私には父がいない。死んでしまった。母との二人暮らし、母子家庭である。
父が死んだらしいということを最初に知ったのは、私がまだ言葉も話せない歳の頃の話のようで、実際私の中に「父」という存在の記憶はほとんどない。
昔はよく遊んでくれていた親戚のおじさんと父の区別は、記憶を辿っても曖昧なもの。それくらいのことだった。もしも実はあのおじさんがお父さんだったのよと言われれば、はぁそうだったのかと思うだけだろう。
あくまでもしもの話で、実際に言われたら、なぜ今まで父であることを隠していたのかなどを問い詰めることになるが。
母と二人暮らし。私の生活形態はそう言い表せる。が、実際のところそれが正しいとも思えない。二人で暮らしているとは思えない。
母は毎朝早くに仕事に行き、大抵帰ってくるのは私が寝てからになる。それを五日間繰り返し、土日になったら仲良くしましょうとは、私にはできなかった。悪いとは思っているけれど、どうしても距離を感じる。
一人と一人が同じ家に暮らしているという感じで、事実会話もほとんどない。唯一の親である母とそんな調子だから、私はいつまでたっても他人と距離を詰める感覚がわからないでいた。
そうこうしていれば高校生になってしまい、友達はおらず趣味もない。我ながらつまらない人間だと思う。
そんなつまらない人間は学校から帰ってすぐに、一人で家にいるのがなんとなく嫌になって散歩に出た。あてもなく歩いてふと気づけば、あぁ私という人間はなにも考えずにあるけばこんな人気のない薄暗い場所に来てしまうのかと思い知ることになった。
まわりは背の高い木々に囲まれ、地面は湿っている。緑地と言えば聞こえはいいけれど、この場所はただ誰も手入れをしない土地というだけだろう。
誰も手入れをせず関わらない場所ならば、それは事実上の無法地帯なのではないかと思いつつまわりを見渡す。どこかで鳥がさえずり、少し遠くには蝶が飛んでいたり野良猫が歩いていたりして、人間が立ち入る隙など無いように見えた。
きっとこの場所なら何をしても咎められないだろう。球技をしようが花火をしようが、事故が起こらない限り誰も咎めない。ゴルフの練習でも集会行為でもなんでもいい。この場所から外に情報が漏れない限り、誰も何も言わないだろう。その気になれば、もっと恐ろしいことでも
「ねぇ」
背後から声がした。低い、男の声だ。
振り返るとペロペロキャンディーを持った男がいた。四十代くらいに見える。
「お菓子あげるから、ついてこない?」
……鼻で笑いそうになったのを辛うじて抑えた。もちろん目の前の男はまったく知らない人である。
ついでに私は身長百六十はあるし、童顔ということもない。なんの間違いでこんなタイプの変質者に会ってしまったのか理解不能だ。
「いや……え?」
「おじさんお菓子たくさん持ってるから、あげるよ?」
いらない。確かに家計に余裕があるわけでもないので進んでお菓子を買うことはないが、だからっていりません。
「あの……いりません、けど……」
「そう……?」
ありのままの気持ちを伝えると思ったより普通の反応をされた。ぜひそのまま帰っていただきたい。
「じゃあ……お菓子しかないけど、ついてきてくれない?」
引き下がってはくれなかった。あげく新しい手と呼べる発言でもなかった。猪の如く話が直進している。
「……嫌です、と言ったらどうなりますか」
「手荒な真似をすることになるね」
それは困る。私だって人並みに自分の身が可愛いのだ。
「それは……困りますね」
「じゃあついてきてくれる?」
ついていけば地獄が待っているだろう。この場から逃れる方法を考える。
その一、大声で助けを呼ぶ。……こんな場所でいくら大きな声を出しても鳥が驚いて飛んで行くくらいだろう。誰かが来るより私が連れ去られる方が圧倒的に早い。
その二、走って逃げる。残念ながら私は足の速さに自信はない。目の前の男もそれほど速そうには見えないが、万が一負ければ「手荒な真似」が待っている。人気がないので作戦その一との併用も無意味。
その三……その三は…………ないかな。まずい、解決策がない。
