その艦は、他の霧の艦艇から「孤独の女王」と呼ばれていた。
霧の欧州艦隊がヨーロッパ近海の封鎖を完成させて以後アルタフィヨルド――ノルウェー最北部――に配置され、そのまま動くことが無かったためだ。
艦の名は霧の大戦艦『ティルピッツ』、あの『ビスマルク』の
「……暇」
現在、スカンジナビア沖に常時配置されている霧は彼女1隻だった。
『ペトロパブロフスク』らロシア方面北方艦隊と境界を接する海域でもあり、今となっては人類だけで無くそちらも牽制しなければならない位置に彼女1隻しか配置されていないのは、2つ理由がある。
1つは『ティルピッツ』がデルタコアを有する大戦艦であり、強大な力を有しているからだ。
もう1つは、強力な海軍を持たないスカンジナビア諸国の海洋封鎖に大規模な艦隊が不要だったからだ。
さらに『ティルピッツ』はデルタコア保有艦でありながらメンタルモデルを一体に抑え、残りの演算力でアクティブデコイに北洋の氷を纏わせて
まぁ、つまり、他の艦による助力が必要無かったのである。
「……飽きた」
どうやら今も氷で駆逐艦を建造していたようで、氷の鎧を纏ったデコイが海上に浮かんでいた。
それを眺めながら、『ティルピッツ』のメンタルモデルは自らの主砲の上で大きな溜息を吐いた。
跳ねっ気の強い長い茶色の髪に光の見えない黒い瞳、青白い顔に血の通わぬ白い肌。
蝋人形の如く冷たい風貌、しかし身に着けているものが何故か日本のゼッケン付き体操服と言う寒々しい格好だった。
「……さみしい」
まぁ、何だかんだ理由をつけてはみたが。
誰よりも強く、誰よりも単独で行動できてしまったが故に。
そして『ビスマルク』の離反に端を発する欧州艦隊のゴタゴタもあり。
大戦艦『ティルピッツ』は、すっかり他の霧に忘れ去られてしまっていたのである。
「……なに?」
そんな時だった。
誰も訪れたことの無い彼女の海に、あるはずの無い訪問者――言葉にするだけで物悲しいが――が現れたのだ。
しかもそれは、海底からやって来た。
氷の海を掻い潜ってやって来たその霧の艦艇に、「
「……おまえは」
海底から現れた、その艦の名は――――……。
◆ ◆ ◆
イギリスで最も古いメーカー製だと言う
島国であるイギリスならではの特徴として、燃料が必要ない電気自動車仕様になっている。
だから走行音も静かなのだが、車の周囲が静かなのはそのせいだけでは無いだろう。
「走っている車が少ないでしょう?」
港から
何気に初めて声をかけられたので、紀沙は内心で少し驚いていた。
何しろ置物のように一言も声をかけて来なかったものだから、言葉が通じないのものと思っていたのだ。
ただ、ベーリング海の島で一度会ったことがある。
「イギリスは他国以上に資源が少ないから、軍以外に都市部で燃料車は使えないの。電力にも限りがあるから、
しかしこうして話してみると、声音は優しく物腰は柔らかだ。
ひとつ特徴があるとすれば、ずっと目を閉じていることだろうか。
白人特有の白面で瞼まだ閉じていると、美術品じみた美しさになる。
それにしても、資源……エネルギー不足か。
ロンドン、歴史や観光の本で名前くらいは聞いたことがあったが、想像とは大分違った。
舗装もままならない道路、改修されない建物、濁った川、草木の荒れた歩道。
通りにはほとんど人がおらず、かと思えば路地に何十人とたむろしているのが見えたりもする。
日本とイギリスは比較的似た環境だと思っていたが、日本よりも苦しいのかもしれない。
「そう言えば、まだちゃんと自己紹介はしていなかったかしら?」
ふわりと微笑んで、女は言った。
「私の名前はフランセット、U-2501のソナーをしているわ」
「……イ号404艦長、千早紀沙です」
U-2501、ゾルダンのクルーだ。
つまり兄や自分の攻撃を悉く回避していたのはこの女性の功績と言うわけで、フランセットはまさにU-2501の耳目と言うことだ。
イ404だと冬馬が相当するが、また随分とイメージが違うソナーだった。
「こうして見ると、チハヤ提督にはあまり似ていないのね」
「父を知って……って、当たり前か」
「そうね。私は――私やゾルダンは、提督に拾ってもらって、U-2501に乗るようになったのよ」
「拾われた……」
