蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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Depth064:「レオンス」

 

 ごぅん、ごぅん、ごぅん。

 薄暗く広くも無いその空間に、重厚な音が響いていた。

 腹のそこに響くその音は、ずっと聞いていると、何か得体の知れないものが近付いてくるような、そんな錯覚を感じさせるのだった。

 

 

「目標、レンヌ北東20キロの地点で停止しました」

「またか。良く止まるな」

「こっちにとっては都合が良いさね」

 

 

 複数人の男女が、何やら話し合っていた。

 薄暗くディスプレイだけが光源になっているような空間に、ひそひそとした声が響く。

 どうやら彼らは、何かを追いかけているようだった。

 

 

「さて、それじゃあ」

 

 

 そして、中心に座っている誰か――静かな少女の声だ――が、言った。

 

 

「我らの艦長殿を、迎えに行くとしようじゃないか」

 

 

 ()()()

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 フランスは欧州の大国である。

 国力はドイツに次ぎ、欧州大戦以前のヨーロッパの国際政治は――イギリスが大陸から切り離されていたこともあって――フランスがリードしていた。

 過去のいくつかの大戦の勝利が、フランスに自分達こそ欧州のリーダーと言う自負を与えていた。

 

 

 しかし隣国スペインとの開戦に伴い、そうした国際的な地位は失われてしまった。

 紛争当事者になってしまったことで、欧州大戦の停戦仲介が不可能になってしまったのだ。

 以後、その役割はドイツが取って代わることになる。

 スペインとの戦争はその後数年に渡り膠着することになるのだが、そもそも倍近く国力が違う格下の国を相手に何故そこまでフランスが苦戦したのかと言うと……。

 

 

「列車、動かないね」

「まぁ、こんなものだよ」

 

 

 フランスの鉄道網は、パリを中心に放射状に張り巡らされている。

 つまり地方間での直通列車が極端に少なく、北部から東部に列車で移動しようとすると、思っている以上の時間がかかってしまうのだ。

 と言うか、首都パリを経由しないと鉄道だろうと幹線道路だろうと移動が大変なのである。

 

 

 つまり軍事的に言えば、機動的な兵力移動が著しく難しい、と言うことだった。

 それが、純軍事的には格下のスペイン軍を打ち破れなかった理由だ。

 攻勢も補給も、フランス国内の交通の事情により制約されてしまっていたのである。

 その点が、フランス陸軍がドイツ陸軍にどうしても劣る部分だった。

 

 

「でもこれで何回目? こんなんじゃレオンスさんの予定も狂っちゃうんじゃない?」

「まあぁ誰かと約束しているわけじゃないし。遅れることも予定の内だから大丈夫さ」

「それは凄いね……」

 

 

 そして、列車は遅れることが常だった。

 これは国による電力制限や鉄道管制の杜撰(ずさん)さもさることながら、駅や鉄道職員の間で頻繁に行われる抗議活動やストライキが原因だ。

 これはフランスの国民性がどうと言うよりは、長く続いた戦争の弊害と言った方が正しい。

 要は、国全体を運営するマンパワーが不足しているのである。

 

 

「まぁ、あんまり気にしても仕方ないさ。お腹も空いただろ? 食堂車にでも行こうよ」

「うん」

 

 

 フランス北部を走る夜行列車『オリエント・ナイト号』。

 一等から三等車両まである食堂車付きの豪華な列車で、すでに四泊目だ。

 予定ではもっと短い日数のはずだったのだが、先述の理由で大分遅れている。

 キサとレオンスは今、この列車に乗って一路ロリアンを目指しているのであった。

 

 

 厳密には、この列車はロリアン近郊の大都市ナントを目指している。

 そこからまた別の移動手段に乗り換えて、かつての港町にして海軍基地ロリアンを目指すのだ。

 レオンスの話によれば、現在のロリアンは温暖化の影響で海面下にあり、新しい都市も建設されず、もはや住民は存在しないと言う。

 

 

「眩しいな」

 

 

