「――本当に、久しぶりねアリサちゃん」
この日をどんなに待った事か、金褐色の髪を持つ女性――リディア・ユーリエヴナ・バザロヴァはその瞳に涙を滲ませる。
今、自分の目の前に立つ少女はもう二度と会えないかもしれないと思っていた存在であり、リディアにとっての希望そのもの。
その希望であるアリサに再び出会い、涙してしまうのは彼女にとって必然とも言える事であった。
「…………」
対するアリサは、一度リディアの名を呼んでから……なにか様子がおかしい。
目を見開いたままリディアを見つめ、けれどその瞳には生気を感じられない。
まるでそのまま気を失っているかのように、不動のまま彼女を見つめ続けていた。
「…………アリサ?」
初めにアリサの異変に気がついたのはカズキ、怪訝な表情を浮かべ右手を伸ばし彼女の肩を掴む。
しかし反応が返ってこない、だがカズキはここでアリサが小刻みに身体を震わせている事に気づく。
「アリサ、どうしたの?」
おかしい、今の彼女の様子は普通ではないと理解し、カズキは少し強めに彼女の身体を揺さぶった。
だがそれでもアリサは何の反応も返すことはなく、ここでリディアを含む周囲の者達も彼女の異変に気がついた。
「アリサ、しっかりして!」
「アリサちゃん、どうしたの……?」
アリサに駆け寄るリディア、カズキは彼女の名を呼びながら更に強く彼女の身体を掴み。
「――――」
不可思議な感覚に、陥った。
ふわふわと身体が宙に浮いているような、自分の存在が何かと混ざっていくような、表現が難しい感覚。
けれどカズキは知っている、この感覚は……新型同士で起きる感応現象だと。
何かに漂いながらカズキはアリサの中へと堕ちていく、ゆっくりゆっくり……彼女の奥深くまで堕ちていき。
――カズキは、彼女が自身の中に眠らせていた傷を見てしまう事になる。
そこは、ロシア支部からさほど離れていない死の森。
かつては天然資源に溢れていたロシアも、アラガミの出現によって無惨にも奪われてしまっている。
その中で―――赤い大地が広がっていた。
その赤は人間の血、その中心にはヴァジュラと呼ばれるアラガミが居て、少し離れた所には今よりも少しだけ幼いアリサの姿が在った。
これはアリサのロシア支部に居た頃の記憶、彼女の深層意識の中に居る恩恵かカズキはすぐさま目の前の光景がどんなものかを理解できた。
だが、こればかりは理解したくないと瞬時に思い、けれど彼は見てしまう。
ガチガチと歯を鳴らし、極限まで瞳孔を開いたアリサの視界の先には――何かを貪っているヴァジュラの姿。
一体何を? そんなもの決まっている、あれはアリサにとって一番の友達“だった”もの。
まるで粗末なパズルのピースのように散らばっているのは、人間と呼ばれる生物の臓器や肉、そして骨。
血によって真っ赤に染まったそれはどこか美しくも鈍い光沢を発しながら、少しずつヴァジュラの口の中へと取り込まれていく。
消えていく、アリサの友人だったものが。
壊されていく、かつて人間と呼ばれていた存在が。
蹂躙された、かつてアリサを一度光の世界へと呼び込んだ存在――オレーシャ・ユーリエヴナ・バサロヴァであった人間が。
命の息吹が感じられない死の森と一体化していくように、若く将来があった命が失われた。
その光景のなんと冒涜的な事か、カズキの神経が焼き切れてしまう程の恐ろしい記憶。
こんなものに人間の精神が耐えられるわけがない、あんなものを見てしまって人間で居られるわけがない。
だから、アリサはこの瞬間――人間ではなくなった。
「が、あ――――がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
獣じみた、否、獣としか言いようのない咆哮を上げるアリサ。
彼女はそのままヴァジュラに向かっていき――そこで、カズキは現実へと帰還する。
「ぎ、が……!?」
ブツンと、脳の一部が焼き切れるような音が聞こえた気がした。
圧倒的なまでの不快感、たまらず胃の中のものをぶちまけてしまいそうになるのをなんとか堪えながら、カズキは力なく倒れていくアリサをどうにか抱きかかえる。
「はっ、は、あ、ぅ……」
「アリサちゃん!!」
リディアと呼ばれた女性がこちらに向かってくる、それを認識しながらカズキはどうにか足に力を入れて彼女を背中へとおぶった。
胃が逆流してしまいそうだ、息を整えることすら難しくそれでもカズキはアリサの為にそれに耐える。
何度か感応現象を体験しているからこそわかる、今のはアリサの過去の記憶であり……このロシア支部で起こった忌まわしき記憶。
理解したくもない、けれど目を背ける訳にもいかない冒涜的な記憶、それをカズキは感応現象を通して体験した。
だが同時に疑問も浮かぶ、何故ここでその記憶が彼女の中で呼び起こされたのか……。
「彼女を病院の中へ、お願いします!」
「っ、はい!! アーサー達は支部に戻って報告と次の指示を貰っておいてくれる?」
「わ、わかりました!!」
まだ状況が掴めていないアーサー達であったが、カズキの指示に従い急いで支部に戻ることにした。
それを確認してから、カズキはリディアの指示に従い病院の中へと向かっていく。
「……アリサ、一体どうしたんだ?」
「わかんないわよ。けど……普通じゃなかった」
「……大丈夫だ。カズキさんが傍に居る」
「だな……」
■
「――大丈夫。気絶しただけで脳波の乱れもないし外傷も見当たらなかったわ」
「ありがとうございます。助かりました」
病室の応接間にて、カズキはリディアからアリサの容態を聞いてほっと胸を撫で下ろした。