捨てる神あれば拾う神あり、なんて言葉が脳裏を過ぎった。
この場合、捨てられたのは娘で拾われたのは女だ。
ここだけ聞くと、翔像が死ぬほど駄目な人間になったように聞こえる。
「あの」
伏し目がちに、紀沙は言った。
「父は、どうして……?」
どうして、ヨーロッパで緋色の艦隊を率いて世界制覇などしているのか。
どうして、自分達を置いて出て行ったのか。
紀沙には、それがどうしてもわからないのだった。
そんなことをする必要も理由も、どこにも無いはずなのに。
群像だってそうだ。
母は「男とはそう言うもの」などと達観していたが、まだ紀沙はそこまで人生を悟れていない。
足踏みしたまま、進めないのだ。
「さぁ、それは私にもわからないわね」
そんな紀沙の心を、女性として少し先を歩むフランセットはどう思ったのだろう。
ひとつ確かなことは、紀沙の疑問に答えられるのは、結局のところ1人だけだと言うことだ。
――――車は、ロンドン市内の高級ホテルに入ろうとしていた。
◆ ◆ ◆
「キミは本当に予想外な
ホテルのホールで出迎えたゾルダンは、何とも言えない表情で紀沙を見つめていた。
紀沙にしてみれば、大きなお世話である。
クスクスと笑うフランセットに見送られながら、今度はゾルダンに案内される形になる。
人間2人がやっと通れる程の通路は、両サイドを間隔無く絵画で埋まっていた。
美術には疎いので、それらの絵画の価値についてはわからなかった。
擦れ違う人間はいない。
人の気配はするから、無人と言うわけでは無いだろう。
もしかすると、ホテル自体が緋色の艦隊の司令部として供出されているのかもしれない。
だとすれば、ここはすでに『ムサシ』の懐の中と言うことになる。
「さぁ、ここが千早提督の部屋だ」
最上階のスイートの前で、ゾルダンは扉を示しながらそう言った。
マホガニーの小さな扉を前にすると、流石に緊張した。
海上で、艦上での再会とはまた違う。
面と向かってと言う意味でなら、むしろ今回が本当の再会と言えるかもしれない。
……とは言え、じっとしているわけにもいかない。
意を決して、紀沙は扉をノックした。
すると。
「入れ」
と、中から声が聞こえた。
低い、耳に残る声。
耳朶から胸の内へと入り込んだそれは、どうしようも無い懐かしさを感じさせた。
ほとんど無意識の内に、紀沙は扉を開けた。
「……紀沙、か」
グレーを基調に整えられた部屋は、大きな机や機材を運び込んで執務室の体裁を整えていた。
だが部屋についてよりも、部屋の中央に立ってこちらを見つめる男性の方が重要だったのだ。
室内だと言うのにサンバイザーを着けて、黒の軍服調の姿で立っている。
じっと、バイザー越しに自分を見ているのだと感じた。
後ろで扉が閉まる音が聞こえて、紀沙はもう2歩、室内に進んだ。
「父さん」
言葉は、自然と口を突いて出た。
しかし、それ以上の言葉は出てこなかった。
感情が胸の内に染み渡って、上手く言葉になってくれなかった。
「……室内でバイザーは、やめた方が良いと思うよ」
代わりに、酷く生活感が漂うことを言った。
言った後で、少し後悔した。
「…………そうか」
しかし意外なことに、翔像は素直にバイザーを取った。
幼い頃の記憶には無い大きな傷痕が顔にあって、でも目は昔と同じように澄んでいて。
それが何だか嬉しくて。
紀沙は、少しだけ泣きそうになった。
◆ ◆ ◆
間がもたないことを嫌ったわけでも無いだろうが、しばらくすると食事が運ばれてきた。
時間的には、早めの昼食と言ったところか。
コースと言う訳では無く、メイド衣装の女性が押して来たキャスターには大体の料理がすでに乗っていた。
「お食事をお持ちしましたわ、お客様」
ただ、そのフリフリした衣装のメイドは『ムサシ』のメンタルモデルだった。
頭のフリフリや真っ白なエプロンドレスが非常に似合っていて、しかもニコニコと可愛らしく微笑んでいるものだから、その手の趣味の殿方が見れば胸を撃ち抜かれていただろう。
ただ彼女が霧の超戦艦だと知っている者からすれば、これだけ恐ろしいメイドはいない。
それにしても何故メイド。
そんなことを考えている間にも、ムサシがテーブルに料理を並べていく。
イギリス、いやイングランド料理と言うのだろうか?
