トリエステは、イタリア北東部の国境の都市として知られる。
しかしながら常にそうだったわけでは無く、その立ち位置は歴史と共に変遷して来た。
時期によって仰ぐ旗が変わる争奪の地――それは、今の時代になっても変わらない。
トリエステは今や、人類の対<騎士団>の最前線の都市となっていた。
「早く、シェルターは駄目だ! 街の外へ逃げろ!」
「大丈夫、まだ時間はあります!」
「荷物は1人1つまでだ、乗せられるスペースには限りがある!」
20万人のトリエステ市民の内、避難対象者は12万人に及んだ。
これはもはや都市ごとの移動と言った方が良く、北側からは無数の人々が輸送トラックに便乗して、あるいは徒歩で脱出していた。
一部は混乱の余り暴徒化することもあったが、エスコートする軍の統制によって、概ね秩序だった避難行動と言える。
そして都市の南側、
イタリア陸軍の戦車や火砲の姿も見える。
それぞれに十数名の武装した人間が詰めており、一様に緊張した面持ちで何かを待っている。
歴史深い趣のある都市が、今や城砦と化していた。
「おい、急げカルロ。敵がいつ来るかわからないんだぞ!」
「ま、待ってくれよ!」
カルロと言う青年も、その1人だった。
明らかに持ち慣れていない小銃を手に、トリエステの通りを走る。
と言うか迷彩服すら支給されていない彼は、軍とは関係の無い一般市民だ。
避難の対象で無い8万人の1人、簡単に言えば、自ら志願した民兵である。
(まさか、本当に戦争になるだなんて)
一緒に志願した仲間達について走りながら、言いようの無い不安に顔を青ざめさせている。
つい昨日まで、普通の学生だった。
そんな青年がいきなり戦場に投入されるのだから、恐怖を感じない方がおかしい。
ともすれば逃げ出してしまうような、カルロはそんな状態に置かれているのだった。
「おう、おうおうおう。何じゃ何じゃ、騒々しいのぉ」
その時だった。
カルロの耳に、幼さを残す少女の声が聞こえたのだ。
街の南側の避難は終わっているはずで、聞こえるはずの無い声だった。
しかし、無人のオープンカフェに――いた。
長い金髪の、段重ねのフリルやレースで彩られたドレスを着た少女だった。
彼女の座るテーブルにはこれでもかとばかりにケーキが並べられており、それらはすでに一口ずつ口がつけられていた。
最初はぼうっと見ていたカルロだが、不意にはっとして。
「って、いやいやいや、何をしてるの!?」
「うん? 見てわかるじゃろ、ケーキを食べておる」
「あ、うん。……じゃなくて、駄目だよキミ、逃げないと!」
不思議な雰囲気の少女だった。
頬に手を当ててケーキを頬張る姿は可憐だが、この状況で微動だにしないあたり、普通では無い。
むしろ優雅ですらあり、カルロはつい見惚れてしまった。
「お、来たようじゃぞ」
「え?」
その少女が、ついと視線を彼方へと向けた。
直後、街の一角が爆発した。
その振動がここまで伝わってきて、カルロは戦闘が始まってしまったことを知った。
「おいおい、どこへ行く。逃げろと言ったのはお前じゃろ、死ぬぞ」
反射的に走りかけたカルロに、少女がそんな風に声をかけた。
死ぬと言われて、カルロは逡巡した。
死にたくないと言う気持ちが、彼の足を止めた。
しかし震えながらも、カルロは言った。
「ここは僕らの街なんだ」
「街など他にいくらでもあろう」
「……そうかもしれない」
ケーキと同じだ。
チーズケーキがなければチョコレートケーキを食べれば良い、トリエステが破壊されても他の街に移住すれば良いのだ。
ひとつしか無い命を懸ける意味など、無いのかもしれない。
「でも、故郷だって一つしか無いから」
街は他にある。
でも、生まれ育った故郷はひとつだけだ。
だから怖くとも、たとえ失禁しようとも、カルロは兵に志願したのだ。
「キミは早く避難するんだ、良いね!」
そう言い残して、カルロは仲間達の下へ走った。
その走りは、さっきまでと比べると力強い。
少女との邂逅が、カルロの中に何かを生んだのかもしれなかった。
「……ふむ。やはり人間と言うのは良くわからんのう」
そして、少女。
彼女はカルロの背中を見送りながら、はむ、とフォークを口に含んでいた。
何かを観察するようなその目は、時折、白く電子的に輝いていた。