「……あの、ついてきてくれるかな?」
「う、うーん……。ついていったら、どうなりますか……?」
「どうもならないよ。とりあえずお菓子はあげよう」
いらない。そしてどうもならないわけがない。どうもならないのなら、そもそも私を連れ去る必要がない。
「……信じます」
「おぉ」
「どうぞ、どこへでも連れて行ってください」
両手を上げて降参の意思を示す。作戦一と二に比べれば合理的な判断だと思う。……もし次があるのなら、防犯アイテムを携帯しておこうと心に誓う。
「ありがとう! じゃあ、向こうに車止めてあるから」
そう言って私に背を向けて歩きだす男。なんて無防備なのだろうか。走って逃げるなら間違いなく今だろうし、今ならスタートの差で逃げ切れる可能性が大きい。
逃げるチャンスを見す見す逃す理由はない。私は足に力を
「あ、とりあえずこのキャンディーいる?」
男は振り返ってキャンディーを差し出してきた。
「あ、い、いただきます」
……危ない。あと一秒遅くキャンディーを渡そうとされていたら、振り返った男の目に映るのはすぐ近くで逃げようとしている私だった。そんなことになったら逃げきる自信はない。
「最近の子ってどんなお菓子が好きなの? あのスイーツとか、お店で出されるようなのじゃないとダメなのかな」
「いえ、私はキャンディー好きです」
そのお店で出されるような物というのを私は食べたことがない。金銭的には食べることもできる。母はありがたいことにお小遣いをくれるから。問題は、一緒に食べに行く友達がいないとか、そういう方向になる。
「それならよかった。あぁほら、あれ」
男が指差す先には軽自動車がある。あれに乗ってしまえば、いよいよ逃げ場はなくなる。
「……車でどこに行くんですか」
「どこでもいいよ。どこがいい?」
……唖然とした。どこがいいか? どこにも行かないのが一番いい。行き先を被害者に決めさせる誘拐犯なんて聞いたことがない。
「……決められない、と言ったら?」
「適当に走って、ガソリンが切れたらお別れかな」
お別れというのは、家に帰してもらえるという解釈でいいのだろうか。だとすれば「決められない」の一言で話は済む。
もし別の……なにか良くない意味のお別れだとしたら、それはなんとしても行き先を指定しなくてはならない。
「あの……一つ訊いてもいいですか?」
「うん? なに?」
「あなたは、私をどうしたいんですか……?」
男は迷わずに言った。
「車に乗ったら教えるよ」
その言葉は私の心を惑わせる、もとい混乱させるのに意外なほど効果を発揮した。乗れば知れることがあると一瞬でも思うと、思考がそこで麻痺してしまう。
逃げるべきか、抵抗するべきか、おとなしくするべきか、行き先を指定するべきか、しないべきか、様々なことが一気に頭の中を回ってごちゃ混ぜになり一つ一つが見えなくなる。
「はいどうぞ」
考えが纏まるよりも先に後部座席のドアが開いていた。勧められて、何とはなしに席に座ってしまう。
ドアの閉まる音が私に正気を取り戻させた。
「あっ」
「ん? どうかした?」
「い、いえ……」
運転席でシートベルトを締める男に焦っている様子はない。まさか、慣れているなんてこともあるのだろうか。
私は引き返せないところまで来てしまった。家に帰れるのかどころか、もうこの車を降りることがあるのかさえ……。
「とりあえずいろいろ話したいから、適当に走らせていいかな」
「あ、はい」
車が走りだし、広い道路まで出たところでさっそく信号に引っかかった。
「僕が君をどうしたいか、だったね」
「あっ、はい……」
窓にはブラインドなんてない。でももし外から私の姿を見た人がいたとしても、こんな状態じゃあきっと
「娘がほしかったんだ」
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。
「おかしいかい?」
「あ、違います、ごめんなさい……。……ただ、外から私を見ても、父親の車に乗せられた娘にしか見えないだろうなと思っていたので」
