苦手なかたはご注意下さい。
万事が万事うまくいく、とは、なかなかいかないものだ。
楓首相は、つくづくそう痛感していた。
遠い日本にいては打てる手などほとんど無いにしろ、何か出来なかったものかとも思う。
いや、よそう。
なまじ権力を手にしてしまうと、ありもしない全能感に浸りたくなってしまう時がある。
そう言う時は、何かに足を取られかけている時だ。
経験上、楓首相はそのことを良く知っていた。
首相の座に就いて4年目になろうと言う今日、ここに至って躓くわけにはいかない。
『それにしても、意識を取り戻したと聞いて心底ほっとしましたよ』
楓首相の声は車椅子から発せられる電子音声だが、それでもその声には温かさがあった。
それだけ、今の言葉が本心と言うことだろう。
何しろ楓首相が見舞っている相手は、楓個人にとっても、日本にとっても重要な人物なのだから。
『北さん』
「……正直、自分でも良く生きていたものだとは思う」
横須賀の特別病棟の一室で、2人は面会していた。
病室には楓首相と北しかいない、北はまだ傷が癒え切っていないので、ベッドの上で身を起こしている状態だった。
それでも数ヶ月前、海岸で霧の攻撃を受けた時に比べればずっと良い状態だった。
「それで、私が意識を失っている間……世界は、どうなった?」
『はい、今日はそのことについてお話するために参りました』
正直、どうして霧が北を攻撃したのかは未だにわかっていない。
ほんの数ヶ月の間、北を国の中枢から引き離すことに何の意味があったのだろう。
確かに与党幹事長の職は他に移さざるを得なかったので、その意味では痛かったが。
ただ、霧がそんな
何か意味があるはずなのだが、その何かが見えないのだった。
『まず、イ号艦隊の件です』
「……うむ」
イ号――千早紀沙――の名前を聞いて言葉少なになる北に、楓首相は小さく笑った。
言葉には出さないが、目を覚まして最初に気にしたのはおそらくそのことだっただろう。
ただ、楓首相としては他にも話しておかなければならないことが多くあるのも事実だった。
千早紀沙達、イ号艦隊のこと。
アメリカやロシア、ヨーロッパ諸国との関係。
緋色の艦隊、いや霧の艦隊や<騎士団>のこと。
あるいは、『白鯨』は響真瑠璃、刑部博士や眞首相のこと。
そして……人類に降りかかった、新たなる脅威のことを。
◆ ◆ ◆
まさに茶番だ、と、マルグレーテは思った。
場所はポーランド首都ワルシャワ、時刻は夕食の鐘がなる少し前だ。
無数のカメラのフラッシュが視界を潰しにかかってくる中、マルグレーテは記者達の前でふんぞり返っていた。
「今日、皆さんに勝利の報告が出来ることは何よりも喜ばしいことだ」
まぁ、ふんぞり返っているとは言っても、要は記者会見の席に並んで座っているだけだ。
何しろ作戦のメインはロシア軍――と言うことになっている、一応――であって、説明もロシア軍の将軍が行うのだ、マルグレーテにやることは無い。
まさか、マルグレーテを指して質問をする記者もいないだろう。
<クリミアの三将軍>。
クリミアでの対<騎士団>作戦において独米露軍の司令官の3人を、メディアはそう呼んでいるらしい。
いわゆる英雄として扱われているわけで、おそらく政治の意向も働いているのだろう。
正直に言えば、鬱陶しいことこの上無かった。
可愛い部下達は「英雄女帝って呼んで良いスか!?」とか言っていた、殴った。
「
「わかってる。我慢するよ」
後ろに立って控えていた
こんな場は正直に言って嫌いだが、だからと言って放棄するわけにもいかない。
