「ちょっとアンタ、大丈夫なの?」
『タカオ』の言葉に、翔像は苦笑を浮かべた。
霧の目から見ても、今の自分の状態が相当に悪いことがわかると言うことだろう。
それに霧の娘に身体の心配をされると言うのも、彼の今までの境遇を思えば、苦笑と言う形で表されるのも仕方がなかった。
いや、これも運命か、と思った。
奇妙な縁だった。
『タカオ』は息子達に敗れて人間に関心を持ち、沙保里と言う存在を通して人間を知った。
そして今、まるで娘のように翔像の身を案じてくれている。
「1つ、頼まれてくれないか」
だから、翔像は『タカオ』に
まさに頼みは「1つ」だった。
「
温かな、優しい輝きが『ムサシ』の甲板に浮かび上がった。
それは翔像の手の中でふわりと浮かんでいて、見る者を和ませる、そんな光を放っていた。
ただその輝きに比例するように、翔像の顔から生気が薄れていった。
髪は色素を薄くし、肌は組織が崩れてボロボロと剥がれていく……。
「ちょっと、アンタ」
『タカオ』の胸に去来したのは、沙保里の死を看取った記憶だ。
彼女にとっては、トラウマと言っても良い。
そして今、翔像は明らかに自分の命の源とも言うべきものを翔像は差し出そうとしているのである。
「良いんだ」
そんな『タカオ』に、翔像は言った。
自分――自分達の役目は終わり、代替わりの時が来たのだと。
1つの時代が終わり、新しい時代がやって来る。
その節目に古いものが退場する、ただそれだけのことなのだと。
「頼む、『タカオ』。これは、きみにしか頼めないことだ」
『ナガト』でも『シナノ』でも無く、『タカオ』だからこそ頼むのだ。
「たのむ」
「……わかったわ」
『タカオ』は受け入れた。
彼女が受け入れても受け入れなくても、翔像は結局そうするだろうことがわかったからだ。
だが彼女が翔像の頼みを引き受けたのは、決してセンチメンタリズムな感情に流されたためでは無かった。
「必ず、届けてあげる。千早兄妹のところに」
「ああ……ありがとう、『タカオ』……」
権利と責任があると、そう思ったからだ。
千早兄妹に挑み、打倒する権利――最も、こちらは『タカオ』が一方的にそう思っているだけだが――と、沙保里に対する責任だ。
『ムサシ』の甲板に降り立って、『タカオ』は蹲る翔像に近付いた。
翔像は、そんな『タカオ』に対して顔を上げず、何も言わなかった。
何も、言わなかった。
もう何も、言うことは無かった。
彼は、すでにもう――――……。
◆ ◆ ◆
食べることは、快楽である。
三大欲求の例を挙げるまでも無く、食欲は人間の欲求の中で最も強いものの1つだ。
だから人間は食べることが大好きだし、美食家と言う存在はその最たるものだろう。
人間は、「食べる」と言う快楽を最も極めた存在であると言える。
「……っ、~~~~っ」
だが、
食道、と表現するしかない細道で全身を圧迫される快楽を。
消化酵素を伴うどろりとした液体が、焼けつくように肌を焦らす快楽を。
コリのある無数の突起が肌の上を滑り、筋肉を痙攣させるその快楽の強さを。
自分と言う存在を、その形を
肌の表層からじわじわと侵蝕してくる感覚に、意識はあっという間に喰い破られてしまった。
意識の防御を破られてしまえば、後にはむき出しの中身しか残らない。
そして
「~~っ、ッ……!」
紀沙は、暗い熱さの中にいた。
「……ッ、あ、ガ……~~ッ」
視覚は闇に囚われ。
聴覚は水音に犯され。
嗅覚は異臭に破壊され。
味覚は肉の味に占領され。
触角は暴力の中に突き落とされて。
「は、アアァア」
紀沙は、剥き出しの自分と言うものを感じていた。
裏返せばそれは、素のままの自分と言い換えることもできる。
余分なものを全て意識の外にかき分けて、最も大きく、最も自分を形作っているものが外へと露出してくる。
そして最後には、何もわからなくなる。
自分が何者で、何のために何をしていたのか、わからなくなる。
どろどろに溶けてしまって、何も残らなくなる
何もなくなって、快楽と言う名の暴力の中に消えて――――いや。
「あ、は……アハ、アハハ」
どんな美食家も、どんな生き物も手をつけない食べ物がある。
最後に残るもの。
食べることで、栄養にならないもの。
――
――――
紀沙は知っていた。
はっきりと理解していた。
その食べ残しこそが、
◆ ◆ ◆
――――危なかった。
僧を抱えたまま、恋は溜息を吐いた。
もう何が起きても驚かないと言う心地だったが、流石にこれには驚いた。
ドックの隔壁を突き破る形で、グロテスクな肉の塊が押し寄せてくるとは。