 列車の外は、地平線の彼方まで続く農地だ。

 今は作物では無く白い花が咲いていて、白と緑の絨毯のようにも見える。

 農業国フランスの、これもまた一つの姿だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 特に豪華な列車と言うわけでは無いが、食堂車の造りは綺麗なものだった。

 白いテーブルクロスをかけられたボックス席にシャンデリア、テーブルには花を差した花瓶があり、すでに銀色の食器類が並べられている。

 すでに何組か使用したのだろう、別のテーブルで職員が片づけをしているのが見えた。

 

 

「お肉で良いよね?」

「うん、大丈夫」

 

 

 食事がつくのは二等車からで、乗客の半分を占める三等車の人々は自前で何かを用意している。

 とは言え駅に止まる回数よりも途中で止まる回数の方が多いので、こうした食堂車を使用できる方が安心度は高い。

 最も、食堂車の食糧が尽きればその限りでは無いのだが。

 

 

 とにかく、昼食である。

 お腹が空いていては何も出来ないと言うことで、食事は大賛成である。

 ただ、野菜が少ないと言う点がやや気になるところだった。

 食事が運ばれているのを待っている間、何とは無しに窓の外を見た。

 

 

「あの花、何て名前なの?」

「うん? ああ、あの畑の花? うーん、僕も名前は知らないなぁ。ただ、冬の間に土地を休ませるために植えているんだって」

「ふぅん」

 

 

 会話には特に意味があるわけでは無い。

 ただそう言う意味の無い会話をすること自体が、ある意味では目的なのだった。

 まぁ、有体に言えば暇なのである。

 何しろ、列車内に娯楽があるわけでは無かったのだから。

 

 

「そう言えば聞いてなかったけど、ロリアンについたら何をするの?」

「とりあえずナントで宿をとるかな。あとは時間にもよるけど、早速取材に行きたいね」

「あ、そっか。ロリアンって別に町でも何でも無いんだっけ」

「うん、今は何も無い土地……海の下だから、土地でも無いね」

「スキューバでもするの?」

「この真冬にそれは避けたいなぁ。必要ならするけどね」

「必要ならするんだ」

 

 

 ロリアンと言う名前には、未だ胸がざわめく。

 いったいどうしてそうなってしまうのか、キサにはまだわからない。

 ただ、ロリアンに辿り着けば何かが変わるかもしれない。

 そんな、確信にも近い何かがキサの中にはあった。

 

 

 それは恐怖にも似た感情を呼び起こすが、同時に、渇望も呼び起こしてきた。

 行かなければ、と言う感情は今も胸の内にある。

 だが、何故なのだろう?

 何故、自分は行ったことも無いロリアンと言う場所に行かなければならないのだろう。

 行きたい、では無く、行かなければならないと思うのは何故なのだろう。

 

 

(あの声は、誰なんだろう)

 

 

 ロリアンに行け、と言うあの声。

 若い男の声、だと思う。

 親しみを感じる声では無い、と思う。

 ただ、力強いと感じた。

 あれは誰なのだろうと、ぼんやりと考える。

 

 

「へい、お待ち」

 

 

 そんなことをぼんやりと考えていると、食事がやって来た。

 ただ、妙なことがあった。

 今日までそんなことは無かったのだが、銀盆に蓋を乗せたものが運ばれてきたのだ。

 今までは普通に皿を出されていたはずだが、今日に限って何なのだろう。

 

 

「……? あの、これは?」

「ああ、はい。今日はちょいと冷ませない料理でして」

 

 

 加えて、運んで来たボーイもおかしかった。

 アジア人だったのだ。

 今の今まで、列車の職員にアジア人などいなかったはずなのに。

 そして、そのニヤケた顔に、何故か既視感を感じた。

 

 

「ちょ」

 

 

 そのアジア人の男は、キサの見ている前で銀盆の蓋に手をかけた。

 蓋が開けられる。

 するとそこには料理は無く、代わりに小さな筒状の金属体が乗せられていた。

 そして次の瞬間、ボシューっと言う音と共に、金属体の両端から白い煙が吐き出されたのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 すわ何事か。