実際車に乗るまでの過程を見ていたとしても、父と娘がふざけている風に見えるかもしれないが。
「そう? あーでもそうかもなぁ」
「娘がほしいということですが、このまま私を娘として連れ帰るんですか?」
待遇的にはよほど良い方だと言えるだろうが、とはいえいきなり見ず知らずの男の娘になるつもりもない。
そのつもりはないが、形だけでもそうする必要が出てくることは覚悟しておこうと思った。
「連れ帰るなんてとんでもない。キミにも生活があるだろう」
「そうですけど」
だったら放っておいてほしかったものだ。確かに暇だったけれど、暇も大切な生活の内である。
「今日だけ、今日だけでいいんだ。娘と出かける父親の気分が味わってみたかったんだよ。……ダメかな」
「ダメ、と言ったらどうなるんですか」
「……どうしようね」
手荒な真似はどこへ行ったのだろうか。そんなことなら初めから抵抗しておけばよかった。
「言いませんけどね。手荒な真似はされたくないので」
「あぁ、あれは渾身のハッタリだったよ」
言っていいのか、それ。そんなこと言えば、次隙を見せれば私が逃げてしまうだろう。
そうでなければもしくは……
「ちょっと、まさかハッタリだと知ったからには車から降ろせないとか、そんなことはないですよね……?」
「あはは、なに言ってるの面白いね。父親が娘に手荒なことなんか出来るもんか」
……そういうものなのだろうか? 父親というものを私はよく知らない。誰かに手荒なことをされた経験はないから、きっと生前の父親も優しかったのだろうけれど。
信号は青へと変わり、車はゆっくりと発進する。
「そういうものですか。でも、だったら今からでも私が抵抗したらどうするんですか」
「どうしようか、どうなるだろうね? キミが逃げるのは確実で、僕が警察のお世話になるかならないかってところかな?」
それはいいことを聞いた。確実に逃げられるのなら、この男が警察に捕まったところで何も思うところはない。
「……そんな分の悪い状態で、どうしてこんなことを? それこそあなたにだって生活が」
「ないよ」
バッサリと会話を断ち切るように言われた。……話をやめる気は毛頭なかったけれど。
「ないなんてことは」
「会社が倒産してね。つい最近のことだよ」
今度こそ会話は終わった。私が返す言葉を持っていなかったのだ。
「それは…………その……」
「何が悪かった、誰が悪かったなんて僕にはわからない。ただ、僕だってお世辞にも仕事ができる人間とは言えなかったからね。誰かに恨みをぶつける気にはならなかった」
会話ではなく、ここからはきっと男の自分語りになる。さして興味があるわけでもないが、聞かないというわけにもいられなかった。
「でも、僕はこれはこれで満足なんだ。今までの人生、人の何倍も努力したとは言えないけど、人並みには努力してきたよ。それでダメだっていうなら、その程度だったってだけで。悔やむことは特にないかなと。その程度の人間なんだから人の数倍努力しなきゃいけない、とキミは思うかな?」
質問されるなんて思っていなかったので声が詰まる。
「……わかりません」
「そっか。まぁ、とりあえずそういうわけだから、この歳での再就職とかは考えてないんだ。あぁ歳を言ってなかったけど、まぁ大体わかるよね?」
私が頷いたのはたぶんミラーで見えただろう。
「そんなに重く捉えなくていいよ。キミには関係ない話だからね」
重く捉えているつもりはなかった。けれど、さすがに今の話を聞いて楽しい気分になる人もいないだろう。
「まぁ、そういうわけだから。キミに抵抗されて警察に捕まるならそれはそれでいいんだ。もう、なんでもいいんだよ。そうでなきゃそもそもこんなこと実行してない」
「……それなら、なおさらです。なぜこんなことを?」
私には、この男が後の人生や生活すべてを捨てた考え方をしているようには思えなかった。本当になにもかもを捨てて、なんでもいいというのなら、もっと過激なことだってできるはずだ。
「なぜって、今言ったけど」