自分が今やドイツ軍きっての将軍なのだと言うことを、聡明なマルグレーテが理解できないはずが無い。
ただ、それでも我慢できないことと言うのもあるのだった。
(
記者達の無遠慮なフラッシュは我慢しよう。
ロシアの穴熊将軍の勝ち誇った演説も我慢しよう。
新聞紙上に「誰だコイツ」と言うような自分の人物像が書かれるのも我慢しよう。
しかし、軍人として
(オレらは、
少なくとも、あの戦いは勝利なんて呼べる代物じゃなかった。
百歩、いや万歩譲って勝利だったとしても、それはマルグレーテ達の勝利では無い。
誰かから与えられた勝利に、いったい何の意味があるのか。
ましてマルグレーテら人類軍は、たかが十数両の<騎士団>に手も足も出なかった。
連合軍は、脇役にすらなれなかった。
それどころか、クリミアでの出来事は「<騎士団>の自爆」と言うことになっている。
現地部隊には緘口令が敷かれている、真実は伏せられているのだ。
もちろん、人の口に戸は立てられない、どこかから漏れはするだろうが、とにかく政府と軍の姿勢はそう言うことになっている。
(名はオレ達、実はアイツら……か)
忘れはすまい、この屈辱を。
だが2年後を見ていろと、マルグレーテは思った。
次の戦いこそが人類にとっての本番となるのならば、そこで雪辱を果たしてみせる。
そしてマルグレーテは、一度決めたことは必ず成し遂げる女だった。
◆ ◆ ◆
エジプト沿岸にまで達すると、水温が一段と上がるのを感じた。
外の気候も同様で、空気が乾き、太陽も不思議と高くなったように感じる。
今が2月で無ければ、もう少し涼しかったかもしれない。
「それではの、我らの見送りはここまでじゃ」
ポートサイド――あの有名なスエズ運河の地中海側の入口――まであと20キロと言う地点で、『ダンケルク』はそう言った。
別に頼んでいないのだが、『ダンケルク』ら地中海艦隊はイ号艦隊をエジプトまで護衛航行した。
繰り返して言うが、別に頼んだわけでは無い。
彼女達が勝手にやったことなのだ。
そして今も、『ダンケルク』のメンタルモデルは紀沙や群像の前で極めて友好的な態度を示している。
彼女は霧の地中海艦隊の旗艦と言うことだから、それは霧の一方面艦隊が味方になったと言っても過言では無い。
もはやヒュウガやトーコのような1隻2隻の
「ここから先はインド洋艦隊との中立地帯になる。今さらかもしれんが、霧の中で無用な緊張を作るわけにはいかんからな」
「ああ、理解している。ここまで案内してくれれば十分だ」
「何、黒海艦隊の仇を討ってくれたのじゃ。このくらいせねばバチが当たる」
並んで浮上しているイ401とイ404の間に、『ダンケルク』のメンタルモデルが浮遊している。
『ダンケルク』の艦体の方は、甲板の手すりからこちらを見下ろしている人々が見える。
イタリアの民兵が大半と言うことだが、今後の霧はああして人間と共存していくのだろうか。
「それでは気をつけて。『フッド』の呼びかけも無い今、インド洋艦隊が無闇に敵対行為に出るとは思わんが、海では何が起こるかわからんからな」
紀沙は、『ダンケルク』の話をほとんど上の空で聞いていた。
何と言うか、現実感が無かったからだ。
霧の正規艦隊とこんなにも友好的と言う状態が、どうしても馴染めなかった。
これは、違うだろう、と思う。
「だが忘れないでほしい。何が起こったとしても、
それとも、こう言うことなのだろうか。
あの戦いの後、父・翔像が言っていたことは。
2年の後、来るべきその時の世界のあるべき姿、大戦略。
その姿は、こう言うものなのだろうか……?
