夜になった。
空は墨汁をこぼしたように真っ暗であった。空にかかった雲のせいで、今日は星や月の光が全く見られない。
しかし、その真下に広がるアンディーラの街には、満天の星空にも劣らない煌々とした輝きと、人の営みの音があった。
アルネタイトのエネルギーによってもたらされる灯りに照らされた街中を、たくさんの人々が往来している。すでに夕食を終え、就寝の準備をし始めてもいい時間帯にもかかわらず、未だにこの街の活気は静まらない。
「……遅いなぁ」
オルカはそんな町並みを窓から俯瞰しながら、思わず溜息のように呟いた。
「そうねぇ……」
「同意」
部屋の端のスツールに腰掛けるシスカとセザンも、オルカの呟きに同調した。
――マキーナが、まだ帰って来ていないのだ。
夕方、スターマンの元へ行ったはいいが、それからいつまで経っても戻らない。
「あたいは早くこの男臭い部屋から脱出したいのに……」
「酷い言われようだね」
パルカロがやれやれと言わんばかり両掌を真上に向ける。
このパルカロの部屋を始まりに、打ち上げに行く予定だった。しかしマキーナだけがいつまで経っても戻らないため、全員その場で立ち往生するハメになっていた。
「本当にどうしたんだろ、マキちゃん」
なんだか心配になってきた。彼女の強さを考えると、誰かに襲われたという考えは除外していいだろう。しかし、もう何時間も戻ってこないのだ。気にせずにはいられなかった。
不意に、シスカがジトーッとした目でこちらを睨んできた。
「オルカ、あんたお姉様になんかやったんじゃないでしょうね」
「いや、何もしてないけど……?」
オルカはややたじろぎながら答える。
真っ先に自分が疑われるのは若干納得いかないが、一応考えてみる。自分は何かマキーナに変な事をしただろうか。いや……したかも。いきなり抱きついたり、そのまま首筋の匂いを嗅いだり、かなり変態的なことを。でも、彼女も嫌そうじゃなかった、ていうかむしろ熱っぽい顔でキスをねだってすらきた。ああ、でも思い出すと、いい匂いだったなぁ。嗅いでると落ち着くっていうか、匂いを瓶詰めにして持って帰りたいっていうか……って、また何を考えてるんだボクって奴は。大馬鹿か。
そんな風に一人相撲していると、シスカが今度は意地悪そうな顔をして、
「もしかして……スターマンさんに乗り換えちゃったとか?」
「の、乗り換えっ……!? ええええ!?」
オルカは思わず声を上げる。
シスカはさらにニヤニヤしながら続ける。
「あり得るかもしれないわよぉ? 彼ハイスペだし、家柄も顔も性格も良いし、背も高いし。女受けする要素の塊みたいな人じゃない。何かのきっかけで心変わりってことも無きにしも非ずって感じじゃあないかしらぁ?」
「……だ、大丈夫さ! マキちゃんの事信じてるから! 信じてるから、うん……信じてる……」
なんか、だんだん不安になってきた。
もちろん、信じてるのは嘘じゃない。
でも、考えてしまう。容姿端麗な上に頭も良く、おまけにやんごとなき家柄であるスターマン。その隣にマキーナを置くと、全く違和感やアンバランスさが感じられないのである。
反面、自分は幸薄そうな顔で、頭もそんなに良くない。出身は平民だし、冒険者ランクは最低のアイアン。それに、ついさっきまで匂いについて考察してた変態だし……
「……いや」
オルカは慌ててかぶりを振った。
マキーナを信じてるなら、こんなこと考えちゃダメだ。
それに自分だって、今のままでいるつもりはない。どれだけ時間をかけても、いつか必ずクリスタルクラスになるんだ。そして、彼女と結婚するんだ。そう約束したじゃないか。
「あんまり、いじめるのは、良くない、と思う」
セザンが、相変わらず言葉少なにそうたしなめてきた。
「あーはいはい、分かりましたよーだっ」
シスカはおすまししたような顔で、ぷいっとそっぽを向いた。まあ、きっと彼女も本気で言ったわけではないのだろう。
オルカは思考の方向を、再びマキーナの不在に向けた。
「やっぱりボク、探してくるよ。シスカたちは先に店に行ってて。ボクはもう打ち上げをやる店は分かってるから、マキちゃんを見つけ次第二人で行くよ」
廊下へ続くドアへ近づき、ノブを掴んだ。
「ああ、気をつけてなー」
呑気なパルカロの声を背中に浴びてから、オルカはドアを開き、外へ出た。
マキーナは、笑いながら草原を駆けていた。
見渡す限り広がっているのは、青々とした草の絨毯。そのところどころには背の高い広葉樹や、小さな花が自生している。
まさしく、自分が思い浮かべている天国の情景そのままだった。
そしてマキーナは、自身の片手を固く握り締めている一人の男の子に、うっとりとした目を向けた。
オルカ・ホロンコーン。自分が小さい頃から好きで好きでたまらなかった男の子。
そんな彼が、自分の手をしっかりと取り、照れ笑いのような表情を浮かべながらともに野原を走っている。
ああ。自分は今、きっとすごくだらしない顔をしているに違いない。
でも仕方がない。幸せなのだから。
こんな天国のような場所で、大好きな男の子の手を取り合って笑い合う。これを至上の幸福と呼ばずに何と呼ぶ?