「この先どうなってもいいって考えるなら、私の生活だってどうなってもいいじゃないですか。いくら罪を重ねてもいいと言うなら、手荒な真似もできるでしょう? 私をこうして連れまわすよりもっと有意義なことだって」
「いいかい、僕はね」
次の言葉まで間があった。おかしなことに、それは私がおちつくための時間だったように感じた。
「人様に迷惑をかけて死ぬのは御免なんだ。確かに僕はこの先のことなんてどうでもいいけれど、それは僕だけの話なんだから。人様のこの先を台無しにする気はない」
……聖人のようだと思った。それは優しすぎる、人間ができすぎている。
「……ありがとうございます」
「なにがだい? 僕は恨まれはしても、感謝されるようなことはしてないよ」
いや、感謝するべきだ。彼が優しくなければ私一人くらいどうすることでもできただろうに。私は彼の優しさに救われている。
またも車は赤信号に止まった。
特に何を思ったわけでもないが、声をかけたのは私からだった。
「それで、どうして娘がほしいと思ったんですか?」
「やり残したことは何かあるかなと考えて、一番わかりやすいのが結婚だったから。嫁をもらって新婚生活を、なんてのは不可能ってものだろう? だったら、せめて子供とどこかへ出かけたりすることくらいしてみたかったなぁと思ったんだ」
わからなくもなかった。私は子供が苦手なタイプだが、では一生結婚せずに子供も産まないのかと言われるとはっきりと答えは出せない。
人生を振り返って、まずそこに思い当たるのは普通なのだろう。そして、きっと彼は子供が好きなのだ。
「なるほど……。でも、それなら本当に私でよかったんですか? 私、高校生ですよ?」
「それがなにか問題かい?」
「子供と言うには、人格が完成していて面白くないのでは」
世の女子高生の娘を持つお父さんは基本的に邪険にされていると聞く。私からすればとんでもないことなのだが、まさか私に父がいないと知っているわけでもないだろう。
「僕から見たらキミも十分子供だよ」
「それはわかっていますけど」
そうではなくて、もっとこう、あるじゃないか。小学生くらいの子が適任なんじゃないだろうか。
無論小学生をお菓子で釣ったらただの変質者で終わってしまうのだけれど。
「……あれ、ところで今はどこに向かっているんですか」
「特に決めてない。どこか行きたい場所はある?」
どちらかと言えば、ある。山ほどある。海にも山にも行ったことはない。カラオケにもボーリングにも行ったことはない。行ってみたい場所なら腐るほどある。
ただどれも、母に頼み込んだり自分一人で行こうとするほどではなかった。だから行かなかっただけのこと。
「どこでもいいので、私の行ったことない場所へ行きたいです」
「はは、それじゃあわからないよ」
「大丈夫です、ほとんど行ったことある場所なんてないので」
「……じゃあ」
ナビに何かを入力して、私に見るよう促す。画面を見てやはり私の考えたことは正解だったと思った。
「遊園地なんて、さすがに高校生は嫌かな」
「いえ、行きましょう。行きたいです!」
もちろん、それも行ったことはなかった。ただやはり、彼の望みを叶えるには小学生くらいの子が適任だったんじゃないだろうかとは思う。
調べたこともないので当然だが、着いた場所は名前も知らない遊園地だった。私の場合、ネズミの国とその他名前を知らない場所の二択しか知識がないのでここが有名なのかは知らない。
「さすがに空いてるね」
「平日ですからね」
放課後遊園地に行こうとする人もいるまい。入園料を払って、あとはチケットを買ったりはしないシステムだったのでまずは手当たり次第に歩いた。
初めは彼が前を歩いてどこに行きたいかを私に訊いていたのだが、気づいた時には地図を片手に私が前を歩いていた。
「せっかくですからジェットコースターとか乗ってみたいですね」
「あぁ……。いいよ、乗りに行こうか」
あまり乗り気でないように見えたので、苦手なのかと察する。私はなにせ初めてなので苦手かどうかはこれから決める。
「あ、苦手なら別に」
「いや、大丈夫だよ。乗ろうよせっかくだし」
そう言って歩き出した彼の背中を見て、父親とはこういうものなのかなと考える。答えは出るわけもない。
