こんな仕打ちで報いてしまった自分を責めずにはいられなかった。
彼の存在は、恐怖によって成り立っている。ルーツが恐怖の概念そのものであり、その欠片から生まれた彼は、他者の恐れなしには生きていけない。だが自動的に恐れを量産する能力である為に、人間生まれの妖怪の様に暴虐の限りを尽くすなどして畏怖を捥ぎ取る必要が無いせいか、彼は酷く温和な性格をしている。それ故、積極的に恐怖を得ようとはせずむしろ友人を求めている程なのだが、それが結果的に自分の首を絞める事態へと繋がってしまうのだ。
彼は物理的に消滅する事は決してないだろう。死や狂気と言った性質を持つ月光とは逆の性質の太陽光を浴びて灰になったとしても、恐らく夜になると暫くの時を経て復活する。物理的な要素には、他の妖怪以上に強力なはずだ。精神面に大きく存在の比重を傾ける妖怪が、更に比重を傾けているようなものなのだから。
だがその反面、他者からの親愛の情は彼にとって、この世のどんなものよりも恐ろしい猛毒となる。
要約すると、つまり。
彼は友達を作れば作るほど、他者から親愛の情を集めれば集めるほど、自らの身を蝕んでいき、やがて死―――消滅にまで至ってしまうのだ。
しかも性質上、精神的な要素……即ち親愛に対して凄まじく相性が悪いせいで、どれだけの者達と友好を育めば存在を保てなくなるのかが分からない。例え存在を維持したとしても、弱体化した肉体を誰かに攻撃されるような事態に陥れば、蝋燭の火を吹き消すように容易く壊れてしまうだろう。
私は、恩人を死に追いやるような真似はしたくない。例えそれが彼の望まない結末であるとしても、彼の死に加担する行動こそが、一つの心を―――命を救おうと身を粉にして動いてみせた彼に対する、最大の裏切りに他ならないからだ。
私に出来る事はこの真実を伏せて、彼が家族と称した者達と、少しでも長い時間を過ごせるようにする事。ただそれだけだ。それ以外に、彼にしてあげられることは現状何もない。もしこの真実を知ってしまえば、彼は間違いなく絶望するだろう。心の底から欲する友人を作れば作るほど、自らの寿命を破壊し友人と過ごす時間が壊されていく事に繋がるのだから。最悪の場合、夢や希望を絶たれた彼の存在が崩壊する危険性がある。脆弱な精神の持ち主ではない事は百も承知だが、時として希望を絶たれると言う行為は、何重にも祝福や祈祷を捧げた退魔の札を張り付けられるより恐ろしい効果を妖怪に及ぼしてしまう。不確定である以上、無暗に伝えるべきではない。
これから私に出来る事は、この頭脳に内包された全ての知識を全力をもって使役して、彼の性質を、彼の人格から引き剥がす手法を探しだす事だろう。
そうする他に、彼に対する罪を贖う道は無いのだと、私は強く決心を固める。
だからこそ、どうしようもなく歯がゆくて。
こんな歪みに歪んだ行動でしか、現状彼に報えない不条理と無力さが恨めしくて。
私はただ唇を引き絞りながら、呆然と夜空を仰ぐことしか出来なかった。
◆
永琳から矢を放たれ、永遠亭を追い出されてからも私は、どうにも歩く気力を削がれて竹林の中を呆然と佇んでいた。ぶっちゃけてしまうと泣きたい。もう夜明けを待って灰になってしまっても良いかもしれないと思い始めている自分が居る。
思い切り怖がらせてくれと、輝夜から私が忌避される事を前提とした永琳の依頼を承諾した時から覚悟してはいた事だが、正直な所、予想の上をさらに突き抜ける勢いで拒絶されてしまったので、流石の私もノーダメージと言う訳にはいかなかった。ほんの少し……ほんの少しだけ、挽回できる機会を恵んでもらえるかもと思っていたのだが、やはりそう簡単な話ではなかったらしい。もっとも、演技とは言え全力で脅しにかかった私に対して輝夜が好意的に接してくれる可能性はゼロに近いのだから、挽回したところで意味は無いと言えば無いのかもしれないが。
しかし永琳の逆鱗に触れてしまった点を考えれば考えるほど、何がいけなかったのかが分からなくて思わず熟慮してしまう……が、ああ平常通りに全部か、と直ぐに結論が出てしまって一層気が沈んだ。魔性による効力もさることながら、演技であっても彼女の大切な姫をトラウマ一歩手前に至るまで脅したのだ。私に嫌悪感を抱いても仕方のない事なのかもしれない。
明確な答えが欲しくても他人の心の内は当人にしか分からないのだから、こればっかりは推測を浮かべるしか方法が無いのが残念だ。
ポジティブに考えれば、とても聡明な彼女の事だから何か考えがあった上で私を拒絶したのかもしれないが……残念ながらその理由に皆目見当がつかない。つまりその線は限りなく薄いと言う事では無かろうか。
そしていつもの事かと割り切れてしまいそうになる辺り、何だか私に友達が出来ない要因が色濃く目の前に映し出されたような気がした。
うーむ、悩ましいがやはり今までの様に行動する方針では駄目なのだろう。積極的に他者と接して受け入れてくれる者を探す様な、例えは悪いが下手な鉄砲数撃ちゃ当たる作戦が効果を成さないのであれば、別の作戦を考えなければなるまい。
私が直接赴けば悉く失敗していると言う点を考えると、直接会わない方法―――つまり接触以外でイメージアップを図り、第三者からの言伝で好印象を広げていく方法はどうだろうか。例えば幻想郷のボランティアに参加して、私がただの幻想郷好きのおじさんなのだと周知されるよう頑張ってみたり――――
「…………、」
幻想郷のボランティアってなんだ?