「まぁ、僕としては好都合な点もあったわけですが」
幸い吸い出されて外に放り出されると言うことにはならず――膨張した肉が、穴が広がる前に塞いでしまったからだ――に済んだ。
ただ宇宙服を着込んでいたため、機敏な動作でかわすと言うことは出来なかった。
衝撃に放り出されて、ドックの壁に叩きつけられてしまったのだ。
恋自身も、一瞬だが気を失っていた。
スーツの警告音で叩き起こされて、ドック内部に膨張して脈打つグロテスクな肉々しい空間に驚いて意識がはっきりとした。
メットのガラスに罅が入っていて、応急用のテープで塞いでから、僧を探したのだ。
「さりとて、メインドックが使えなくなったのは困りましたね……」
僧はすぐ近くに浮かんでいたので、探すのには特に苦労しなかった。
恋と違って完全に気を失っていて、しかし危険な状態だった。
より強く衝撃を受けたのだろう、スーツの損傷が恋よりも大きかった。
特に空気供給用のチューブからエア漏れを起こしているのが重大で、気絶はそのせいでもあった。
「アレルギー避け……でしたか? マスクが無ければ死んでいましたね」
僧は元々、アレルギー避けのための――どこまで本当かわからないが――高性能マスクを被っていた。
そのせいで宇宙服を着るのにかなり手間取っていたが、今はそのマスクが命を繋いでいた。
マスクには1時間ほどエア供給を行う機能が備わっていて、その緊急装置は宇宙空間でも正常に動作していた。
僧の身体を抱えて、その際、恋は顔を顰めた。
呼吸を整えて、ふわりと浮かんで進む。
このメインドックは、乾ドックも含めてもう使い物にならないだろう。
幸い素材のナノマテリアルはまだ運び込んでいなかったので、手詰まりと言うわけでは無い。
とは言え……。
「今のような衝撃がもう一度来ると、ステーションでは保たないでしょうね……」
それは、ぞっとしない想像だった。
ぜひともそうならないように祈りながら、恋は苦労して僧を運んでいた。
置いていくことも出来ないが、メインのハッチはあの肉の塊に塞がれてしまっていた。
サブの通路が生きていれば良いが、と、そう思いながらゆっくりと浮かび進む恋の左足には、衝撃の際に飛んできていたのだろう、鉄の杭が深々と突き刺さっていた……。
◆ ◆ ◆
梓にとって、誤算は2つあった。
1つ、
上層に喰らいついて来た
不幸中の幸いだったのは、破壊では無く侵蝕であったため、空気と気圧が維持されたことだ。
おかげで宇宙空間に放り出されることも、窒息することも無かった。
ただ、もちろん肉の部分に触れることは出来ない。
だから足場が少なくなった、ただでさえ無重力下での
「心外だなぁ、お姉さん! 知らなかったの?」
そして2つ目の誤算、むしろこちらの方が深刻だった。
杏平? 確かに軍系列の学校を出ているだけに基礎体力はあるが、戦闘のセンスは無かった。
だからそれほどの脅威ではない、だがもう1人の方は梓に確実な脅威を与えていた。
ロムアルドである。
「ヨーロッパじゃ、子供の方が強いってね!」
棒付き飴を舐めながら、ロムアルドが梓の視界を縦横に駆ける。
その手には、子供には似つかわしくないナイフが握られていた。
刃がやたらにギザギザとしている、分厚いナイフだ。
それを逆手に持っていて、柱や他の遮蔽物を盾にしながら、右から左へと大きく駆けている。
「冗談じゃないよ、まったく……!」
ロムアルドを追いかけて、銃弾が跳ねる。
梓の拳銃によるものだが、一発撃って怖さがわかった。
地上と宇宙空間では、銃弾の
また、撃った反動で身体が想像以上に後ろへと下がってしまう。
それでも、撃つ。
撃たなければ、今にもロムアルドが懐に飛び込んできてしまうからだ。
弾切れは死を招きかねない、こんなギリギリの状況は梓も初めてだった。
だから言うのだ、「冗談ではない」と。
「まさかこんなところで、ヨーロッパの
「先輩って呼んでも良いけど?」
「
欧州大戦の少年兵。
霧の艦艇の乗っている以上は普通の子供では無いとは思っていたが、まさか少年兵とは。
誤算だった、しかもロムアルドは明らかに梓よりも実戦で
それに……。
「どぉわっ!?」
こっそりと後ろに回ろうとしていた杏平を、一発撃って牽制する。
脅威では無いが、ロムアルドの脅威の前に懸念材料にはなる。
そう、例えばこうして牽制をしている前に。
「頂き!」
「……ちぃっ!」
天井に跳んで、蹴って、梓を目掛けて飛び込んできた。
梓が銃を持つ腕を向けるよりも早く、ロムアルドが梓の懐に飛び込んだ。
分厚いナイフの刃が、梓の腕に灼熱感を生んだ。
