ブローニュ・シュルメールは、ドーバー海峡に面したフランス北部の港町だ。
海から入り込んで来る風が冷たいこの季節、人々は日差しが強く眩しい時間帯でも厚着をしている。
特に早朝の市場は寒く、白い息を吐きながら商店主達が朝食の買い出しにやって来た客に声をかけている。
「おっちゃん、オレンジ3つ。それとぶどうジュースも貰えるかな」
「らっしゃい! っと、何だレオンスじゃねぇか。良い朝だな!」
「まったくだね。今日はいくら?」
フランスは農業国だ。
戦時下にあっても食糧だけは豊富にあったので、都市部でも食糧不足に陥ることは無かった。
一方で工業力は心もとなく、それが本来は格下であるスペイン軍を倒し切れなかった遠因になった。
しかし今は、それすらも気にする必要が無かった。
戦争は終わったのだ。
緋色の艦隊への降伏、すなわち敗戦によって、フランスは平和になったのだ。
軍や政府にとっては不名誉なことだろうが、徴兵の憂き目に合う――志願制だったが、2年前に徴兵制になった――市民からすれば、終わってくれれば何でも良かったのだ。
賠償金も無く領土の喪失も無い、緋色の艦隊が要求したのは即時の停戦だけだったからだ。
「へい、確かに。お、そういや今は1人じゃないんだったな。こっちのリンゴも持ってけ!」
「本当かい? 有難うおっちゃん!」
「前見て走れよー!」
市場を行き交う人々の表情も、明るいものだった。
夫の生死を案じる妻も、孫の将来を憂う祖父も、空襲に怯える子供もいない。
フランスは、<
祖国の平和に、普段は国外を飛び回る生活をしているレオンスも、安堵を覚えていた。
「あら、レオンス帰ってたの?」
「おはよう、おばさん! 今回は少しこっちにいられそうだよ」
「そうなの。じゃあまた夕食に来て頂戴。取材の話を聞きたいわ」
「ああ、そうするよ!」
同じような形の石造りの建物が並ぶ通りを駆けていると、数百年前の時代に迷い込んだかのような錯覚を覚える。
近所のおばさんに声をかけて、レオンスは自分の部屋があるアパートの階段を駆け上がっていった。
401号室。
そのドアの前で立ち止まると、レオンスは不思議な行動をした。
パンやオレンジの入った紙袋を抱えたまま、少し身嗜みを整える仕草をしたのだ。
ここはレオンスが借りている部屋なので、つまり我が家だ。
我が家に入る前に身嗜みを整える人間は普通いないし、「良し!」などと気合を入れる必要も無い。
そして、ガチャリとドアを開けた。
「――ただいま、キサ! 今日は良いオレンジが買えたよ」
「あ、おかえりなさい。レオンスさん」
ドアを開けると、東洋人の少女が笑ってレオンスを迎えてくれた。
レオンスは心なし声を弾ませながら、部屋に入ってドアを閉めたのだった。
◆ ◆ ◆
簡単だが温かみのある朝食の席に、カフェオレの甘い香りが漂った。
こぽぽ、と、小さなカップにコーヒーを注いで、キサはそれをレオンスに渡した。
ふわっと上がる湯気に、レオンスは笑顔を浮かべた。
「はい、どうぞ。レオンスさん」
「ありがとう、キサ」
キサと言うのが、その東洋人の少女の名前らしい。
淡い色合いのケープを羽織っていて、大人しめな雰囲気と相まって病弱そうな印象を受ける。
そして実際、ケープの下は薄く頼りなさそうなネグリジェだった。
何かしらの事情で療養中、と言った風だった。
レオンスは、そんなキサを何かと気遣っている様子で、パンにジャムを塗ったりオレンジを剥いてあげたりしていた。
慣れない手つきで淹れたキサのコーヒーも、美味しそうに飲んでいる。
年齢がさほど離れていなさそうなため、兄妹のようにも見えてくる。
「市場も賑やかだったよ、皆、家から外に出ようって気になってるんだ」
「そうなんだ。私も見てみたいな」
「あー、キサはまだやめた方が良いよ。その……外国人はまだ、さ」
「あ、うん……そうだよね」
だが、この2人は明らかに兄妹では無い。
と言うか、人種がそもそも違う。
レオンスは生粋のフランス人で、親戚に東洋人と結婚した者もいない。
大体、レオンスの家族は欧州大戦の戦火の中ですでに亡くなっていたし、何より、つい先日までこの部屋にはレオンスだけが住んでいた。
そこに、ある日キサが転がり込んだと言う形だった。
ではどうして、そんなことになったのか?