ジェットコースターのある場所に着いたら、あってないような物の順番待ちの列に並ぶ。きっと次には乗れるだろう。しかしそれだけでも、ただ待つのは暇だった。
「ところで、僕はキミのことをなんて呼べばいいかな」
「キミ、とすでに呼んでいるじゃないですか」
「これでいいの?」
「はい。それより、私の方が呼び方に困ります」
相手の名前を知らなくても使える二人称は、歳が上だったり立場が上だったりする人に使いやすくできているのがほとんどだ。
例えば私を差す場合、キミやあなた、今はどうかわからないが小さい頃はお嬢ちゃんと呼ばれたこともあった。これらは私から、目の前の彼に対しては使いづらい。
「呼び方かー。別に好きに呼んでくれていいんだけどな」
「そう言われても……」
「あぁ、パパとか?」
冗談で言ったのだろう。だろうが、それに気づくのがほんの少し遅かった。面食らった顔をする私を見て彼は大いに慌てた。
「いやいや違うよ!? 冗談でね!?」
「あ、そ、そうですよね! 一瞬本気にしちゃいましたよ!」
ははははと笑う二人。無意識に声が大きくなっていて、まわりからすれば不審な会話だったと気づいたのは落ちついてからだった。
「いやぁ、ごめんごめん、冗談にしては
反省の色を見せる彼の呼び方は、結局決まらなかったではないか。
しかしもう一度訊くよりも先に列は進み、案の定私たち二人は乗れるほどだった。
「おぉ……なんだかドキドキしてきました」
「はは、……僕もだよ」
大きなため息を吐きながら言うので、私は多少後悔したし良心が痛んだ。
「だから苦手なら……」
「いやいや、娘にジェットコースターに乗りたいと言われて、苦手だからと断る父親がどこにいるんだ」
まず父親とジェットコースターに乗りたがる娘がどこにいるんだ。私は娘ではないし、どうしても彼に乗ってほしいとも言ってない。言ってないから。
……まぁ、誰かと一緒なのは悪くはないけれど。でもだからって苦手な物に無理して……。
「では発車しますので、手すりか安全バーにしっかりと掴まってください」
係り員の指示通りに手すりを握る。意識しなくてもかなりの力が入ってしまう。隣の彼は私以上に力が入っているけれど。
一度大きく揺れたあと乗り物は発車する。すぐに大きな坂道を上り始める。
「うわ、実際乗った方がまわりから見るより高い気がしますね」
「そうだよ。これはね、乗った人を後悔させる悪魔の方程式がどこかで完成していて」
「…………」
隣の男の人が取り乱しすぎているのでなんだか逆にこっちが冷静になってくる。そうだ、落ちると言ってもたかだかレールの上をだ。なにも怖いことはない。
「そろそろ頂上ですね」
「言うな。言わないでくれ」
見ると彼は目を瞑っていた。いつ落ちるかわからない方が怖いのでは……?
そうこう思っているうちに頂上に差し掛かり、いよいよ目玉の急加速急落下が始まる。速く走るのだからさぞ風が気持ちいいだろう。景色もかなり楽しめたし、これは観覧車に次ぐカップル向けのアトラクションなのでは……と
「ぅううわあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?!?!!?」
落下の瞬間体が浮いたような気がした。いや浮いただろう。今絶対浮いた。安全バーがなかったら放り出されていたこと確実。お腹のあたりに嫌な浮遊感が続いて腹筋に力が入る。
「ぁぁぁぁぁ……ふぅ」
長かったような短かったような落下は終わり、とりあえず一息。風を感じる余裕なんてなかったし、景色を見る気にも今はならない。そして隣の彼はひたすら目を閉じて腕に力を込めている。
プルプルと震える腕が力の入れすぎなのか、恐怖によるものなのかはわからない。ただ言えるのは、今の私なら後者だったとしても気持ちはわかる。
「これ……なかなかハードなアトラクションなんですね……」
「油断するな!次があるぞ!」
「え」
そう、一回の落下で終わるほどジェットコースターはケチではないし、優しくもなかった。最初のと比べれば小さな、しかし十分すぎるほどの落下や旋回が複数あった。