◆ ◆ ◆
クリミアの戦いの後、翔像は群像と紀沙に言った。
「『ムサシ』は、オレを信じて逝った」
悲しいとか、寂しいと言う様子は見せなかった。
ただ、喪失感は隠しようも無かった。
そして意外なことに、翔像の傍に『ムサシ』がいないと言う事実に、最も強い違和感を感じたのは紀沙だった。
霧の因子を持つ紀沙の方が、『ムサシ』の存在感を大きく感じていたのかもしれない。
だから、いなくなった、その事実を強く認識したのだろう。
喪失感とまでは言わないが、穴が開いたかのような気持ちになっている。
「あの子は人間が好きだった。霧の中で一番だったろう」
少し、意外かもしれないが。
実を言うと、『ムサシ』の方が『ヤマト』よりも人間に融和的だった。
それは『ムサシ』が人間を乗せていて、『ヤマト』が乗せていないと言う事実からわかる。
『ヤマト』の方が
その違いが17年前の決裂、そして今の結果の違いをもたらしたのだ。
「……それで、これからどうなるの?」
そこまで洞察した紀沙ではあったが、だからと言って口に出したりはしない。
第一、翔像や群像がそのことに気付いていないとも思えない。
なおのこと、わざわざ言う必要は無い。
それよりも、今後のことが重要だった。
「オレはこのまま大西洋に残る。張子の虎でも『ムサシ』の
「そして、2年後の
「そうだ」
「……和平の道は無いのか? 親父」
「お前達も見ただろうが、
霧も、人類と意思疎通が図れるようになるまでに10年以上の時間を擁した。
何よりも重要なのは、霧に人類を滅ぼすつもりが無かったことだ。
だが、
いや、もしかしたら
「だが
しかし尖兵が1体地球に落下するだけで、地球の環境に大きな影響を与えてしまう。
いわゆる「核の冬」を超える、大災害になるだろう。
それだけは、阻止しなければならない。
「お前達は一度日本に戻れ。おそらく、しかるべき者達がお前達にある物を見せてくれるだろう」
「あるものとは何だ、親父?」
「出雲薫が遺したものが、日本にある」
「出雲、薫……」
出雲薫、
その名前に胸が疼くのは、紀沙の中に『コード』があるからか。
出雲薫が遺した何かが、日本にある。
日本に戻ること事態は紀沙も望むところなので、それは構わなかった、が。
「そしてその途中で、ある霧の艦艇にインド洋で会っておいてほしい」
「インド洋の霧?」
「そうだ」
今まで、インド洋についてはあまり考えたことが無かった。
当然、そこに展開されているだろう霧の艦隊についても同様だ。
日本人である紀沙にとっては、馴染みの薄い海である。
日本への帰り道、と言えば、そうなのだが。
しかしインド洋を通るとなると、まさに世界一周という趣が出てくるな、と思った。
「最後の超戦艦――『シナノ』だ」
しかしその航路も、並の道程ではなさそうだ。
行きはよいよい、帰りはこわい。
古の詩はそう教えている。
帰り道だからと気を抜いていると、日本はおろか太平洋に辿り着くことさえ出来ないかもしれない……。
◆ ◆ ◆
スエズ運河。
地中海と紅海――インド洋を200年に渡って繋ぐ、世界で最も重要な運河の1つである。
中米のパナマ運河との違いは、高低差が少なくエレベーターが必要ないことだ。
つまり、艦艇の航行がやり易い。
「エジプト海軍より、『貴艦の幸運を祈る』だと」
「通行許可に感謝します、と返して下さい」
「りょーかい」
イ404の甲板、不思議と久しぶりな気がする。
スエズ運河は潜航での航行は出来ない、水深の問題もあるが、国際慣行と言うものだ。
他国の領域を通る際は、敵意が無いことを示す必要がある。
最も、霧のイ号艦隊をどうこう出来るものでは無いが。
「ねぇ、あれって何?」
「あれはモスクねー。イスラム教の寺院ヨ」
紀沙の隣では、蒔絵が水路から見える沿岸の街並みを指差していた。
砂っぽく霞んで見える街並みには、打ち捨てられた漁船と、太陽光を反射するビル群、そしてジョンが言った
大きく突き出た
反対側には、エジプト海軍の警備詰め所がある。
ただ船舶は残っていないのか、桟橋には船が見えなかった。
甲板に持ち込んだ計器で、冬馬がそこに返信を送っているはずだった。
その隣のビーチチェアであおいが寝そべり、肌を陽に晒しているのが何ともシュールだった。