◆ ◆ ◆
敵対している者同士が、一時的に対立を棚上げすることがある。
それは共通の脅威が生まれた時で、そのひとつの結果が人類と霧の連合軍だった。
そしてそれよりは規模は大いに縮小するが、この3人――もっと正確に言えば、2人と1人だが――についても、同じことが言えた。
「ジェット噴射が欲しいところだな!」
「気持ちはわかりますけど!」
走る、ならまだ勝機はあったと思う。
しかしここは宇宙、ステーションは無重力空間である。
宇宙空間で重力を生むにはいろいろと条件があるのだが、この第2ステーションはそれを満たしていない。
よって、移動は全て
「微妙に落ちるのがムカつくな!」
「気持ちはわかるけれど」
不思議なもので、遮蔽物にぶつかるまで永遠に同じ向き・速度……と、言うわけでは無いのだった。
おそらく目に見えない抵抗があるのだろうが、この際、理屈はどうでも良かった。
とにかく、中途半端に逃げにくいと言うことだった。
もっとも、逃げ場など無いに等しかった。
何故なら、壁や床からグロテスクな赤黒い肉がどんどんと盛り上がってきているからだ。
それは外に近い側から通路を埋め始めている。
つまりステーションそのものがこの、
まぁ、要するにだ。
食べられそうになっている、と言うわけだ。
「あ、すみません碇さん。ちょっと足場になって頂けますか?」
「は? 足場?」
「あ、そこに捕まって足を伸ばしてください!」
「え、こう?」
通路のパイプを掴んだ冬馬の脚に、静が掴まる。
静はフランセットを片腕で抱えている――無重力とは言え、成人女性を片腕で抱えるとは相当の筋力である――ため、2人分の体重が冬馬の諸々の筋肉にかかることになった。
ぐふう、と、冬馬がうめき声を上げるのも仕方ないだろう。
「ありがとうございます!」
「お、おう……って、おいいいぃっ!!」
そのまま冬馬を支点に方向転換し、別の通路に入り込んでいった。
もちろん冬馬は後に残される形になるので、そのままぼうっとしていたら大変危険だった。
慌ててパイプを蹴り、静達の後を追った。
通路が
「ちっ……無事だったんですか」
「ちっ!? え、今ちって言った!? 可愛い顔してとんでも無い性格だなお前!?」
「襲い掛かって来た相手を好きになる女はいないのではなくて?」
「こっちはいちいち正論吐いてきやがるな!?」
危険度の差は甲乙つけがたいものがあるが、このグループが最も賑やかだろう。
それだけは、確かだった。
◆ ◆ ◆
戦場における有利不利は、コインの裏表のようなものだ。
少し状況が変わるだけで、あっと言う間に逆転してしまう。
「これで満足なの?」
ただ、あおいにとってそんなことは
有利とか不利とか、表とか裏とか、どうでもよかった。
どうせ全ては思い付きだ。
深い意味など無いし、何があっても「ああ、そっかぁ」で済んでしまう。
この世に生まれ落ちた時から、あおいはそんな風に生きていた。
イ404に乗ったのも、何となく。
統制軍に入ったのも、何となく。
家を出たのも、何となくだ。
「これが、アンタの見たかった景色なの?」
さぁ、それはどうだっただろう。
何かを見たいとか、辿り着きたいとか、思ったことは無かった。
何となく。
何となく、そこに立っていただけだ。
「ごめんなさいねぇ、いおりちゃん」
だから、あおいは何も残せない。
だからあおいは、何も渡せない。
そして、理解が出来ない。
何かを残そう、何かを渡そうと言う気持ちが良くわからない。
最もわからないものは。
「お姉ちゃん。いおりちゃんが何で泣いているのか、わからないの……」
妹との、接し方。
けれど結局、わからないままだった。
「今さら、お姉ちゃん
いおりが、あおいに銃を向けていた。
静菜から奪ったものだ。
軍系列の学校を出ているいろいが、拳銃の撃ち方を知らないと言うことは無い。
いおりに刀を突きつけていた静菜は、少し離れた位置にいた。
刀を手に静菜は様子を窺っている、いおりに飛び掛かるタイミングを測っているのか。
蒔絵は、あおいの傍にいた。
「お姉ちゃんって言うのは、もっと……」
放り出されて、壁際に掴まって。
困惑しきった顔で、あおいといおりのやり取りを見ていた。
プルプルと震え始めたいおりの様子に、蒔絵の不安は頂点に達しようとしていた。
あおいも、煽りこそすれまともな受け答えをしていない。
彼女達のいる通路はまだ
気付きようも無いが、危険地帯だ。
そんな中で、どうしてこんなことになっているのか。
蒔絵には、わからなかった。
わからなかったけれど、けれど……!