 思わずそう叫んでしまいそうな、そんな状況だった。

 何しろ、いきなり目の前で煙幕――この表現で間違いないはずだ――が炸裂したのである。

 けほけほと咳き込みながら、キサはその場に倒れ込んだ。

 

 

 椅子が倒れる音がすぐ傍から、そして皿が割れる音と悲鳴が遠くから聞こえた。

 催涙ガスや毒ガスの類では無いようだが、それでも咳き込みは止まず、目からはボロボロと涙が零れ落ちてくる。

 そうして苦しんでいると、不意に少し楽になるのを感じた。

 

 

「むぐ――――っ!?」

 

 

 テーブルクロスだ。

 食堂車のテーブルにかけられていたテーブルクロスが、キサの上半身にかけられた。

 マスク代わりになって呼吸は多少楽になったが、浮遊感を感じる、つまり抱え上げられていることに気付いて、流石に慌てた。

 バタバタと両足を動かして、抵抗の意思を示す。

 

 

「あてっ、いてっ! ちょ、暴れんな暴れんなって! げへへ」

(い、いやぁ――あ、変態だぁ――――っ!)

 

 

 暴れないわけが無く。

 むしろ、相手が変態と知って抵抗を強めた。

 膝がガスガスと相手の背中に当たり、流石に痛かったのか、キサを抱える男は。

 

 

「いって、マジいって! わかった悪かったって、もうふざけねぇって!」

(離せ変態!)

「痛ぇ! 抉りこむような膝打ちやめて!? 艦長ちゃんの脚力半端ないから!」

 

 

 何やらわけのわからないことを言っているようだが、効いているならやめる道理は無かった。

 とは言え体勢が不安定なので、正直、蹴倒せる程では無いとわかっている。

 実際、男は蹴られながらもキサを抱えたまま動いていた。

 このままでは連れて行かれてしまう、と、キサが本気で危惧した時だ。

 

 

 銃声が響いた。

 

 

 小さな炸裂音にも似た音が食堂車に響き渡った。

 それはどうやら窓に向けて撃たれたようで、一瞬後にはガラスの割れる甲高い音が聞こえて来た。

 当然、空気が流れる。

 要は煙幕が窓の外へと吸い出されて、室内の視界が少しだけマシになった。

 

 

「おい、何だお前は!」

「うわっ、マジか。ちょ、待て待て待て」

 

 

 揉み合いを感じる。

 そうこうしている内に、キサはあっと声を上げた。

 男の肩からずり落ちて、床に落とされてしまったのだ。

 正直痛かったが、そんな泣き言は言っていられない、即座にテーブルクロスを脱ぎ捨てた。

 直後、腕を掴まれた。

 

 

「何……って、レオンスさん!?」

「行くよ!」

 

 

 男を殴り倒したらしい、レオンスがそこにいた。

 しかもその手には無骨な拳銃を持っていて、さっきの銃声は彼が行ったものだとわかった。

 目を白黒させて、キサは腕を引かれるままに走り出した。

 正直、何が起こったのかわからない、怖い。

 しかしキサは、ぐるぐると混乱する頭でひとつだけ聞いた。

 

 

「何で銃なんて持ってるの!?」

 

 

 レオンスは振り向かずに言った。

 

 

「売店で買ったのさ!」

 

 

 もう少しまともな嘘を吐いてほしいと、そう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 いったい、何が起こっているのか。

 レオンスに手を引かれて走りながら、キサは何が起こっているのかわからなかった。

 列車内はすでに大変な騒ぎになっており、それは食堂車から徐々に外側の車両へと広がっていった。

 コンパートメントから顔を出す乗客を押しのけながら、三等車両の方へと駆けて行った。

 

 

「レ、レオンス」

「話は後、今はとにかく――って、何そのお盆!」

「あっ、つい持って来ちゃった」

 

 

 何故か、キサは銀盆を持ってきてしまっていた。

 咄嗟に拾ったか掴んだかしたのだろうが、何もこんなものを持って来なくても良いだろうに。

 捨てるかどうか悩んだが、そうこうしている内に状況が動いた。

 車両の通路の天井が大きな音を立てて外れ、そこから落ちて来た何かがキサ達の前方を塞いでしまった。

 