どん――と、砲声が聞こえる。
◆ ◆ ◆
霧の大戦艦『ビスマルク』。
あの『ナガト』と同格の、デュアルコアを持つ特別な霧の艦艇。
だが、それだけでは無い何かが『ビスマルク』姉妹にはあった。
あえて言葉にするのであれば、そう。
まるで、
(何だ、でも……何だろう)
『ビスマルク』姉妹を見上げながらも、紀沙は感じていた。
以前ほどに、威圧感を感じない。
迫力が弱いとても言おうか、何と無く存在感が薄い印象を受けたのだ。
何故かはわからない、が、確かだった。
『ビスマルク』姉妹は、
誰かと戦った様子も見えないのに、おかしいと言えばおかしかった。
そんなことを考えていたからと言うわけでは無いだろうが、『ビスマルク』姉妹が紀沙を見た。
その時には感じた存在感の薄さも消えていて、勘違いだったのかとも思った。
「……
とりあえず、声を出してみた。
特に興味があったわけでは無かったが、間が欲しかったのである。
「前にも聞いたような気がするけど。それって何なわけ?」
「それは」
不意に、『ビスマルク』姉妹の背景ともなっている光の柱が明滅した。
明滅と言うよりは、途切れかけたと言った方が正しいかもしれない。
すぐに元通りになったが、不安定な印象は拭えなかった。
あれも、何か意味があるのだろうか。
「……それは、あの御方に直接、聞いた方が良いでしょう」
「そう、我らの創造主に」
霧の創造主。
と言うと、まさか。
「だけどその前に、貴女は試練に打ち克たねばならない」
「試練? お前達みたいなに課される課題なんて無いよ」
「私達に、ではありません」
ギンッ、と、『ビスマルク』姉妹の両の瞳が輝いた。
瞬きひとつせずに、真っ直ぐに紀沙の眼を射抜いてくる。
何と言う力強さか。
先程の弱々しさはどこへ失せたのか。
「貴女に試練を課すのは、貴女自身だからです」
……はぁ?
と、率直に言って、紀沙はそう思った。
紀沙が、紀沙に試練を課す。
それが「人類評定」とやらに何の関係があるのかと、そう思った。
「さぁ」
思った、が。
「どうか」
『ビスマルク』姉妹の眼から。
「
眼が、離せなかった――――……。
◆ ◆ ◆
気が付くと、紀沙は家にいた。
家にいたと言うのは、どこかの建物にいたと言うわけでは無い。
(どう言うこと……?)
そこは、北海道の実家のリビングだった。
幼い頃に過ごしたまま、家具の位置も部屋の間取りもそのままだった。
カーペットの上など、遊んだまま放りっぱなしにしている玩具まで転がっていた。
その玩具は、紀沙が良く兄と取り合っていたものだったりする。
いや、今はそんなことは重要では無い。
まず最初に思い浮かべたのはナノマテリアルによる幻だが、ナノマテリアルの気配は感じない。
つまり、これは現実だ。
しかし幻で無いとしても、現実だとも思えなかった。
「……懐かしいな」
この家で過ごしていた頃は、思えば幸福だった。
父がいて母がいて、そして兄がいた。
昼間は兄と遊び、疲れたら母のところでお昼寝をして、夜は帰って来た父に抱き着く。
幸せの記憶、もう二度と戻らない時間だ。
「――――紀沙」
来た、と思った。
何かが起こだろうと思って身構えていたが、思いの他早く来た。
目を閉じて、呼吸を整えた。
何が出てきても動揺すまいと自分を律して、紀沙は振り向いた。
「……!」
驚くな、と自分に律した。
けして心を動かすなと、強力に命じた。
しかし頭ではわかっていても、どうにもならぬのが心というものだった。
驚きに、目を見開く。
「紀沙」
そこには、兄がいた。
ただし現在の兄・群像では無く、5歳にもなっていない小さな子供の姿だった。
紀沙が見間違えるはずが無く、それは間違いなく幼い頃の群像だった。
流石に身長差があり、見下ろす形になっている。
これは何だ。
家だけかと思えば、群像までこの家で過ごしていた頃の姿で現れた。
やはり幻か。
いや、幻にしてはリアリティがあり過ぎる。
つまりこれは、現実だと言うことだ。
「お前は何故、霧を敵だと思うんだ?」
――――だが群像の言葉に、すぐに冷めた。
この時期の群像が、こんなことを言うはずが無い。
『ビスマルク』姉妹は試練と言った、紀沙自身が与える試練だと。
だが、これは試練か?
