アーカムシティ――
そこは現実には存在しない空想の街。魔術と錬金術により文明を過剰に発展させた街。聖者も愚者も金持ちも貧乏も光も闇も受け入れる摩天楼は実在する。
此処ではない、極めて近く、限りなく遠い世界にて存在する街だ。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
死に物狂いで廊下を走る。本棚の隙間を縫って走り抜ける。
後ろを振り向かずに、ただひたすらに前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前に、前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前―――――――
ヰguなヰヰぃぃヰぃぃぃぃぃいいい――
「あっ、あぁぁあああああああああああああああaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa――――――!!!!!!!!!!!!」
いくら走っても追ってくる怪物。図書館の中を駈けずり回っても撒く事が出来ない。
吐き出す息は熱く喉を焼き、脚は鉛のように重く、心臓は破裂しそうな程に脈打ち、それでも命の危機に際して身体の枷を解き放ったかの様に限界を超えて身体を動かす。
気づいたら俺はこの図書館に居た。陰湿で、真っ暗な雰囲気から真っ当な場所じゃないことは考えていた。
でもそれが、あんな化け物に出会すとは思わなかった。
あれはなんなのか。どういうものなのか。そんな事を考える暇もなく、いや、考えちゃいけない。あれは人間の認識が理解できるものじゃない。
「ひぃ、ハァ…、ひぃ、ひぃ、あぁ、あうっ、あああああああああああああああ!!!!!!」
炎の魔術を使い、後ろから追ってくる怪物に向かって放つ。
伊具なヰぃぃいいいいいいいい――――
「ひぃぃぃぃ、あああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
炎によって照らされた怪物の姿。山羊の様に飛び出した眼球が、くるくると此方を見つめていた。
「ッ――――――いやああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
精神を容易く打ち破り、原始的な、野生が、生物としての遺伝子に至るまでに焼き付けられてしまった。
吐き気を通り越し、身体を流れる血液すら冒す腐臭。
「あ、ああ、あ、あ、ぅぅ、ぅ、うあああああああ!!!!」
もう正常な精神状態とも言えず、取り乱し、泣き叫びながら手当たり次第に本棚にある本を投げつける。
手が触れた先から切り刻まれたり、腐ったり、焼けたり、乾いたり、膨れたり、異常を来しても構わずにそれだけだった。
ヰぐなヰぃぃぃいイぃぃぃぃ――――
「はっ、はっ、ははっ、はっ、は、は、はっ」
手に当たる物が無くなってしまい、足腰に力が入らないまま、本棚に背中を擦りながらなんとか怪物との距離を開ける。
でも怪物は1歩、また1歩、近付いてくる。
もうなにがなんだかわからないまま、ただ誰かの助けを求めた。誰がこんな怪物を退けられるのかわからない。誰も居ない図書館の中、あんな怪物から救ってくれる人が現れるはずもない。
ヰぐなヰヰぃぃぃぃい――
「が、あが……っ」
人間と同じ五本の指を持つ手に首を締め上げられる。片手で軽々しく持ち上げられ、すべての荷重が首に集約し、身体から首が抜け落ちそうになる様な感覚を味合わされる。
殺される……っ。
締め上げられる苦しさで浮かぶ涙に霞む視界の向こう。山羊の様に飛び出した眼球が見える。
その目は俺の顔を映し、そして瞳は嘲笑うかの様に細められていた。
人間と同じ四肢を持ちながら、体躯は2mは超す巨漢。だが纏う雰囲気は普通じゃない。
魔術師、錬金術師、代行者、吸血鬼、霊魂、悪霊、使い魔――
様々なものを見てきたけれど、こんな冒涜的な雰囲気を持った存在は生まれてはじめて見た。
「ば、け……もの……ぐああああああああああああ!!!!!!」
いぐないいいいいいヰヰ!!!!!
両手を使って首をへし折らんばかりに締め上げてくる怪物。
「あっ…かっ……あぐ……」
全身から力が抜け、酸素の行き届かない頭はひどい頭痛を訴え、意識が遠退いていく。
神様でも、悪魔でも、死神でも、吸血鬼でも何でもいい……。
このばけものから、おれをたすけてくれ……。
―――――――――――。
「ぎっ、がああああああ!!!!!!」
肺に残る酸素を吐き捨てる勢いで雄叫びを上げながら、魔術回路に魔力を通して、ソレヲモトメタ――。
魔術回路を伝って、大気中のエーテルを伝って、なにかと繋がった。
パラパラパラと、まるで紙が風に吹き飛ばされたかの様な音が聞こえてくる。
首を掴んでいた手が、なにかによって切り落とされた。
「ゲホッ、ゲホッ、ぐぇっ、がはっ」
強烈な吐き気と頭痛を感じながら、身体に酸素を取り込んでいく。
「ハァ……ハァ……ハァ……かっ、はぐっ」
涙で霞む視界の先には、怪物に立ちはだかる姿があった。
黒い髪の毛、黒いドレス、陶器の様に白い肌、小柄の女の子だった。
女の子の影から黒い犬が跳び出し、怪物に向かって飛び掛かった。
肉を喰い千切り、怪物をズタズタに引き裂く爪。
まるで助けを求めるように伸ばした腕さえ食い荒らされていく。