自分で言い出しておいて酷く頓珍漢なアイディアだなと、思わず溜息が出てしまう。ここは自然と妖怪と人間が良い均衡を保って生活を営んでいる楽園だ。ゴミ拾いをするために無料で募集を掛けている所なんてある筈がない。と言うよりは、そもそもボランティア等が行われている場所は人間や一部の妖怪などが固まって暮らし、十分な社会が成り立っている地域に限られる。そしてそんな地域は幻想郷内で考えると、人里以外に私は知らない。そこでボランティアをしようものならば、逆に私を排除するボランティアが出てくる事など考えるまでも無いだろう。
では、私が表にほとんど出ないスタイルの飲食店を開くと言うのはどうか。美味しいものは人の心を和ませる。店を好きになって貰えば私に対しても好感触を持ってもらえるかもしれない。
…………と考えたところで、私が表に出ないにあたって必然的に接客の代わりを担う店員が必要になってくる訳で、そして店員を得る事そのものが非常に厳しいと気がつき、私は思考を放棄した。これ以上考えるとドツボに嵌り続けてしまいそうだ。
こんな所で考え続けても仕方がないか。今は取り敢えず紅魔館へ帰還して、休養しつつじっくり考えていく事としよう。幸い、時間だけならたっぷりと持て余しているのだから。
と。
そこで私は、周囲に起こっている異変に気がついて、動かし始めた足を再びその場に縫い留めた。
止まっているのだ。無論私ではなく、周囲の全てが。
今までそよ風に揺られていた竹がピクリとも動いておらず、それどころか隣に落下しかけていた笹の葉が空中で動きを停止していた。よく目を凝らせば、竹林全体を覆っている霧が全く流動していない。まるで時間が止まっているかのように。
何者かの能力によって空間を切り取られたのかと勘繰って、私は周囲を見渡した。そして背後を確認したその時、私は驚愕に目を見張った。
目の前に居る筈の無い少女が、私を拒絶している筈の輝夜が。悪戯っ子の様な笑みを浮かべて立っているではないか。
「あら、驚かないのね」
「………………、どうしてここに君が?」
「あ、それで一応驚いてたのね」
「何故私の追ってきている? 君は私に嫌悪を抱いているのではないのか?」
「なんで?」
「なんで、と言われてもだな。私が君にしたことを忘れた訳では―――」
「忘れてなんかないわ。でも、あの後全部を把握したのよ。何故温厚だった貴方が、突然人が変わったように私を怖がらせたのかをね」
……成程、妹紅か。錯乱状態に陥っていた彼女が、そう易々と平常心を取り戻して真実を見極められるわけが無い。ケアを任せた妹紅から、今回の顛末を耳にしたのだろう。私が永琳の依頼を受けて動いていた身の上なのだと。
恐怖を植え付けられた輝夜は、それを知ったとしても傷つきもう二度と私と会おうとはしないだろうと考えていたが、その予想は外れたらしいと目の前の少女が物語っている。
彼女は、私を半ば捲し立てるように話を再開した。
「もしかして、アレがトラウマになって私があなたを怖がると思った? それ半分正解。確かに今あなたが、会った時よりも断然怖い。けれどそれは、私の心が平常値にまで戻ったからこそ感じられているものよ。幾ら怖くても、その事実を度外視するほど目は腐ってないわ。と言うより、あなたのお蔭で目が戻ったと言った方が正しいのかしらね」
お蔭で何だか清々しいくらいよ、と輝夜は言った。出合った時に比べると淑やかさが薄れているが、明らかに活気に溢れるその様子こそが、本来の輝夜のものなのだろう。
荒療治が成功していることは喜ばしい事だが、余りに予想外過ぎる展開を前に、私は困惑の渦へと巻き込まれてしまった。周囲の全てが静止した異様な空間も相まって、私はパラレルワールドに移動してしまったか、幻覚を見せられているのではないかと勘繰ってしまう。
しかしどれほど混乱しようとも、はっきりとした玉虫色の声で訴えられては、これが現実なのだと再認識せざるを得なかった。