 

 そこにいたのは、やはりアジア系の女性だった。

 顔の左半分を前髪で隠しているが、右目の眼光は見ただけで怯んでしまいそうな程に鋭い。

 そしてそれ以上にぞっとしたのは、その女性が両手に独特な曲刀――日本刀――を持っていたことだ。

 逆刃に持っているのは、何かの慈悲なのだろうか。

 

 

「ぐわっ!?」

 

 

 その2本の刀で、レオンスを横撃した。

 レオンスはそれを拳銃の銃身と腕でまともに受けてしまい、しかも衝撃を殺し切れずに壁に衝突、バウンドした。

 目の前で起こった惨劇に、キサは小さく悲鳴を上げた。

 ここで縮こまっていれば普通の少女と言えるのかもしれないが、咄嗟に。

 

 

「え?」

 

 

 それを見た相手が、驚いたような顔を上げる。

 レオンスを殴打したアジア系の女性の頭に、キサが銀盆を叩きつけたのだ。

 もちろん純銀と言うわけでは無いが、それでもそれなりに固い、しかもヘコむ程の強さで殴りつけたのだ。

 痛みに呻きながらもコンパートメントの扉を開けて、よろめいた女性を中に転がり入れた。

 

 

「キサ、こっちへ……!」

 

 

 適当な荷物を蹴倒してコンパートメントの扉を塞いで、レオンスが頭を押さえながらキサの手を引いた。

 大した時間稼ぎにもならないことは明白な上、他にも仲間がいるかもしれない。

 そこでレオンスが取った行動は、適当な場所にキサを隠れさせることだった。

 二等車と三等車の間にある物置が、その場所だった。

 ここならば、いくらか隠れる場所もあるだろう。

 

 

「隠れて、早く」

「レオンスさんは?」

「僕は大丈夫、それより連中は何でかキサを狙ってるみたいだ。さぁ……早く隠れて!」

「レオンスさん!」

 

 

 キサを物置の中に押し込めて、何事かを言う彼女の面前でドアを閉めた。

 ズキズキと痛む身体に息を詰めるが、それでも鞭打って、敵の注意を引きつけなければ。

 それにしてもと、レオンスは思った。

 見ず知らずの少女のためにここまで身体を張ることになるとは。

 

 

「僕ほどのフランス紳士は、そうはいないだろうね」

 

 

 自嘲気味にふふっと笑って、レオンスは駆け始めた。

 見返りも、まして意味も無い。

 ただ、そうすべきだと思っての行動だった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 怖かった。

 いったい何が起こったのかがわからなくて、キサは物置の中で身を縮ませていた。

 目の前に転がっているニシンの缶詰が、妙にシュールだった。

 外はすっかり静かになっていたが、外に出る気にはならなかった。

 

 

「か……隠れないと」

 

 

 ぼうっとしている場合では無かった。

 冷凍庫では無いので環境的には問題なかったし、物置だけに隠れる場所はいくらかありそうだった。

 もし問題があるとしたら、高い位置の小さな窓――しかも開かない――しかない閉鎖された空間で、埃っぽいと言うことだろう。

 

 

 幸い、キサはそうしたことを忌避する少女では無かった。

 どこかしらに隠れようと物置の奥へと入り込んで、軽そうな荷物をどかし始める。

 幸い、缶詰やビスケットの箱をいくつかどかして隠れ場所を作ることが出来た。

 物置のドアには内側からカギがかかっているので、じっとしていれば見つかることは無いはずだった。

 

 

「――――ねぇ」

 

 

 そのはずだった、のだが。

 不意に、視界の端で白い光の粒子が揺れたような気がした。

 きらきらと。

 

 

「そんなところで、何をやっているの?」

 

 

 当然、驚いて振り向く。

 しかしその時、ずるっと手が滑ってしまって、尻餅をつきながらになってしまった。

 だが、とにかく――振り向いた。

 するとそこに、女の子がいた。

 

 