このご時勢に異人種の少女に庇を貸すなど、偏見を承知で言えば物騒の一言である。
何かが間違えば、身の破滅を呼びかねない行動だった。
「あ、それで! そう、それで、どうかな?」
取り繕うように手を振って、レオンスは言った。
「……何か、思い出せた?」
レオンスのその言葉に、キサは表情を曇らせた。
カップをテーブルに置いて、通りが見下ろせる窓の方へと視線を向ける。
緩やかな朝の風が、カーテンをゆらゆらと揺らしている。
その揺れを見つめていると、不思議と何かを急かされているよな気がしてくる。
「何も」
ぽつりと、呟くようにキサは言った。
「何も、思い出せない……」
キサは、レオンスの下に来るまでの記憶を失っていた。
◆ ◆ ◆
つい先日のことだ。
レオンスが取材がてら海岸を歩いていた時、浜辺に打ち上げられている少女を見つけた。
それがキサだった。
放っておけずに、レオンスはキサを街まで運んで介抱したのだ。
『おい、大丈夫か!? 名前は言えるか!?』
このご時勢に海に出る人間は限られるので、浜辺にこんな少女が倒れているとは思わなかった。
異国人だと言うのは一目でわかったので、言葉が通じるかが不安だった。
幸いレオンスは英語を話せた、そしてもう一つ幸いなことに彼女も英語を話せた。
ただキサの意識は朦朧としていて、言葉はほとんどうわ言に近かった。
『……かあさん……いかないで……』
母親と一緒だったのだろうか。
しかし浜辺を見渡してみても、キサ以外の誰もいなかった。
捜索など出来るはずも無かったから、それが少し心残りだった。
後でもう一度探しに行ったが、やはり誰もいなかった。
ただ、知り合いの闇医者に診て貰った時――無国籍者や永住登録をしていない異国人は、正規の病院を受診できない――には、何を聞いても「わからない」の一点張りだった。
何らかの強い肉体的・精神的ショックによる記憶障害、それが闇医者の診立てだった。
要するに、お手上げと言うことだった。
名前だけは、着ていた衣服に刺繍されていたからわかった。
『レオンス、関わり合いにならない方が良い。放り出しちまえよ』
忠告のつもりだったのか、闇医者はそう言った。
確かに、このご時勢に見知らぬ行き倒れの東洋人の少女に関わるなど、自殺行為に等しかった。
関わり合いにならないのが、正しい対応のはずだ。
それはレオンスにも良くわかっていたし、理解もしていたはずだった。
それでも、レオンスはキサを受け入れた。
理由は、キサが最初に発したうわ言だった。
母を呼び止める声に、強い既視感を感じたのだ。
かつて戦火で亡くなった自分の家族が、同じことを呟いて死んだ……。
「そうか。キサ、そんな顔をしないで。ゆっくり思い出していけば良いんだ」
「……うん」
「ほら、笑ってキサ。せっかくの美人が台無しじゃないか」
そう言う意味で、レオンスには僅かな罪悪感があった。
きっと義侠心や善意で助けたのでは無く、自分が失った何かを埋めるために利用しているだけ――そんな気持ちが、レオンスにはあった。