「うっぷ…」
その悍ましい光景に吐き気を感じながらも、その光景を確と目に焼き付けた。
犬が去り、気狂いしそうな程に煩く啼く何かの鳴き声が鳴り止まない中。女の子がゆっくりと振り向いた。
その青い瞳に見つめられた自分は、身動きが出来なかった。
吸い込まれそうな程に深い碧眼。
「ご無事ですか? マスター」
鈴の音色の様な声が、怪物に冒された心を癒してくれる様だった。
「き、君は……」
俺がそう呟くと、まるで君主に仕える騎士の様に片膝を着いて頭を垂れた。
「私はナコト写本が精霊。アナタ様の声に応え、御前に参上致しました」
ナコト写本。その名を聞いた事はある。
クトゥルフ神話に登場する架空の魔導書の名だ。
その精霊と名乗った。
魔導書の精霊? そんなものが存在するはずがない。ナコト写本? それは架空の魔導書だ。
だが現に目の前に存在して、そして自分を助けてくれた。
「お労しや。さぞお辛かったでしょう」
そう言いながら彼女は俺の手を取り、焼けて膨れ腐り爛れ傷だらけの手を癒してくれた。その温かさえ感じる魔力を感じて、心の中から安堵が込み上げ、そして底知れぬ恐怖に身を震わせた。
「なんだったんだ……。なんだったんだ
「……場所を移しましょう、マスター」
後に
◇◇◇◇◇
神秘で広大な宇宙。漆黒の景色に広がる星々の煌めき。
だがその星の光とは別の光が咲いては消えていった。
鬼械神の中。相対する鋼鉄の鬼神を前にして、俺は戦っていた。
鋼鉄の鬼械神が持つ拳銃から閃光が次々と放たれてくる。
その軌跡を見切り、血に濡れた魔剣をもって斬り裂く。
左腕を突き出す黒神の我が鬼械神。
黒き黒神、黒き天使、黒き鳥。そんな特徴を併せ持つ我が鬼械神は、漆黒の魔方陣を広げ、闇の力を左手に集束させる。
「アキシオン・キャノン、放て――!」
「イエス、マスター」
収束した暗黒物質が射ち出され、鋼鉄の鬼械神に向かっていく。
巨大重力圏へと導く一撃を、辛うじて回避する鋼鉄の鬼械神。だがその右手と右足、更には背中の竜の翼をごっそりと削り取られている。
術者なしでよくも持ち堪えると感心する。
魔導書というものは、術者が居てはじめてその力を十全に発揮できるのだ。術者無き今、本来の力の3割程度が関の山の筈。なのにこうも粘りを見せるのは驚嘆すると言うよりも、強いて当たり前の様なものに見えてくる。それがあの魔導書の精霊なのだから。
片翼を失い、右の手足も失った鋼鉄の鬼械神はバランスを崩しながらも此方へと向かってくる。
それは彼女の存在理由だからだ。
邪悪を討ち斃す為に生まれたからだ。
そして今の自分はその討ち斃されるべき邪悪の尖兵なのだから。
「黒き羽根と共に、死の舞を踊れ」
「エーテルフェザー、展開」
背中の翼が開き、推進力として使うエーテルを吐き出し、翠色の翼から羽根を射ち出す。
翠色の羽根は突き刺さると同時に爆発を起こし、鋼鉄の鬼械神の装甲を削り飛ばしていく。
だがそれでも止まらずに突撃してきた。
「ぐっ」
コックピットを襲う衝撃に息が漏れる。
半壊状態にも関わらず、爆発的な推進力で機体が押し流されていき、景色が赤く染まっていく。大気との摩擦熱で赤熱化しているのだ。
「私達を道連れにしようとでも? 愚かな!」
機体のパワーが上がり、組み付く鋼鉄の鬼械神を跳ね除ける。
「お行きなさい、黒き獄鳥よ!」
機体の背中から黒い鳥の形をした僕たちが飛び立ち、鋼鉄の鬼械神を穿ち、撃ち砕き、削り取る。
「魂魄を穿て!」
頭に血が上った様に声を荒げてトドメを放とうとする彼女を窘める。
「良い。放っておいても、アレはあの街に落ちる」
「ですが、マスター」
俺に止められ、何故止めるのかと泣きそうな視線を向けてくるパートナーの頭を優しく撫でながら言い聞かせる様に囁く。
「良いと言っている。今ヤツを倒してしまえば、後々の楽しみが無くなってしまう」
トドメを刺すのは簡単な事だが、それではこの無限螺旋の退屈は癒しきれない。
もう何年来にもなるパートナーの彼女が居れば、もう何も要らない自分ではあっても、やはり白き王が次はどのくらい強くなってくれるのかという楽しみが無くなってしまうのは些か辛いのだ。
ここ最近は覇道とも遊ぶのを我慢しているのだ。そのお陰とあってか、魔を断つ剣はより強靭となり、白き王の成長も目を見張るものがある。そしてその白き王を打ち負かせば、よりアーカムシティが発展する。人の執念、嘗めて掛かることなかれ。
という具合にアーカムシティの生活基準を上げているし、大十字九郎を魔術師として宿敵の立場から鍛えるのが俺に与えられた役割だ。
それがあの日の夜。ウェイトリーに殺される筈だった自身が助けられた対価だった。
大導師としての立場になり、邪悪の魔手から逃れる為に世界に悪徳を為す存在として生き長らえることとなった。
不死ではないが、不老となった自身はもう人間の範疇には収まることのない時を生きてきた。
そしてその中で、白き王の敵としての黒き王を演じてきた。
最初はそれこそアル・アジフを扱い切れる様な魔術師ではなかった大十字九郎も、最近は此方を追い詰める程にまで成長をして来ている。
それでもまだ世界は輪転を繰り返している。俺もわざわざやられてやれるほどお人好しでもない。死にたくないのは俺も同じだ。
だから全力で相対し、その果てに負ける時がくるまで俺は戦い続けるだけだ。
to be continued…