「ああぁぁあぁあぁぁぁ!!!」
落ちて、回って、もはや叫ぶしかなかった。お腹に力を入れて叫んでいるのか、勝手に力が入ってしまって結果として叫んでいるのかわからない。
「ああぁぁぁぁ……終わった……」
一周して帰ってくる頃には体力も気力も使い果たしていたと思う。乗り物から降りて出口へフラフラと歩く。
「私……こんなすごい物がこの世にあるなんて知りませんでした……」
「でしょう……?」
私以上に疲れ切っていると見られる彼はなぜか自慢げに答えた。……そこで、そんな彼にはとても悪いのだが、
「でも、もう一度乗ってみたいです」
「えぇ……」
あの浮遊感と、心臓に悪いスピードが何度も繰り返されるのがジェットコースターの魅力なのだろう。スリルという物の楽しさを、たぶん私は今知った。
「あぁと……その……すぐ終わるでしょうし、待っていてもらえれば」
「いや行こう。でなければキミを連れてきた意味がない」
それは申し訳ないことをした……。でも、今を逃したらまた数年は私は遊園地になど行かないだろう。逃すわけにはいかないのだ。
「では、いいですか……?」
「あぁ。ただ三回目は勘弁してほしい」
それはさすがに了承して、また私たちは列に並ぶ。またしても大した時間待たずに入ることができた。
ジェットコースターから降りた後、少し休憩することにした。ジュースと、おやつとだと言ってクレープを奢ってくれた。おやつならたしかお菓子がたくさんあるそうだったが、正直な話私もクレープを食べてみたかった。
なにせ、最後に食べたのがいつだったかはっきり思いだせない程度は食べていない。
「いやぁ……まさに娘と遊びに来たって感じがするよ……」
未だ体力精神力共に回復しきっていなさそうな彼を見て少し不憫に思う。わがままに付き合わせてしまった。
「全国のお父さんも、こんな風に娘に振り回されているんでしょうか」
「だと思うよ。高校生の娘相手かはわからないけど」
うーむ……やはり高校生として、大人になりかけている身として遠慮とか気遣いとか、そういうことを考えた方がよかったのか……。
「すみません……」
「なんで謝るの。僕は十分すぎるほど楽しませてもらってるよ」
娘に振り回されるのを楽しんでいるのだろうか。それは楽しむことができるものなのか、振り回されることを望んでここへ来たのか、考えることは多い。
けれど、そんなことを言っていてはきっと野暮だと、私は思った。
「クレープっておいしいんですね」
「えっ、食べたことなかったりするの……?」
「遥か昔に食べて、味を忘れていました」
最後に食べた時もおいしかった記憶があるので、まぁおいしいだろうと思っていた。しかし思っていたよりも好きかもしれない。
「ふぅん。キミも、お父さんお母さんと一緒にどこかへ遊びに行って、こうして何かを食べたりしていたのかな」
「あまり記憶にありません。それと、父は私が言葉を話す前に他界しています」
意地の悪いことを言ってしまったかもしれない。しかし私はちゃんと、行ったことのある場所はほとんどないと言った。踏みこんできたのは彼の方だ。
「そんな……。ごめん、今すぐ帰ろうか」
「なんでですか?もっと遊んで行きましょうよ」
彼は私を憐れむような目で見た。目を逸らしてしまえばいいのにと思うほど、私を見ることがつらそうだった。
「本当に悪いことをした。知らなかったんだ、キミに父親がいなかったなんて……」
「いいですよ別に。昔からそうなんですから」
「良くない。これじゃあ僕がしていることは」
ついに視線は私から外れ、地面に落ちた。クレープをかじって私は言う。
「本当においしいです、このクレープ。ジェットコースターも楽しかったし、まだ乗ってない物もたくさんあります。時間だって、母が帰ってくるまではまだまだ。こんなに楽しいのに、なにがダメなんですか」
「……いたずらにいじっちゃいけない部分を、僕はいじったんだ」
なにを言っているのか、まるでわからない。まさか私も本気で彼を父親のようだと思ったりはしないし、感傷にも浸らない。心配することは何もないのに。