「だからこそ、私はあなたにちゃんとお礼を言いたい。私に嫌われる事を覚悟してまで、永琳の頼みを聞いてくれたことに。あのままだと多分、私は私の形をした『蓬莱人』のままだったと思う。どんな形であれ、どんな過程であれ、あなたは私を戻すきっかけを作ってくれた。それの何に引け目を感じているの。別にあなたは何も間違えてなんか無かったじゃない。あなたは永琳の頼みをお人好しに受諾して、それに応えただけ。そしてそれが私を戻すための行動だったのだもの、一言くらい言っておかなきゃ気が済まないわ」
直後に、彼女は満天の星空の様に微笑んで。
「―――――ありがとう、ナハト」
ただ簡素に、しかしこれ程までに無い想いを込めたと言わんばかりの感謝を、彼女は柔らかく私へと手渡した。
その表情は、この世のものとは思えない、花よりも美しき可憐な微笑みで。本来その笑顔を向けられる立場に無いはずの私が、その笑顔を目にしても良かったのかと、疑ってしまう程のものだった。
事態について行けず、硬直した私を尻目に彼女は続ける。
「それともう一つ。ナハト、あなたは難題を乗り越えて見せたわね。生きながら死んでいる存在……私の形をした『蓬莱人』を殺し、心も生きる人間へと戻す事で」
だから、約束は守らなきゃねと彼女は言った。私は耳を疑い、目の前で濁流の如く急変していく現実を受け入れる心構えすら弾け飛んだ。
なよ竹のかぐや姫と称されるに相応しい優美な足取りで、少女は私に手を伸ばす。
「改めて、私と友達になってくれる?」
―――無意識の内に、その手を受け取ってしまいそうになった。
だが寸での所で、私はその手を引き留める。
拒否している訳では無い。むしろ願っても無い申し出だ。この言葉を、一体どれほどの時間の中待ち焦がれたことか。二つ返事で承知したいのは当然の事、すぐさま両手を空に突き出して、この言い知れぬ高揚と喜びを高らかに表現してしまいたいほどだ。
しかしそれは残酷な事に叶わない。永琳に、私は輝夜とも交流してはならないと宣告された。私が処断されるのは良い。けれど永琳が友好関係を知り、私との友好を絶つために輝夜の行動が制限される様な事になれば堪ったものではない。人の自由を奪ってまで、私は―――
「永琳の言葉が引っ掛かってるんでしょ?」
輝夜が放った、私の考えを見透かしたその言葉に、思わず息を詰まらせた。
「聞いていたのか」
「ええ。私、物凄く平たく言ってしまえば瞬間移動と時間停止が意のままに出来るからね。これが意外と永琳に気付かれないよう移動したり、盗み聞きするのに使えるのよ」
ちなみに今、あなたと私以外の空間を永遠に固定しています、と輝夜は自慢げに胸を張る。
「まぁ確かに、あなたの危惧している事は分かるわ。永琳結構過保護だからねー、そうなっても不思議じゃないと思う」
「では、尚の事避けるべきではないか。君は折角、様々な事を楽しめるようになったと言うのに――――」
「そこで私に良い考えがあります」
彼女は袖の中から、徐に紙を取り出した。それは便箋だった。彼女が封を開いて中を見せれば、そこには一枚の綺麗な和紙が折りたたまれていて。
分かる? と彼女は笑ってみせた。
「友達ってあなたが考えてるほど重たいものじゃないし、色々なタイプがあるのよ。だから永琳の目を効率的に掻い潜りかつ友達になるには、これが一番適していると思うわ」
「それは、一体なんだ?」
「あなた、変な所で鈍いわね。これはつまり」
これまたどこに仕舞ってあったのか、彼女は毛筆と墨の入った入れ物を袖の奥から取り出せば、便箋の中の紙にすらすらと、何やら文字を書き記していく。
そして出来上がった便箋を、彼女は私に見せつけた。そこには見惚れるような達筆で『拝啓、ナハト殿』と書き記されていて。
彼女は高らかな声と共に、私へ再び手を伸ばした。
「私と文通友達になりましょうって事よ!」
―――――この夜を境に、定期的に鈴仙と言う名の兎妖怪が、薬売りの名目で紅魔館を訪れるようになり。
私は竹林に住まう友人と、文通と言うものを始める事となった。
幾らかやり取りをして知った事なのだが、あの日を境に彼女は積極的に外へ出て、人間の里と交流を持つようになったらしい。時折現れては子供たちに昔話を語らうお姫様として、大層有名になったそうな。
◆
「なーんかちょっと見ないうちに面白そうなヤツが入って来てるねぇ。こりゃあもう、眺めるだけなんて無理ってもんさな。ようっし! 私が腰を上げるっきゃないね! 久しぶりに楽しめそうだ。にゃっはっはっは!」