いつまでもここにいたい、こうしていたい。
おばあちゃんになるまで、彼とここで過ごしたい。
だが、快晴だった空が――突然どす黒い暗雲に覆われた。
そして、天から赤い稲光が発せられるとともに、血のような真紅の雷霆が草原の一角に落下。
刹那、周囲を取り巻いていた美しい風景が――真っ黒になった。
雷霆は地上に舞い降りた途端、草、木、花、周囲に存在するありとあらゆるものを等しく燃えカスへと変えたのだ。
――隣にいたオルカも、例外ではなかった。
彼の全身を覆う衣服と肉が一瞬で炭化。そして、木皮のようにポロポロと剥がれ落ちていく。
情緒の感じられない、白骨という名の物質と化した。
「い……いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
マキーナはさっきまでオルカの形をしていた骨を目に焼き付けながら、狂気に満ちた叫びを上げた。
ひどく焦った手つきで骨を抱き寄せ、その顔を見る。しかしそこに、あの愛しい人の顔はなかった。垂れ気味で優しげな瞳は大きな眼窩の
死んでいるのだと確信した瞬間、マキーナは壊れてしまった。
発狂した。
ひたすらに咆哮した。
何も飲まず、何も食べず、何日も何日も叫び続けた。
喉が枯れ果て、肉体が枯れ果て、命が枯れ果てるまで、何度も何度も――
「――――っ!!!」
――マキーナは、そこで目を覚ました。
荒くなった呼吸を整えながら、汗の雫がびっしりと浮かんだ額を腕で拭う。
――夢、だったようだ。
胸郭を内側から押すように高まった鼓動を感じつつ、マキーナは深く深く一息ついた。夢で本当に良かった。
しかし、自分が今いる空間を見回した瞬間、安堵はすぐに消えた。
なんと、自分は宙に浮いていたのだ。
いや、正確に表現すると少し違う。
正方形状の、薄い膜のような半透明のバリア。床から十メートルほど宙に浮いたソレの中に、自分は閉じ込められていた。床として体重を預けているバリアの底を叩いてみると、コツコツという質感が得られた。どうやらセザンの『コンバットシールド』のように、質量を持っているバリアのようだ。
そして、今度はそのバリアの外を見た。
広大な空間。天井全体が目に痛くない程度の程よい光量で発光しており、壁と床は石灰岩のような乳白色。そしてそれらの上に、赤い幾何学模様が血管のように走っている。自分を閉じ込めているバリアは、そんな空間の壁際に存在していた。
マキーナは唖然とした。その場所は職業柄、非常に見覚えのある空間だった。
――
自分は、その迷宮のど真ん中で眠っていたのだ。
マキーナはこれでもゴールドクラスの冒険者だ。迷宮の中で眠ることが自殺行為であることは、犬と猫の区別がつくレベルで分かりきったことだ。
しかし今、自分はそんな愚を犯している。
まさか、自ら進んで寝ようはずはない。ならば、受動的に眠りにつかされたとしか考えられない。
「……はっ」
そこまで思考が到ったことで、マキーナはようやく思い出した。そうだ、自分は眠らされたのだ――『シープベル』を持ったスターマンによって。
どうして彼は、自分を眠らせたのか――
「――お目覚めかな」
自分以外の人間の声が突然耳に入り、マキーナはビクッと体を震わせた。
その声は、部屋の下方から反響しながら聞こえてきた。
噂をすれば影、ならぬ、思考をすれば影。
声のした方を俯瞰すると、そこにはスターマンが立っていた。こちらを見上げ、企むような暗い笑みを浮かべていた。
「もう少し寝ているかと思っていたけど、意外と起きるのが早かったね。さすがは鍛え上げた肉体で迷宮を駆けたクラムデリア兵器術、身体機能は野生動物並みか」
彼のその台詞を聞いて、マキーナは開いた口が塞がらなかった。
今、自分が目にしているのは、一体「誰」だ?