「別になんとも思いませんけどね。あなたが父親だと錯覚もしませんし、それで寂しくなったりもしません。父親がいないのには慣れてますから」
そうして、私が平気なことを証明するためにこうも言った。
「なんなら本当に、パパと呼んでもいいくらいです」
悪いことをして叱られている子供のような顔をしていた彼は豹変した。
「ダメだ!!」
「……どうして怒るんですか? 大声を出されるとさすがに驚きます」
まわりを歩く人が何人かこちらを見ている。彼もそれに気づいたようで声を抑えた。
「ごめん。でも、そんなことを言ったら本当のお父さんに失礼になるよ」
「でもそう呼んでほしいのでしょう、パパ? 娘がいる気分になれますよ」
今度は思い切りよく視線は私から外れ、地面にも落ちず、ただふわふわと宙を舞った。
「そう……ありがとう。でも、僕はキミのパパじゃない」
「知ってますよ。当たり前じゃないですか」
クレープを食べ終わり、ジュースも飲み終わった。ほぼ同時に二人は立ち上がる。
「……次はどこに行きたい?」
「コーヒーカップに乗ってみたいです、パパ。思い切り回してみたい」
彼は私の顔を見ずに背を向けて歩きだした。私もそれに続く。
「あんまり回しすぎないでくれよ」
私が頷いたのはミラーがないので見えなかっただろうけれど、コミュニケーションに支障はないように思えた。
コーヒーカップを散々回した。回しすぎて軽く酔った。酔いが回復すれば次はゴーカートに乗った。運転は私がしたのだが、もうエンジンのついた物を操るのはこりごりだ。トリックハウスという物にも入ったし、回転するブランコのような物にも乗った。
そうして一つ一つアトラクションを制覇していくうちに、気づけば日は暮れ、乗っていない物はあと一つだけになっていた。
「パパ、あとは観覧車だけになりましたよ」
「空いているからといって、なかなかハードだな……」
彼はすっかり疲れてしまったようである。すべてが初めての体験である私には疲れが来ない。きっと気づいていないのだろう。
「もう日も暮れたし、あれに乗ったら私は家に帰りたいのですけど……どうですか?」
「もちろん帰すよ。元々危害は加えないって話だし、生活に支障が出ないようにしないとね」
係り員が扉を開いた物に乗り込み、彼はそれに続いた。扉は閉められ、ゆっくりと観覧車は上へ上へと動いていく。
景色を見つつ思う。ジェットコースターでもそうだったが、私は高い場所を怖いとは感じないようだ。
「パパ、すごいですよ! 夜景が! 夜景が見えます!」
「見るのは初めて?」
「……どうでしょう、見たことある気もしますけど。でも、こんなに感動したのは初めてです」
それこそ子供、小学生くらいの子と変わらないくらい私ははしゃいだ。こんなに綺麗な眺めがあるのだと、やはり知らなかったから。暗闇に光が集まることが、こんなに綺麗なことだなんて。
「それはよかった」
彼はそれ以外喋らなかった。夜景も見ずに、ただ私を見ている。さっきはあんなに見たくなさそうだったのに。
大人は夜景に興味がないのだろうか。私を見る彼の目がなにを思う目なのか、私はわからなかった。
「パパは夜景に興味がないんですか?」
「なくはないよ。でも」
彼が姿勢を正すものだから、身を乗り出さんばかりに外を見ていた私も普通に座る体勢に戻った。
「……? なにか……?」
「……本当に、こんなことをして悪かった。危害を加えなくても、とんでもないことをしてしまったのはわかる」
彼の顔はだんだんと俯いて行く。
「謝らないでくださいよ。とても楽しい思いをさせてもらいました」
「そうは言っても……」
あんまり謝られるから、どちらが年上なのかわからなくなってくる。慰めてあげないと、と思ってしまうくらいにはわからなくなっている。
「それなら、私もパパに謝ることがあります」
俯いていた顔が上がる。……もしかしたら今私は微笑んだかもしれない。今までそんなことをしたことはなかった。
「パパの話を聞いた時、かわいそうだと思ったんです。だから娘の役くらいやってあげようって。でも、それは憐れみです。失礼なことをしました……」