ジャガイモとタマネギのオーブン焼き、燻製ニシンの塩漬け、ローストビーフとヨークシャプディング。
イギリス料理には詳しくないが、豪勢なのだろう。
「お料理のご説明を致しましょうか?」
「いらない」
事前に勉強して来たのか知らないが、ムサシは料理の説明がしたいようだった。
普通に断ったら、物凄く落ち込んでいた。
しゅんとして項垂れ、未練がましくちらちらと――閉じた瞼で――こちらを見てきた。
でも料理の説明を頼む気は無かった。
と言うか、説明されたところで郷土料理はわからない。
それにしても、拍子抜けだった。
何か話から始まると思ったのだが、そう言うことでは無く、翔像の纏う雰囲気も厳しいものでは無く、柔らかかった。
まるで、久しぶりの娘との食事を楽しんでいるように見えた。
「お父様、お料理のご説明は?」
「いや、私も良い」
「そうですか……くすん」
と言うか、あれは何なのだろう。
ムサシがメイド姿で落ち込んでいるのもかなりアレだが、それ以上に気になったのは、「お父様」などと言う翔像の呼び方だった。
霧であるムサシが、人間である翔像を呼ぶにしては不自然に過ぎる。
今も、翔像の言葉に感情を浮き沈みさえしているように見えた。
(どういう関係なわけ?)
この時、紀沙は確かに自分が嫉妬を感じていることに気付いた。
そして同時に、再認識する。
自分が知っているのは結局、子供の頃の父であって、それはもうずっと昔のことで。
今の父・翔像について、自分はどれだけ知っているのだろうかと、そう思った。
◆ ◆ ◆
千早翔像は、優れた軍人だった。
霧との<大海戦>において、イ401の鹵獲と言う唯一の
<大海戦>を生き延びた世界中の海兵で、千早翔像の名を知らない者はいない。
『翔像大佐がどうして日本を出奔したのか、ずっと考えていました』
17年前、その前年から人類の軍艦を襲い始めていた「幽霊船」――霧の艦隊に対して、世界各国が討伐艦隊を供出、海軍力を結集した上で霧の艦隊を殲滅することで合意した。
しかし国際連合創設以来初めて結成された国連軍は当初から足並みが乱れ、集結が遅れ、その間に霧の艦隊の急襲を許す結果となり、2日間の海戦で艦隊の7割と60万人以上の兵士が死傷した。
楓首相と北も、<大海戦>では翔像と同じ護衛艦を指揮する立場で参戦していた。
艦隊のほとんど失い、ほうほうの体で母港に逃げ帰り、楓首相本人は身体の機能のほとんどを失った。
あの<大海戦>は、とても戦いなどと呼べる代物では無かった。
一方的な蹂躙。
だからこそ、イ401を鹵獲した翔像の名は全世界に轟いたのだ。
『北さんは、翔像大佐こそ将来の日本海軍を背負って立つ人物だと信じていましたね』
その翔像がイ401に乗って海に出て、還らぬ人となった時、全世界の海兵が哀悼の意を伝えてきた。
そして大戦艦『ムサシ』と共に翔像が帰って来た時、全世界の海兵が衝撃を受けた。
よりにもよってあのショーゾー・チハヤが、人類を裏切るだなんて!