「あおいさん、砂漠でそれは流石にどうかと思いますよ」
「良いのよ~、オイル塗ってあるから~」
そう言う問題だろうか。
まぁ、クラインフィールドで覆われた甲板には砂が入って来ることも無いので、意外と快適なのかもしれない。
そして都市沿岸を抜けると、紀沙が言ったように左右に砂漠が広がっている。
植物らしいものは何も無く、ほぼ真っ白な砂山がずっと続いているだけとなる。
「艦長殿、あそこ」
いつの間にか現れたスミノが、ひょいと砂漠を指差した。
すると、崩れた橋――おそらく、運河を横断するためのものだったのだろう――の上に、何か黒いものが見えた。
それは複数いるようで、車体の上に突き出たあれは砲塔か。
数両の戦車がそこにいた、もちろん、エジプト軍では無い。
「<騎士団>……」
<騎士団>の戦車だった。
見覚えのあるメンタルモデルが何人か、車両の上から手を振っているのが見えた。
振り返すようなことはしないが、攻撃をすることも出来ない。
エジプトを刺激したくは無いし、今は狭い運河の水路だ、不利なのはこちらだった。
あの戦いの後、主を失った<騎士団>は分裂した。
どう言う分かれ方をするのかは、これからの流れ次第だろうと思う。
ただ2年後の
「帰還、か」
いざ、懐かしの祖国へ。
イ404は、一路インド洋を目指して進むのだった。
◆ ◆ ◆
「……行ったか」
イ号艦隊の出航を、『ダンケルク』は見送った。
あのままスエズ運河を通れば、すぐに紅海に出る。
紅海を抜ければ、そこはもうインド洋だ。
太平洋や大西洋とはまた趣の異なる大洋だ、得るものも多いだろう。
そして『ダンケルク』は、このまま北アフリカ沿岸を回るつもりだった。
対<騎士団>で北にばかり目が行っていたので、地中海の南がまるで整備されていないのだ。
それに、地中海沿岸の人類とも何かしらの関係が必要になるかもしれない。
もはや、海洋封鎖の時代は終わろうとしていると『ダンケルク』は感じていた。
「千早紀沙、新たなる『コード』の体現者……か」
『アドミラリティ・コード』は今度こそ消えた。
後に残ったのは、その欠片だけだ。
あるいは、千早紀沙の中に溶けてしまった。
『ダンケルク』もまだすべてを理解したわけでは無い、整理が必要だった。
「それで、お前はどうするのじゃ――――『タカオ』よ」
そして、『タカオ』だ。
意外なことに、『タカオ』は千早兄妹と直接言葉を交わすことが無かった。
今はその時では無いと考えているのか、いやもしかすると、まごついている間に機を逸しただけかもしれない。
ともあれ、『タカオ』は自分の――と言って、もはや差し支え無いだろう――艦隊と共に地中海に留まっていた。
「そおねえ。とりあえずウィーンとプラハかしら」
「は?」
「ベルリンも良い劇場があるらしいのよねえ」
「……待て。お前、何の話をしておる?」
「何って」
当たり前のことを聞くな、と言いたげな顔で『タカオ』は言った。
「
「本当に何の話をしておるんじゃお前は!?」
大戦艦級の演算をもってしても図れない。
恐るべしは、シスコンプラグインである。
「その場合って、私も一緒の学校に行くべき? それとも保護者になった方が良いのかしら?」
「知るかあ!!」
もちろん、『タカオ』とてわかっている。
今が千早兄妹にリベンジする良い機会だと言うことは、良くわかっている。
しかし今挑んだところで、あの2人は逃げて終わりだろう。
あの2人にはまだ、やるべきことがあるからだ。
ならば待てば良い。
幸い、2年後の
それまで、こちらもゆっくりと研鑽を積んでいれば良い。
ヨーロッパには<緋色の艦隊>もいることだし、学ぶことは多いだろう。
そう、だって。
「
◆ ◆ ◆
スエズ運河を通って湾に出れば、そこはもう紅海だ。
1日かけて運河を航行し、紅海沿岸の各国当局と連絡を取りながら、シナイ半島南端の街シャルム・エル・シェイクの沖合いで艦隊の再編成を行った。
艦隊司令部があるわけでも無いので、単に今後の航路の確認と並び順番を決めるだけだ。
「いぃい~~~~やっほ――――うっス!」
甲板の端から全力疾走し、トーコはイ15から海へと飛び込んだ。
やはりメンタルモデルが欲しかったのか、クリミアでの戦いの後、すぐに形成していた。