私が彼を初めにパパと呼んだ時のような雰囲気はなかった。
「いいんだ、そんなこと。ありがとう、僕も楽しめた」
「それならよかった。それに、楽しいのは私も同じです」
観覧車は頂点に達したか、少し過ぎた。彼の後ろには夜景が見える。私の後ろにも見えるだろう。とても綺麗だ。数々の光に引き付けられそうになる。
「最後に、訊いてもいいですか?」
「なにかな」
「最初、どうしてお菓子で釣ろうなんてしたんですか? 私は高校生ですよ」
彼は笑った。苦笑いというか、笑うしかなかったという感じだ。
「怖がらせてしまったら父と娘のようになんてなれないからね。苦肉の策だよ。冗談と受け取ってもらっても間違ってない」
私はその言葉を、考えを、かわいいとさえ思った。
地上が近づいてくる。降りるまでには、まだ少し時間が残っている。けれど、降りるまで私たちは喋らなかった。
体を揺さぶられる。
「起きて。おーい、着いたよ。起きて」
「ぅん……」
……いつの間にか寝ていた。車に乗って……それからどれくらい起きていたかは、よくわからない。
「とりあえず最寄り駅まで来たけど、もしかしてここら辺の子じゃない?」
「……いえ、ここです」
重たい体を起こして車から出る。やはり疲れには気づいていないだけで、すぐそこにあったのだ。一度気づけばひたすらに重く、まだ眠い。
「夜だし、もしあれなら家の近くまで行くけど、……どう?」
「大丈夫ですよ……」
目を擦り体を伸ばして、ようやく意識が冴えてきた。少し寒い。
「本当に? これで事件に巻き込まれたとかあったら……」
「もう巻き込まれたようなものです。本当に大丈夫ですから」
半ば強引に押し切って彼と別れる。逃げたようになってしまって、そんなものは会った時にすることだっただろうなぁと、ぼんやり思う。……あの時逃げなくてよかった。
彼がこの後どうするのか私は知らない。もしかしたら彼も知らないのかもしれない。私には知る
彼がこの後気が変わって新しい仕事を探し、見つけ、普通の生活を歩んでも、私はそれに気づかない。彼がこの後死んでしまっても、私はそれに気づかない。
そう思うと、彼が本当に人間だったのかあやふやになってくる。ふわふわとした、不思議な存在に思えてくる。
きっと寝ぼけているからだろう。そう区切りをつけて私は家に帰った。
次の日、私は彼に、パパと呼んだ人に会った場所に来ていた。パパと呼んだというと語弊があるかもしれない。呼んであげたのだ。
昨日と違うのは、時間。今は夜で、ここは真っ暗。自然の音しか聞こえない。まだ高校生の外出禁止時間には程遠いけど、暗さでなら変わらない。
ここには背の高い木しかないから、せっかくの暗闇に光はない。月の光でさえ届く分は随分と弱い。綺麗だとは思わない。
景色を見に来たわけでもないし、また彼に会えるとも思っていない。会えたとしても、今度はついて行かない。またついていけば、いよいよ父とは何か、娘とは何かがわからなくなってしまうかもしれない。
でも私は昨日から考えて、ある結論を出した。……父とは何かなんてそんなことは、どうでもいいのよ。私はわからなくなったっていい。でも、それは私だけの話。
彼には彼のままでいてもらいたいのだ。勝手だろうか?
「……っ」
背後から口を押えられて、首にカッターナイフを当てられた。動かせば切れるだろうし、最悪死んでしまう。
刃物が動く時は、私が抵抗した時でしょう。
「死にたくなきゃ、おとなしくしろ」
言われたとおりにする。指一本として動かさない。声は低くて男の物だったけど、明らかに昨日の彼とは違う人だった。
男は私を押し倒し、刃物で服を切り裂いた。降参のサインとして両手を上げて言う。
「抵抗しませんし、望むことならなんでもします。だから、一つだけお願いを聞いていただけませんか」
「…………」
沈黙を、話すことの許可だと受け取ることにした。
「あなたのことを、パパと呼ばせてくれませんか?」
解釈は読んだ人に任せます。一応作者にもありますが、それを表現できていたかは別ですし。