今や翔像と緋色の艦隊は、西ヨーロッパの覇者になりつつある。
『私には、どうしても翔像大佐が日本を、人類を裏切ったとは思えないのです』
翔像は、世界征服を目論むような俗物では無い。
<大海戦>の英雄が、「霧の力による世界平和」などと嘯くはずが無い。
かつての千早翔像を知っていればいる程、その確信は強くなるのだ。
何かがあった、あるいは何か理由があるはずだ、と。
「……千早は」
ぽつりと、呟くように北は言った。
「千早は、人類の行く末を誰よりも憂いていた。イ401の試験航海も、奴が自分から志願してきた」
『それが、翔像大佐の出奔と関係があると?』
「それはわからん。ただ、今も奴は人類のために行動している。そんな気がするのだ」
暗く冷たい、横須賀の海。
この海の果てで、何かが起ころうとしている。
首元のネクタイを撫でながら、北はそう思わずにはいられなかった。
◆ ◆ ◆
霧の規範『アドミラリティ・コード』は、すでに存在しない。
霧は、人間によって生み出された
そして、そもそも霧は人間を守るために生まれた存在である。
「『ナガト』はどうするかしら、この「真実」を前にして」
「んー、そうね。何もしないんじゃないかな、あの子は賢いから」
霧とは何者か。
霧はどこから来たのか。
霧とは、何を成すべくして生まれたのか。
人類は長くこの命題に答えを見つけることが出来なかった、霧自身ですらそうだった。
唯二の例外が、『ヤマト』と『ムサシ』だった。
霧において最初にメンタルモデルを獲得し、『アドミラリティ・コード』が前世紀に遺した人類評定を聞いた。
そして、ヤマトとムサシはそれに対して正反対の解釈を得た。
「『アドミラリティ・コード』が
『アドミラリティ・コード』は存在しない、しかし
霧は人間の手によって生み出された、しかし
霧は人間を守るための存在だ、しかし
タカオが横須賀で得た「真実」は、そうした矛盾を孕んだものだった。
「翔像のおじ様は、その矛盾に決着をつけようとしているんだと思うのよね」
コンコン、と、『ヤマト』甲板上の家庭菜園――軍艦の甲板を「家庭」と表現して良いのかはともかく――で作ったスイカを叩きながら、コトノは言った。
太平洋は今日も晴れて、真夏のような日差しが燦燦と降り注いでいた。
「中途半端な「真実」ほど、状況を悪化させるものは無いものね。今はまだ私達も太平洋から動けないし」
「そう言うこと、貴女の
「ビスマルクにも、もう少し我慢して貰うしか無いわね」
「あー、あの子も構ってちゃんなところあるからね」
不思議な会話だった。
ヤマトとコトノはコアを同一にする、いわば同じ固体であるはずなのに、まるで別個の存在かのように会話をしている。
『ナガト』のメンタルモデルにも見られた現象だが、少し違う気がした。
『ナガト』のそれを独り言の発展版だとすれば、こちらはまさに「会話」だった。
「タカオが見つけてきた真実は、それは確かに「真実」だけど、ほんの入口に過ぎないもの。何しろ、2年前に
それはコトノとしての記憶では無い、天羽琴乃としての記憶だ。
コトノは、天羽琴乃では無い。
しかし、
ヤマト自身が抱えるこの矛盾もまた、「真実」の入口だ。
「翔像のおじ様は、決めたんだね」
言ってしまえば、これまでは入口で足踏みをしていたようなものだ。
しかし、ここからは違う。
「真実」と言う名の扉を潜り、さらに奥へと進んで行かなければならない。
「……私も、そろそろ決めなくちゃなぁ」
モラトリアムは、そろそろ終わろうとしていた。
人類にとっても。
霧にとっても。
――――誰にとっても。
◆ ◆ ◆
「なぁ、お前らって親父っているか?」
「はぁ?」
いつものことだが、イ404のクルーはお留守番である。
機関室の連中や
そんな時、冬馬がふとそんなことを言ったのだった。
「親父……って、父親ってことかい?」
「そうそう」
発令所にいるのは、冬馬の他には恋と梓だけだった。
2人は冬馬の言葉に怪訝な顔をすると、互いに視線を合わせて肩を竦めた。
冬馬がまた何かくだらない話を始めたと、そう思ったのだ。
大方、紀沙が父・翔像に会いに行っているからそんなことを聞いてきたのだろう。
「俺ん
「……まぁ、今日び軍にいる奴は多かれ少なかれそんなもんだろ」
冬馬に限らず、今の時代、日本で貧困から脱する方法は限られる。