スターマンであることは明白だ。
だが口調も、表情も、物腰も、態度も、雰囲気も、何もかもが自分の知るスターマン・レッグルヴェルゼとはかけ離れていた。姿かたちの定義は共通しているが、それ以外の何もかもが相違していた。
まるで、人を人と思わない、冷酷な為政者を思わせる雰囲気。
眠らされたことを含めて、マキーナが警戒心を強く抱くのは必然だった。
「ミスター・レッグルヴェルゼ……あなたの目的は一体何?」
スターマンは鷹揚な態度で返してきた。
「いきなりご挨拶だねぇ。何を言っているんだい?」
その人を食ったような言い方と仕草は、やはり自分の中のスターマンとはイメージが違っていた。
そんな彼に未だ戸惑いを覚えながらも、マキーナは気丈に表情を引き締め、
「決まっているでしょう? どうして私を眠らせて、ここへ連れてきたの? 『シープベル』なんて違法アイテムまで使って……」
「君が欲しいからだよ。マキーナ・クラムデリア」
訝しむマキーナを放置して、スターマンは続ける。
「僕が君を欲する理由は二つある。一つは、君のことが好きになってしまったからさ。多分、恋愛感情的な側面でね」
「……申し訳ないけど、その好意は受け取れないわ。私は――」
「オルカ・ホロンコーンと結婚を前提に交際しているから、だろう? そんなことは百も承知さ。直接聞かされたわけだからね。だが僕としては、君がどう思おうがどうでもいいんだ。誰を慕っていようが、君には僕の傍らにいてもらう。僕の横こそが、君にとって最も相応しい席なのだからね」
「勝手なことを――」
言わないで、と続けようとしたが、あるモノが目にとまり言葉がストップする。
スターマンの前には、腰ほど高い台座のようなモノがあった。
その真上には、透明度を微かに持った極薄の板のようなものがいくつか浮遊している。それらの表面には謎の図面やグラフ、小さな文字の羅列などが映っていた。
よく見ると、台座の上にはタイプライターの文字盤を彷彿とさせるたくさんのボタンがあった。スターマンがそれを慣れた手つきで押していくと、極薄の板の面に映っていたモノが変化。一瞬で、全く別の絵柄へと変わった。
「これが気になるのかい? これはこの迷宮の全機能をコントロールするための入力装置でね、ボタンによる操作内容が、浮かんでいるこの無数の四角形「ホロディスプレイ」とやらの映像に反映するようになっているのさ」
誇らしげに語るスターマンを余所に、マキーナはその「ホロディスプレイ」というものに浮かぶ映像を見た。
目を凝らすと、そこに映っているのは古代語だと分かる。「「ぷろめてうす」うんようにおけるちゅういじこう」と書いてあるのが簡単に理解できた。
「「プロメテウス」運用に於ける注意事項――このホロディスプレイにはそう記入されているね」
「っ!!」
マキーナは喉を鳴らす。
同じホロディスプレイを見ながら、スターマンはマキーナが翻訳したのと全く同じ答えを出してみせた。
まさか、この人も古代語を――!