「紀沙」
だが、紀沙はまだ気付いていないだけだった。
この「試練」の、最も恐ろしいところを理解していなかった。
何故ならばこの試練の世界は、今の今まで彼女が御そうとしていたものに起因しているからだ。
「お前は本当は、もう霧を憎く思っていない」
それは、すなわち。
◆ ◆ ◆
「試練の内容は、私達にもわからない」
「この試練は、受ける者の心を写すもの」
そして、
紀沙の身体は次々に色を変える不思議な球体につつまれていて、本体たる紀沙自身は眠っているように脱力していた。
青になり赤になり、鼓動の音も聞こえる。
その側についたまま、スミノは『ビスマルク』姉妹と対峙していた。
対峙と言っても、戦闘が始まる雰囲気でも無い。
じじ、とスミノが目を白く輝かせた。
双方の間で、見えない攻撃が飛び交っていた。
「なるほど、クルー全員を捕まえたってわけだね」
「彼らには眠ってもらっただけ」
「千早紀沙が試練に打ち克てば……
イ404のクルー達もまた、『ビスマルク』姉妹によって囚われていた。
と言っても、縄で縛られているわけでは無い。
ただ眠っている、それ以上のことは何も無い。
それぞれが己の中の「世界」に閉じ込められて、出てこられないだけだ。
静菜は、政治の裏の闘争で全滅した一族と一緒に過ごしていた。
梓は、両親と2歳まで過ごしていたドイツでの生活をやり直していた。
あおいは、妹いおりと共に父の工場を遊び場に育っていた頃を夢見ていた。
恋は、日本有数の名家である実家で過ごしていた日々のことを見ていた。
良治は、紀沙と共に過ごした学生時代の、最も充実していた時間を過ごしていた。
冬馬は、暗部の構成員として教育を受けていた頃のことを……。
「ちなみに、あの碇冬馬と言う人間が1番最初に捕まりました」
「あ、そう」
そこは別に興味が無かった。
ひとまずスミノとしては、紀沙のことだけは何とかしなければと思っていた。
『ビスマルク』姉妹の力で行われていることならば、介入できるはずだからだ。
しかしそんなスミノに対して、『ビスマルク』姉妹は言った。
「介入は出来ません」
「……演算力の差かい? 舐められたものだね」
「違うわ」
「んん?」
目を細めるスミノに対して、『ビスマルク』姉妹は無表情だった。
しかし次の言葉はスミノを、あのスミノをも困惑させる言葉だった。
「この試練を与えているのは、
◆ ◆ ◆
感覚がおかしい。
兄・群像は目の前にいる、それなのに隣にいるようにも思えてくる。
不意に目の前の5歳の兄の姿が掠れて、次の瞬間には高校生の姿になった。
海洋技術総合学院の白い制服に、強い懐かしさを覚えた。
「紀沙。あの時、お前を置いて行ってしまったことは本当にすまなかったと思っている」
幻だ。
そう思った。
あの兄がわざわざ口に出してそんなことを言うはずが無い。
それが、群像と言う人間なのだから。
「あの時のお前は、霧の憎しみに捉われていた。連れて行ったとしても、きっとどこかで衝突しただろう……オレと真瑠璃のように」
「憎んで何が悪いの」
「紀沙、過去を憎んでも何にもならないんだ」
「そんなことはわかってる!」
憎悪こそが力の源だった。
霧を憎めないなら自分を憎むしかない。
自分を憎む? 論外だ、自分は被害を被った側だ。
まして誰も悪くないとか、赦せとか、道徳の教科書じみたことに傾倒も出来ない。
霧を憎む。
それがどれだけ無意味で虚しいことかなんて、わかっている。
「どうしろって言うんだよ……!」
「――――耐えるしか無いんだ、紀沙」
ぎょっとして、振り向いた。
するとそこには統制軍の軍服と良く似た――海上自衛隊の制服だ――服を着ていて、
耐えるしか無いと、父が言った。