役所勤めになるか、統制軍に入隊するか、どちらかに関係する企業で働くかだ。
そして一番手っ取り早いのが、軍に入ることである。
健康であれば基本的に入隊できるし、入ってしまえば食事にだけは困らない。
「お、じゃあ梓姐さんもそう言う口?」
「まぁね」
だが、軍に入ると言うことは死がすぐ隣に来ることを意味する。
例えば梓の父親は、すでにこの世に亡い。
海兵だった父は、霧との戦いで命を落とした。
だから海軍に入ったと言う面も、あるにはあった。
その結果、父の仇である霧の艦艇に乗るとは皮肉だった。
ある意味で、紀沙に通じる部分はあるかもしれない。
だから紀沙の気持ちが少しはわかってしまって、情が湧いているのかもしれなかった。
でもそれを口に出して説明する気は無かった、何か恥ずかしいし。
「と言うか、何だい、いきなりそんな話」
「んあ? ああいや、艦長さんが親父さんに会いに行くって言った時、どんなもんなのかなって思ったんだ」
ふと笑って、冬馬は言った。
「10年ぶりに親父と会うってのは、どんなもんなのかなってさ」
(……そして、娘も裏切りやしないかってことかい)
方便の降伏が、本当の降伏にならない保証は無い。
まして父娘、疑念を生まないわけにはいかない。
だが梓は特に心配していなかった。
何故なら娘と言うものは、えてして父親と上手く行かないものなのだから。
◆ ◆ ◆
紅茶の国と言うだけあって、食後の飲み物は紅茶だった。
紅茶の種類などわからない――ムサシが説明したそうにしていたが――が、飲んでみると意外と美味しかった。
しかし紅茶の種類や味など、あまり関係が無いのかもしれない。
「父さんは、いま何をしているの?」
食事の後、あえてそう聞いてみた。
もちろん緋色の艦隊のことは知っているし、記者会見のことも知っている。
それでも紀沙は直接、こうして翔像に聞いてみたかったのだ。
今まで何をしていたの、どうして帰ってこなかったの、と言う言葉を飲み込んで。
父の今を、問うた。
そんなことをまともに受け取るなんて、それこそ馬鹿馬鹿しい。
「……私の目的か。そんなものを聞いてどうする」
「そんなものって。私が父さんのことを気にするのがそんなにおかしい? 母さんだって」
母・沙保里が、実のところ父・翔像のことをどう想っていたのかはわからない。
けれど、翔像がそんな風だとは思っていなかったはずだ。
家族を捨てて世界を征服したがるような、そんな俗物だなどと思いたくなかった。
と言うより、思えなかった。
母がいない今、それを知る権利は娘である自分にあるはずだった。
「…………」
翔像はしばしの間黙っていたが、紀沙は待った。
じっと見つめて視線を逸らさない紀沙に、小さな溜息が返ってきた。
そして、父は言った。
「……本気だよ、紀沙」
「え?」
言葉の意味がわからず、小さく首を傾げた。
すると翔像の口元に小さな笑みが生まれて、ますますわからなくなった。
「私は本気で世界を征服しようと考えているんだよ、紀沙」
「っ、そんなわけ!」
そんなわけが無い。
そんなつまらないことのために、わざわざヨーロッパくんだりまで来たのか。
10年も隠れて過ごし、死んだと思わせていたのか。
私達を捨てたのか。
翔像がイ401で航海に出た後、普通に戻って来てくれていれば。
そうすれば、自分達の人生はもっと違うものになっていたはずだ。
本当の、あったはずのもう一つの人生。
それを滅茶苦茶にしておいて世界征服だなどと、冗談にしては余りにもタチが悪かった。
「紀沙、まぁ考えてもみろ」
それなのに、翔像は平然としていて。
「人間と言うものは、本当に愚かだとは思わないか」
そんな、紀沙の記憶の中の父と、全く重なり合わないことを言うのだった。
母に会いたいと、心から紀沙はそう思った。
◆ ◆ ◆
欧州大戦に限らず、人類は世界の各地で戦争・紛争をしている。
アメリカを始めとする主要国の干渉や後ろ盾が無くなった西アジアはイスラエル・アラブ・ペルシャの三つ巴の紛争に宗派の争いが加わり泥沼と化し、アフリカ大陸はそれに輪をかけて混沌とし、インド・パキスタンが互いの首都に向けた核ミサイルはいつ発射ボタンが押されても不思議では無い。
「霧の海洋封鎖が完成して17年。共通の敵を前にしても人類は結束できなかった」
間違いでは無い。