それでも、放ってはおけないと思ってしまったから。
だからキサの記憶が戻るまでの束の間、僅かな罪悪感を抱えながら、レオンスは彼女を守ろうと決めたのだった。
◆ ◆ ◆
「……モルビアン?」
朝食が終わった後、食器を片付け終えたレオンスが言った単語を、オウムのように繰り返した。
キサの手元には編み物があって、手慰みにマフラーなどを編んでいる。
何故かこう言う細々としたことは身体が覚えていて、教わらなくとも出来た。
それよりも、モルビアンだ。
モルビアンと言うのは、フランス西部の一地域のことだ。
大西洋に飛び出たブルターニュ半島の南側に位置しており、ブルターニュと言う名前だけなら聞いたことがあるかもしれない。
レオンスの口から出たのは、次の取材先の名前だった。
「そっちの方に、僕の取材対象が来ているらしいんだ」
レオンスがフリーの記者であることは、キサも知っていた。
ただ、レオンスは自分が何を取材しているのかについては話してくれなかった。
余りにも頑なに話してくれないものだから、かえって気になってしまう。
それに、その
奇妙なことだった。
キサはレオンスの取材対象について何も聞いていないのに、何故興味を引かれるのだろう。
気付いた時、口に出していた。
「その取材、私もついて行っちゃだめ?」
「え? いや、それは……」
案の定、レオンスは渋った。
しかし、キサには説得する自信があった。
「私ひとりじゃこっちの生活も辛いし」
「う、まぁそれは確かに」
「それに、家に篭もってばかりじゃ記憶も戻らないと思うの」
「う、うーん」
実際、無国籍のキサがひとりで生活するのは難しい。
レオンスの取材旅行の期間はわからないが、1日や2日と言うわけでは無いだろう。
そのあたりはむしろレオンスの方が良くわかっているので、弱いところだ。
ここまで来れば、もう一押しである。
「それに、外に出てみたい。いろいろな物を実際に見て、聞いて、触って。経験していきたいんだ」
これは本音。
好奇心、単純にキサはもっと外の世界を見てみたいのだ。
家の中に篭もってばかりでは、色々と考えてしまってかえって気が滅入って来ると言うものだった。
そうしてじっと見つめていると、レオンスはふぅと息を吐いた。
「……わかったよ。一緒に行こう」
「ありがとう、レオンスさん」
「まったく、キミには敵わないよ」
手を合わせて喜んで見せれば、苦笑が返って来た。
割と自然とこう言うことが出来るのは、記憶を失う前の自分も似たような性格をしていたのかもしれない。
しかし、そこまでだった。
「それで、モルビアンのどこに行くの」
「ああ、ええと……港町だよ、ロリアンって言うところなんだ」
「ロリアン……?」
――――行け――――
「え――――……」
「……? キサ? 大丈夫かい、顔色が……キサッ!?」
「え、え……え?」
――――ロリアンに行け、と、誰かに言われた気がする。
あれは、あれは誰だっただろう?