 キサがどけた缶詰やビスケット等が入ったダンボールを器用に積んでいて、その上に座っていた。

 見るからにバランスが悪くで、今にも崩れてしまいそうなのに、何故かそうはならない。

 ただ、その不安定さが心配になる。

 一方で、そこに座る女の子はそうした心配の色をまったく見せていないのだった。

 

 

「あ……あなた、誰? どうやって入って来たの?」

 

 

 繰り返すが、窓は無くドアにはカギがかかっている。

 こじ開けるとかならばともかく、音も無く入って来られるわけが無い。

 あるいは最初から中にいたのかとも思うが、この狭い空間でそんなことが可能なのか。

 それだけでも警戒に値すると言うのに、この女の子はどこか妖しい。

 

 

 何故か、頭にズキリとした鈍痛が走る。

 

 

 さらりと流れる銀色の髪に、ほのかに輝きを見せる瞳、人間離れした美しい造形。

 もし神が自身の移し身を造るとしたらこうするだろうという、そんな女の子だ。

 ただし、同じ人間だとは思えない。

 これは()()()()()()()()()()()()

 

 

「あ」

 

 

 気が付けば、女の子が目の前にいた。

 鼻先触れ合う程の位置、いつの間に移動したのか、過程がわからなかった。

 余りにも綺麗で、そして恐ろしい、かんな顔が目の前にあり、あまつさえ頬に手を添えて来て。

 

 

「んっ……!?」

 

 

 何も言わずに、そっと、そして深く唇を重ねてきて。

 口内に冷たいような熱いような、そんなものが侵入してきて。

 頭の鈍痛が、強くなった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 走馬灯と言うのは、もしかしたらこう言うものなのか。

 自分の半生を追体験すると言うのは、そう何度も出来るものでは無い。

 と言うか、普通は一度だって出来ない。

 そして、わかったことが一つ。

 

 

 人間は時に「あーあ、人生をやり直せたらなぁ」とか言い出すものだが、キサ――否、()()()()はそうした意見に今後は絶対に「否」と答えると決めた。

 何故か?

 人間の精神は、人生を二度やるには脆すぎるからだ。

 

 

「――――――――ッ!!!!」

 

 

 酩酊感にも似た耐え難い感覚に、紀沙は胃の中のものを吐き戻した。

 口の中が苦く酸っぱく、年頃の少女として出来れば避けたいことだが、床に唾液を吐き捨てる。

 それでも、胸中の不快感は消えることが無かった。

 冷たい、嫌な汗の感触が消えることは無かった。

 

 

 例えが難しいが、2時間の長編映画を5分で見られるように圧縮し、しかも瞼を押さえられて瞬きも許されずに見終えたとしたら、こんな状態になるのかもしれない。

 もちろん、音声もすべて5分に圧縮されている。

 ダイジェストでも早送りでもなく圧縮、2時間かけて理解する情報量を5分で叩き込まれると、頭脳の防衛本能で肉体にダメージが来るのだ。

 

 

「あ、酷いなぁ。流石のボクも傷ついちゃうよ」

 

 

 それも、自分の人生だ。

 生まれてから、幼少時、少女時代と学生時代、そして軍人の時代へ。

 失ったことや裏切られたこと、奪われたものや、失敗したこと。

 絶望も後悔も、もう一度味わわされるのだ。

 

 

 何よりも。

 何よりも、思い出してしまった。

 自分が穢されてしまった身だと、ナノマテリアルに犯された身体だと思い出してしまった。

 そして。

 

 

「……スミノ」

「はぁい、艦長殿。キミのスミノはここにいるよ」

 

 

 じろり、と、スミノを見つめて、紀沙は言った。

 

 

「私は誰?」

「艦長殿は艦長殿じゃないか。うふふ、おかしなことを言うなあ」

 

 

 クスクスと、耳障りな声が耳朶に響く。

 それは頭の中で反響して大きくなるばかりで、紀沙は不快そうに頭を振った。

 結果、頭痛が増した。

 

 

「……まったく、冗談じゃないよ……」

 

 