「どこかで誰かが、耐えなければならない。そして耐えろと言われれば耐えなければならないのが、軍人だ」
「……割り切れってこと? この感情を。この境遇を」
胸を押さえた。
そうしないと、何かが溢れ出してしまいそうだった。
「そしてそれが『公』と言うものだと、お前に教えたはずだな」
今度は、北だった。
こちらは今と大して変わっていないが、日本を離れてしばらくぶりに顔を見たからか、やはり懐かしさを感じた。
公――
北が、それこそ口を酸っぱくして言い続けていたことだ。
「たとえどれだけ苦くとも、必要とあれば毒をも飲み下す。それが公に仕えると言うことだ」
「皆の……国や世界のためなら、霧への恨みを堪えて共存しろと?」
「そうだ。少なくとも、我々はそうしなければならない」
「
アメリカの、エリザベス大統領のように?
娘の仇とも、未来の
そうだ、と、声がした。
「紀沙」
兄が言う。
「お前はもう、イ404――スミノと旅をして、共に死地を越えて来たはずだ。スミノに救われたことも幾度もあるはずだ。それでもなお、お前が彼女に抱く感情は憎しみだと言えるのか?」
父が言う。
「カークウォールの『クイーン・エリザベス』を見ただろう。人と心を通わせ、人のために悲しむことが出来る霧も出てきた。今後も増える。お前はそれでも、そんな彼女達を仇と叫ぶのか?」
北が言う。
「霧を絶滅させるなど、今では不可能だ。<緋色の艦隊>のように人類圏と取引をすることも出来るのだ。お前は自身の憎しみを満足させるために、よりマシな関係の模索を拒絶してしまうのか?」
――――そうだ。
わかっていた。
見え見ぬふりをして、理解したくなかっただけなのだ。
紀沙は、きちんと理解している。
スミノが自分の命の恩人であること。
霧は化物でも怪物でもなく、単に自分達のルールで行動していることに過ぎないこと。
中には『ムサシ』や『クイーン・エリザベス』のように、愛情深く人と接する者がいること。
霧をこの世界から消し去ることなど、もはや出来ないこと。
どんなに嫌でも同じ世界で
「……わかってるよ……」
そう、わかっている。
自分が本当はどうすべきかなんて、わかっている。
わかっている。
わかって
でも。
◆ ◆ ◆
「――――思っていたよりもずっと早く、試練が終わりそうですね」
「……それはどうかな?」
「どういう意味?」
「あはあ、いや別に? 意味って程じゃないさ。ただ」
「ただ?」
「艦長殿はね、
◆ ◆ ◆
――――でも。
「
家族を奪われ、人生を滅茶苦茶にされた。
それなのに、誰かが悪いわけじゃあ無い?
なら、それなら自分はこれまで何のために?
何のために、望んでもいない軍人にならなければならなかった?
こんな心を抱えたまま、公だから耐えろと北は言うのか。
こんな感情を抱えたまま、霧と理解し合えと父は言うのか。
こんな気持ちを抱えたまま、霧と笑い合えと兄は言うのか。
出来ない。
そんなことは、出来ない。
「
赦すなんて出来ない。
理解するなんて出来ない。
我慢するなんてもっての他だ。
「霧を」
何があっても
「霧を、憎む……!」
憎まなければ、ならない。
「紀沙……」
紀沙の両の瞳は今、霧がそうするように白く輝いている。
しかしその瞳の虹彩に黒い線が走ったのを見て、群像の顔に深刻なものが映った。
その表情は、群像
黒いリングのようにも見えるそれは、一見、ただの輪郭のようにも見えた。
「――――本当に、彼女が
そして、群像の口から出てきたのは
中性的な顔立ちの群像から飛び出しても不自然が無いのは凄いが、今はその点は重要では無かった。
重要なのは、その声が明らかに群像のものでは無いと言うことだった。
どこか不満そうな、心配そうなその表情は、紀沙の知る限り群像が浮かべるものでは無い。
何だ?