知らない、覚えていない。
でも、
「ロリ……ロリアン。ロリアン、に行かなく、ちゃ?」
「キサ、しっかり――キサッ!」
「いかな、行かなくちゃ、ロリアン……」
ロリアンに行け。
耳鳴りのように頭の中で繰り返される声に、キサは視界がぐるぐると回るのを感じた。
視界の中で慌てた顔のレオンスが回っている。
座っているのか倒れているのか、わからない。
それでも、キサの頭の中にはもはやロリアンと言う港町の名前しかなかった。
行かなければ。
行かなければ、ロリアンに。
強迫観念のように、それだけをブツブツと呟いていた。
◆ ◆ ◆
もし運命と言うものがあるのなら、それはきっとこう言うものを言うのだろう。
あの少女はどんな状態になっても、ロリアンに行く運命なのだ。
人間でなくとも、なるほど「運命」と言う言葉で片付けたくなってくる。
「私は、それを眺めている傍観者でありたい」
などと呟いてみる反面、妙なところでアグレッシブなところがあるユキカゼは、こうして陸に上がってアパートの一室を借り、レオンス家の様子を日がな1日眺めているのだった。
レオンスの部屋の真向かいのその部屋は、フランスのアパートにも関わらず畳が敷かれていた。
おまけに桐箪笥や生け花まであって、部屋だけ見れば日本にいると錯覚しそうだった。
そもそも、『ユキカゼ』のメンタルモデル自体が着物姿の少女である。
ちなみに、これらの
最も数秒あれば元通りに出来るので、仮に踏み込まれても問題は無いのだった。
まぁ、そもそも踏み込まれることが無いわけだが……。
「ただいま戻りました」
するとそこへ、別の少女がやって来た。
玄関から入って来たその少女は、『ユキカゼ』よりはずっとフランスに馴染む容姿をしていた。
金髪のおさげに眼鏡をかけた、細身の割に胸元が豊かで、衣服のサイズが合っていないのか窮屈そうに見える少女だった。
「おかえりなさい、『イ8』。何か目ぼしいものはありましたか」
「はい。今日は古代エジプトのピラミッドから発掘された蛇遣い用の壷――の贋作を購入してきました」
「またですか。あなたこの間はハプスブルク帝国の宮廷で使用された絨毯――に似ているとか言うタペストリーを買って来ていたでしょう。たまにはまともな物を持って来なさい」
『イ8』、極東からヨーロッパに派遣されている巡航潜水艦である。
『ユキカゼ』来欧時から行動を共にしている艦であり、この度に総旗艦『ヤマト』より演算力を分け与えられてメンタルモデルを得るに至った。
現在は『ユキカゼ』のサポート役兼会話相手として、一緒に暮らしている。
ただ仰々しい謳い文句のパチモンを好んで集めてくるので、そこは『ユキカゼ』には理解できなかった。
「それで、彼女は?」
『ユキカゼ』の非難めいた視線などどこ吹く風、『イ8』は奇妙な模様の壷を鑑賞し始める。
それを横目に溜息を吐きながら、『ユキカゼ』は窓辺に頬杖をついた。
視線の先は、レオンスの部屋である。
今はカーテンが開いているが、仮に閉められていても『ユキカゼ』の眼には関係が無い。
「……
呟いた後も、『ユキカゼ』は眺め続けていた。
そうすることが好きなのだと言うことに、『ユキカゼ』は気付き始めていた。
世界を見つめる彼女の瞳は、白く明滅していた。
◆ ◆ ◆
そしてもちろんのこと、『ユキカゼ』と『イ8』を動かしているのは総旗艦『ヤマト』である。
彼女自身は太平洋から動かず、その場にいながらにしてすべてを見ている。
まぁ、要は『ユキカゼ』達を自分の目として使っていると言うわけだ。
本当ならもっと適任の艦に任せたかったが、物事はそうそう上手くはいかない。
「貴女から会いたいだなんて、夢かと思ったわ」
南極海。
太平洋、大西洋、そしてインド洋が結節する唯一の大洋である。
そしてそれぞれの海に別れた『ヤマト』級の
「私達は夢を見ないわ、『ヤマト』」
「そう……そうね、『ムサシ』。その通りだわ」
『ヤマト』と『ムサシ』は、氷結した海で向かい合っていた。