 呟くようにそう言って、立ち上がる。

 よろよろと立ち上がるその姿は、生まれたばかりの小鹿が始めて立とうとする姿にも似ている。

 それすらもにやにやと見つめながら、スミノはあえて言った。

 

 

「どこへ行くの?」

 

 

 紀沙は答えなかった。

 足を引き摺るようにして歩き出す、その肩に、ふわりと統制軍の軍服の上着がかけられた。

 スミノがやったのだろう。

 嗚呼、帰って来たのだと、この時になぜかそう思った。

 

 

 それは良いことなのか、悪いことなのか。

 ただ一つわかっていることは、白く輝き始めた紀沙の瞳から、一筋の雫が零れ落ちたと言うことだけだ。

 胸の奥で、何かが()()()と疼いていた。

 

 

「……母さん」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 レオンスは、最初に紀沙を攫おうとした男と取っ組み合っていた。

 護身用に拳銃を持っていたまでは良かったのだが、やはり素人、威嚇以上の効果は無かったようだ。

 今は掴み合いのような殴り合いのような状態で、車両の通路を転げ回っていた。

 激しい音を立てて、目まぐるしく上下が入れ替わる。

 

 

「ちょ、おまっ。マジで良い加減に……おらぁっ!」

「ぐはっ!」

 

 

 しかし地力の差か腕力の差か、組み伏せられてしまった。

 レオンスの相手は、特別な訓練を受けているのだから、ある意味では当たり前の結果だった。

 レオンスは床に押さえつけられて、動けなくなってしまう。

 

 

「だああぁ~、しんどっ。どんだけ手をかけさせるんだよ」

「うう、くそお……!」

 

 

 これから自分はどうなるのだろうか、とレオンスは今後の自分を想像した。

 この連中は紀沙を狙って列車を襲ったのだから、当然、彼女の居場所を聞き出そうとするだろう。

 おそらく紀沙はあの場所から動いていないだろうから、レオンスが一言喋ればすぐに見つかる。

 つまり今のレオンスに必要なのは、沈黙だった。

 

 

 それも、ただの沈黙では無い。

 これ以上無い程の、守りを固めた城砦が如き沈黙だ。

 極端な話、喋ってしまうくらいなら死を選んだ方が良い、と言えるくらいの沈黙だ。

 だからレオンスは、何も喋らないことを自身に化した。

 ――――その時だった。

 

 

「な……」

 

 

 その時、レオンスは信じ難いものを見た、と言う顔をした。

 それはそうだろう。

 何故ならば彼の目には、ここにいるはずの無い、いてはならない少女の姿が映ったからだ。

 隣の車両へと通じる扉が開くのが遠目に見えて、そこには。

 

 

「キサ!」

 

 

 紀沙がいた。

 最初に、そう、最初に彼女を海岸で見つけた時に着ていたような、軍服の上着を羽織っていた。

 いや、そこは重要では無かった。

 重要なのは、紀沙はここに来てはならないと言うことだった。

 

 

「キサ、来ちゃだめだ! 早く逃げるんだ! こいつらはキミを!」

「あっれ、俺すっげ悪者くせー」

 

 

 はっとした。

 紀沙の様子がおかしいからでは無い。

 静かに佇む紀沙の雰囲気が、今まで(キサ)とは明らかに違った。

 今まではどこか、自分自身を見失ってどこか儚げだった。

 それがどうだろう、今は確かな足取りで歩いているではないか。

 

 

(ああ、そうか)

 

 

 この時、レオンスは悟った。

 今、自分の役割が終わったのだと。

 誰に何を言われたわけでも無い、ただ、唐突にそう感じたのだ。

 紀沙は、すべてを思い出したのだと。

 

 

「キミは、キミ自身を取り戻したんだね」

 

 

 ああ、何も分からず不安げにしていたあの少女の面影はもうどこにも無い。

 自分が何者かをはっきりと思い出し、歩いているのだろう。

 紀沙の両の瞳の光が、レオンスにそう教えてくれる。

 そう感じ取って、レオンスは全身から力を抜いた。

 

 