例え海洋を失っても、世界の耕作可能地を皆で協力して開墾し、陸上の食糧や資源を分け合うことが出来ていれば、人類はここまで追い詰められはしなかったはずだ。
互いに手を取り合い、皆がほんの少しだけ我慢し合えばそれは可能だった。
それが出来なかったのは、ひとえに人類が互いに争ったからだ。
戦争は田畑を荒廃させ、流通路を分断し、一部が過剰な一方で他方で欠乏すると言う愚かな事例が相次いだ。
ロシアで穀物が余る一方、イギリスで深刻な食糧危機が起こるのはそのためだ。
戦争を止め、人口に応じた適正な食糧・資源配分政策さえ出来ていれば、ここまではならなかった。
「何千年も昔、文明も無い原始の時代。人類が小さな集落で共同生活を営むだけだった時代には、そんな世界が存在していたと言う」
確かに愚かだ、愚かなのかもしれない。
助け合えば皆が生きられるものを、自分達を統制し管理することも出来ないのだから。
そんな者達は、いっそ滅びてしまえば良いと思えてしまう程に。
「そして私はこの10年、霧と共に過ごすことで悟ったのだ。もはや人類は、自力では自らを救済することが出来ないのだと」
だが、だからと言って滅びて良いとは思わない。
そう、これは救済なのだ。
そして翔像は、10年の流浪の中で気付いたのだ。
「霧の力によってのみ、それは成せるのだと」
「本気で言ってるの、父さん!」
「本気だ。善性と言う目に見えないものよりも、力と言う目に見えるものが無ければ人類は自らを律することが出来ないのだ」
「……ッ!」
紀沙は息を呑んだ。
父の明らかな人類への背信の考えだけでは無い、翔像の纏う空気が変わりつつあることを敏感に察したのだ。
そしてこれは、この
「とは言え、
「父さん、そんな……そんな、まさか!」
「言ったはずだぞ紀沙、
翔像の両の瞳が、白く、電子の線が走るように輝いている。
あの瞳には見覚えがある、あの雰囲気には覚えがある。
あれは霧の力、体内にナノマテリアルを取り込んだ人間だけが見せる身体反応だ。
つまり今の紀沙と、同じだ。
どうして翔像がそんな状態にあるのか、紀沙にはわからない。
だが10年を霧と共に、『ムサシ』と共に過ごしていたと言う翔像だ、その機会はいくらでもあっただろう。
偶然か、それとも自ら望んでそうなったのか、そんなことはどうでも良かった。
「……父さん!」
対抗するには、紀沙も使うしか無かった。
両の瞳を白く輝かせて、翔像から発せられる霧の気配に抵抗した。
使えば使う程に身体をナノマテリアルに犯される感覚に眉を顰めながら、紀沙は席を立った。
ただ、それでも翔像の世界を書き換える感覚にじりじりと押され始めていた。
「そうだ、紀沙」
そんな娘を見て、翔像は言った。
「その力こそ、人類を導ける力だ」
「……何が人類を導く力だ」
本気で。
翔像が本気でそう思っているのだと、紀沙にはわかった。
翔像が人類の裏切り者と呼ばれていても、自分だけは父を信じなければならないと思っていた。
母だって、それにきっと兄だって、なのに!
こんなもののために、自分達を捨てたと言うのか。
だったら、この父は兄に会ってはならない。
今も
自分が、会わせない。
「こんなもののために――――!」
テーブルを、拳で砕いた。
体内のナノマテリアルが活性化した状態の紀沙は、力も頑丈さも以前とは比べ物にならない程に発達している。
翔像はこの力を進化と言ったが、こんなものは進化では無い。
こんなものは。
「足りないわね」
音も、衝撃も無かった。
ただ気が付いた時には、ムサシが傍にいて、左手の手首から先が紀沙の体内に刺し込まれていた。
服を裂かれた覚えも、肉を貫かれた感覚も、肋骨や筋肉を擦り抜けられた気さえしなかった。
当たり前のように紀沙に寄り添って、紀沙の心臓をその手に握っていた。
銀の髪が、視界の中でカーテンのように揺れた。
(お、まえ……が)
震える唇から、しかし言葉は出てこなかった。
代わりに肺に残っていた空気が吐き出される音がして、直後、視界が一気に暗くなっていった。
読者投稿キャラクター:
『ティルピッツ』:大野かな恵様
有難うございます。
最後までお読み頂き有難うございます。
だんだん紀沙の家庭環境がアレなことになっていますが、グレないと良いなと思います(え)
あ、もう遅いかも……。
それでは、また次回。