驚愕するマキーナの心を読んだように、スターマンがうそぶいた。
「そう。僕も君と同じように、先天的に古代語を読むスキルを持っているんだ。このスキルを利用してあらゆる古代文献を解読し、考古学界で数多くの功績を上げてきた。そして、これが僕が君を欲する二つ目の理由。君と僕は――「同類」なんだよ」
「「同類」……?」
「そうさ。だからこそ君はオルカ・ホロンコーンやその他の有象無象より、僕とともにいる方が正しいんだ。僕に擦り寄れば、これから先いくらでも贅沢をさせてあげるよ? あんな豚小屋で育ったとしか思えないような下賤なガキでは決してもたらすことのできない、至上の快楽の数々を君に味わわせることができる。僕はこれから、それを叶えて余りある「力」を手に入れる」
「――ふざけないで!!」
意味不明かつ身勝手な理屈に加え、オルカを侮辱された事でマキーナは激昂した。
とっとと脱出すべく、腰に差してある刀型エフェクター『ファントムエッジ』を鞘から抜き、自分の周囲を囲っているバリアの一箇所へと斬りかかった。
しかし、バリアは「ガキィンッ!」という金属的な音を立てただけで、傷一つ付いていなかった。
マキーナは何度も鋭い斬撃を浴びせるが、バリアが破れる手応えは微塵も感じなかった。
「はははっ。無駄なことはしない方がいいよ? そのバリアはちょっとやそっとじゃビクともしない。大人しくしていた方が余計な体力を使わずに済むよ」
こちらの必死な行為を可笑しげに笑いながら、スターマンは台座に並んだ無数のボタンに指を走らせ続ける。
非常に円滑な手さばきでボタンを押していく。それによってホロディスプレイに映った映像が目まぐるしく変化していく。
やがて「声」が聞こえた。
《――コマンドを承認しました。これより第二動力機関の起動を開始します。しばらくお待ちください》
肉声特有の生気を全く感じさせない、冷たく、作り物じみた音声。それによって紡がれたのは全く聞き覚えのない謎の言語。
だというのに、マキーナにはそれが第一言語のごとく理解できる。
《――起動完了。これより「プロメテウス」は
使われている言語は解せても、その言葉の意味するところは理解できない。
しかし、マキーナには勘のようなもので分かった。
これから、何か良くないことが起ころうとしていると。
《――完了。
途端、スターマンの目の前にある台座が溶けるように沈んでいき、やがて床と同化。
かと思いきや、先ほどと同じ箇所から、また新しい台座が"生えて"きた。先ほどの台座より頂点の面積が比較的小さく、細長い台座。
それを確認するとスターマンは不敵に口端を歪めつつ、左胸にバッジよろしく付けていた「ある物」を外す。
「それは……!」
マキーナは驚き、スターマンの手を注視した。
火をモチーフにしたような形のソレは、自分が彼に貸し与えていた「火の紋章」。
しかしその色は「赤」でも「青」でもない――紫色。
スターマンはくつくつと不気味に喉を鳴らすと、
「これかい? コレは君が僕に渡してくれた二枚の紋章を貼り合わせたモノさ。「マスターキー」といってね、この迷宮の全機能を掌握、コントロールするために必要なアイテムだ。コレ欲しさに、今回の未踏査迷宮調査依頼を出したといっても過言ではないね。君たち冒険者は本当によく働いてくれた。今回の未踏査迷宮調査で見事最深部まで潜り、この「マスターキー」を掘り当ててくれた。ありがとう、僕の踏み台になってくれて」
そう馬鹿にしたように言ってから、その紋章――「マスターキー」越しに台座の頂点へ触れた。
掌と台座の間に挟まれている「マスターキー」が紫紺の光を点滅させた次の瞬間、部屋全体に再びあの音声が響いた。
《マスターキー所有者の生体信号周波数を登録中――完了。生体信号受信式操縦桿のコントロール権は、この生体信号IDに移行します。ですが『
音声が終わると、スターマンは「マスターキー」を再び左胸に付け戻した。
「クククッ……!!」
肩を小さく震わせたかと思うと、突然仰ぎ見るように真上を向き、高らかな哄笑を上げた。
「クハ――――ッハハハハハハハハハハハ!!! 長かった!! ここまで来るのに本当に時間がかかった!! だが長かった苦労も今日、報われる!! いよいよだ!! 今日より僕の時代が訪れる!!」
何度も笑声をぶちまける彼の表情を見て、背筋に寒いものが走る。
何か昏い妄執に取り憑かれたような、そんな狂気を感じさせる顔だった。明らかに、普通に人生を送ってきた人間がしていい表情ではない。
身の毛もよだつ薄気味悪さを感じつつも、マキーナは勇気をもって尋ねた。
「あなたはこれから……一体何をしようとしているの?」
スターマンは自身の掌を、再び台座の上に置いた。そして、何かを念じるように目を閉じる。
――次の瞬間、部屋を覆う幾何学模様が、まるで脈打つように発光。
そして、迷宮全体が地震のように振動し始めた。
マキーナは床から浮いているため、その揺れを体で感じてはいない。しかしバリアの外に見える風景のブレと、怪物が呻き声を上げるような「ゴゴゴゴ……」という音から、揺れていることが容易に分かる。
何かが、始まろうとしている。
具体的な定義は分からない。しかし、決して幸福はもたらさないであろう途轍も無い「何か」が、これから起きようとしている――!
小刻みに揺れる迷宮内で、一人佇むスターマン。
彼は遅れながらも、マキーナの問いに答えた。
強い憎悪を濃い愉悦でコーティングしたような、そんな声色で。
「――この世界の変革、さ」