ピンクのフリルセパレートの水着にシュノーケル――水着はあおいの持ち物である――姿の彼女は、そのまま紅海に飛び込んだ。
再編成の間、互いの艦長以外は割と暇だ。
近くに敵がいるわけでは無いし、いたとしても、この狭い場所で『ヒュウガ』の聴音の網に引っかからずに近付いてくるのは不可能だ。
だからイ404とイ401の甲板には洗濯物が吊るされていたり、女性クルーが水着姿で日光浴など出来るわけである。
「2月だって言うのに、気温は30度近く。真夏の日差しよね、これ」
「そうですね。私なんて肌があまり強くないから、入念に塗っておかないと……」
洗濯当番は面倒だが、こう言う役得もある。
甲板に敷いたマットの上で、いおりと静は日光浴を楽しんでいた。
それぞれ水着姿で、さんさんと照ってくる太陽の下で心地よさそうにしている。
平和と言うか、激戦続きだった今までが大変だったと言うことだろう。
「ごぼぼぼ……」
そして海の中にも、いた。
飛び込んだトーコだけで無く、シュノーケル装備の冬馬と杏平である。
この2人、波長が合うのかどうなのか、2隻のクルーで会うと大体は一緒に行動している。
そしてその行動の大半は、女性陣から総スカンを喰らうことが多い。
紅海は、美しい海だった。
他の海のように他の河川が流れ込まないため、海水は不純物が無く透明に保たれるためだ。
幼子の夢を現実にしたらこんな感じだろうと、透ける水の中で思った。
まぁ、透明だからこそ見えるものもあって……。
「ごぼぼ?(あれ、ボートだよな?)」
「ごぼぼ?(漁船にしては真っ直ぐこっちに来るな)」
1隻、いや2隻か。
モーターボートらしき小さな船が見えて、あれは何だろうと2人で考えていると。
「ごぼぼぼ(銃を持ってるっス)」
「ごぼぼ?(マジで?)」
「ごぼ、ごぼぼぼ(あー、じゃあアレだろ、海賊)」
紅海からアデン湾にかけての海域で出没する武装集団と言うと、海賊だろう。
霧の脅威にも海に繰り出すのはタフな連中としか言いようが無いが、流石にこれはどうか。
甲板にいるのが女子供だから、油断でもしたのだろうか。
とりあえず、冬馬達は思った。
(((命知らずだなぁ……)))
心の底から同情した。
それでも海は、綺麗だった。
◆ ◆ ◆
イ号艦隊は、紅海をさらに進んだ。
エジプトとサウジアラビアの砂漠地帯を両目に見ながら、点在する集落の人々に手を振って航海する。
これまでの厳しい航海を思えば平和的とも言えるが、潜航できないと言う事実上の制約もあったためだ。
しかしそれも、紅海の出口バブ・エル・マンデブ海峡に達すると、終わりも見えてきた。
「……霧が?」
紅海の出口を扼する要衝に、ジブチと言う国がある。
紀沙達はインド洋に出る前に、このジブチで最後の補給をするつもりだった。
この季節はインド洋から地中海へ向けて強い風が吹いているため、ここからは潜航して進んだ方が良いと言う判断だ。
「ジブチ政府の人によると、この先に陣取ってるんだって。それも1隻で」
「1隻か……潜航している可能性もあるが、艦隊行動を取らずに単独だとすると」
「うん。父さんが言ってた、『シナノ』って霧の艦艇だと思う」
ジブチ港の桟橋で、それぞれの艦を背にしながら、紀沙と群像は向かい合っていた。
補給のついでに、紅海から
その際、ジブチ側から『シナノ』らしき大型の霧が待ち構えていると言う情報を耳打ちされた。
どうしてジブチ側がそんなサービスをしてくれたのかと言うと、彼の国の複雑で切実な事情がある。
霧による海洋封鎖は、アジアやアフリカの国々にとっては、大国の干渉の排除と言う側面もあった。
域内に超大国のいないアフリカでは、特にその傾向が顕著だった。
ジブチの周辺国だけでも、エチオピア・エリトリア・ソマリアの三国が三つ巴の戦闘を繰り広げている。
紀沙が例えばエリトリアを補給地に選ばなかったのは、そう言う情勢もあったからだ。
「良く教えてくれたな、ジブチ政府が」
「ここには統制軍の拠点があるから……」
そんな情勢でジブチが侵略を受けなかったのは、<大海戦>以前からの外交政策がある。
外国軍の駐留。
最も規模が大きいのはフランス軍だが、ジブチは同時にアメリカや欧州各国、そして日本や中国の部隊を受け入れていた。
この外国軍の存在が、隣国からの侵略を防ぐ抑止力として働いたのである。