紀沙の不審は頂点に達していたが、場の空気が変わったこと、そして群像の周囲の空気が緊張感を増していっていることは敏感に察した。
何か、そう、もっと
「とても
誰かと会話している?
しかし、群像の目は――これも、群像とは思えない目つきで――しっかりと、真っ直ぐに紀沙を射抜いている。
厳しい目だ。
試験で期待以下の結果になった子供を見る目だと、何故かそんなことを思った。
「大丈夫、問題ないわよ」
その時、紀沙の両肩に手を置く者がいた。
肩に置かれた手の感触と声に、紀沙ははっとした。
何故ならそのどちらにも、紀沙は覚えがあったからだ。
思わず、後ろを振り仰いだ。
「だって、この子は誰よりも優しい子なんだから」
そこにいたのは、千早沙保里だった。
いなくなってしまったはずの、母の姿だった。
◆ ◆ ◆
これも幻か。
反射的にそう思ったのは、無理からぬことだった。
しかしその母は、他の父や兄が動きを止めている中で、独立した意思を示すかのように唯一動いていた。
小さな光の粒子が、母の身体から零れ落ちていた。
「それにもう時間が無いんでしょ。この子の他に選択肢があって?」
沙保里は小首を傾げながら、群像――群像の姿をした少女に語りかけた。
少女はどこか不満げな表情を浮かべていて、紀沙としてはそんな顔で見られる筋合いは無いと思いたいところだった。
そんな紀沙に、沙保里はふと微笑みかけた。
この時、紀沙はこの沙保里が母本人だと直感的に悟った。
すべてが幻のこの空間において、この沙保里だけが本物だと理解した。
そして沙保里の肉体がもはや存在しておらず、目の前にいる沙保里はナノマテリアルで構成された、メンタルモデルに限りなく近い存在であることを理解した。
「……ッ!」
そして、思い出した。
あの時、『トルディ』とか言う<騎士団>の男の攻撃によって海に落ちた後、紀沙は海の中で母に抱かれていたのだ。
そして、沙保里は
『好きなように生きなさい。少なくとも、母さんはそうしてきたわ』
世界がどうであれ、周りがどうであれ。
そうだ、あの時、母は自分にそう言ったのだ。
直に言葉にはならなかったけれど、確かにそう言ったのだ。
そして、母はナノマテリアルになった。
肉体の構成を紐解くように、身体を粒子化したのだ。
自分を、紀沙を死から守るためにそうした。
きっと『タカオ』が沙保里の身体を保存するために使ったナノマテリアルが、沙保里と親和したのだ。
沙保里の中の「出雲」の血と、親和したのだ。
そして、何よりも大事なことは。
『貴女を愛してる、紀沙。ずっと傍で見ているから』
沙保里はけして、
以前のような形では無いけれど、傍にいて、そして守ってくれていたのだ。
スミノが言っていたナノマテリアルの混乱は、その時のものだろう。
そして今、紀沙の記憶は完全に戻った。
「母さん、私」
「私はこの子を信じているわ、他の子達と同じように」
力強い、そんな顔で、沙保里は言った。
目の前の少女に向かって、宣言するようにだ。
その姿を、紀沙は素直に頼もしいと思った。
「さぁ、この子に全てを視せてあげて。吉と出るか凶と出るかはわからないけれど、未来を信じて」
群像の姿をした少女は、沙保里の言葉を聞き、考え込んでいる様子だった。
その姿で考え込まれると、群像がそうしているようにも見えてくる。
そもそも、相手はいったい何者なのだろうか。
そんな紀沙の疑問は、次の沙保里の一言によって掻き消された。
「私は信じるわ、今の時代の子達を。だから、貴女も信じてほしい」
もう一度。
「――――『アドミラリティ・コード』」
群像の姿をした少女――『アドミラリティ・コード』は。
沙保里の言葉に、やはり考え込む仕草を見せたのだった。
◆ ◆ ◆