巨大な一枚の氷河を間に挟む形で向かっている形で、そして氷河の上には2人の
そこにいるのは、超戦艦『ムサシ』艦長である千早翔像と、そして『ヤマト』の片割れコトノだった。
いかつい男性と華奢な少女が正面きって向かい合っている様は、どことなくシュールですらある。
「そうですか。緋色の艦隊は群像くんに」
「ああ、欧州大戦は事実上すでに終わっている。オレの当初の役割はすでに終わったと言って良いだろう」
「<騎士団>は?」
「今は『
欧州大戦を戦っていた国々は、すでに緋色の艦隊に降伏した国、ドイツとその同盟国、そして件の<騎士団>の占領された国、の3つに分断されている。
<騎士団>がある場所を目指して西進を続けている現状、他の2勢力は手を組まざるを得ない。
霧と人類の同盟、共通の敵を前にしてもそれが可能なのかどうかはわからない、ただ。
「急がないといけないですね、千早のおじ様」
「今、
ただ、群像がドイツ政府を説得しに行っていた。
それが吉と出るか凶と出るかは、それこそまだわからない。
ロシアや北欧諸国の出方も不透明な今、確たることは何も言えなかった。
「……北さんをやったそうだな」
「はい。真実に一番近い場所にいたので、退場してもらうことにしました」
「それだけでは無いだろう」
ふぅ、と、ここで初めて翔像が人間らしい仕草をした。
溜息、翔像がするとどうにも似合わない。
「紀沙のためだ」
「……群像くんは、完璧ですから」
それに比べて、紀沙はどうだろう。
人望は父に劣り、力は兄に劣り、器は母に劣る。
ここまでの劣等はなかなか無い、泣けてくる程だ。
それでも、紀沙にしか出来ないことと言うのは必ずあるのだった。
「だから紀沙ちゃんのために必要なことは、ひとつも躊躇せずにやります」
そう言ったコトノの顔は、それはそれは綺麗な顔で。
「私は、そのために目覚めたんだから」
それはそれは、今にも泣きそうな顔をしていた。
◆ ◆ ◆
――――わたしはだれなのだろう?
ふとした瞬間、キサは自分に問いかける。
窓枠に手をついて通りに身を乗り出しているキサの目には、きらきらと輝くフランスの星空が見える。
地も海も違うが天は同じと誰かが言った。
ならば記憶を失う以前の自分も、どこかでこの空を見ていたのだろうか。
天よ、夜空よ、どうか教えておくれ。
わたしはだれ?
もはや、天空より覗き見る者以外に知る者は無し。
「……なんて」
自分の詩文の才能の無さに寒気すら覚えつつ――最近、フランス語の勉強がてら詩集を読んでいる影響だろう――キサは、ほう、と溜息を吐いた。
夜の空気は冷たく、芽生え始めた眠気を溶かしてしまう。
心地よい空気だった。
しかし、どこか
(私は、
まぁ、それ自体は明らかに人種が違うので、別に驚くようなことでは無かった。
では、異国人の自分がどうしてこんなところにいるのか。
肝心の、そしておそらくは唯一の謎だけが、影法師のように常にそこにあるのだ。
そして面倒なことに、答えは一切わからない。
「……ロリアン」
言葉にするとまたこめかみが痛んで、嫌な気分になる。
だが、何故か頭から離れない。
行かなければならないと言う切迫した気持ちが、胸を突いてなくならないのだ。
そして実際、これから向かおうと言う場所だ。
「そこに行けば、私は私が誰なのかわかるかもしれない」
怖くはある。
何か得体の知れないものに触れるかのような、そんな不安はある。
しかし、このまま自分が何者なのかもわからないままでいたくは無かった。
それが嫌なら、この部屋の外に出なければならない。
「キサ、まだ起きているのかい?」
無理しないで、と言って来るレオンスに、「もう少し」と返す。
レオンスには感謝している。
見ず知らずの、それも正体不明の異国人の少女を匿ってくれたのだ。
それこそ、どう言って感謝の気持ちを伝えれば良いのかわからないくらいだ。
でも、ふと思う時がある。