「もっと、何かさあ……あるでしょう!?」
「やめて!!」
引き金に指が近づくのを見て、蒔絵は飛び出した。
むしろ、あおいはそれにびっくりした顔をしていた。
遠くで、静菜が跳んだのも見えた。
そして、そんなタイミングで。
――――天井から、
◆ ◆ ◆
複数形で表現されているものの、その実、
単体でありながら群体であり、群体でありながら末端は個々の意識をも有する。
多くの銀河が、多くの惑星が、多くの文明が、
捕食と言う行為は、「相手を取り込む」と言う意味において最もポピュラーな方法だ。
問題は
そもそも空腹と言う感覚が無く、捕食は栄養補給ですらない。
そしてこの――太陽系で最も膨大な情報を持つ
捕食し、ゆっくりと
そうして一体となっていくことで、
理解する頃には、喰らった相手はすでに
そして
しかしここに、そうならないものがいた。
今までそうしてきたように、喰らい、少しずつ溶かして理解へと至ろうとしたのに。
それなのに、どうしてか
他のものが全て溶け出してしまっても、
食べても、食べても。
喰らっても、喰らっても。
溶かしても溶かしても、
困惑した、理解できなかった、
こんなことは、長い……永い生の中で初めてのことだった。
あえて表現すれば、ふぐの毒袋のような。
ほとんどが溶けてもなお、こちらを拒むように毒素を吐き続けているような。
理解できない、理解不能、理解不能、理解不能。
――――
◆ ◆ ◆
ぐしゃ、と、鈍い音が響いた。
トーコが、管制室の扉に体当たりをした音だ。
潰れたのは扉を覆う赤黒い
「のわあああぁっ!?」
肉の中に沈み込む前に、慌てて離れた。
その際、腕の肌がいくらか引き千切られてしまった。
大した傷では無いが、精神的なダメージは大きかった。
勢いよく離れたため、無重力の中でばたばたともがくことになる。
「くがああ……。あ、姐さん。
管制室から爆発音が聞こえて駆け付けたは良いものの、この様だ。
トーコが来た時には、すでに管制室は
だからトーコは、中に入ろうと体当たりを敢行したのである。
だが結果は見ての通り、一方的にダメージを負うだけだった。
「ち、畜生。いったい、何がどうなってるっスか」
「……紀沙ちゃん! 皆!」
その時、トーコが通って来た通路を誰かが駆けてきた。
誰かと思えば、良治だった。
白衣をたなびかせて駆けてきた彼は、管制室から今にも溢れそうな
内側で何が蠢ているのか、想像するだけで恐ろしい。
むしろ、よく扉を打ち破って溢れてこないものだと思った。
問題は、逆にこちらから中に入ることも出来ないと言うことだ。
扉の向こう、管制ルームには紀沙達がいたはずだ。
中にいた者達はどうなったのか、まさか、と最悪の事態が脳裏を掠めた。
「だああああああぁっ!!」
トーコが、再びの体当たりを敢行した。
そして当たり前のように飲み込まれかけて、慌てて離れる。
当然、ダメージも繰り返しだ。
肌が千切れて悶えるところまで、まったく同じである。
しかし、彼女はめげなかった。
再び立ち上がり、壁を蹴って体当たりをする。
何度同じ失敗を繰り返しても、諦めない。
もう一度、いやもう一度、さらにもう一度――もう一度だ!
「ね、ねぇキミ。そんなんじゃ意味ない……」
「何でわかるんスか! やってみなきゃわかんないじゃないっスか!」
「いや……やってるからわかるって言うか」
「
気合一発、もう一度。
余りにも愚直な突進に、良治は唖然とした。
同じ失敗を繰り返すのは、どう考えても合理的では無い。
正直、真似をしたいとは――真似をしたら良治は死ぬだろうが――思わなかった。
だが、どうしてだろう。
良治は、トーコの愚直さに少しだが憧れのような感情を抱いた。
あのトーコの姿は、良治にはできなかったことそのものだからだ。
彼は結局、
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
消化された後、最後に残ったのが本当の自分。
そんなお話でした。
それでは、また次回。