アラガミとの戦いで傷を負っていないとわかってはいたが、感応現象で見たあの記憶を呼び起こしていたので心配していたのだが、杞憂に終わってくれたようだ。
ようやく息の乱れも無くなった頃、カズキは目の前にコーヒーの入ったカップがあるのに気づく。
顔を上げるとリディアがそのカップを持っており、『すみません』と告げてからカズキはそれを受け取る。
「ブラックで大丈夫?」
「大丈夫です。いつもはブラックで飲んでいますから」
「あら、見た目はまだ幼く見えるのに大人なのね?」
「一応もうすぐ成人になる歳ですから」
そう告げてコーヒーを口に含む、上質なものではないと一口でわかったが今のカズキにとっては精神を落ち着かせるのに充分過ぎた。
「この街を守ってくれてありがとう、それにこの病院も……あなた達のお陰で怪我人は殆ど出なかったわ」
「僕達は自分のやるべき事をしただけです、気にしないでください。それより……少しお訊きしたい事があります、あなたはアリサのお知り合いですか?」
「ええ、そんな所かしら……。そういえばまだ名前を言っていなかったわね、わたしはリディア・ユーリエヴナ・バザロヴァというの。この病院で医師をしているわ」
「僕は抗神カズキといいます、フェンリル極東支部所属の神機使いです」
「…………極東支部」
「???」
極東支部と聞いて、リディアの表情に陰りが見えた事にカズキは気づく。
何か嫌な思い出でもあるのだろうか、そう思いながら……彼は彼女の名前である事を思い出した。
そう、彼女の姓はあの時感応現象で見た……。
「あの……違ってたら申し訳ないのですが、オレーシャという少女とは姉妹なのですか?」
「えっ!? どうしてオレーシャの……妹の事を知っているの!?」
「妹……」
先程見た感応現象、そしてリディアが放った妹という単語。
それらがカズキの頭の中で少しずつ合わさっていき、彼はある予測を浮かべた。
「……あなたは感応現象というのはご存知ですか?」
「え、ええ……話だけなら聞いた事があるけど」
「実は――」
カズキはリディアへと話す、先程の感応現象でアリサのとある記憶を見たこと。
その中でオレーシャという少女が出てきたこと、姓がリディアと同じだったので先の質問をしたことを。
それを聞いたリディアは信じられないといった表情を浮かべながらも、俯きながら呟きを零す。
「そう……あの子は、アリサは思い出したのね」
「思い出した? それはどういう事ですか?」
「……カズキ君、あなたはオオグルマという人物を知ってるかしら?」
「…………ええ、よく知っていますよ。自分のくだらない研究の為にアリサを弄んだだけでなく、自身を人間から怪物へと変えてしまった哀れな男」
「怪物? それはどういう……」
「オオグルマは前の極東支部の支部長と共謀してアリサを人形のように操り、僕の先輩となる神機使いを忙殺しようとしました。
それはどうにか防ぐことができたのですが、オオグルマはアラガミを一時的とはいえ操って極東支部を襲い、アリサを再び自分の人形に仕立て上げようとしたんです。
だけどみんなのおかげでそれも食い止めることができたんですが、最期は自分自身をアラガミに変えて……そのまま僕とアリサに倒されました」
「…………」
その事実に、リディアはただ驚く事しかできない。
オオグルマの死という点にも驚愕するが、自身をアラガミに変えてまで一体何がしたかったというのか……。
狂気の果てに消えてしまった彼に対して思う所はあったものの、リディアはここで理解する。
「あなたは、アリサちゃんを……アリサを救ってくれたのね」
彼女は再び光の世界へと歩みを進めてくれた、それは目の前の青年を見ればわかる。
彼がアリサに向けるのは無類の愛情、とても深く暖かい……優しい愛だ。
リディアの瞳から涙が零れる、しかしそれは当然嬉しさを含んだ涙だった。
もうオオグルマに利用されていただけの彼女は居ない、近くにこんなにもあの子を愛してくれる存在が居るのだから。
「でも僕もアリサに救われてきました、あの子が居なければ今僕はここには居ないだろうし……唯一の家族も救うことはできませんでした」
「ふふっ、あの子は本当に強くなったのね……」
「あの子は最初から強い子でしたよ、本当に」
「――ゴーレ・ニェ・モーレ、ブイピエシ・ダ・ドゥナー」
「悲しみは海にあらず、すっかり飲み干せる」
「知っているの?」
「アリサから聞きました。あなたの教えてくれた言葉は今でもあの子の中に生き続けています、アリサは……幸せ者ですね」
「…………そう、ね。そうかもしれない」
飲み干せない悲しみなど存在しない、アリサの心の強さをリディアはずっと信じ続けていたから。
……オレーシャを失った時の記憶を思い出してしまったかもしれないが、アリサならそれすら乗り越えられるだろう。
ようやく自分も前を向いて歩いていける気がする、リディアは心からそう思えた。
「カズキ君。これからもアリサを、あの子を大切にしてあげてね?」
「もちろんです。大事な奥さんですから」
「そうね。あの子はあなたの大事な…………」
と、ここでリディアの思考が停止した。
待て、今彼は一体何と言った?
「……ね、ねえカズキ君。今……何て言ったの? も、もう一回言ってくれる?」
「えっ、ですからアリサは僕の大事な奥さんですから……」
「お、奥さん……?」
「そういえば言ってませんでしたね。僕とアリサって結婚したんですよ」
「…………」
そのあまりにもあっけらかんとしたカズキの発言に。
今度こそ、リディアの思考は完全に停止したのは言うまでもない。
(アリサ……いつの間に大人に……)
To.Be.Continued...
次回はほのぼのになりそうです、ああまたバカップルの出番が……。