いくら海洋封鎖で干渉力が落ちたとは言え、ジブチ以外にも近隣に兵力を駐留させている諸大国に喧嘩を売るような真似は出来ない。
それに、内陸側の近隣国にとってジブチはさして重要ではない。
ジブチ軍自体は脅威では無いので、結局、「戦略的放置」と言う選択になったのだ。
そうしたいくつかの要因が、ジブチの平和を守った。
「いずれにせよ、今日はここで停泊しよう。インド洋は長い」
「うん、そうだね」
群像の額には、汗が滲んでいた。
気温は35度、湿度に至っては70%を超える蒸し暑さだ。
さしもの群像もスーツの上着を脱いでいて、汗一つかかずに軍服の礼装を身に着けている紀沙の方が変わっているのだ。
……そう。
「それが良いと思う、兄さん」
◆ ◆ ◆
変わったことと言えば、他にもある。
スミノだ。
以前から妖しい雰囲気を醸し出していたが、クリミアの戦い以後はさらに顕著になった。
「ん……っ」
身体の奥に感じた熱がむず痒く、無意識に吐息が漏れた。
照明の消えたイ404の私室に、青白い輝きが回っている。
その光源は、紀沙の胸元にあった。
そしてその光に、スミノが両手を添えている。
2人は、寝台の上で向かい合っていた。
「キレイだね」
「そう……?」
確かに見た目は神秘的で美しいかもしれないが、紀沙にはそれが「キレイだ」とは思えなかった。
スミノも、言葉ほどにはそんな風に思っていないように思う。
彼女の手の中にあるのは、もはや紀沙の命とも言えるものだ。
少し以前までそれは、『アドミラリティ・コード』と呼ばれていた。
「正確には、これはもう『アドミラリティ・コード』じゃあ無い」
託されたもの。
いくつかに分割された『アドミラリティ・コード』の内、ヨハネスとグレーテルが持っていたもの。
後はイ号の姉妹とUボートの姉妹、そして『ヤマト』と、同じく『ムサシ』から託された翔像……。
いずれにしても、人間には過ぎた力だ。
いわばそれは、海の力そのものなのだ。
深い深い、海底の海流の中で数千年培われた、地球と言う生命の象徴。
人の手には余る。
だからこれを持つ紀沙は、もう、人間とは言えないのかもしれない。
「じゃあ、何?」
「さぁ、ボクにもこれが何かはわからない。何か意味があるのかもしれないし、何も意味は無いのかもしれない。ただ……」
「……っ」
ぎゅう、と。
スミノの両掌の中に『コード』が包まれると、紀沙は息苦しさを覚えた。
息を詰めた紀沙の唇に、スミノが吸い付いた。
眉を寄せた紀沙が、寝台にそのまま倒される。
「は……。ねえ」
「何だい、艦長殿」
「……
「うん……?」
もはや汗もかくことの無い紀沙の首筋に歯を立てながら、剥き出しの胸元に両掌で『コード』を押し戻しながら、スミノは眼を細めた。
紀沙は目の上に腕を置き、こちらを見ないようにしている。
犬歯で肌を撫でると震えが返って来る、そのことに
「必要だよ」
あえて素っ気なく、そう答えた。
紀沙を呼ぶ声、息を詰める音。
2人の眼に宿る電子の光だけが、真実を告げるように明滅していた。
◆ ◆ ◆
激しい
遮るものの無い大洋、水平線の彼方には宝石の如き太陽が頭を覗かせていた。
夜明けだ。
もう何度目の夜明けだろうか、正確に記録している傍ら、そんなことを思う。
「千早翔像、千早群像、千早紀沙」
波濤が艦体を打つ。
しかしいかなる大波であろうと、
何故ならば、その
「イ401、イ404」
大洋を背に、
あの狭い海峡を抜けて、彼女が待っている相手がやって来るのを。
そう。
彼女にとって、最愛の姉の1人を。
「ムサシ姉を、
『ヤマト』の艦体は白く、『ムサシ』の艦体は黒かった。
そして、彼女の艦体の色は――――
奇しくもそれは、イ404と同じ色だった――――……。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
特に理由の無い年齢制限描写(え)
18禁版ではもちろん続きが(え)
それはそれとして、今作もいよいよ目処が立ちました。
年内には本編終わりそうです。
その後にスピンオフなりをやるかはまだ未定ですが、とにかく終わりそうです。
※「そうです」と言っているあたり、そこはかとない自信の無さを窺わせる。
それでは、もう少しお付き合いくださいませ。