イタリア軍は弱兵だと言われる。
これは過去の大戦や、歴史上他国に占領されていた時期が長かったことから来ている。
確かにイタリアは、あまり戦勝国と言うイメージは無い。
しかし当時の状況からして仕方ない面も多々あり、必ずしもイタリア兵が他国の兵に劣っている、と言うわけでは無い。
事実、かつて地中海世界を制した古代ローマ帝国の中心地はイタリアである。
また、まがりなりにもイギリスやドイツと同じ世界帝国――アフリカを中心に植民地を得ていた――を築いた列強国の一角でもあった。
そして、今でもヨーロッパ四大国の1つでもある。
そんな国の軍隊が、意味も無くただ
「以前からずっっっっと不思議だったんだけど」
今のイタリア軍は、現代兵器で武装したれっきとした先進国の軍隊の1つである。
加えて良く教育された職業軍人と愛国心溢れる予備役兵、けして弱兵では無かった。
特にイタリア兵は本国防衛の際には、強力に力を発揮する。
だから、彼らはけして弱くは無い。
しかし。
「キミ達ってさ、何で
「ぐ、うぐぐ……!」
<騎士団>の1人『トルディ』は、心底不思議そうな表情でカルロを覗き込んだ。
首を掴まれている――比喩でなく、本当に掌で首を覆っている――カルロに、答えることは出来ない。
周囲には戦闘の跡が見える。
ひしゃげて横転した戦闘車両、半ばから折れた火砲に砲身が砕けた小銃、そして瓦礫と共に倒れ伏した兵士達。
彼らは弱兵では無い。
しかし、それ以上に『トルディ』が強かった。
人の銃弾はただの一発も彼に当たることは無く、逆に
一方的な蹂躙、そもそもそれは戦闘ですら無い。
「どう考えても割に合わない。合理的じゃない。人間と言うのはやはり無駄な存在なんだね」
「が……ぁ……っ」
「では、無駄なモノは捨ててこの
殺される、とカルロは思った。
目尻に涙が浮かんだ。
もちろん、恐怖はあった。
しかしそれ以上に、こんな化物に故郷を好きにされることが悔しかった。
畜生。
誰か、誰でも良い、この化物を何とかしてくれ。
古いだけの何も無い街だけれど、たった一つの、故郷。
僕はどうなっても良い、こんな奴に好きにさせないでくれ――――と、カルロが思った時だ。
「……?」
キン、と『トルディ』の足元で金属音がした。
ナイフ。
小さな銀食器のナイフが、彼の足元に刺さり、衝撃の余韻で振動していた。
正面から飛んで来たそれの軌道を逆に追いかけると、そこには。
「何だ、お前は」
「……いやあ? なぁーに、何だ、と言う程のことでも無いんじゃがな?」
どこから持ち込んだのか。
オープンカフェにでもあるような丸テーブルと椅子に座り、彼女は優雅にケーキを食べていた。
カップからは、紅茶の温かな湯気が立ち上っている。
そこに座るドレスの少女に、カルロは見覚えがあった。
「ただ、まぁ、ケーキを食べる静かな時間を邪魔されたくなくてのう」
「ケーキ?」
「この街の者達が作るケーキは格別での。気に入っておるのじゃ」
あの時の、少女だ。
「要領を得ないな。要するに何しに来たわけ?」
「ああ、まぁ、何じゃ。つまりじゃなあ」
穏やかな仕草で、少女――霧の大戦艦『ダンケルク』、地中海艦隊旗艦の肩書きを持つ彼女はカップを起き、にこりと笑って、言った。
カルロの目には、それが天使の微笑のように思えた。
「――――その手を離さんと
「
<霧の艦艇>と<騎士団>。
人間を挟んで両極に立つその存在が、ついに衝突する。
この時、また一つ、世界は前に進んだのだった。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
先週の後書きで募集した通り、現在<騎士団>募集中です。
6月20日までとなっておりますので、宜しければご参加下さい。