 守れたのだろうか、僕は。

 今度こそ誰かを守れたのだろうかと、そう思った。

 かつて欧州大戦の混乱の中、逃げ惑うばかりで家族を守れなかった、この自分が。

 そして。

 

 

「うっ……」

 

 

 かしゅ、と、首筋で何か空気の抜けるような音がした。

 それはエアー式の注射器で、彼を押さえている男が何らかの薬液をレオンスに打ったのだ。

 それが麻酔や睡眠を誘発するものとわかったのは、すぐに意識が遠のいたからだ。

 とても眠い、そう思ったことだけを覚えていた。

 

 

「…………」

 

 

 最後に一目、近くで顔を見たかった。

 そう思って、レオンスはゆっくりを目を閉じていった。

 そして、夢を見ない程に深い眠りへと落ちていった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――列車が、引き返していく。

 紀沙はそれを、列車の外から見送っていた。

 それも駅からでは無く、停車していたそのままの位置からだった。

 列車はこれから北へと引き返し、紀沙達のことを報告するのだろう。

 

 

(ありがとう、レオンスさん。ごめんね)

 

 

 レオンスは、列車の中だ。

 今も気を失っていて、そのままの別れとなった。

 きっと、二度と会うことは無いだろう。

 そう思って見送っていると、ぽつぽつ、と空から雫が落ちて来た。

 

 

 雨だ。

 あんなにも天気が良かったと言うのに、いつの間にか崩れていたらしい。

 気が付けば雨足は徐々に強まっていき、本格的な雨になっていった。

 傘は、差さなかった。

 ()()()()()()()()()

 

 

「さーて、艦長ちゃん。これからどうする?」

 

 

 食堂車で紀沙とレオンスを襲ったのは冬馬だった。

 それから、静菜である。

 もっとも冬馬にしろ静菜にしろ「襲った」と言うつもりは無くて、彼らは紀沙の確保に動いただけなのだった。

 そうさせてしまったのは、他ならぬ紀沙である。

 

 

「イ404は副長の指揮の下、すでにロリアン方面へと転進しています」

 

 

 静菜の言葉に、「そう」と言葉短く応じる。

 謝るべきだろうか?

 そうべきなのかもしれない。

 世話をかけたと、手間をかけさせたと謝罪すべきだったのかもしれない。

 

 

 しかし、紀沙はそうしなかった。

 求められていないと、そう感じたからだ。

 助けられるのが当然と、そう思っているわけでも無い。

 ただ、謝罪したり感謝したりするのは、何か違う気がしたのだ。

 

 

「――――ロリアンへ」

 

 

 だから、ただ次の目的地を告げた。

 ゾルダンが「行け」と言った地へ行く、ロシア大統領に約束したクリミアへの通り道でもある。

 そこに何があるのかは、未だにわからないところがある。

 だが、もはや自分がそこへ行くのは運命付けられているとすら思えるのだった。

 

 

 レオンスは、そこに取材対象がいると言っていた。

 彼はついに取材対象が何なのかを紀沙に語らなかったが、今なら何となくわかる気がした。

 ロリアンにはきっと、霧が紀沙達を待っているのだろう。

 そして紀沙達を待っているのは、きっと()()()()()

 

 

「艦長殿」

 

 

 そんな紀沙に、スミノが語りかける。

 紀沙が視線を向けると、相変わらずにっこりと微笑んで見せる。

 その両の瞳は、()()()()()()()()

 紀沙の瞳が、白く染まった()()()()()()()()()()だ。

 

 

 そして、嗚呼、母よと紀沙は胸中で呟いた。

 もはや手の届かないところに逝ってしまった、最後の時間すらも奪われた不遇の母よと。

 意気地なしの傍観者よと、紀沙は母を想った。

 すべてを自分に託して消えてしまった、出雲の血族よと想った。

 

 

「おかえりなさい」

 

 

 貴女の信頼と期待は、今の自分には重過ぎると。

 紀沙は、そう想った。

 ねぇ、兄さん――――……?




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

と言う訳で、次回からロリアン編。
たぶんこことクリミアが物語のターニングポイントと思っているので、いろいろ明かしていきたいですね。

それでは、また次回。

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