レオンスがキサを見る視線に、時折、懐かしさと哀しさを感じることがある。
もしかしたらレオンスは、キサを通じて誰かを見ているのかもしれない。
それが誰なのかまでは、やはり、キサにはわからないのだった。
◆ ◆ ◆
霧の大戦艦『
かつて『フッド』の呼びかけて一度だけ開かれた霧の旗艦会議、その会議に欧州方面地中海艦隊の旗艦として参加していた、フリフリのドレスとスイーツのミルフィーユをこよなく愛していた、あの『ダンケルク』である。
彼女は、今、危機にあった。
「駄目じゃ、もっと距離を取れ距離を! 近付きすぎると撃たれるぞ!」
艦対地戦闘。
実を言えば、それは霧の艦艇にとって最も苦手とする戦闘だった。
と言うのも、『アドミラリティ・コード』が地上への攻撃を制限しているからだ。
そのため、艦隊による地上攻撃のノウハウが少ないのである。
一方で、
だから彼らは地上を縦横無尽に走り回り――頑丈で小回りが非常にきくので艦砲で捉えきれない――一切の遠慮なく、対艦砲撃を加えてくるのだ。
ただの戦車なら何の脅威でも無いが、霧と同種の力による砲撃である、当たれば……。
「『ゴリツィア』、避けい!」
「間に合わな……いたあぁ――――ッ!?」
『ダンケルク』の僚艦である重巡洋艦『ゴリツィア』のメンタルモデルが、艦首に戦車砲の直撃を受けて甲板の上を転げ回っていた。
普通、戦車砲が重巡洋艦に致命的なダメージを与えるなどあり得ないことだ。
イタリアのブランド・ファッションに身を固めた美少女が鋼の甲板を転げ回っている様と言うのは、ひどくシュールだった。
「ええい、『ゴリツィア』は下がっておれ。代わりに『ブルターニュ』が前に! 『モガドール』、『ヴォルタ』も支援に回るのじゃ!」
<騎士団>との戦い、である。
彼らはすでにセルビアを陥落させ、さらにボスニア・ヘルツェゴビナを突破、クロアチアの制圧にかかろうとしていた。
内陸であればある程に霧の艦艇は攻撃しにくくなるが、海岸線での戦闘も必ずしも優位には立っていない。
すべては、『アドミラリティ・コード』により対地攻撃が制限されていることが原因だ。
それでも可能な限りの手段を尽くして、『ダンケルク』は<騎士団>の進軍を止めようと必死だった。
進軍の方向からして<騎士団>の目指す場所は明らかで、そしてそこにはまだ行かせるわけにはいかないのだった。
「だが、長くは保たんぞ――――『ビスマルク』よ……!」
<騎士団>の進軍の速度は尋常では無い。
『ダンケルク』の力を持ってしても、いつまでも止められないのは明らかだった。
◆ ◆ ◆
――――早く。
願いながら、念じながら、祈りながら、彼女は待ち続けていた。
早く、早くと、一向に現れない待ち人を今か今かと待っている。
それは恋人を待つように甘く、仇を待つように苦い。
「早く……早く、時間が無い」
霧の大戦艦『ビスマルク』は、フランス西部海域のビスケー湾に投錨していた。
雨の日も風の日もそこを動くことなく、じっと、対岸を
かつて、そこにはフランス海軍の基地があったと言う。
しかし温暖化の進展と共に基地はすでに海面下に沈み、その姿を見ることはできない。
だが、そこにあるものは基地よりもずっと大切なものだった。
『ビスマルク』姉妹にとってそれは、欧州海域の覇権よりも優先するべきものだった。
そのために、彼女は自分が存在しているのだと思っていた。
そしてだからこそ、今、彼女達は焦っていた。
「真っ黒な軍勢が、もうすぐやって来る」
「だから、早く来て」
時間が無い。
『ダンケルク』が押し留めている<騎士団>も、遠くない将来ここに来る。
だから、『ビスマルク』姉妹は焦りつつも待っているのだ。
彼女を。
「「……千早紀沙……」」
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
記憶喪失、定番ネタを使ってみました。
どんな目に合ったら記憶って戻るかな(え)
それでは、また次回。